見ている者聴いている者を笑わせる文芸は、昔から多く存在する。南北朝時代から室町時代に成立したといわれる狂言は、当時の日常語を使った喜劇であり、笑いの芸術であった。現代でも落語や漫才、コメディーなど、新聞のテレビ欄ではバラエティー番組がゴールデンタイムを占め、人々は笑いを求めリモコンを手に取る。
文章表現からも、様々な笑いを得ることができる。江戸時代に書かれた十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』は、多くの庶民に読まれたという。この中にある小咄には、現在の落語で用いられているものもある。子どもの頃、吉四六さんや一休さんのとんち話や昔話を読んではクスクスと笑っていた記憶が残っている。これも落語のもととなっていて、笑いを生み出す文芸のひとつである。
では、これらの笑いを引き起こす文章の中にあるどのような表現に対して、読者は笑いをおぼえるのであろうか。また、読者を笑わすために、どのような仕掛けが隠されているのだろうか。このような興味を抱き、笑いを生み出す文章の表現に目を向けたいと考えた。
笑いには多くの種類がある。えみ、ほほえみ、微笑、せせら笑い、冷笑、空笑い、薄笑い、苦笑い、苦笑、微苦笑、泣き笑い、大笑い、高笑い、爆笑、一笑、失笑、盗み笑い、忍び笑い、物笑い、抱腹絶倒など、挙げればきりがないほど様々な笑いが存在する。ほほえみ、大笑い、爆笑には量的な差がある。苦笑、泣き笑いには質的な差があり、それぞれ異なる。しかし、本研究では文章表現によって人がどのように笑うかではなく、人が何を笑うかを、笑いを呼び起こす原因について注目する。
本研究の目的は、どのような表現によって読む人は笑うのか、また、それらの作品を比較することで、笑いを生む文章の表現特性を明らかにしていくことである。この課題解明のために、民話における笑話(笑い話)を研究対象とした。
笑話(笑い話)について、米屋陽一氏は、
笑わせることをおもな目的として語られる一連の昔話を笑い話とよんでいます。笑い話は、こまかな情景描写や人物の行動をくわしく語るのではなく、話をとんとんと進め、短くまとめて語られています。と述べている。
多くの笑い話は、生活の中での身近なできごとが中心になっているようです。ですから、笑い話の多く、子どもから大人まで、はば広くしたしまれています。
日本民話の会『ガイドブック日本の民話』 講談社 1983年 p.23より引用
笑話(笑い話)は、笑わせることが目的の話であること、話が短くまとめられていることから、笑いを生み出す要素が凝縮されているといえる。そこで、本研究では笑話(笑い話)を用いて、笑いを生み出す文章の表現特性を解明していきたい。
織田正吉氏は『笑いとユーモア』の中で、「おかしさというのは笑いを呼び起こす原因であり、笑いはそれに対する反応」と、おかしさを定義している。そして、笑いの要因であるおかしさの構造を、「笑いは、笑いを起す人物と、笑いを起す言動・状況という二つの要因によっておこります。二つは入りまじっている場合がほとんどですが、別個に独立していることもあります。」と、笑いを起こす要因を人物と言動・状況に分けてまとめている。
織田氏は、笑いを起こす人物とは、何らかの意味で正常、平均的でなく、欠陥や制約を持つ人と定義する。この笑いを起こす人物(笑われる人物)の欠陥や制約を
(1)知能的な欠陥
(2)性格的、道徳的欠陥
(3)言動の過失
(4)職業、社会的地位の制約
(5)肉体的欠陥
の五つに分類する。以下、織田氏の分類とその説明を引用により示す。
- (1)知能的な欠陥を持つ人物
- 子供、おろか者、酔っぱらいなどがこれにあたります。子供は社会的な常識にとぼしく、思考が未熟であるため、物ごとをとりちがえたり、大人を困らせたり、表現が上手にできなかったりするので、笑いの世界の主役としてしばしば登場します。おろか者は、東京落語に出てくる与太郎や狂言の聟、大名などがそうです。普通の社会常識や知能に欠けた面があるためいろいろな失敗をします。民話や狂言に出てくる聟はとくに極端なおろか者に設定されています。
酔っぱらいは、ふだんは正常な人間なのですが、酒によって、理性や体の正常なはたらきを失っているため、言動に失敗をおかします。おろか者がいわば慢性のおろか者であるのに対して、こちらは一時的な急性のおろか者といえるでしょう。- (2)性格的、道徳的欠陥を持つ人物
- 外見は正常であっても、性格的、道徳的にマイナスの面を持つ人物が笑いを起こします。
うかつ、けち、欲ばり、あわて者、物忘れ、放心、おしゃべり、臆病、好色、いたずら者、なまけ者、不精、あさはか、うぬぼれ、頑固、自慢、強情、知ったかぶり、悠長、短気、嘘つき、厚顔、恥知らず、悪がしこさ、盗癖、身勝手、卑怯、縁起かつぎ、性的倒錯、無作法、無教養、奇癖、その他欠陥となる性癖をさらけ出す人物です。よい性格でも、ていねいすぎるとか正直すぎるなど過度になった場合もこれに入ります。- (3)言動の過失をおかす人物
- 知能、性格にも欠陥のない正常な人物なのですが、言いまちがい、人ちがい、とりちがえ、放屁など自分の意志に反して過失をおかす人物です。(中略)仕掛けられたいたずらにひっかかる人、からかわれる人物もこれに入ります。
- (4)職業・社会的地位に制約を持つ人物
- 大名、武士、僧侶、牧師、学者、医師、裁判官、警官などがこれに入ります。威厳を持って体面をとりつくろわねばならない職業や社会的地位にある人は、一般の人なら笑いにならないような行動でも、すぐに笑いに結びつけられてしまうため、しばしば笑いの場に登場させられることになります。
- (5)肉体的欠陥を持つ人物
- 盲人、聾者、唖者、肥満、痩身、禿頭、醜貌など外面的な欠陥を持つ人物です。現在の良識では体に障害を持つ人を笑うことをさしひかえますが、ごく最近まで平気で笑いものにしていたのは周知のとおりです。肉体的な欠陥を持つ人を笑うのも、性格に毛間のある人を笑うのも、どちらも他人の欠陥を笑うという点から見ればおなじ性質のものです。以前は、現在のように、肉体的欠陥を笑うのはいけないという社会的なモラルがとぼしく、他人の欠陥は外面にあらわれたもの、そうでないものの区別なく、一律に笑いの対象にしてきたのです。
織田正吉『笑いとユーモア』 筑摩書房 1979年 p.121-p.123より引用
織田氏は、笑いを起こす人物を欠陥・制約の観点から、
(1)知能的な欠陥
(2)性格的、道徳的欠陥
(3)言動の過失
(4)職業、社会的地位の制約
(5)肉体的欠陥
と、5つに分類している。
織田氏は、どういう場合に笑いが起こるのか、言葉、動作、状況などの要因について、
(1)類似点の発見
(2)思考や行動の突然の方向転換
(3)思考や行動の不当な拡大
(4)価値の下落
(5)歪曲された思考や行動
の五つに大きく分類し、それぞれ以下の要因を挙げている。
笑いを起こす言動・状況の五つの要因について、それぞれ簡単に説明する。
まず、本論で対象とする笑話がどのような性質をもつ話かについて、先行研究をもとに述べていきたい。
関敬吾氏の『日本昔話集成』は、日本に伝承されている動物昔話・本格昔話・笑話の主要なモチーフを全国的に集録した日本の昔話研究の基礎的資料として、高く評価されている。本論の研究対象である『日本の笑話』は、編者の宇井無愁氏が『日本昔話集成』の笑話篇で落語原話と考えられるモチーフで不足するものを付け加えている。
関氏は、笑話について「ここにいう笑話がいかなる種類の話であるか、動物昔話、本格昔話といかに相違するかということは、研究者によって必ずしも同一でなく、また定説もない。」としたうえで、笑話と昔話とを比較して以下のように述べている。
昔話は奇跡や紙の恩恵を求めようとするが、笑話の主人公はつねに自己の力に依存し、現実に即して行動し、平凡な人間性を強調して語る。あるいは人間の愚かさ、ばかばかしさを強調し、誇張から誇張へ限りなく進展するが、誇張もまた現実世界と結びつく。関敬吾『日本昔話集成』第三部のT 角川書店 1957年 p.4より引用
