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大阪教育大学 国語学特論2 受講生による 小説習作集

詩織

2004年度号
プロローグ22109
僕は恋をした22108
ルミナリエ22110
It's a wonderful world !22107
はしご22101

プロローグ
22109

「・・・死にたい」
 それは口に出すことはおろか、思うことさえ許されなかった言葉のはずだった。そして私の最も嫌いな言葉。
 でもこのときばかりは何かが違っていた。死にたいときに死ねないということが最も不幸なことのように思われた。

 まぶしい。それに何だか窮屈だ。隣に誰かいる?誰?あれ・・・ここはどこ?そうだ、思い出した!良かったぁ。どこかで倒れ込んだのかと思ったよ。って、全然良くなんてない!よく知りもしない男の部屋でついに朝を迎えてしまったのだ。
 智恵の隣で皮肉なほどにさわやかな朝の光を顔いっぱいに浴びながら寝息をたてているのは北上晃一だ。智恵と同じバイト先で二つ年上のN大生。ここら辺では名の通った国立のN大に通う晃一は確かに頭のいい人だ。豊田智恵はS大生。同じ国立でも少しレベルは下だった。智恵が一人で時間をもてあましていると、ようやく晃一も目を覚ました。
「おはよう。早いね。」
眠そうな声。そんな声出すんだ。
「あ、おはようございます。なんだか眠そうですね。まだ寝てていいですよ。」
「いや、大丈夫。俺も起きるよ。今日は何も予定ないの?」
「あ、はい。」
「じゃ、もうちょっとゆっくりしていく?あ、飯でも食いに行こっか。」
何?この上まだ誘おうっていうの?
「いえ、もう帰ります。お邪魔してすみません。」
ろくに化粧もしないで出て来てしまった。それほど慌てていただろうか?いや、そうでもない。正直なところ、あまりよく覚えていない。智恵の目の前を窓越しに物凄い速さで見慣れない街並が過ぎ去っていく。とはいうものの、ほんの数時間前は反対に流れていたのだが。同じ景色でも進行方向が違えばこんなに見え方が変わるものだろうか?いや、原因はそれだけではないはずだ。智恵の身長のせいか、少し高めの吊り革にその身を委ねながら、智恵は一刻も早く知らない街から抜け出して家に帰りたいと願うしかなかった。

 六月十三日土曜日。土曜日は一週間のうちで智恵と晃一が唯一バイト先で顔を合わせる日だった。この日のバイトあがり、晃一は自慢のバイクで家まで送ると智恵を誘ってきた。実は智恵もバイクの免許を持っている。バイク好きなのだ。悪い話ではない。バイト先から家まではそう遠くないし、軽い気持ちで送ってもらうことにした。
 小さい頃から智恵には男友達が多かった。というよりも、智恵自身女友達といるよりも男友達といるほうが気が軽だったのだ。もちろん二つ上の晃一のことも“男性”としては見ていなかった。だからこそすぐに誘いにのってしまったのだ。
 バイクは前に乗っても後ろに乗っても楽しい。バイト先から智恵が一人暮らしをしているマンションまでのほんの数分、智恵は満足だった。正直運転者が誰かなんて問題ではなかった。そろそろ暑くなってきたところに風が心地よく智恵の頬を撫でては去っていった。
「ありがとうございました。」
「いや、いいよ。俺バイクで走るの好きだし。」
「今日はお疲れ様でした。気をつけて帰ってくださいね。」
「うん。じゃまた今度。あ、次の土曜バイトが終わった後に飯でも食いに行こうよ。おごるから。」
「え、いいんですか?ありがとうございます。楽しみにしてます。」
またもや智恵は簡単に返事をしてしまった。

 六月二十日土曜日。バイトが終わると、晃一は智恵をバイト先に残したまま一度家に帰った。再び智恵の前に現れた晃一は普段見せないラフな格好で車のハンドルを握っていた。
「乗って。」
そう言って運転席に座ったまま助手席のドアを開ける。
「お願いします。」
「適当に飯でも食って、その後俺の知ってるいい感じのバーに行こう。」
「あ、はい。」
二人を乗せた白い箱が軽快に走り出す。どれくらい走っただろうか。もうすでに智恵の知らない土地であることは確かだった。そして二人はスパゲッティ専門店の駐車場に降り立った。
 車内でも店内でも不思議と二人の会話が途切れることはなかった。週に一回、しかもバイト先でしか会わない仲だから、そんなに会話が弾むとも思えなかったが。晃一はそれまで智恵が抱いていた無口で無愛想なイメージとは異なり、よく話をしてくれた。しかもとても楽しそうに。だから思わずこっちも笑ってしまう。不思議な力を持っている人だと思った。でも智恵にとってはやはりそれ以上の存在ではなかった。本当はよく話す人だったんだ。という感想しか抱かなかった。
 二度目に車を降りたとき、智恵の目に晃一が言った雰囲気のいいショットバーが映っていた。中に入るやいなや慣れた口調で注文をする晃一。席につくなり煙草をふかす晃一。それでもショットバーの雰囲気とは裏腹に、智恵の目にはバイト先の先輩という存在以上に映ることもない晃一がいた。
 智恵はそれほどお酒が好きという訳ではなかった。しかし飲めないことはない。この日もすぐにさき程とは異なる色鮮やかなカクテルを目の前にしていた。ふと晃一のグラスを見ると先ほどからあまり変化がない。
「俺、運転するからさ。」
「あ、そっか。じゃ、私も・・・・・・。」
「何で?せっかく来たんだからどんどん飲んでよ。俺のことは気にしなくていいから。」
そんなことを言われたって一人でガブガブ飲めないし・・・。とは言いながらちゃっかり三杯目の注文は終えているのだ。バイトでの疲れも手伝って、智恵はすぐに気分がよくなってきた。気付けば話題は過去の恋愛経験に変わっていた。嫌な展開だと思いながらも先輩を目の前にすると話さなければいけない気がした。
「前の彼氏は二つ上だったんですよ。向こうも一人暮らしで。最初はよかったんですけどね、何か違うなって思った瞬間急に嫌になってしまって。結局すぐに終わっちゃいました。」
「へぇ。なんかその人かわいそうだね。なんて。でも好きだったんでしょ?」
「それが、正直分からないんです。あまり好きじゃなかったのかも。言われたからオッケーしたって感じだったし。でもキスは好きでしたよ。」
何を言ってるんだろう。もしかして私酔ってる?あぁ、でももう遅い。
「キス?キス好きなんだ。」
もう早く帰りたい。目の前で楽しそうに話す晃一。でも私は楽しくない。いつの間にか愛想笑いを続けている自分がいた。
「もういい?じゃ、そろそろ帰ろっか。」
「はい。ごちそうさまです。」
早く帰って寝よう。このとき智恵は救いの女神をはっきりと捉えたように思った。
 闇に浮かぶ白い箱。光の帯だけを残して現れては消えるビルの数々。いつの間にか二人を乗せた白い箱は智恵と付き合いの長い風景の中を走っていた。やっと帰って来れたという安堵感が一気に智恵を取り巻いた。
「ありがとうございました。おやすみなさい。」
車内から出ようとしたそのとき、智恵はもの凄い力で腕をつかまれた。
「え?」
そう言って振り返った瞬間、救いの女神ではなく、晃一の唇が智恵のそれを捕らえていた。

幕の内弁当

 六月二十二日月曜日。キャンパス内を友だちと歩いていた智恵の携帯が震えた。
「・・・。」
「どうしたの?」
普通すぎる質問が智恵の中の面倒くさい思いを最大限に引き出した気がした。
「告られた。」
「え?誰?だれぇ?」
やっぱり面倒くさい。
「バイト先の先輩。」
「いいなぁ。どんな人?付き合うの?」
「大した人じゃないよ。見た目怖いし、無愛想でみんなにはあまり好かれてない感じ。・・・意外とそんなんじゃなかったけど。でも好きではないな。けど別にいっかって感じもする。ダメだったら別れればいっか。」
「またそんなこと言ってる。」
純粋な笑顔を送ってくれる友だち。でも私は上手く笑顔を作れないでいる。言える訳ない。今日晃一の家から大学に来たなんて。
 何も言わずに晃一の家から出て、電車に飛び乗った。そりゃあ晃一は気になるよね。バイクにしろ食事にしろ、簡単に誘いに乗ってきた年下の女。イケると思って当然だよね。
<オレラッテドウイウカンケイ?>
<サァ?ナンデショウネ。>
<サァッテ。ツキアワナイ?>
<・・・イイデスヨ。>
あ〜ぁ、また変な始まりだ。大学に入ってからこんなのばっかり。またすぐ終わっちゃうよ。大学になったら大人の恋愛しようなんて夢物語を描いてた私はどこにいったんだろう?友だちからとかなんとか言って断ればいいのにそんなこともできないなんて。どっちにとっても最悪だよ・・・。

 え・・・?けっこういい感じでここまで来たと思ったのに。何も言わずに家を出て行ったまま連絡も無しかよ。誘いにはすぐ乗ってくるし、なかなか話も弾んでたし、結構イケてると思ってたのに。何だよそれ。でも昨日作ってくれた飯美味かったなぁ。なんだかアイツ、去年バイト先に初めて来た時より可愛くなってきたし。そういや、初めてバイト先に現れたときは男かと思ったよ。
「おいって!北上!聞いてんのか?」
「ああ。すまん。何?」
「お前、何考えてんだよ。珍しく真剣そうな顔して。」
「珍しいは余計だよ。あとそうも。いや、彼女できるかもってね。」
「は?何だよそれ。お前この間別れたばっかじゃん。もう次?」
「うん。まだ分からないけど、あと一押しって感じかな。」
「へぇ。お前もよくやるよな。で、その子いくつ?」
「二つ下。」
「N大?」
「S大。」
「二つ下のS大生なんてどこで知り合ったんだよ?」
「バイト先。」
「へぇ。で、 友だちの話も聞かずに真面目に最後の“押し”を考えてるって訳だ。」
「ま、そんなところかな。」
<オレラッテドウイウカンケイ?>
<サァ?ナンデショウネ。>
<サアッテ。ツキアワナイ?>
<・・・イイデスヨ。>
これが真面目に考えた押しかよ・・・。自分でも驚く程普通だ。<イイデスヨ>って。それにしても変なヤツ。今までこんなタイプいなかったし。前の彼女との短い付き合いを終えたばっかりなのに、またすぐに終わってしまうかもな・・・。まあいっか。今ちょうど退屈な時期だったし。

