大阪教育大学 国語学特論2 受講生による 小説習作集
仮題「フルスイング」 | 32109 |
仮題「メガネ」 | 42102 |
「thoughtfull」 | 42103 |
「特別な日」 | 42105 |
「二枚貝の夢」 | 42108 |
哲也と僕は中学から一緒に野球を始めた。はじめは僕も哲也も野球がお世辞にも上手くはなく、試合にもまともにだしてもらえなかった。それでも野球をやっている時は楽しかったし、このままでもいいとさえ思った。
中学二年の秋の大会。哲也はその緒戦ではじめてスタメンの座についた。そして4打数3安打3打点の大活躍。僕はその哲也の姿をベンチから複雑な思いで見つめていた。周りのみんなは哲也の才能が開花した。哲也は覚醒しただのと騒いだが、僕は哲也が死に物狂いで練習に打ち込んでいたのを知っていたし、日に日に野球がうまくなっていくのを一番近くで見ていたからいつかこんな日がくるんじゃないかとは思っていた。その日から二年。哲也と僕のいる世界は高校1年の夏の今まで、何も変わっていない。グランドとベンチ。グランドとスタンド。そこには目に見える距離とは違った、超えられない大きなへだたりを感じた。少し昔を思い出すたび、その背番号「5」を見るたびに胸が締め付けられるような気がした。そして僕は中学で野球をやめた。
「今日の試合は勝って当然なのかな?」
試合が終わり、応援していた生徒を迎えに来たバスへと向かう途中、千夏に急に声をかけられた。
「さあ、でもベスト8だから楽な試合ではないはずだけど。」
「8対1で勝ったのに?」
「うん…たぶん。」
僕は曖昧にごまかしたが、目の前でじかに見たうちの高校は強かった。10回やっても負けないんじゃないかと思うほど。
「ふーん、でも相手のピッチャーが可哀想だったね。」
千夏はニコニコしながらそんなことを言った。明るくて素直だが、たまにきついことをサラっと言い放つ。
「逃げなかっただけえらいよ。」
「何から?」
「うちの打線から。特に哲也から。」
僕が投手なら逃げたい。哲也を抑えられる投手が今、この県内にいるのだろうか。
「ふーん。」
関心がないのか、あまり僕の言っていることが分からないのか、千夏の返事は曖昧だった。
駐車場に止まっているバスにうちの学校の生徒が乗り込んでいく。僕も千夏もその列に並んで待っていた。バスに乗り込もうとして足をかけたとき、千夏が急に
「かっこいいよね。」
と口にした。僕は立ち止まって振り返ったが、千夏も振り返り、球場のほうを見ていたので、僕は「うん。」と短い返事だけをして、バスに乗った。
適当な座席に座って球場のほうに目をやると、さっきまであんなにまぶしかった夕日はもう沈んでしまっていた。
うちに帰り、冷蔵庫を開けて中を見てみる。中から冷えたお茶を取り出して一気に飲み干した。冷たいお茶がのどを通っていくのを感じ、生き返った気分になる。今日一日でかなり日焼けをしてしまったのか、顔がぴりぴりした。こんなに日焼けしたのは久しぶりだった。
「おかえり。ご飯出来てるからね。今日の試合はどうだったの?あら、顔すごいね。焼けたんじゃない。」
庭にいた母が台所に入ってきた。いっせいに色んなことを喋られたため、僕は何に答えればいいのか迷ったが、結局
「勝ったよ。8対1の七回コールドで。」
と試合の結果を口にしていた。
「すごいわねえ、本当に甲子園にでちゃうかもね。」
「うん、このままいけばね。」
簡単なことを言って、母は夕食の準備を再開した。うちでは僕が野球を中学校でやめて以来、僕の気持ちを考えてか、母も父もあまり野球の話をしなくなった。僕に気をつかってくれているのだろうが、そのほうがかえって空気が重くなる気がした。
夕食をとる間、僕と母はとりとめもない話をした。父は数ヶ月前から仕事が忙しくなり、いつも帰りが遅かった。父とも昔はよく野球の話をした。こうやって夕食をかこんでは、その日の部活での練習のことやプロ野球の結果について。
夕食を終えても母は片付けを始めなかった。テレビのほうに目をむけたまま、ぼーっとしているように見えたので、僕は自分の部屋に行こうと思って立ち上がった。
「野球やりたいんじゃないの?」
母の突然の言葉に僕はどきっとした。僕は母に目をむけた。相変わらずテレビに目を向けてはいたが、テレビを見てはいないようだった。
「母さんね、野球のことあんまりよくわかんないけど、きっとがんばれば後悔しないと思うよ。父さんもそう思ってるよ。」
僕はずっと母を見たまま何も言えなかった。そしてそのまま自分の部屋へ入った。
その日はあまりよく寝られなかった。電気を消してベッドに横になってもずっと母の言ったことを考えていた。
試合から数日は雨だった。そのせいで日曜に予定されていた準決勝は雨で順延になった。月曜になった今日も朝起きた時から雨が降っていて、午後になって幾分雨は小降りになったが、空は真っ暗だった。いつもは活気の溢れる放課後のグランドも、今日は静まり返っている。雨がまた降ってこないうちに、僕は急いで帰ろうと思い、学校の裏門を出た。そこで、またあの日のように千夏に声をかけられた。
「帰るの?駅まで一緒に帰らない?」
「部活は休み?」
「うん、昨日試合だったから今日は休み。」
千夏はブイサインをつくって笑った。バレー部に入っている千夏はいつも忙しそうで、放課後授業が終わるとよく体育館にかけていく姿を見た。
「昨日の試合延期になって残念だねえ。」
「何の試合?」
僕は野球の試合だとすぐに分かったが、はぐらかした。
「何って野球でしょ。応援に行く気なかったの?」
「ああ、昨日だったっけ?どっちにしろ行く気はなかったよ。」
嘘ではなかった。応援に行く気はなかった。僕は野球と哲也から逃げている。それは自分でも分かっていたが、千夏や両親には知られたくなかった。そんな自分が情けない。高校に入ってずっとそんな気持ちを引きずっていた。
「冷たいなあ。野球やってたんでしょ?野球見るの好きじゃないの?」
「見るのは嫌いじゃないよ。でもどうせ決勝までいくだろ。」
半分は嘘、そしてもう半分は嘘ではなかった。野球はできれば見たくない。でもなぜだろう。僕はこの前の試合を自分から見に行った。希望者だけでよかったにもかかわらずだ。
それからうちの野球部は強いから決勝までは行くとも思っていた。
千夏と僕は門を出て駅に向かって歩き出した。多くの生徒も門をくぐり駅までの道を急いでいるようだった。それきり千夏とは話さず、二人の間には沈黙の時間が流れた。僕も千夏も傘をさしていたからよく千夏の顔が見えなかったが、かまわず前を見て歩き続けた。今は誰とも喋りたくはなかった。
僕は哲也や野球だけじゃなくて千夏からも逃げているのかもしれない。そう思った時、千夏が
「なんで野球やらなかったの?」
と突然聞いてきた。ドキッとした。指先まで神経が研ぎ澄まされていくようだった。僕の逃げている姿を千夏には見抜かれていると思った。でも傘の間から見えた千夏の表情は相変わらず優しいものだった。僕の耳は真っ赤になっていたと思う。傘に当たる雨の音が嫌に大きく聞こえる。
口が渇くのが分かったが、僕は平静を装うため笑って言った。
「僕が野球やっても、哲也みたいにかっこよくはなれないよ。」
いや、笑ったつもりだったが引きつった笑顔だったかもしれない。
「かっこいいよ。」
千夏の言葉はぼくの予想を裏切った。哲也の名前を出せば、話は哲也のことになると思った。でもそうじゃなかった。
「がんばってる人はかっこいいよ。」
いつもの笑顔がそこにはあった。今、千夏は僕を見ている。千夏だけじゃない。母や父はいつも僕のことを見ていた。あの秋の日以来、みんなが哲也だけを見ている気がした。僕をまっすぐに見てくれる人。僕はいつもそんな人に違う自分で答えていたのかもしれない。