また、構造における笑話と昔話の違いについては、以下のように説明する。
昔話が完全である限り、発端、経過、解決の三段階に組立てられ、いくつかのモーティフまたは挿話によって論理的に構成されているが、笑話は単一のモーティフまたは挿話からなり、一つの思想を語る。昔話では主人公の極端の到達点はつねに予想されているが、笑話は往々なんら論理的一貫性なしに挿話の累積によって引のばして語られるものがある。これをだんだん話などと呼ばれる。愚か者の一つ覚え、鴨取権兵衛などその典型的形式である。同上 p.4より引用
笑話は、内容が昔話よりも現実的であり、現実生活の中にありえるような笑いを語ろうとしたと考えられる。構造面では、一つの話題を論理的ではなく、単純な型で語られていることがわかる。
本論の研究対象である宇井無愁氏の『日本の笑話』は、関敬吾氏の『日本昔話集成』笑話篇(1)(2)を基準にして、モチーフの分類と例話の配列がなされている。そこで、関敬吾氏が笑話の分類について述べた部分を以下に引用する。
この巻では九つの範疇に分け、それを四つに綜合した。第一が愚人譚である。これを愚か村、愚か聟(息子)、愚か嫁(娘)、愚かな男の四つに分けた。いづれも愚か者の愚行を主題とした笑話である。第二は誇張譚で、極端な空想を中心にした喜劇的な物語である。第三は巧智譚で業くらべと「和尚と小僧」の名で呼ばれる一群の物語である。前者は相互間の知力の争い、後者は年少者と年長者との知的闘争で、年少者の勝利をもって終わる話である。第四は狡猾者譚とし、おどけ者と狡猾者の二つに分けた。いま一つは形式譚であるが、これらは内容そのものよりは、むしろ語りの興味を中心としたものである。関敬吾『日本昔話集成』第三部のT 角川書店 1957年 p.3より引用
『日本の笑話』では、次のような分類によって構成されている。
1 おろか村ばなし
2 おろか聟ばなし
3 おろか嫁ばなし・屁の笑話
4 さまざまな癖
5 機知と言葉あそび
6 わざくらべ
7 大ばなし(誇張譚)
8 和尚と小僧ばなし
9 おどけ者と狡猾者
10 狡知者
11 形式譚
12 人と動物・狐狸譚
13 怪奇譚
14 艶笑譚
15 その他・分類しがたい笑話
それぞれの項目について説明をする。
かつての町には市が立ったりして、人々の交流がさかんに行われ、にぎやかでした。そして、いつも新しくめずらしい品物や情報がはいってきました。それにくらべて、町から遠くはなれた村や山間部の村には、それらはなかなかはいってきませんでした。ですから、村の衆がときおり町にでて、新しいものめずらしいものに出会ったとき、ついつい知らぬままおろかな行為をしてしまいます。この「おろか村話」を『日本の笑話』では、
町衆は、そういう村の衆の無知や失敗を高らかに笑ったのでした。そして、その村の衆の生活の場である特定の村をさして、「おろか村」とよんだのでした。このおろか村のおろか者を笑った一連の笑い話を「おろか村話」とよんでいます。日本民話の会『ガイドブック日本の民話』 講談社 1983年 p.44より引用
夫は自分のうまれた家において、他から入ってきた妻に対してのみ夫であり、そのかぎりにおいては権威をもつが、嫁の里に対する関係、または妻の里においてはなんらの権威も威厳もなく、はなはだ己のない存在である。一度、嫁の里に行くと、頭の上がらない融通のきかない存在となる。これが聟であろう。としている。柳田國男『昔話と笑話』 岩崎美術社 1966年 ――新潮、1957年2月――p.171より引用
日本の婚姻制度は先にもいったように、夫方において婚姻生活がいとなまれているが、かつてはむしろその逆で、男は結婚して妻方の家に引移り、そこで婚姻生活がなされていたことはほぼ明らかなようである。現在その中間形態もある。ばか聟の笑話はむしろそうした婚姻制度のもとで発生したか、あるいは発達したのではないかと考えられる。男は婚姻によって生家から嫁の家に引き移り、そこで他所者としての生活に甘んじなければならなかった時代の産物ではないかと考えられる。以上のことから、婿取婚という婚姻形態から発展した聟の身分は、妻方の里では威厳のなく、邪魔者として扱われていたため笑いの対象となり、「おろか聟ばなし」が発生したといえる。柳田國男『昔話と笑話』 岩崎美術社 1966年 ――新潮、1957年2月――p.172より引用
このような登場人物の役割や語られた内容での笑話の分類は、民話研究の立場からなされたものである。どのような表現によって読む人は笑うのか、また、それらの作品を比較することで、笑いを生む文章の表現特性を明らかにしていくという本研究の目的のためには、別の切り口によって見ていく必要がありそうだ。
織田氏は、先に挙げた『笑いとユーモア』のなかで「笑いは、笑いを起す人物と、笑いを起す言動・状況という二つの要因によっておこります。二つは入りまじっている場合がほとんどですが、別個に独立していることもあります。」と述べている。そこで、織田氏の分類法を参考に、笑いを起こす人物、行動、状況と文章の構成の4つの観点から、どのような要素により笑いが起こるのかを笑話を用いて分析する。また、単一の要因だけで構成される笑話は少なく、複数の要素が組み合わさることで生まれる笑いも多いと仮定できる。よって、どのような要素の組み合わせパターンがあるかについても見ていきたい。
作品を人物・行動・状況・構成の4つの観点から分析を行う。以下、「尼裁判」を例に詳しく説明する。
35 尼裁判 (p.85)
親孝行な男が京の街で鏡屋の前を通りかかり、わが顔が写ったのを死んだ親父と思いこんで、一両二分で買って帰った。長持へしまって親父に会いたくなると、とり出してのぞいていたら、女房が怪しんだ。男の留守にあけてみると、鏡の中に女がいる。さては京からかくし女をつれて帰ったかと、亭主が帰るなりヤキモチ喧嘩。そうではない、親父を買って帰ったのだといっても、女房は耳をかさぬ。隣りの尼が仲裁に入って、私が女を説得して上げると出て行ったが、まもなくもどってきて、「安心しなされ。あの女子も悪かったと気がついたかして、尼になったわいな」
鏡を知らなかったことが原因で起きた夫婦喧嘩に尼が仲裁に入る。しかし、知識人と思われる尼も鏡を知らず、夫婦と同じ間違えを繰り返す。「尼裁判」では、自分が鏡に映った姿だとも知らず、喧嘩を治めたと勘違いして得意になっている尼の様子が、愚かさを強調し、笑いを生み出している。
作品の分析には、以下のような表を作成し、一つひとつの笑話が持つ笑いを起こす要素を挙げていった。
分類 | 題名 | 笑いを起こす人物 | 笑いを起こす人物の属性 | 笑いを起こす行動 | 笑いを起こす状況 | 笑いを起こす構成 |
---|---|---|---|---|---|---|
おろか村ばなし | 35 尼裁判 (p.85) | 夫婦・尼 | 無知・知識人なのに無知 | 勘違い・知ったかぶり |
第二章での分析に基づき、『日本の笑話』に収められた笑話において、いかなる人物の属性、行動、状況、構成が笑いを起こしているか、それぞれの項目ごとに整理する。
笑話に登場する笑いを起こす人物の属性は、大きく三つに分けることができる。第一に否定的な評価を受ける笑いを起こす人物、第二に肯定的な評価を受ける笑いを起こす人物、第三に動物、である。
否定的な評価を受ける笑いを起こす人物とは、無知、愚かさ、嘘つきなど欠点・欠陥だと読み手が受け取るような性質をもつ人物である。読み手は、人物の欠点・欠陥やその性質ために起こす失敗を笑う。
織田氏は、笑いを起こす人物を欠陥や制約の観点から、(1)知能的な欠陥、(2)性格的、道徳的欠陥、(3)言動の過失、(4)職業、社会的地位の制約、(5)肉体的欠陥の五つに分類する。否定的な評価を受ける笑いを起こす人物も、欠点や欠陥をもつ人物を一括りにしているので、織田氏の分類を参考にした。本論では、人物の属性と行動をわけて分析するため、「(3)言動の過失」はここでは扱わない。