「はい。」
「何これ?」
「この間のクリスマスのお返し。」
「ほんと?ありがとう。空けてもいい?」
「どうぞ。気に入ってもらえるといいんだけど・・・。」
相変わらず晃一はロマンチック男だわ。でもそんな分かりやすいところが子どもみたいでかわいいかも。車で××山に行こうなんて夜景をバックにプレゼントのお返し渡しますって予告してるようなもんじゃない。
「わあ。なんかかっこいい。ありがとう。」
「つけてみてよ。あ、俺がつけてあげる。」
「どう?」
「うん。似合ってるよ。」
「ほんと?ありがとう。」
本当は両手いっぱいにすくえそうな夜景のせいで何かよく分からなかった。ただ、勉強はいくらでもできるのに、恋愛になると急に人が変わったようにかたくなる頭で必死に考えてくれたことが嬉しかった。
 なんだかんだ言って晃一の寝顔を初めて見た日からもう半年が経っている。すぐに終わるだろうと予想していた付き合いもなかなか悪いものではない。お互い多少の不満はあるけど、何でも話し合おうって決めたし、相手を思いやることによって解決されている部分もあるのではないかと思える程になっていた。
「俺ら、もう半年も付き合ってるんだね。」
夜景を目の前にしているからか、目を輝かせて晃一が静に話し始めた。
「うん。私正直こんなに続くとは思ってなかったよ。」
「え?まじで?実は俺も。大学入ってから何人かと付き合ってきたけど、どれも短くてさ、もう三回生だし、そろそろ真面目に付き合える人見つけたいなと思ってたんだよね。」
出た!得意のあからさまな台詞。晃一の表情が笑顔かどうかも判別できないほど光と闇の一見対照的に見えるコンビが私の目を捉えて離さない。でも私には分かる。晃一の表情が。半年も経ったんだ。私にとっても久しぶりの長い付き合い。きっと二つ上ということを忘れさせるいつもの笑顔でこっちを見ている。
「俺、智恵とだったらこの先長く付き合っていけそうって思う。それで、お互いに大学を卒業して、俺が稼げるようになったら一軒家を買って住みたいな。智恵はそう思わない?」
これ系の質問困るんだよね。確かに晃一のことはすごく好きだけど、いつまで付き合ってられるかなんて分からないし、この先まだまだやりたい事もあるし。そもそも結婚なんてまだまだ考えたことないよ。
「そだね・・・。」
「うん。これからもよろしくね。」
こんな時の晃一の笑顔にいつも負けるんだよね・・・。

「北上君?大丈夫ぅ?」
「ああ。ごめん。昨日からちょっと風邪っぽくて。何?」
「昨日の実験のレポートなんだけどぉ、一つどうしても分からないところがあるの。教えてくれる?」
相変わらずおっとりした話し方だな。智恵とは大違いだ。
「うん。いいよ。どこ?」
「ここ。この数値が実験結果とどうしても合わないの。」
きれいに塗られた爪が目立つ指で必死に差してはいるがそれでは到底晃一の目にとどかない。
「・・・。これ、式が間違ってるよ。」
「え?ほんとぉ?」
そう言いながら長いピアスをぶら下げて真美は晃一に顔を近づけてきた。
「・・・。え?どこぉ?」
ふっくらと白い肌をして真美は顔をしかめ続けている。
「あ!分かった。なぁんだ。ここかぁ。ごめん、ごめん。ビックリしたぁ。」
マジかよ。バカっていうか、間抜けっていうか・・・でもちょっと可愛いかも。智恵には絶対にないところだな。やべぇ、俺さっきから智恵と東條比べてるよ。

「おいっ!」
「痛ぇ!なんだよ?」
「いいねえ、頭がいい人は。女の子と気軽に話せるし。」
「なんだそれ。それよか、昼飯まだ?食いに行こうよ。」
「あれぇ?真美ちゃんと行かないのぉ?俺らは寂しく男だけでいただきまぁす。」
「・・・。」
くだらねえ。確かに少し可愛いかもとか思ったけど、そんなんじゃないし。俺には智恵がいるんだ。
「おい、待てよ!」

「今日の晩ご飯は何がいい?」
「そうだな・・・ハンバーグ。」
「また?ほんとにハンバーグ好きだね。前はチーズをのせたから、今日は和風にする?」
「和風?美味しそう。すっげえ楽しみ。」
「じゃ、帰り買い物して帰ろう。」
「うん。」
晃一の好きな食べ物イコール子どもが好きな食べ物。外食するときは大抵ラーメンか回転寿司。私が作るときはハンバーグを中心に、ほとんどの場合肉料理をリクエストされる。トマト嫌い。大きな子どもだ。でもこの子はいつも私が作った料理を満面の笑みと共に残さず食べてくれる。その姿が見たくて、もともと気にしていた体重を余計に気にしながら肉料理を頬張る私がいる。

 いいねえ。そうやってテレビ見て大笑いしてたら勝手にご飯が出てくるもんね。私はあなたの何?召使?晃一と結婚?冗談じゃない。あれ取って。あれしておいて。あれが食べたい。ここに行きたい。お金がない。私はあなたの何?激しく上下運動を繰り返す私よりひとまわりもふたまわりも大きい背中が時々憎らしくなる。最近増えてきたかも。晃一に対する愚痴。決して音に表されない愚痴。でも多分顔にすぐ出るんだよね。私が晃一の愚痴を出すまいと戦っている時決まって晃一は得意の甘えた声で私に近づき、キスをしてくれる。それで私の機嫌が直ると思っているのだ。まあ実際直るとは言わないまでも多少よくはなるけど。
「晃一!机の上片付けて!」
学生が住むワンルームマンションなのにキッチンに立つと自然と声が大きくなってしまう。まるでエプロンをつけた新妻が両手がふさがっている時夫に助けを求めるみたいだ。
「智恵、できたよ。」
そんな報告いちいちしに来なくてもいいって。
「はあい。じゃ、これとこれを運んで。」
ついついのってしまう。いつまでこんな気持ちとは裏腹な言葉を吐き続ければよいのだろう。なんだか最近本当に疲れてきたかも。

『・・・。』
何故か分かった。その電話の内容。受話器の向こうで晃一が言わんとしていること。そして晃一の表情が。
『この前のバレンタイン、俺が試験勉強に忙しくて一緒に過ごせなくてごめん。今凄く忙しくてさ、体力的にも精神的にも疲れてるんだよね。勝手なこと言ってるのは承知の上なんだけど、少し距離をおかない?』
何?その言い訳。
『はっきり言っていいよ。』
『何を?』
知ってるよ。知ってるよ。
『真美ちゃんが好きなんでしょ?』
まだ。まだ泣かない。この電話が終わるまでは。
『・・・。』
この間晃一の部屋で見つけたんだ。空になったチョコレートの入れ物。
『いいよ。別れよう。』
『待って、別れたい訳じゃないんだ。少し距離をおきたいなと・・・。』
そうやって私をストックしておくつもりなんだ。そんなことさせない。私はそんなに都合のいい女じゃない。
『いや、別れよう。』
『分かった。ごめん。本当にごめん。』
負けた。あの女に負けた。だから男はバカなんだ。あんなバカな女がいいなんて。
『じゃ。』
ブチッ!
悔しいからこっちから電話を切ってやった。
いいんだ。丁度晃一には腹が立ってきたところだったし。頭とは裏腹に次から次へと涙が頬を伝っては床に落ちてゆく。これを滝のようにって言うのかな?こんな時に・・・。やばい、苦しくなってきた。だめ・・・急に住み慣れたこの部屋がとてつもなく窮屈に思えてきた。まるでたった今ふられたばかりの私を追い出そうとしているかのようだ。そうだ。ひと走りしてこよう。頬に突き刺さるような風をいっぱい受けて、涙も何もかも止めてしまおう。
 大好きなエンジン音が聞こえない。聞こえてくるのは受話器を通して小さくなった晃一の声。『ゴメン。ホントウニゴメン』謝るくらいなら他の女なんて好きにならなきゃいいじゃない。気づいていない訳ではなかった。晃一はいつからか真美ちゃんの話をよくするようになっていた。気に入っているんだなとも思った。でもそれ以上は特に何も感じなかった。甘かった。
 見慣れた風景が後方に駆けて行く。寒い。顔が冷たい。手が冷たい。動かないよ。真夜中の国道は車の通りが非常に少ない。時折すれ違う箱の運転手に顔を見られてはいまいかと多少不安になる。そうだ、車にはねられて死ねばいい。死にたい・・・。死にたい・・・。
 
傷一つ負わずに戻ってきてしまった。いつもの白塗りの壁。いつものベッド。そしていつもの姿見に映るいつもとなんら変わらない私。変わっているのは目の周りが赤く腫れていること、熱っぽいこと、・・・彼氏を失ったこと。

エピローグ

 八月二十三日。驚くほど暑かった今年の夏の勢いはどうやら衰えを知らないらしい。突然チャイムが部屋いっぱいに鳴りひびいた。今日は直樹来るって言ってたっけ?部屋の割りに重厚なドアを押し開けるとそこには大きな子どもが立っていた。約五ヶ月ぶりの再会だ。やってしまった。直樹の忠告を守らなかった罰だ。
「すぐにドアを開けるのは危ないよ。変な勧誘とか来るかもしれないし、一度のぞき穴から誰が来たのか確認した方がいいよ。」

「入っていい?」
何を言っているの、この人は?
「外行こう。」
「誰か来てるの?」
「ううん。」
来てなくても、絶対あなたなんかを部屋には入れない。
「ちょっと待って。」
部屋の鍵を閉めてゆっくりと歩き出す。晃一はおそらくよりを戻すために来たんだ。真美ちゃんと上手くいかなくて・・・。何でもお見通しだよ。別れてだいぶ経つのに皮肉にもまだ何をしようとしてるのか、何を言わんとしてるのかがはっきりと分かるよ。でも晃一は気づいているはず。もう二度と元には戻れないということを。鍵を閉める私の仕草を見たから。鍵を閉める私の左手の薬指に光るリングを見たから。

