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大阪教育大学 国語学特論2 受講生による 小説習作集

詩織

2007年度号
『タマオニ』52103
『LAST FORTUNE‐TELLING』52105
『カブトムシ』52106
『無題』52107
『親鳥大学事件』52110

『タマオニ』

52103

 仮面は語り掛ける。
「何かお困りではございませんか?」

 自分の生きている世界こそが「世界」であり、自分の知っている世界こそが「世界」だと、そう思っていた。
 「自分」とは命であり、それ以外の何物でもない。なぜならそこにしか「自分」は存在しないのだから。
 そう思っていた。

 いわゆる社会人というものになって、2年目を過ごしている。1年目はあわただしいまま時間が流れ、自分を省みることすらままならなかった。2年目に入るとようやく仕事も手につくようになり、また、慣れてきたことから逆に不用意なミスも出だしてきた。
 その日は沈んだ気分を晴らすため散歩をしていた。
 前日、仕事で大きなミスをした。完全に自分のミスだった。何とか対応はしたため特に大きな損害とはならなかったものの、後でこっぴどく叱責を受けた。自分のミスだったから、素直に聞いているしかなかった。
 散歩の途中、いつもは中の様子を見ながら通り過ぎるだけだった公園に立ち寄ってみた。今にも雨が降り出しそうな曇り空が多少気になったが、中に入ることにした。
 公園の様子をざっと眺めつつ、一番近くのベンチに腰をかけた。ベンチの隣には小さめの花壇があり、少し離れたところにあまり綺麗とはいえないトイレがある。ベンチの正面にはボール遊びが出来るほどのスペースがあり、その奥の方に滑り台やのぼり棒などが複合的に設けられた遊具がある。公園全体が樹に囲まれており、ベンチのある場所はその樹の陰になっていた。
 公園の中には自分ひとりしかいなかった。休日の午後なのに辺りは静かで、まるで公園の中と外とが隔絶されているかのような気分になる。
 時々小さな風が吹き、公園に植えられている木々の葉を撫でていく音が聞こえる。
 その状況は、考え事をするのに最適だった。考えている近くで騒がれる心配もないし、辺りの静けさは時間すらも忘れさせてくれる。
 かなり長い間ベンチで考え事をしていると、不意に人の声が聞こえてきた。声は公園の奥の方から聞こえ、まもなく自転車に乗った子ども達がそちら側の出入り口から公園に入ってきた。
 子ども達は賑やかにしゃべりながら自転車を止めると、すぐにじゃんけんをし始めた。しばらく見ていると、どうやら子ども達は遊具周辺で鬼ごっこをはじめたらしい。ベンチからではあまりはっきりとは見えないが、それでも子ども達一人ひとりの区別はつくし、その中で誰が鬼なのかも容易に分かる。
 子どもの頃に自分もしていた遊びが懐かしく感じる。それと同時に、自分はもうそういった遊びをする子どもとは違うということにも今一度気づかされ、複雑な気分になる。
しばらく鬼ごっこの様子を眺めていることにした。
 鬼じゃない子ども達は鬼のいる反対側へ、反対側へ、と回ってうまく逃げてはいるが、遊具の上に人がたまると、そこに鬼が来た時に逃げようとしても詰まってしまうため、一回一回鬼が替わるのにそんなに時間はかからない。
 1人が鬼となり、他の子ども達を追いかける。鬼にタッチされた子どもは鬼になり、また他の子ども達を追いかける。追いかけて、追いかけられて・・・。

 鬼は1人。
 入れ替わっても、やはり1人。
 鬼はいつでも1人だけ。
 「1人」の座を、受け渡し受け渡し・・・。

 あっという間に1時間ほど過ぎていた。時計を見るまで全然気づかなかった。子ども達が鬼ごっこをやめて公園から出て行った時に時計を見上げると、短針は4と5の間で、どちらにつこうか迷っているようにも見えた。
 見上げた時計の奥の方では、公園に入った時には全く見えていなかった水色が空の大部分を塗りつぶしていた。
 その日から、その公園はお気に入りの場所となった。暇な休日の午後は、その公園に来るようになった。そしていつも同じくらいの時間に来る子ども達が鬼ごっこをするのを見る、というのが習慣になった。

