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大阪教育大学 国語学特論2 受講生による 小説習作集

詩織

2005年度号
『マイ ファーザー』32106
『ループ』32103
『ある日の一コマ』32107
『今日の宴会は祖母の家にて』32105
『三月二十三日〜十二月十日のこと』32101

『マイ ファーザー』
32106

 けんちゃんの家族は日本一幸せな家族でした。お父さんは大きな会社の社長をしており、お母さんはけんちゃんのためにいつもおいしい料理を作ってくれました。
 家にはプールもあるし、車が二台もありました。日曜日にはいつも車に乗ってドライブに行きました。けんちゃんはとても幸せでした。
 けんちゃんが小学校にあがったころから、お父さんがお酒を飲んで酔っ払って家に帰ることが多くなりました。お父さんはお母さんに突っかかります。お母さんは泣いていました。ひどいときにはお父さんがお母さんのほおを叩き、大きなあざができてしまったこともあります。
 そのうちにお母さんは家にいなくなりました。お父さんはけんちゃんに言いました。
「何も心配しなくていいよ。お母さんすぐに帰ってくるから」
 でも、結局お母さんが帰ってくることはなかったのです。
 酔っ払っているときのお父さんはとても怖かったけれど、その後に泣きながらけんちゃんを抱きしめてくれるお父さんはけんちゃんにとって日本一のお父さんでした。泣きながらお父さんはいつもこんなことを言いました。
「けんちゃん、けんちゃん、お願いだからずっとお父ちゃんから離れないでいておくれ。けんちゃんがいなくなるとお父ちゃんは何をしてしまうか分からない」
 お母さんがいなくなってから、お父さんはそれまでよりもお酒を飲んで家に帰ることが多くなりました。けんちゃんに対しても「お前なんかいらない」と言うこともありました。それでもやっぱりお父さんにはけんちゃんが必要だったし、けんちゃんにもお父さんが必要だったのです。
 ある日、けんちゃんが遊びから家に帰ってくると、真っ黒の服を着た男達がお父さんの首根っこをつかみながら何か大声で怒鳴りつけられていました。お父さんの顔は真っ青になっていました。そのときは、けんちゃんは怖くなって震えていました。
 でも、そんなときもお父さんは笑いながらこう言いました。
「あのおじさんたちはお父さんの友達だよ。ちょっとふざけてただけだよ。だから、けんちゃんは何も心配することない」
 大好きなお父さんにそう言われると、けんちゃんはほっと安心するのでした。

 けんちゃんがお父さんと二人になってからしばらくたちました。お父さんがうれしそうにこんなことを言いました。
「けんちゃん、今日は引越しするからね。今まであんまり遊んであげられなかったけど、これからはけんちゃんといくらでも遊んであげられるよ。」
 荷物を整理しているお父さんはずっと楽しそうでしたが、けんちゃんから見たお父さんの背中はひどく小さく見えました。
 次の日からけんちゃんとお父さんは新しい家に引越しました。なぜか車もなくなってしまい、これまで家にたくさんあった家具も全部なくなってしまいました。それに、部屋も寝るための部屋と台所があるだけでした。けんちゃんは不思議に思いました。ごはんもこれまでとは違い、少ししか食べないようになりました。お腹がすいたと駄々をこねるけんちゃんにお父さんはこんな風に言いました。
「けんちゃん、今はこれだけしかないんだよ。お金は遠いところに置いてるからね。たまにはこういう暮らしもいいもんだよ」
 けんちゃんはお父さんの言うことなので、がまんしてそれ以上文句を言うこともありませんでした。
 けんちゃんとお父さんは二人でよく近所の公園に行きました。すべりだいやブランコに乗って遊んでいるけんちゃんを見ながら、お父さんはいつも優しくほほえんでいました。    
 お父さんは夜になってから仕事に行きます。だから、けんちゃんはいつも一人で寝なくてはいけません。そんなけんちゃんのために、お父さんはいつも歌をうたってくれました。お父さんの生れ故郷で伝わっている歌です。とてもとても優しい歌でした。けんちゃんはその歌を聞くと安心していつもすぐに眠ることができるのでした。お父さんは眠っているけんちゃんのおでこをそっとなでて、布団をしっかりとかぶせてから、けんちゃんを起こさないように外に出て行くのです。
 ある日曜日、けんちゃんとお父さんは近所を散歩していました。そのときにけんちゃんは道のわきに落ちていた財布を見つけました。お父さんとけんちゃんが財布の中身を確かめて見ると、その中にはたくさんの札束が入ってみました。そのお金を見た瞬間にお父さんの目の色が急に変わりました。
「けんちゃん。早く行こう」
 お父さんはさっさと歩き始めました。財布を持ったままお父さんは家の方向に向かって行きます。いつものお父さんとはぜんぜん違います。けんちゃんは怖くなって泣き始めました。
「泣くな、ばか。早く来るんだ」
 お父さんはそう怒鳴りながらけんちゃんの頬を強くぶちました。けんちゃんはおびえてもっと大声をあげて泣きました。お父さんは泣きじゃくっているけんちゃんをうつろな目でずっと見つめていましたが、突然お父さんも泣き始めました。
「ごめんね、けんちゃん。お父ちゃんが全部悪いんだ。このお財布はおまわりさんに届けに行こう。だから、泣かないでおくれ。ごめん、ごめんね」
 それはいつもどおりの優しいお父さんの目でした。

 それから、一週間ぐらいしてからけんちゃんはごはんを食べても吐いてしまうようになりました。お父さんはけんちゃんのことがとても心配でしたがどうしても仕事に行かなければいけません。いつものように歌をうたってけんちゃんを寝かせてから、仕事に出かけていきました。
 次の朝、お父さんはけんちゃんのことが気になって、いつもより早めに家に帰って来ました。すると、けんちゃんの様子がいつもと違います。苦しそうにうめいています。お父さんがけんちゃんのおでこに手をあててみると、火が燃えているように熱く、すごい熱です。
「けんちゃん、けんちゃん。大丈夫だからね。お父ちゃんがすぐにお医者さんのところに連れて行ってあげるからね」
 お父さんはけんちゃんを抱きかかえて街に飛び出しました。お父さんは病院を見つけ出しました。まだ閉まっています。お父さんは病院の扉をたたきました。
「すいません。あけてください。息子が死にそうなんです」
 すると、しばらくして中から中年の男が出てきました。お父さんがその男性に事情を話しています。
「息子がすごい熱で苦しがっているんです。助けてください。このままでは死んでしまいそうなんです。ただ、今はお金を払うことができないんです」
 お父さんがお金の話をすると、その医者は冷たい表情ですぐに扉を閉めてしまいました。
その後もお父さんはけんちゃんを抱いたままたくさんのお医者さんを訪ねました。でも、どのお医者さんもお金がないと聞くと、すぐに態度を変えて結局誰もけんちゃんの病気を診てくれることはなかったのです。
 どうしようもなくなってしまったお父さんは仕方なく家に帰りました。お父さんは一生懸命にけんちゃんの看病をしましたが、けんちゃんは時間がたてばたつほどますます苦しそうです。けんちゃんは苦しい意識の中でお父さんの言葉を聞いた気がしました。
「おお、神よ。あなたはこのぼろぎれのようになった私からこの子まで奪い去ろうとするのですか。私がこれまでに一体何をしたというのです」
 それから、しばらくの間、お父さんはけんちゃんの顔を見つめていましたが、急に何かを思い立ったように外に飛び出していきました。
 お父さんが部屋を出て行ってから、けんちゃんはずっとお父さんの名前をうわごとのように呼び続けていました。そして、二時間ほどするとお父さんが家に戻ってきました。お父さんは大きな包みを持っています。
「けんちゃん、お金を持ってきたよ。これでお医者さんに診てもらえるよ。さあ、もうちょっとの辛抱だからね」
 お父さんは再びけんちゃんを担いで病院に向かいました。さっきの医者はお金があると分かると手のひらをかえしたように親切になり、けんちゃんの病気を診てくれることになりました。けんちゃんの病気は悪性の肺炎で、緊急手術が行われました。手術は何時間もかかり、その間お父さんは手術室の外で手術の成功を祈り続けました。
 そのかいもあってか、けんちゃんの手術は無事に成功し、数日たつとけんちゃんも元のようにすっかり元気になりました。やはりけんちゃんのお父さんは最高のお父さんです。また、二人の貧しいけれど、優しさにあふれた生活が再開したのです。
 
 年月は風のように過ぎていきます。お父さんはけんちゃんの誕生日になると、普段の生活からは考えられないような豪華なプレゼントを贈ってくれました。それは近所の子どもたちが誰も持っていないような上等の自転車であったり、テレビゲームであったり、時にはフランス料理のフルコースを食べに連れて行ってくれたこともありました。
 けんちゃんの誕生日が何度めぐってきたでしょう。けんちゃんはもう小学校の四年生になっていました。何年たってもけんちゃんはお父さんが大好きで、お父さんもけんちゃんが大好きでした。
 その日、けんちゃんとお父さんはいつも通り、家で晩ごはんを食べていました。けんちゃんはお父さんに将来の夢について話しています。お父さんはにこにこしながらけんちゃんの話を聞いていました。そのとき、突然家のインターホンが鳴りました。お父さんはインターホンに出て、話している内に顔が真っ青になりました。
「はい。分かりました。すぐに準備します」
 インターホンに向かってそう答えてから、お父さんはけんちゃんの方を向きました。いつも優しいお父さんですが、そのときのお父さんの目は今までに見たことがないほど優しい目でした。そして、お父さんはけんちゃんにこんなことを言いました。
「けんちゃん。お父ちゃんはこれから遠いところに行かなきゃいけない。しばらく、けんちゃんに会うことはできないかもしれない。これはお母さんの電話番号と住所だ。ここに連絡して、これからはお母さんといっしょに暮らすんだ。それから、この手紙はけんちゃんのために書いた手紙だから、お父ちゃんがこの部屋を出てから読んで欲しい。分かったね」
 お父さんはけんちゃんに手紙を渡しながらそう言いました。そして、お父さんは小さな手荷物だけを持って部屋を出て行きました。
 けんちゃんはしばらくどうしていいのか分からない様子でしたが手紙を開いて読み始めました。

「けんちゃん。お父ちゃんです。この手紙は読み終わったらすぐに破いて捨ててしまって       ください。
 お父ちゃんはまだけんちゃんが小さいころ、会社の仕事に失敗して、会社もお金も全て失ってしまいました。お父ちゃんのことをそれまでずっと支えてきてくれたお母さんにも、自分の情けなさを少しでもやわらげるために暴力をふるってしまいました。当然ながら、そんなお父ちゃんがいやになってしまったお母さんはお父ちゃんを見捨てて出て行ってしまいました。
 その後は、とうとう家にも住めなくなって、今の家に引っこさなければいけませんでした。そして、そのころからお父ちゃんにとっては、けんちゃんがたった一つの心の支えになりました。けんちゃんの幸せは全てお父ちゃんの幸せだったのです。
 あのころ、道で財布をひろったことを覚えていますか。あのときに実はお父ちゃんは財布の中身を盗んでしまおうとしました。きっとお父ちゃんの心は悪魔のようになっていたのですね。今でもけんちゃんをぶってしまった後悔は忘れることができません。あのときは本当にごめんなさい。
 それからしばらくして、けんちゃんが病気になってしまったことがありましたね。けんちゃんがすごい熱が出て苦しんでいるのを見たときには、本当にけんちゃんが死んでしまうのではないかという恐怖がお父ちゃんを襲いました。たくさんの医者を周りましたが、どの医者もお父ちゃんがお金を持っていないことを知ると、全く診てくれようとはしませんでした。そのときほどお金というものを憎らしく思ったことはありません。
 途方に暮れて家に帰ってけんちゃんの顔を見ているうちに、お父ちゃんの頭の中に恐ろしい考えが浮かび上がってきました。
 そうです。お父ちゃんは他の人の家からお金を盗み出そうと考えたのです。そして、近所でも特に大きな家に忍び込んだのです。ところが、順調にお金を盗み家を出ようと思ったときに、その家に住んでいる人とはちあわせになってしまったのです。そして、とっさにお父ちゃんは持っていたナイフでその人をさしてしまったのです。その後はどうしていいのか分からず、気付くとその家から飛び出していました。その後、その盗み出したお金で、けんちゃんの命を何とか救うことができたのです。
 その翌日、お父ちゃんがさしてしまった人が死んでしまったという事実を知りました。とても後悔しました。でも、けんちゃんのために自分はここにいなければいけないと感じ、
これまで自分の罪を隠し続けてきたのです。
 実は、これまでけんちゃんに買ってきた誕生日の贈り物も全て盗んだお金で買ったものです。
 こんな話を聞いて、けんちゃんはお父ちゃんのことを大嫌いになってしまったかもしれません。お父ちゃんは卑怯でいくじなしの人間です。でも、けんちゃんを愛している気持ちは誰にも負けません。
 お父ちゃんは今後一切けんちゃんに会うことはありません。きっと元気で生きていってください」

―四十年後―

 その日は、雪の降っている夜でした。けんちゃんは事業を成功させ、大会社の社長になっていました。大きな家があり、家族もいました。そんなときにけんちゃんの家のドアをノックする音がありました。けんちゃんが外に出てみると、そこにはみすぼらしい老人が立っていました。
 老人は言いました。
「水を一杯だけください」
 けんちゃんは老人の目にふっと懐かしさを感じました。それはとても優しい目でした。老人は穏やかにけんちゃんの顔を見つめています。けんちゃんが老人に水を一杯渡すと、老人はそれをとてもおいしそうに飲みました。
「ありがとう」
 老人はそう言うとまた雪の降る街に去っていきました。けんちゃんはなぜかとてもうれしい気持ちになりました。

 
 次の朝、老人は街の片隅で枯れ木のように倒れて、息を引き取っていました。 

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『ループ』
32103

 私は時計を捨てたのです。そうすることが当然であるかのように、実に暖かく。

 以前。そう、以前と呼ぶにふさわしく、昔、というには最近すぎる出来事。

 私は、そう、私は確か、

 静かな場所へ行こうと思いました。

 穏やかな場所へ行こうと思いました。

 行けるところへ行こうと思いました。

 私は私の思いを叶えるために、まずはしっかり準備をしなくてはならないと思いました。はじめに、私は、腕時計がなくては今いったい何時なのか分からなくて困るだろうと思い、私は私の思いを叶えるためには腕時計が必要なのではないだろうかと思いました。しかし、本当に残念であり、また当然なことだったのですけれども、私は腕時計を持っていなかったので、いつからか私の元にありました懐中時計を持っていくことにしました。もうこれで十分だと思いました。あとは何もかもいつもの私でしたけれども。

 そうしてすぐに、私は歩くことにしました。今になって考えれば、私は飛行機や船や車で行ってもよかったのですが、それでは私は私の思いを叶えられないのではないかと思ったので、自分の足で進むことにしたのです。何もかもこれでいいと思いました。本音を言うと、自分の足で歩くというのは思っていたよりもとても疲れることでしたが、足の裏をなめるような砂利の感じが本当におもしろかったので、歩くことをやめようという気にはとうていなれませんでした。そうして、今、さらに真実というものを告白するのであれば、心のどこかで、これがいいのだとも思っていました。

 幾日か私は座ったり歩いたり戻ったり走ったりスキップしたり歌ったり眠ったり食べたりを繰り返して、そのうち雨が降っていることに気づきました。着ていた服もすっかり濡れて肌に張りついていました。そうすると、短い夏、長い雨、トーンの下がった街、辺りを覆う一面の白、白、白、そんな言葉が浮かんできては歌となって次々と口から出ようとしましたので、私は私の口を押さえる道具がないものかと思い、あわててそういう道具を探すことにしました。