僕は恋をした 
22108

 僕は恋をした。心がやんわり痛む。何かが弾けそうで、でも完全には弾けることがない。楽しいようでとても苦しい気持ち。やはり僕は恋をした。ふとつぶやく。「今年もサクラがきれいに咲いたな・・・」
 サクラが満開の季節。学校への通学路を足早に急ぐ。新学期。僕はこの道を二年間毎日歩いている。道はただまっすぐにのびる。しかし、時々の表情をみせ、春は桜並木道、夏はせみの宿屋、秋は黄色い扇子屋さん、冬は白銀の世界を作り出す。僕は一歩一歩踏みしめながら学校へと向かう。教室に入ると何も変わらないいつもの光景がある。僕はなぜか落ち着きを取り戻す。
「おっす、おはよ!」
「お〜和也、うっす!」
友達の輪の中に入っていく。何気ない、何の意味ももたない会話が僕を包む。
「今日の試験の数学T、まじやばいねんけど・・何も意味不明やし」「そんなん俺もやって。二人で赤点とろうや」
「いいよなぁ、田中は。お前数学できるやん。」
「まぁ〜ね、」
「その嫌味ったらしい言い方が気に食わんわ」
いつもの会話。そしていつもの友達。何も変わらない。でも僕はそこが最も居心地がいい場所だと思う。そして僕にとってかけがえのない世界なのかもしれない。友情などというものを僕は信じなかった。友情は何程のものか、たとえ悩みを相談したとしても、励ましや慰めはしてくれるけど、本当に心底言ってくれることなんてない。みんな自分が大切で、そして絶対なのだ。友情は表面的な人間関係をつなぐ潤滑油でしかないのだ。僕はそう感じていた。でも、こいつらは違う。何気ない冗談の中にも何か温かい本当の言葉というものを感じる。そして自分にとって信頼してもいいかなっと思えるそんな奴らなのかもしれない。
「今日さ、試験昼で終わるやん!昼からご飯食べに行こうや」
「お〜いいやん。ぱ〜っと行こうや!みんなも行くやろ?」
「おう、行く行く」
僕たちにとって試験なんてものはそう大きな意味は持たなかった。試験の後に僕らの仲間の暗黙の了解としての昼から遊ぶということに大きな意味を感じていた。やはり試験は僕にとって大きな意味をもたなかった。僕は偏差値がぎりぎりでこの有名進学私立高校に入学できた。しかし、僕を待ち受けていたのは「落ちこぼれ」というレッテルだった。「落ちこぼれ」は相手にされない。僕は強くそう感じていた。誰一人として自分を認めてはくれなかった。だから、自分を着飾り、そして「もう勉強なんてどうでもいいねん」といったセリフで自分自身を納得させていた。自分が孤独で、自分がみじめで、自分が自分でないような感じがした。そして誰も僕を受け入れてくれないと。終礼のチャイムとともに一目散に靴箱に向かう。素早く靴に履き替え、五人はいっせいに校門を飛び出す。校門に仁王立ちになっている生徒指導の教師の声が僕らの背に突き刺さる。
「おい!帽子をかぶり、シャツを中に入れて、ホックをきちっとしめろ!!」
制服という決まった型にはめ込まれた僕たち。この型からはみ出すことは絶対に許されない。制帽をかぶり、制服のホックを一番上まできちんと閉じ、シャツは中に入れる。そして校門の教師に頭を下げる。それが良い子なのかもしれない。そして、それが高く評価されるのだろう。僕らはそんな生徒にはなりたくなかった。いや、むしろなれなかったのかもしれない。社会の中で上手く生き抜く方法を知らなかった。やはり僕らは「落ちこぼれ」なのかもしれない。背中に突き刺さる声を感じながら桜並木道を駆け抜ける。近くのコロッケ屋の揚げたて匂いが空腹の僕らを誘う。足早にまちゆくスーツ姿のサラリーマン。買い物を提げ、家路にむかう主婦。昼間のあたたかなひとときを過ごす老夫婦。そんな道を歩きながら僕は何ものにも演じることのない自分自身を感じる。優秀な高校生を演じることも、闇の世界を生き抜く高校生にもなれない自分を。毎度の小さな食堂で大盛りのカツ丼を注文する。学生割引で大盛りサービスなのだ。このときばかりは高校生でよかったと思う。食事中の話題は専ら昼からの遊ぶメニュー構想に尽きる。五人五色、色々なおもしろい思案が飛び交う。と同時に僕らの胸も徐々に小さな波から大きな波へと変化する。色々な胸躍らす案が出たのだが、結局いつものコースに落ち着いた。いつものコースとボーリングをして、ファーストフード店で休憩する。そして最後はカラオケというものだ。やはりこのコースに落ち着くというのがいかにも僕ららしい。高校生の僕らにとってお金をかけることはできない。お金をかけずに満足いくまで遊ぶ方法を僕たちは考えだした。高校生という特権を最大限に活かし、割引を使うのだ。いつもは高校生であることに疑問を感じ、意味を見出せなかったのだが、このときばかりは最大に活用する。いたって意味のないことなのだが。電車に乗り、中心街に繰り出す。世間は普通の平日の昼間。その普通な日常の中に特異な僕らは価値を見出す。何か誰にもできないことをしている何とも言えないような満足感に浸るのだ。ボーリングをやり終え、疲れた体を休めるためにファーストフード店に移動する。決して高いものは食べない。120円ばかりのジュースだけを買ってそれで4時間、5時間ただ話しをするのだ。今思えば、何をそんなに話をすることがあったのかと疑問に感じて仕方がないのだが。その時間は魔法のようにあっという間に過ぎ去った。一階で注文し、トレイをもって三階に上がる。そして、心地よい日差しのあたる窓際を選んで五人が座る。春の陽気に僕たちの心も一層踊らされた。

マクド
「あのさぁ、今度な俺の友達が何人かで一緒に遊ぼっていうてんねんけどさ」
「えっ、まじで!友達ってK女子校ちゃうん。」
「最高やん!!」
「何が最高か分かれへんけどさ」
「確かに」
皆に笑いが起きる。
「んでさ、日曜やねんけど、来うへん?」
「行く行く!絶対行く」
「和也は一番食いつくなぁ!飢えた野獣や」
「はぁ・・・?野獣はお前やし。お前の秘密ばらまくぞ」
「え、何?何?言っちゃえよ」
秘密と聞くと全員が興味を示す。僕らの中では秘密は一瞬の出来事でしかあり得ない。ひとりが秘密を聞いた瞬間、みんなで即座に共有するのだから。でも、秘密は絶えることがない。僕らの不思議な関係だ。
「じゃぁ、日曜日の昼の1時に河原町の高島屋の前な」
「了解!」
日曜日。バスに揺られ、電車に乗り込み、待ち合わせ場所に僕はついた。何気なく人通りに目をやる。日曜日ということもあってか、街がいつも以上に賑わっていた。春の陽気に誘われてか道行く人の洋服のパステルカラーが鮮やかに見えた。待ち合わせ時間。僕の友達の田中が噂の友達を連れて一緒にやってきた。
「ごめん、お待ち!珍しく和也は早いやん。いつもは30分は遅刻してくるのに」
「今回はちょい、頑張ってみた。」
「こんにちは。田中君の友達の彩といいます。よろしく」
「あっ、よろしくです。」
「何照れてるねんって」
田中の一言が一層僕に照れという二文字を与えた。初対面は緊張するから駄目なのだ。
「えっと、もう一人の沙耶香がもういると思うんだけど・・・あっいた!」
僕の座って待っていたすぐ隣にその沙耶香はいたのだ。香水を振りまき、ブランドで身を固め、高校生らしからぬ化粧で作り上げた顔をしていた。
「とりあえず、カラオケでも行こうや」
四人は街を歩き出した。僕と女の子の間にはまだ高い壁があった。その壁を早く乗り越えたかった。いつもの御用達のカラオケで受付をすませ、ルームへ。その頃には最初の緊張も随分と薄らぎ昔からの知り合いのような関係になっていた。でも僕にとってはその空間が苦痛でたまらなかった。なぜなのか。自分に主導権がないことが耐えられなかったのか。いや、僕自身が人としらじらしく無理に盛り上げて付き合うことが嫌なのか。僕は一人ルームを出て、ロビーでくつろいだ。街行く人々をぼんやり眺めながら、いったいどれだけの人が、どんな付き合い方をしているのだろうかなどといった意味のない疑問に自分自身で答えを出そうとしていた。そのときだ。沙耶香がロビーに現れた。
「何してるの?」
「いや、ちょい、気分が悪くなったきから外の空気でも吸いに行こうかと。それより沙耶香ちゃんはどうしたんよ?」
「えっ、姿が見えないから探して来てって頼まれたんよ。」
「そうなんや、ごめんな。」
ルームに戻った。そして僕は盛り上げようと自分自身に嘘をつきながら懸命になっていた。
外に出るとネオンが眩しく感じられた。もう日は暮れてしまっていた。街は昼間とは違う顔を見せ、少し大人の世界に片足を踏み込んだ僕たちのような感じがした。
「そろそろ、夕飯でも食べに行こうや、和也何かおすすめの店ないん?」
「う・・・ん。あっ、焼肉の食べ放題とかどうよ?」
「でも、高いんちゃうん?」
「じゃぁ、俺のおごりで!行こうや、ぱっ〜と」
「うん!」
四人はメイン通りから一筋入った店にはいった。時間が進むにつれ、向かい合わせに座った田中と彩は昔の話に華を咲かせ、違う二人だけの世界に行ってしまった。自ずと僕と沙耶香は何気ない会話をすることになった。
「趣味とか何かないん?」
「趣味?!そうやね、文学かな?」
「文学?」
「うん、近代文学。芥川龍之介や森鴎外のような」
僕にとって、沙耶香は違う世界で生きるように思えた。僕は沙耶香のいう芥川龍之介や森鴎外は現代文の教科書の中で一度目にしたに過ぎなかった。しかし、僕は生涯に渡ってつくことのないような大きな嘘をついた。
「あ!!まじで?俺も文学に興味があるんよね。特に芥川龍之介の作品には感じるものがあるわ。偶然やわ。周りの奴らに言っても全然相手にしてもらえへんし、初めて話ができる人に出逢えたわ」
「本当に?!うちもそうやねん。まわりからはオタクみたいに見られるだけで。芥川は私にとって一番大好きな作家の一人やねん。何か共有できて嬉しいわ。」
僕のテンションはハイスピードで上がった。なぜ嘘をついたのか。沙耶香という人間を自分のものにしたかったのか。それとも、自分を高くみせて、沙耶香に認めて欲しかったのだろうか。僕は嘘の世界を作り出した。その世界では僕は着飾った完璧な人間でいれる。そのときは自分の築き上げた虚構の世界で生きることが眩しく見えた。
暑かった店内から一歩外に出ると鴨川の涼しい風が僕らの魂を黄泉の国から呼び戻した。近くの駅の改札まで見送り、笑顔で別れ、ふといつもの自分に戻る。涼しい鴨川の橋を渡りながら何とも言えない気だるさを感じながら、でも右手にはしっかりとメモの切れ端を握っていた。完璧な自分でいられる虚構の世界のチケットを握って。
 携帯の着信音がはかないメロディーを奏でる。沙耶香からのメールだ。
「今日は本当に楽しかったよ。ありがとう。共通の話題があって本当に驚きです。もっとゆっくり話したいな。また今度遊ぼうよ。」
このとき僕は確実に虚構の世界への階段を登り始めたと感じた。
「こちらこそ、本当に楽しかったよ。本当に今度遊ぼうよ。京都のいい所を知っているから、紹介するよ。」
僕の歯車は完璧に回り始めた。油のしっかり塗られた新品の歯車が。
待ち合わせのH百貨店の前に沙耶香はもう居た。春らしいパステルカラーの優しいピンクのカーゼガンを羽織った沙耶香はまるで僕を虚構の世界に誘う案内人のように思えた。
「ごめん、待った?電車が止まって・・・」
「ううん、待ってないよ。今来たとこ。今日はどこ行く?」
「とっておきの場所だよ。楽しみにしていてね」
「うん!じゃ、楽しみにしとくね。」
何をしても楽しかった。ただ、ファミレスで何かを飲むのだって。竹の生い茂る遊歩道を歩きながら、二人はそっと手をつないだ。それはごく自然な動きであった。人は何に惚れるのだろうか。容姿なのか、富裕なのか。それとも自分にはないものを相手に求めるのだろうか。僕には分からなかった。恋とは自己満足の世界である、そう感じていた。相手を自分のものにする、そのことに満足を覚え、それ以上のことは存在しない。自己満足の世界の象徴が恋というものなのだと。でも、このつないだ手を通って伝わってくるぬくもり。そのぬくもりが僕を一層おかしくした。そして一層虚構世界へ誘った。
沙耶香は僕のものになった。僕も沙耶香のものになった。虚構の世界において。今までにない感覚。テレビで「この人と結婚すると思っていました。」というありふれた言葉に馬鹿さを感じていた僕が今、「この人と結婚するような気がする」などと思ってしまっているのだから。これが恋したということなのか。自問自答を繰り返す。
僕はこの虚構世界に酔いしれた。ここが自分の場所であるように錯覚を起こした。着飾った自分は輝いていると信じていた。毎日のメール。たまにの学校帰りの沙耶香とのデート。ただ、電車にのって近くのファーストフード店やカラオケ、公園に行くだけなのだが、なぜか僕は酔いしれた。この世界に酔いしれれば酔いしれるほど、僕を苦しめたのは嫉妬という存在のしれない不安感だった。
「明日逢える?」
「う・・・んとね、明日は試験だから無理なの。ごめん」
絶望というか、嫉妬というか得体の知れないものが僕に襲い掛かり、そして僕を虚構の世界の扉から出そうとはしない。逃がそうとはしない。電話がつながらないと僕は疑う。
「今、何してたん?」
「えっ、別に・・」
「別にってないやんか。何かしてたんやろ?」
「別に関係ないやん。」
虚構の世界の鏡に映った自分の姿さえ見つけることができなくなっていた。常に僕の心の中にあるのは「こんなに好きなのに」という自分を肯定する盾だった。心の歯車が大きく軋み、そして徐々に大きくかみ合わなくなってきていた。でも、そう感じることが怖かった。自分をどうにかして抑えよう、抑えようとするのだが、虚構の世界では僕は全くの無力だった。自分で築き上げた世界なのに。その世界の中で僕は大きく破滅の旋律を奏で始めた。愛すれば愛するほど嫉妬という得体の知れないものに襲われる。その苦しみを自分の中で処理することさえできなかった。
携帯の着信音がはかないメロディーを奏でる。沙耶香からの電話だ。
「もしもし?」
「うん・・・何?」
「話があるんやけど。」
「何?」
僕が最も恐れていたのは、別れの言葉ではない。自分を否定されること、自分の作った虚構の世界が崩れ去ってしまうことだったのかもしれない。
「友達の関係ってどう思う?」
このセリフはつまりは別れを意味していた。
「友達の関係って、よう分からへん。微妙なんちゃう?」
「そうかな・・・いいと思うねんけど」
はっきり僕を切ってくれない。研ぎ澄ました包丁で一気にスパッと切ってくれれば僕は幾分楽だったに違いない。でも。
「何が言いたいん?」
「友達に戻れないかな・・・」
その瞬間、僕の虚構の世界は崩れ去った。嫉妬、独占欲といった得体の知れないもののせいで。今まで僕は否定されることには免疫ができていた筈なのに。何だろう、この深い心を抉り取られた感覚は。この何とも表現できない不協和音は。恋という名の世界に浸っていた僕。その世界は絶対だと思っていた。その世界は永遠だと信じていた。でも・・・この世に絶対などというものは存在しない。絶対という迷信は各人の心の中のみで成立する蜃気楼なのだろう。
虚構世界は消えた。僕はまた現実世界で生きなければならない。自分の存在意義の見出せない現実世界で。
サクラが満開の季節。学校への通学路をまた足早に急ぐ。
END

