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Szondiana Hokusetsica

ちょっとラカンの話を(3)

内田 裕之

 ここしばらく何かと考え込むことがあった。
 私は、こんな風に行き詰まった時に、ラカンを読むと、少し先が見える思いをすることがある。今回は、こうしてラカンを読んでいて、ソンディの話に通じるところを見つけ、本誌に投稿したくなったのである。

 新宮(1997)は、「家族の神話的な構造」として、以下のような記載をしている。
 「家族の語らいの網の目の中で、我々はその語らいのどこか一カ所に同一化を起こす。たとえば家族の中でしばしば語られる祖先の話、我々の誕生の前に早死にした子供の話、あるいは女性の場合、その子のかわりに生まれていたかもしれない男の子の話。こういった家族の語らいの中に自らをはめこんだとき、我々は最も確実に家族の一部となる」
 ソンディの考え方に対応させようと思うまでもなく、この記述の中の「祖先」ということばから「家族的無意識」という考え方が容易に連想されるだろう。

 ラカン理論では、「鏡像段階」という考え方から、子どもが鏡に映った自分を見て、「寸断化された身体」、自分が感覚的に部分部分をとらえるのではなく、親などが「目が誰々に似ている」「顔が誰々に似ている」と子どもの身体部位を取り上げて、それをその子どもよりも時間的に先行して存在している家族成員に関連づけたり、「死んだおじいちゃんに似ている」と関連づけたりすることが挙げられる。
 ここでいう鏡は何も具体的現実としてだけではなく、象徴的な意味で、その子どもの姿を外側から記述する親などの弁においても適用することができる。
 例えば「お前が生まれる前におじいちゃんは亡くなっていたけど、もし生きていたらお前のことをかわいがってくれただろう」とか「私の死んだ祖父の命日と同じ月に生まれたから、祖父の生まれ変わりだと思う」とか「お前が生まれる前に、実はお母さんは流産をしていて、その子の生まれ変わりかもしれない」といった話に類する語らいが生じたりすることがあるが、これもまた、子どもにとっては、象徴的な意味で鏡に映し出された自分と体験されて、自分が求めているわけではないのに、その誰かに同一化を強いられてしまうことになる。
 このことは、子どもが生まれる前にすでに存在している家族神話ないし秩序の中に、子どもが組み込まれることと考えることができる。それが、自分の与り知らぬ存在であるにもかかわらず。

 ラカン理論で、子どもがこうして意味づけられることは「無意識は他者の語らいである」という定式に当てはまる。
 Leader(1995)は、ラカンの解説書の中で、以下のようなエピソードを挙げている。
 「バートランド・ラッセルは、ある日、デスクの引き出しにあった父の日記を見て、雷に打たれたような気がした。そこには、父の両親が結婚に至るまでの出来事が詳しく書かれていたのだ。何と奇妙なことだ!二人の結婚は私たち夫婦の場合と同じではないか!
 ここに、行為者の意識的コントロールや理解の届かないところで、象徴界が複雑に働いていることが現れている。ラッセルの驚きは、無意識が実際に働いていることの証なのだ。」
 ラッセルは、父親の日記の記述の中に、鏡に映った自分を見たのである。

 この記述を読めば、ソンディが異母兄の夢を見たエピソード(大塚,1993)とかなりの類似が読み取れる。すなわち、ラカンのいう「他者の語らい」を家族という文脈・秩序の中で読めば、ソンディのいう「抑圧された祖先の欲求」「家族的無意識」と通じると考えられる。

 こうした秩序に組み込まれそうになった時に、ソンディは結婚を断念するというエピソードが残されている。ここまで、劇的なアクティングアウトをしなければ、意識の上で断念できなかったとも考えられるが、アクティングアウトという形でしか解決できなかったとも考えられる。このような秩序・家族的無意識に同一化することを拒絶(k-!)し、離反(m-)することになったと、ソンディ学的には記述できるだろう。

 しかしながら、そこから逃げ出せる場合は、それも一つの手であろうが、物理的に現実や対象から引き離すことは決して克服や治癒、社会化とはいえない。なぜならば、それは現実的に存在するのではなく、無意識として存在するからであり、極端な言い方をすれば、Lacan(1974)がいうように「知覚されないものに対して『どこにもない』といういい名とおなじように、『いたるところにある』ともいえる」ために、主体の行くところどこであってもついて回ることになってしまう。
 ソンディはただアクティングアウトをしただけではなく、いかにして克服をしたのだろうか。それは、ソンディ理論の構築という昇華の中で、克服されたのかもしれない。

 一方、ラカンやソンディからは離れるが、反精神医学の論客であるCooper(1971)は、「われわれは『原初の家族』での原初的家族体験の断片を、『生殖の家族』(われわれ『自身』の妻と子供たちからなる家族)での相互関係や、またわれわれが働くあらゆる状況での相互関係へと転移する」と述べた上で、以下のように、提言している。
 「要するに人はその全家族の過去を要約する位置にまで到達しなければならないのだ。つまり単に攻撃的に家族との関係を断ち切るとか地理的な意味で分離するという粗野なやり方よりは、もっと当人に効果的な仕方で家族から自由になるために、家族の過去の一切を要約するのである。もし人がこうした効果的な仕方で要約したとすれば――そしてこれは必ずしも正式な治療関係とは限らないが、なんらかの関係を通してでなければならない――、彼は子供をとりこにしようとする曖昧な愛情に呑み込まれることなく(この曖昧な愛情というものは、言うまでもなく子供たちばかりでなく両親をも等しく悩ますものである)、本当に両親を愛し、とらわれない好意を両親に寄せるという稀な状態に至るであろう。」
 この記述は、本拙論で取り上げたラカンやソンディの家族に関する理論に一脈通じるといえるだろう。

 ラッセルやソンディが驚きとともに自分の原初の家族に触れた瞬間。それは、誰も教えてくれと頼んだわけではないのに、自我の意志とは全く別に、無理矢理教え込まれる形で、知覚(k+)されたことであろう。 こうした侵入的で被害的な体験をしながらも、拒否(k-!)や攻撃的な切断(s+!)や離反(m-)ではなく、いかに意識化(p+)していくのか。それに際しては、「なんらかの関係を通して家族を要約する」ことが必要なのであろう。
 その際に、一人(m-)ではなく、誰かとの関係(m+)を持ちつつ、意識化(p+)がなされることは重要なのであろう。

 ここしばらく思い詰めて(p±)、現在の取り巻く環境の秩序に組み入れられることへの反発(s+!, k+, m-)を覚え、徒に救いを求めて外界の対象を希求(d+!)しそうになった中で、寄り添ってくれる存在(m+)を意識(p+)しつつ、また、こうして同じ志を持つ(h+)心理臨床家(p+)の友人たちの存在を意識しつつ、私は少し自分を持ち直した(s0, k-, p+, d0, m+)のであった。
 そしてまた、難解と言われるラカン理論が体験的に理解できたことにいくばくかの知的興奮(p+!)を覚えつつ。

文献
Cooper, D. (1971) The Death of the Family.The Penguin Press.塚本嘉寿・笠原嘉訳(1978)家族の死.みすず書房.
Lacan, J. M. (1974) Television.Editions du Seuil.藤田博史・片山文保訳(1992)テレヴィジオン.青土社.
Leader, D. (1995) Lacan for Beginners.Icon Book.朝倉輝一訳(1997)ラカン FOR BEGINNERS.現代書館.
大塚義孝(1993)衝動病理学:ソンディ・テスト 増補版.誠信書房.

(2005/11/15)

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