 急ぎ足でそういう道具が売っている店を探していると、白は小さい無数の花であることが分かりました。私の街にはこんな花は咲かないので、めずらしくもあり、かつ、また、嬉しくもあって、私はどきどきと打ち出す心臓の音を隠すのに必死になってしまい、先ほどまで自分が何をしていたのかをすっかり忘れてしまいました。そこで、とりあえず何をしようとしていたのかを思い出すために、道に座って、その花を眺めることにしたのです。白、白、白。いっぱいの白。また、私の口が歌い出そうとします。 −また?− あぁ、私は私の口を押さえる道具を探していたのだと思い出して、立ち上がるために、細い雨が目に入ってしまわないだろうかと心配ではありましたけれども、顔を雨の降るほうへと向けました。すると、街の者は、花にも、そしてこの私にもまったく目をくれないまま、傘を片手に、花に埋まった街の中を下を向いて歩いていきます。その靴はどれも底が厚いようで、私は、あれではどうやって雨が降っているのが分かるのだろう、どうして家を出て傘などさそうと思ったのだろうと、そういうことが不思議でたまりませんでした。

 「今、何時?」

 そうやってこちらに声をかけてきた男は、まるで笑ったような顔をしていました。そのまるで笑ったような顔があんまりおかしかったので、私は、おそらく1分にも満たない程度ではありましたが、どこからかこみ上げてくる笑いをこらえた後、男の左の手首にはめてある時計を見ながら、15時10分だと正確に答えました。そう答えた私の顔はひどく無表情だったと男は後から私に言いました。続けて、自分が腕時計を外すのを忘れていたことと、おそらく1分にも満たない程度の時間がひどく気まずかったのだとも言いましたけれども、私はただ、あくまで笑いをこらえるのに必死だったということをもう一度ここで言っておきたいと思います。

 「この時計、狂ってるんだ。君の時計は?」

 確かこのように男は続けたのだと思いますが、本当はどうだったのかなど、それは私にとって実に些細なことだとも同時に思われました。右側よりも少しだけ重い左側のポケットから、私は、私が歩き始めるときに準備していた懐中時計を取り出しました。そういえば、懐中時計を見るのは歩き始めてからこれが初めてだなどと考えていると、また道端の白い花がひどく気になって、私はどうして左手に懐中時計など握りしめているのか分からなくなってしまい、目の前の男にその理由を尋ねます。

 「今、何時?」

 あんまり優しい目でそうやって再び尋ねてきた男の目を見ると、私の足の裏は砂利の上を歩いているようにくすぐったくなって、今度はたぶん私もまるで笑ったような顔をしながら、15時12分ですと、やはり正確に答えました。このときから男と私は始まったのだと記憶しています。時間が経って、こうして後から思うに、私が腕時計をしていない理由が、本当はできない理由だったことを除けば、男にとってそれはまったく計算通りの出来事であったのであろうと思われます。しかしながら、私もまた、このような男に対して、くすぐったいような気持ちはしていたものの、別段悪い心地がしたわけではありませんでした。そういう始まりだったのです。

 少しだけ時間が過ぎて、男と私はごくごく当たり前に、この街に雨が降れば白い花が咲くように、同じ部屋にいるようになりました。私は確か歩いていたのではないかということは忘れませんでしたけれども、男の部屋から見える花に埋まった歩道を見るのもまたおもしろいことでしたので、しばらくの間、歩いていたことは窓辺に置いてある机の引き出しに入れておくことにしました。鍵は持っていなかったので、かけることができませんでした。それがひとつ残念なことでした。

 懐中時計の長針と短針が重なる頃には、男と私は同じ部屋の同じベッドの上にいながら、まるで離れることを拒むように体を重ね合い、私は、耳を寄せればかすかに響く男の60回の音を聞きながら、とろとろと目を閉じる日が続きました。目の奥で見る夢の中には必ずと言っていいほど白い花が出てきましたし、私はその中に埋まってしまった道を、このまま足を踏み外してどこかへ落ちてはしまわないかと、そろりそろりと歩いていくのです。私にとってそういう夜は、それまで思っていたはずの夜というものよりもずっと優しいものでした。落ちてゆく感覚、よどんだ空気。どこで覚えたのが、私はこれまで、寝床につくときには、そういう歌を歌っていました。つまり、その歌を何を考えずとも私が歌うということは、これまで夜を愛さなかったわけではないということになります。もちろん、そのような私の歌を聞いているはずの男も何も言いませんでした。それにしても、耳奥に響く拍動とは少しだけずれた針の音に酔うのがこれまでの夜の習慣になっていたことも、私にとっては紛れもない真実でした。だというのに、あの日優しい目で私に問いかけてきた、今はもう傍らで静かな寝息をたてている男の呼吸と拍動はこれまでに触ったことがないほどに柔らかなもので、もしかしてここには刻む針など必要ないのではないかと私が思い始めたとき、この部屋の中の3つの60回は、きれいに重なり合うような気がしました。思うにそれは、切り離される一瞬に、張り詰めた静寂に、私が恋をした瞬間でもありました。

 「これ。」

 ある日私に手渡されたのは、大変小さな箱でした。赤いリボンと真っ白な包み紙を見て、街の角の店で売っているケーキに似ていると私は思いました。それと同時に、この街には赤などないのにと思うと、またどこからか、くすくすと笑いたい気持ちがやってくるのです。私は、ケーキも街も崩れてしまうのがいやだったので、窓辺に置いてある机の引き出しの隅にこっそり入れておこうとしました。それでも、男が、今度は私を促すような目で見ているのに気づくと、なんだかとても申し訳ないような気持ちになってしまって、そっちのほうがずっと嫌だった私は、それでも、ケーキと街ができるだけ壊れてしまわないように、ゆっくりゆっくり包みを開いていくことにしました。リボンは小さく丸めて、包み紙はきれいに折りたたみました。そうしていくうちに、元はケーキだったものの中から現れたのは、涙のような懐中時計でした。細いチェーンを手にとると、それはカシャリと鳴いて右に左に前に後ろに揺れ出します。涙には仲の良さそうな男と女が映りこんでいたのがとっても不思議だったのですけれども、時計のガラスの向こうに3匹のウサギがいることのほうが気になってしまって、そんなことなどすっかり忘れてしまいました。

 「あっちの店で見つけたんだ。」

 優しい目に戻った男が私にゆっくりと話しかけてきます。長針と短針、秒針の追いかけっこ。追いついたと思えばすぐに遠くへ行ってしまう。くっついたり、離れたり。小さく歌い出した私の背中を、男はずっと抱いていてくれました。こんなにも涙に似た懐中時計。こんなにも涙に似た懐中時計は、いったいどこにあったのか。こんなにも涙に似た懐中時計を売っている店の店主は、いったいどんな顔をしているのか。私はそんなことばかりを気にしてしまって、白い道を歩くのも忘れて、その晩はなんだか寝付かれませんでした。

 白い花は相変わらずクリームのように街を埋めながら咲き続けて、雨もやっぱり糸のようにさらさらと降り続けていました。私も窓辺で花や歩道や雨や傘や底の薄い靴やケーキを売っている角の店や懐中時計などを見ているのでありました。やがて男はいつものように帰ってきて、いつものように私を抱きましたけれども、私もやはり男を求めていましたし、何より、男が私を見る優しい目と、まるで笑っているような顔を見るのが好きでしたから。そういう男と私がその夜も同じように涙のような懐中時計に映りこみ、3匹のウサギはと言えば、あいも変わらずくっついたり離れたりを繰り返しているのです。そういう日々、まさにそういう日々でした。そう日々が、くすぐったいようで、愛おしいようで、悲しいようで、どことなくケーキの間の見えないイチゴのようで。そんな気がして、たまりませんでした。

 しかし、私は、時々は私が歩いていたのだということを、一人でこっそりと窓辺に置いてある机の引き出しを開けて確かめていました。白い花にも角のケーキ屋さんにも内緒です。そしてまた、私は、時々は私が歩いていたのだということを、一人でこっそりと歩道を少しずれたところにある砂利道を歩いて確かめていました。雨と3匹のウサギには初めからばれていましたけれども。そういう時はやはり、私は、足の裏をなめられているような気になり、こみ上げてくる笑いや歌を誰かに聞かれてはしまわないかと心配になって、背を10センチほど低くしながら、そういう道具を売っている店を探してしまうのでした。もちろん、いつもいつも、道端の白い花が目に入ると、自分がどうしてどこへ何を探しているのかを忘れてしまって、すぐに男のところへ帰ってしまうのですけれども、なぜだか男はいつも優しい目をして、まるで笑ったような顔をしてくれるのです。そして私はまた一人、ベッドの上でころころと笑ってしまうのでした。

 「静かだな。」

 ある晩男はこう言いました。私は男が何を言っているのかさっぱり分からずに、こんなに楽しい夜はないだろうと言いました。男はまた、まるで笑ったような顔をして、私をあの優しい目で見つめるのですけれども、どうしてこんなに楽しい夜なのに、男は静かだなどと言ったのだろうと、その理由を考えずにはいられませんでした。いつものように、ウサギは楽しそうにくっついたり離れたりを繰り返しています。ずっとずっと考えて、男が寝息を立てている横からこっそり抜け出して、白い花に埋まった歩道を歩きながら、ゆるゆると歌を歌いながら考えて、考えて、また考えました。花、歩道、雨、傘、底の薄い靴、ケーキを売っている角の店、懐中時計、3匹のウサギ。何もかもそのままだというのに。何が、どこが静かなのかと、こんなに楽しい夜も昼もないだろうと。すっかり濡れてしまった白い服を脱いで私は男の隣に戻って、何もかもを知りました。1つに重なったはずの60回は、なぜだか2つの60回になっていたのです。私が1つなのか、男が1つなのかだけは、最後までとうとう分かりませんでしたけれども、私は涙の代わりに涙のような懐中時計を男の隣に置いて、窓辺に置いてある机の引き出しの中から、私が歩いていたということを取り出して、静かに男の部屋を出ました。3匹のウサギに小さくさようならと言うことも忘れませんでした。そうすることが、おそらく当然であると思われました。

 再び、私は、今はもう忘れてしまった私の願いを叶えるために、右側よりも少しだけ左側を重くしながら歩き始めました。以前とおそらくは変わらないであろう速さで、ここから落ちてしまわないかと心配しながら、そろりそろりと歩きました。今はもう忘れてしまった私の願いを叶えるために、とりあえず、まずは静かな場所へ行こうと思いました。穏やかな場所へ行こうと思いました。行けるところへ行こうと思いました。そういうところへ行こうとしたはずなのです。それなのに、私の願いはなんだったのかを男に歌って聞かせるのを私は忘れてしまったので、どうして私は歩いているのかということを尋ねる人が、いいえ、男がいなくなってしまったのではないだろうかというふうに思われてしまいます。本当に、悲しくなって、何度も理由を尋ねに戻ろうかと思い直して後ろを振り返ったのですけれども、そこには白い花に埋まった街などすでになく、あるのは、傘を持たない人が上を向いて歩いているだけの、なんともつまらなさそうな街だけなのでした。

 今、何時?15時10分。この時計、狂ってるんだ。君の時計は?今、何時?15時12分。

 そういう歌を歌っていると、私の目から本当の涙が次から次に出てきて、左の手の上にこぼれていきました。そしてまた、同時に、私は本当に笑っていたのです。なんという皮肉、そしてまたなんという真実。泣きながら、笑いながら、私は何もかもを知りました。名前も知らない街のこと、名前も知らない花のこと、名前も知らない店のこと、名前も言わない男のこと、そして3匹のウサギの終わらない追いかけっこ。そういうすべてのことを。

