大阪教育大学 国語学特論2 受講生による 小説習作集
プロローグ | 22109 |
僕は恋をした | 22108 |
ルミナリエ | 22110 |
It's a wonderful world ! | 22107 |
はしご | 22101 |
「・・・死にたい」
それは口に出すことはおろか、思うことさえ許されなかった言葉のはずだった。そして私の最も嫌いな言葉。
でもこのときばかりは何かが違っていた。死にたいときに死ねないということが最も不幸なことのように思われた。
まぶしい。それに何だか窮屈だ。隣に誰かいる?誰?あれ・・・ここはどこ?そうだ、思い出した!良かったぁ。どこかで倒れ込んだのかと思ったよ。って、全然良くなんてない!よく知りもしない男の部屋でついに朝を迎えてしまったのだ。
智恵の隣で皮肉なほどにさわやかな朝の光を顔いっぱいに浴びながら寝息をたてているのは北上晃一だ。智恵と同じバイト先で二つ年上のN大生。ここら辺では名の通った国立のN大に通う晃一は確かに頭のいい人だ。豊田智恵はS大生。同じ国立でも少しレベルは下だった。智恵が一人で時間をもてあましていると、ようやく晃一も目を覚ました。
「おはよう。早いね。」
眠そうな声。そんな声出すんだ。
「あ、おはようございます。なんだか眠そうですね。まだ寝てていいですよ。」
「いや、大丈夫。俺も起きるよ。今日は何も予定ないの?」
「あ、はい。」
「じゃ、もうちょっとゆっくりしていく?あ、飯でも食いに行こっか。」
何?この上まだ誘おうっていうの?
「いえ、もう帰ります。お邪魔してすみません。」
ろくに化粧もしないで出て来てしまった。それほど慌てていただろうか?いや、そうでもない。正直なところ、あまりよく覚えていない。智恵の目の前を窓越しに物凄い速さで見慣れない街並が過ぎ去っていく。とはいうものの、ほんの数時間前は反対に流れていたのだが。同じ景色でも進行方向が違えばこんなに見え方が変わるものだろうか?いや、原因はそれだけではないはずだ。智恵の身長のせいか、少し高めの吊り革にその身を委ねながら、智恵は一刻も早く知らない街から抜け出して家に帰りたいと願うしかなかった。
六月十三日土曜日。土曜日は一週間のうちで智恵と晃一が唯一バイト先で顔を合わせる日だった。この日のバイトあがり、晃一は自慢のバイクで家まで送ると智恵を誘ってきた。実は智恵もバイクの免許を持っている。バイク好きなのだ。悪い話ではない。バイト先から家まではそう遠くないし、軽い気持ちで送ってもらうことにした。
小さい頃から智恵には男友達が多かった。というよりも、智恵自身女友達といるよりも男友達といるほうが気が軽だったのだ。もちろん二つ上の晃一のことも“男性”としては見ていなかった。だからこそすぐに誘いにのってしまったのだ。
バイクは前に乗っても後ろに乗っても楽しい。バイト先から智恵が一人暮らしをしているマンションまでのほんの数分、智恵は満足だった。正直運転者が誰かなんて問題ではなかった。そろそろ暑くなってきたところに風が心地よく智恵の頬を撫でては去っていった。
「ありがとうございました。」
「いや、いいよ。俺バイクで走るの好きだし。」
「今日はお疲れ様でした。気をつけて帰ってくださいね。」
「うん。じゃまた今度。あ、次の土曜バイトが終わった後に飯でも食いに行こうよ。おごるから。」
「え、いいんですか?ありがとうございます。楽しみにしてます。」
またもや智恵は簡単に返事をしてしまった。
六月二十日土曜日。バイトが終わると、晃一は智恵をバイト先に残したまま一度家に帰った。再び智恵の前に現れた晃一は普段見せないラフな格好で車のハンドルを握っていた。
「乗って。」
そう言って運転席に座ったまま助手席のドアを開ける。
「お願いします。」
「適当に飯でも食って、その後俺の知ってるいい感じのバーに行こう。」
「あ、はい。」
二人を乗せた白い箱が軽快に走り出す。どれくらい走っただろうか。もうすでに智恵の知らない土地であることは確かだった。そして二人はスパゲッティ専門店の駐車場に降り立った。
車内でも店内でも不思議と二人の会話が途切れることはなかった。週に一回、しかもバイト先でしか会わない仲だから、そんなに会話が弾むとも思えなかったが。晃一はそれまで智恵が抱いていた無口で無愛想なイメージとは異なり、よく話をしてくれた。しかもとても楽しそうに。だから思わずこっちも笑ってしまう。不思議な力を持っている人だと思った。でも智恵にとってはやはりそれ以上の存在ではなかった。本当はよく話す人だったんだ。という感想しか抱かなかった。
二度目に車を降りたとき、智恵の目に晃一が言った雰囲気のいいショットバーが映っていた。中に入るやいなや慣れた口調で注文をする晃一。席につくなり煙草をふかす晃一。それでもショットバーの雰囲気とは裏腹に、智恵の目にはバイト先の先輩という存在以上に映ることもない晃一がいた。
智恵はそれほどお酒が好きという訳ではなかった。しかし飲めないことはない。この日もすぐにさき程とは異なる色鮮やかなカクテルを目の前にしていた。ふと晃一のグラスを見ると先ほどからあまり変化がない。
「俺、運転するからさ。」
「あ、そっか。じゃ、私も・・・・・・。」
「何で?せっかく来たんだからどんどん飲んでよ。俺のことは気にしなくていいから。」
そんなことを言われたって一人でガブガブ飲めないし・・・。とは言いながらちゃっかり三杯目の注文は終えているのだ。バイトでの疲れも手伝って、智恵はすぐに気分がよくなってきた。気付けば話題は過去の恋愛経験に変わっていた。嫌な展開だと思いながらも先輩を目の前にすると話さなければいけない気がした。
「前の彼氏は二つ上だったんですよ。向こうも一人暮らしで。最初はよかったんですけどね、何か違うなって思った瞬間急に嫌になってしまって。結局すぐに終わっちゃいました。」
「へぇ。なんかその人かわいそうだね。なんて。でも好きだったんでしょ?」
「それが、正直分からないんです。あまり好きじゃなかったのかも。言われたからオッケーしたって感じだったし。でもキスは好きでしたよ。」
何を言ってるんだろう。もしかして私酔ってる?あぁ、でももう遅い。
「キス?キス好きなんだ。」