否定的な評価を受ける笑いを起こす人物は、
知能の面で否定的な評価を受ける人物とは、
無知や田舎者、文盲のように、社会的な知識に乏しい者、愚か者のように取るに足らない思考のために失敗を犯す者である。酔っ払いは、普段は常識的な社会生活を営んでいるが、酒を飲むことで一時的に思考が鈍り、愚か者と同様な振る舞いをしてしまう。以下、例文を挙げながら、各項目を説明する。
おろか者が町で雨にある。親切な人がこれをさしていきなされと傘を貸してくれたから、腰にさして行ったが、雨よけにならない。別な人がみて気の毒がり、また傘を貸してくれようとするので、何本さしてもおなじじゃとことわる。「いや、傘はさし様でござる」と、町の人が開いてみせると、おろか者はあっけにとられ『こげなカラクリがしてあったか」
おろか者が「さす」の意味の取り違え、傘を開かずに腰にさして歩くところに笑いが起こる。「傘をさす」の意味を知らないというおろか者の無知の要素がはたらいている。
キッチョムが臼杵からの帰りに馬車にのった。三重まで二十文という。野津市へ帰るには高すぎるが、三重までなら安いと、馬車が自分の家の前を通りすぎても平気で三重までのり越し、臼杵から野津市までの倍もある道を、てくてく帰ってきた。
三重までならば安いと思ったキッチョムは、馬車に乗り、結局三重から家までの行きの距離の倍にあたる道のりを歩いて帰った。キッチョムの考えが足らず、頭のはたらきが鈍い「愚か」な要素が笑いを起こす。
キッチョムが旅立ちの前夜、女房と別れの盃を交わし、侍の妻ならこんな時別れの歌をよむのんだといったら、「歌をよむくらいは屁の屁の屁じゃ」と女房は硯をひきよせて、「きにゆうみち、きゆみんせえか、けえしきに、つうかつあはん、おどどげしゆに」と書いた。
キッチョムはこれをもって旅に出たが、帰途知りあいの侍にみせると、しばらく考えてから、これはよい歌ができた。しかしあまり訛がひどくて他人にはわかりにくい。わしが書き直して進ぜると、「昨日みて、今日みぬさへも恋しきに、十日を逢はん身をいかにせん」と書いてくれた。
女房が歌を詠んでみたものの、方言を使ったものしか作れない。訛りのひどい歌が、妻の「田舎者」という要素を表現し、笑いを起こしている。
婆さんが息子からきた手紙を、通りかかりの侍によんでくれと頼む。侍は手紙を開くなりハラハラと落涙したので、なんか変事でもあったのかと聞くが、侍は答えずただ泣くばかり。よほどの大事にちがいないと、婆さんもアテ推量して泣き出した。それをみて、通りかかりの焙烙売りまでが訳わからずにもらい泣きする始末。三人泣きを不信に思った通行人が理由をたずねると、まず焙烙売りが、「去年の節季に売り物の焙烙をみな割ってしまい、泣くに泣けぬ年を過ごし、いそがしくて泣くひまもなかった。いまお二人が泣いているのをひて思い出し、ため涙をこぼしました」という。婆さんは「お侍が倅の手紙をみてただ泣かれるばかりなので、よほど悲しいことにちがいないと、あて推量して泣きました」といい、最後に侍は、「お恥ずかしいが拙者無筆でござる。この手紙さえよめないので、つい悔悟の涙がこぼれ申した」といった。
婆さんが倅からの手紙を読んでもらおうと侍に頼むが、侍は手紙を読むと泣き出した。それを見た婆さんがあて推量をして泣き出し、その2人をみた焙烙売りがもらい泣きをする。しかし、もととなった侍は実は文盲で、手紙が読めず悔しくて泣いたという種あかしに笑いが起こる。侍の持つ「文盲」の要素が、種あかしの部分に大きく関わっている。
親子とも大酒のみ。正月の祝い酒に親父は酔って死んだようになり、三人の息子も酔うたまぎれに、こらもうダメじゃと親父を棺に入れ、火屋(火葬場)へ担いでいく途中で親父は酔いがさめた。ここはどこじゃと聞かれ、火屋じゃといったら、「ヒヤでよい、もう一ぱいくれ」
酔いつぶれた親父が、「火屋」と「ヒヤ」を聞き間違えたことに加え、酔って死んだようになったにも関わらず、まだ飲もうとするところに笑いが起こる。酒の力により、普段の正常な状態ではしないような失敗を犯してしまう。読み手は、酒に飲まれてしまった「酔っ払い」の愚かさを笑う。
性格の面で否定的な評価を受ける人物とは、
「源太よ、わら、餅つきか。なんぼつくがよ」「六と三升つくがよ」六と三升といえば約一俵半。これは大ごとじゃと常やん、近くの若い衆二、三人をかり集め、蒸籠や薪を借りに行く相談。常やんのやり方があまり大げさなので源太は、「常やんよ。二臼ほかつかんがに、こがいに大勢きて、ちと仰山なことないか」「六斗三升の餅が、何で二臼でつけるがぞ」と、常やんはけげんな顔。「いいや、おら隣の六郎ともで、ただの三升つくだけのぞが」
源太の「六と三升」という言葉を「六斗三升」だと聞き違えた常やんが、早合点をして大騒ぎする様子に笑いが起こる。常やんのそそっかしく不注意な「粗忽者」の性質が笑いを起こすのに大きな役割を果たしている。
今年は格別大きな大根ができた。さし渡し三尺、長さ二間あって、四、五人で一日がかりでぬいたと、ホラをふく。聞いていたのが、「そぎゃん太か大根なら、ぜひ作りたかけん、種ば一粒分けてはいよ」「たった一粒、どぎゃんすっとな」「秋にひきぬいた跡ば、井戸にする」
四、五人で一日がかりで抜くほどの大きな大根ができたと言う話し手のホラと、その大根をひきぬいた跡で井戸を作ろうと言う聞き手のより大きなホラを重ねた話。話し手だけでなく聞き手も持つ、大げさででたらめなことを言う「ホラ吹き」の要素が笑いを起こしている。
食うものも食わず金をためた南の長者と北の長者が、一生の思い出に弁当もちで花見に行った。南の長者は固飯を三つ反古紙に包んで、塩を少々もってきた。北の長者も固飯三つと梅干をもってきた。それをみて南の長者が、梅干とはぜいたくだといった。北の長者は、貴様こそぜいたくだ、おれはこの梅干を食うのじゃない、見るだけだ。この梅干をもう三年ごしもってるが、まだこの先何十年もつかわからない。貴様の塩は一回ごとにへるじゃないか、といった。
南の長者と北の長者が、どちらがぜいたくかというくだらないことで言い争う。梅干は食べずに見るだけという、北の長者の徹底した「けち」ぶりに笑いが誘われる。
爺が山の泉をのむと、急に心身さわやかになって若返った。帰ると婆がびっくり、わけを聞いて、おらも行ってみるべえと出かけたが、夕方になっても帰ってこない。爺が心配して村人をたのみ探しに行ってみたら、欲ばり婆はたんと水をのみすぎたとみえ、赤ン坊になって泉のそばでオギャオギャと泣いていた。
若返りの水を知った婆が、その欲深さのために、若返りすぎて赤ん坊になるという失敗を犯す。婆の持つ「欲張り」の性質から生まれた失敗に、読み手は笑う。
その他にも、
肉体の面で否定的な評価を受ける人物とは、
耳が遠い
のように、身体に障害をもつ人物である。現代では、このような障害をもつ人々を笑いの対象とすることはあってはならないことである。しかし、題材に「つんぼ」「座頭」がいくつも登場するように、笑話が作られた当時は、彼らの障害のために起こる失敗が笑いを起こす要因の一つとなっていた。
つんぼ爺が二人、山へ薪とりに行き、弁当をたべながら、「爺さま、お前何ぼになる」と一人が聞くと、「ああ、おら南蛮味噌で食ってら」「そうか、年に似合わず若えなあ」
つんぼの爺二人の会話が、二人とも聞き違いをしているため話が噛み合わないさまに笑いが起こる。二人の登場人物が持つ「つんぼ」、つまり「耳が遠い」という要素を読み手は笑う。
職業・地位の面で否定的な評価を受ける人物とは、
足利将軍義政が一匹の猿を飼っていた。いたずら者で、大名たちが平伏するとツカツカときて、鉄扇で頭をポカッとやることを覚えた。癪にさわるが、将軍寵愛の猿だからどうする