だから、

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『ある日の一コマ』
32107

「どうしてこんなことになってしまったんだろう・・・」太一はひどく後悔した。
 太一は大学三回生の、どこにでもいるような普通の青年である。太一自身も自分は普通の人間であり、普通の暮らしをして、普通の生涯を終えていくのだろうと思っていた。
 長い夏休みも終わり、太一は久しぶりに大学にやってきた。夏休みに入る前は、その下で動き回る人間のことなど知ったことではないとばかりに、いよいよ本領発揮と太陽も照り輝き、何もしていなくても汗がダラダラ出てくる地獄のような毎日だった。しかし、流石に秋になり、太陽もシュンとしたのか、今日はときたま涼しい風が吹く、過ごしやすい日だった。
 講義室に入ると、そこは多くの学生で賑わっていた。前期のときとは装いもまったくちがっており、新鮮な雰囲気が漂っている。ただ、これが一ヶ月もすれば、また以前のようなだらけた空気がこの講義室に漂ってくるのかと思うと、少し面白くもあった。
 今までのように、講義室の後ろのほうに座ろうとすると、そこに見慣れた顔があった。友人の勝男と道長である。大分早くから来ていたみたいで、2人でなにやら話していた。この3人は、大学に入ったときからの友人で、普段からよく一緒にいるのである。時々あまりにも一緒にいすぎて気持ち悪がられることもあったが、ここではどうでもいい。久しぶりに会った3人は夏休みの生活について話し始めた。講義開始の時間はもう過ぎていたが、まだ教授はきていないし、周りもみんなガイガイザワザワ好き勝手に喋っている。ここでこの3人が喋りだしたからといって大勢にはまったく影響はないのである。
 まっさきに話し出したのは道長だった。彼は遊び好きで、普段から少しでも休みが続けば、旅行に行ったりしている。当然話の内容もほとんどがそれで、南は鹿児島、北は北海道と全国津々浦々と旅をしてきたこと、いろいろな出会いがあったことなどを延々と話し出した。時々、こちらにも話をふってくるのだが、なんせ太一は夏休み中はずっと家でゴロゴロしたり、採用試験などに向け勉強をしていたりで、ほとんど家の外には出ていなかったし、勝男もずっとバイトに明け暮れていたということで、まったく話が成り立たなかった。それでも、勝男はこの夏で10万稼いだよ、とニコニコしながら答えたりもしたが、道長はそれを聞いたか聞かないのか、再び自分の旅行の話を始めだした。なんとなく失礼な気もするが、長い付き合いでお互いのことは良くわかっていたし、別にたいしたことではなかった。
 流石に、勝男の話にだれだし、もういいよ・・・と思い出したときに、天の救いか、教授が入ってきた。それまで賑やかだった教室もすこしずつ静かになっていき、それと同じくして、道長の声も小さくなっていった。時計を見るともう30分ほど開始時刻から遅れているが、これもこの大学ではいつものことなので誰も気にしていない様子だった。
 一回目の講義ということもあり、次回以降の説明だけですぐに終わった。30分遅れてやってきて、20分程度の説明で終わるというのもどうかと思ったが、早く終わる分にはむしろ歓迎なので、何も言わないでおいた。次の授業までにはまだ30分ほどの時間が残っており、3人でどうしようかと話し出した。とりあえず、時間割でも見せ合おうかということになった時、勝男が突然、一応単位を確認しておこうかと言い出した。太一はしっかり単位は取ってあるし、別に確認することもないんじゃないかなと思ったが、どうせ時間が余っていたし、自分が今までにどの程度の単位をとっているのか、確かに興味もあったので、ついていくことにした。取得単位を確認する機械は、学生課にある、さっそく3人は学生課に向けて歩き出した。
 一応は講義の時間中ということもあって、学生課はひっそりとしていた。なにやら忙しそうに動き回っている事務の人と、数名の、書類を書いている生徒がいるだけである。3人は誰とも目をあわすこともなく、一番奥にある機械の前まで歩いていった。他の生徒に知られないようにといった配慮のためか機械は本当に奥まった、角のところにある。なんとなく薄暗いし、機械の前までくると、そこには機械と自分たちしかいないのではないかという錯覚までしてくる。
 まずはじめに、道長が調べた。すこし時間を置いて、取得単位が書かれた紙が機械から出てくる。こちらの気持ちをじらすかのように、ひどくゆっくりと出てくる。機械のくせに嫌味なやつだ。次に勝男が調べた。同じく時間をかけて紙が出てくる。最後に太一が調べた。太一の紙が出てくるまでの間、ほかの2人は、紙を見て、なにやらいろいろ話している。静かな学生課の中で、一番奥の薄暗い角が賑わっているというのも、なかなかシュールな光景である。不思議に思ったのか、それともうるさかったのか、何名かこちらをじっと見る人がいた。目つきからしておそらく後者だろう。機械の前で暇そうにしている太一と目が合い、お互いなんとなく気まずそうだったが、他の2人はまったくお構いなしだった。おめでたい2人である。正直うらやましい。
 そうこうしているうちに、やっと太一の単位表が出てきた。自分で見てみると、一回の時から、こまめに取ってきただけあって、単位数は十分すぎるほどあった。これなら後期、そして4回はかなり楽が出来そうだな、ととても気持ちが晴れやかになった。自然にそれが顔にも出て、太一はとてもニコニコしていた。
 その表情を見てか、さっそく2人がやってきた。2人は太一の単位の多さに驚いていたようだった。正直、あまりうるさくなってしまうと、また他の人たちにジロジロ見られるのではないかと、気が気ではなかったが、2人に凄いなー、なんでこんなにとれてるねん、等と言われると、まんざらでもなかった。太一はこの時、とても幸せだった。薄暗いこの場所も太一にはなんとなく明るく感じた。
 が、しばらくすると、2人が突然話を止めた。ふと太一は我に帰り、2人を見てみると、なんとなく寂しそうな、哀れそうな表情をしている。滅多に2人がそんな表情をすることが無いため、太一は恐る恐る聞いてみた。
 「なんでそんな怪訝そうな顔をしとるん・・?」
 2人は顔を見合わせていたが、やがて勝男が答えた。
 「太一、必修の単位をひとつとり忘れてるで・・・」
 聞いて太一はホッとした。2人の表情からすると、もっととてつもなく大きなミスをしてしまっていたのではないかと思っていたからだ。勿論、必修の単位をとり忘れていたというのは、それなりにショックだったが、どうせ4回は授業はほとんど無い、そこで取れば良いだろう、失敗してしまったら取り返しがつかないが、まぁ真面目にやっていれば大丈夫だろうと思った。
 ところが、太一が4回で取るから大丈夫と言っても、2人はまったく、表情を変えない、むしろますます、哀れそうな顔になり、なにやら悲壮感まで漂ってくる。流石に不安になってもう一度詳しく聞いてみた。同じく勝男が答えた。
 「あのな、その単位は3回のみの開講で、4回では時間の関係もあって取られへんねん・・・」
 太一はそれを聞いて暫くは、まるで何も考えることが出来ないといったようにポカーンとしていた。そしてやっとの思いで、恐る恐る一言聞いた。
 「じゃ・・・いつ取るの・・?」
 2人は声を合わせて答えた。
 「再来年・・・」
 太一の頭は真っ白になった。再来年ということはつまり、大学生活があと一年増えるということである。確かに、いよいよ大学生活も終わりに近づき、あ〜あともう少し大学生でいたいな〜と思うことはあったが、こんな形で叶ってしまうとは思わなかった。いや、叶ってほしくない、そんな叶い方ならこちらから願い下げである。だがコレばっかりは断ることが出来ない。確実にやってくるのだ。
 なぜ、あのとき、もっとしっかりと時間割を見ていなかったのか。なぜこんなことになってしまったのか、太一は激しく後悔した。先ほどまで、盛り上がり、明るく輝いていたこの場所も、いまでは以前にまして暗くどんよりしている。あまりの場の変わりぶりに驚いたのか、事務の人たちも、先ほどとはちがった目をして、太一をジロジロ見ている。2人はなにやら言ってくれているようだが、正直まったく耳に入らない。太一の頭の中には今までの出来事が走馬灯のように流れていった。先ほどとは違う意味で太一は別の世界に行こうとしていた。
 その時、ガシャンと言うとても大きな音が学生課に響いた。どうやら事務の人がなにやらファイルを落としたらしい。その音で太一は再びフッと我に帰った。正直我に帰れた事が良かったのか悪かったのか太一は複雑な心境だった。
 もはや、太一は午後の講義に出る気も失っていたので、今日はとりあえずもう家に帰ることにした。2人にもう帰るわ、とだけ告げると、まるでここにいるのが辛いかのように、走るようにして学生課を後にした。2人はやはり、太一に何か言おうとしていたようだが、やはり太一の耳には入らなかった。外に出ても、学生は殆どおらず、シーンとしている。朝、大学に来る時は心地よく感じた秋風もいまではただ単に寒いだけである。太一は、まだあの夏のように、太陽が恐ろしいまでに照り輝いてくれていた方が良かったと感じた。夏に比べ力を失い、なんだか細々と輝いている太陽はまるで今の自分のように、太一には感じられた。
 駅に向かって小走りに歩いていると、ガラス越しにまだ講義をうけている学生たちの姿が見えた。普段なら、他の学生が勉強している間に帰れると言うのはなんだか嬉しいし、ご苦労様と心の中で思っていたが、今は何となく罪悪感のようなものまで浮かんでくる。太一はこのままではいけないと思い、走り出した。とりあえず、走ってさえいれば、そういったことを考えずに済んだのだ。
 暫くして、駅に着いた。相変わらず人はいない。とにかく何も考えないようにとボーっとしているとすぐに電車がやって来た。太一の家は大学から2駅、だいたい30分ほどの所にある。電車の中はまだクーラーが効いているのか、そとよりも寒く感じられた。電気もなんとなく普段よりも暗い気がする。
油断しているとまた、色々な考えが浮かんでくる。太一は目を閉じて、まるで石になったかのようにジッと駅に着くのを待っていた。普段なら友人と話しながら帰り、あっという間に着いてしまうのに、今日だけは何時間もかかっているように感じられた。時間と言うのは不思議な物だと思った。
 電車を降りると、やはり太一は何も考えずに済むように、家までの間を走って帰った。普段ならのんびりと歩いて、樹や川の流れなどを楽しんでいたが、今日はそんな余裕は全く無かった。とりあえず早く家に帰りたい、それだけを思って走りに走った。駅からそんなに遠くは無いとはいえ、普段あまり運動をしない太一にとっては、かなりの距離だった。途中何度も歩きそうになったが、何となく歩いてはいけないような感じまでしてきて、倒れそうになりながらも走りきった。やっと家に着いた。
 鞄をおいた太一はベッドの上でごろんと横になった。一人暮らしの小さな家である。しかし、部屋はとても綺麗に整理されて居り、投げ出された鞄だけが不自然に転がっていた。鞄の中身もいくつか出てきてしまっていて、部屋には不似合いだったが、太一は全く気にしなかった。本を読むのではなく、テレビをつけるのでもない、ただ単にベッドに寝そべり、天井をじっと眺めていた。そして、今日起こったこと、なぜそんなことが起こってしまったのか、これから一体どうするのかを色々と考えていた。久しぶりに思いっきり走り、肉体は疲れていたが、頭の中は不思議にはっきりとしており、また冷静であった。そしてそんなことを考えているうちに、うとうと眠ってしまった。
 2時間ほどして、目が覚めた。なんとなくスッキリとしている。普通の人生を歩んでいた太一だが、かれには一つ自慢できるものがあった。どんなに悪いことでも一眠りすれば何でもないことのように感じられるのだ。もっとも今回ばかりはショックが多かったために、どうでもいいと思うまでには到らなかったが、悪いことばかりではなく良い面も考えられるようになっていた。
 まずは、はじめにも考えたが、大学生活が1年間延びるということ。あくまでその単位を取ることだけに集中すればいいのだから時間はたっぷりある。どこかに遊びに行ったり、見聞を深めることも出来るだろう。
 次に、いままでは時間の関係で取ることを諦めていた資格を取得することができると言うこと。単位もそうだが、太一はこういった資格を取ったり集めたりすることは興味があった。その上、実際に役に立つ物でもある。一年あれば2〜3個は余分に取れそうである。何となく嬉しくなってきた。
 今思いついたのはこの2点だったが、他にも色々と出てくるだろう。それほど嘆く物でもないな、と今の太一は考えられるようになっていた。何となく、必死に自分で自分に言い聞かせようとしている気もしたが、気付かない振りをした。終わったことを考えても仕方が無い。とりあえず晩御飯を食べ、お風呂に入り、すぐにまた眠ることにした。明日は、まるで何事もなかったかのように明るく大学に行き、2人を驚かしてやろう、そんなことも考えながら、太一は再び眠りに着いた。
 次の日は、まるで夏が戻ってきたかのように、太陽は照り輝き、雲ひとつ無い青空が広がる最高の天気だった。太一は、昨日考えたように、その最高の天気にも負けないくらいの笑顔で大学に行った。他の学生が自分を避けるように歩いていた気もするが、な〜に気のせいだろう。
 講義室に入るといつものように2人が座っていた。太一が近づくと2人は驚いた顔をしてやって来た。自分があまりに笑顔だから驚いているのだろう、太一はしてやったりと思った。そして理由を話そうとすると、2人が先に話し出した。内容はこうである。
 「ごめん、えっと、昨日の話しは嘘なのよ」
 太一はポカーンとした。一体何を言っているのか理解できなかった。それでもなんとか話を聞いてみた。どうもその必修の単位は、夏休みの間に、集中講義と言う形で行われた物であり、太一がいなかったことに気付いた2人は、注意もこめて、驚かすつもりで言ったのだという。勿論4回で取れないというのも嘘で、冬休みにも同じ集中があり、そこでとれば問題ないらしい。最初は冗談のつもりで言ったのが、あまりにも太一が本気にし真実を話す前に帰ってしまったから驚いた、と言うことだった。
 これを聞いて太一は嬉しいやら腹立たしいやら訳の分からぬ気持ちになった。驚かすつもりが逆に驚かされた。確かに今になって思えば、初めに講義室で2人がコソコソ話していたのも気になっていたし、3回だけしか取れない単位というのもおかしな話だと思う。しかし、その時は2人の演技にすっかり騙されていたのである。そういえば2人は中、高校と演劇部に所属していたらしい。以前聞いたことがあったがすっかり忘れていた。正直、冗談にしては行き過ぎている気もするし、あれだけ悩んだ自分は一体なんだったんだと思ったが、2人にまぁ、いつものことだろ?と言われるとそんな気もした。結局自分ひとりだけで勝手に思い悩んでいたようだ。
 色々あったが、終わってみると結局また3人仲良くつるんでいる。なんだかんだ言って、やっぱりお互い相手の性格をよく理解している、いいグループなのかなと太一は思った。ただ、流石にどこかで仕返しはしないといけないなとだけ考えていた。
 澄み切った青空の下、3人はいつものように学食に向け歩き出した。

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『今日の宴会は祖母の家にて』
32105

 曇りガラスが入った横開きの玄関扉をカラカラと引いた。玄関からは独特の匂いが漂う。洗剤のような刺激臭だが、埃っぽい。私は祖母の家に訪れる度、この匂いのせいで鼻がうずいて仕方がなかった。ここは昔から何も変わっていないようだ。
 玄関で靴を脱ぐと、すぐ目の前に扉がある。一階は客間だけで、キッチンやリビングは二階になっている。だからこの家に来たら、とりあえずは上へ行く必要があった。金属のドアノブを回し引くと、その二階へとつながる暗い階段が現れる。奥から蛍光灯の白い靄がこちらへ伸びていた。母の下品な笑い声がするので、もう宴会は始まっているらしい。ふと、ドアノブを握りっぱなしだったことに気がつき、慌てて手を開いた。なにやら手にからみつく感じを覚えるので、しばらく指の腹で掌をこすっていた。腕時計を覗くと、暗がりで長針と短針の蛍光色が淡く浮かび上がっている。五時十三分。とくに理由はなかったが、十五分ちょうどになるまで階段の下で立っていることにした。腕を降ろした瞬間、先ほど嗅いだ匂いのことを思いだしてしまった。

 祖母の葬式はあっという間に終わってしまった。正確には、何からが始まりで、いつ終わったのかさえ分からなかった。母に尋ねると、どうやら今日はもう帰っていいとのことだった。葬式というものを初めて経験した私は、テレビドラマにあるような狭くて息の詰まる空間を予想していたのだが、有名な式場を借りたせいもあってか、まさにその逆であった。大食の私などは、すでに一通りの豪華な料理がテーブルに並んでいたことだけで、食道が開き、腹が鳴る。また、葬式といえば黒い印象であるが、ここは壁も天井も卵色で、床は紅の絨毯だった。大きなシャンデリアから白い光がそそいでおり、祖母の写真の黒い額縁だけが死を主張しているかのようだ。
 写真の祖母は笑顔だった。どうも最近になって撮ったものらしい。白黒だったら分からなかったかも知れないが、カラーで現像された写真には、生前の祖母のやつれ具合がしっかりと刻み込まれていた。
 あの日、夏休みの宿題もそっちのけで、久しぶりの登校にわくわくしながら寝床についた私を、聞き慣れない携帯電話の着信メロディが呼び覚ました。祖母の死を報せたのは大阪に住む姉からの電話だった。母は祖母が危篤に陥った日から大阪に発っていた。今から来るにはタクシーしかなく、明日は学校だという理由で、私はただ一人、家にいることとなった。携帯電話の時計を見ると、二時を少し回っていた。誰もいない真夜中の家で、覚めて間もない眠気を私はひたすら待った。しかし、明け方になってもそれは訪れることがなかった。
 八月は一度だけ母について祖母の入院する病院へと向かった。病院は赤褐色のレンガ調で、広大な面積を有するも高さはなかった。すぐ側に二十四時間営業のコンビニエンス・ストアがあるのだが、病院側からはフェンスで遮られているため、国道に面した側からしか入ることができない。このフェンスを取り除けば、患者やその家族も利用しやすくて、明らかに利益が上がると思う。母が二人きりで話している間に立ち寄った私は、その白い網目越しに病院を見つめながら、ペットボトルのキャップを開けた。
 病院内の空気はまずかった。鼻がうずいて仕方がない。ロビーはそうでもないが、酷いのは廊下だった。鼻から肺に行く手前で口腔に逃げ出した空気が、舌の味覚器に触れる。ワックスの行き届いていない床を踏む度に、匂いの根源が靄となって立ちのぼるかのようなイメージが頭から離れず、音を立てずに歩みを進めた。
 母の希望で祖母の部屋は個室をとってある。床は綺麗なフローリングで、空気清浄機が設置してあった。テレビはついているが、当の祖母は見ているのか見ていないのか判断し難い目をしていた。布団から出した手は乾ききっており、呼びかけると首を動かしもせず、ああ、とだけ漏らした。これが病人というものか。しばらくして、母が二人で話したいというので、私は最後にそっと祖母の手を触った。確かな感触が、個室を出たときには何も残っていなかった。

 どっと笑い声が上から降り注いできた。まだ昼間だというのに、開いた缶ビールが無数に転がっている情景を容易に想像できた。
 一分や二分はすぐにやって来るものである。再び腕時計を覗いて見たが、目当ての秒針は蛍光処理がなされていないため、外の光を遮っていた私の体によって、黒い文字盤の中に埋もれてしまっていた。私は体ごと後ろを向いて秒針を探した。曇りガラスを抜けて差し込む外の光によって、細長い秒針は規則正しい回転を見せ始める。
 ちょうど針が「12」を指したとき、私は胸いっぱいに息を吸い、口を閉ざし、階段をゆっくりと上っていった。

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『三月二十三日〜十二月十日のこと』
32101

 1
 
 ガラスウインドウ越しに見るその男の顔は頼りなさげだった。浩太は瞬間迷ったあと、ドアを押し開け、店の中へ入った。
 「いらっしゃいませ」
 店内にはこの店の人間と思われる二人しかいなかった。一人は店の奥の方で書き物をしていて、カウンターに座ったもう一人が浩太に声をかけたのだった。書き物をしている方は、こちらには何の興味もないのか顔を上げもしない。浩太はカウンターへ顔を向け、
 「部屋を探してるんだけど」と言った。
 カウンターの男はゆっくりとうなずいて見せ、
 「わかりました。こちらへどうぞ」
 と、目の前のイスを浩太にすすめた。「この店には部屋しかないんだよ。グレープフルーツジュースはないんだよ」とでも言いたげな顔をしながら。広くはない店だ。客用のイスもカウンターに面して三脚しかない。店の人間も二人いれば十分なんだろう。
 浩太はイスに腰掛け、男の顔を見つめる。
 「山下といいます」
 名刺をさし出しながら男は言った。もう何十回何百回繰り返したのだろう挨拶。浩太はもう少しで自分も名乗りそうになりながら、すんでのところで唇をかんだ。特徴的なところのない顔だと思いながら。
 「ええと…部屋をお探しってことなんですが、あなたが住む部屋を探してるんですよね」
山下は浩太の視線に気づかないのか話を始めた。右手にはいつのまにかボールペンが握られている。近くで顔をつき合わせているのに、二人の視線はいっこうに合わなかった。この人ははどこか遠くを見ているようだと浩太は思った。
 「そうです、この駅の近くで、家賃四万くらい。共益費はそんなに高くなければ構いません。敷金・礼金は合わせて二十五万くらいまでが理想です。風呂とトイレは共同じゃなくて、洗濯機置き場も部屋の中にあるところがいいんですよ」
 浩太はそこで一息ついた。低くはない鼻、離れてはいない二つの目、厚くも薄くもない唇。年齢を読み取らせない顔だった。やはり特徴のない顔だと浩太は思った。山下は条件を一つ一つブツブツ確認するように呟やきながらメモしていった。
 「窓の向きはできれば西向きで。でも、どこ向きでもいいです、できれば西向きがいいかなってだけのことで。あと、これはなかなかきついとは思うんですが、今日から入れるならとてもありがたいというか…。あ、あと、できれば風呂とトイレは別れていたほうがいいです」
「なるほど…。少しお待ちください。」
 そう言って、山下は店の奥に引っ込んだ。とはいえ狭い店だから浩太の視界から彼が消えることはなかった。山下が奥に座っていた女にメモを見せながらなにか言っている間、浩太はカバンからプリントアウトしたメールを読んでおくことにした。短い手紙だったので、山下が再び浩太と向き合うまでに三度読むことができた。


***

 やあ、ひさしぶり。元気?少し時間が空いたから、メールを送ることにします。
 この前(と言ってもまだコートが必要だった。大阪にも雪が降った)、京橋を歩いてるときにふっと頭に浮かんだんだけど、その、好きな人のことがね。今はそれほどでもないんだけど、そのころは、まあ、好きだったんだな。
 …いや、それもちょっと違うかもしれないな。なんというか、好きで好きでたまんない時期があって、そこから少し外れたころの話だろうな。(わかってくれるかな?)
  
