一 次の文章は「坊っちゃん」のである。これを読んで、右の問いに答えよ。
九州へたつ二日前、兄が下宿へ来て、金を六百円出して、これを資本にして商売をするなり、学資にして勉強をするなり、1どうでも随意に使うがいい
、そのかわりあとはかまわないと言った。2兄にしては感心なやり方
だ。なんの六百円ぐらいもらわんでも困りはせんと思ったが、例に似ぬ淡泊な処置が気に入ったから、礼を言ってもらっておいた。兄はそれから五十円出して、これをついでに清に渡してくれと言ったから、異議なく引き受けた。二日たって新橋の停車場で別れたぎり、兄にはその後一ぺんも会わない。<br>
俺は六百円の使用法について、寝ながら考えた。商売をしたって、めんどうくさくってうまくできるものじゃなし、ことに六百円ぐらいの金で、商売らしい商売がやれるわけでもなかろう。よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたといばれないから、つまり損になるばかりだ。資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。六百円を三に割って、一年に二百円ずつ使えば、三年間は勉強ができる。三年間一生懸命にやれば何かできる。それから、どこの学校へ入ろうと考えたが、学問は生来どれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とかいうものはまっぴらご免だ。新体詩などときては、二十行あるうちで一行もわからない。どうせ嫌いなものなら、何をやっても同じことだと思ったが、幸い物理学校の前を通りかかったら生徒募集の広告が出ていたから、なにも縁だと思って、規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えると、これも親譲りの無鉄砲から起こった失策だ。<br>
三年間まあ人並みに勉強はしたが、別段たちのいいほうでもないから、席順はいつでも下から勘定するほうが便利であった。しかし不思議なもので、三年たったらとうとう卒業してしまった。3自分でもおかしいと思った
が、苦情を言うわけもないからおとなしく卒業しておいた。
卒業してから八日めに校長が呼びにきたから、何か用だろうと思って、出かけていったら、四国辺のある中学校で数学の教師が要る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。俺は三年間学問はしたが、実をいうと、教師になる気も田舎へ行く考えも何もなかった。もっとも教師以外に何をしようというあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。これも親譲りの無鉄砲がたたったのである。<br>
引き受けた以上は赴任せねばならぬ。この三年間は四畳半に蟄居して、小言はただの一度も聞いたことがない。けんかもせずに済んだ。俺の生涯のうちでは、比較的のんきな時節であった。しかしこうなると、この四畳半も引き払わなければならん。生まれてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一緒に鎌倉へ遠足した時ばかりである。今度は鎌倉どころではない。4大変な遠く
へ行かねばならぬ。地図で見ると、海浜で針の先ほど小さく見える。どうせろくな所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるかわからん。わからんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もっとも、少々めんどうくさい。<br>
家をたたんでからも、清の所へはおりおり行った。清のおいというのは、存外けっこうな人である。俺が行くたびに、おりさえすれば、なにくれともてなしてくれた。清は俺を前へ置いて、いろいろ俺の自慢をおいに聞かせた。いまに学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って、役所へ通うのだなどとふいちょうしたこともある。一人で決めて一人でしゃべるから、こっちは困って顔を赤くした。それも一度や二度ではない。おりおり、俺が小さい時寝小便をしたことまでもちだすには閉口した。おいはなんと思って清の自慢を聞いていたかわからぬ。ただ清は昔ふうの女だから、自分と俺の関係を封建時代の主従のように考えていた。自分の主人ならおいのためにも主人に相違ないと合点したものらしい。おいこそいいつらの皮だ。<br>
いよいよ約束が決まって、もうたつという三日前に清を訪ねたら、北向きの三畳に、風邪をひいて寝ていた。俺の来たのを見て起き直るが早いか、坊っちゃんいつうちをおもちなさいますときいた。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いてくると思っている。そんなに偉い人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよばかげている。俺は単簡に当分うちはもたない。田舎へ行くんだと言ったら、非常に失望した様子で、ごま塩のびんの乱れをしきりになでた。あまり気の毒だから、「行くことは行くが、じき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る。」と慰めてやった。それでも妙な顔をしているから、「何か土産に買ってきてやろう、何が欲しい。」ときいてみたら、「越後のささあめが食べたい。」と言った。越後のささあめなんて聞いたこともない。だいいち方角が違う。「俺の行く田舎には、ささあめはなさそうだ。」と言って聞かしたら、「そんなら、どっちの見当です。」ときき返した。「西の方だよ。」と言うと、「箱根の先ですか、手前ですか。」と問う。5ずいぶんもてあました
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