「うん。」
それだけしか言えなかった。僕は自分の目頭が熱くなるのを感じて少し傘を傾けた。そして駅までの道をまた歩き始めた。
準決勝は夏休みに入ってから行われた。試合は予定どおり、午後14時に始まった。
一週間前と違って、空は青く澄み渡っている。やっと夏になった感じがした。
僕はスタンドにいた。千夏はバレーがあるから来られなかった。
「来週は私のぶんまで応援よろしく。」
駅で別れるところで千夏は僕にそう言った。僕はまだ応援に行くとも言ってなかったのに。
試合前半は両チームの投手の好投もあり、0対0の均衡した状態で進んだ。グランドは蒸し暑かった。夏の日差しを受けて土は乾ききっているし、外野の芝は青々としている。グランドとスタンドの気温が違うのは僕も体感している。グランドのそれはスタンドのものとは比べ物にならない。見ている僕が暑さで朦朧としているのだから選手はもっときついのだろうと思った。哲也の表情も険しかった。
試合が動いたのは八回の裏になってからだった。ツーアウトながらヒットとフォアボールでランナーをためたうちの高校が、満塁のチャンスを作った。打席には哲也。
相手チームはたまらずマウンドで円陣をつくった。ベンチからは伝令が走っている。相手はスラッガー。この場面が試合を大きく動かすのだ。
僕は哲也をじっと見ていた。哲也はその時素振りをしながら待っていたが、ふとスタンドを見て、僕をその時はじめて見つけたようだった。僕と哲也の目が合う。僕はこぶしを固く握った。―指が折れるぐらいに。僕は哲也から目をそらさなかった。哲也の目も、まっすぐ僕を見ていた。哲也の並々ならない気迫が僕に伝わってくる。殺気にも似た凄いものだった。だが僕の表情も決意のこもったものだったに違いない。今までの僕なら逃げていたかもしれない。もう僕の耳にはブラスバンドの演奏も、選手たちの声も、蝉の鳴く声も届かなかった。そこには僕と哲也しかいなかった。今まであった距離を感じはしなかった。
―見てろよ。俺を。
主審が試合再開を告げる。
相手投手の投げた外角低めのストレートを哲也はフルスイングした。
それは今まで見たどんな打球より高く、美しい軌跡を描いて青空にすいこまれていった。
「日常生活に少し支障が出るかもしれませんね」
そんなことない。平気だよ。
「これだと黒板の文字も見えにくいでしょうし」
見えるよ。平気だってば!
「そうですね。必要な時にだけ、ということで」
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ!
「やはりメガネを作ったほうがいいでしょう」
うわあーーーーーッッッ!!!
心臓が、ひどくバクバク言っている。
「……ゆ、夢……?」
僕は思わずあたりを見回した。
けっ飛ばされた掛け布団、ノートが出しっぱなしになっている勉強机、寝る前に準備したランドセル。カーテンの向こうは明るかった。朝だ。
「よかった……」
ほおっ、と息を吐き出す。
汗で前髪がおでこにぴったりくっついていた。あんな夢を見たんだから、当然だ。今まで見た中でも、怖さベスト5に入る。前に見た、井戸から出てきた女のユーレイに追いかけられる夢の次くらいに怖かった。なんたって――
「ひっ!」
とつぜん目覚まし時計が鳴りだし、そこでまた僕は驚いて声をあげた。
七時。いけない、早くしないと学校に遅刻してしまう。
ぼくは急いで着替えると、ランドセルを持って階段をかけおりた。
「おはよう!」
ドアを開けると同時に言ったけれど、すぐに返事は返ってこなかった。食事をするテーブルに座っていたお母さんは、ゆっくりと顔をあげて僕を見たあと、しばらくしてからようやく、
「……おはよう」
とつぶやくように言った。なんだかため息とほとんど変わらない声だった。
「朝ごはんは?」
「食パンがあるでしょう。自分で焼いて食べなさい」
「……うん」
僕は言われたとおり、食パンを一枚トースターにセットする。冷蔵庫から牛乳を出してコップにつぐと、それを持って席についた。
ここのところ、朝ごはんのメニューはいつも同じだ。お母さんはそれすら食べていないようだった。眠たそうな目で、面白くもなさそうな朝のニュースを眺めている。
「行ってきます」
返事のないまま、ぼくは家を出た。
お母さんは――――操られているんだ。
多分、気づいているのは僕だけだ。
ほとんどの人は知らないだろうけど、地球にはたくさんの宇宙人、ちょっと難しく言うと、エイリアンがやって来ている。そんなわけないって言う人も多いけど、あの人たちは、宇宙の広さと、そこにどれだけの星があるのかわかっていないんだ。UFOがやってきた証拠の写真や映像も、たくさんあるのに。
エイリアンがやってくる目的はもちろん、地球の侵略だ。
でも、やつらはUFOでいきなりアメリカをおそったりするようなバカじゃない。もっとこっそり、バレないようにやっている。少しずつ、少しずつ、人間を自分たちの仲間に引き入れているんだ。
僕の考えだと、人類の四分の一はすでにやつらの手に落ちている。
やつらの手口はわかっている。――メガネだ。メガネをバイカイにして、人間をセンノウしているんだ。
僕がそれに気がついたのは、一週間くらい前のこと。お母さんがおかしくなったのもそのころからだ。
ある日の朝、洗面所にいたお母さんが、とつぜん「あっ!」と大きな声をあげた。僕が驚いて駆けつけると、お母さんは水を出しっぱなしにした洗面台をじっと眺めていた。「どうしたの?」と僕が尋ねても、「なんでもないのよ」と答えるだけ。そのあとしばらく大きなため息を何度もついていた。
思えばあれが、お母さんがエイリアンとコンタクトした瞬間だったのだ。
その日、学校から帰ると、お母さんはメガネをかけていた。今までかけていなかったのに、とつぜんだ。僕やお父さんに冷たくなったのもそれからで、原因がメガネにあることはメイハクだった。
そう考えてみると、世の中にはメガネをかけている人(僕は『メガネ人間』と呼んでいる)が大勢いる。エイリアンに操られている人間だらけなのだ。
でも、それが誰彼構わずではないことは、すぐにわかった。
やつら、エイリアンはやっぱりバカじゃない。人類の中でも、とくに頭のいい人間を選んでいる。たとえばうちのクラスのメガネ人間だと、山口さんはどのテストでも毎回百点をとっているし、佐藤くんは僕がタイトルすら読めないような難しい本をいつも教室で読んでいる。
驚いたのは、コッカイチュウケイという、国のえらい人が集まってする会議を見た時だ。あそこにいるのはメガネをかけた人たちばかりだった。つまり、日本はメガネ人間によって動かされているもどうぜん、ということだ。
思い当たる節は他にもある。
去年の夏休みに、お母さんの実家へ泊まりに行った時のことだ。僕は一度、こっそりおじいちゃんのメガネをかけてみたことがあった。
今思えば、僕はなんておそろしいことをしようとしていたんだろう。メガネをかけた瞬間、目の前がぐにゃりとゆがんで、頭がガンガンいたみだした。一瞬だったけど、僕はセンノウされかけたのだ。
それを見たおじいちゃんは、ものすごく怒って僕からメガネをとりあげた。きっと、メガネの秘密に気づかれると思って焦ったにちがいない。
学年が変わるたびにやる視力検査は、やつらがメガネ人間にするターゲットを選ぶ方法だ。
あのわっかが欠けたおかしなマークは、見る人が見ると、もっと別な、たとえばやつらが使う複雑な文字に見えたりするんだろう。とうぜん人間に読めるはずがないから、みんな決まって「わかりません」と言う。そして病院でもう一度検査をして(このお医者さんもメガネ人間だ)、ユウシュウなジンザイを、さらにセンベツするというわけだ。