ルミナリエ
22110

 12月の寒い朝、洋平はいつものように午前7時に家を出た。せまい階段を駆け足で下り、早歩きで駅に向かう。洋平の通う大学までは、電車で片道約1時間半かかる。7時10分の快速電車に乗れなければ、1時限目の授業には間に合わないため、毎日朝は時間との戦いである。駅に向かう道では、同じく早歩きのサラリーマン達が、競走でもしているかのように駅を目指している。この春に洋平の一家は引越しをした。以前住んでいたアパートが諸事情で取り壊されることになり、立ち退かなければならなくなったからである。幸いすぐ近くのアパートに空き部屋を見つけたため、郵便番号も変わらずにすんだ。今の家は、前の家よりも広く快適で、洋平はとても気にいっている。広くなったと言っても、世間一般から見れば決して広くはない。あくまで以前の家に比べると、広く快適になったのである。
洋平が駅に向かうためには、以前住んでいたアパートの前を必ず通らなければならない。そのため洋平は、自分が20年以上も過ごした家が壊されていく様子を、ほぼ毎日見てきたのである。狭く生活環境が悪かったため、一日も早く出て行きたいといつも思っていたものだが、実際引っ越してみると妙に寂しく、懐かしく感じるのだから不思議である。町内の様子は、震災があったこともあり、昔からずっと同じとは言えないが、感じる空気がいつまでも変わらないのが洋平には嬉しかった。洋平はこの町が大好きである。だから引っ越さなければならなくなった時、近所に新居を見つけることができて本当にほっとした。洋平は昔から変化することをあまり好まない。
「小さい頃はここにマンションがあったな・・・」
冬になるとなぜか昔がよく思い出され、こんな独り言を言いながら、洋平は毎朝駅へと足を進めている。寒さと眠気が、自分を過去の思い出の世界へ誘うのかもしれないと洋平は考えていた。また寒い朝は、物思いにふけることが多い。この日も通勤ラッシュの込み合った電車に揺られながら、彼は過ぎ去った日々に思いを巡らせるのである。
洋平の母親は、100m走でインカレ優勝経験を持ち、父親もスポーツマンである。そのため洋平は小さい頃から運動神経は良かった。運動会のかけっこで負けたことはなく、リレーではいつもアンカーを務めていた。また小学校低学年頃から、兄の影響でサッカーを始めた。ただ兄の所属していたチームではなく、隣り町の小学校のサッカーチームに入った。理由は洋平自身もはっきり思い出すことができないが、兄のチームは強豪であり、またバスで通わなければならなかったことが要因であったかもしれない。洋平はスポーツには自信があったが、サッカーは思ったより上達しなかった。スタメンとして試合には出させてもらえるものの、特に何の活躍も無いまま、ただグラウンドにいるだけということが多かった。さらにチームの中で自分一人だけが違う小学校ということもあり、輪の中に入れないことや、軽いイジメを受けることも度々あった。そういったことが続くうちに、小学校5年生になる頃にはもうサッカーに対する情熱はほとんど冷めていた。
5年4組の担任は古川先生といった。洋平は男前で優しくて、小太りのこの先生が大好きだった。将来教師になろうと決心したのもこの時期で、目標とする教師は今でも古川先生である。また、中学校から現在に至るまでずっと続けている、バスケットボールに興味を持つきっかけを作ってくれたのも、やはり古川先生なのである。この時期の思い出は、今の洋平の大部分を支えている。それと同時に、この頃のことを思い出すたびに、悲しいのか切ないのか自分でもわからないような感情が、ぐっと胸にこみ上げてくる。
洋平は昔から、学年が上がりクラスが変わることが嫌いだった。せっかく仲良くなった友達と違うクラスになってしまうことが、とても嫌だったからである。洋平は4年生の時に、辻君という大変仲の良い友達ができた。春休みは新しいクラスのことが気になって仕方がなかった。そんな洋平の願いが通じた辻君の家は近所であり、少年サッカーチームに所属していたこともあり、仲良くなっていくのに時間はかからなかった。洋平は辻君と毎朝一緒に学校へ行き、習い事が無い日はいつも放課後に遊んでいた。仲良しの辻君と違うクラスになってしまったらどうしようと、のか、5年生でも辻君と一緒のクラスになることができた。その日の喜びを、洋平は今でも鮮明に覚えている。子どもにとって、クラスがえとは1大イベントである。特に学年が上がれば上がる程、大きな行事も増えるため、洋平はクラスのメンバー構成はとても重要だと考えていた。遠足や社会見学、修学旅行等はクラス単位での行動になるため、仲の良い友達が一緒のクラスでなければ、楽しさは半減する。さらに運動会や球技大会で勝つためには、運動神経が良い男子が揃っている方が望ましい。かなり勝手な考え方であるが、洋平は4月になる度に、毎年こんなことを考えていた。5年4組は、この2つの条件をどちらも満たしていた。さらに新しいクラスに馴染んでいくにしたがって、ほとんどの子と仲良くなることができた。そして担任の古川先生は、とても優しかった。今思い起こしてみても、この頃は毎日が輝いていたように感じられる。友と共に笑い、共に成長していった日々は、かけがえの無い宝物である。しかしながら小学校5年生の思い出は、明るいものばかりではなかった。