もう早く帰りたい。目の前で楽しそうに話す晃一。でも私は楽しくない。いつの間にか愛想笑いを続けている自分がいた。
「もういい?じゃ、そろそろ帰ろっか。」
「はい。ごちそうさまです。」
早く帰って寝よう。このとき智恵は救いの女神をはっきりと捉えたように思った。
闇に浮かぶ白い箱。光の帯だけを残して現れては消えるビルの数々。いつの間にか二人を乗せた白い箱は智恵と付き合いの長い風景の中を走っていた。やっと帰って来れたという安堵感が一気に智恵を取り巻いた。
「ありがとうございました。おやすみなさい。」
車内から出ようとしたそのとき、智恵はもの凄い力で腕をつかまれた。
「え?」
そう言って振り返った瞬間、救いの女神ではなく、晃一の唇が智恵のそれを捕らえていた。
六月二十二日月曜日。キャンパス内を友だちと歩いていた智恵の携帯が震えた。
「・・・。」
「どうしたの?」
普通すぎる質問が智恵の中の面倒くさい思いを最大限に引き出した気がした。
「告られた。」
「え?誰?だれぇ?」
やっぱり面倒くさい。
「バイト先の先輩。」
「いいなぁ。どんな人?付き合うの?」
「大した人じゃないよ。見た目怖いし、無愛想でみんなにはあまり好かれてない感じ。・・・意外とそんなんじゃなかったけど。でも好きではないな。けど別にいっかって感じもする。ダメだったら別れればいっか。」
「またそんなこと言ってる。」
純粋な笑顔を送ってくれる友だち。でも私は上手く笑顔を作れないでいる。言える訳ない。今日晃一の家から大学に来たなんて。
何も言わずに晃一の家から出て、電車に飛び乗った。そりゃあ晃一は気になるよね。バイクにしろ食事にしろ、簡単に誘いに乗ってきた年下の女。イケると思って当然だよね。
<オレラッテドウイウカンケイ?>
<サァ?ナンデショウネ。>
<サァッテ。ツキアワナイ?>
<・・・イイデスヨ。>
あ〜ぁ、また変な始まりだ。大学に入ってからこんなのばっかり。またすぐ終わっちゃうよ。大学になったら大人の恋愛しようなんて夢物語を描いてた私はどこにいったんだろう?友だちからとかなんとか言って断ればいいのにそんなこともできないなんて。どっちにとっても最悪だよ・・・。
え・・・?けっこういい感じでここまで来たと思ったのに。何も言わずに家を出て行ったまま連絡も無しかよ。誘いにはすぐ乗ってくるし、なかなか話も弾んでたし、結構イケてると思ってたのに。何だよそれ。でも昨日作ってくれた飯美味かったなぁ。なんだかアイツ、去年バイト先に初めて来た時より可愛くなってきたし。そういや、初めてバイト先に現れたときは男かと思ったよ。
「おいって!北上!聞いてんのか?」
「ああ。すまん。何?」
「お前、何考えてんだよ。珍しく真剣そうな顔して。」
「珍しいは余計だよ。あとそうも。いや、彼女できるかもってね。」
「は?何だよそれ。お前この間別れたばっかじゃん。もう次?」
「うん。まだ分からないけど、あと一押しって感じかな。」
「へぇ。お前もよくやるよな。で、その子いくつ?」
「二つ下。」
「N大?」
「S大。」
「二つ下のS大生なんてどこで知り合ったんだよ?」
「バイト先。」
「へぇ。で、 友だちの話も聞かずに真面目に最後の“押し”を考えてるって訳だ。」
「ま、そんなところかな。」
<オレラッテドウイウカンケイ?>
<サァ?ナンデショウネ。>
<サアッテ。ツキアワナイ?>
<・・・イイデスヨ。>
これが真面目に考えた押しかよ・・・。自分でも驚く程普通だ。<イイデスヨ>って。それにしても変なヤツ。今までこんなタイプいなかったし。前の彼女との短い付き合いを終えたばっかりなのに、またすぐに終わってしまうかもな・・・。まあいっか。今ちょうど退屈な時期だったし。
「はい。」
「何これ?」
「この間のクリスマスのお返し。」
「ほんと?ありがとう。空けてもいい?」
「どうぞ。気に入ってもらえるといいんだけど・・・。」
相変わらず晃一はロマンチック男だわ。でもそんな分かりやすいところが子どもみたいでかわいいかも。車で××山に行こうなんて夜景をバックにプレゼントのお返し渡しますって予告してるようなもんじゃない。
「わあ。なんかかっこいい。ありがとう。」
「つけてみてよ。あ、俺がつけてあげる。」
「どう?」
「うん。似合ってるよ。」
「ほんと?ありがとう。」
本当は両手いっぱいにすくえそうな夜景のせいで何かよく分からなかった。ただ、勉強はいくらでもできるのに、恋愛になると急に人が変わったようにかたくなる頭で必死に考えてくれたことが嬉しかった。
なんだかんだ言って晃一の寝顔を初めて見た日からもう半年が経っている。すぐに終わるだろうと予想していた付き合いもなかなか悪いものではない。お互い多少の不満はあるけど、何でも話し合おうって決めたし、相手を思いやることによって解決されている部分もあるのではないかと思える程になっていた。
「俺ら、もう半年も付き合ってるんだね。」
夜景を目の前にしているからか、目を輝かせて晃一が静に話し始めた。
「うん。私正直こんなに続くとは思ってなかったよ。」
「え?まじで?実は俺も。大学入ってから何人かと付き合ってきたけど、どれも短くてさ、もう三回生だし、そろそろ真面目に付き合える人見つけたいなと思ってたんだよね。」
出た!得意のあからさまな台詞。晃一の表情が笑顔かどうかも判別できないほど光と闇の一見対照的に見えるコンビが私の目を捉えて離さない。でも私には分かる。晃一の表情が。半年も経ったんだ。私にとっても久しぶりの長い付き合い。きっと二つ上ということを忘れさせるいつもの笑顔でこっちを見ている。
「俺、智恵とだったらこの先長く付き合っていけそうって思う。それで、お互いに大学を卒業して、俺が稼げるようになったら一軒家を買って住みたいな。智恵はそう思わない?」
これ系の質問困るんだよね。確かに晃一のことはすごく好きだけど、いつまで付き合ってられるかなんて分からないし、この先まだまだやりたい事もあるし。そもそも結婚なんてまだまだ考えたことないよ。
「そだね・・・。」
「うん。これからもよろしくね。」
こんな時の晃一の笑顔にいつも負けるんだよね・・・。
「北上君?大丈夫ぅ?」
「ああ。ごめん。昨日からちょっと風邪っぽくて。何?」