 ふっと、シワのことが頭ん中に飛び込んできたんだね。シワのことが。なんでだろうね、おかしいねシワが出てくるなんて。
 シワが見てみたい、だなんて思ったんだね。好きな人の。
 今はツルツルで輝いていて、透き通ったあの人の(と言っても君は知らないんだな。残念だ。君もきっと、好きになるよ)顔に、一本一本くっきりとシワが刻み込まれていくのを見ていたいと思ったんだな。(すごいことを考えたなあ)
 その人がそういう風に年をとっていくのを見ることが、自分の幸せだと思ったんだな。

***

 手紙はそれで終わりだった。
 「お待たせしました」
 浩太は紙をカバンにしまい、顔を上げた。
 「条件にあう物件のほうですが、とりあえず二件ほど見つかりました。もしお時間のほうよろしければ、これからご案内いたします。くわしい条件などは、道々ご説明さしあげますので…どちらもここから歩いて十分程度の場所にありますから、一時間ほどお時間いただければ十分見て回ることができます」
 浩太は小さくうなずいた。



 隣の部屋に住んでいるやつのことについて書く。いつもいつも趣味の悪い音楽を聴いているやつのこと。一度も見たことはないので、どんなやつかは知らない。
 ただ、やつがほとんど外出することがないのは確かだ。やつの部屋からは一日中音楽が途切れることがないから。
 一度マンション中が停電したときでさえ、一瞬の沈黙のあと、レゲエが陽気に流れてきた。電池式のオーディオにきりかえたのだろう。冬の、寒さが一番厳しいころだったと思う。防音がしっかりしているマンションではないから、多少の生活音は仕方がない。私だって夜中にやむなく洗濯機をまわすときもあるし、飲んで帰って、明け方シャワーを浴びることもある。お互い様だ。それでも、私はやつに参っている。
 
 私はだいたい朝六時に起きる。目覚まし時計は使わない。パラシューターみたいに、少しずつ少しずつ現実の世界へと近づいていく。私の目覚めは完璧だ。ゆっくりと確実に自分を取り戻していく。ところが、着地まであと少し、というところで、隣からマリリン・マンソンの声が聴こえてくる。その音は私の頭の中に強く響く。
 仕事が休みの日は、昼過ぎに起きる。隣からラヴェルの「夜のガスパール」が聴こえてくる。十分寝たはずなのに、肩に凝りが残っているような重みを感じる。
 夜、ベッドにもぐりんこんで目をつむる。浮遊感を感じるほど、強い強い眠気がくる。私は非常に寝つきがいいのだ。しかし、隣の部屋ではザ・フーの「マイジェネレーション」が高らかに鳴り響いている。目もさえる。
 なにも私はマリリン・マンソンやラヴェルやザ・フーが「趣味の悪い」音楽だと言いたいのではない。私だって「マイジェネレーション」は大好きだし、クラシックを聴くのは心地よい。
 ただ、苛立つのである。ヴォリュームがそんなに大きいってわけでもない。薄い壁伝いに、話しかけられているくらい。その程度の音だったなら、ふつう私は気にしない。私が断固否定したいのは、そのセンスのなさだ。
 どこのだれが朝からマリリン・マンソンを聴きたいと思うだろうか?日光が爽やかに部屋を照らしているのに「夜のガスパール」を聴いて、やつはおかしくならないんだろうか。やつには取り合わせの妙を感じる力というものがないのだ、と私は確信する。やつは想像することができないのだ。どの時間帯に聴いても場違いな曲ばかりだから、私は深く深くため息をついてしまう。
 できることならば、私は部屋を飛び出し、隣人を呼び出し、ビンタを三発浴びせたあと、廊下で四時間ばかし正座をさせたいものだと思う。
 そして、私の味わった苦しみを理解してもらうために、田中がヴォーカルを務める地元パンクバンド、『マッド・ブラッド・クラッシャーズ』の自作テープ『俺の血を舐めろ』と『狂った街と鉄骨の俺(マッドシティーアンドマイスティールボーンズ)』を擦り切れるまで聴かせてやりたいとも思う。どちらも若者のエネルギッシュな勘違いに恵まれた傑作だ。
 テープが擦り切れるころ、やつは自分の罪な行いに後悔の念を抱くだろう。
 素性のわからない他人の家に乗り込むのも物騒だし、他の生活音で悩まされたりはしない。私が心底苛立つのは選曲の歯切れの悪さに対してだけだから、やつに会ったことはない。会おうと思わなければ、会わずに過ごせるものだ。
 


 三条はさっきからずっとその子を見つめている。ホットコーヒーは、もうその価値を半分以上湯気といっしょに漂わせてしまっているんじゃないだろうか。一口も飲まれないままに冷めていくコーヒーの気持ちが、三条にはわからない。僕にはわかる。
 僕は別にコーヒーショップで働く女の子を見つめている三条を見ているわけじゃないし、その子を見ているわけでもない。僕はそんなものに興味はない。まあ、それは少しウソか。
 その女の子はかわいいと思う。サラミサンドイッチとホットミルクとバタークッキー二枚を買ったときにレジにいたその子は、かわいい。かわいかった。
 でもどんな子かって、説明するのはめんどくさい。僕だけにその良さはわかればいいんじゃないかな…まあいい、話がそれた。
 や、これは大事な問題かもしれないな。『説明するのはめんどくさい』か。僕はサンドイッチの、最後の一切れを探り当てる。人差し指・中指・お姉さん指を宙に泳がせながら慎重にテーブルの上を探す。
 例えば…純はいつも僕に説明を求めるなぁ…僕は考える。
 「来週の予定はどうなってる?」
 「今日は楽しかった?」
 「このトマト、腐ってない?」
 「この長い髪の毛は誰のかな?」
  説明というか、釈明というか、なんでもいいんだけど、そう、何か一つの、決まった『解答』を求める。そんなとき、僕は叫んだり、純に殴りかかったり、自分の髪の毛をむしったりしないけど、めんどくさいなぁと思うわけだ。でもそれは、別に純にかぎったことではなくて、僕の周りにいる人たちはたいていみんなそうなんだ。「どうなの?どうなっているの?」って聞かずにはいられないんだ。もちろん、僕も含めて。
 人差し指がサンドイッチの端に触れて、僕はその勢いでそいつをつかむ。そして、口に放りこむ。
 だから、きっとみんな説明することに飽き飽きしているはずだ。でも、実際はそうじゃない。僕は租借しながらホッチのことを考える。
 ホッチは、僕の家に泊まるときにいつもいいわけをする。
 「長居するつもりじゃなかったんだよ」
 「ハルオといると時間がたつの早くてさ」
 「彼女いるのはわかってるんだよ、でも、私はそれでもいいかなって」
 「疲れたけど眠れないよ。私、多分ハルオのこと好きなんだよ。絶対」
 いろいろと僕に言ったあと、ホッチはすやすやと寝息をたてはじめる。眠れるんじゃん。飽きているはずなんだけど、みんな説明することをやめないんだ。結局、そうなのかもしれない。知りたいし、教えたいのかもしれない。
 「こんなこと言うとややこしくヤツって思うかもしれないけど聞いてね。ハルオはさ、こうやって私といるわけだけど、正式な…っていうと変だけど彼女もいるわけで。もちろん、ごたごたを引き起こそうってわけじゃないんだけどさ、変なこと聞くよ?彼女と私と、一緒にいて安らぐのはどっち?」
 朝になると、ホッチはいつも尋ねる。
 
 そんなわけで、僕はあえて、コーヒーショップの店員についての説明はしない。好きなように想像してくれれば結構だ。ミルクを飲み干してしまって、僕は十分か二十分ぶりに目を開ける。照明が抑えられている店なので、目を開けるのが辛い、ということはない。それでも周囲の明るさに慣れるまでは時間がかかって、しばらくは目を開いたりつむったりするのを繰り返していた。
 明るさに慣れると、僕はまずテーブルのちらかり具合を確認した。
 三条と店に入るとき、僕は必ず目を閉じて食べたり飲んだりする。理由は二つある。一つ目は、それがやってみると案外楽しいからだ。ナポリタンスパゲティーをきれいに食べ終えたときの感動は、なかなか味わえるもんじゃない。二つ目の理由は、三条のクセにある。
 今日はまずまずきれいに食事を終えることができたようで、クッキーのかけらが皿の横に一粒転がっているだけだった。満足して三条を見ると、案の定、彼はレジがある店の入り口のへ顔を向けていた。レジでは女の子がレジを打ったり、商品を客に渡したりしていた。目を閉じていたのになんで三条がその子をずっと見つめてるってわかったかと言うと、三条が僕に話しかけてくるからである。
 初めて二人で食事をしたときは、本当に一目ぼれをしたのかと思った。相手はオムライス専門店のコックだったと思う。「ハセガワぁ…俺、恋してるぜ」と言ったかと思うと、運ばれてきた料理に手も付けずに、カウンター越しに料理する姿を見つめ続けているから、僕は「そうかそうか」と思っていて、他の客のオムライスを作りながらその女の人もまんざらじゃない顔をしていたと思うんだけど、三十分ほどたった後、突然冷めた目つきにかわったかと思うとオムライスをむしゃむしゃ食べ始め、それもすぐに片付けると「出よう」と言ったのだった。
 それが彼のクセみたいなもので、気に入った子がいるとしばらく見つめ続け、二、三十分たつとふいと興味をなくすのだ。それまではこちらが声をかけても絶対にふりむかないし、相槌もうたないから、暇つぶしのために僕は目を閉じることになった。相手があんまり近くにいるとしないけど、今日みたいに距離があると三条は「かわいい」だの「好きだ」だの呟くので、そうなったとしたらすぐにわかる。今日も数分おきにレジの子を褒め称えていた。実際には、三条は僕に話しかけているわけじゃないから、返事はしない。
 「かわいいなぁ。三つ編みにしているところがいい。顔は大人っぽいんだけど」
 僕は三条のコーヒーカップをテーブルのこちら側に引っ張ってきて、ブラックで飲んだ。今度は目を開けたままで。冷めてしまっているけど飲めないことはなくて、ついでにツナサンドイッチも失敬した。
 ミヤジが店に現れたのは、二つ目のツナサンドイッチに手をのばしたときだった。
 
 4
***

 今日のメールは近況報告ではないんだ。
 この前の水曜日、午前三時くらいだったかな、二十四時間営業のファミレスに行ったんだ。(このファミレスは、本当にいつもガラガラで、なんで潰れないんだろうと思ってる)
 いつもの席に座ると(そんなに毎日来ているわけでもないんだ。気が向いたら、行くくらいなんだけど、とにかくいつもガラガラだから座る席も決まってくる)、ちょうど真正面に女子高生っぽい二人組が座っていたんだよ。(近くの私立高校の制服を着ていた)
 二人とも疲れているみたいで、いってみれば午前三時の顔をしているんだね。(午前三時の顔って表現は、残念ながらわからない人にはわからない)
 彼女たちのテーブルの上には、空になったお皿と吸殻が何本か押し付けられた灰皿しかないんだけど、それなのにごちゃごちゃして見えた。
 思い出したように二人は会話を始め、けれど会話はどこかで突然途切れてしまうんだ。それで、二人の途切れ途切れの会話をBGM代わりにして、団鬼六の小説を読んでたんだ。愛について考えながらね。(嘘じゃなくて。「ひどいことしちゃんだよね」なんて小さく口に出してみたり、唸ったりしながら)
 二本目の煙草に火をつけたとき、向こうのテーブルからまた声が流れてきて、どうやら二人も愛について話しているみたいなんだ。(愛について考えるなら午前三時過ぎなんだろうね!)
 
一人のためにさぁ、泣いたり笑ったり電話したり……なんでやねんと思うけど、すごいなぁって思う。すごいことやなぁって思う。
 
 すごいことやんな!
 
 うん、すごいことやで!
 
