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第16回だいかいを前に思うこと:ロールシャッハのこと

内田 裕之

 いよいよ第16回だいかいを名古屋で開催する直前になった。今回も興味深い事例が提示されることであろう。名古屋でのアセスメント研究会との共同開催としては、5回目になる。それだけ有意義な会を持つことができたことをうれしく思う。その一方で、長続きしてきたことも考えてみたくなった。

 また、折しも今年開催される日本ロールシャッハ学会(於愛知学院大学)の準備委員になったこともあり、他のロールシャッハワーカーと接する機会もあり、自分の立場や自分の理解について考えさせられることになった。

 こうした中で、少し自分なりの臨床観に通じるようなロールシャッハ理解について考えてみたくなった。

 研究会では、いつもしつこくスコアリングに至るまでのところ、どんな風にして反応が出てきたのかを検討していくようにしている。極端に言えば、スコアそのものよりも、スコアリングしていく過程が解釈の糸口とも言える。それは、取りも直さず、被検者の反応の産出の過程を追体験することになっている。こうした動きが恐らく症状の形成や日頃の認知のパターンと重なっており、ロールシャッハで「ああ、この人はこう見えたんだなあ」という理解が「それだったら、日頃こんなことになっているだろうなあ」という理解へとつながっていく。

 こうした理解を手に入れることができたのは、阪大法の考え方のおかげであると感じている。それは、内容分析的に「物騒な反応が出たから、攻撃性が強い」とか「しおれた植物を見たから、抑うつ的である」とかいう反応の感情価には目を向ける立場とは異なる。

 反応産出機制の図式はきわめて重要である。というのは、こころという目に見えない対象に接近していく際に、フロイトの局所論に基づく理解をしても構わないが、それはもともとロールシャッハを説明する目的で立てられた仮説ではない。ヘルマン・ロールシャッハも、生成しつつある自分なりの考えを持っていて、フロイトの説をそのまま導入していたわけではないのだから、ロールシャッハそのものを理解していく枠組みを持つことは重要である。それが、取りも直さず、ロールシャッハを通してこころを理解していくことになるのであるから。

 話は変わるが、ウィニコットが市井のお母さん達に向けた育児講義の中で、赤ちゃんの消化過程が述べられている。体内で起こっているがゆえに目に見えない消化過程を記述して、今赤ちゃんの中で何が起こっているのだろうか、と興味を持ってお母さんが赤ちゃんに接することを勧めている。育児を楽しむことであるとまで言っている。

 この消化過程と同じく、出力されてきたロールシャッハ反応を、図版という「食べ物/外在の反応材料」をいかに「消化吸収/反応形成」して「排泄物/反応」として出すかを考えていくことは、かなり被検者に興味を持って接していることにつながるであろう。内容分析に依らなくとも共感的な体験は起こってくるはずである。私の場合、こうした理解に基づくテスト実施を、楽しむことができるようになった。

 摂食障害の人あるいはダイエットのことばかり考えている人の話の中で、まるで自分の体の中には、臓器は胃袋しかないような、脂肪やカロリーという構成要素しかないような考え方をしている人を見かける。それは、解体新書を引き出すまでもなく、体内はより複雑で、様々な臓器があり、栄養素も多岐に渡っている。同じように、複雑な過程があるという理解に基づいて、ロールシャッハ反応を考えていくことは、大切な視点である。

 あるいは、舌の上に載せた時の味覚、口当たり、おいしいかまずいか、快か不快かという感情や感覚に注目するするように、ロールシャッハ上で物騒な感情価を伴う反応に注目することは、内的な「こころの消化吸収過程」に目を向けていない手落ちになる恐れがある。

 このように快不快の感情価しか見ないのであれば、下手をすると、心理療法過程においても、ただクライエントが不快や苦痛を訴えるだけに終始してしまう恐れがある。そこからさらに、「それは栄養があるから食べなさい」とか「食べられなければ残していいよ」とか「嫌なら食うな」と指示や命令を出す動きになってしまうのであれば、もはや心理療法は成立していない。

 クライエントに寄り添う臨床家は、一体どのようにあるべきなのだろうか。ウィニコットのホールディング、ビオンのコンテインを臨床家が達成できた際に生じてくる何かを待つことなのかもしれない。うまく言語化はできないが、少なくとも反応産出機制に目を配ってロールシャッハを勉強してきたことが、私の場合、草々軽々な解釈の垂れ流しが減ったことにつながっているように思っている。この点については、今後も考えていく必要があるだろう。

 今回は、あるいは精神分析的に言えば、プレエディパルなレベルで臨床家のロールシャッハの取り扱いについて論じてみたと言えるかもしれない。この論考も、具現的・即物的思考(k+)に基づけば、食べ物の消化吸収過程がロールシャッハ理解につながることはわからないだろう。即物的思考では、辻先生のいう「超越(可能)性」が働いていない。

 あるいは比喩を使った理解は、具体例の提示ではない。臨床家の中で超越(可能)性を働かせていることでもある。有用なテスト解釈につなげていけるかどうかに大きく影響する点であろう。また、「テストで何がわかるのですか」「俺はロールシャッハなんか信じない」という立場を取る人と話が平行線になるのも、この辺りの問題が絡んでいるのかもしれない。極端にエビデンスを強調する問題も関係していることであろう。こうした現状の中、投影法に固執して、有用性を示すことに躍起になるのではなく、投影法を用いた臨床活動について、自分なりの理解を手に入れることが最優先されるべきであろう。

 こう考えてきてふと思ったことだが、冒頭で「興味深い事例が提示される」と述べたが、それは適切でないかもしれない。むしろ、研究会の参加者が興味深く事例を聴こうとする姿勢が生まれるかどうかが大切だったのかもしれない。熱心な参加には頭が下がる思いである。

 研究会を前に、何かの刺激になれば幸いである。

(2003/07/21)

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