「昨日の実験のレポートなんだけどぉ、一つどうしても分からないところがあるの。教えてくれる?」
相変わらずおっとりした話し方だな。智恵とは大違いだ。
「うん。いいよ。どこ?」
「ここ。この数値が実験結果とどうしても合わないの。」
きれいに塗られた爪が目立つ指で必死に差してはいるがそれでは到底晃一の目にとどかない。
「・・・。これ、式が間違ってるよ。」
「え?ほんとぉ?」
そう言いながら長いピアスをぶら下げて真美は晃一に顔を近づけてきた。
「・・・。え?どこぉ?」
ふっくらと白い肌をして真美は顔をしかめ続けている。
「あ!分かった。なぁんだ。ここかぁ。ごめん、ごめん。ビックリしたぁ。」
マジかよ。バカっていうか、間抜けっていうか・・・でもちょっと可愛いかも。智恵には絶対にないところだな。やべぇ、俺さっきから智恵と東條比べてるよ。
「おいっ!」
「痛ぇ!なんだよ?」
「いいねえ、頭がいい人は。女の子と気軽に話せるし。」
「なんだそれ。それよか、昼飯まだ?食いに行こうよ。」
「あれぇ?真美ちゃんと行かないのぉ?俺らは寂しく男だけでいただきまぁす。」
「・・・。」
くだらねえ。確かに少し可愛いかもとか思ったけど、そんなんじゃないし。俺には智恵がいるんだ。
「おい、待てよ!」
「今日の晩ご飯は何がいい?」
「そうだな・・・ハンバーグ。」
「また?ほんとにハンバーグ好きだね。前はチーズをのせたから、今日は和風にする?」
「和風?美味しそう。すっげえ楽しみ。」
「じゃ、帰り買い物して帰ろう。」
「うん。」
晃一の好きな食べ物イコール子どもが好きな食べ物。外食するときは大抵ラーメンか回転寿司。私が作るときはハンバーグを中心に、ほとんどの場合肉料理をリクエストされる。トマト嫌い。大きな子どもだ。でもこの子はいつも私が作った料理を満面の笑みと共に残さず食べてくれる。その姿が見たくて、もともと気にしていた体重を余計に気にしながら肉料理を頬張る私がいる。
いいねえ。そうやってテレビ見て大笑いしてたら勝手にご飯が出てくるもんね。私はあなたの何?召使?晃一と結婚?冗談じゃない。あれ取って。あれしておいて。あれが食べたい。ここに行きたい。お金がない。私はあなたの何?激しく上下運動を繰り返す私よりひとまわりもふたまわりも大きい背中が時々憎らしくなる。最近増えてきたかも。晃一に対する愚痴。決して音に表されない愚痴。でも多分顔にすぐ出るんだよね。私が晃一の愚痴を出すまいと戦っている時決まって晃一は得意の甘えた声で私に近づき、キスをしてくれる。それで私の機嫌が直ると思っているのだ。まあ実際直るとは言わないまでも多少よくはなるけど。
「晃一!机の上片付けて!」
学生が住むワンルームマンションなのにキッチンに立つと自然と声が大きくなってしまう。まるでエプロンをつけた新妻が両手がふさがっている時夫に助けを求めるみたいだ。
「智恵、できたよ。」
そんな報告いちいちしに来なくてもいいって。
「はあい。じゃ、これとこれを運んで。」
ついついのってしまう。いつまでこんな気持ちとは裏腹な言葉を吐き続ければよいのだろう。なんだか最近本当に疲れてきたかも。
『・・・。』
何故か分かった。その電話の内容。受話器の向こうで晃一が言わんとしていること。そして晃一の表情が。
『この前のバレンタイン、俺が試験勉強に忙しくて一緒に過ごせなくてごめん。今凄く忙しくてさ、体力的にも精神的にも疲れてるんだよね。勝手なこと言ってるのは承知の上なんだけど、少し距離をおかない?』
何?その言い訳。
『はっきり言っていいよ。』
『何を?』
知ってるよ。知ってるよ。
『真美ちゃんが好きなんでしょ?』
まだ。まだ泣かない。この電話が終わるまでは。
『・・・。』
この間晃一の部屋で見つけたんだ。空になったチョコレートの入れ物。
『いいよ。別れよう。』
『待って、別れたい訳じゃないんだ。少し距離をおきたいなと・・・。』
そうやって私をストックしておくつもりなんだ。そんなことさせない。私はそんなに都合のいい女じゃない。
『いや、別れよう。』
『分かった。ごめん。本当にごめん。』
負けた。あの女に負けた。だから男はバカなんだ。あんなバカな女がいいなんて。
『じゃ。』
ブチッ!
悔しいからこっちから電話を切ってやった。
いいんだ。丁度晃一には腹が立ってきたところだったし。頭とは裏腹に次から次へと涙が頬を伝っては床に落ちてゆく。これを滝のようにって言うのかな?こんな時に・・・。やばい、苦しくなってきた。だめ・・・急に住み慣れたこの部屋がとてつもなく窮屈に思えてきた。まるでたった今ふられたばかりの私を追い出そうとしているかのようだ。そうだ。ひと走りしてこよう。頬に突き刺さるような風をいっぱい受けて、涙も何もかも止めてしまおう。
大好きなエンジン音が聞こえない。聞こえてくるのは受話器を通して小さくなった晃一の声。『ゴメン。ホントウニゴメン』謝るくらいなら他の女なんて好きにならなきゃいいじゃない。気づいていない訳ではなかった。晃一はいつからか真美ちゃんの話をよくするようになっていた。気に入っているんだなとも思った。でもそれ以上は特に何も感じなかった。甘かった。
見慣れた風景が後方に駆けて行く。寒い。顔が冷たい。手が冷たい。動かないよ。真夜中の国道は車の通りが非常に少ない。時折すれ違う箱の運転手に顔を見られてはいまいかと多少不安になる。そうだ、車にはねられて死ねばいい。死にたい・・・。死にたい・・・。
傷一つ負わずに戻ってきてしまった。いつもの白塗りの壁。いつものベッド。そしていつもの姿見に映るいつもとなんら変わらない私。変わっているのは目の周りが赤く腫れていること、熱っぽいこと、・・・彼氏を失ったこと。
八月二十三日。驚くほど暑かった今年の夏の勢いはどうやら衰えを知らないらしい。突然チャイムが部屋いっぱいに鳴りひびいた。今日は直樹来るって言ってたっけ?部屋の割りに重厚なドアを押し開けるとそこには大きな子どもが立っていた。約五ヶ月ぶりの再会だ。やってしまった。直樹の忠告を守らなかった罰だ。
「すぐにドアを開けるのは危ないよ。変な勧誘とか来るかもしれないし、一度のぞき穴から誰が来たのか確認した方がいいよ。」
「入っていい?」
何を言っているの、この人は?