94年12月のある日の放課後、洋平はいつものように辻君と帰宅の途についていた。今日のホームルームで古川先生から、小体連のサッカー大会の話を聞いたため、二人はその話で盛り上がっていた。小学校の高学年になると、年に1、2回行われる同じ区の小学校対抗のスポーツ大会に参加することができるようになる。洋平の小学校では、そのスポーツ大会を総称して小体連と呼んでいた。そして来月に行われる小体連の種目が、サッカーに決定したのである。洋平は自分が活躍できる場だと感じて、心が弾んでいた。
「俺らが出たら優勝間違いないな。」
「ほんまやな。でも他のメンバーがちょっと心配やから、運動神経ええ奴誘わんとな。」
そんな会話を交わしながら、二人は夕暮れの通学路を歩いていた。洋平と辻君はそれぞれ別のサッカーチームに所属していたが、試合で何度か対戦したことがあり、辻君の実力は洋平も認めていた。また一応はサッカーチームに所属しているだけはあって、洋平も他の生徒よりは、やはりうまかった。二人は早くもリーダー気取りで、ポジションや作戦について真剣に話し合った。やがて辻君の家に着いたので、洋平はさよならを言うと、試合で自分が活躍する様子を空想しながら、一人帰り道を歩いた。
翌日の放課後、小体連のサッカー大会の参加希望者は5年2組の教室に集まることになっていた。洋平と辻君が掃除を終えて教室へ入ると、すでにたくさんの男女が集まっていた。二人はすぐに男子メンバーの“チェック”を始めた。それから5秒も経たないうちに、二人は顔を見合わせてニヤついていた。
「ニッポンにサンコン、太郎に田川、剛君もおるやん。これはいけるな。」
「ほんまやな。他の奴も皆運動神経良いし。優勝間違いなしやな。」
確かに小体連に参加を希望するのは、毎回ほぼ全員が運動に自身のある者である。さらに今回はサッカーという人気の種目であることもあり、5年生のスポーツ自慢達が勢ぞろいする形になった。洋平は強いチームができたため喜んでいたが、自分があまり目立たなくなるのではないかと内心では少し心配になった。そして先生からスケジュール等の話を聞いた後、運動場に出てさっそく顔合わせを兼ねたゲームを行うことになった。初めの印象が肝心という思いや、女子が見ているということもあって洋平は張り切ってゲームに臨んだ。
試合が終わり解散した後、子ども達はそれぞれ同じ方向に帰る者同士で帰宅した。その時洋平は辻君と、道上君と一緒に帰った。道上君とは同じクラスで、話をしたことは何回もあったが、一緒に遊んだりする程は仲良しではなかった。しかし今日初めて道上君が、洋平の家の近所に住んでいることがわかり、それからというものの、毎日放課後に一緒にサッカーの練習をし、その後一緒に帰るということが続いた。そうするうちに、洋平と辻君と道上君の仲はすっかり深まっていった。冬休みに入っても三人は、一緒に遊ぶことが多かった。辻君の家でテレビゲームをしたり、公園で遊んだり、もちろんサッカーの練習も欠かさなかった。冬休みが明けたらすぐに、小体連の1試合目があるからである。洋平は、試合が待ち遠しくて仕方なかったが、少しばかり悩みがあった。5年生になってからすぐに、洋平は所属している少年サッカーチームのスタメンから、外されることが多くなっていた。このことは、小さい頃から運動に関しては何一つ不自由したことがなかった洋平にとって、とてもショックなことだった。それでも挫けずにサッカーを続けていたが、10月になると古川先生の影響で、休み時間にやっていたバスケットボールも本格的にすることにした。そして地域のミニバスケットボールチームの練習に、月に何回か参加するようになった。バスケットボールは洋平にとって、とてもおもしろく、サッカー以上に魅力的であった。12月になる頃には、サッカーよりも上達していた。バスケットがうまくなるにつれ、少年サッカーの練習に行くことが嫌になっていた。父親からも中途半端なことはせずに、どっちか一つに決めなさいと言われていた。そして洋平は、小体連の試合と、さらにその後にある少年サッカーの試合を最後に、バスケットボールに専念しようと決心した。本当に自分が好きなのはバスケットボールだと考えがまとまった後は、少し晴れやかな気分になり、小体連だけでなくそれまであまりやる気の出なかった少年サッカーの試合も、がんばろうという気が湧いてきた。暮れの静かな夜、洋平は塾の宿題をするために机に向かいながらも、頭の中でサッカーのイメージトレーニングをしていた。
3学期が始まるとすぐに、小体連のサッカー大会の1回戦が始まった。洋平の通う小学校の運動場はとても狭いため、試合は相手の小学校で行われる。バスで試合会場に着くとすでに、他の小学校が試合をしていた。今日勝てばこの試合の勝者と、来週試合をするらしい。ウォーミングアップをしながらも、誰もが横目で気にせずにはいられなかった。試合が始まると予想通り、終始優勢だった。洋平を中心に相手の攻撃を防ぎ、辻君を中心に攻める。他のどの学校よりも練習したという自身が、彼らにはあった。1点2点と次々に辻君がゴールを決めていった。洋平は周りで試合を見ている女の子の反応を、気にする余裕すらあった。というのも自陣にほとんどボールが来ないからである。守り専門の洋平には、少し退屈な試合であった。圧勝だった。
次の日は、教室中が昨日の試合の話で持ちきりだった。
「辻君4点も決めたんやって?」
「辻君がおったら絶対優勝間違いないな。」
洋平はさすがにおだやかな気分ではなかった。サッカーにおいては、攻撃が仕事であるフォワードばかりが注目され、誉められると以前から不満に思っていたからである。できることなら自分もフォワードになって、得点を決めたかった。しかしその願いは結局、少年サッカーでも小体連でも叶うことはなかった。洋平は専ら守備専門であった。それは洋平のあまり変化を好まない保守的な気質にはマッチしていたし、自分自身でも守ることは得意であった。それでもやはり、攻撃の中心になって注目を集めたいという思いが消えることは無かった。
それから数日後、いつもの3人で学校から帰っていると、道上君がふと真剣な表情で話しだした。
「最近さぁ、何か女子が俺の方見てくすくす笑ったり、手紙回したりしてんねんやんか。この前なんか俺が近づいたら手紙みたいなんあわてて隠してたし。めちゃ気になんねん。何か知らへん?」
洋平達は、全く知らなかったことなので返答に困ってしまった。まさか道上君に、そんな悩みがあったなんて思いもよらなかったことである。
「みっちゃんの気のせいちゃう?俺そんなん見たことも聞いた事も無いけど・・・」
「でももしほんまやったら許されへんなぁ。今度女子の誰かに聞いてみたるわ。」
二人は必死に考え出したセリフを懸命に喋った。道上君は、
「いやあんまり他の人には言わんといて。悠君達も知らへんのやったらいいわ。まあそのうち無くなるかもしれへんし。」
と言った後はうつむいたまま黙ってしまった。日はもうすっかり暮れてしまっていた。道上君と別れた後、洋平と辻君は連休明けの火曜日に、こっそり女子を問い詰めることにした。まだ決まったわけではないが、友達がいじめられていて黙っているわけにはいかないという責任感が二人にはあった。
月曜日は祝日であった。その日洋平はちょっとしたことで母親を怒らせてしまった。母親が再三風呂に入れ言っているのに、洋平はテレビに夢中になり言う事を聞かなかったからである。そしてとうとう洋平はその日、風呂に入ることを禁じられてしまった。思春期に入ろうかという年頃にとって、風呂に入らずに次の日学校へ行くということは耐えられなかった。学校でクラスメートに、臭いと言われようものなら大変である。そこで洋平はその日の夜、寝たふりをし家族が寝静まるのを待った。何度も夢の世界へ吸い込まれそうになるのを我慢しながら、3時間以上も布団の中でじっと耐えていた。そしてようやく全員が寝たのを確認してから、洋平はこっそり風呂場へ向かった。さすがに湯船の湯は、もうすでに冷めていた。せめて頭だけでも洗おうとシャンプーを手にとり、シャワーも無いので家族が起きないように静かにお湯を頭にかけた。その後やはり湯には浸かりたかったので、我慢して湯船に入った。しばらく湯船の中でボーッとしていると、急に近所で飼われている犬が一斉に鳴きだした。一匹が鳴きだして、それに反応したのではなく、あちこちの家の犬が一斉にである。しかも何かに怯えるかのような、不気味な声だったので洋平は何だか怖くなり、さっさと風呂から上がり布団に潜り込んだ。時計は午前1時半を指していた。

ドーンという大きな音と、キャーという母の悲鳴で洋平は目を覚ました。何が起きているのか全くわからない、何だか家が動いているようだ。洋平は怪獣が暴れている、夢か、と思ったが、父の「地震や」という言葉で現実と認識した。とにかく何が何だかわからない。電気が消え真っ暗闇の中、ゴゴゴゴという音と激しい揺れだけが感じられた。洋平はただじっと、布団をかぶって目を閉じて震えていた。
ようやく揺れがおさまって、父と母は洋平の無事を確認すると、隣りの部屋で寝ていた兄に声をかけた。兄の部屋には大きなタンスがあり、それが兄の布団めがけて倒れていたが、せまい家が幸いし、勉強机に引っかかって兄の体に達することなく止まっていた。結局兄は一度窓から外に出て、ようやく家族全員が集まった。その後余震が何度となく襲ってきて、洋平の心は恐怖心で溢れかえっていた。父は避難路の確保や、割れた食器の後片付けをし、母は貴重品を集めたり、防寒対策の準備をしていた。しかし洋平はショックで何もすることができず、ただ黙って布団の上に横たわっていた。外の様子を見に行こうとドアを開けた母が、震えた声で
「お父さん。向かいのアパートの一階がつぶれてる・・・」
と父に言った。一階がつぶれるとはどういうことなのか、洋平には想像もつかなかった。すると追い打ちをかけるように、女の人の叫び声が聞こえてきた。
「娘が中にいるんです。誰か助けて。」
洋平は何故こんなことが起きたのか、夢じゃないのかと思った。今日も朝から学校へ行って、サッカーの練習をするはずだったのに、一体何が起こっているのかわからなかった。必死に現実を受け止めようとしたが、11歳の心にはあまりにも重く辛いものだった。その後は、容赦なく何度も襲ってくる余震に震えながら、何も口にせずただ布団に潜っていた。
昼近くになると、近くの警察署に避難しようと父が言った。言ってみると近所の人もたくさん集まっていた。今日からしばらくこんな所で生活するのかと思っているのも束の間、自衛隊の臨時宿舎になるという理由で、全員警察署の体育館から追い出されてしまった。途方に暮れていると、祖母と甲子園に住んでいる母の兄が自転車ではるばる家まで来てくれた。無事を確認するとホッとした表情を浮かべ、甲子園は被害は大きくないからこっちに来いといってくれた。そして洋平一家はさっそく甲子園の祖母宅へ、車で向かうことになった。洋平の家の近所は、見るも無残であった。向かいのアパートだけでなく、友達の一軒家も斜めに傾いていた。真っ先に壊れそうな洋平が住むオンボロアパートが、ほとんど無傷なのは驚くより他なかった。上空にはいくつかのヘリコプターが飛んでいる。救援かと洋平は思ったが、どうやら取材のようだ。
いつもは甲子園まで車で30分程で着く。しかし今日は全く違う。道は車であふれ、一向に進まない。さらに道路が割れたり突き出たりしていることに加えて、信号が倒れ機能していないためかなり混乱状態であった。自主的に交通整理をしている男性の姿が、とても印象的である。洋平は早く甲子園に着いて欲しいと思っていた。ガラス越しに、悲惨な光景が否応なしに目に飛び込んでくるからである。道路に木が横倒しになっている。家が跡形もなく崩れている。何と高速道路が横倒しになっている。車の中のラジオで、今回の地震が「兵庫県南部地震」と名づけられたことを知った。震源地は淡路島だという。しかし洋平には、そんなことはもうどうでもよかった。
どれくらいたっただろうか、車はようやく祖母の家に着いた。祖母は洋平一家を温かく迎え入れてくれた。つもる話もあるが、まず晩御飯を食べることになった。カレーライスであったが、食器にはサランラップが巻かれていた。洋平は以前食欲がわかなかったが、無理やりかきこんだ。テレビには長田区の大火災の様子が映し出されている。テレビを通じて地震の様子を見て、大変なことが起きているんだと改めて実感するのだから不思議なものである。その日から洋平は、一人でふさぎこむことが多くなった。余震に怯え、車の走る音を余震と勘違いし、何分もその場から動けなくなることもあった。外に出ることは少なくなり、テレビやマンガに没頭した。少しでも現実から離れたかったのかもしれない。とにかくこの震災を機に、洋平の考え方や生活は微妙に変化した。
祖母の家に来てから数日後、夜皆でテレビのニュース番組を見ていると、今回の震災で亡くなった方や行方不明の方の名前が公表されていた。洋平はただボーっとテレビを眺めていた。日を追うごとに、その人数は増えるばかりである。お茶の入ったコップを手にとり、口に近づけたその時、テレビの画面に見覚えのある名前があった。
「道上なおや11歳 神戸市東灘区・・・」