もちろん、中にはえらくもかしこくもないのに、メガネをかけている人もいる。あれはカモフラージュだ。えらくて頭のいい人たちばかりをねらっていたら、すぐにバレてしまうからだ。
「――どうしたの?」
「わあっ!」
とつぜん話しかけられ、僕は思わず飛びあがった。すると、話しかけた野村先生も驚いた顔をする。
「びっくりした。ごめんね、考えごとの邪魔をしちゃったかな?」
「う、ううん。そんなことないよ」
野村先生は、僕がいる三年二組の担任の先生だ。美人で優しくて、生徒や先生からも人気がある。僕も好きだ。もちろん、メガネ人間なんかでもない。
「休み時間はいつも外へ遊びに行くのに、今日はずっと教室にいるから、どうしたのかなあと思って。最近あんまり元気がないみたいだし……。どこか具合でも悪い?」
そう言って、野村先生は心配そうに僕の顔をのぞきこむ。僕が首をふると、先生は少し考えて、それからなにか思いついたように、にやっと笑った。
「わかった。この前の算数のテストでしょう。いつもより点数が悪かったから、お母さんに叱られたんじゃない?」
僕はまた首をふった。
「違う? じゃあなんだろう。悩みごとがあるなら、先生に相談して欲しいな」
「…………」
野村先生になら、話してもだいじょうぶかもしれない。僕の言うことを、きっと真剣に聞いてくれるだろう。でも……。
僕は悩んで、メガネ人間のことは言わずに、最近お母さんの様子がおかしいことだけを話した。先生は聞いているあいだ、何度もうんうんとうなずいて、話が終わると「そっかあ」と答えた。
「それは心配だよね。お母さん、何か悩みごとがあるんじゃないかな。それは聞いてみた?」
「ううん」
「じゃあ、思いきって聞いてみたらどうかな。話してすっきりすることもあるだろうし、もし話してくれなかったら、お母さんだって大人だもの。きっと自分で解決できることなんだと思うよ」
野村先生は真剣に話を聞いてくれたけど、僕ほど深刻には考えていないようだった。メガネ人間のことを知らないから当然なんだけど……。
けれど先生の言うとおり、帰ったらお母さんに聞いてみようと思った。エイリアンとのつながりがバレたメガネ人間がどういう行動をとるかわからないけど、……それに、ちょっとこわいけど、でもお母さんをたすけるためだ。僕がなんとかしなければ。
その日、帰りの会が終わると、僕は一目散に教室を飛びだした。
「ただいま!」
きょうも「おかえりなさい」は帰ってこなかった。もう何日聞いてないだろう。メガネ人間になる前のお母さんなら、おかえりのあとに、「手を洗いなさい」「うがいをしなさい」「宿題は出たの?」と続くのに。
部屋にランドセルを置いて下に戻ってくると、お母さんはソファーにすわって、やっぱり面白くもなさそうな昼のニュースを眺めていた。
「お母さん」
僕が後ろから声をかけると、そこでようやく気づいたようにふりかえった。
「ああ……帰ったの」
「うん、さっき」
「そう」
それだけ言うと、お母さんはまたテレビのほうを向いてしまった。でも、きょうはちゃんと聞いてみるんだ。
「ねえ、お母さん」
返事はなかったけど、僕は続ける。
「なんで、メガネ……なの?」
やっぱり返事はない。まるで聞こえていないかのように、背中を向けたままでいる。
「今までかけてなかったのに、どうして?」
「どうだっていいじゃない」
お母さんは前を向いたまま、冷たく一言そう言った。ちょっと怒ったような、でも本当にどうでもいいような、今までに聞いたことのない言いかただった。
やっぱり、メガネの秘密を隠そうとしているんだ。
きっとそれ以上聞いてもムダだろうから、僕は別の話に変えることにした。
「お父さん、きょうも帰りが遅いのかな」
最近、お父さんはあまり家に帰らない。泊りがけで仕事をしているからだと、お母さんは言っていた。いそがしくて大変なんだろうけど、おかげで僕は相談もできなくてこまっている。お父さんならきっと力になってくれると思っていたのに。
「ねえ、お母さん。もし僕が寝てるあいだにお父さんが帰ってきたら――」
「誰?」
「……え?」
一瞬、お母さんがなんて言ったのかわからなかった。
「誰? その人。そんな人いた?」
今度ははっきりと聞こえた。けれど頭の中がまっしろになって、僕はなにも答えることができなかった。
僕は棒のように立ちつくす。お母さんは黙ったまま動かない。テレビのわざとらしいくらいにぎやかな音と声だけが、部屋の中に響いていた。
けれど、それが急にぶつりととぎれた。
「冗談よ」
お母さんはリモコンをおいて僕のわきを通りすぎると、そのまま部屋を出ていった。しばらくして、タンタンタン、と階段を昇る足音がとどく。それを聞いて、僕はようやく我にかえった。
……冗談?
そんなわけない。とてもそんなふうには聞こえなかった。お父さんに対して「だれ?」なんて、そんなの冗談にならない。
お母さんへのセンノウは、思った以上に進んでいるようだった。本当に早くどうにかしないと、このままではお母さんがお母さんでなくなってしまう。
けっきょくその日の夜、お父さんは帰ってこなかった。そして僕は、寝る前におそろしい光景を見てしまった。
廊下に出たお母さんがなかなかもどってこないと思っていたら、ずっとどこかへ電話をかけつづけていたのだ。しかも相手が出ないのか、それとも相手なんていないのか、受話器を耳に当てたまま、一言もしゃべらずにただ立っているだけだった。
――やつらのデンパを受けとっているんだ。
受話器の向こうがどこにつながっているかなんて、想像したくもなかった。
これでもう、頼れる大人はお父さんだけになってしまった。きょうも帰ってこなかったらどうしよう。早くしないとお母さんが……それに僕だって、きっとそのうちメガネ人間にされてしまう。
「ただいま!」
僕は学校からもうダッシュで家に帰ると、ランドセルもおろさずにお母さんのいる部屋へ飛びこんだ。
お母さんは昨日と全く同じで、ソファーに座ってテレビを眺めていた。やっぱり返事はないけど、今はもうそれどころではない。
「お母さん! きょうはお父さん――」
「ね」
最後まで言い終わらないうちに、お母さんにさえぎられてしまった。
お母さんはゆっくりとふりかえる。そこには、今まで見たこともないような笑顔がうかんでいた。
「ね、二人で暮らそうか」
とても優しい笑顔だった。でも、どうしてだろう。お母さんのその顔を見て、僕は真っ先に「こわい」と思ってしまった。
「お母さんと二人で。いや?」
「だ、だって、お父さんは……?」
「そんな人いいじゃない。この家とは別の所で、お母さんと二人で暮らすの。ね、いいでしょう」
お母さんの笑顔は一ミリも崩れずに、まるでお面のように張り付いていた。
――ちがう。こんなの、お母さんじゃない。
「やだ、やだ……そんなのぜったいやだ!!」
僕は叫ぶと、ランドセルを背負ったまま家を飛びだした。
ぼんやりと、窓の外を流れていく景色を見つめる。家やビルが、あっという間に通りすぎてゆく。
ガタン、と大きくゆさぶられ、僕はハッとした。聞き覚えのある駅の名前が放送される。僕は席を立つと、ドアのそばで降りる準備をした。
一人で電車に乗るのは、じつはこれが初めてだった。でも切符の買いかたは知っているし、乗る場所も、降りる駅も、前に何度かお母さんと一緒に来たことがあったからちゃんと覚えていた。一番の問題は切符代だったけど、ランドセルの中に内緒隠していた五百円玉でギリギリ足りた。これが、ソナエあればウレイなし、というやつだ。
駅から出ると、僕は記憶をたよりに大通りを歩きだした。
家を飛びだした時にはもう、僕がやるべきことは決まっていた。
一刻も早くお母さんを助ける。でも、僕一人の力ではムリだ。だからお父さんにすべてを話して、一緒になんとかしてもらうしかない。