「外行こう。」
「誰か来てるの?」
「ううん。」
来てなくても、絶対あなたなんかを部屋には入れない。
「ちょっと待って。」
部屋の鍵を閉めてゆっくりと歩き出す。晃一はおそらくよりを戻すために来たんだ。真美ちゃんと上手くいかなくて・・・。何でもお見通しだよ。別れてだいぶ経つのに皮肉にもまだ何をしようとしてるのか、何を言わんとしてるのかがはっきりと分かるよ。でも晃一は気づいているはず。もう二度と元には戻れないということを。鍵を閉める私の仕草を見たから。鍵を閉める私の左手の薬指に光るリングを見たから。
僕は恋をした。心がやんわり痛む。何かが弾けそうで、でも完全には弾けることがない。楽しいようでとても苦しい気持ち。やはり僕は恋をした。ふとつぶやく。「今年もサクラがきれいに咲いたな・・・」
サクラが満開の季節。学校への通学路を足早に急ぐ。新学期。僕はこの道を二年間毎日歩いている。道はただまっすぐにのびる。しかし、時々の表情をみせ、春は桜並木道、夏はせみの宿屋、秋は黄色い扇子屋さん、冬は白銀の世界を作り出す。僕は一歩一歩踏みしめながら学校へと向かう。教室に入ると何も変わらないいつもの光景がある。僕はなぜか落ち着きを取り戻す。
「おっす、おはよ!」
「お〜和也、うっす!」
友達の輪の中に入っていく。何気ない、何の意味ももたない会話が僕を包む。
「今日の試験の数学T、まじやばいねんけど・・何も意味不明やし」「そんなん俺もやって。二人で赤点とろうや」
「いいよなぁ、田中は。お前数学できるやん。」
「まぁ〜ね、」
「その嫌味ったらしい言い方が気に食わんわ」
いつもの会話。そしていつもの友達。何も変わらない。でも僕はそこが最も居心地がいい場所だと思う。そして僕にとってかけがえのない世界なのかもしれない。友情などというものを僕は信じなかった。友情は何程のものか、たとえ悩みを相談したとしても、励ましや慰めはしてくれるけど、本当に心底言ってくれることなんてない。みんな自分が大切で、そして絶対なのだ。友情は表面的な人間関係をつなぐ潤滑油でしかないのだ。僕はそう感じていた。でも、こいつらは違う。何気ない冗談の中にも何か温かい本当の言葉というものを感じる。そして自分にとって信頼してもいいかなっと思えるそんな奴らなのかもしれない。
「今日さ、試験昼で終わるやん!昼からご飯食べに行こうや」
「お〜いいやん。ぱ〜っと行こうや!みんなも行くやろ?」
「おう、行く行く」
僕たちにとって試験なんてものはそう大きな意味は持たなかった。試験の後に僕らの仲間の暗黙の了解としての昼から遊ぶということに大きな意味を感じていた。やはり試験は僕にとって大きな意味をもたなかった。僕は偏差値がぎりぎりでこの有名進学私立高校に入学できた。しかし、僕を待ち受けていたのは「落ちこぼれ」というレッテルだった。「落ちこぼれ」は相手にされない。僕は強くそう感じていた。誰一人として自分を認めてはくれなかった。だから、自分を着飾り、そして「もう勉強なんてどうでもいいねん」といったセリフで自分自身を納得させていた。自分が孤独で、自分がみじめで、自分が自分でないような感じがした。そして誰も僕を受け入れてくれないと。終礼のチャイムとともに一目散に靴箱に向かう。素早く靴に履き替え、五人はいっせいに校門を飛び出す。校門に仁王立ちになっている生徒指導の教師の声が僕らの背に突き刺さる。
「おい!帽子をかぶり、シャツを中に入れて、ホックをきちっとしめろ!!」
制服という決まった型にはめ込まれた僕たち。この型からはみ出すことは絶対に許されない。制帽をかぶり、制服のホックを一番上まできちんと閉じ、シャツは中に入れる。そして校門の教師に頭を下げる。それが良い子なのかもしれない。そして、それが高く評価されるのだろう。僕らはそんな生徒にはなりたくなかった。いや、むしろなれなかったのかもしれない。社会の中で上手く生き抜く方法を知らなかった。やはり僕らは「落ちこぼれ」なのかもしれない。背中に突き刺さる声を感じながら桜並木道を駆け抜ける。近くのコロッケ屋の揚げたて匂いが空腹の僕らを誘う。足早にまちゆくスーツ姿のサラリーマン。買い物を提げ、家路にむかう主婦。昼間のあたたかなひとときを過ごす老夫婦。そんな道を歩きながら僕は何ものにも演じることのない自分自身を感じる。優秀な高校生を演じることも、闇の世界を生き抜く高校生にもなれない自分を。毎度の小さな食堂で大盛りのカツ丼を注文する。学生割引で大盛りサービスなのだ。このときばかりは高校生でよかったと思う。食事中の話題は専ら昼からの遊ぶメニュー構想に尽きる。五人五色、色々なおもしろい思案が飛び交う。と同時に僕らの胸も徐々に小さな波から大きな波へと変化する。色々な胸躍らす案が出たのだが、結局いつものコースに落ち着いた。いつものコースとボーリングをして、ファーストフード店で休憩する。そして最後はカラオケというものだ。やはりこのコースに落ち着くというのがいかにも僕ららしい。高校生の僕らにとってお金をかけることはできない。お金をかけずに満足いくまで遊ぶ方法を僕たちは考えだした。高校生という特権を最大限に活かし、割引を使うのだ。いつもは高校生であることに疑問を感じ、意味を見出せなかったのだが、このときばかりは最大に活用する。いたって意味のないことなのだが。電車に乗り、中心街に繰り出す。世間は普通の平日の昼間。その普通な日常の中に特異な僕らは価値を見出す。何か誰にもできないことをしている何とも言えないような満足感に浸るのだ。ボーリングをやり終え、疲れた体を休めるためにファーストフード店に移動する。決して高いものは食べない。120円ばかりのジュースだけを買ってそれで4時間、5時間ただ話しをするのだ。今思えば、何をそんなに話をすることがあったのかと疑問に感じて仕方がないのだが。その時間は魔法のようにあっという間に過ぎ去った。一階で注文し、トレイをもって三階に上がる。そして、心地よい日差しのあたる窓際を選んで五人が座る。春の陽気に僕たちの心も一層踊らされた。
94年12月のある日の放課後、洋平はいつものように辻君と帰宅の途についていた。今日のホームルームで古川先生から、小体連のサッカー大会の話を聞いたため、二人はその話で盛り上がっていた。小学校の高学年になると、年に1、2回行われる同じ区の小学校対抗のスポーツ大会に参加することができるようになる。洋平の小学校では、そのスポーツ大会を総称して小体連と呼んでいた。そして来月に行われる小体連の種目が、サッカーに決定したのである。洋平は自分が活躍できる場だと感じて、心が弾んでいた。
「俺らが出たら優勝間違いないな。」
「ほんまやな。でも他のメンバーがちょっと心配やから、運動神経ええ奴誘わんとな。」