洋平は帰りの電車に揺られていた。電車内にはルミナリエの広告が、たくさん吊られている。今年は10回目の開催だそうだ。今ではすっかりデートスポットになっていて、洋平は何だか寂しい思いがした。今年は初めてルミナリエに行くつもりである。そしてもうすぐ震災から10年が経とうとしている。10年前、転校をはじめて経験し、友達を亡くすという経験もした。あの頃は毎日がとにかく身の回りのことで精一杯で、悲しむ暇など無かった。しかし今当時のことを思い出すと、胸にあついものが込み上げてくる。10年という歳月が流れ、あの悲劇の記憶は徐々に風化しつつあるように感じられる。洋平は震災によって成長もし、同時に傷も負った。あまりにも大きな、予期せぬ変化に押しつぶされそうになったこともあった。だが、思い出すのも嫌だった震災のことを、今ではしっかり見つめ直すことができる。学んだことは数え切れない。洋平はこれからも、毎日を懸命に生きていく。駅に着き、いつもの帰り道を歩きながら呟いた。
「ルミナリエ楽しみやな。」

It's a wonderful world !
22107

1日目

 包丁が驚くほど欠けている事に気が付いた。しかも先のほうである。豆腐を切れば崩れてしまうし、食パンなど言語道断である。隣の山田に簡易砥ぎ器を借りたものの、全く意味はなかった。かえって山田に迷惑を掛けたんじゃないかな、と思い彼には「よく砥げる砥ぎ器だね、こんなもの見たことがない。」と言っておいた。もちろん余っていた入浴剤もあげた。我が家では何かしてもらった時に、入浴剤をあげることが習慣なのである。一人でずっと考えていたけれど、全く良い方法が思い浮かばない。自分はとてつもない馬鹿なのかもしれない、と思いつつも寝てしまった。星が綺麗だ。

2日目

 起きて、顔を洗っていると、欠けた包丁のことを思い出してうんざりした。僕は元来几帳面なほうなので綺麗に切れない包丁は嫌だったし、まして汚く切れたおかずなんて存在価値がないと思っていた。そんな僕に限ってこんな災難が降りかかる。やりきれない。確かに一昨日使った時は買いたてのように綺麗だったのだ。それがたった24時間でこのあり様である。なんでだろう…。そうか、きっとこの包丁は病気になってしまったのだ。だから、誰も使っていないのに欠けてしまっているのだ。原因が分かった以上、じっとしている訳にはいかない。僕は行動派なのである。まずはどこに包丁を治してくれる病院があるのかを探さないといけない。冷凍庫に入っている電話帳を電子レンジに入れ、解凍した。何だかべとべとしているが、そんなことは気にしない。僕は行動派なのだ。まずは「病院」の項を見てみる。ヒト、犬、猫、猿、トカゲ何でもあるのに、肝心な包丁専門の医者が無い。田舎に住んでいるとこういうときに不便だ。欲しいものが、欲しいときに手に入らない。世の中は無常である。ああ、無常。次に「包丁」の項を見ようとした。だが、妙な事に「包丁」はない。何度も何度も開いたり閉じたりしながら探したけれど、どこにもない。これにはさすがにショックをうける。世の中には包丁という存在が認知されていないのだろうか。悲しいけれど仕方がない。こんな所でめげていては、行動派の名折れだから。電話帳を冷蔵庫に押し込み、白いワイシャツとタータンチェックの半ズボンを穿いて、シャワーを浴びた。服を扇風機でかわかしている間に、これからどうするかを考える。電話帳に載っていないところを見ると、こんな田舎にはないのだろう。しかし、都会に出るのは少々気が引ける。都会には悪魔がいるらしいのだ。4軒隣の酒井が言っていた。彼は少し前まで都会に住んでいたインテリだから、きっと間違いない。今の僕ならきっと悪魔なんていちころだろうけど、念には念を入れなければならない。別に、怖くなんか無い。当たり前だ。怖いわけが無い。とりあえず寝る事にする。困った時は寝るに限るのだ。そうすれば神様が夢に出てきてくれて、解決してくれるはずである。

3日目

 神様などいるわけが無い。あんなものいるわけが無いのだ。考えてみれば当たり前だ。もしいるなら僕の包丁はこんな病気になりはしない。やはり自分で切り開かねば、事態は好転しない。悪魔対策として傘を持っていく事にした。とても尖っていて、とても痛そうな傘だ。何だかとても嬉しくなってきた。今日は都会に出かけるので、余所行きを着る。緑色のワイシャツに紫の長靴を合わせ、真っ赤なキャスケットをかぶり、いざお風呂場へ。余所行きの時はシャワーではなく、お風呂に入る。我が家の常識である。体を隅々まで洗い、扇風機で乾かす。手慣れたものだ。お気に入りのアヒルの鞄を持って出かけよう。世界は僕の為にあるのだ。

4日目

 さすがに都会は遠い。もうかれこれ12時間以上は歩いているのに、辿り着く気配さえ感じられない。それにしても遠い。心なしか辺りが臭くなってきた気がする。どこかで嗅いだ匂いだ。とてもいらいらする。でも歩き続けなければならない。今や、包丁を助けられるのは僕一人なのだから。そう、この一瞬にも包丁は病魔と闘い、苦しんでいるのだ。包丁の苦しみに比べれば、僕のそれなど苦しみとは呼べない。なんだか恥ずかしくなってくる。長靴を引きずり、先を急ぐ途中で隣町に住む田中に会った。彼は良い奴なのだが底意地が悪い。いつも誰かを陥れようとしているのだ。彼は「都会はもうすぐだよ、せいぜいその間抜けな長靴で走っていくことだね。」と言い残して去っていった。普通の人ならここで怒るかもしれない。でも僕はわかっているので怒らない。彼はとてもシャイで、あんな言い方しか出来ないのだ。僕には分かっているのだ。そんな事を思いながら歩いていると、遠くの方に大きな光る山が見えてきた。もしかすると、あそこが都会なのかもしれない。…痛い…やはり、ここが都会にちがいない。とても五月蝿い所だけれど、大きな山がたくさんある。僕は山が好きで、よく登るけれど、こんな山は見たことがない。僕の登山家魂が呼び覚まされる。
誰かが昔言っていた様に、我等登山家が山に登るのはそこに山があるからなのだ。このことに理由なんてものは必要ない。理屈じゃないんだ。そうして、歩いていくと、ねずみ色の妙な服を着た男が僕に声を掛けてきた。彼は僕と友達になりたいに違いない。話を聞いてみると、とても良い奴のようだったので、友達になる事にした。服の好みはおかしいけれど、服の好みとそれを着ている人の性格は必ずしも一致しないのだ。彼曰く、今日のところはどこかに泊まるべきだそうだ。そしてそこに腰を落ち着けて、ゆっくり包丁の病気を治してくれるところを探すほうが良いらしい。僕には考え付かなかった事だけど、言われてみればそんな気がする。そうそう、彼の名前は青木だ。僕は青木の勧めに従う事にして、今日は彼の知り合いの家に泊めてもらうことにした。その知り合いはこの都会で格別安い宿をしているらしい。僕は断じてケチではないので、お金の事なんて気にもしないけど、ここは彼の対面を保つ為に彼の言うとおりにするのだ。宿につくと、さすがに疲れがたまっていたようで、すぐに眠くなった。青木は心当たりを探してくれるらしく、明日また来るといって帰っていった。今日は良く頑張ったけれど、包丁のことを考えるとそううかうかもしていられない。今日は包丁を抱いて寝る事にする。月がぼんやりと浮かんでいるようだ。周りの山と合っていない。星もあまり見えない。都会の空は少し違う気がする。

5日目

 僕はやっぱりとてつもない馬鹿だ。包丁と一緒に寝れば怪我をすることなんて分かっていたのに。朝起きてみると、そこらじゅう血だらけでうんざりした。青木の友人の村井に怪我を治療してもらっていると、ふいにおなかが減っている事に気が付いた。気づいてしまうともう駄目だ。居ても立っても居られない。考えてみれば、丸4日何も食べていないのだ。僕が覚えている限り、最後に食べたのは、包丁が病気になった日のえびグラタンだ。僕はお昼ご飯はえびグラタンと決めている。父はかにグラタンだったし、母はかにドリアだった。妹は朝昼晩ずっとアンパンを食べていた。僕は知識人なので朝昼晩三食とも同じものではなく違うものを食べた方が良いのは知っている。だから妹に、何度も注意しようかとも思ったけれど、結局言わなかった。僕は知識人だから知識人らしく知識の押し売りはしない主義なのだ。包丁の事は忘れたわけではないけれど、なにはともあれ、腹ごしらえだ。ミイラ姿で近くの店にえびグラタンを買いに行った。えらくつめたいえびグラタンだが仕方ない。都会ではえびグラタンとは冷たいものなのだろうか。部屋で食べようとしたら、冷たいどころか、まるで鉄のように硬くて、歯が駄目になった。今日は散々だ。体中包丁に刻まれるし、えびグラタンには歯を駄目にされる。もしかすると、これはあの悪魔の仕業なのかもしれない。きっとそうだ。悪魔は僕を殺そうと隙をうかがっているのだ。こんな包帯の巻き方ではいけない。もっときつくまかないと駄目だ。やっぱり悪魔は怖い。かもしれない。それにしても包丁め。僕がこんなにしてやっているのに、僕のことを何だと思っているんだろう。箪笥を切ったことを怒っているのだろうか、それともお風呂のことだろうか。何だか悲しくなってきた時だった。ふいにドアが開いて青木が入ってきた。今日も青木はねずみ色の服を着ている。彼の前世はきっとねずみに違いない。青木は僕のミイラ姿に驚いていたようだったが、しばらくして、気持ちの悪い笑みを浮かべて、ある人が僕の包丁を治せるかもしれないと教えてくれた。神様ごめんなさい。やはり神様はいます。少しでも疑った僕を許してください。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!なんて素晴らしい世界だろう!青木に明日行くことを伝え、僕はえびグラタンを舐めた。

