Szondiana Hokusetsica

ちょっとラカンの話を(1)

内田 裕之

 日本心理臨床学会第22回大会が終わり、疲れを感じつつ、久しぶりに自宅でぼんやり過ごしていた。学会は知的な作業の一方で、やはり退行をうながす場でもある。特に、力動的な立場に触れると、自我だけではなく、無意識もアクティベートされるようだ。

 今回は、学会企画シンポジウムの中で、分析場面での転移関係を重んじる立場、ラカン派、ユング派がコメントをするという内容があり、そこに参加した。

 ラカンは難解だがどこか惹かれるところがあり、少しずつ読んできたが、直接的に事例にコメントをする場面を目にするのは初めてで、期待して臨んだ。私がラカンに触れたくなる時は、ひどく退行している時で、そのような状態でしかアクセスできない内容のような気がしている。それは、ちょうど、日頃の意識状態では、自然数の世界に生きているのに対して、引っ越しの時に、面積を考える必要から、平方根を使う無理数の世界が顕現してくるように、退行した状態では、無理数や虚数の世界まで顕現してくると言えばよいであろうか。

 今回は、学会という社交的な場でのラカンへのアクセスとなった。自分でも、このような状態でラカン理論に触れるのは珍しいことで、それ自体、自分には興味深い体験であった。

 時間の制約やシンポジウムの登場人物の交通整理の不備で、シンポジウム自体は、未消化なものに終わったが、その未消化な状態は、次への動きにつながっていく。これもラカン理論そのままであるし、何もラカンを引っ張ってこなくても、人間が不安定から安定の方向へと動きやすいことは周知のことである。

 もうここからは事例からは離れて、自分の中でのラカンを鍵にした臨床的な理解の話である。帰ってきて、家にあるラカンに関する本をパラパラと眺めていて、「寸断化された身体」という概念が目に入った。これもラカンの重要な概念の一つである。心理臨床では「統合」は一つの大きなキーワードであるが、自分の身体がバラバラなのではなく、一つにつながっているという感覚を持てること、身体として一つであると理解することは、文字通り統合である。

 しかしながら、北山修が何かの本に、身体の部位ごとの比喩的表現を図示していたことも思い出した。この図によれば、身体の部位一つ一つは異なった比喩的表現をとり、異なったメッセージを送ることだってあるじゃないか、ということで連想が止まった。

 昼頃起きて、テレビを見たら、NHKで女性向けの番組で、カンフーをやって身体をひきしめるという番組があった。小柄できれいな中国人女性が講師で、きれいな身体の動きを披露していた。これを見ていて、手は手の動きをし、足は足の動きをし、それぞれが独立して動いていることに気が付いた。ただ歩いている時でも、右手と右足を同時に前に出すのではなく、独立した動きをしていることを想像すれば当たり前なのだが、カンフーでよりダイナミックな動きをしているのに、惹かれた。身体の各部位はそれぞれの動きをしているが、身体全体としては一つのまとまった動きになっている様子は、とても魅力的で、まさに統合されたものであった。

 概念的に考えても、ロールシャッハで「コウモリ」反応が出た時、形態の分化度の高い反応であれば、主要部位である「羽」だけではなく、他の身体部位にも言及がある。コウモリ概念全体の中で、羽、頭、足など下位概念として身体部分が有効に機能した知覚を考えた場合、有機的に関連づけがなされていれば、羽と頭、羽と手は何も相互排除的にはならない。

 こんなことを考えていて、何やら「統合」というものを「単一化」「一本化」として考えすぎてはいないかと、日頃の自分の思考を反省した。

 わかりやすさを取れば、何か一つの点にだけ着目していけば、確実性が増すということは、辻ロールシャッハ学の「初期集約的把握型」理論がまさにそうである。その前段階ではDWが優位な段階があることにも思いを馳せれば、いかに自分がDW的にものを見ているのか、恥ずかしい思いさえしてきた。

 箱庭の中にも色々なアイテムが置かれる。それが一つの作品として、まとまった印象を受けるかどうか、上記のカンフーの動きのことを対比させて考えてみてもよいかもしれない。以前、串崎氏が「サンドトレイ」と「ユンギアン・サンドプレイ」の違いを指摘しておられたが、「トレイ」「身体」「全体像」「場」etc.どのような概念でもよいが、一つの場に色々な要素が入りながら、それが全体としての豊かな表現へとつながるような、これが一つの心理療法における表現の重要なメルクマールなのであろう。

 心理臨床における「統合」という問題を考えるという宿題をもらっただけでも、今回の学会参加は大きな収穫であったと思う。未消化だったことが、少しだけ飲み込めた気分の中で少し文章を書いてみた。まだまだ考えていかなければならない問題だが、少しだけ、良質形態水準のW反応を垣間見た思いである。

(2003/09/16)

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