こともできない。将軍義政はおもしろがってみているだけで、制止したことはない。どうやら義政が教えたいたずらのようでもあった。当時九州の一角から上京して将軍に仕えたばかりの小名にすぎなかった松浦是興は腹にすえかねて、ある日誰もいないところで猿をひっ捕え、さんざんに懲らしめたので、義政がけしかけても是興が面を上げてハタとにらみつけると、猿はふるえ上がってそばへよりつかない。将軍の権勢を笠にきた猿が是興だけを恐れるのをみて、事情を知らぬ将軍は、こいつ見どころのある奴、と思ったそうである。
猿が是興に痛い目に合わされたため怖がっているとは知らず、是興に一目置いている将軍義政の勘違いに笑いが起こる。一般人がしてしまう勘違いよりも将軍のような身分の高い者の勘違いのほうが、読み手はより愚かさを感じる。
代官が村へ見回りにきた。そばを馳走に出すと、薬味のネギをもてというが、誰もネギを知らない。鳩首協議の結果、鎮守の社の禰宜をつれて行ったら、代官はそばをたべ終わっていた。禰宜をどうしましょうと聞くと、土に埋めて小便でもかけておけという。禰宜は土に埋められ、村びとに頭から小便をかけられる。
代官に言われた通り禰宜を埋めてしまう長老などの知識人を含む村人たちと、村人にされるがままになっている禰宜によって笑いが生じる。禰宜とは神社で奉仕する神職であり、村人と比べると知識人である。しかし、その知識人の禰宜が村人と同じく「葱」を知らず、小便をかけられる。読み手は「知識人」の愚かさを笑う。
山奥の谷間に住む父子が、ある日峠に登って山の向こうに広がる平野をみてびっくり。「お父う、ここも日本か」と聞くと、親父が「阿呆! 日本はこの倍もあるわい」
谷間に住んでいたため平野を初めて見た父子は、その広大さに驚く。驚いた子どもは、自分たちの住む日本と同じなのかと親父に問う。しかし、父親はその平野を日本であることすらわかっていなかった。子どもよりも知識があると考えられる「父親」の無知さに笑いが起こる。
肯定的な評価を受ける笑いを起こす人物とは、
機知
の性質をもつ人物である。登場人物がこれらの属性を生かし、他者をだましたり、他者から利益を得る。この働きかけによりだまされた人物や利益を取られた人物の愚かさ、失敗を読み手は笑う。そして、だました人物や利益を得た人物を肯定的に評価する。
主人が茂左どんを困らせてやろうと考え、一日のうちに久留米と田主丸へ行ってこらしょ、といいつけた。まるで反対の方向だが、これくらいのことで茂左どんは閉口しない。はい、行きますといって出たが、途中で粟畑の草とりをしている兄弟をみかけ、どうじゃ、草とりはおれがしてやるから、お前ら一人は久留米へ、一人は田主丸へ使いに行ってくるるか、というと、二人とも引き受けた。こうして三つの用事が一日で片づいたのである。
主人の無理難題を茂左どんが解決する。茂左どんが持つ、その場の状況に応じてすばやくはたらく鋭い知恵である「機知」という性質が、読み手の笑いにはたらきかけている。
登場人物が「機知」の性質を用いて利益を得ようとする場合、「ずる賢い」という人物の属性に分類することができる。
キッチョムが馬に荷をつんで餅屋の前へくると、餅屋の主人が、この荷は馬ぐるみなんぼかと聞いた。キッチョムは馬ぐるみというのをうっかり聞き落として、五十銭といった。主人は五十銭出して馬と一しょに曳いて行こうとする。キッチョムは仰天して、何で馬をもっていくかと詰った。馬ぐるみ五十銭といったじゃないかと、餅屋はかまわず行ってしまった。
翌日キッチョムがまたきて、この餅は家ぐるみ何ぼか、と聞いた。これもうっかり聞いて二十銭といったから、キッチョムは二十銭をぽい出して、さあ、みんな出てくれ、おれの家じゃ、といった。餅屋が、何をいうか、と抗議すると、家ぐるみ二十銭といったじゃないかと、キッチョムは承知しない。餅屋は弱って、百円やるからそんなことはいわんでくれ、という。よしよし、そんなら昨日の馬と百円をよこせと、キッチョムは馬をとりもどし、百円をもらって帰った。
キッチョムが餅屋の主人にだまされて、荷と馬を五十銭で持っていかれてしまう。しかし、同じ方法で仕返しして、慌てた主人から馬をとりもどしたうえに、百円ももらったところに笑いが起こる。利益を得るためにうまく立ち回るキッチョムの「ずる賢さ」が笑いを起こす要因となっている。
笑話には、「化ける」という特技をもった狐や狸が頻繁に登場し、読み手に笑いを起こす。笑いを起こす動物は、
徳島の城山の狸はよくいたずらをする。ある晩お城から火が出たので火消しがかけつけたが、行ってみたらどこも焼けてはいない。狸のいたずらだった。また夜中に家老の家へ切紙で、火急のお召しがあがった。切紙は御加増のときに限るから、ホクホクもので御城内へかけつけると、お側用人はけげんな顔で、殿にうかがってみるという。就寝中を起こされて殿はカンカンに御立腹、家老は何を寝ぼけておるのかと、あべこべに減封を申しつけられた。これも狸の仕わざだった。
ある男が夜中、常三橋を通ると、橋のたもとにおこそ頭巾の美人が立っている。時が時だからこの男、ハハンと感づいて、「古いわ、古いわ」といったら、美人はいなくなった。橋のまん中あたりまでくると、大きな鯉が橋板の上ではねている。これは大した落とし物だわいと、両手でつかまえようとすると、鯉は尾っぽで男の頬をピシッと打って、そのまま川の中へ。あッと思ったら鯉が水から顔を出して、「これでも古いか」
男に正体がばれてしまった狸が、再び鯉に化けて意地になって人間をだまそうとする様子に笑いが起こる。
ミミグリ稲荷の境内で、狐が美しい娘に化けている。どうするかとみていたら、なれなれしく話しかけてきた。よし、だまされたふりでだましてやれと境内のすしやへつれこんで、さんざんのみ食い。よい時分に便所へ立つふりで、土産の折詰まで作らせて帰ってしまった。とは知らぬ狐は、男のもどるのを待つ間に酔いがまわり、前後不覚。すしやの番頭が勘定をもらいにきてみたら、娘が大きな尻尾を出して寝ている。大さわぎになり、若い衆が棒きれをもってとびこんできたから、狐は肝をつぶして逃げまわる。そこへすしやの主人が外から帰り、訳を聴いて、とんでもないことをする、この店はお狐さまのおかげで繁昌しているのに、申し訳のないことをしたと、翌日油揚に飯をつめて狐の穴へわびに行った。これが稲荷ずしのはじまりだが、狐はさらに信用せず、馬の糞かもしれんといって、受けとらなかった。
前に示した「人間をだます動物」と全く逆のパターン。男に出し抜かれてだまされた狐は、正体がばれてしまい、大騒ぎになる点に笑いが起こる。正体を知っていた主人が稲荷ずしを持って行き謝っても、狐は信用しなかったというオチにも笑いが起こる。
博労が助けてやった小狸がお礼にきて、何ぞお役に立ちたいという。そんなら小判に化けれ、それでうまいものを買ってお前にも食わせてやる、といったら、俵一枚ほどの小判に化けた。これではあんまりでっこい、もっとちんこなれ、といったら普通の大きさの小判になったが、裏に毛が生えている。毛の生えた小判じゃだめだといわれて毛をひっこめ、それでうまいものを買って二人で食った。
だが、小判に化けて財布へしまわれるときゅうくつでなんでえ、他のものに化けたいという。じゃ、賽コロに化けらんねかといったら、炬燵ほどの賽コロに化けた。もっとちんこなれといわれて、手頃の賽コロになったが、ピンといえば一ッ目、丁といえば六ッ目、半は五ッ目で加賀様ともいうが、おれのいう目を出してくれというと、一ッ目のどこはおらのけつの穴のどこで、逆立ちしなきゃならんすけ、なんぎくていやだ、という。じゃ、丁と半だけにしようと打ち合わせ、博労は思いのままの目を出して儲けたが、「加賀様」といって壷をあけたら、狸が殿様に化けてすわっていたので大失敗。這々の態で逃げ帰った。
加賀様は前田候のこと、前田候の紋所は梅鉢で、賽コロの五ッ目に似ているからそういうのだが、狸には洒落が通じなかった。次は鯉に化けて売りに行ったが、金をくれないうちに狸の鯉を俎にのせて、料理人が包丁をつき立てようとしたから狸はビックリ。料理人の手をひっかいて逃げ帰った。
博労と小狸が手を組んで、利益を得ようとするが、洒落が通じなかったり、包丁をつきたてられそうになったりして、失敗をする点に笑いが起こる。また、小判や賽コロに化けるとき、一度目は大きな小判や賽コロに化けてやり直すという繰り返しにも笑いが起こる。