 どう思う?二人は多分愛に気づいていて、まあそれが核心をついているかどうかは別として、二人の傍にはなにかが在ったんだろうね。けど、それを聞いて胸の中にもやもやが溜まっていくのがわかるんだよ。だから、煙草を二口だけ吸って店を出た。
 それだけ。
 またメールするね。

***

 浩太は手紙を読み終えた。今度も三度読んだ。夕陽は彼の顔を赤く染め上げていた。もちろん彼は自分の顔を見ることはできないが、濃い、しっかりとした赤だとわかった。暖炉の中で燃える薪の色だった。日の光は彼に陰影をつけるが、その赤は、また別の意味を彼に刻み込んでいるようであった。フローリングに座り込んだまま、浩太はしばらくじっとしていた。ときどき額にかかる髪の毛をかきあげるだけだった。彼の黒い髪は、彼の意志に反してずり下がってきてはまた元の位置に戻されていた。部屋には今、浩太と彼のちょっとした手荷物と窓ガラスしかないようだった。部屋は赤く照らされていた。
 カラスが西の空をゆっくりと飛んでいく。距離があるのか、防音がしっかりしているのか鳴き声は聞こえなかった。浩太はのそりと立ち上がり、窓の鍵に手をかけた。
 ベランダは鳥の糞も落ちていないし、ゴミがたまっているわけでもなかった。浩太は手すりに前のめりにもたれかかり、目を細めてカラスの行方を見守った。カラスは、浩太との距離をどんどん広げていった。黒い点が次第に小さくなっていく。そしてそれはまっすぐ夕陽に向かっていた。
 カラスが向かった方向には駅が見えた。周囲に高いビルが全くないため、地上五階からの眺めでも十分な開放感があった。両隣のベランダを覗いてみたが、誰も住んでいないのか、カーテンもついていなかった。
 窓を閉め、浩太は「カーテンが必要だな」と思った。ここまで西日がきつくてはかなわない。もう一度床に座りこむと、部屋の隅に転がしておいたカバンをたぐりよせた。契約書を取り出し、部屋を見回すとまたカバンにしまいこんだ。この部屋には、まだ書類を入れておく棚の一つもなかったのだった。それでも、浩太の顔には落ち着きがあった。すぐに部屋が、それも悪くない物件が見つかってよかったと感じている顔だった。
 山下は築十年だと言っていたが、前の入居者が大切に使ったのだろう、部屋の中に、目立つ汚れはなかった。
 山下はもう一つの物件も紹介したいようだったが、浩太は「ここでいい」と言った。
「こちらの物件は保留ということにしておきませんか?小学校に近い物件もご紹介できます。子どもたちの声がいつでも聞こえて心温まるかと思いますが」
 浩太はやんわりと申し出を断り、もう一度ここでいいことを伝えた。二人は店に戻り、契約に関するいくつかの書類が作成された。手付き金をいくらかおさめ、浩太は部屋の鍵を手にした。店を出るときには、山下を特徴のない人間だと思っていなかった。山下は山下自身で、それは変えようもないのだと浩太は思っていた。
 目も鼻も口も、その形以外ではありえないほど、山下の顔にフィットしているのだった。浩太がカバンを枕代わりにして、ベランダに背を向けて寝転ぶと、そのまますぐに眠れそうなほどの深い睡魔が襲いかかってきた。山下の顔を思い浮かべながら、浩太は目を閉じた。



 都市伝説について書く。フォークロアってやつだ。
 『ハンバーガーショップの肉は、ミミズが原材料』とか、『夜中の二時二十二分にタクシーに乗るとあの世までつれて行かれる』とか、ありえなさそうな噂話は絶えることなく流布されていて、昔も今も、この先だって変わらないのではないかと思う。私はそういう話を聞いていて楽しいとは思うけど、信じたりはしない。
 それでも、ハンバーガーを食べるときに、肉の部分をしげしげ眺めたりするし、夜中、タクシーに乗るときには時間を確認する。
 もし二時二十二分だったとしても私はタクシーに乗る。乗るけど、時間は確認するのだ。その程度の意味合いで、都市伝説というものは私の中にある。信じているわけではないけど、微かに頭にこびりついている。信憑性のあるなしではない。
 それなら、と私は考える。誰かの噂話も『都市伝説』と変わらないのではないだろうか。規模が大きいか小さいか。誰でも聞いたことがあるか身近な人しか知らないか…。
 『山下が捨てた恋人は数限りない。毎晩捨てられた人たちから無言電話がかかってくるから、コンセントを抜いて寝ている』とか、『後藤を九のつく日の飲み会に誘っても、絶対に来ない』とか、そういう仲間内で語られる話に対しても、私は同じような態度をとっていると思うから。
 私は山内と仲が良いけど、恋人の話はしない。それでも、私は山内のちょっとした動き、例えば、眠そうな表情に媚がありはしないかと見つめてしまうのだ。それは本当に些細なことなのだけど、確かな楔となって私の胸に沈み込んでいるのだ。
 


 「三つ編みの子やろ」
 席につくなりミヤジは言った。僕はうなずき、ミヤジのためにテーブルの上を片付けた。
 「ありがと」
 ミヤジはトレイを置いて、僕の隣に座った。マフラーもコートも身に付けたままだった。
 「せやろな思たわ」
 「いつものことだよ」
 僕はコーヒーを飲み干した。
 「まあせやな、『日常は常に汝の隣にあり』やな」
 「そういうことだ」
 「今年度いっぱいで杉原センセエ辞めはるって話は聞いたか?」
 「ホッチに聞いたよ」
 「ホッチね…まあいろいろ聞いてるけど。…まあ、ええけど」
 ミヤジと純とホッチは同じサークルだから、二人からいろいろと相談されているんだろうと僕は思った。ミヤジは関西弁だからかなんでだかは知らないけど、誰からも相談されるやつで、純とは仲が良いから当然僕とホッチのことについても知っているはずだった、ついでに言えば、ミヤジはホッチのことがあまり好きではない。ミヤジと飲んでいて、サークルの話になると、「あれは人をバカにしとる」と言って、いつもこき下ろしている。好きじゃないなら相談なんて受けなきゃいいのに、頼りにされると放っておけないタチなのだろう。純とホッチの話はこれ以上したくなかったんだけど、ミヤジには話すことがたくさんあるみたいだった。
 「ナカジマ、たいがいにしとかなあかんで、純、泣いとるで。ホッチのどこがええかは俺にはわからんけど、まあ、おまえにはいいんやろな、俺にはわからんけど。でもそれやったら純にけじめつけたらどないやねん」
 ミヤジの言うことはわかるけど、今ここで結論を出すことはできないから、僕は黙っていた。なんだか自分が狭苦しい鳥小屋の中で動きまわっているような息苦しさを覚えた。
 「まあ、いきなり答えだせる問題でもないわな」
 ミヤジは僕の胸ポケットをごそごそさぐって、煙草を取って口にくわえた。
 「でもちゃんと考えなあかんで。ナカジマ、考えてないやろ。それじゃあ、あかんわ」
 「考えるけど、なかなかいい結論が出てこないんだよ」
 「いい結論ってどんなんやねん」
 確かに。『いい結論』ってなんなんだろうか。
 僕はまた黙った。
 三条は言う。
 「目の大きさと鼻の形がミステイクだよな。けど、それすら良くみえる。奇跡だ」
 「だいたい、純と付き合ってるのにホッチに手出すのが俺には理解できんわ。不満あるんか?あるなら純と別れたらいいやん。ないんか?ないならおまえは怠惰な男や。純みたいないい子と付き合う価値ないわ。もう純と別れたらいいやん」
 そうとう怒っているのか、ミヤジはとまらない。話題を変えるために僕は全然関係ないことを言った。
 「まあ、ミヤジの言いたいことはよくわかった。考えなきゃな…。それはそうと、見ろよ、この煙。おまえの口から出たあとはこう、白くたなびくよな。けど、そこの鏡には煙が全く映ってない。ここから見る限り、はっきり白く見えるのに、鏡には映ってないんだ。不思議じゃないか?これも光の関係かな」
 ミヤジはため息をつくように煙を吐き出して、その通りだ、というような顔をした。
「あれやな。『明るいところでは意外になにも見えないものだ』やな。まあ、それとこれとは話が別や」
この店の照明はそんなに強くない。ミヤジはとまらない。



 浩太は眠りの中、夢を見ていた。弟の悟と、浩太が勤めていた会社の同じ部署にいて、一年ほど前までお互いの部屋を行き来するような仲だった静子、それに、山下の三人から責められる夢だった。
 四人は、昨日まで浩太と悟とが一緒に住んでいた部屋の、リビングにいた。浩太と対峙する形で、三人はテーブル越しに座っていた。悟の顔は怒っているように見えた。静子は今にも泣き出しそうで、山下は笑っていた。
 浩太は、目をつむって考えた。「なぜ、こんな夢を見ているんだろうか?」
 これが夢だということはわかっていた。ついさっき、部屋の賃貸契約をしたことを覚えていた。「ベランダから駅が見える部屋だ。まだ棚の一つも置かれていない、殺風景な部屋だ」と浩太は頭の中で呟いた。
 目を開くと、テーブルの上にはコーヒーが置かれていた。客が来たときだけに使う、高価なコーヒーカップがテーブルの上に並んでいた。
 浩太はコーヒーを一口飲んでから、「なぜ、こんな夢を見ているんだろうか」と口に出してみた。夢の中とは思えないほど、その声は部屋の中にくっきり響いた。ブルーマウンテンの香りが鼻腔をくすぐり、喉には心地よい苦さが残っている。
「浩太、どうして突然部屋を出るなんていうんだよ。会社も辞めたんだろ?そんな勝手なことするなよ。金はどうするつもりだよ」
 悟が、冬の雷のような怒鳴り声をあげた。額には血管が浮き立ち、顔全体が真っ赤だった。浩太が口を開こうとすると、静子の声がそれをさえぎった。彼女は依然、泣き出しそうな顔だった。目の端には涙の粒のようなものが溜まっていた。
「勝手にして、もういい、付き合いきれないから。顔も見たくないし、話しかけられたくもない。肌が触れ合ったことがあるって考えただけで、気持ち悪くなる。吐き気がする。今考えれば、いい思い出なんてなかった。いつも我慢ばかりさせられた。嫌い。もう、本当に気持ち悪いから、気分悪くなるからこっち見ないで。本当、せいせいする。言うことはそれだけだから」
「じゃあ、どうして泣く?」
 浩太の問いかけに、静子は答えなかった。もう彼女はうつむいてしまっていて、表情を読み取ることはできなかった。
 「もう一つの物件もよい立地なんですよ。おすすめします。ぜひ、見て行ってくださいよ、すぐに決めてしまうのは損ですよ」
 山下は不自然なほどの笑顔を浮かべていた。手には契約書が握られていた。
 浩太は、静子の返事を待っていたが、彼女は顔を上げようとはしなかった。浩太は頭をぼろぼりと掻いて、コーヒーを飲んだ。唇をかんで、そしてまた目をつむった。
 自分は今、いくつかの面倒な問題を抱えていると浩太は思った。そして、夢の中とはいえ、今すぐに解決すべき問題だとも。
 再び浩太が目を開けたとき、悟はもう怒っていなかった。更にいえば、静子は泣いていなかったし、山下は笑っていなかった。三人は同じ台詞を繰り返した。
 「浩太、どうして突然部屋を出るなんていうんだよ。会社も辞めたんだろ?そんな勝手なことするなよ。金はどうするつもりだよ」
 悟は泣いていた。
 「勝手にして、もういい、付き合いきれないから。顔も見たくないし、話しかけられたくもない。肌が触れ合ったことがあるって考えただけで、気持ち悪くなる。吐き気がする。今考えれば、いい思い出なんてなかった。いつも我慢ばかりさせられた。嫌い。もう、本当に気持ち悪いから、気分悪くなるからこっち見ないで。本当、せいせいする。言うことはそれだけだから」
 静子は胸の前で腕を組んでいた。そして、笑っていた、楽しそうに。
 「もう一つの物件もよい立地なんですよ。おすすめします。ぜひ、見て行ってくださいよ、すぐに決めてしまうのは損ですよ」
 山下は、心底怒っているようだった。イスから勢いよく立ち上がると、唖然としている浩太の傍まで走りより、胸倉をつかんだ。浩太は体の震えを感じるほどの恐怖をおぼえたが、そのときにはすでに山下の拳が浩太の顎をとらえていた。
 そこで、目覚めた。
 
 体を起こし、腕時計を見ると夕方の六時半だった。汗でシャツが肌にはりついているのがわかった。
 浩太はカバンからノートパソコンとバッテリーを取り出し、電源を入れた。派手な音楽が部屋にこだまして、ディスプレイが灯った。部屋が少し明るくなったような気がした。夕方の明かりで誤魔化されていたが、もう夜はすぐそこにあるのだった。夕陽のかけらはまだ部屋に残っていたが、角を折られた一角獣のように、その強さは影をひそめていた。汗はひくことはなく、むしろ次から次へと浩太の体を湿らせるのだった。

 8
 
 ゴミ箱について書く。
 ゴミ箱に捨てた以上、私はその中のものを取り出そうとは考えない。そこに入ったものは二度と出られない運命を宣告されたのだ。小物入れからアクセサリーを取り出すように、ゴミ箱からティッシュをつまみ出したりしない。もう一度、使ったりしない。
 だから私は、自分の部屋の中に深い深い穴があるのだという気がしている。私が快適に暮らすための場所に、ポカリと浮かぶ口のようなもの。少し怖い気持ちになる。無くなるということが、生活の前提としてあるようだから。
 でも、捨てる場所があるということこそ、機能的なのかもしれないとも思う。そうして、私はますます過ごしやすい場所を手に入れることができるのかもしれないから。境界線は確かにあって、時々ころころ転がっていくものがある。私は、見向きもしない。
 
 「毎日同じことの繰り返し」だと、誰かがある日気づく。「こうやって磨耗していくんだ」と考える。朝六時半に起きて、朝ごはんを食べて、身支度をする。電車に乗って、働いて、昼ごはんを食べて、働いて、電車に乗って、夜ご飯を食べる。寝る。もしくは、朝七時に起きて、走って、勉強して、昼ごはん食べて、寝て、遊んで、歩いて、夜ご飯を食べて寝る。あるいは。パターンは無限にあるのだろうけど、とにかく誰かが気づく。
 「毎日同じことの繰り返し」だって。それで人生を空しく思ったり、身を用なく思ったりするのだ。
 でも、多分その考えは捨てられる。
 見渡す限りに広がる大空とか、老夫婦が手をつないで歩いているのだとか、濁った月だとかを見て、案外毎日が特別なのだと思うのではないだろうか。
 そして、「同じ日なんてない、毎日が特別で新鮮なんだ」と考えていく。磨り減っていくのではなくて、磨かれていくことなんだと考える。自分にはなにかできると考えてみる。ささやかかもしれないが確実な前進、進歩。
 でも、その考えも多分捨てられる。毎日が特別だと考えたとしても、実際には、ほとんどなにもかわっていないからだ。生活、リズム、自分。
 そして、同じことが無限に繰り返される。
 あるのは、ただ捨てるという行為だけだ。捨てて、探し、捨てる。
 拾いあげることは、私はしない。ゴミ箱の機能はそれではないからである。
 
 9
 
 「ミヤジ、わかった、おまえが言いたいことは、わかった。けど、それ以上口出しすると逆に不自然だぜ。周りから見てもな。おまえと純に、なにかあると思われても仕方ないぜ。すでにそう思っているやつは結構いるし。俺が聞く限り、純はおまえのことなんとも思ってないんだから、そこらでやめとけよ」
 と言ったのは、三条だった。ミヤジがヒートアップし、僕が弁解に忙しかった間に、レジの女の子への興味をなくしたらしかった。体をこちらに向け、髪を掌でなでつけた。
 「おまえこそ関係ないやろ、女の子見とったらええねん」
 煙草を灰皿に押し付けてミヤジが言った。大分苛立っているみたいだけど、三条はそれを無視した。
 「おいおいおい、ハセガワひどいぜ。俺のコーヒーとサンドイッチは?どこに?おまえの腹の中?そりゃあひどいぜハセガワ」
 「ごめん、あまりに暇だから食ってしまった」
 「おいこら無視すんなや三条」
 「なんだよ、俺食べていいって言ってないぜ、まあ、今からまた呑みにいくわけだからいいか。…でも、コーヒーだけは飲みたいな」
 「おい聞けや」
 「わかった、じゃあ勝手に飲んだおわびに買ってくるよ」
 「頼むぜ!」「三条!」「どうした?関西弁」「聞けや!」「聞いてるぜ!」「聞いてへんやんけ!」「無視してんだぜ、わかるだろ」「わかるわ!『沈黙は多弁に似たり』や!」「誰のことばだよそれ…」
 そこまで二人の会話を聞いて、僕は席を立った。ミヤジはすぐに熱くなるが、仲間内であしらいが一番うまいのは三条だろう。はたから見ればほとんど喧嘩だが、三条と話しているうちに、ミヤジも次第に落ち着いてくる。いつものことだ。
 さっきまで三条に見つめられていたレジの子にホットコーヒーを注文する。やはり見られていたことに気づいていたのか、僕を見て少し顔を曇らせたがすぐに笑顔を取り戻した。ちょっと首を傾けたときに、一つにまとめてあった髪もつられて跳ねた。料金を払いながら、たいしたものだなと思った。だいたい、僕が見つめていたわけではないのだが。
 二人の方を見ると、チェス盤を開いてゲームに興じていた。盤はいつもミヤジがいつも持ち歩いているやつだ。ミヤジと三条はチェスが大好きで、暇があれば戦っている。腕も五分五分といったとこだろう。いつも通りだと思う。
 三条は女の子を見つめて、僕は目をつむり、ミヤジは熱くなって、チェス盤が登場した。いつも通りだ。例えば、僕があのとき、目をつむらなければなにか変わっただろうか?
 そこまで考えたとき、レジから呼ばれた。コーヒーができたのだ。『研修中』と書かれたプレートを胸につけた高校生くらいの男の子から、コーヒーと砂糖、クリームを受け取る。
 「ありがとう」と言って席に戻ろうとすると、「お客様」と呼び止められた。三条が見ていた女の子が駆け寄ってきて、
 「砂糖とクリームお渡しするの忘れてました」
 と言った。
 僕は砂糖もクリームもすでにもらった。けれど女の子は僕の掌にもう一セット掴ませたかと思うと、顔をぐっと近づけて、
 「見てるんじゃないよって言っておいてくれる?」
 と言ったのだった。
 