そんな会話を交わしながら、二人は夕暮れの通学路を歩いていた。洋平と辻君はそれぞれ別のサッカーチームに所属していたが、試合で何度か対戦したことがあり、辻君の実力は洋平も認めていた。また一応はサッカーチームに所属しているだけはあって、洋平も他の生徒よりは、やはりうまかった。二人は早くもリーダー気取りで、ポジションや作戦について真剣に話し合った。やがて辻君の家に着いたので、洋平はさよならを言うと、試合で自分が活躍する様子を空想しながら、一人帰り道を歩いた。
翌日の放課後、小体連のサッカー大会の参加希望者は5年2組の教室に集まることになっていた。洋平と辻君が掃除を終えて教室へ入ると、すでにたくさんの男女が集まっていた。二人はすぐに男子メンバーの“チェック”を始めた。それから5秒も経たないうちに、二人は顔を見合わせてニヤついていた。
「ニッポンにサンコン、太郎に田川、剛君もおるやん。これはいけるな。」
「ほんまやな。他の奴も皆運動神経良いし。優勝間違いなしやな。」
確かに小体連に参加を希望するのは、毎回ほぼ全員が運動に自身のある者である。さらに今回はサッカーという人気の種目であることもあり、5年生のスポーツ自慢達が勢ぞろいする形になった。洋平は強いチームができたため喜んでいたが、自分があまり目立たなくなるのではないかと内心では少し心配になった。そして先生からスケジュール等の話を聞いた後、運動場に出てさっそく顔合わせを兼ねたゲームを行うことになった。初めの印象が肝心という思いや、女子が見ているということもあって洋平は張り切ってゲームに臨んだ。
試合が終わり解散した後、子ども達はそれぞれ同じ方向に帰る者同士で帰宅した。その時洋平は辻君と、道上君と一緒に帰った。道上君とは同じクラスで、話をしたことは何回もあったが、一緒に遊んだりする程は仲良しではなかった。しかし今日初めて道上君が、洋平の家の近所に住んでいることがわかり、それからというものの、毎日放課後に一緒にサッカーの練習をし、その後一緒に帰るということが続いた。そうするうちに、洋平と辻君と道上君の仲はすっかり深まっていった。冬休みに入っても三人は、一緒に遊ぶことが多かった。辻君の家でテレビゲームをしたり、公園で遊んだり、もちろんサッカーの練習も欠かさなかった。冬休みが明けたらすぐに、小体連の1試合目があるからである。洋平は、試合が待ち遠しくて仕方なかったが、少しばかり悩みがあった。5年生になってからすぐに、洋平は所属している少年サッカーチームのスタメンから、外されることが多くなっていた。このことは、小さい頃から運動に関しては何一つ不自由したことがなかった洋平にとって、とてもショックなことだった。それでも挫けずにサッカーを続けていたが、10月になると古川先生の影響で、休み時間にやっていたバスケットボールも本格的にすることにした。そして地域のミニバスケットボールチームの練習に、月に何回か参加するようになった。バスケットボールは洋平にとって、とてもおもしろく、サッカー以上に魅力的であった。12月になる頃には、サッカーよりも上達していた。バスケットがうまくなるにつれ、少年サッカーの練習に行くことが嫌になっていた。父親からも中途半端なことはせずに、どっちか一つに決めなさいと言われていた。そして洋平は、小体連の試合と、さらにその後にある少年サッカーの試合を最後に、バスケットボールに専念しようと決心した。本当に自分が好きなのはバスケットボールだと考えがまとまった後は、少し晴れやかな気分になり、小体連だけでなくそれまであまりやる気の出なかった少年サッカーの試合も、がんばろうという気が湧いてきた。暮れの静かな夜、洋平は塾の宿題をするために机に向かいながらも、頭の中でサッカーのイメージトレーニングをしていた。
3学期が始まるとすぐに、小体連のサッカー大会の1回戦が始まった。洋平の通う小学校の運動場はとても狭いため、試合は相手の小学校で行われる。バスで試合会場に着くとすでに、他の小学校が試合をしていた。今日勝てばこの試合の勝者と、来週試合をするらしい。ウォーミングアップをしながらも、誰もが横目で気にせずにはいられなかった。試合が始まると予想通り、終始優勢だった。洋平を中心に相手の攻撃を防ぎ、辻君を中心に攻める。他のどの学校よりも練習したという自身が、彼らにはあった。1点2点と次々に辻君がゴールを決めていった。洋平は周りで試合を見ている女の子の反応を、気にする余裕すらあった。というのも自陣にほとんどボールが来ないからである。守り専門の洋平には、少し退屈な試合であった。圧勝だった。
次の日は、教室中が昨日の試合の話で持ちきりだった。
「辻君4点も決めたんやって?」
「辻君がおったら絶対優勝間違いないな。」
洋平はさすがにおだやかな気分ではなかった。サッカーにおいては、攻撃が仕事であるフォワードばかりが注目され、誉められると以前から不満に思っていたからである。できることなら自分もフォワードになって、得点を決めたかった。しかしその願いは結局、少年サッカーでも小体連でも叶うことはなかった。洋平は専ら守備専門であった。それは洋平のあまり変化を好まない保守的な気質にはマッチしていたし、自分自身でも守ることは得意であった。それでもやはり、攻撃の中心になって注目を集めたいという思いが消えることは無かった。
それから数日後、いつもの3人で学校から帰っていると、道上君がふと真剣な表情で話しだした。
「最近さぁ、何か女子が俺の方見てくすくす笑ったり、手紙回したりしてんねんやんか。この前なんか俺が近づいたら手紙みたいなんあわてて隠してたし。めちゃ気になんねん。何か知らへん?」
洋平達は、全く知らなかったことなので返答に困ってしまった。まさか道上君に、そんな悩みがあったなんて思いもよらなかったことである。
「みっちゃんの気のせいちゃう?俺そんなん見たことも聞いた事も無いけど・・・」
「でももしほんまやったら許されへんなぁ。今度女子の誰かに聞いてみたるわ。」
二人は必死に考え出したセリフを懸命に喋った。道上君は、
「いやあんまり他の人には言わんといて。悠君達も知らへんのやったらいいわ。まあそのうち無くなるかもしれへんし。」
と言った後はうつむいたまま黙ってしまった。日はもうすっかり暮れてしまっていた。道上君と別れた後、洋平と辻君は連休明けの火曜日に、こっそり女子を問い詰めることにした。まだ決まったわけではないが、友達がいじめられていて黙っているわけにはいかないという責任感が二人にはあった。