笑いを起こす行動は、笑いを起こす人物の行動が相手にどのようなはたらきかけをするかという点から、第一に相手からの行動に対する反応行動による笑い、第二に相手に対しての行動による笑いの二つに分けることができる。
笑いを起こす人物が、他者による何らかのはたらきかけに対してとった行動によって笑いが起こる場合の要素を挙げていく。
「貰われて行ったら、猫のようにおとなしくして、一粒団子はみっともないよ」と、嫁入り前に親がくれぐれも教えた。団子を一口にほおばるのを、一粒団子といったのである。さて嫁入った翌朝、姑が台所へ行くと、嫁が釜の上にすわっている。何をしているのかと聞いたら、嫁は「ニャオン」と返事をした。団子は一度に二粒ずつほおばって、一粒残ったのを「はんぱだからたべてけれ」と、聟どんにやった。
嫁が親から教えられた通りに振る舞おうとする。「猫のようにおとなしく」と言われたので猫の鳴きまねで返事をし、「一粒団子」を避けるために二粒ずつ団子をほおばる。親からの教えの「意味を取り違え」てしまった嫁の愚かな言動に笑いが起こる。
大工が急病じゃ、薬をたのむといわれ、よしきたととび出して、ヤスリを一挺買ってきた。「薬をたのんだのに、これはヤスリだ」というと、「大工の急用ならヤスリかと思うたのじゃ。たった一スリのちがい、まあ煎じてのませてみい」
「薬」と「ヤスリ」を聞き間違えただけでなく、「急病」を「急用」と間違えていたことに笑いが起こる。この「聞き違い」が笑いを起こす要素となっている。また、「八」スリと「九」スリを算数して「一」スリとして、自分の失敗をとんちの効いたオチにしている。
永平寺の雲水が問答を申し入れてきたが、道楽寺の和尚は問答の経験がなく、弱っている。門前の豆腐屋の六兵衛が聞いて、問答をひきうけ、和尚に化けて現われた。雲水が「そもさん・・・・・・」と問いかけても、六兵衛口を閉じて答えない。無言の行中と勝手に察した雲水は、仕方で問答をはじめ、まず指で輪を作ってみせたら、六兵衛大きく輪を描いた。つぎに雲水が指を一本出すと六兵衛は五本を出し、三本出したらあかんべえをしたので、雲水はたちまち座を退って逃げ出した。和尚は訳がわからず、小僧をやって理由をただすと、日輪はとの問いに三千世界を照らすと答え、仏法はと指を一本出せば五戒で保つ、三仏はと問えば眼下にあり、恐れいりました、という。
寺では六兵衛がプンプン怒っている。お前の店のこんにゃくはこれくらいかと、指で小さな輪を作ったので、バカいえ、もっと大きいぞといってやった。一ついくらだと聞いたから五文。それを三文にまけろといいやがったんでアカンベエをしてやった、と。
雲水と六兵衛が問答を行ったが、雲水は六兵衛に負けたと思い、六兵衛は雲水にこんにゃくをバカにされたと思う。この話では、お互いの動作が示す意味を二人とも「勘違い」してしまう点に笑いが起こる。
聟が舅家へ招ばれたので、きっと菊畑をみせてくれるのだろうと、嫁がつぎのように教える。つぼみのところでは「待ちかねている」、開いたところでは「いまが盛りとみえにけり」、凋みかけたところでは「命にかえて惜しくもあるかな」といいなさいと。
これで舅は感心して、バカではいえないことだとよろこび、座敷へ上げて、いまそばを用意しているから、という。「待ちかねている」と聟がいったので、家の者は大急ぎでそばを運んできた。しかも聟が「いまが盛りとみえにけり」と何ばいもお替りをするので、あわてて追加を運んでくるはずみに、過ってそばをひっくり返した。それをみて聟が「命にかえて惜しくもあるかな」といったので、よっぽどのそば好きだと笑われた。
聟が嫁に教えられた通り、菊畑で嫁の台詞をそのまま繰り返す。そばに対しても同じ台詞を繰り返す、聟の愚かさに笑いが起こる。その繰り返しの台詞が状況にはまっている点が、救いがある話だといえる。ここでは、嫁からの教えである「一つ覚え」の台詞を、様々な状況に用いる聟の行動が、笑いを起こす要因となっている。
宿でこたつに入れとすすめられたが、どうやって入るのかわからない。たがいにゆずりあった末、庄屋が先に入ることになった。「お先にごめんなんしょ」と挨拶して着物をぬぎ、こたつ蒲団に頭からもぐりこんで、中を一回りして向こう側へ出た。「お先に頂戴いたしやんした」と着物を着て挨拶したので、あとの者も庄屋にならって、裸になってこたつをくぐりぬけた。
こたつの入り方がわからず、裸になってこたつの中を一回りして向こう側から出る庄屋と、それに倣うあとの者たちに笑いが起こる。無知な庄屋の悩んだすえにひねり出した、非常に変わっていて思いがけない「突飛な行動」が、この話での大きな笑いの要素となっている。
あわて者が○○詣りに早朝から起こされ、嬶から銭と弁当を渡されて家を出た。道々人が笑うので頭へ手をやってみると、笠のつもりで鍋敷きをかぶっている。いまいましいと田んぼへ捨てたが、それでも人が笑う。脛巾を片脚しかはいていず、片方はどうやら柱へ巻いたらしい。おまけに脇差のつもりですりこ木を腰にさしていた。
社で銭さしから三文をさい銭に上げるつもりで、残りの九十七文の方を投げてしまった。仕方なく後ろの山で弁当を開こうとしたら、弁当と思ってもってきたのは箱枕。風呂敷にヘンな紐がついているので、よくみたら嬶の腰巻だった。業腹で山を下り、三文で餅を売っていたから、なけなしの銭で一ばん大きい餅をとったら、後からよびとめる。聞こえないふりで急いで人っ気のないところへ行き、食いついたらガチリと歯が欠けた。大きな餅と思ったのは、木で作った飾り者の看板だった。
腹はへるし、いまいましいので急いで家へ帰り、このあま、何だって今日はおれに恥をかかせたと、かみついたら隣のかみさん。これはしたりととび出して、近くの店でお茶を一袋借り、先ほどは不調法とお茶をさし出すと、お前さん、これ何だいといわれ、よくみれば嬶なので、なに、これがお前へおみやげさとごまかした。
自らの失敗や慌て者がゆえに起こす失敗にもかかわらず、腹を立てる様子にも笑いが起こる。また、ずっと失敗を嬶のせいにしていたのに、最後の失敗が良い結果をもたらし、決着をつけている。あわて者が「失敗」をし、それを繰り返すことによって起こる笑い。
その他に、
先に挙げた「相手からの行動に対する反応行動による笑い」に対して、笑いを起こす人物が相手に向けて起こした行動によって生じる笑いである。
三人の旅人が松の枝にかかった鳥の巣をみて、何の巣だろうといっている。一人はカラスの巣だといい、一人は鶴の巣、もう一人はニワトリの巣だといいはり、二分ずつ賭けた。そばの茶店へ入って親父に聞くと、「ハイハイ、あれはもと鶴の巣でござったが、鶴が子をかえして二羽鳥の巣になりました。それが飛んでいって、いまはカラ巣でござる」といった。
松の枝にかかった鳥の巣が何の巣かについて、三人の旅人が金を賭ける。茶店の親父は、「ニワトリ」を「二羽鳥」、「カラス」を「カラ巣」と、三人の旅人の答えをもじって答える。茶店の親父の「洒落」に笑いが起こる。
天狗が木の上からバクチをみて仲間に入り、博徒にかくれ蓑笠をとられる。もう一つは小僧が木の上であり合わせものを目にあて、江戸、大坂がみえると天狗の好奇心を刺激し、かくれ蓑笠をガラクタと交換する。
その際「お前は何が一ばんこわいか」と天狗がたずねるのは、交換品がガラクタだった場合の報復手段を、考えていたかもしれない。人間はそれを察して、小判や千両箱や小豆餅がこわいと答え、天狗は藪や茨がこわいと、マジメに答える。
一ぱい食わされたとわかって、天狗が人間を追っかけたら、藪や茨の垣へ逃げこんだので、報復に小判や小豆餅を投げこむ。人間はこわい、こわいといいながらせっせと小判を広い、小豆餅をほおばる。
天狗に「何が一ばんこわいか」と聞かれ、小僧は「小判や小豆餅がこわい」とわざと欲しい物を答える。小僧が機知をはたらかせて、天狗を「だます」。そして、結果的に小僧が利益を得るところに笑いが起こる。