 
 10
 
  部屋に戻ると、薄ぼんやりとノートパソコンのスイッチが光っていた。まだカーテンはつけていないにも関わらず、窓から入ってくる光はほとんどなかった。周囲の光は浩太の部屋まで届かないようであった。まるで、そこに入ってくるのを避けているのかと思われるほどに。そして、彼の数少ない持ち物の一部だけが、浩太にその存在を示しているのだった。その他にはなにも見えなかった。
 浩太は手探りでスイッチを探りあて、玄関に光をともすべく、それを押した。しかし、暗闇はそのままで暗闇だった。二度、三度とボタンをいじってようやく浩太は気がついた。まだ、電気も水道も、ガスもしかるべき手続きをしていなかったのだった。
 もう八時をまわっている。「今日くらいはいいだろう」と浩太は思った。「今日くらいは、なにもない部屋で過ごしたっていいだろう」手探りで、壁伝いに歩きながら浩太は思った。
 彼はノートパソコンの前に寝転がり、画面に光を灯した。そして、いくつかの考えが彼の頭を不連続によぎるのだった。
 「なにもない部屋だ、ここから始まるんだ」「俺は、今、なにも手にしていない」「一から、この部屋をつくりあげていくんだ。その他のものも、全部なにもないところから…」「この部屋には、必要なもの以外置かない、まずはカーテンだ。そして、電気だ。水道もガスも、必要を感じるまで手続きはしない」「案外、今晩水道は必要になるかもしれないな、今日は飲みすぎた」「この部屋は、必然の部屋になるだろうな」「あるべきものしかないんだからな」「俺が必要を感じたものがここに増えていく。それは捨てられるべきものではないだろう。必要なのだから」「まずはカーテンだ。そこからだ」
 そこで浩太は画面に顔を向けた。そして、目の前にあるものに気づいて、ため息をついた。それから小さく口の端だけを使って笑い、山下のことを思い出した。浩太の要求を同僚の女に伝える山下のことを。特徴的な顔を持つ山下のことを。
 浩太は頭を二、三度掻いて、キーボードをたたいた。
 
 ***
 
  今年も百關謳カの墓参りに行ってきたよ。もう、今年で五年目だ。(早いもんだね)
  去年まではずっと竹下に車で連れて行ってもらっていたんだけど、昨日は電車で行ったんだ。(竹下は坂巻とディズニーランドに行ったんだ。やれやれだ)
 東中野の駅で降りるってことはわかってたんだけど、その先の道筋がわからなくて、それで、どうしたと思う?東中野の駅に降りたはいいけれど、その先どうしたらいいかわからない。駅周辺の地図を見たんだけど、お目当てのお寺は載っていない。仕方がないから、図書館で調べようと思ったんだよ。(僕は、事前に調べたりはしないんだ)
  タクシーでも使えばいいんだから今考えるとおかしいんだけど、そのときは迷わず僕は図書館を目指した。(百闢Iじゃないかい?)
 当然ながら、図書館はなかなか見つからない。(そういう世界の中にいるのだとしたら当たり前だ)駅で見た地図の通りに歩いているはずなのに、見つからないんだ。僕はあちこちの路地を行ったり来たりしながら、今頃竹下と坂巻はネズミと記念撮影でもしてるんだろう、みたいなことばかり考えていたよ。
 それでも、一時間と少しかけて、ようやく僕は図書館を見つけた。(これも当然のごとく、なんだけど、図書館の入り口は見えにくい位置にあって、僕はその周りをぐるぐる歩いていただけだった)
 ようやく目的地に辿り着いた喜びで安心してしまって、そこのソファーで二時間ばかし寝てしまったくらいだった。目覚めて、『本当の目的地』を思い出して、慌てて向かったよ。中野区の地図を頼りに、落合から上高田まで歩いた。ようやく見慣れた道に出た頃には、もう大分暗くなっていたんだ。その道の電灯も、薄暗い光を点けたり消したりしていた。(信じないかもしれないけど、本当だ。実に百闢Iだと思わない?)
 この季節、お墓から花が絶えることはないから、僕はお供えものは持たなかった。しばらくそこにいて、膜を破るように、タクシーを拾って帰った。来年こそ、ぜひ一緒に。(毎年言ってるけど。そして、君は毎年来ないけど)

***
 
 浩太はノートパソコンの電源を切った。ある程度の暗闇が訪れ、彼は目を閉じた。ビールとウイスキーが手伝って、彼はまたすぐに眠ってしまった。
 
 11
 
 色について書く。
 今、私の目の前には茶色いコップが置いてある。このコップを、私は「茶色」だと思っている。ここにある私の知り合いがやって来て、このコップを見たとしたら、その人だって「茶色」のコップだと思うだろう。
 でも、私が見ている「茶色」とその人が見ている「茶色」は実は異なっているのかもしれない。私がその人と彼女について議論したときに導き出した共通認識についてすら、おそらく誤解が生じているはずなのだから、視覚なんていう主観的なものにズレが出てこないわけがない。
 
 12
 
  「彼女、怒ってた」と僕が言うと、ミヤジは「ナイトがなぁ…ナイトが」と言い、三条は「ナイトじゃないぜ、ルークをどうにかした方がいいんだって」と言い、ミヤジは「黙っとけ」と言い、それにたいして三条が「ルークは盾だぜ。剣だけふりまわしても意味ない」と返し、「なんの作戦やねんそれ、翻弄しようとしてもムダや」「…じゃあいいぜ、ナイト使えば?」と続いて、僕は熱々のコーヒーをブラックで一口すすった。
 「ハセガワ、もう一本」
 ミヤジは煙草を口にくわえると、ルークを動かした。少し恥ずかしげな顔をしながら。三条のアドバイスを聞いたのではない。自分で考えた結果、この手が一番だと思ったんだ、というような顔をしながら。僕はもう一口だけコーヒーを飲んでから、三条に渡した。三条はコーヒーを受け取ると、待っていたとばかりに自陣からクイーンを放った。結果、彼女はミヤジの陣を大きく乱すことになった。三条はホットコーヒーをずずずと半分ほど飲んで、二回小さく頷いた。ミヤジの顔は早くも紅潮していた。煙草の煙が彼を覆うほど立ち込めていて、まるで茨城伝承の妖怪みたいに見えた。彼は敵の甘言にのせられ、裏切られ、憤る騎士といってもいい。関西弁の。
 「…三条!おまえ!せこいぞ!」「なにが」「ルーク動かせって言うたやろが!」「人を簡単に信じたらあかんでえ、ミヤジマ君。息荒いでえ、ミヤジマ君」
 ミヤジはなにも言わず、煙草をもみ消した。僕は自分のショルダーバッグから小説を取り出して、読み始めた。横ではミヤジがブツブツと言っている。
 
 結局その勝負はミヤジが(!)勝ち、二戦目は三条がとった。二人は勝負がつくたびに、僕に試合の流れを教えてくれるのだ。そして、その間に僕は短編を三つ読んだ。閉鎖的な空間で、閉鎖的な思考の持ち主が、ますます閉鎖的になっていく様を描いたものだった。設定が違っても、テーマはどれもみな同じだった。どの作品でも、主人公は最後まで解放されずに終わった。そしてそれを受け入れているように感じられた。僕は四つ目の短編にとりかかった。
 チェスも三戦目が始まり、お互いが駒を数回動かしたころ、ミヤジが
 「あれやな、三条、わりとええ顔してるけど怒る子は怒るねんなやっぱり」
 と言った。
 「やっぱり罰は必要やで、こいつには。ロクなもんじゃない。人様の顔ジロジロ見るなんてな。信じがたい。救いがたい。『他人の顔には己の全てが張り付いている』いうけどな、三条はいきすぎや。今までこういう綾がつかんかった方がおかしいな、うん」
 と言って、つまり、どうやら三戦目はミヤジに分があるようだった。三条はしばらく黙っていたが、駒を動かしたあと僕の胸ポケットから煙草をとって火をつけると、
 「いつもマジなんだぜ」
 と、煙を吹き出しながら言った。短編をカバンにしまって、僕も煙草をくわえた。
 「ミヤジマは言うけどな、けっこう真剣なんだぜ、これでも」
「ハセガワも三条もそう言うけどな、瞬間の飛び石アタックではあかんのよ、持続やで、持続。愛は持続や」
 僕はマジだとかマジでないとかは言っていないが、黙っておくことにした。ミヤジが駒を動かす。
 「俺はね、共感を求めてんのよ。共感」
 「共感?」
 僕がたずねると、煙草を口の端にくわえたまま、三条は大きく頷いた。
「共に感じることだよ。共感。楽しいなー、とか、悲しいなーとか、一緒に感じられる相手がいいんだよ、俺は」
 「だから時間をかけてやねぇ…」
 ミヤジの言葉をさえぎる様に駒が動かされる。
 「時間かけてもわかんないぜ、育つかどうかは、わかんないぜ。枯れちゃったらどうすんだよ。俺は慎重に吟味を重ねているわけだよ、最初の感触こそが大事なんだぜ」
 ミヤジは返事をしなかった。よほどいい手を打たれたのだろう。けれど、三条を見ると難しい顔をしている。つまり、難しい局面なのだろう。二人とも、打ち上げに失敗したNASAの幹部のような顔をしている。
 盤を見てみると、なるほど、かなりあやふやな状態だった。ミヤジの次の一手で、決着がついてしまうのではないだろうかと思えるくらいだった。それぞれの駒がそれぞれ首尾よく自分の居場所を守っていた。「ここから出てやるもんか」という声が聞こえてきそうだった。領地に閉じこもって、動こうとしないのだ。
 ところで、三条が語った「共感」とか「最初の感触」という話は、僕にはわからなかった。最初の印象だけで、その先を見通すことができるという考え方はリアリティに欠けているような気がする。その話と、レジの女の子を見ることと、どういう関係があるのかも、僕には今ひとつつかめなかった。
 それで、どんな子だったかと思って、もう一度見ようと思って顔を上げたら、彼女がそこに立っていて、僕と目が合うと、
 「いつもチェスしてるよね。してない?」
 と言ったのだった。
 ミヤジははっとして顔をあげた。
 彼女はコーヒーショップのユニフォームではなく、黒のジーンズにジャケット、中に薄い青のセーターを着ていた。一つにまとめていた髪はゴムによる束縛を逃れていて、最初の印象より大分長いように感じられた。ミヤジは彼女が誰だかわからないみたいで、ぽかんとしていた。三条を見ると、まだ今後の展開を考えている。
 「黙らないでよ。いつもチェスしているよね?してない?」
 

 13
 ホルックー、ホルックー。
 浩太は聞きなれない鳴き声で目覚めた。彼がベランダに目をやると、痩せこけた鳩が尻を左右に振りながら闊歩していた。斑で彩られたスマートな尻を左右に振りながら、ホルックー、ホルックーとやっている。浩太は肘をついいてしばらく眺めていたが、それに飽きると体を起こしてベランダに近づいた。鳩は慌てたように西の空へと飛び立っていった。
 「ホルックー」
 浩太は呟いて、残念そうに鳩の尻を見やった。西向きの部屋とはいえ、天気が良いか悪いかはわかるものだ。浩太は大きく伸びをして、それから屈伸運動までした。
 「ホルックー」
 背中を掻いて、もう一度背中を伸ばした。普段ならこれで目が覚めるのだが、今日はまだ頭に疲れが残っていた。「やはり、昨日飲みすぎた」と浩太は思った。部屋中にお酒の匂いが漂っていたので、空気を入れ替えようとベランダへの鍵を開いた。そうして、浩太は再びベランダに立った。そこから見える景色は昨日と変わっていなかったけれど、一つひとつのものが、しっくりと見えるような気がした。街を網羅する電線の一筋や、けたましい音をたてながらマンション前の道を走る去る車のアンテナまでが、張り詰めて、しっかりとした形を保っているように感じられた。
 「ホルックー」
 浩太はこれからの予定を決めるべく、部屋の中へと戻った。

 14
 
 憂鬱について書く。
 岩波書店の国語辞典には、「うっとうしくて気持ちが晴晴しないこと。気がふさぐこと」と書いてある。私はなるほどと思う。ちなみに、晴晴は、「心に曇りがなく、さっぱりしているさま」と書かれていた。
 なるほど。
 
 15
 
 「してるなあ、いっつも」
 「だよね、このあたりのファーストフードの店でよく見かけるもん」
 ミヤジは「そうか、まあ確かにガッコ終わったあとはようこのへんブラブラしてるしなぁ」と言って、僕と三条を見回した。僕はうなずいて、「確かに」と言った。三条は、彼女の存在には気づいているようだってけど会話に参加せず盤を見つめていた。
 このあたりというのは、僕たちの行動範囲から考えてみると三軒茶屋から渋谷あたりということになるのだろうか。確かに…僕(たち)の行動様式はあまりにも洗練されすぎていて、このあたりのファーストフードを行ったり来たりしているようなものなのだろう。今日だって、こうしてサンドイッチやコーヒーを食べたり、飲んだりしている。僕は彼女の顔をあらためてじっくり見た。けど、どこかで見た覚えはなかった。
 「あなたとあなたがいつもチェスしたり窓から外を眺めたりしていて、それであなたは本を読んでる。だよね?他にも何人か加わることもある。そうでしょ?」
 「ご名答」「そやな」
 僕とミヤジは同時に答えた。それからミヤジはちょっと眉を上げて
 「それで、俺らに用?」
 と言った。
 「用ってほどじゃないけど」
 「うん」「ちょっと暇だったからね」
 彼女は肩を上げてみせ、三条の横に座った。三条が女の子を見つめるのはほとんどいつもだが、こうして見つめられた女の子と接触するのは初めてだった。
「この人、どの店でもあたしのこと見るから、なにかあるのかともずっと思ってたのよ。用事があるのかないのかわからないのよね。時間が経つと急にそ知らぬ顔するし。だから、ちょっと興味があって。すごく腹も立つしね」
 「どの店でもって?」
「あたし、バイトを転々としてるから。でも、どの店に行ってもあなたたちいるのよね。で、彼はいつも熱い視線をくれるし」
 そこでようやく三条は顔を上げ、彼女の方を見た。
「ほら見ろ、怒ってはるやろが、お前が見るからや。ちなみに先言うとくけど、こいつが見てるのは君だけちゃうで」
「それは、わかってる。私の友だちも見られてるから」
「そうか」
「怒ってるのと興味があるのが半々。なぜ見るのかの理由を教えてくれたらなと思って」
 僕は三条のクセの理由なんて考えたことなかったから彼女の質問には軽い衝撃を受けたんだけど、三条はちょっと考えて、
 「気づかなかった。俺、あんた、本当に何度も見てた?あんたは本当にどこに行っても俺に見られていた?」
 とわけのわからない質問で返した。
「そうよ。私はバイトを一ヶ月から二ヶ月周期でどんどん変えていくんだけど、どこにいってもあんたに見られているわ。三十分くらいずつね」
 という返し方もよくわからないけれど。三条は「気づかなかった」言い、眉をひそめまたちょっと考え込んで、「友だちにならないか?」と続けた。
「俺がそうやって見ちゃうのは無意識なんだ。ぼーっとしていると気づかないうちに見てる。けど冷めちゃうんだ、というか、気づいちゃうんだ。なんでこんな奴見てたんだと思うんだ。それで、興味がなくなる。次の子をまた無意識に、見ている。それの繰り返しだ。けど、あんたを何度も見てた。これは俺にとってはすごく驚くべきことだぜ。運命的なものを感じる」
「私は感じない」
彼女は冷たくそう言い放った。「そうやって理由付けしないで?」とも。
僕は、二人を交互に見ていた。
「オーケー、わかった、理由付けしない、だから友だちにならないか?」
三条も冷たい低い声で言った。こういう友情の始まりはどうなのだろうか。僕もミヤジ
も黙っているしかなかった。板ばさみっていうのはこういうことを言うのだろうと思う。周りの空気が薄くなる。当の二人は黙ったままにらみ合っている。何分かそのままの状態が続いたんだけど、とうとうミヤジが我慢しれきなくなったのか、
 「なんでそんなにバイト変えまくってんのん?」
 と尋ねた。気持ち悪いくらいの猫なで声だった。彼女はミヤジの方に体を向けなおして、
 「まあ、いろいろね」
 と言ってすぐまた三条を見つめた。というか睨んだ。ミヤジは溜め息をついて、小さな声で「『放たれた矢は二股の道で戸惑うことはない』やわな」と言った。
 「ミヤジ、数あてでもするか」「やろか。ピーな」「うん」
 僕もこの雰囲気には嫌気がさしていたから、二人を放っておくことにした。『数あて』のルールは簡単で、車のナンバーに書かれている数字を足したり引いたりした合計を先に言った方が勝ち、というシンプルなものだ。ピーはプラス、つまり数字をすべて足すということで、ちなみに左から右へ順に引いていくのはエム、マイナスだ。瞬間の判断力が勝負を決める。
 「19」
 「22」「22」
 「9」
 「7」
 「37」「35」
 「ありえへんやろが」
 「28」「28」
 「14」「14」
 「18」
 「19」
「睨みあってても仕方ないわよね?とりあえず、あなたがどうして見てしまうのか、その理由を、無意識かもしれないけど、考えて教えてくれない?あなた、とても失礼なことしているのよ?わかってる?例えば、今レジにいるあのバイトの男の子。あなた、あの男の子を見つめたりする?しないわよね?確かに、あなたが誰を見ようが勝手なんだけど、あなたがしていることはとても自分勝手なことなの。想像力が欠如しているの。わかる?」
 「7」
 「気があるからだろ、それは。三十分くらいで切れるけど」
 「想像力と持続力の欠如」
 「人をいたわる心遣いもないぜ」「4」
 「それは想像力の中に入っているの」「なるほど」
 「見られることがどういうことか、あなたわかってる?」
 「あんたはわかってるのか?」「あんたっていうのやめて」「8」
 「オーケー、わかった。あなたはわかるのか?」
 「少なくてもあなたよりはわかると思う」「なるほど」「23」
「私が言いたいのは、あなたにはあなたの理由付けがあるんだろうけど、少し過ぎるんじゃないか?ってことなの。オーケー?」「10」「11」
 「オーケー、わかった。なるほどね」
 「やめることはできないものなの、それは」
 「やめることはできるだろうな、…例えば目隠しをするとか」
「そういうことじゃなくて、もっと根源的にやめるのよ。想像力と持続力を身につけるの」「それって身につけるもんなの?」「15」
「さあ?」「3」「3」
「とりあえず、場所変えないか?ここじゃ落ち着いて話もできないし」
「29」
 「わかった」
 ミヤジが「29」と言ったときには、もう二人は席から腰を浮かせていた。そして、僕らに会釈して、世田谷線の三軒茶屋の駅の方へ向かっていった。ミヤジはまた小さい声で「『人は案外、人を羨んでいるものであり、変わった他人はもはや自分なのである』」と言いながら自分の煙草を取り出した。彼の格言の中では長いやつだった。
 
