Szondiana Hokusetsica

煙草とその象徴性

内田 裕之

 昨今、禁煙から絶煙の方向に動いている。

 これは、煙による二次災害の問題が大きい。また、喫煙者のマナーは問われているが、これも当然のことであろう。

 マナーを、肛門期的な問題と考えて、トイレと便というしかるべき場所での排出を守るという点について考え直してみれば、喫煙場所、吸い殻のポイ捨ては、排泄自律の甘さを社会から非難されても仕方あるまい、とうなずける。

 私も一喫煙者として、自律の問題、周囲に与える不快感から、肩身の狭さだけではなく考え直すべきことがあるなあと感じている。もちろんのことながら、場の空気を読み、煙草を吸うか我慢するか、その程度のことはわきまえているつもり。比較的、喫煙マナーのよい方と自己認識しつつも、それでも、窮屈さと、執拗に「喫煙者イコール悪い人」と思われることには、とまどいと、それを通り越した苛立ちを感じることもある。こんな現状を受けて、少し心理学的に、何かものを言いたくなった。

 世界的に絶煙の方向に向かうであろう。来年度には、かなり煙草の吸えない場所が増えることは必至である。

 先日、とある学校にスクールカウンセラー活動の一環として、お邪魔をして、そこの校長から、「施設内絶煙は来年度実現でしょうな」と言われた。その時の言い方は、自己紹介の中で煙草を吸うと聞いて、批判的、攻撃的なニュアンスがあった。初めて会った私にそこまで言うのは、私の人間性の批判ではなく、むしろ、喫煙ということだけを聞いて、ロールシャッハ的に言えばDWとスコアできるような、煙草を吸う奴全般という目での攻撃ですらあるように感じた。喫煙に限定して言えば、施設の長としての判断には何も言うことはないが、煙草を吸う人間への完全否定のようなニュアンスが気になったのだ。

 喫煙者のマナーは総じて悪いとされる。その一方で、週刊誌に掲載された喫煙マナーに関する場面毎のちょっとした配慮が単行本になった。ユーモラスに、しかし、父性原理に照らして、いけないことはいけないと描かれているのは面白かった。

 非常勤講師として勤務している大学でも喫煙場所の徹底があった。ちょうどこの体制の施行の頃に、Erikson,E.H.のライフサイクルの2段階目の「自律対恥・疑惑」を講じている時だったので、「トイレで排泄をするのと同じように喫煙場所での喫煙は守ろう」と呼びかけたことがあった。一言余計だが、「喫煙場所以外で煙草を吸うことはお漏らしかもしれない」とまで呼びかけた。こういう感覚は持って欲しいと思う。「でも、面白くないことがあった時に、ピッと吸い殻を道端に捨てたくなる気持ちもわかる気がする」と言い添えはしたが。

 喫煙者の立場として、煙草がもたらす効果について考えないのは手落ちであろう。特にスクールカウンセラーをしていて思うのが、喫煙所でのやりとりである。お茶を飲みながら雑談をしている中でも、ちょっとしたこぼれ話は出てくる。こういう話の所に、何気なく一緒にいて、話を聴いたり、ちょっとした解釈を伝えることは、スクールカウンセラーとしての醍醐味がある。

 その一方で、煙草を吸いながらの話も面白いものがある。分煙が徹底した中では、喫煙室も一つの活動場所であると思う。色々な先生がいて、ことばは語らないが、煙がため息や語らぬことばとして、漫画の吹き出しのようにリアルに感じられることもある。特に、煙の吐き出し方、口の動き、そこに混じる音声、煙草の消し方なども交えてみていると、ふてくされたような、うんざりした感じや、ここでこうして攻撃性を発散させている先生がいるのだなあ、と興味深いものがある。こんな場に、一緒にいて、語らず一緒に煙草をくゆらせていること自体、臨床的な関わりができている気もすることがある。こうした先生から、ふとした時に、「実は、、、」という話が出てくることもあり、そうした印象が強まってくる。

 臨床家として煙草を考えると、面接を終えての煙草は私にとって大切なものである。面接の中で感じた重苦しさを、煙にして一人黙っていることも、重要な時間である。

 治療の道具として、煙草を考えてみることも面白い。河合隼雄の分析経験談で、分析家のマイアーがパイプ掃除をしているエピソードは興味深い。また、グロリアと面接をしているパールズが煙草をくわえているが、なかなか火をつけずにいる。この様子と、感情を出そうとしないグロリアにいささか挑発的な介入をしている姿。その後の煙草に火をつけるタイミングは、見ていて面白いものがある。そこまでに至る煙草を吸うグロリアの煙の吐き方も、吐き捨てるようで、ノンバーバルコミュニケーションとして、観察していて面白い。

 一方、一喫煙者として思うのが、煙草の煙とは別に、手元で火を使うことである。それは、火の象徴性として、束の間の暖かみを感じさせるものでもある。そういえば、今の暮らしの中で、どれだけ、家族や集団の中で、火の暖かみを感じることがあるのだろう。マッチやライターは一人の人間が扱える範囲でのちょっとした暖かみを感じたりする道具かもしれない。授業で話を聞きもせず、勝手なことをする生徒が多いことをみるにつけ、一緒に盛り上がるという感触が持ちにくい体験をしている教員は多いように思う。授業の合間の喫煙は、ため息混じりでもあるが、火に触れる瞬間として大切なことなのではないかとさえ思うことがある。迷惑を掛けていないからと、漫画を読んだり、内職をする生徒の冷めた態度に接していて、一方で、こうした補償作用としての炎も大切かもしれない。