三人のてんぽこきがホラくらべをする。二人がホラをふきあうのを黙って聞いていた三人目が、おれの家には穂先三間、柄七間の槍がある、といった。そんな長い槍を何に使うのだと聞いたら、お前たちの嘘をつく槍だ。
三人目のほらふきが、他の二人同様に「ホラを吹く」。このホラは、「嘘をつく」と「嘘を突く」を掛けたもので、二人に対して嫌味を言う点に笑いが起こる。
鼻のない侍が馬上から馬子の禿頭をみて一首よむ。「禿げ山の前に鳥居はないけれども後にちょっとカミぞまします」。聞いて馬子が返歌--「山々に名所古跡は多けれどハナのないのは淋しかるらん」。これを聞いて侍は馬をすて、急いで家へ帰ってくる。母が事情を聞いて口惜しいと泣くと、息子は「おれは鼻がほしい」といった。
侍が馬子の禿頭をからかおうと歌を詠んだ。しかし、馬子は、侍の鼻がないことをネタに、「花」と「鼻」を掛けて返歌で「仕返し」をする。馬子の巧みな返歌による「仕返し」と、悔しがる侍の最後の台詞に笑いが起こる。
江戸の大丸の店へかたりがきて、蚤の牙を一斗注文した。何でもない物はないという大丸、ないとはいわさぬ面つきに、主人は当惑したが番頭はのみこんで、五日のうちにととのえますと請け合った。そんなものがととのうわけがないので、主人は苦にして病気になり、飯ものどへ通らない。五日目にかたりどもがやってきて、「品物は揃ったか」という。「ハイ揃えましたが、容れ物をお持ちですか」お番頭はいった。「容れ物とは何だ」「蚤の牙は虱のきん玉でなければはいりません、虱のきん玉をおもちになりましたか」といわれて、悪党どもはほうほうの態でひきあげてしまった。
番頭が機知によって、蚤の牙一斗が欲しいと言うかたりの無理難題を解決することに笑いが起こる。
その他にも、
多くの笑話は、庶民の生活でよく起こりうるような日常的な状況が設定されている。例を挙げると、家の中での出来事や道端での出来事がある。これら多くの笑話の中にあって、現実ではなかなか起こり得ないのではないかと思われる話がいくつかある。状況の設定に、
鍛冶屋と軽業師と歯ぬきと山伏が、死んで冥土へ行く途中で知りあい、四人ともエンマ大王の調べをうけ、嘆願も聞き入れられず地獄へ落とされることになった。剣の山で軽業師は、鍛冶屋に作らせた鉄の草鞋をはき、三人を背にのせて何の苦もなく登っていく。鬼が呆れてエンマに報告、エンマは怒って熱湯地獄へやれと命じたが、山伏が祈祷で湯加減の風呂にしてしまい、四人が背中を流しあった。
エンマはますます怒り、奴らをのんでしまえと人食い鬼に命じた。すると歯ぬきが一ばんにとびこんで鬼の歯を残らずぬいてしまったから、楽々と腹の中へはいり、笑い筋やくすぐり筋をひっぱる。鬼はのたうちまわって泣いたり笑ったり、ついに気がヘンになってエンマをひとのみにし、大王下し(大黄という薬草で製した下剤)で四人は無事に鬼の体外へ逃れた。
地獄に落とされた鍛冶屋と軽業師と歯ぬきと山伏が、それぞれの特技を活かして、受難を回避する話である。また、「大王下し」をエンマ大王と掛けた、語り手の洒落に笑いが起こる。地獄という現実的にはあり得ない状況、つまり「非現実的な状況」で展開される笑話を分類する。他には、幽霊や死神が登場する話や、ムカデが草鞋を履くという設定の話などがある。
人をのんだ大蛇が草をなめると、たちまち腹が小さくなった。みていた旅人がこの草をつんで帰り、餅食いの賭けをして、さんざん食ってから別室でその草をなめた。あんまり出てこないので、友だちが別室をのぞくと男はいず、餅が羽織をきてすわっていた。人をとかす草だから男はとけたのである。
腹を小さくする草だと勘違いした旅人が、人を溶かす草をなめて溶けてしまう。人が溶け、残った餅が羽織を着て座っているという「異常な現象」に笑いが起こる。「異常現象」の話には人が溶けるほかにも、人間の頭から木が生えたり、惚れ薬が効いたりする話がある。現実には考えられない現象が、登場人物の身に起こってしまう話を分類する。
朝、猟師が池に眠っている鴨九羽を一発で串ざしにし、それダマが向こう岸の兎にあたる。鴨をとって向こう岸へ上がろうと木の根をつかむと、これが寝ていた猪の足。猪は苦しまぎれに前足で地面を掘って、山の芋が五、六本出てきた。猟師は鉄砲の台尻で猪をなぐり殺し、岸へ上がったら、股引のなかにエビ五升とフナ百尾がはいっていた。鴨九羽に兎と猪が一頭ずつ、山の芋五本とエビ五升、フナ百尾を一発で得たわけである。
猟師が鴨を捕ろうとして一度に鴨九羽に兎と猪が一頭ずつ、山の芋五本とエビ五升、フナ百尾を一度に得てしまう。思いがけず起きた「偶然」の連続という状況が笑いを起こす。
トラの檻が堤から転落。屈強な若者たちがクレーン車でひきあげようと、さわいでいる。通りかかった婆さんが、まかしときと軽々と堤へはこび上げたから、若者たちはビックリ仰天。どこのお婆さんですかと聞けば、わしゃトラあげ婆じゃ。
トラを引き上げるところから、「トラあげ婆」という洒落に笑いが起こる。この笑話では、婆さんがとてつもない力持ちという設定に、読み手は自分がもっていた婆さんのイメージと食い違い、「意外性」を感じさせられる。
序章で示したように、米屋陽一氏は、「笑わせることをおもな目的として語られる一連の昔話を笑い話とよんでいます。」と述べている。笑わせることを目的とする話ならば、登場人物だけでなく、文章の組み立て方にも笑いを生み出すような仕掛けがあると考えた。
そこで、本項では、構成に目を向け、笑いを起こす要素を挙げていく。
旦那が小作を雇って麻をまいていると、座頭が通りかかった。「座頭さん、どこへな」と聞かれ、冗談ずきの座頭が「えだおからふしおへ」といったので、「枝のある麻や節のある麻ができては金にならぬ」と、旦那は仕事をやめさせてしまった。別な日に大豆をまいていたら、おなじ座頭が長刀をさして通りかかった。「今日は長い物をさしていなさるな」といわれ、座頭は「なに、鞘ばっかり」と答えた。鞘ばっかりの大豆ではつまらぬと、旦那はまた仕事をやめさせた。
大根まきの季節になって、「座頭が通っても声をかけるな」と旦那は小作にいいふくめた。座頭は相手にされないので、「わしのいうことを気にすることはない、みんな根も葉もないことじゃ」といった。根も葉もない大根では困ると、旦那は大根まきもやめさせてしまった。
座頭の言葉を真に受けていた旦那が、座頭の弁明にすら気にしすぎて大根まきをやめてしまったという「オチ」に笑いが起こる。
「オチ」の種類については、昔から様々な分類の試みがなされている。例えば、野村無名庵氏は、予想もしないサゲの一言で全体を終結させる「トタン落ち」やリズムよくトントンとはこび、高潮に達したところで切って落とす「拍子落ち」など11種に分類する。
しかし、ここでは『日本の笑話』で登場する主な「オチ」の種類である、
昔々、お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯にいきました。すると大きな芋が流れてきました。お婆さんが拾うて食うたら、大きな屁が出ました。それで柴刈りのお爺さんは、柴は刈らずに草刈ったといな。
最後に「柴は刈らずに草刈った」と結び、「草刈った」と「臭かった」を掛けた洒落が笑いを起こす話。この話のように、結びの部分で洒落(地口)を用いることによって笑いを起こす話を「地口オチ」と分類する。
子供が、寒い日に路上で銀貨をみつけた。拾おう凍てついてとれないので、小便をひっかけてようやく手に入れた――と思ったら夢。小便だけがホンモノだった。
銀貨が手に入ったと喜んだもののそれは夢で、そのうえ寝小便をしていたという結びに笑いが生じる。結びを「夢だった」という形で終局させて笑いを起こす話を「夢オチ」の話とする。
鉄砲の名人同士が向き合って相手をねらい、同時に引き金をひいた。どちらが打たれるか、見物は固唾をのんでいる。ズドンと火ぶたが切られたが、どちらも倒れず無事だった。調べてみると、さすがは名人同士、二人が射たタマはちょうどまん中あたりでぶつかってはね帰り、そのままもとの筒口へ納まっていた。
