ニュートン(Newton)

 ニュートンと言えばまず、りんごが木から落ちるのを見て重力の力を発見したという話が思い出されるだろう。ニュートンが出版した「プリンキピア」の中で、彼は運動法則、万有引力などを説明したのが最も大きな功績とされているが、彼は光に関する実験に対しても一時期熱中している。特に興味深いことに、ニュートンは光の粒子説を唱えていた。イギリスのロバート・フックやオランダのクリスティアン・ホイヘンスはニュートンの説に反対し、光の波動説を唱えた。光の波動説も有力な説であったが、ニュートンの権威によって約200年もの間光の粒子説が優勢であった。


 

1642年
(12月25日)

 イギリスの大きな農園を持つ農家にアイザック・ニュートン生まれる。父親はニュートンの生まれる3ヶ月前に亡くなった。父の名もアイザックであったが、その名をそのまま受け継いだ。
 その3年後、母はお金持ちのレクター(教会の責任者)と結婚している。
 ニュートンは遊びに夢中になる事はなく、本を読んだり物を作っているのが好きであった。中等学校では一番の成績となる。

1661年 6月
(18歳)

 ケンブリッジ大学に入学

1665年 夏
(22歳)

 ケンブリッジ大学の方にもペスト(ペスト菌によっておこる致死率の高い伝染病)の大流行が襲ってきたため、故郷の家に戻る。それから2年間ほとんど一人でさまざまな実験、研究を行う。この時にプリズムを使った実験で光の分散という性質を発見した。

1667年 春
(24歳)

 ケンブリッジ大学が再開校され、研究員に選ばれる。

1669年
(26歳)

 ケンブリッジ大学の数学教授を任されるが、ニュートンの講義を聞きにくる者は少なかった。

1671年
(28歳)

 これまでの望遠鏡の弱点を改良したニュートン式望遠鏡をロンドンの王立協会に寄贈する。

1672年
(29歳)

 光学の論文を公表する。ロバート・フックはこれに対していくつかの批判的な指摘をした。

1675年
(32歳)

 『光の性質を説明する仮説』を出版する。このときフックは「自分のアイデアをニュートンが盗んだ」と非難した。

1686年
(43歳)

 運動の法則、万有引力などについて記した『プリンキピア』を出版する。

1689年
(46歳)

 ケンブリッジ大学を代表する国会議員を約1年間務める。

1696年
(53歳)

 イギリス造幣局の監督官に任命され、その3年後には長官となる。

1700年
(57歳)

 ケンブリッジからロンドンに移る。

1704年
(61歳)

 王立協会の総裁となる。『光学』を出版し、ここでニュートンリングが登場する。

1705年
(62歳)

 女王から科学者としては初めてナイトの位を授けられる。

1727年
(85歳)

ロンドンのウェストミンスター寺院で亡くなる。



参考文献  世界を変えた科学者「ニュートン」  スティーブ・パーカー:著  (出版:岩波書店)
光の歴史」  遠藤信二:著  (出版:東京図書)