 一緒にお茶を飲んだりすることで、満たされる人もいるが、時に相手によっては軽薄な話に終始して、中には「そんなこと、私もしょっちゅうですよ(あなた一人だけじゃないんだ。私の方がもっとひどいですよ、聞いて下さいよ)」と非難混じりに、私の方が嘆きたいと依存性を発動してくる教員も出てくる場面になることもあり、これではたまらず、一人になりたくなって、喫煙室に赴く教員もある。一人別室に移ると、ますます語らないでため息を吐くことを助長している気がする。

 スクールカウンセラーをしていてもう一つ考えなければならないのが、生徒の喫煙についてである。「健康を害する危険がある」という呼びかけは、抑止力としては弱いものがあると思う。それは一つの真実ではあるが、この呼びかけで禁煙につながる大人の少なさを鑑みれば容易にわかることでもあると思う。私が一大人として思うことには、中学生、高校ないしは大学生でも、時に破壊的な力も生む火や炎を扱うことができるだけの成熟度を有していないことが挙げられる。喫煙生徒の衝動的な行動や発言と重ねて考えると、火を象徴的に扱うことができる社会における一個人とはまだ言えない気がしてくることがひっかかる。ましてや、上記のような肛門期的な問題が達成されていないのであれば、なおのことである。

 これとは別に、ため息と煙との関連を考えた時に、「生徒が、その年でため息をつかなければならないのは、しんどいだろうなあ」ということ、「ため息を察してくれる環境を持てず、トイレや校舎裏に場所を求めてしまう寂しさ」にも目は向くし、「卒業後、どこか理解してくれる空間や相手を持つことができるのか」という心配などが入り交じる。時に、コンビニの前でたむろしたり、ファミレスでダラダラ過ごしたり、地下鉄構内の駅トイレで、群れをなして煙草を吸っている若者は、皆一様に覇気がなく(p0)、攻撃性(s±、e-)を漏らしていたり(hy0)、抑えているがピリピリした緊張感があったり(hy-!)、彼らの治まる場所のなさ、所在なさ、受けとめてくれる対象の持てなさなど、心理的なホームレスを見る思いがする。

 あるいは、喫煙がいけない行為、世界的に廃絶に向かうべきこと、非喫煙者優位の排除論に向かうのであれば、居場所を失う人も多いかもしれないと危惧してしまう。

 ソンディ的に、Sucht(嗜癖)は、Beeli(8)k-!,m+!という存在形式であるという見方と重ねて考えてみれば、それは、甘えの昂進とともに抑制過剰の反応でもある。甘えたくても甘えられず、そうした甘えを持つことが許されず、むしろ問題であることとして、抑制を強めた結果、行き場を失ったリビドーが形を変えて発現してしまう形態であるかもしれない。あるいは、甘えたくても甘えられない暮らしの中で、そうした甘えを出すことが弱みを見せることになって、そんなものは自分にはないという強がりなのかもしれない。あるいは、なまじ甘えを出すと、受容的環境のなさゆえに、傷つくことも多く、完全否定しなければならないのかもしれない。

 こうした存在形式に考察が及べば、生徒に喫煙行為をやめさせることだけに目が向かうこと、そしてそのやめさせる理由として「健康を害する」という呼びかけはあまりに弱すぎるし、ピントはずれでもあるだろう。口唇期の問題を「甘ったれるな」と抑制の方向に向けても、それはm+!が解消されるのではなく、k-!が因子結合していくという流れであるだろう。

 また、「マナーが悪い」と注意することは、肛門期的に見ると、罰則注意に頼りすぎるのであれば、疑惑を増すだけのことであろう。自律として、「躾イコール自分の身を美しくする」という感覚も丁寧に教育していかなければなるまいし、同一化の対象として一社会の大人が規範を示す必要もあろう。もう少し突っ込んで言えば、煙草の煙でなくとも、自分の感情を分別なくまき散らす大人に対して、子どもは象徴的な次元で「先生や親はそんなことをいう資格がない」と疑惑を募らせることも考えられる。

 また、もしかすると、このように精神分析的に個人史を見るだけではなく、集合的に、人類の歴史の中で、煙草が位置づけられてきた意義についても再検討をする必要があるのかもしれない。

 また、絶煙の方向に向かうことの中で、喫煙者を攻撃混じりに排斥している人々には、本当に排斥したい対象が喫煙者なのか、自身の中の別の対象が置き換えられてリビドーを向けているのか、洞察をしてもらいたいとも思う。

 とはいえ、明らかに有害な行為を行っている者としては、攻撃の対象になることは避けられず、こうした提言が私の合理化でないことを願う。

 案外、喫煙者の多いこの北摂ソンディ研究会の中で、投げ掛けてみたい話題であった。

(2003/06/01)

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