駅の時計は五時をすぎていた。いつもならもう仕事が終わっているだろうけど、最近は忙しいらしいから、今日もまだ会社に残っているはずだ。会社の場所は、駅からそんなに遠くないし、前に行ったことがあるから覚えている。
大丈夫、大丈夫。きっと今日の夜には、全部元通りになる。
僕は心の中で、何度もそう繰り返した。けれど――
「ない……ない……!」
もうずいぶん駅の近くを歩き回っていた。目印にしていた床屋さんのカンバンが、いつまでたっても見つからないのだ。
「もしかして、なくなっちゃったのかな……」
僕は困り果てた。こうしているうちにも、あたりはどんどん暗くなっていく。通りにはスーツを着た人たちが増えてきたけど、その中にお父さんの姿はなかった。
早く、早くしなくちゃ。
そう思えば思うほど、どうすればいいのかわからなくなってしまう。僕はいちど深呼吸すると、気持ちを落ちつかせた。頭が少しだけすっきりする。そうだ、だれかに道を聞けばいいんだ。
交番の場所は……知らない。行ったとしても、こんな時間に小学生が一人でいたら、おまわりさんに怒られてしまうかもしれない。通りを行く人たちはみんな早足で、とても話しかけられそうになかった。
僕はあたりを見回す。どこか入りやすそうなお店を見つけて、そこで聞こう。
居酒屋・カラオケ・宝石屋・大音量で曲を流している洋服屋・入り口が地下にあって、なんの店なのかわらかない店……。
子ども一人では入りにくそうなお店ばかりが続いて、最後にようやく普通のファミレスを見つけた。店の中にはお客さんがたくさんいて、みんなおいしそうにごはんを食べている。思わず僕のお腹も鳴ってしまった。このごろの晩ごはんは、朝ごはんと同じで簡単なものばかりだったから。
けれど、その時。
ガラスの向こうに小さな人影を見つけた。その瞬間、僕は飛びこむようにお店の中にかけこんでいた。「いらっしゃいませ」と言いかけた店員さんが驚いていたけれど、かまわず奥の席へ走る。
「――お父さん!」
そう叫んだ僕に、店じゅうの人が注目した。みんなすぐに視線を戻したけれど、目の前の人、お父さんだけはイスから立ちあがって、僕を見つめたままだった。
「おまえ、なんでここに……? 一人で来たのか?」
こんなに驚いているお父さんの顔を見るのは初めてかもしれない。でも今はそんなこと、どうだってよかった。
「お父さん! お母さんが、お母さんが……!」
僕はお父さんにかけよると泣きだしてしまった。本当は家を飛びだした時から、ずっとガマンしていたんだ。
お父さんを見つけて安心したのと、お母さんがお母さんでなくなってしまったこわさと、いろいろがまざった自分でもよくわからないなみだ。三年生になったらもう泣かないと決めていたのに、かっこわるいとわかっていても、止めることはできなかった。
「お母さんをたすけてよ……!」
お父さんはしばらく、なにも言わずにだまっていた。僕は抱きついたまま、ただ泣いているしかできなかった。
それからずいぶん長い時間がたったように感じた。でも本当は、ほんの二、三分だったのかもしれない。
僕の頭を、お父さんがそっとなでる。そして、つぶやくように言った。
「ごめん、ごめんな。お父さんが悪かった」
わるいのはお父さんじゃない。お母さんをメガネ人間にしたエイリアンたちだ!
そう言おうとしたけれど、なみだが止まらなくてうまくしゃべれなかった。
「お母さんの所に帰ろう、な」
お父さんは少しだけ笑って、もういちど僕の頭をなでた。すごく優しいのに、どうしてか泣きだしそうにも見える、やっぱり初めて見る笑顔だった。
けれど、その顔が急にキッと引きしまる。そして、僕ではない、その向こうを見つめた。
「すまない」
一言だけ言って、お父さんは頭を下げた。
僕はそこで、お父さんの前に女の人が座っていたことに気がついた。見たことのない、お母さんよりももっと若い、スーツを着た女の人だった。
女の人はその言葉を聞くと、悲しそうな顔をしてうつむいた。けれどすぐに席を立つと、そのまま何も言わずに店を出ていってしまった。その時、一瞬だけ女の人が泣いているように見えたけど、僕の見まちがいだったのかもしれない。だって、泣いているのは僕で、涙のせいでまわりがよく見えなかったのだから。
結局、あの女の人が誰なのかはわからなかった。
それから僕は、お父さんと一緒に家に帰った。
家の中は真っ暗で、まるで誰もいないみたいだった。でもお母さんはちゃんといて、台所のテーブルにつっぷしていた。
「帰った」
お父さんが声をかけると、お母さんはゆっくりと顔を上げた。一緒に戻ってきた僕とお父さんを見て、少しだけ驚いている風だった。メガネはやっぱり、かけたままだ。
お母さんは何も言わずに二階へあがってしまい、僕はお父さんと二人で晩ごはんを食べた。それからお風呂に入ると、ひどく眠くなった。今日はいろいろなことがありすぎて、疲れていたんだと思う。
その日の夜、隣の部屋では、お父さんとお母さんが夜遅くまで話していたようだった。きっとお母さんのセンノウをとくため、お父さんが必死に説得してくれていたのだろう。
ベッドに入る前、僕はお父さんに尋ねた。
「お母さん、大丈夫だよね?」
お父さんはにっこり笑うと、
「ああ、大丈夫だよ」
とうなずいてくれた。その言葉がすごくたのもしくて、僕は安心して眠ることができた。
「お母さん!? メガネは!?」
玄関で出むかえてくれたのは、なんと、メガネをかけていないお母さんだった。
「どうしたの!? なおったの!?」
「うん。コンタクトがね、直ったから。メガネはもういらないの」
「コンタクトからなおったの!?」
「そうよ。この前の朝、洗面所で……」
やっぱりあの時、やつらはお母さんにコンタクトしたんだ。それで、お母さんはメガネ人間にされて……。
でも、お父さんが元のお母さんに戻してくれた。センノウから完全に解放されたんだ!
「じゃあもう大丈夫なんだね!」
「え? ええ、もう大丈夫よ」
お母さんは少し驚いた顔をして、それから優しくほほえんだ。僕もうれしくて笑いかえす。しばらくにらめっこみたいに、でも二人とも笑顔で見つめあっていたけど、お母さんの顔が急にふっと寂しげになった。
「……ごめんね」
そう言って、ぼくの頭に手をおく。
お父さんも、お母さんも、どうして僕に謝るんだろう。悪いのはエイリアンなのに。
不思議に思って首をかしげると、お母さんは寂しそうな顔のまま笑った。その表情は、ファミレスで見たお父さんの顔に良く似ていた。すごく優しいのに、泣きそうにも見える、なんて言ったらいいのかわからない笑顔。
でもその笑顔はすぐに、いつもの見なれた、メガネ人間になる前のお母さんの笑顔に戻った。
「今日の晩ごはん、なんだと思う?」
僕が答えるより先に、お母さんは言った。
「ハンバーグにオムライスにキャベツとベーコンのスープ。デザートはお母さん特製プリンよ」
「僕の好きなものばっかりだ!」
驚く僕を見て、お母さんは得意そうに笑った。
すごい、すごい。誕生日でもないのに、こんな豪華なメニューは初めてだ。きっとお母さんが元に戻ったお祝いなんだ!
「今日はお父さんも早く帰ってくるって。三人で一緒に食べようね」
「うん!」
僕は大きくうなずくと、二階への階段をかけあがった。うきうきしながら自分の部屋に飛びこむ。そのままおどりだしてしまいそうなくらいだ。
ランドセルをおろしていると、台所からお母さんの呼ぶ声が聞こえた。
「おやつがあるからすぐに降りてらっしゃい」
僕は更に嬉しくなった。
前までは毎日聞いていたのに、お母さんがメガネ人間になってからは、一度も聞いていなかった言葉。本当に本当に、お母さんはもとに戻ったんだ!