鉄砲の名人同士が射たタマがぶつかり合い、もとの筒口に納まっていたという、大げさなホラ話の種明かしに笑いが起こる。このように、終結の部分で話の仕掛けを説明して笑いを起こすものが、「種明かし」の話である。
武家の下男が、酒をのんでは茶店の店先で寝ているので、悪童どもが下男の禿頭に柿の種をぶつけた。下男は知らずに帰ったが、いつのまにか禿頭から柿の木が生え、実が生った。よい幸いと、茶屋の嬶に酒代だけ柿の実をとらせ、またのんだくれて寝た。
そこへ悪童どもがきて、頭の柿の木を根元から鋸でひき伐ってしまった。下男は知らずに帰ったが、いつのまにか切株に平茸が生えたので、茶屋の嬶に酒代だけ平茸をとらせ、例の通りのんだくれて寝た。
すると悪童どもがまたきて、切株を木割りで掘りとり、頭に穴をあけて帰った。下男は知らずに雨の日に歩いて水がたまり、どじょうが湧いた。下男は茶屋の嬶に酒代だけどじょうをとれといって、またのんだくれて寝た。悪童どもも呆れて、もう何もしなかった。
悪童どものいたずらに対して、下男の体から現実にはありえない異常現象が次々と起こる。禿頭に柿の種をぶつけると、柿の木が生え実がなる。柿の木を切ると、切り株から平茸が生える。切り株を掘ると、その穴からどじょうが湧く。悪童のいたずらと下男の体に起きる異常現象の「繰り返し」が、構成上の笑いを起こす要因となっている。この話のように、他者の働きかけと登場人物の行動のペアが何回か続いている構成を「繰り返し」と定義する。
朝、猟師が池に眠っている鴨九羽を一発で串ざしにし、それダマが向こう岸の兎にあたる。鴨をとって向こう岸へ上がろうと木の根をつかむと、これが寝ていた猪の足。猪は苦しまぎれに前足で地面を掘って、山の芋が五、六本出てきた。猟師は鉄砲の台尻で猪をなぐり殺し、岸へ上がったら、股引のなかにエビ五升とフナ百尾がはいっていた。鴨九羽に兎と猪が一頭ずつ、山の芋五本とエビ五升、フナ百尾を一発で得たわけである。
猟師が鴨九羽を一発でしとめたことから始まり、偶然にも次々と獲物を手に入れてしまう。先に述べた「繰り返し」とは異なり、他者の働きかけなしに、登場人物の行動だけが続くパターンを「連続」とする。
金に困って首をつろうと、村はずれにええあんばいの小屋をみつけてはいった。横柱の釘に縄をひっかけ、首をつるべとしたら重みで壁がドサドサとくずれ、壁の中からジャランジャランと金が落ちてきたど。まあ、これだけの金があれば当分助かるので、首つりをやめにして帰ってきた。
そのあとへ、金をかくした人が入用になって小屋へきてみたら、一文もない。この金をたよりにしていたのになくなった、おれぁ死ぬよりほかないと、ちょうど手ごろの縄があったので、首をつった。
金に困った人が首をつろうとしたが、金を見つけたので首つりをやめる。その金を隠した人は、金がなくなったので首をつる。金によって首をつる人が交代し、「逆転」をしてしまったことに笑いが起こる。
旦那は碁に夢中で、火玉が膝へ落ちたのを知らない。女房は、旦那がいつそれに気づくかと気をとられ、袖口を縫いつけている。それをまた台所から女中がみながら、御飯をお櫃の外へうつしている。土間にいた下男は、それをおもしろがってみているうちに、三尺もある草鞋を作っていた。
登場人物がそれぞれ、他人の仕草を見ることに集中してしまい自分の失敗に気づかない、という状況が重なり合っている点に笑いが起こる。この話のように、笑いを起こす部分をたくさん仕掛けているパターンを「断続的な笑い」とする。
多くの英和辞典は「サスペンス」の訳語として「宙ぶらりん、どっちつかず、未決、未定、不安、気がかり等」を挙げている。これはサスペンスの二側面をとらえている。外的状況が「宙ぶらりん、どっちつかず、未決、未定」なので、内的(心理)状況が「宙ぶらりん、どっちつかず、未決、未定、不安、気がかり」なのである。このような、サスペンスの外的状況・内的状況の二側面を、文章における「サスペンス」にあてはめると、次のようになる。
- 送り手(書き手)は、文章中に「宙ぶらりん、どっちつかず、未決、未定」を仕組むことによって、受けて(読み手)に、文章を読み進めさせ、あるいは、立ち止まって考えさせる。
- 受けて(読み手)は、文章中に仕組まれた「宙ぶらりん、どっちつかず、未決、未定」から生じた「不安、気がかり」を解消しようとして、文章を読み進め、あるいは、立ち止まって考える。
このような機能を持った文章中の仕組みを「サスペンス」と呼んで、考察対象とする。また、受けて(読み手)の「不安、気がかり」な内的(心理)状況を「サスペンデッド状態」と呼んで、送り手(書き手)・文章に属する「サスペンス」と区別する。
野浪正隆「文章表現におけるサスペンスについて(1)
――サスペンスとしての比喩――」
『学大国文』第36号 1993年 大阪教育大学国語国語学研究室 より引用
と述べている。読み手をサスペンスデッド状態にさせることで、次に起きる笑いをより一層大きなものにする笑話をここで分類する。
乞食が坂をおりていくと、下から上がってきた侍がしきりにしゃっくりをしている。乞食はいきなり立ちふさがって、「やあ、親のかたき、そこ動くな」といったら、侍はびっくり。「これは迷惑。拙者敵もちではない。人ちがいされるな」。乞食両手を出して、「しゃっくりがとまりましたら、どうぞ一文・・・・・・・」
しゃっくりが止まらない侍に対して、乞食が驚かしてしゃっくりを止めることで物乞いをしようとする点に笑いが起こる。侍が「これは迷惑。拙者敵もちではない。人ちがいされるな」と言う部分で、読み手は「侍はどうなってしまうのだろう。」というサスペンデッド状態に陥り、緊張感が高まる。次の乞食が両手を出して、「しゃっくりがとまりましたら、どうぞ一文・・・・・・・」で、サスペンデッド状態が解消されるとともに、このオチに笑いが生じる。
夜中に目をさました子供が、「いまのは何じゃ、地震か」「そうじゃ。心配ないけ、ねんねせぇ」。翌朝目をさまして台所へ出てきた子供が、「やあ、昨夜の地震がまんま食うてる」
この話のように、セックスを題材とした話を「性的な話」とする。あからさまな表現を避けて、読み手の想像にまかせて笑わせる笑話が多い。
万次がすり鉢で魚のすりみを作って、便所へ立った。その間に猫がきて、すりみをたべはじめた。すり鉢のふちから底まで、万遍なくたべて行くうちに魚のすりみはなくなり、猫もみえなくなった。結局すり鉢に残ったのは、猫のすりみということになる。便所からもどった万次は、魚のすりみと思って猫のすりみを食ったわけである。
すり鉢にあった魚のすり身をなめていた猫がすり身になり、万次がその猫のすり身を食べてしまうというホラ話。登場人物によるホラではなく、語り手によるホラ話を分類する。
本節では、『日本の笑話』に収録されている笑話の中から、第二章で示した人物の属性、行動、状況、構成の項目ごとに、それぞれの笑いを起こす要素をもつ話を分類する。
第一章では、どのような要素のために読み手に笑いが起こるのか、人物の属性・行動・状況・構成の4点からそれぞれ分類した。しかし、ほとんどの話が単一の要素で構成されたものではなく、複数の要素が組み合わされた作品であることに気づいた。
そこで、本章では、笑いを起こす要素がどのように組み合わされて笑話ができているのかについて述べていく。
『日本の笑話』に収められている笑話525作品の中で、登場人物の属性が笑いを起こす要因となっているものは、419作品あり、全体の8割を占める。
第二章で示したように、笑話に登場する笑いを起こす人物の属性は、「否定的な評価を受ける笑いを起こす人物」、「肯定的な評価を受ける笑いを起こす人物」、「動物」の3つに分類される。否定的な評価を受ける笑いを起こす人物に関しては、さらに、