月曜日は祝日であった。その日洋平はちょっとしたことで母親を怒らせてしまった。母親が再三風呂に入れ言っているのに、洋平はテレビに夢中になり言う事を聞かなかったからである。そしてとうとう洋平はその日、風呂に入ることを禁じられてしまった。思春期に入ろうかという年頃にとって、風呂に入らずに次の日学校へ行くということは耐えられなかった。学校でクラスメートに、臭いと言われようものなら大変である。そこで洋平はその日の夜、寝たふりをし家族が寝静まるのを待った。何度も夢の世界へ吸い込まれそうになるのを我慢しながら、3時間以上も布団の中でじっと耐えていた。そしてようやく全員が寝たのを確認してから、洋平はこっそり風呂場へ向かった。さすがに湯船の湯は、もうすでに冷めていた。せめて頭だけでも洗おうとシャンプーを手にとり、シャワーも無いので家族が起きないように静かにお湯を頭にかけた。その後やはり湯には浸かりたかったので、我慢して湯船に入った。しばらく湯船の中でボーッとしていると、急に近所で飼われている犬が一斉に鳴きだした。一匹が鳴きだして、それに反応したのではなく、あちこちの家の犬が一斉にである。しかも何かに怯えるかのような、不気味な声だったので洋平は何だか怖くなり、さっさと風呂から上がり布団に潜り込んだ。時計は午前1時半を指していた。
ドーンという大きな音と、キャーという母の悲鳴で洋平は目を覚ました。何が起きているのか全くわからない、何だか家が動いているようだ。洋平は怪獣が暴れている、夢か、と思ったが、父の「地震や」という言葉で現実と認識した。とにかく何が何だかわからない。電気が消え真っ暗闇の中、ゴゴゴゴという音と激しい揺れだけが感じられた。洋平はただじっと、布団をかぶって目を閉じて震えていた。
ようやく揺れがおさまって、父と母は洋平の無事を確認すると、隣りの部屋で寝ていた兄に声をかけた。兄の部屋には大きなタンスがあり、それが兄の布団めがけて倒れていたが、せまい家が幸いし、勉強机に引っかかって兄の体に達することなく止まっていた。結局兄は一度窓から外に出て、ようやく家族全員が集まった。その後余震が何度となく襲ってきて、洋平の心は恐怖心で溢れかえっていた。父は避難路の確保や、割れた食器の後片付けをし、母は貴重品を集めたり、防寒対策の準備をしていた。しかし洋平はショックで何もすることができず、ただ黙って布団の上に横たわっていた。外の様子を見に行こうとドアを開けた母が、震えた声で
「お父さん。向かいのアパートの一階がつぶれてる・・・」
と父に言った。一階がつぶれるとはどういうことなのか、洋平には想像もつかなかった。すると追い打ちをかけるように、女の人の叫び声が聞こえてきた。
「娘が中にいるんです。誰か助けて。」
洋平は何故こんなことが起きたのか、夢じゃないのかと思った。今日も朝から学校へ行って、サッカーの練習をするはずだったのに、一体何が起こっているのかわからなかった。必死に現実を受け止めようとしたが、11歳の心にはあまりにも重く辛いものだった。その後は、容赦なく何度も襲ってくる余震に震えながら、何も口にせずただ布団に潜っていた。
昼近くになると、近くの警察署に避難しようと父が言った。言ってみると近所の人もたくさん集まっていた。今日からしばらくこんな所で生活するのかと思っているのも束の間、自衛隊の臨時宿舎になるという理由で、全員警察署の体育館から追い出されてしまった。途方に暮れていると、祖母と甲子園に住んでいる母の兄が自転車ではるばる家まで来てくれた。無事を確認するとホッとした表情を浮かべ、甲子園は被害は大きくないからこっちに来いといってくれた。そして洋平一家はさっそく甲子園の祖母宅へ、車で向かうことになった。洋平の家の近所は、見るも無残であった。向かいのアパートだけでなく、友達の一軒家も斜めに傾いていた。真っ先に壊れそうな洋平が住むオンボロアパートが、ほとんど無傷なのは驚くより他なかった。上空にはいくつかのヘリコプターが飛んでいる。救援かと洋平は思ったが、どうやら取材のようだ。
いつもは甲子園まで車で30分程で着く。しかし今日は全く違う。道は車であふれ、一向に進まない。さらに道路が割れたり突き出たりしていることに加えて、信号が倒れ機能していないためかなり混乱状態であった。自主的に交通整理をしている男性の姿が、とても印象的である。洋平は早く甲子園に着いて欲しいと思っていた。ガラス越しに、悲惨な光景が否応なしに目に飛び込んでくるからである。道路に木が横倒しになっている。家が跡形もなく崩れている。何と高速道路が横倒しになっている。車の中のラジオで、今回の地震が「兵庫県南部地震」と名づけられたことを知った。震源地は淡路島だという。しかし洋平には、そんなことはもうどうでもよかった。
どれくらいたっただろうか、車はようやく祖母の家に着いた。祖母は洋平一家を温かく迎え入れてくれた。つもる話もあるが、まず晩御飯を食べることになった。カレーライスであったが、食器にはサランラップが巻かれていた。洋平は以前食欲がわかなかったが、無理やりかきこんだ。テレビには長田区の大火災の様子が映し出されている。テレビを通じて地震の様子を見て、大変なことが起きているんだと改めて実感するのだから不思議なものである。その日から洋平は、一人でふさぎこむことが多くなった。余震に怯え、車の走る音を余震と勘違いし、何分もその場から動けなくなることもあった。外に出ることは少なくなり、テレビやマンガに没頭した。少しでも現実から離れたかったのかもしれない。とにかくこの震災を機に、洋平の考え方や生活は微妙に変化した。
祖母の家に来てから数日後、夜皆でテレビのニュース番組を見ていると、今回の震災で亡くなった方や行方不明の方の名前が公表されていた。洋平はただボーっとテレビを眺めていた。日を追うごとに、その人数は増えるばかりである。お茶の入ったコップを手にとり、口に近づけたその時、テレビの画面に見覚えのある名前があった。
「道上なおや11歳 神戸市東灘区・・・」
洋平は帰りの電車に揺られていた。電車内にはルミナリエの広告が、たくさん吊られている。今年は10回目の開催だそうだ。今ではすっかりデートスポットになっていて、洋平は何だか寂しい思いがした。今年は初めてルミナリエに行くつもりである。そしてもうすぐ震災から10年が経とうとしている。10年前、転校をはじめて経験し、友達を亡くすという経験もした。あの頃は毎日がとにかく身の回りのことで精一杯で、悲しむ暇など無かった。しかし今当時のことを思い出すと、胸にあついものが込み上げてくる。10年という歳月が流れ、あの悲劇の記憶は徐々に風化しつつあるように感じられる。洋平は震災によって成長もし、同時に傷も負った。あまりにも大きな、予期せぬ変化に押しつぶされそうになったこともあった。だが、思い出すのも嫌だった震災のことを、今ではしっかり見つめ直すことができる。学んだことは数え切れない。洋平はこれからも、毎日を懸命に生きていく。駅に着き、いつもの帰り道を歩きながら呟いた。
「ルミナリエ楽しみやな。」
I see trees of green , redroses too .