 その日はまるでにわか雨のように突然やってきた。
 平日の帰り道。その日に足を踏み入れた所は全て探したつもりだったのだが。
 なかなか思っているように事は運ばないものだと痛感する。
 帰り道でも顔を上げる気分になれず、うつむいたまま歩いていた。1日の行動を順序立てて思い出してみても、核心には辿り着けない。
―いつ、どこで財布がなくなったのか―
 現金だけならまだしも、カード類が大量に入っているため、誰かに拾われたりでもしたら、などと思うと怖くなってくる。
 ふと気づけばいつもの公園の前に来ていた。
 特に何も考えず、公園に足を踏み入れ、いつものようにベンチに座る。もうすでに辺りは暗くなっていて、公園の中には誰もいなかった。当然子ども達もいなかった。公園の中には自分1人しかいない・・・。
 うなだれて足下ばかり見ていると、そのうち正面から誰かが砂を踏んでこちらに向かって来ている感じがした。
 顔を上げると、人のような「何か」が目の前に立っていた。ソレは人によく似たフォルムではあるのだが、決して人であるとは思えない。
 ソレは黒とも紺ともつかない、闇に溶けるようなコートを着て、道化師のような仮面をつけて目の前に立っていた。

 一瞬、言葉に詰まった。何を言えばいいのかわからない。それ以前に、目の前に立っているソレが一体何者なのかがわからない。そこにいるのは見えるのだけど、本当はそこにはいないような感じもする。自分や他の人間のような、命あるものではないように思う。
 しかし、こちらがひどく狼狽していることなど全くおかまいなしに、ソレは言った。
「私は、貴方に代わって何らかの行為を成立させる者です。『代理遂行者』とでも言えばよいでしょうか。何かご依頼があればどうぞお申し付けください。」
 唐突にそんなことを言われたため半信半疑ではあったが、ダメ元で財布がなくなった旨を伝え、それを見つけてほしいと頼んでみることにした。
「わかりました。しかし、勿論ボランティアとして行うわけではありません。代価として、貴方の財産の一部を頂きますが、よろしいでしょうか。」
「財産?」
「そうですね・・・。財布の中の現金を全て頂くことにしましょうか。」
 なかなか手厳しい要求だとは思ったが、それよりもカード類の紛失が怖い。本当にそれで財布が戻ってくるのなら、と承諾すると、膝に何かが当たった感覚がした。目を落として驚いた。
 いつの間にか財布が膝の上に載っていた。

 いつものように目が覚める。アラームを止め、布団から抜け出す。眠気が残っているが、重たいまぶたを懸命に開きながら洗面台に向かい、冷たい水で顔を洗う。視界も頭もスッキリする。と、そこで昨日の出来事が頭に浮かぶ。まるで夢の中で起こるような出来事で、それが夢だと思えたら良かったのかもしれないが、そうはいかない。
 生々しく記憶として残っている上に、財布の中に入れていた現金が、札はもちろんのこと、1円玉までもなくなっている。
「・・・夢じゃない・・・。」
 信じられないという気持ちも当然ある。
 あの時・・・財布が出てきた時には、目の前にいたはずのソレはもう消えていて、財布を手にしたと同時にどこからともなく声が聞こえてきた。
「今、御覧に入れたように、何か御依頼くだされば、それに釣り合う代価と引き換えに即遂行します。私はしばらく貴方の傍にいるつもりですので、・・・とはいっても、先程は便宜上あの姿を取っていただけで、この先貴方に姿を見せることはないと思いますが・・・何かありましたらいつでもご依頼ください。貴方が私を求めれば、私はそこにいますので。ただし、よく注意してください。依頼は最大3回まで御受けいたします。また、3回目はそれまでより大きな代価を必要としますのでよく御考えの上で御依頼ください。」
 存在や話し方などはどうにも胡散臭い奴だったが、仕事はきちんと果たすタイプのようだ。この手の奴は、およそ仕事は完遂するだろう。その点においてはなぜか信用することができる気がする。
 とはいえ、自分でもまだ信じられない出来事であったことに変わりはなく、誰か他の人に話してみる気にはなれなかった。どうせ話したところで一笑に付されるか、気が狂ったとでも思われるだけだろう。

 しばらく何も起こらない日々が過ぎた。あの得体の知れない存在のことなど忘れかけてしまうくらいに、普段どおりの生活を送っていた。いつものように目を覚まして、いつものようにご飯を食べて、いつものように働いて、いつものように眠って・・・。
 しかし、変化のない人生など存在しないのは当然であり、完全に「あの日」のことを忘れ去ることは絶対に不可能だった。自分はもうあの存在のことは知ってしまったのであり、知ってしまった以上、何らかの影響はあったのかもしれない。少なくとも、あの日の出会いが無ければ人生は別の方向に動いていたといえるだろう。
 いま自分が歩んでいるこの人生は自分の身でもって体感しているわけだが、ここに至るまでの選択が1つでも変わっていれば、今この時間において、自分は全く別の人生を辿っていたわけであり、あの時の出会いはいわば、人生における分岐点だったのだ。