 16
 
 袖口の匂いを嗅いでみると、汗や酒の匂いがこびりついていたので、浩太は服を脱いだ。浴室に入り、シャワーの栓を捻ろうとしたとき、ガスの手続きがまだなのを思い出し、裸のまま電話で開栓の手続きを予約した。ガス屋の職員は夕方三時頃に来れるということだった。浩太は匂いがこびりついている服を着なおして、水道と電気の手続きもついでにした。玄関に備え付けられているバッテリーを上げ、電気をつけてみた。一瞬の間があって、病的な白い光が玄関に灯った。「さて…」と口に出し、明かりを消すと、浩太は部屋を出た。カーテンだ、それから、着替えの服だ。悟の部屋に置いてきた自分の持ち物を取りに帰る気は全くなかった。そのうち、悟が処分してくれるだろうと浩太は考えていた。
 「「必然」が増えていく」と浩太は思った。そう考えると、彼の頬は自然と緩んだ。マンションを出ると、彼は駅に向かって歩き出した。四月の風は、暑くはない空気を冷やし、寒くはない空気を擦りながら流れていた。
 「ホルックー」
 彼は呟き、空を仰いだ。雲はまばらに漂うだけで、あとは一面青い空であった、カラスも、飛行機も鳩も飛んでいなかった。浩太は服の匂いをもう一度確かめ、昨日の出来事を思い出した。初めて入ったバーはとてもうるさくて、カウンターに座ると隣にうるさい客が座った。若い彼らは言っていた。とても得意げな顔をして。
 
 「自分のスキルアップが大切なんだよ」
 「そうだよね。俺、手出すもん、興味あったら」
「俺も。やってみないことにはわかんないもんね。吸収してやりたい、って思うもん」
 「そうそう、資格とらないと生き残れないよ、俺らの世代、時代が違う、昔とは」
 「タケシは今度ドイツに行くらしいぜ」
「ドイツか、一度行ったけどいいとこだよ、法律だろ?あいつ。いいじゃん、本場だよ、国際法の」

浩太はおいおい、と思った。やれやれとも。それからもう一度おいおい。
若い彼らは言っていた。浩太はビールを三杯飲んで、洋酒もダブルできっちり四杯あけ
た。彼がしっかり酔うのに十分過ぎる量であった。浩太はとうとう我慢しきれず、
 「新手の漫才か?芝居の練習か?」
 と言った。
 浩太の隣に座っていた二人は驚いた顔で浩太を見つめ、
 「わかります?今度のチケット、買います?」
 と言ったのだった。
 浩太は丁寧に断りを入れ、尊敬の眼差しで彼を見つめる若者の視線を逃れて店を出、家へと帰ったのだった。二人は浩太をその方面の関係者とでも思っただろう。
 歩道に沿って公園があったので、通り抜けて行くことにした。大方葉桜になっていたが、緑の間にゆらゆら揺れる花びらは、最後の一枚までも輝いていようとしているように見えた。公園の中には、いたるところに鳩がいた。浩太は自分のベランダをたずねてきたやせっぽちの鳩を探したが、見当たらなかった。
 ベンチに腰掛けて、鳩に向かって「ホルックー」と挨拶をしていると、携帯電話が鳴った。相手は静子だった。
 「ホルックー」
 浩太が挨拶をすると静子は「馬鹿にしてるの」と言った。
 「挨拶だよ」
 「そう」
 浩太は髪を軽く、くしゃくしゃとかきむしった。静子の声は冷静だった。
 「今、どこにいるの」
 「公園」
 「今、どこにいるの」
 「麻布十番の公園」
 「次の仕事は見つかったの」
 「ホルックー」「そう」
 電話が切れたので、浩太は鳩への挨拶を再開した。彼らをよく見ているうちに、浩太は一羽一羽、それぞれ他の鳩とは決定的に違う部分があることに気づいた。目や嘴、羽の形、色、歩き方、それらを一つにまとめるとそれは鳩であり見分けがつかないのだけど、要素の部分部分に目を向ければ、とっておきの個体差が見られるのだった。浩太は感心して、誰にともなく「ホルックー」と言い、静子に電話をかけた。
 「なに?」「話をしよう」「私と浩太が?」「そう」「話をするのね?」「そう」「なにについて話すの?」「その場の流れで」「その場の流れで話すのね?」「そう」「じゃあ、どうぞ」
 浩太は胸の中で呟いた。「おいおい。やれやれ。…ホルックー」
 
 17
 
 坂巻が書いた文章について書く。
 
朝になって、まだ日は昇っていなかったけど僕の中では十月十日は終わってしまっていた。ラジオの中ではディスクジョッキーが十月十一日の訪れを必死に告げていた。
バイト先の控え室にはいつもの四人しかいなくて、けれど山下と永井はやっぱりいつも通り眠り込んでしまっているのだ。僕は十一日の分の仕込みをしていて、竹下は携帯電話でゲームをしていた。DJは朝の訪れを無理やりに爽やかなものにしようとしているみたいだったけど、地上三階の窓の向こうに見えるのはどんよりした曇り空だけだった。

「今日の日の出は六時丁度です。美しい朝日が見られるかもしれませんね」

本当なのだろうか。今ひとつ信じられないのだ。その後『今日の天気予報』が読み上げられ、それも終わるとキングクリムゾンの『ムーンチャイルド』が流れ出した。あのイントロを聞いて、僕は一気に悲しい気分になった。竹下が呟くように歌う『ムーンチャイルド』は悲しい。僕は眠たくなってきている。頭がどうにも重たいのだ

【感傷的】

カラオケに行って、曲のしりとりをした。多分、暇だったんだろう。
窮屈そうに一冊の本に収められた、知っているようで知らない歌。
僕たちは、歌うことのできる曲を探すのに必死だった。見つかりそうで見つからないのだ。
でも、知っている歌が、全体の量から考えると実はほとんどないのは、あたり前のことなのだ。
それは、池袋駅の改札の人ごみに、知り合いの顔を見つけられないのと同じだ。
こんなにたくさんの人がごちゃごちゃと歩いているんだから、中には知った顔の一つや二つはあるだろう、という僕のとんだかんちがいはある日突然打ち砕かれることになったのだけれど、とにかく、それと同じことなのだ。

一時間くらい経ったころ、『六甲おろし』が流れ出した。
僕が昔好きだった人は、阪神タイガースが好きで、カラオケに行くとよくこの曲を歌っていたらしい。
だから僕はなんだかジーンとしてしまい、けれども『六甲おろし』にジーンとしている光景というのも少し異様だななんて思って、
どんな滑稽な場面だって理由付けはできるもんだな、なんてことも考えた。
とにかく、この曲が終わるまでの間、僕は針で刺されたような快感にしびれてしまっていて、少し涙が出た。

【ロマンチスト】

池田と会うのも三ヶ月ぶりくらいなんだろうか。
彼女は相変わらずストイックで、変わっていないことに僕は大分照れてしまうんだけど、とにかくこんなとき、僕は時間の流れもまた物質的な要素を持ちえるんではないかと思ってしまうのだ。(ところで、ストイックの意味は何だっただろうか)

僕の文章は、僕の手先と同じくらい不器用だから、細かい描写ができない。

だから。

僕は今から矛盾したことを書くつもりだ。

三ヶ月ぶりに会った池田は、三ヶ月前の池田とはやはり違っていて、そこに時間の「物質的要素」を感じた。

けれど、やっぱりただ単に気分の問題なのかもしれないな。

「ストイック」な雰囲気が備わっていたんだな。

「気分」の問題なのかもしれないな。

【意味不明】

一言で片付けられる。

18

 僕とミヤジは煙草を二本ずつ吸ってから店を出た。外はもうすっかり暗くなっていた。遠目には、車のナンバーも確認できないくらいに。
「九時に「リバーサイド」やな。三条のやつ来ると思う?」
「どうかなあ、案外友だちになっているかもしれない」
「ふん」
ミヤジは、「見たい靴があるから」と言って、先に渋谷へ向かった。僕は純に電話をかけることにした。三軒茶屋の駅には暗闇が深くなるにつれて、人が増えていく。僕はざわめきが聞こえなくなる場所まで歩こうと思った。けれで人の数はとても多くて、まるで動く迷路みたいだった。や、そういう風に無機的にものを見ちゃいけないよな。僕は右に左にステップを踏みながら、ようやく静かな場所まで辿り着いた。そこは世田谷線の線路沿いだったが、電車はしばらく来ないだろうと思った。来たとしても、世田谷線は二両編成の、どちらかというと路面電車のようなものなので、そこまで音が気になるわけでもない。
「もしもし、どうしたの」
「ちょっと、電話でもしようと思った。今、どこ?今日、九時に「リバーサイド」でみんな集まるけど来れる?」
「今は家。今日はちょっと無理」
「用事?」
「ちょっとね」
「ふうん」
「じゃあね」
純は電話を切ってしまった。純は全然喋らなかったな、と僕は思った。もしかしたら、
調子が悪いのかも。そしてそれは、ミヤジが言うように、僕のせいなのかも。や、考えても仕方ないな、もう渋谷に行こう。
 僕が電話をポケットにしまい、歩き出すとすぐに呼び出しがかかって、純の気が変わったのかと思ったけど、相手はホッチだった。僕は出ようか出まいか悩んだけど、とりあえず用件だけ聞こうと思った。
「もしもし」
「ハルオ、あたし、すごいもの見ちゃった」
「なに?」「あたし、すごいもの見ちゃったよ!」「だからなにを?」
「純と永井さんが一緒に歩いてたんだけど、純の部屋に入ってったんだよ。私たち近所だからさ、遠くから見ただけだけど、あれは永井さんに違いないよ。純、永井さんといるよ!」
 なるほど。
 ミヤジの言う通り『明るいところでは意外に何も見えないものだ』だな。あるいは『沈黙は多弁に似たり』か。

19

 「バード」に入ると、店長は店の奥で本を読んでいた。
 「こんちは」僕が言うと、
 「ノムラ君、どうしたの」と店長は言う。なぜだろう。
 ここは、喫茶店で、僕は客だ。客が店に入るってことは、なにか飲みに来たってことじゃないかい?「どうしたの」ってのはないんじゃない?店長。
 「ちょっと時間空いたんで」「コーヒーだよね。入れるよ」
 コーヒーをカップに注ぐ音が聞こえる。僕はカウンターに座った。
 「ノムラ君、カルピス名作劇場って知ってる?」
 「知ってますよ。見たことないけど。ハウスの前のやつでしょ」
 「そうそうそう。僕、最近あれをDVDで見てるんだよ。感動するね、涙が止まらない」
 「そうですか」
 僕はコーヒーを飲みながら店長の話を聞いていた。
 「単純なのがいいんだ」と店長は言う。
 「単純なのがいいんですか?」
 「そう、わかりやすいのがいい」
 店長は煙草を取り出した。火をつけ、もう一度、「単純なのがいい」と言った。
 「それだったら、店長、そのうち、『この鉛筆の長さは七センチだ』なんて文で泣けるんじゃない?」と僕が言うと、店長は
 「七センチもある、七センチしかない」
 と返した。
  含蓄ってやつなのかと僕は思う。
  そこで三木さんが店に入ってきた。
「やあー、どうも、店長、いやー、大変ですね。仕事がバンバン入っちゃって、もう、僕大変ですよ周りのバイトまとめるの、はい、あいつら使えないから、ハハハ、あ、コーヒーお願いしますね、ハハ、本当、あ、ノムラ君、久しぶり、で、もうなんも考えちゃいないんですよねあいつら、本当、僕が指図しないとだらだらしゃべってますからね彼らはねえ、店長、困ったもんです、ははは、ってなもんでね、はは」
  三木さんは嫌な人ではない、多分。少し、口が過ぎるだけだと思う、僕はね。
 「元気だねえ、三木君…」
  僕から二つ分席を空けてカウンターに座ると三木さんは続けた。
「いや、店長ひどいんですよ聞いてください本当に。本当、今の店の責任者っていうのが五十過ぎなんですけどね、年が。ひどいもんですよ自分でなにもできないんですから本当、できるんですけど、自分が正しいと思ってることのなかでしか動けないんだから扱いづらいんですよ、こっちはそれを操作すればいいだけなんですけどねハハハ」
「駄目ですよ、店長、年取ると、いや店長のことじゃないですよ、いや、でも年取ると自分がつくったもの守ろうとしますもん本当、その世界しか知りませんからね彼ら本当、ハハハ。殻を破れ、っていうのですか」
気持ちいいくらいの笑顔で三木さんは言う。店長は話に途切れがくるまで黙って聞いて
いる。僕はもちろん、黙って話を聞いている。三木さんは、多分悪い人ではないと、思う。
 「年取ると駄目、若い方が強いですよ、絶対に。僕よりもノムラ君の方が強いですよ絶対に、そしてノムラ君よりもっと若い子の方が強いです、若さにはなにものも勝てないんですよ、あ、あ、やめてくださいよ、老獪なんて言うの。そんなのないんですよ、だって僕だって、僕だって店長もう駄目なんですよ、終わってるんですよ、すでに、若い子たちから見れば、いや、店長、本当ですってば。もう固まってますもんね、年取るって固まるってことですもんねいやですねえ、店長、あ、そういえばあれ見ました、あれ」

