Szondiana Hokusetsica

暴牌ということば

内田 裕之

 ときに、みなさん、このことばをご存じでしょうか?
 「暴牌」と書いて「ぼーぱい」と発音します。麻雀用語というより、麻雀スラングの一つですね。

 どんな時に使うかというと、明らかに一人の人があと一つで上がり(「聴牌」と書いて「テンパイ」と言います)の時に、よくその場が読めていなくて、明らかにその上がりに関与してしまうような行動(「振り込む」と言います)を取った時に使うことばです。
 こう言われてもピンとこないかもしれません。では、臨床場面で喩えて言うと、境界例の人を結果的に挑発したことはありませんか?後になって“しまった”と思うような、こちら的にはよかれと思った、ないしは、打つ手が無くて仕方なく打った手、さらに悪い例としては、自分がその面接でこらえきれなくなって発したことば・つい取ってしまった態度。これらは暴牌と言えるでしょう。

 臨床の話と麻雀をくっつけて、ごめんなさい。しかしふざけてはいません。

 以前書いたホクセチカ上の論文で、ホーナイ最終講義から「指先の感覚」という記述を引用しました。ボクの指先のエングラム(記憶蓄積)からすると、麻雀で怖い目にあったことも、どこか臨床場面で怖い目にあったことに動員されているところがあります。
 本で読んだ知識だけではない、エングラムの総動員。こういう感触は、臨床場面での自分の支えでもあります。

 しかし、いざ振り返ってみると、ここまで「ヒリヒリ」するような感触で、日々の仕事はしなくなりました。しなくて済むようになった楽さもあります。それは腕の向上でもあり、保身ゆえの防衛でもあり、歳を取ったゆえの感性の鈍りでもあります。

 こう言いながらも、臨床家は、どこかで「ヒリヒリ」希求家でもあるのだと思います。少なくともこういう感覚の共有できる人と、ああでもないこうでもない話をしながら日々の臨床を感じた後に、一人考えています。

 プロトコルを一人で眺めながらスコアをするロールシャッハの整理、被検者の描いた作品を一人眺めながら解釈を進める描画解釈、棒グラフを書き終わって傾向緊張表を眺めながらソンディ解釈を始める。テスト使わずとも今日の面接を思い出して記録を採る。
 こんな時は、もう一人の作業です。誰も“ぼーぱい”とは言ってくれません。

 こうして最後は自分を頼りにしなければなりません。ことさらに臨床家がグレートマザー元型の話や対象関係論に立脚するのであれば、自身のコンプレックスはさておき、一人でいなければなりません。
 どれだけ、“ぼーぱい”という声を自分の内に持てるのでしょう。それは臆病さではなく、自制として。

 ここしばらく自分に起こった個人的なことをきっかけにこんなことを書いてみたくなりました。また次回、事例検討会で(卓を囲んだ時には)、“それええの?”という「暴牌」の発声は、惜しみなくさせてもらいます。

 麻雀に話を寄せすぎました。何も麻雀でなくとも、この手の感覚の話を、また次回の研究会でできればと思います。

 易の話から、少し俗っぽくなった中国4000年の歴史でした。

(2003/04/09)

Back | Home