「その前に、手を洗ってうがいをするのよ」
「うん!」
「宿題は出たの?」
「ううん!」
「本当に?」
「うん!」
「嘘をつく子はおやつ抜きよ」
「……漢字と本読み!」
エイリアンたちは、今日も地球侵略を企んで、メガネ人間を増やしている。でも、僕の家族は大丈夫だ。もう二度とセンノウされることなんてない。
これは、僕だけが知っていること。
――そうだ。次は野村先生をたすけなきゃ。
それで、帰りにまた武寛くんに会ったのは、傘に入れてもらおうと思ったから。
「あ、武寛くん。」
「また優子か。」
「なによそれ、雨がふりまくってるのよ。」
「朝に言ってたもんな、夕方から雨って。」
武寛くんは私の前をふっと通り過ぎて、ロッカーから靴を取る。
「うわあ、滝のように降ってるな。」
そういって背負ってたリュックをおろし、折りたたみ傘を取り出す武寛くんを見て、私は、
「しめた。」
と思った。
「そうなのよ、で、傘がなくって。あの、途中まで入れてくれない?」
普段なら明美と一緒に帰ってるから、明美に入れてもらうんだけど、今日は朝に武寛くんとあんな話しちゃったから裏切るのって申し訳ないなと思い、明美にはごめんって言って、ずっと武寛くんを待ってた。別に他意なんてなかったんだよ。けど…。
「いやだ。」
…え?
私は、心のガードを取り払ってたって言うのかな、なんか武寛くんはやさしそうだからてっきり入れてくれるとばかり思ってた。それで今日出た数学Bの課題、絶対武寛くんより早く解いてやるっていう話をして帰って、ただそれだけのつもりだった。
それがまるで当たり前のようにあっさり断られた。
考えてみれば、入れてくれるって約束してなかった。雨の音がザーッからドドドドドに変わる。青い傘の中に一緒に入った女の子二人組が私の前をさっと通り過ぎ、雨に立ち向かう。ふと、明美の顔が浮かんだ。
「え、あ、そ、そうよね。いきなり入れてもらえるわけないよね。あの、その、ご、ご
めんね。」
「うん、いいよ。じゃあ。」
さらに私は自分から追い討ちを食らいに行くことになった。そういう風に言ったら入れてくれるのかも、とか思った私が馬鹿だった。私は居づらさと選択肢のなさに気づき、思いっきり走って校門を出た。余計な会話するんじゃなかった。そう思いながら一生懸命走った。武寛くんの反応は、当たり前っちゃあ当たり前だったんだけど、なんだか腑に落ちない。交差点まで来て、信号が青から赤に変わる。こんな雨に打たれて信号待ちとかありえない。泣きそうだった。
あれから私は、今までの時間に出れるんだけど、あえてテレビの占いを見てから出るようにしてる。別に占いなんて信じてないし、あまりちゃんと見てないんだよ。かに座が何位かを見るだけ。そのために10分くらい遅く家を出る。
けどいつも会えるのはウッズだけ。ちょっと遅めに出てるから、友達なんて殆どいない。秋も終わりに近づいたせいか、凍りついたような青い風が吹いてる。
今日は文化祭のクラス展示の製作最終日。完成した絵の裏にみんな一言ずつメッセージを書いていこうということになった。明美も私も最初のほうに書いたから、残りの人を待っている間、昨日のガンダムについての話をして盛り上がってたの。ズゴッグが好きなのよ、私。昨日は水中戦だったから、グフを崇拝する明美には悪いけど、私が全部持って行っちゃった。もちろんケーブルテレビで見てるのよ。
それで全員書き終わったのかなと絵のほうを見たら、武寛くんがえらく場所を取って書いていたの。別にあの朝以外は全然会えないし、クラスでも話す機会なんてないからほうって置けばよかったんだけど、なんでだろうなあ ―そうよ、他のみんなが書けなくなるからよ― 注意したの。
「武寛くん、どいてあげなよ。他の子が書けないよ。」
「どうして?すぐ書き終わるのに。」
私は唖然としてその場に立ちつくしてしまった。
「『2-3一致団結!!』なんて適当なこと書かないでよ。」
「はあ?何言ってるの。理解できない。」
青字ででかでかと武寛くんが書いた「2−3一致団結!!」。それを見たら何がなんだかわからなくなった。
「ヒューマノイドたちの調子はどうかね?」
「は、プロトタイプのMindの項にあったミスを修正し、きちんと人とコミュニケーションを行えるものに仕上がっています。」
「そうか、これで人が行うことが厳しい、危険な作業や単調な作業をさせることはもちろん、父の考えていた高齢化社会の介護要因の確保も可能となるな。製品化だ。ありがとうみんな、亡くなった父も浮かばれるよ。」
「なにをおっしゃいますか、これも博士がお父様の遺志をおつぎになられたからですよ。」
「いやいや、みんなが一生懸命働いてくれたからだよ。これからは武寛のようなヒューマノイドがたくさん世に出て、活躍するんだぞ。」
「ほんとに嬉しい限りです。」
私の父、安井賢二郎は、今から20年ほど前に他界しましたが、ロボット工学の権威でした。様々な功績を残し、晩年はヒューマノイドという、人間となんら変わらぬ感情を持つ人造人間の作成に没頭していました。そして死の直前、ヒューマノイドのプロトタイプを生み出すことが出来たのです。
私は、それまで研究にばかり熱中して家族を大切にしない父を憎んでいました。けれど、そのプロトタイプに名前をつけるとき、部下の一人に、
「武流が生まれたとき、名前は私が考えたものにしたかったのだが妻に押し通されてね。だからこの子に…」
と言っていたそうです。今、私は武寛という名前でも良かったなあと思っています。
それ以来、その研究は人の役に立つものだと知り、私が引き継ぎ、プロトタイプも私の弟として稼動させているんですが、Mindの項にミス…?
「じゃあ、山田くん、次の文を英語に直して前に書いて。」
「先生、山田は英語ぜんぜんできないんですよ。」
「いいの。だから授業してるんじゃない。もし間違っていたらあとでみんなで訂正しましょう。」
英語の授業。ぽかぽかとしたお昼の陽気がみんなをとろとろに溶かす。
「先生、とりあえずこんな感じでいいですか、自信ないですけど。」
「はい、ありがとう。じゃあ見ていきましょうね。」
はあ。それにしても何なのだ、何がいけないのだ?優子と関わるとどうも頭が痛い。この前の文化祭のときもそうだ。自分が書いているのだから他のやつが書けないのは当たり前だ。順番じゃないか。なぜいけない?
「安井くん、安井くんったら。」
「え、あ、はい。」
「もう、ぼーっとしてちゃだめよ、この山田くんが書いた英文、ほとんど合ってるんだけど、一箇所だけ違うの。どこだと思う?」
「え、どれ、…ああ、前に書いてあるやつですか。んー、わからないです…。」
「あら、安井くんにしては珍しいわね。じゃあ…。」
「はーい。」
「あ、村中さん。」
「thoughtfulがthoughtfullになっています。エルが一個多いです。」
「そうね、正解で…。」
「え、合ってるんじゃないの。」
「何言ってるのよ、武寛くん。」
「そうね、たしかにthoughtとfullの合成単語のようだけど、ちょっとちがうの。思いやりっていうのは自分の考えで満たすことじゃないでしょう。」
「武寛くん、数学バカだから。」
また優子だ。
「先生、ちょっと風強くて寒いんですが。」
「え、ああ、安井くん、窓閉めてくれないかしら。」
「え、あったかくてちょうど良いんですけど、僕。」
「けど、寒いって言っている人がいるんだから閉めてあげなきゃ。」
なぜだ、わからない。たしかに少し風は強いのかもしれない。けど気温はぽかぽかしてていい気持ちじゃないか。僕はこのあったかい天気でちょっと風が吹いているというのがすこぶる好きなんだ。どうして寒いやつの言い分だけ通るんだ。理解できない。しかもみんな僕が悪いみたいな目で見てくる。
みんなと仲良くしたいんだけどな。なんでだろう。
きっと僕の存在自体がだめなんだろうな。ああ、黒い風が吹いてる。はあ、窓閉めるか…。
ズゴッグ!!