 突然の出来事というのは、突然起こるから「突然の出来事」と呼ばれるのであり、突然起こったのでなかったらそれは「ただの出来事」となる。
 その日はいつものような日だった。いつものように目を覚まして、いつものようにご飯を食べて、いつものように働いていた。
 昼休みに突然、同期のメンバー達が先輩からの誘いを受けたから一緒にどうか、と飲み会に呼ばれた。あまり飲みに行きたい気分ではなかったのだが、普段もっとも頻繁に接する先輩で、今後も色々とお世話になりそうなので無下に断るわけにもいかなかった。
 普段はかなり厳格な先輩の「今日は無礼講」の台詞で飲み会は始まった。
 それが。
 まさかあんな形で終わりを迎えることになろうとは・・・。

 いつもの公園のベンチで、一人思い悩んでいた。
 空は見るからに灰色で、小雨が降り始めていた。
 雨が降っているからか、子ども達は鬼ごっこをしに来なかった。
 小雨が降っているのは知っていたが、無視して前日の出来事を思い出していた。
 先輩は無礼講だと言った。仕事に関してけっこうきついことを言ってきた。談笑している中でも、思っていた以上にいじってきた。別にそれ自体はたいした問題ではなかった。これまでの人生においてのいろんな人との付き合いの中で、そういう人もいたし、これからの人生の中でもこういう人はいくらでもいるだろうと思った。
 問題はその後だった。
 たまたま話題の流れで、同期の1人が先輩をいじっていた。そこに自分も乗っかってみようとした。多少アルコールもまわってきて、ほどよい高揚感があったことは認めるが、だからといって別に先輩の品位を落とそうとしたようなものだったわけでもないし、これからの人間関係に何ら支障をきたしたりもしない程度だったはずだ。
 なのに。それが。なぜか。先輩の逆鱗に触れた・・・。
 照れたり恥じたりする様子も無く、先輩からはただ単に怒りのみを感じた。
 仕事でミスをした時にさえ、あんな先輩は見たことがなかった。いじった内容も、別にプライベートに関わることでもないし、何かのミスをあげつらったわけでもない。何より、先に別の人がいじったことに乗っかってみただけだったはずだ。
 でも、先輩の怒りの矛先は、明らかに自分の方へと向いていた。同期のメンバー達からも、こっちを非難するかのような目で見られた。
 わけがわからない。
 結局、先輩が怒って雰囲気が非常に悪くなってしまい、そのまま解散することとなった。
 どうしてこんなことになったのか。どうすればこんなことにならないですむのか。
 わけがわからない。

「お呼びですか?」
 前の時と同じように、姿は見えないが声だけはしっかりと聞こえている。
「・・・人の心がわかるようになりたい。」
 そうすれば、あの時のようなことはなくなるだろう。状況に応じて、空気を読んだ発言をすれば、あんなことは二度とは起こらないだろう。
「わかりました。代価として、貴方の記憶の一部を頂きますが、よろしいでしょうか。」
 記憶の一部、というのはどうやらこれまでの生きてきた中のいろんな思い出のことで、それが断片的に失われるらしい。
 過去はもう来ないが未来はこれからやって来る。思い出を失ったところで生活していく上での損失はさほどあるわけでもなく、それよりも今後のことを優先させ、記憶の一部を代価とすることを承諾した。
 結局、家に帰って眠りについたのは日付が変わってからだった。