I see them bloom for me and you .
And I think to myself , " What a wonderful world ! "
I see sky of blue , and clouds of white ,
The bright blessed day , the dark sacred night .
And I think to myself , " What a wonderful world ! "
The colors of the rainbow ,
so pretty in the sky ,
are also on the faces of people going by .
I need friends shaking hands , saying , " how do you do ? "
They are really saying , " I love you . "
I hear babies cry. I watch them grow .
They'll learn much more than I'll ever know .
And I think to myself , " What a wonderful world ! "
Yes , I think to myself , " What a wonderful world ! "
まったくもって人生はすばらしい!
今日からが僕と包丁との新しい旅立ちのようだ。
「はあ?」
思いがけない一言に、声を荒げた。週末の楽しみである、飲み屋での後輩との一杯。最近は仕事も増え、お茶の間に登場する機会も多くなった。が、その分、良くも悪くもこれまでのような自由が制限されていく。
この仕事をしようと思ったのは、大学のクラブの新入生歓迎パーティーで友達とネタをやらされたのがきっかけだった。自分はもともと関西の出身ではなく、幼少の頃から吉本新喜劇を見てきたわけではない。「お笑い」の約束事もなにもわからない。これまではテレビで芸人さんたちのネタを見て、ひたすら爆笑する側だった。しかし、いざ自分でネタを作ってみると、なかなか思い浮かばず、「人を笑わせる」ということの難しさを痛感させられた。と、同時にいざ人前でネタを披露すると、自分のネタで人を爆笑させる心地よさに快感を覚えるのであった。
それからというもの、お笑い芸人を見る目が変わった。あんなにも簡単に人を笑わせることができる彼らに対して、尊敬の念を抱くようになった。自分が「笑われる」のではなく、人を「笑わせる」ということ。いつしか自分も人を「笑わせる」側になりたいと思うようになった。何かのイベントでネタをやる機会があれば、率先して友達に声をかけ、みなの前でネタをやった。徐々にコツをつかみつつあったこともあり、周りの評判は上々だった。このままお笑いでメシを食っていけたらいいなと思うようになり、大学に通いながら、お笑い芸人養成学校にも顔を出すようになった。
しばらくして、同じ養成学校の男とコンビを組むこととなった。自分自身、確固たるプライドを持ってお笑いをやっている。中途半端なやつならコンビは組むまいとさえ思っていた。いわれたとおりの部屋に通されると、そこですでに相方らしき人物が待っていた。当時は男前の若手芸人が珍しくなく、そのためか女性にも非常に人気のある職業だったが、自分がコンビを組むなら、いかにも「お笑い」という雰囲気が漂っているような個性的なルックスをしているやつがいい、と思っていた。ところが、こちらを振り向いたときの第一印象は「失格」だった。自分が求めていたような個性的な要素は何一つなく、見るからに今風の、普通の若者であった。自分の中でひとつため息をついて、お互いの自己紹介を始めた。聞くところによると、以前にコンビを組んでいたことがあるらしい。正式なコンビを組んで活動したことがない自分よりも、いうなれば「先輩」である。自分の相方というだけで厳しい注文を付けていたことを少し反省した。コンビ名は「ゴンザレス」。今までありそうでなかった名前だ。自分はツッコミを担当し、ネタも書くことになった。以前から人間観察には自信があった。独特の視点で人間を見ていると、非常に面白い。何気ない動作の一つでも、そこに手を加えれば、必ず「笑い」になる。ネタの作り方はこれでいこう、と心に決めていた。相方はさすがに経験豊富なだけあって、第一印象とは打って変わって「合格」だった。強弱やテンポ、間の取り方は絶妙だった。経験があるというのである程度はあてにしていたが、予想以上に技術のある、優秀な相方に恵まれることとなった。
自分のネタに自信を持っていたせいか、売れるまでにたいした時間はかからないのではないか、と思うようになった。だが、舞台で他の有望な若手芸人たちのネタを見て、それでも自分たちが一番おもしろい、とはなかなかいえなかった。舞台を共にする全員が、お笑いに情熱を持ち、自分自身の誇りをかけて一撃必笑のネタを作るのである。そこから頭一つ抜き出るためには、まだまだ自分たちには、足りない部分があるように思われた。
大学卒業後も、精力的に活動を続けた。お笑い芸人養成学校も無事に卒業し、晴れて事務所に所属することになった。だが若手芸人である。収入はほとんどなく、これまで続けてきたアルバイトは相変わらずこなさなければならなかった。ひとむかし前なら、こういったいわゆる「下積み」時代が長く続き、ほんの一握りの芸人だけが、その道で生計を立てていけたものである。自分自身、決して楽な道ではないことを承知で選んだ道である。地道にアルバイトをしながらの活動は覚悟をしていた。
しかし、あっけなく「下積み」時代は幕を下ろしたのである。空前の「お笑いブーム」の到来。テレビ番組もバラエティーが増え、それに伴って、多くの若手芸人たちが、芸能界へと足を踏み入れていった。ゴールデンにもずいぶんとお笑い芸人たちが顔を出すようになった。「お笑い」は注目を浴び、世間のお笑い芸人に対する認知も変わってきた。以前のように後ろ指を差されることはなく、女性にも大人気の職業となっていったのである。
そうした好景気の波に乗ることができ、徐々に大きな舞台に出してもらえるようになり、テレビ出演も増えていった。無名時代と違い、街で声をかけられることも多くなった。ちやほやされるのは決して嫌いではないが、ファンの中で芸人のプライベートを考えられる神様のような人はめったにいたものではない。以前のように自由に過ごせなくなったのは煩わしかった。そうしているうちにも、テレビ番組のレギュラー出演などの仕事は増えていき、スケジュール帳は日に日に黒く埋められていくようになった。好きで始めたことではあるが、今やオフの過ごし方を考えるのが何よりの楽しみとなってしまっている。
そんな折のつかの間の休息である。のんびりと羽を休めるつもりだった。いつもの行きつけの飲み屋に後輩を2〜3人連れて行った。
「おっ。いらっしゃい。」
すっかり顔なじみの大将があたたかく出迎えてくれた。自分がこうして後輩を連れてきているように、大学時代から先輩につれてきてもらってもらった店である。狭い店内には、まだ真新しい自分のサインが飾ってある。店内にはカウンター席にサラリーマン風の男が2人座っているだけで、他に客の姿はない。いつもの座敷席にどっかりと腰かけた。思わず出てしまった声が「おっさんくさい」と後輩に突っ込まれる。