武寛くん、そのままステゴンを追いかけてプールに入ったの。本当にドキッとしたわ。私のために…なんてね。けど、ちょっと違ったの。
「よかった、発光ダイオード見つけた!」
そう、私のステゴンがダイブしたと同時に、ステルス吉井は部品を持つ武寛くんも襲撃していた。ぶつかったはずみで武寛くんも部品を窓から落としちゃったみたい。
けど、まさか部品のために自分も飛び込むなんて、人間離れしてるわ。ロボットみたい。自分のことにはほんと必死なのね。
彼がほんとにロボットなら、あの性格をなんとか再プログラミングしてやりたいわ。まあ、そんなのできないのが人間なのよね。
…ステゴンは永い永い眠りにつきました。
あれから僕は教室から追い出された。もちろんいつものように窓から風を感じている。けど、何か違う。教室にいるんだけどいない。窓から見える、ちょっと遠くにひときわでっかくそびえる病院の屋上にはいろんな人が来て様々な行動をとる。ゆっくりベンチにくつろぐおばあちゃんや、カラスを手なずけるおじさん。お昼をまわると、看護士さんがシーツをわっさぁと干し始める。しかも、担当者によって干し方がまばらだから毎日見ていても飽きない。前は外の様子なんてぜんぜん気にならなかったんだけどな。
最近様子がおかしくなったのは優子のせいだとばかり思っていた。けど、よく考えるとそれが原因じゃなさそうだ。
僕が自分自身のことをやろうとしたときに、他人(たいてい優子)も何かを働きかけていて、そこで予定通り自分のことをそのまま遂行したときにおかしくなる。優子の怒りのボルテージが上がってゆく。
…思いやりのある、いい人間になれよ。
まただ。またこの声。このビジョン。あたりがピカピカと赤や黄色や緑なんかに点滅しているようなところで、見知らぬ老人が僕に問いかけてくる。
わからない。
思いやりって何だ?
というか、この人誰?
わからない。
…思いやりのある、
またか…。
「思いやりのある地域社会の実現をめざして!竹村義男、精一杯頑張ります!」
…選挙の演説?なんでこんなチャンネルに合わせたんだろう。数分前までの記憶がないや。
竹村、ああ、この前セクハラで捕まったやつか。これだから政治家はいまいち信用できない。
「身の潔白を示すために今一度私にお力を。」
身の潔白…ね。僕は何言っても無駄なんだろうなあ。自分の考えは理解してもらえないんだろうなあ。間違ってるんだろうか、僕が…。
今日は風が強い。そうか…。
武寛がいなくなりました。
学校に行ったと思っていたらまだ帰ってこない。もう午後10時ですよ。ヒューマノイドが反抗期なんてありえないし、そもそも武寛はそんな子じゃない。
村中さん、えっと、村中優子さんから電話があって、おかしいなとは思っていたんですよ、3日前から学校に来ていないって言われて。2日前まではちゃんと帰ってきていつものようにテレビばっかり見ていましたから気づきませんでした。村中さんはこうも言っていました。
「私が最近武寛くんの無関心な様子にいらいらして注意ばっかりしていたからかもしれない。ごめんなさい。」
って。彼女は本当に優しい子です。
たしかに武寛にちょっと冷たい部分はありました。けど、父はそんなヒューマノイドをわざわざ作ろうとなんかしていないのは明らかですから、これも仕様だと…あ、まさか。
私は走ってた。一生懸命走ってた。あの日の雨に比べればましかな、なんでだろう。あたりの風景がぐにゃんぐにゃんになりながらも私は武寛くんを探していた。不良に絡まれたのかな、一人で遊びにでも出かけてるのかな、もしかして、女がいて…。そういうふざけたことを考えながらも、車道や踏み切りなんかを気にしてる自分がいた。踏み切りの赤いランプがチカチカせわしなく点滅している。
「私がなにか言いすぎたのかな。」
川に差し掛かったとき、対岸にたっている武寛くんを見つけた。私は声を限りに叫んでいた。
「こんな遅くまで何やってんのよ。川が増水してるじゃない。ちょっと待ってて。」
顔を真っ赤にして橋を渡る。暗闇の中にねずみ色のパーカーを着た武寛くんはただあっけに取られているようだった。
「何でここにきたの?」
「何でって、武寛くん3日も学校に来なかったから、どうしたのかなって思って。それより、武寛くんこそこんな川辺で何してたのよ。」
「いやあ、ザリガニを捕りに…。」
「ふざけないで。こっちはまじめなのよ。」
なんで私、いらいらしてるんだろう。武寛くんが見つかって、安心してるはずなのに。
「その、なんというかさ、僕はみんなと仲良くしたいのに、なぜか自分ひとりになってゆく。しかもそれは自分のための行動をとっているときに起こる。優子と話すようになって、そのことに気づいた。けど、自分でも原因がわからない。だからもう…」
その瞬間、私の右手は勢いを持って武寛くんの左頬にあった。武寛くんの肌を感じた一瞬後に、パシィッという音が私に突き刺さった。
「だから何なの?それだけわかれば十分じゃない。そうよ、武寛くんが一人になるのは自分の事だけしか考えていないときよ。要するに思いやりがないのよ。思いやり、わかる?thoughtful。この前英語の時間でやったでしょ?」
「thoughtful…。」
そういうと武寛くんは少しぼーっとしてた。それからなにかつぶやき始めたの。
「先ほどの衝撃による不具合の発生を調査します。……1件の不具合が見つかりました
。
State-753
Fundamentally, I have contacted with the other party > Timeout-78
:"thoughtfull"
を
State-753
Fundamentally, I have contacted with the other party > Timeout-78
:"thoughtful"
に修正します。起動まで5秒…。」
「思いやりのある、いい人間…か。なかなか難しいな。僕には無理だわ。とりあえず、傘は僕の折りたたみ傘しかないからお互いちょっとはみ出るけど我慢できる?」
私は武寛くんがかばんから折りたたみ傘を出す様子をじっと見ていた。緑色の傘だ。
「…それよ。」
「え、何が?」
武寛くんがロボットだったら性格直してやろうなんて、もう言えない。というかもう必要ないもんね。
**たぶん特別な日の1週間くらい前**
―このかべのむこうがわにはなにがあるの?―
この質問に答えるためにここに来たんだ。誰の質問?誰かの…そう、大切な誰かの。
―ねぇ、このかべのむこうがわはどうなってるの?―
体がふわふわする。頭の中もちょっぴりふわふわする。いつからだろう。最近はずっとそう。ほんとにずっと…
―…―
いつのまにか寝てしまっていたんだ。丸くなって。この体勢が一番落ち着く。もうずっと昔から…
手と足を少しずつ伸ばす。曲がっていた手と足が少しずつ伸びる。
―いたい!―
小さな声といっしょに何かを足の先に感じた。何だっけ?分かっているのに、出てこない。ふわふわする。体も頭の中も。
―あしをむこうにやってよ!―
さっきよりはっきり聞こえる。せっかく伸ばした足を押しやられる。また蹴ってしまったんだ。寝相の悪い僕にとっては仕方がない…何たってここは相当狭いから。
―どうしてしつもんにこたえてくれないの!―
そうだった。僕はかのじょのためにここに来たんだ。世界一安全なこの場所にいるかのじょの質問に答えるために。
―ごめんごめん。この壁の向こう側はね…―
さっきまで怒っていたかのじょが、真剣に僕の声に聞きいっている。
―この壁の向こう側はね本当にすごいんだよ。―
きっときみが思っているよりずっと。