20

 浩太が黙っていると、電話口から
「ねえ、聞いてる」
 という静子の声が聞こえた。鳩が浩太の革靴をコツコツと嘴でつついていた。
「聞いてるよ」
「黙らないで。流れで話すんでしょ」
「そうだった。ねえ、聞いていい」
「私が怒らないことなら」
浩太は靴を震わせて鳩の攻撃から靴を守った。
「じゃあ、手始めに軽い質問から。完璧ってありえると思う?」
「あなたは完璧じゃないわよ」
「ヒントその一。俺のことでなくてもかまいません」
「じゃあ、あるかもね、完璧」
「じゃあ次。未練ってだらしないと思う?」
「あなたはだらしないわよ」
「ヒントその二。俺のことではないかもしれません」
「未練ねえ…未練、いいんじゃない、未練、それも有るわよね」
「部屋を借りたんだ、新しく」
「質問したいんじゃないの」
浩太はベンチから腰を上げ、公園を出て、歩道へ戻った。
「まあ、聞いて。その部屋には、必要なものだけを置こうと思うんだよ」
静子は黙って聞いていた。
「それで…」そこで浩太は一息ついた。駅に向かう人のは少ない。もう、昼の十一時なのだ。
「だから、今からカーテンと服を買いに行ってるところ。ガスは三時くらいから使える。それまではシャワーも浴びれないんだ」
「それは大変。タオルも必要になるね」
「本当だ。タオルも買いに行こう。歯ブラシもね」
「それで、あなた聞きたいことあるの」
「また必要になるかもしれない、その、わかるだろ」
しばしの沈黙が浩太に訪れた。駅にはもう少しで着く。
「…私はモノではないの。あなたを守るために在るのではないし、飾るため在るわけでも、乾かしてあげるために在るのでもないの」
そうして、再び電話は切れた。

21

 落胆について書く。
落ち込んでいる人の顔は、どうしてあんなに歪んでいるのだろう。それが自分の不幸であれ、他人の不幸であれ、落胆している人の顔は砲丸投げの球をぶつけられたような顔をしている。この世の不幸を一手に引き受けているような顔をしている。
 実際、すごい顔をしているのだから。
 「なぜこんなことになったのかわからない」
と彼らはよく言う。
 「こんなことなら…」とも。
 「どうして、私が、彼が、彼女が…」
 落ち込んでいる人には悪いが、やはり、トラブルはどうしても不慮のうちに起こるのだと、私は思う。飛んできた傘の先端が喉に刺さって死ぬかもしれないし、雨上がりのアスファルトで滑って転んで逝ってしまうこともあるのだ。
 「どうして…」なんて、どうして言えるのだろう。もっと疑ってかかるべきだろうし、なにかあると思ってもいいのではないだろうか。

22

 まとめるっていうのはよっぽど退屈なことだな わかんない方が知る楽しみがあっていいや わかっちゃうともう駄目だな 駄目です、つまらない けれども、わかんないと知りたくなるしな 客観的に提示されると嫌なのかも 知っていくことは楽しいのに、けど、まとめを出されてもつまんないっていう、そんなもん知りたくないっていう 自らでどんどん知っていく、あー、知りたい知りたいわかりたい、で、わかっちゃうと、まとめちゃうとつまらん なにかを知りたいのじゃないのかもしらんもしかしたら 知らんことを知りたいだけなんじゃなかろうか まとめがつまんないのは、まとめちゃうとわかっちゃうからで、わかっちゃうと退屈なのだ 退屈するためにまとめていく 頭の中はすっきり、机の上にはごちゃごちゃとメモ類がぎっしりで、つまらん

23

 僕は純の家に行かなかった。ホッチからの電話を切るとすぐに渋谷に向かった。グツグツ煮えたぎるものはあったけど、僕は純の家に行かなかった。連絡も、とらなかった。その代わりに、ミヤジに電話をして、合流した。ミヤジは僕を見て、
 「どないしてん。鬼みたいな顔やぞ」
と言ったけど、純と永野さんのことは黙っていた。それでも伝わるものがあるのだろうか、ミヤジもなにも言わなかった。僕はそのとき、「そんなことないよ」と言うので精一杯だった。や、それしか言いたくなかったのかも。右から、左から人が流れてきて、それは出口も入り口もない塊なのだった。足を動かすのが億劫だった。四方を動く塊に囲まれて、自分でもわかるくらいに僕は疲弊しきっていた。ミヤジは黙って横にいてくれて、その結果僕らは二人で渋谷の街に立ちつくしていた。
 八時半くらいになって、ミヤジが
 「そろそろ行くぞ」
 と言い、僕らはJRの渋谷駅から十五分程のところにある「リバーサイド」に向かった。


 「リバーサイド」は関西出身のタケシ君の店で、僕たちは週に二、三度顔を出す。最初に見つけたのはミヤジで、同郷のタケシ君の人柄に惹かれた彼が、僕や三条をや純なんかを常連にしたのだった。
 店に入るとカウンターにさっちゃんしかいなくて、テーブル席には誰もいなかった。僕はそれを見て少しだけ心が柔らかくなるのがわかった。今日はもう、あまり騒ぎたくなかった。
 「いらっしゃい」「や!」
 タケシ君とさっちゃんが同時に言って、僕とミヤジも挨拶を返した。カウンターに座り、二人ともビールを注文した。
 ミヤジは隣に座っているさっちゃんと話をはじめた。
 さっちゃんは確か茨城の出身で、東京の私大を出た後、渋谷にオフィスがある会社に勤めている。タケシ君の、多分、恋人で、たいてい毎日店にいる。
 僕は会話には混じらず、純のことを考えていた。や、違うな。
 純は、今日、永野さんと会っている。純の部屋で。じゃあ、それはそれで仕方ないじゃないか。
 俺は、純のことなんか考えていないんだ。仕方ないと思っているんだ。俺が考えているのは、そう、漠然としたこの先のことだろうな、うん、そうだ。
 俺は今、煙草を吸いながら、ビールを飲みながら、これからどうなるのかについて考えているんだな。「いい結論」を探しているわけだ。     
 僕は考えるのも馬鹿らしくなって、会話に混じろうと思った。

 「俺、夜中に目覚ますたびに、サイモンとガーファンクルの『アメリカ』を想い出しちゃうんだよなぁ、なんでだろ?」
 「それはわかる気がする」カルーアミルクを一息で飲み干して、さっちゃんは言った。
 「ミヤジマも私も地方出身じゃん?まあ、東京ってそういう街だけど」
 「まあね」
 さっちゃんの顔は真っ赤になっていた。そうとう飲んでいるんだろうと僕は思った。タケシ君はミヤジかさっちゃんが頼んだエビピラフを作っていた。
 「要はさぁ…中心への憧れていうか、望郷の対角線上にあるようなモンなんだよね。都会に憧れてるくせに、いざその場所にたどりついちゃうと、ノスタルジーを感じちゃんでしょ?そのくせ、都会に牧歌的なモノ感じてるんだからおっかしいよね。あいつら、嫌いだよ、アタシ」
 あいつらっていうのは僕らのことなのか、さっちゃん自身も含めてのことなのか、地方から東京に出てきた人のことなのか、それとも『アメリカ』に出てくる二人のことなのかわからなかったけど、さっちゃんは僕らの方を見ていなくて、多分視線の先には飲み干してしまったカルーアミルクしか映っていなかった。
 「アタシ、もう一杯飲む」と言って、カルーアミルクを注文して、ようやくさっちゃんは僕らを見た。
 「でもさ、みんなそうじゃん。みんなどっかから出てきて、けどそのくせどこかに出たいと思ってるんちゃうん?さっちゃんやって、毎晩この店に出てきてるんやんか。別に人のこと言われへんのんとちゃうか」
 ミヤジはここでも熱く諭しだした。さっちゃんはまた幻のカルーアミルクを見つめだす。カウンターに隣あって座っているはずなのに、どうしてこんなに遠く感じるのだろうかと僕は思った。ミヤジの問いかけに、ぐんと冷やされた声が返ってくる。
 「アタシは別に何か求めてるわけじゃないし。歌の中の人たちと一緒にしないでくれる?」
 さっちゃんはもう目も開けていなくて、顎をひくひく動かしながら言った。ミヤジはまた言った。
 「じゃあ、なんしにこの店来てんの?なんも求めてないなら来る意味ないやん。来なくていいやん。ムダやん、そんなん」
 ミヤジが問い詰めるように言うとタケシ君は慌てて「いらんこと言うなや」と言った。
 「さっちゃんがここに飲みに来る理由があるにせよないにせよ、お前には関係ないやろが。口出すことちゃうで」
 ミヤジはぐっとなって黙ってしまった。
 「そうやで〜」 
タケシ君からお酒を受け取りながら、さっちゃんは歌うように言った。
 今日のさっちゃんは飲みすぎていて、多分、タケシ君との間に問題が発生したのだろう。僕は白けてしまって、ミヤジもつまらなさそうな顔をしていたから、同じような気持ちだったんだろうけど、店の中の四人はそれから一言も口を聞かなかった。飲み物がなくなったときに、さっちゃんは「カルーアミルク」、ミヤジが「スゥイング。ソーダ割で」、僕が「オールドパー」と言うだけだった。タケシ君は、喋らなかった。返事もしなかった。
 十時を過ぎても三条は来ないから、僕たちは帰ることにした。
 タケシ君はこのときばかりは笑顔で「また来てな」と言った。けれどミヤジは外に出ると憮然とした顔で、
 「『切れてしまう。手を離したから。縺れてしまう。手を離したから』や」
 と言った。これまた長いやつだった。
 
 24







 25
 
 買い物から帰ると、浩太は荷物をフローリングの床に無造作に置いた。そして、着替えの服やタオルと一緒に買ってきたサンドイッチを頬張った。トマトとハムが挟まれたサンドイッチだった。牛乳で最後の一欠けらまで流し込んで、ゴミをまとめた。
「ゴミ箱も必要だな」
 浩太はつぶやいて、床に寝転がった。
 それから、静子に電話をかけてみた。彼は三度かけたが、三度とも彼女は出なかった。
 三度かけたが、三度とも出なかったのだった。
 
26

 終わりについて書く。
 終わりってそもそもあるのだろうかと私は考える。例えば、CDが最後の一曲まで流される、これには終わりがある。冷蔵庫にあるバターの、最後の一欠けらをトーストに塗る、これもまた終わりだ。とすれば、世の中のたいていのことには終わりがあるんじゃないだろうか。終わらないことは、あるのだろうか。目が覚めれば、明日が来る、だから自分の毎日は終わっていない、続く、というのは本当なのだろうか。それって、もう「終わって」るのではないだろうか。あらゆる意味において、ちょっとした瞬間に、すべては終わっているのではないのだろうか。終わりの中から、また終わりが生まれるのではないのだろうか。終わらないものが、はたしてあるのだろうか。

27

 三条に連絡をとると、レジの子と家にいるってことだった。僕もミヤジも遠慮したんだけど、三条がどうしてもと言うので彼の家まで行った。
 部屋に入るとレジの子は、「有紀」と名乗った。
二人は二人なりの話し合いを経て、友だちになったようだった。
「ねえ聞いて、三条っておかしいの、部屋に置いてある小説、全部『上』しかないのよ」
「『下』読んだら、それでわかっちゃうじゃん」
「わかるために読むんちゃうんか。でも、おかしいわな、やっぱり。三条の部屋に来るたびに俺もそれ言うか言うまいかで悩んでてん。三条、『上』だけで読みきれなくなったんやとずっと思ってたから」
「俺もだよ」
「持続力の欠如」と有紀。
「『上』はちゃんと読むんだぜ」
「ねえ。でもやっぱりおかしいわよね。『悪霊』も『ホテル・ニューハンプシャー』も、『感情教育』も、『赤と黒』も、『コインロッカーズ・ベイビー』も、全部『上』しかないんだもん」
「『ファウスト』はまだわかる気がするけど」
「『魔の山』って『上』読んだだけで意味あるんか?」
「それなら他の本だってそうじゃない」
僕らは口々に勝手なことを言った。
「まあ、いいじゃん、そのうち読むよ、『下』も」
「『失われた時を求めて』は五冊ある」
「それは、本当に読むのに疲れちゃったらしいわよ」
「長いもんなあ」「ほんとに長いんだぜ、それ」
「ははは」
「なあ、ところでこの時計遅れてない?」
「うん、今何時だろ…二時間くらい遅れてるぞ」
「それもわざとなんだって」
「なんでやねん!こっちの目覚まし時計は五時間早いわ」「ほんとだ」
「ちょっと、三条携帯貸してくれよ」「はい」
「…なんだ、携帯は合ってる」「と、思うでしょ?」
「見して。…日付がずれとる」
「うん」
「わけわかんないな」
 「どこかおかしいと思っちうよね」
 「常識ないわな、三条って」
 「うん、ない。欠けている」
 「まあ、いいじゃん。そういや、さっちゃん、荒れてたんだろ?」
「荒れてたわ、なあ、ハセガワ。まあ、こいつも荒れてたけど」
「なんで」
「純にふられたんちゃうか。しらんけど」
部屋が急にシンとしたけど、三条と有紀はそれに対してなにも言わなかった。
そして、なるほど、と僕は思った。
 三条がビールを四本持ってきて、僕たちは乾杯した。ミヤジがカバンからポテトチッ
プスを取り出して、それをつまみにして食べた。ミヤジが答えみたいなものを出してくれたから、僕はどんどんビールを飲むことができた。それから、どんどん煙草を吸った。
 空が白んで、鳥の鳴き声が聞こえるまで僕らはどうしようもない話をしながら飲み続けたんだけど、七時前くらいになって僕とミヤジはそれぞれの家に帰ることにした。もう電車は動き出している時間だったし、僕にはやるべきこともあった。でも、とにかく、自分の布団で眠りたかったのだった。

「そういや、有紀はなんでバイト転々としてるん」とミヤジが言った。玄関で靴を履いているときだった。ずっとそれが気になっていたんだろう。
「私、バイト先のマニュアルを集めるのが趣味なのよ」
「マニュアル?」
「そう、あれを見ていると、すべてわかっちゃえるような気がするの。だって、それを見ればどう動けばいいかわかるからね」
「なるほどなあ、マニュアルか…」
「誰だって、そういうものを自分の中に持ってるじゃない。「私はこういう時にこうする」っていうやつ。でも、それって気分だったり環境だったりによって変わっていっちゃうのよね。その点マニュアルって変わらないから。変わらない分、安心して見ていられるのよね」
「怖い考え方だぜ」と、三条は苦笑した。
「なんでよ、だって、変わってしまう不確定な人格より、安定したマニュアル型の人格の方がもっと安定した関係を育めると思わない?」
「怖いぜ」三条はもう一度言った。

 世田谷の駅で降りて、分かれ道にさしかかったとき、ミヤジは言った。息はとても白かった。
「『上』しか読まん三条に、マニュアルでなんとかなると思ってる有紀、変な二人や」
「そうだな。でも、うまくいきそうじゃないか」
「ふん。いい友だちになるんちゃうか。でもなあ、ハセガワ忘れたらあかん」
「ん?」
「『進む前にまず方角を決めろ』ってことや。わかるか」
「なんとなくね」
「そっか。…あー、寒いなあ、寒いっ」
 
 ミヤジは多分、『想像力を持て』と言いたかったのだと僕は思う。そして、有紀も。
 想像力。それは僕(たち)が持たなくてはいけないものなんだろう。

 僕はミヤジに別れを告げて、自分の家へと歩いた。部屋の前で純と永野さんが待っているかも、と考えると胸はやっぱり沈んだ。ホッチがいるかもしれなかった。ありえないけど、純が一人で凍えながら待っているかも。どうなんだろう、と僕は思った。この先、どうしたらいいんだろうと思った。でも、とにかく僕が今考えていることは、早く眠りたいってことだけなんだと思う。早く、目をつむってしまいたいってことだけなんじゃないかと思う。だから、僕はここで横になってしまってもいいはずなんだった。それでも足は止まらず、僕は一歩一歩家へと近づいていった。
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