「くさいも何も十分おっさんや。」
「ほな僕はめちゃめちゃおっさんじゃないっすか。」
自分よりも年上の後輩芸人がすかさず切り返す。
「そや。めちゃめちゃおっさんや。」
お笑い芸人の一行らしく、酒の入らないうちから会話が弾んでいる。
そもそも、お笑いの世界の上下関係は非常に厳しい。年齢や実績よりも、芸歴がすべてなのである。例え30歳のおっさんと13歳の中学生であっても、芸歴の長いほうが「先輩」であり、短いほうが「後輩」なのである。学生時代から体育会系の上下関係を経験してきたが、昔から上下関係は苦手である。ただでさえ苦手な上下関係も、お笑いの世界のそれはいっそうややこしい。吹かせたくもない先輩風だが、たとえ、プライベートの打ち解けた場であっても吹かせ続けなければならない。
「おまちどうさん。」
頼んでいた生ビールが運ばれてきた。今にもあふれそうなふっくらとした泡が食欲をそそる。
「とりあえず乾杯しましょか。」
腹を減らしていたのは自分だけではないらしい。コツン、という軽い音とともに、一斉にビールを流し込んだ。
運ばれてくる料理を食べながら、後輩たちの私生活の話を聞いていた。そこで後輩の一人から相談を持ちかけられた。不思議と、酒の場はお悩み相談室になりやすいのである。
「実はね、僕、結婚しようと思てるんですよ。」
予想しなかった相談内容に一瞬動きが止まった。その後輩はまだまだ売り出し中で、十分な稼ぎがあるわけではなかった。当然、アルバイトをしながらの生活である。普通、お笑い芸人の結婚というは、仕事が軌道に乗り始めてからするものである。収入が安定しないうちは、まず自分が売れることを考えなければならない。
「子どもができてしもたんですよ。」
なるほど、世に言う「できちゃった結婚」である。責任をとって、きちんと結婚するといういきさつがあった。だがしかし、この時期に結婚はいかがなものか。自分の感覚ではありえないことである。
「せやけどお前、仕事はどないすんねん。」
思わず、口をついて出てしまった。
「いや、続けますよ。ただ、今よりバイトがんばらなあきませんけどね。」
覚悟したように淡々と言ってのけた。今はお笑い芸人にとって、完全に好景気である。が、いつまで続くかはわからない。一度ブレイクした芸人が飽きられて失業するというのは、よくある話である。そのためにも、チャンスの広がっているこの時期に、精力的に活動し、確固たる地位を築いておかなければならないのだ。アルバイトで負担が増えてしまっては、芸人としての活動は規模を縮小せざるをえない。それならいっそのこと・・・と考えてしまうのが普通である。
ふとその後輩のほうへと目をやると、自分が頭の中で考えているような不安は表情には一切表れていない。それどころかまるで仏さんのように穏やかな表情をしている。後輩自身の中では完全に解決されている問題のように思われた。
「相手はどんな人なん?」
結婚は、普通、めでたいことである。辛気臭さを漂わせていた場の空気を軌道修正した。
「いや、普通のOLですよ。」
「写真とかないの?」
たまにこうして一緒に飲みに行く間柄ではあったが、女性関係については詳しく知らなかった。見せてもらった写真には、後輩には不似合いだと思われるほどの美人の姿が映っていた。大きなピースからは、明朗な人柄が読み取れた。若手のお笑い芸人が今やこんな美人の嫁をもらえるようになったのである。お笑い好景気はすごいな、と思い知らされた。
「もったないて。お前には。」
「よう言われます。」
おそらく自分のほかにもいろいろな人に見せてきたのだろう。うれしそうな表情からは、私生活の充実ぶりが伝わってくる。
「ちょお、今度その子つながりでコンパしようや。」
もう一人の後輩が目を輝かせながら幸せのおこぼれを狙っている。
「あかんて。お前なんかとコンパしたら俺のかみさん友達おらんようになる。」
何でやねん、といわんばかりにチョークスリーパーが決まっている。心のそこから笑っている気がする。最近はこういう時間のほうが「生きている」という実感がある。口にしたグラスの中身がなくなったことに気づき、後輩が気を遣ってくれた。すっかりいい気分になってきているので、大好きな「黒丸」のロックを注文した。今日は朝までとことん騒ごう、と思った矢先のことである。
「おい、自分ゴンザレスの片割れやろ?」
言葉遣いにむっとして、その方向に向き直ると、いかにもガラの悪そうな大学生風のグループがそこに立っていた。芸人のプライベートを考えられる神様はいないくせに、こういった悪魔のようなファンはちゃっかりといるのである。先ほどまでの円満な座敷は突然の寒波に見舞われた。お笑いブームが到来し、お笑い芸人の社会的地位も向上したとはいえ、依然としてこういう輩は途絶えない。声をかけてきたらしい背の低い男が続ける。
「なんか面白いことせえや。」
最低だ。お笑い芸人というのは、ああ見えて仕事中に非常にたくさんのエネルギーを消費している。いつでもボケられるように準備しておかなくてはならないし、番組内での自分の役割、つまりキャラというものを無理やりにでも演じなければならなかったりもする。何人たりとも、お笑い芸人のプライベートに踏み込む権利は持っていないはずである。ましてや、せっかくの息抜きにいつもの仕事を求められてはたまったものではない。
「お前らなあ。」
さっきまでチョークスリーパーをしていた血の気の多い後輩の行動に、逆に頭を冷やされた。こういう連中につきあっていては、体がいくつあっても足りない。我慢してやり過ごし、芸人らしくテレビ番組でネタにして反撃をお見舞いしてやればいい。
「やめやめ。」
「こっちはプライベートできてんねんから、勘弁してくれや。」
すでに怒りは収まっていた。いつものように、大人の対応ができた。後輩を連れている先輩として、模範的な行動ができたことにすこしホッとした。
「なんや、しらけるなあ。」
相手の安い挑発に、後輩がピクリとしたが、目でそれをさえぎった。時間が経っていたこともあり、店を変えることにした。大将はまるで自分に非があるかのように渋い顔をして何度も「ごめんね」のジェスチャーをした。何度も断ったがその日の勘定は無理やりに半額にさせられた。
「飲み直そか。」
「そっすね。」
そういってみたものの、いったん沈んだ雰囲気はもとには戻らない。わかってはいたものの、このままでは、収拾がつかない。とりあえず、ゆっくりと酒が飲めそうな店を探して歩くことにした。おかしな空気を取り繕おうとすればするほど、ますますおかしな空気に包まれていく。寒さで、一気に現実に引き戻されていく気がした。さきほどまでは、充実感で一杯だった後輩も、しっかりと影をおとしている。次の店では、さっきの店では聞けなかったような本当の「お悩み相談室」になるかもしれない。先ほどの自分が「生きている」と感じられたのが嘘のようだ。「笑い」が日常化しすぎてしまったための職業病だろうか。3人が同方向を向いているようで、ばらばらに歩いている気がする。
「おー寒っ。」
冷たい風に思わず首を引っ込めた。まだまだ、次の店は見つかりそうにない。