―何よりここよりずっと明るいんだ。それにね、ここよりずっと刺激的だよ。―
―しげきてき?―
―そう、刺激的。ドキドキすることやワクワクすることが山ほどあるよ。―
きっときみが思ってるよりずっと。
―どきどきやわくわくって?―
―言葉で説明するのは難しいな。とにかくきみにとっては新しいことだらけだろうね。
さっき言ったようにたくさんの色や光にあふれていて、ここよりずっと明るいんだ。それにたくさんの音が散らばってる。とても賑やかだよ。―
―おとはここにだってたくさんとどいているじゃない!―
―そうだね。音はここにも届いているね。―
―さいきんは、もーつぁるとばかりだけど!―
モーツァルトか。
―そういえばよく聴こえてるね。気に入らないの?―
―ゆっくりだもん!おそいんだもん!―
―せっかちだね。確かにスローテンポの曲が多いかもしれないけど、遅いだけじゃないんだよ。聴いていると落ち着くし。―
―おちつくひつようなんてないの!ここにはどきどきやわくわくがひつようなのよ!―
―そうかもしれないね。じゃあきみのお勧めを教えてよ。―
―こるさこふ!―
―そうなんだ。―
僕もよく聴いたな。
―そう、こるさこふ!めろでぃがすごくすてきなの!みりょくてきなの!―
―魅力的か。―
そんな言葉使うようになったんだね。
―みりょくてき!ひびきがすてきでしょ!おきにいりなの!―
言葉にもお気に入りができたんだね。
―お気に入りの曲はよく聴こえるの?―
―ほんとにたまにしかきこえてこないの。おきにいりなのに!あなたにもきこえてたでしょ?ずっとここにいるんだから。―
―そのはずなんだけどね。ここで聴いたのか向こう側で聴いたのか分からなくなっちゃうんだよ。―
―むこうがわ!ねぇ、どうしてこのかべのむこうがわをしってるの?―
―だって僕はこの壁の向こう側に出たことがあるからね。―
―どうして?―
―どうしてだろうね。ただ選ばれたんだ。―
何かに。だから。
―うんがいいのね。むこうがわはしげきてきだった?―
―すごくね。特に最初のうちは。―
―せっかくでられたのに、どうしてもどってきたの?―
―戻ってくるつもりはなかったんだけどね。3年前、僕は壁の向こう側で失敗しちゃったんだ。僕は向こう側で自分を生かしきれなかった。だから壁の向こう側にはいられなくなったんだよ。でも向こう側にもう一度行きたくて。お願いしたんだ。―
もう一度チャンスをもらったんだよ。ここで力をためてから、もう一度向こう側でチャレンジするチャンスを。
―ねがいがかなったのね!―
―そうなんだ!今きみとこうしていられるしね。僕にとっては、きみがいるここだって刺激的だけど。―
―そうかしら?ここはほんとにつまらない!―
今日も失敗だ。真剣に僕の話を聞いていたかのじょは、途中でいつもこのセリフ
を口にする。つまらないとは言わせないように頑張っているつもりなのに。
―ここはね。仕方ないよ。―
そういう場所なんだから。でももう少しの辛抱だよ。きっときみが思ってるよりずっと。
―…―
かのじょが眠ってしまったらしい。いつもそう。僕が眠っていると起こしてまで質問して
くるのに、僕が話し始めると途中で眠ってしまう。
―…―
**たぶん特別な日の3日くらい前**
―このかべのむこうがわにはなにがあるの?―
この質問に答えるためにここに来たんだ。誰の質問?誰かの…そう、大切な誰かの。
―ねぇ、このかべのむこうがわはどうなってるの?―
体がふわふわする。頭の中もちょっぴりふわふわする。いつからだろう。最近はずっとそう。ほんとにずっと…
―…―
いつのまにか寝てしまっていたんだ。丸くなって。この体勢が一番落ち着く。もうずっと昔から…
手と足を少しずつ伸ばす。曲がっていた手と足が少しずつ伸びる。
―いたい!―
小さな声といっしょに何かを足の先に感じた。何だっけ?分かっているのに、出てこない。ふわふわする。体も頭の中も。
―あしをむこうにやってよ!―
さっきよりはっきり聞こえる。せっかく伸ばした足を押しやられる。また蹴ってしまったんだ。寝相の悪い僕にとっては仕方がない…何たってここは相当狭いから。
―どうしてしつもんにこたえてくれないの!―
そうだった。僕はかのじょのためにここに来たんだ。世界一安全なこの場所にいるかのじょの質問に答えるために。
―ごめんごめん。この壁の向こう側はね…―
さっきまで怒っていたかのじょが、真剣に僕の声に聞きいっている。
―この壁の向こう側はね本当にすごいんだよ。―
きっときみが思っているよりずっと。
―何よりここよりずっと明るいんだ。それにね、ここよりずっと刺激的だよ。―
―つまらないこことはおおちがいね!―
今日も失敗か。
―でもさいきんほんのちょっぴりわくわくするの!―
!!かのじょがここをつまらないと言うのは何度も聞いたが、わくわくだなんて初めて
聞いた。
―何にワクワクするの?―
―わからない。でもわくわくするの!なにかがおこるわ!「おんなのかん」ね!―
「おんなのかん」か…
―きみは姉さんそっくりだ。―
―ねえさん?―
―僕の大切な人。たぶん誰よりね。―
今はきみがいるから迷ってしまうけれど。
でもきみにとっても特別な人なんだよ。きっときみが思ってるよりずっと。
―どうしてたいせつなの?―
―なぜって姉さんは僕をほんとに大切にしてくれたんだ。―
ほんとに大好きでいてくれたんだよ。
―いまはもうちがうの?―
―もちろん今もだよ。―
いつだってそう感じてる。
―なかよしこよしなのね!―
―そうだよ。小さい頃からずっと一緒だった。―
ほんとに。どこへ行くにも。
―いまはもうちがうの?―
―今はずっと一緒だよ。これからもずっとね。―
少し前は離ればなれになっちゃってたけど。
―今度はきみも一緒だよ。―
―わたしも?―
そう、きみも。姉さんはきみと会うのをほんとに楽しみにしているよ。きっときみが思ってるよりずっと。
―…―
**きっと特別な日になるその日**
―このかべのむこうがわにはなにがあるの?―
この質問に答えるためにここに来たんだ。誰の質問?誰かの…そう、大切な誰かの。
―ねぇ、このかべのむこうがわはどうなってるの?―
体がふわふわする。頭の中もちょっぴりふわふわする。いつからだろう。最近はずっとそう。ほんとにずっと…
―…―
いつのまにか寝てしまっていたんだ。丸くなって。この体勢が一番落ち着く。もうずっと昔から…
手と足を少しずつ伸ばす。曲がっていた手と足が少しずつ伸びる。
―いたい!―
小さな声といっしょに何かを足の先に感じた。何だっけ?分かっているのに、出てこない。ふわふわする。体も頭の中も。
―あしをむこうにやってよ!―
さっきよりはっきり聞こえる。せっかく伸ばした足を押しやられる。また蹴ってしまったんだ。寝相の悪い僕にとっては仕方がない…何たってここは相当狭いから。
―どうしてしつもんにこたえてくれないの!―
そうだった。僕はかのじょのためにここに来たんだ。世界一安全なこの場所にいるかのじょの質問に答えるために。
―ごめんごめん。この壁の向こう側はね…―
さっきまで怒っていたかのじょが、真剣に僕の声に聞きいっている。
―この壁の向こう側はね本当にすごいんだよ。―
きっときみが思っているよりずっと。
―何よりここよりずっと明るいんだ。それにね、ここよりずっと刺激的だよ。―
―きょうはここもしげきてきよ!すごくわくわくするの!あなたもかんじるでしょ?―
―そうだね。僕もドキドキするよ。―
今日は特別な日になる。きみにとっても、もちろん僕にとっても。きっときみが思っているよりずっと。
―たいへん!はやく!なんだかわからないけど、いかなくちゃ!―
