オーム (Ohm, Georg Simon)

オームの発見と生涯
ドイツ中部のエルランゲンに生まれる。
熟練工であり科学に興味を持つ父に薦められエルランゲン大学へ入学するが、 学費が続かず1年で中退して高校の数学教師となる。 高校教師時代にフーリエの熱の流れに関する論文を読み、電流についても同じ法則が成り立つのではないかと考えるようになる。 1833年にニュルンベルク工業大学の教授、1849年にミュンヘン大学の実験物理教授に就任する。

1826年、オームの法則を発見する。
エルステッド以来、アンペールやビオとサバールの研究によって電磁気の定量化が進んでいた。 オームはフーリエが提唱した熱の流れに電気を当てはめ、熱でいう2点間の温度差と熱流の関係を電気に置き換えてみた。 ボルタ電池と自作の検流計を使用し、電線の太さや長さを変えて実験をしていくが、 現在のオームの法則のような比例関係の式にはならなかった。 熱のようにならない理由を電源に使用していたボルタ電池の分極作用(分極作用:陽極の銅から水素が発生して銅を包んでしまうため電流が流れなくなる) にあると見抜いたオームは、 数少ない支援者であったベルリン大学ポッケンドルフ教授の助言もあって、 電源をボルタ電池からゼーベックの熱起電力に置き換えて実験を試みる。 ビスマスと銅を組み合わせた熱電対を作成し、片方を沸騰しつつある湯の中へ、片方を氷の入った水の中へ入れた。 熱電対の温度差は100℃であり、湯の温度を調節することで、温度差、すなわち電圧の調整は容易となった。 これによりX = a / (b + x)の式を導く。 この式が現在知られる I = E / R に発展していくが、これには長い道のりがある。 実験結果から、針金の長さと断面積の関係、電池電源の解釈、抵抗の温度係数なども求めている。

1826年に”金属の導電法則の決定”という論文を発表し、翌年には不朽の名著”ガルバーニ電流の数学的研究”をベルリンで出版する。
理論的に法則を導こうとした結果難解なものとなり、実験内容まで判りにくいものになってしまった。 反対する学者が数多く現れ、この素晴らしい発見も正当な評価を受けることができなかった。 ドイツ国内ではなかなか業績が認められなかったが、国外の反響を待ってからドイツ内での評価が高まっていった。

1841年、コプリ・メダルを受賞。

1842年、ロンドン王立協会の会員となる。

1849年(52年という話もある)、ミュンヘン大学の教授のポストに就く。他界する5年前であった。

ちょっと雑学
発表こそなかったが、オームの法則は約一世紀前にキャベンディッシュが発見している。
現在オームの名は、電気抵抗の単位オーム[Ω]として、SI組立単位に残っている。