6日目

 今日は朝からうきうきしている。なぜなら、今日はいよいよ包丁の病気が治るからだ。青木は治るかもしれないなどと言っていたが、僕には治る事が分かるのだ。目を閉じれば僕の目蓋の裏に、良くなった包丁の姿がありありと浮かぶのである。今まで色々と大変だったけれど、都会まで出てきて親切な人たちにはたくさん出会えたし、明日からはきっと包丁とも素晴らしい友情を築けるはずだ。もちろん体はまだぴりぴりするのだけれど。そういえば、大切な人にあうのにお風呂に入っていない。せめてシャワーぐらいは浴びなければならない。アヒルの鞄を開けて、おろしたての青のワイシャツとカエルのプリントされたキュロットを出した。このキュロットは祖父の使っていたもので、由緒正しいのだ。なんでも、祖父のそのまた祖父の何代も前の人のものらしい。包帯の上からそれらをかぶり、シャワーを浴びた。包帯にお湯がしみていく。ここには扇風機がないので、暑いのは苦手だけれどファンヒーターで乾かした。包帯もみなれると意外とお洒落だと思った。少し傾きすぎなきらいはあるにせよ、だ。なんにせよ、それも含めて今の僕には全てが薔薇色に見える。いくら薔薇色だといっても全部が赤色に見えるわけではない。僕は色盲ではないのだ。ただ、本当に赤くなっている包帯の部分もあった。昨日の包丁のせいかとも思ったが、そんなことはどうでもいい。髪を乾かし終わり、ピンクの飛行帽をかぶって青木を待つことにした・・・なかなか来ないので、包丁の様子を見てみると、やはり痛々しい。「もうすぐ助かるから、大丈夫さ。君ならできるよ。」そう声をかけた。切られるのはもうたくさんなので、宝物である茶色の筆箱に入れて梅昆布茶を飲んでいるとやっとねずみが到着した。親切心で彼にも昆布茶を薦めたが、医者に止められているという。こんな美味しいものが飲めないなんて、彼はかわいそうだ。それにしても親切の押し売りはいけない。今回のことで、それは確信へと変化した。アヒルの鞄に包丁を入れて、青木の後ろについていく。また変なにおいがする。いやな臭いだ。出かけると案外その店は近くにあった。「さぎはやはりやめられない」というアメリカンジョークを潜り抜け、奥に進むと赤と黄色のちゃんちゃんこを着たおばあさんが正座をしているのが見えた。話をしてみると、おばあさんは包丁専門の医者だそうで、最近では看板を出さずに営業しているらしい。やはり、都会に来て正解だった。田舎ではこうはいかない。おばあさんに包丁を見せると、大分病気がひどいらしく一日預かりたいということだ。勿論すぐに了承して、とりあえずおばあさんと青木にお礼を言って、宿に帰ることにする。久々に包丁と離れ離れになったが、行動派の僕には仕方のない運命だ。明日になればまた会える。

7日目

 おばあさんの店に行って包丁を受け取る。簡単なことだ。なのに納得がいかない。今目の前に居る包丁はどう見たって僕の包丁ではないのだ。おばあさんは病気がひどくて格好も少し変わってしまったのだという。納得がいかない。・・・キャスケットまで重たくなってきた。・・・でも、そうだ。きっとそうなんだ。こいつが僕の包丁なんだ。持ち手の所が黒から茶色に変わっていたり、なんだか大きくなっていたり、変な字が入っていたり、値札が付いていたりすることを除けば僕の包丁そっくりだ。なんだ、よく見ればこれは僕の包丁じゃないか。もしかして馬鹿だと思われたかもしれない。いくらなんでも自分の包丁と他の包丁を見間違えたりするわけがない。おばあさんと青木に謝る。「いやだな、冗談だよ。いくらなんでも包丁を見間違えるわけがないさ。」と一応言っておいて、アヒルの鞄からお風呂の入浴剤を渡した。今日は特別に登別カルルスをあげた。知らない人がいるかもしれないので言っておくけれど、登別カルルスは素晴らしい。山田はこれで骨折が治ったといっていたし、何よりも入浴剤にかかれた山がとても綺麗で今にも飛んでいって登りたくなるくらいなのである。だからこそ、この入浴剤は今まで大切にとっていたのだ。今日のような日に備えてだ。備えあれば憂いなし。治療費は20万円かかるらしい。これは当然な要求だ。都会でも数少ない包丁の医者で、しかもその名医がわざわざ治してくれたのだからこれくらいは払わないとおかしい。何よりも僕は守銭奴ではないから20万円程度のことでがたがた言いはしない。僕ぐらいになれば、ぽんと出せるのだ。もちろん今までのことを考えて、青木にも入浴剤をあげた。登別カルルスはもうないから、彼にはさくらの匂いのする入浴剤にする。みんなに別れを告げ、宿に戻ることにした。今日はお風呂に入りつつブドウパンを食べるのだ。帰る途中、僕が今もっている包丁にそっくりな包丁を見つけたが気にしない。男はこんなことでは動じないのである。

8日目

 よく考えたが、これ以上都会に居る必要がないので、今日で宿を引き払うことに決めた。出て行くのは明日の朝だ。都会であった人たちや色々なことに思いを馳せる。長かった。今日は何もせずに、ただただ寝ることにする。外に出るとさびしくなってしまうだろうから。

9日目

 130万円を払わされる。都会はいやだ。都会はいやだ。激安だといっていたのにこのざまだ。みんな優しいと思っていたらこのざまだ。僕は今日ここに誓う。二度と都会になんて来ないことを。横を歩く人の全てが僕を馬鹿にしているようだ。きっとそうに違いない。一文無しになり、なきながら家に帰っているのだ。笑わないほうがおかしい。何度も何度も転ぶ。さっきは新聞紙に躓いたし、今度は猫に躓いた。服も何もかも取られてしまった。今の僕にあるのはアヒルの鞄と茶色の筆箱、そして包丁だけだ。キュロットも、たくさん持ってきたワイシャツも、キャスケットも長靴も、全部取られた。神様なんていない。いるのは悪魔だけだ。でもこんなことを言っているのを聞かれたら、何をされるか分らない。これで包丁まで取られたらどうしようもない。今は一刻も早く家に帰ってお風呂に入る、そしてグラタンを作り、包丁を使う、それだけを考えて歩かねばならない。…2時間経過…4時間経過・・・8時間経過・・・16時間経過…もういやだ。顔がぐしゃぐしゃになるよ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・やっとの思いで帰ってきた。行くときと同じように、田中にまた声をかけられる。「都会なんかに行くからだ。お前みたいな馬鹿はずっと長靴でもはいて家にいりゃいいんだ。この度阿呆が。」田中は優しい。彼はこんな時に励ましたりするのは、逆効果だと知っているのだ。だからこそあえて僕に鞭打つようなことを言うんだ。彼からは真の友情を感じる。服を着る。幸いなことに僕にはまだまだ服がある。今日は紺色のストールにオレンジ色のタンクトップを合わせてみた。新鮮な感じがする。お風呂に入りながら、作りたての特製グラタンを食べる。お風呂で食べると、グラタンに入浴剤や石鹸のかすが入ったりするけれども気にしない。なぜならグラタンはお風呂で食べたほうがおいしいからで、しかも今の僕は落ちるところまで落ちて、深海魚と「こんにちわ」しているきぶんなのだから、こまかいことはこの際もうどうでもいい。食べながら思った。この程度で済んだのだからよかったと。グラタンはおいしいし、何より包丁の病気は治った。悪魔に本当に狙われていたのなら僕は今無事に家になど帰れているはずがないのだ。そうだ。そうなんだ。守銭奴じゃないのでお金なんて要らない。そうかんがえるととても幸せになってきた。昔のように、家族4人で暮らしていたころのように、みんなでお風呂に入って歌を歌ったように、町中に聞こえるくらい大きな声で歌ったように、今お風呂の中で歌を歌いたくなった。「よし、歌うぞ。」そう叫んだ。僕は今日目覚めた。そして気付いたのだ。この世の中の素晴らしさに。選曲はもちろんこの曲だ。僕は歌うのだ、サッチモの様に、伸びやかに、高らかに! サッチモ

I see trees of green , redroses too .
I see them bloom for me and you .
And I think to myself , " What a wonderful world ! "
I see sky of blue , and clouds of white ,
The bright blessed day , the dark sacred night .
And I think to myself , " What a wonderful world ! "
The colors of the rainbow ,
so pretty in the sky ,
are also on the faces of people going by .
I need friends shaking hands , saying , " how do you do ? "
They are really saying , " I love you . "
I hear babies cry. I watch them grow .
They'll learn much more than I'll ever know .
And I think to myself , " What a wonderful world ! "
Yes , I think to myself , " What a wonderful world ! "
まったくもって人生はすばらしい!
今日からが僕と包丁との新しい旅立ちのようだ。