たぶんそのときがきたんだ。きっときみは姉さんに似て勘がいいはずから。
―さあ、おいで。きみが何より待ち望んでいたときがきたんだよ。―
誰にとっても何より特別なときが。
「おめでとうございます!元気な男の子と女の子ですよ!」
きみも僕もきっと今までのことを忘れてしまう。だってきみが求めていたこの世界は、ドキドキとワクワクにあふれた刺激的なところだから。きっときみが思ってるよりずっと。
**おわり**
僕は結局、その週の日曜日、キダさんの家で留守番をすることになった。僕が留守番を引き受けたのは、その日たまたまバイトがオフだったことと、キダさんのジャズ・コレクションを聴けることと、なにより思ったよりバイト代が高かったからだ。一人暮らしの学生にはお金がない。
朝から来てくれ、とキダさんに言われていたので、僕は朝の八時にキダさんの家に行った。僕の家から電車を二本使って、一時間と少しかかった。キダさんはその分の電車代を僕に渡すと、ガレージから黒いワンボックス・カーを出してきた。
「今日の夜の九時には帰るよ。とにかく、おまえはこの家でゆっくりくつろいでいてくれれば、それでいい。食料は冷蔵庫にたくさん入れておいたから、途中で外出する必要もないだろう。」キダさんは開けた車の窓からそう言った。彼は黒のハンチングを深くかぶっていて、縁の大きなこげ茶色のサングラスをかけていた。
「わかりました。」と僕は言った。「ゆっくりしておきます。」
「何かあったら携帯に連絡してくれ。」そう言うと、キダさんは窓を閉めて、走り去った。
キダさんの家は3階建てでかなり広く、地下にガレージがある。男の一人暮らしにしては部屋はさっぱりとしていて、生活感がなく、きれいだった。僕は冷蔵庫を開けて牛乳を飲むと、さっそく彼のレコード・ルームに入った。大体十畳くらいの広めの部屋で、そこには何百枚あるかわからないジャズのCDと、厳選された映画のDVDが、床から天井まである特注のケースにズラっと並んでいた。僕はその中から、ディヴィッド・ヘイゼルタイン・トリオが演奏しているCDを取り出し、とても大きなラック型のオーディオ・プレーヤーに入れて、「枯葉」を聞いた。そうだ、この間カフェで聞いたのは「枯葉」だ。
僕はその部屋で長い時間を過ごした。ジャズは時間を忘れて聴くことが出来た。昼を過ぎて、昼食を食べずにいたことも忘れて、僕はずっとジャズのCDを聴いていた。そうしていると、自分の感覚が徐々に研ぎ澄まされていくような感じがした。いい音楽とは、そういうものなのだ。
ふと、部屋の隅に、入ってきたときには気づかなかった古いフォーク・ギターがあるのに気がついた。キダさんがギターを弾くというのは聞いたことがなかったから、意外だった。手にとってみると、カラカラ、という音がした。ギターのボディの中に、何か入っているようだ。ギターを振ったり、逆さにしたりしていると、小さな貝殻が出てきた。二枚貝の片割れで、きれいなクリーム色をしているけれど、ヒビが入っていた。僕はもう一度ギターを振ってみたけれど、もう音はしなかった。僕はそれを手にとって、また椅子に座り、CDを聴き続けた。そのうちに、僕は眠ってしまった。
目をあけると、僕は普通より少し小さめの体育館に寝転んでいた。すぐ横にアヤが寝転んでいたから、すぐに、これは夢だとわかった。体育館は僕たちのほかに誰もいない。電気はついていないけれど、窓から入る光で十分に中は明るかった。ふと、彼女が立ち上がった。
「ヤマモト君、私は起こった物事をちゃんと理解できないの」アヤはまっすぐ、体育館のステージの方を向きながら、そう言った。その声は体育館の壁に反響して、いくらか大きく聞こえた。僕も立ち上がって、アヤの横で一緒にステージを見た。ステージを見て初めて、ここが通っていた高校の体育館であることに気がついた。大きな校章が見えたからだ。
「僕もだ。」その声はアヤの声よりも大きく響いた。「だから僕は、君をいつまでも待っているんだよ」
「ありがとう」アヤは力なく言った。しかし体育館の壁は、この声を後押ししなかった。
「・・・けれど、もう待たなくてもいいの。」アヤは申し訳なさそうに言った。
「どうして?僕は毎日、あの銅像の前で君が来るのを待っているんだ。」
「あなたが待っていてくれるのは、すごく嬉しいわ」アヤの体が、少し震えているのがわかった。
「けれど、私はヤマモト君のところへ行けないの。どうしても行けないの。わかっているでしょう?私はもう、あなたのところへは行けないの。」
僕は泣いているアヤの手を握ってやることも、抱きしめてやることも出来なかった。僕たちは何かによって損なわれてしまった。僕たちを元に戻す手段は、今の僕には見当たらない。僕が何か言おうとすると、その言葉は形にならずに消えてしまった。僕には、アヤの言っている意味がよくわかった。多分、一番理解しなくてはいけないのは僕なのだ。
目覚めると、僕はやっぱりキダさんのレコード・ルームに、一人で座っていた。聴いていたCDは、もうとっくに終わっていた。外はもう暗く、部屋の時計は夜の九時三分を指していた。ドアが開いた。キダさんだった。
「ただいま」キダさんは明るく言った。「何もなかったか?」
「ええ、ずーっと、この部屋にいましたよ。」
「本当に何もなかったのか?」キダさんは訝しげに言った。
「・・・・・・?何もなかったですよ、本当に。ジャズのCDを聴いていただけです。」
キダさんは、全てわかっているよ、とでも言いたげな顔をしていた。でもそれは僕の思い過ごしかも知れなかった。
「・・・・・・じゃあおまえ、どうして泣いているんだ?」
それから僕とキダさんは、キダさんが買ってきたワインを二人で飲んだ。キダさんはついに、今日一日どこで何をしていたのか教えてくれなかった。僕はワインを一本あけても二本あけても、さっき見た夢のアヤを忘れることが出来なかった。キダさんは、やっぱりワインを飲んでいる間は一言も喋らなかった。ずっと、バド・パウエルの「クレオパトラの夢」がワン・リピートで流れ続けていた。ワインがなくなってから、キダさんはCDをオーディオ・プレーヤーから取り出して、別のCDをかけた。僕の知らない曲だった。
次の日、大雨が降った。起きた時には、もう外はひどい雨だった。昨日、ワインを飲んだ後は、キダさんに車で送ってもらったのだろうけれど、まるで記憶がない。そのせいか、頭がキリキリと痛む。テレビでは、黄色いレインコートを着たレポーターが、しけている海をバックに、必死に雨のひどさを訴えていた。何号だかは知らないけれど、台風が近づいてきているらしい。強い風のせいで、部屋の窓がガタガタと音をたてていた。僕は慌ててシャワーを浴びて、ヒゲを剃って、服を着た。そして、傘を持とうとして、はっと気づいた。
「もう待たなくてもいいの。」
アヤの言葉が頭に浮かんで、僕は泣いた。
僕はその日、アヤを待ちに行かなかった。雨が降っていたけれど、アヤを待ちに行かなかった。僕はもう、わかっていた。雨が降っていて、いつもの銅像前で、いつもの時間でも、もうそこにアヤが来ることはないのだ。
ふと、キダさんの家で見つけた二枚貝を思い出した。あの片割れの、もう一方の片割れはどこにあるのだろう。あの片割れは、どうしてギターの中なんかに入っていたんだろう。どうしてひび割れていたんだろう。その答えは、僕の中にあるような気がした。大雨はだんだんと弱まって、太陽の光が差し込んだ。窓の外で、子供たちが遠くの空を見上げながら、はしゃいでいた。僕もその方向を見た。目を凝らしていると、そこにはうっすらと、虹がかかっていた。