人物の属性が笑いの要因となっている419作品の中に、笑いを起こす人物の属性が単一ではなく、二つ以上の属性をもつものがある。この一人の人物が複数の属性をもつ作品には、先の分類の枠を越えたもの同士が組み合わさっている場合がある。例えば、知能の面で否定的な評価を受ける人物である「愚か者」と、性格の面で否定的な評価を受ける人物である「粗忽者」の二つの要素をもつ人物が登場する「153 親父を焼く」がある。また、二人以上の人物が、笑いを起こす人物としてはたらきかけている作品もある。これは、「愚か者」の聟と「機知」の要素をもつ嫁が笑いを起こす、「86 結えつけ枕」が例として挙げられる。これらの人物の属性が重複するパターンに関しては、両方の分類に配置して分析をおこなった。
図1には、笑いを起こす人物の属性を分類し、その分類ごとの割合を示した。「知能の面で否定的な評価を受ける人物」は44%で、全体の半分近くを占めている。
この「知能の面で否定的な評価を受ける人物」とは、
これらの「知能の面で否定的な評価を受ける人物」の性質で主なものは、「無知」と「愚か者」である。
また、「文盲」や「酒飲み(酔っ払い)」と比べると、様々な「笑いを起こす行動」の要素と絡み合っている。組み合わせパターンの点では、性格の面や肉体の面など、他の「否定的な評価を受ける笑いを起こす人物」の要素よりも多種多様である。では、「知能の面で否定的な評価を受ける人物」として代表的な「無知」と「愚か者」は、いかなる笑いを起こす行動の要素と組み合わされているのだろうか。
図4では、笑いを起こす人物の属性が「無知」の要素をもつ話を取り上げ、それらの話が笑いを起こす行動においてどのような要素をもつか、グラフで表した。
その他には、
笑いを起こす人物の要素が「無知」の場合、それと組み合わされる行動は、「勘違い」が4割近くあり、最も多い。次に「意味の取り違え」、「一つ覚え」、「突飛な行動」という要素が続いている。
次に、人物の属性に「愚か者」の要素をもつ話が、どのような笑いを起こす行動の要素をもつかについて、図5に示した。
その他には、
笑いを起こす人物の属性が「愚か者」の場合、「無知」と同じく、「勘違い」の要素が最も多い。そして、「意味の取り違え」、「失敗」、「突飛な行動」が続く。「無知」と比べると、「失敗」の割合が高い。また、「無知」よりも笑いを起こす行動の種類が多いことがわかる。
「無知」や「愚か者」の要素もつ話は、例えば「無知・愚か者」や「愚か者・粗忽者」のように、複数の人物の属性をもつ場合がある。また、人物の属性に関わる笑いを起こす行動が複数のパターンもある。例えば、笑いを起こす人物が「一つ覚えによる失敗を繰り返す」という行動をとる話では、「一つ覚え」と「失敗の繰り返し」とが階層的に組み合わされている。つまり、人物の属性と行動の組み合わせが、複雑になっているといえる。そこで、「無知」、「愚か者」の人物の属性と行動要素との組み合わせパターンを図6、7で示す。
図 欠
図6と図7を比較すると、人物の属性に「愚か者」の要素をもつ話は、「無知」よりもその人物の行動パターンが多種多様であることがわかる。また、「愚か者」における行動要素の「勘違い」を見ると、「勘違い」の結果として起こした行動が、「応用の失敗」、「突飛な行動」、「無意味な行動」と3種に分かれている。このように、下位の行動要素においても、組み合わせパターンが多いことがわかる。
「肯定的な評価を受ける笑いを起こす人物」とは、「機知」、「ずる賢い」という要素をもつ人物である。要素は二つしかないのにもかかわらず、先に示した図1によると、全体の33%である。このことから、「機知」、「ずる賢い」の要素をもつ登場人物は、笑話の中で必要不可欠な存在であることがわかる。
第二章で、登場人物が「機知」の性質を用いて利益を得ようとする場合、「ずる賢い」という人物の属性に分類することができると述べた。つまり、「機知」という人物の属性の要素に、「利益を得る」という行動の要素が組み合わされているのだ。「機知」は、「利益を得る」以外の行動要素とも組み合わされることが多い。
ここでは、第一項の「無知」や「愚か者」と同様に、「機知」と「ずる賢い」の要素には、どのような行動の要素と関わっているのかを見ていく。
図8によると、「利益を得る」という行動要素が3割と最も多い。これは、「ずる賢い」の要素が利益を結びつく話が多いためだと考えられる。その後は、「人をだます・動物をだます」、「仕返し」、「洒落」、「危機を回避する」が続いている。
「機知」、「ずる賢い」についても、笑いを起こす行動との組み合わされるパターンを、図9で表した。まず、「機知」の要素をもつ話が、多くの種類の行動要素と絡み合っていることがわかる。また、「機知」と行動の要素「人をだます」の下位分類を御覧いただきたい。「仕返し」、「洒落」、「勝負に勝つ」、「利益を得る」の4種にも分かれている。このことから、行動の要素同士の組み合わせも複雑だといえる。
どのような表現によって読む人は笑うのかということに注目し、笑いを起こす要素を登場人物の属性、行動、状況、そして、文章の構成の4つの観点から笑話の分析を行ってきた。分析の結果から、笑話の表現特性について二つのことがいえる。
まずは、笑話による笑いを支える大きな要素は、登場人物の属性だということだ。第三節でも述べたように、8割の笑話が笑いを起こす人物の属性をもっている。つまり、ほとんどの笑話に、「笑われる人物」が登場するのである。この「笑われる人物」のうち7割近くが、無知、愚か者、粗忽者といった欠点や欠陥などの、社会から否定的な評価を受ける性質をもつ人物である。すなわち、登場人物のもつマイナスの面での性質を笑いの種にしているのだ。
次に、「笑われる人物」がもつ性質と、その人物の「笑われる行動」の組み合わせが多種多様であることが挙げられる。特に、「愚か者」の属性をもつ人物の行動パターンは様々である。「勘違い」や「失敗」、「突飛な行動」などと結びついており、ストーリーの展開に幅がある。「機知」も行動との組み合わせパターンは多い。臨機応変に対応できる鋭い知恵である「機知」も、行動との組み合わせによっては、読み手に与える印象がずいぶんと異なる話ができる。「危機を回避する」や「問題を解決する」という行動と結びつく一休さんのとんち話のような爽快な笑い話がある。一方で、「利益を得る」という行動と結びつく話では、登場人物を「ずる賢い」と少しマイナスの評価を読み手は下し、苦笑いをする。
では、このような表現特性をもつ笑話には、どんな役割があったのだろうか。
すぐに思い浮かぶのは、「笑わせるための笑話」である。村の集まりで笑話を語ることは、娯楽の少なかった時代において、人々の大きな楽しみであっただろう。また、寝物語として大人や老人が子どもたちのために、毎晩、語ったのかもしれない。
そして、今回の分析を通じて感じたのは、「教訓話としての笑話」である。先にも述べたが、笑話には欠点や欠陥をもち、社会的には否定的な評価を受ける「笑われる人物」が多く登場する。彼らの行動を取り出してみると、「意味の取り違え」や「勘違い」、「失敗」など、私たちが起こしてしまいかねないものばかりである。もちろん笑わせるための話なので、これらの失敗は大げさに表現されているが、もとは誰でも起こす失敗がほとんどだ。村の子どもたちや若者に語り継がれてきた笑話は、よくある失敗を犯す「笑われる人物」を語るということで、「こんなことをしたら笑われるよ。」という戒めの性質も持ち合わせていたと考える。
今回の研究では、人物の属性と行動の分析が中心となってしまい、笑いを起こす状況と構成に関しては分類を行っただけになってしまった。この状況と構成そのものの分類も大雑把になった観がある。状況、構成それぞれの要素の分類を再考するとともに、人物の属性や行動の要素との組み合わせを見ていくことで、笑話における笑いを起こす仕掛けの全体像がより明らかになってくると考える。
笑話におけるどのような要素に人は笑うのかということに注目して考察を行ってきたが、そもそも「笑い」に対する考察が不足していると感じる。「笑い」とは一体どのようなものかという考察を土台にして論を進めなかったことが、大きな反省点である。
以上のことを今後の課題として、意識しておきたい。