10日目

・・・また包丁がかけている。もういやだ。

はしご
22101

「はあ?」
思いがけない一言に、声を荒げた。週末の楽しみである、飲み屋での後輩との一杯。最近は仕事も増え、お茶の間に登場する機会も多くなった。が、その分、良くも悪くもこれまでのような自由が制限されていく。
 この仕事をしようと思ったのは、大学のクラブの新入生歓迎パーティーで友達とネタをやらされたのがきっかけだった。自分はもともと関西の出身ではなく、幼少の頃から吉本新喜劇を見てきたわけではない。「お笑い」の約束事もなにもわからない。これまではテレビで芸人さんたちのネタを見て、ひたすら爆笑する側だった。しかし、いざ自分でネタを作ってみると、なかなか思い浮かばず、「人を笑わせる」ということの難しさを痛感させられた。と、同時にいざ人前でネタを披露すると、自分のネタで人を爆笑させる心地よさに快感を覚えるのであった。
 それからというもの、お笑い芸人を見る目が変わった。あんなにも簡単に人を笑わせることができる彼らに対して、尊敬の念を抱くようになった。自分が「笑われる」のではなく、人を「笑わせる」ということ。いつしか自分も人を「笑わせる」側になりたいと思うようになった。何かのイベントでネタをやる機会があれば、率先して友達に声をかけ、みなの前でネタをやった。徐々にコツをつかみつつあったこともあり、周りの評判は上々だった。このままお笑いでメシを食っていけたらいいなと思うようになり、大学に通いながら、お笑い芸人養成学校にも顔を出すようになった。
しばらくして、同じ養成学校の男とコンビを組むこととなった。自分自身、確固たるプライドを持ってお笑いをやっている。中途半端なやつならコンビは組むまいとさえ思っていた。いわれたとおりの部屋に通されると、そこですでに相方らしき人物が待っていた。当時は男前の若手芸人が珍しくなく、そのためか女性にも非常に人気のある職業だったが、自分がコンビを組むなら、いかにも「お笑い」という雰囲気が漂っているような個性的なルックスをしているやつがいい、と思っていた。ところが、こちらを振り向いたときの第一印象は「失格」だった。自分が求めていたような個性的な要素は何一つなく、見るからに今風の、普通の若者であった。自分の中でひとつため息をついて、お互いの自己紹介を始めた。聞くところによると、以前にコンビを組んでいたことがあるらしい。正式なコンビを組んで活動したことがない自分よりも、いうなれば「先輩」である。自分の相方というだけで厳しい注文を付けていたことを少し反省した。コンビ名は「ゴンザレス」。今までありそうでなかった名前だ。自分はツッコミを担当し、ネタも書くことになった。以前から人間観察には自信があった。独特の視点で人間を見ていると、非常に面白い。何気ない動作の一つでも、そこに手を加えれば、必ず「笑い」になる。ネタの作り方はこれでいこう、と心に決めていた。相方はさすがに経験豊富なだけあって、第一印象とは打って変わって「合格」だった。強弱やテンポ、間の取り方は絶妙だった。経験があるというのである程度はあてにしていたが、予想以上に技術のある、優秀な相方に恵まれることとなった。
 自分のネタに自信を持っていたせいか、売れるまでにたいした時間はかからないのではないか、と思うようになった。だが、舞台で他の有望な若手芸人たちのネタを見て、それでも自分たちが一番おもしろい、とはなかなかいえなかった。舞台を共にする全員が、お笑いに情熱を持ち、自分自身の誇りをかけて一撃必笑のネタを作るのである。そこから頭一つ抜き出るためには、まだまだ自分たちには、足りない部分があるように思われた。
大学卒業後も、精力的に活動を続けた。お笑い芸人養成学校も無事に卒業し、晴れて事務所に所属することになった。だが若手芸人である。収入はほとんどなく、これまで続けてきたアルバイトは相変わらずこなさなければならなかった。ひとむかし前なら、こういったいわゆる「下積み」時代が長く続き、ほんの一握りの芸人だけが、その道で生計を立てていけたものである。自分自身、決して楽な道ではないことを承知で選んだ道である。地道にアルバイトをしながらの活動は覚悟をしていた。
しかし、あっけなく「下積み」時代は幕を下ろしたのである。空前の「お笑いブーム」の到来。テレビ番組もバラエティーが増え、それに伴って、多くの若手芸人たちが、芸能界へと足を踏み入れていった。ゴールデンにもずいぶんとお笑い芸人たちが顔を出すようになった。「お笑い」は注目を浴び、世間のお笑い芸人に対する認知も変わってきた。以前のように後ろ指を差されることはなく、女性にも大人気の職業となっていったのである。
そうした好景気の波に乗ることができ、徐々に大きな舞台に出してもらえるようになり、テレビ出演も増えていった。無名時代と違い、街で声をかけられることも多くなった。ちやほやされるのは決して嫌いではないが、ファンの中で芸人のプライベートを考えられる神様のような人はめったにいたものではない。以前のように自由に過ごせなくなったのは煩わしかった。そうしているうちにも、テレビ番組のレギュラー出演などの仕事は増えていき、スケジュール帳は日に日に黒く埋められていくようになった。好きで始めたことではあるが、今やオフの過ごし方を考えるのが何よりの楽しみとなってしまっている。
 そんな折のつかの間の休息である。のんびりと羽を休めるつもりだった。いつもの行きつけの飲み屋に後輩を2〜3人連れて行った。
「おっ。いらっしゃい。」
すっかり顔なじみの大将があたたかく出迎えてくれた。自分がこうして後輩を連れてきているように、大学時代から先輩につれてきてもらってもらった店である。狭い店内には、まだ真新しい自分のサインが飾ってある。店内にはカウンター席にサラリーマン風の男が2人座っているだけで、他に客の姿はない。いつもの座敷席にどっかりと腰かけた。思わず出てしまった声が「おっさんくさい」と後輩に突っ込まれる。
「くさいも何も十分おっさんや。」
「ほな僕はめちゃめちゃおっさんじゃないっすか。」
自分よりも年上の後輩芸人がすかさず切り返す。
「そや。めちゃめちゃおっさんや。」
お笑い芸人の一行らしく、酒の入らないうちから会話が弾んでいる。
そもそも、お笑いの世界の上下関係は非常に厳しい。年齢や実績よりも、芸歴がすべてなのである。例え30歳のおっさんと13歳の中学生であっても、芸歴の長いほうが「先輩」であり、短いほうが「後輩」なのである。学生時代から体育会系の上下関係を経験してきたが、昔から上下関係は苦手である。ただでさえ苦手な上下関係も、お笑いの世界のそれはいっそうややこしい。吹かせたくもない先輩風だが、たとえ、プライベートの打ち解けた場であっても吹かせ続けなければならない。
生ビール 「おまちどうさん。」
頼んでいた生ビールが運ばれてきた。今にもあふれそうなふっくらとした泡が食欲をそそる。
「とりあえず乾杯しましょか。」
腹を減らしていたのは自分だけではないらしい。コツン、という軽い音とともに、一斉にビールを流し込んだ。
運ばれてくる料理を食べながら、後輩たちの私生活の話を聞いていた。そこで後輩の一人から相談を持ちかけられた。不思議と、酒の場はお悩み相談室になりやすいのである。
「実はね、僕、結婚しようと思てるんですよ。」
予想しなかった相談内容に一瞬動きが止まった。その後輩はまだまだ売り出し中で、十分な稼ぎがあるわけではなかった。当然、アルバイトをしながらの生活である。普通、お笑い芸人の結婚というは、仕事が軌道に乗り始めてからするものである。収入が安定しないうちは、まず自分が売れることを考えなければならない。
「子どもができてしもたんですよ。」
なるほど、世に言う「できちゃった結婚」である。責任をとって、きちんと結婚するといういきさつがあった。だがしかし、この時期に結婚はいかがなものか。自分の感覚ではありえないことである。
「せやけどお前、仕事はどないすんねん。」
思わず、口をついて出てしまった。
「いや、続けますよ。ただ、今よりバイトがんばらなあきませんけどね。」
覚悟したように淡々と言ってのけた。今はお笑い芸人にとって、完全に好景気である。が、いつまで続くかはわからない。一度ブレイクした芸人が飽きられて失業するというのは、よくある話である。そのためにも、チャンスの広がっているこの時期に、精力的に活動し、確固たる地位を築いておかなければならないのだ。アルバイトで負担が増えてしまっては、芸人としての活動は規模を縮小せざるをえない。それならいっそのこと・・・と考えてしまうのが普通である。
ふとその後輩のほうへと目をやると、自分が頭の中で考えているような不安は表情には一切表れていない。それどころかまるで仏さんのように穏やかな表情をしている。後輩自身の中では完全に解決されている問題のように思われた。
「相手はどんな人なん?」
結婚は、普通、めでたいことである。辛気臭さを漂わせていた場の空気を軌道修正した。
「いや、普通のOLですよ。」
「写真とかないの?」
たまにこうして一緒に飲みに行く間柄ではあったが、女性関係については詳しく知らなかった。見せてもらった写真には、後輩には不似合いだと思われるほどの美人の姿が映っていた。大きなピースからは、明朗な人柄が読み取れた。若手のお笑い芸人が今やこんな美人の嫁をもらえるようになったのである。お笑い好景気はすごいな、と思い知らされた。
「もったないて。お前には。」
「よう言われます。」
おそらく自分のほかにもいろいろな人に見せてきたのだろう。うれしそうな表情からは、私生活の充実ぶりが伝わってくる。
「ちょお、今度その子つながりでコンパしようや。」
もう一人の後輩が目を輝かせながら幸せのおこぼれを狙っている。
「あかんて。お前なんかとコンパしたら俺のかみさん友達おらんようになる。」
何でやねん、といわんばかりにチョークスリーパーが決まっている。心のそこから笑っている気がする。最近はこういう時間のほうが「生きている」という実感がある。口にしたグラスの中身がなくなったことに気づき、後輩が気を遣ってくれた。すっかりいい気分になってきているので、大好きな「黒丸」のロックを注文した。今日は朝までとことん騒ごう、と思った矢先のことである。
「おい、自分ゴンザレスの片割れやろ?」
言葉遣いにむっとして、その方向に向き直ると、いかにもガラの悪そうな大学生風のグループがそこに立っていた。芸人のプライベートを考えられる神様はいないくせに、こういった悪魔のようなファンはちゃっかりといるのである。先ほどまでの円満な座敷は突然の寒波に見舞われた。お笑いブームが到来し、お笑い芸人の社会的地位も向上したとはいえ、依然としてこういう輩は途絶えない。声をかけてきたらしい背の低い男が続ける。
「なんか面白いことせえや。」
最低だ。お笑い芸人というのは、ああ見えて仕事中に非常にたくさんのエネルギーを消費している。いつでもボケられるように準備しておかなくてはならないし、番組内での自分の役割、つまりキャラというものを無理やりにでも演じなければならなかったりもする。何人たりとも、お笑い芸人のプライベートに踏み込む権利は持っていないはずである。ましてや、せっかくの息抜きにいつもの仕事を求められてはたまったものではない。
「お前らなあ。」
さっきまでチョークスリーパーをしていた血の気の多い後輩の行動に、逆に頭を冷やされた。こういう連中につきあっていては、体がいくつあっても足りない。我慢してやり過ごし、芸人らしくテレビ番組でネタにして反撃をお見舞いしてやればいい。
「やめやめ。」
「こっちはプライベートできてんねんから、勘弁してくれや。」
すでに怒りは収まっていた。いつものように、大人の対応ができた。後輩を連れている先輩として、模範的な行動ができたことにすこしホッとした。
「なんや、しらけるなあ。」
相手の安い挑発に、後輩がピクリとしたが、目でそれをさえぎった。時間が経っていたこともあり、店を変えることにした。大将はまるで自分に非があるかのように渋い顔をして何度も「ごめんね」のジェスチャーをした。何度も断ったがその日の勘定は無理やりに半額にさせられた。
「飲み直そか。」
「そっすね。」
そういってみたものの、いったん沈んだ雰囲気はもとには戻らない。わかってはいたものの、このままでは、収拾がつかない。とりあえず、ゆっくりと酒が飲めそうな店を探して歩くことにした。おかしな空気を取り繕おうとすればするほど、ますますおかしな空気に包まれていく。寒さで、一気に現実に引き戻されていく気がした。さきほどまでは、充実感で一杯だった後輩も、しっかりと影をおとしている。次の店では、さっきの店では聞けなかったような本当の「お悩み相談室」になるかもしれない。先ほどの自分が「生きている」と感じられたのが嘘のようだ。「笑い」が日常化しすぎてしまったための職業病だろうか。3人が同方向を向いているようで、ばらばらに歩いている気がする。
「おー寒っ。」
冷たい風に思わず首を引っ込めた。まだまだ、次の店は見つかりそうにない。

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