 次の日は、混乱の1日となった。
 電車に乗っている間、ずっと頭がおかしくなりそうな状態だった。いろんな人達の心の声が聞こえてきた。人の多い電車の中、誰もが相当なフラストレーションを抱え込んでいたようだ。前日に身についた「人の心がわかる」という能力があるせいで、たくさんの人で混雑している場所では頭が割れそうになった。大体3〜5mぐらいの距離にいる人の心の声を全て受け取り、それが直接頭に入ってくる。
 仕事をしようにも、まだ心の声を聞くことに慣れていないということもあって、誰かの心の声が聞こえてくるたびに驚いて、仕事に集中しづらかった。
 心の声と実際に聞く声を取り違えることはない。情報を受け取った時の感覚が全然違うため、どっちから入ってきた情報なのかはすぐわかる。その意味では心配は必要ない。
 が。
 問題はその情報量の多さ。取り入れた情報を処理する速度が間に合わない。そして頭が痛む。処理しきれなかった情報は、頭の中に響く。ガンガン響く。
 そしてそれよりも頭を悩ませるのがその内容。電車の中ではお互い見たこともない人同士で腹を立てていたり心の中で罵倒していたり、あるいは笑っていたりというようなことがあったが、まさかそれが仕事場でもあるとは・・・。いや、予想していなかったわけではないが・・・それでもその予想をはるかに超えるほどの感情の渦。
 吐き気がひどくて、昼食を食べる気になれなかった。
 同僚達は心配してくれた。本当に仲のいいメンバーは心から心配してくれていたが、そうでもない人達は形式上心配している様子を見せていた程度だった。それは考えてみれば自分もそうなのだろうと思うから大してショックでもなかったが、人間という生き物について今まで目を逸らし続けてきたイヤな部分をモロに見てしまった気がした。
 昨日飲みに行ったメンバーがいれば先輩のことを聞けたのだが、残念ながら昨日のメンバーはそこにはいなかった。ただ、その後先輩の様子を知ることはできた。
 昼休みもそろそろ終わりそうだという時、先輩に会った。
 昨日のことについて表面上の謝罪をすると、「もう気にしてない」というようなことを言われた。
 先輩は本心では、どうも自分とあまり顔を合わせていたくないということしか考えていないようだったので、もう一度謝罪の言葉を口にして、すぐにその場から去った。先輩はまだ怒っているようだが、昨日のことは許してくれようとしているらしく、少し安心した。
 昼からの仕事も特に何事もなく終えることができた。

 数週間が過ぎた。

 もう、限界にきていた。
 いろんな人が心の中で思っていたことで、自分が調子に乗ると人に疎まれる、というのがわかった。そんな時の自分はかなり嫌悪の対象になる、というのも散々わからされた。飲み会で先輩の怒りを買った理由がそれだった。同期のメンバーもそれはわかっていたらしく、それがあの時の態度に表れたのだろう。
 別にそれと自分の限界とは関係ない。むしろそれがわかってからはできるだけ調子に乗らないようにしていたので、特に問題は起こさなかった。
 話を聞くことと、頭に入ってくる心の声とでは情報としての受け取り方が違うため、どちらから受け取った情報なのかはわかる。その場では。
 だが、どちらにしろ「情報」であることに変わりはなく、数日前に得た情報がどちらで得たものか、などということは覚えていられない。過去の記憶も一部なくなっているため、曖昧なことが多い。そして、心の中から直接得たことを話に聞いたことのつもりで誰かに話したりすると、知らないはずの情報を自分が知っていることになる。これが何度かあると、自分にその情報を教えた「犯人」がいることになる。中には絶対ばれてはいけない情報もあったらしい。仕事場では自ずと犯人探しが始まった。もちろん内密に、ではあるが、心の中がわかる以上それもすぐに知れた。そして、疑心暗鬼に陥った人達が攻撃的になるのは当然のことで、皆が人間不信に陥ってしまっていた。
 言えなかった。自分は人の心を覗ける、などと。言えなかった。
 もう、以前の仕事場での人間関係は修復不可能になってしまった。仕事場は地獄のような場所になった。
 耐えられなかった。仕事場の雰囲気にも、心の声にも。だから、思い切って一番信頼の置ける同僚に相談してみた。この状況を打破できる唯一の希望だと思った。
 そして。
 完全に裏目に出た。
 相談した結果、あっという間に恐怖、嫌悪の対象となってしまった。
 自分は人の心がわかるといった時、同僚は唖然としていた。当然だろう、いきなりそんなことを言われて信じる人はいない。だが、その後立て続けに同僚の考えていることを当ててみせると、同僚はものすごい形相でこちらを睨みつけて、散々罵倒し、逃げるように去っていった。
 次の日、完全に仕事場の全員が自分を避けていた。全員が、自分が心を読めることを知っていた。まるで鬼や悪魔を見るかのような敵対的な目で見られ、前後左右360度から罵詈雑言を浴びせられ、数々の嫌がらせを受けた。
 自分の居場所は無くなった。

 昼休み、昼食を持って、逃げるように屋上に出た。青空の下で落ち着いて一人で食事をしたかった。どこで食べてもどうせ独りだったから。
 ベンチで昼食を取りながら、空を見上げる。視界が滲んで色など目に入らない。食べている物の味もわからない。
 大きな通りがすぐそこにあるはずなのに、車の音も聞こえない。静寂どころではない、まったくの無音の状態。
 何秒間か、何分間か、あるいは何時間か・・・。

 青空が目に入ってきた。車の音が聞こえてきた。
 立ち上がり、ゆっくりと、しかし確実に一歩ずつ柵の方へと歩きだした。
 柵を乗り越え、次の一歩を踏み出そうとした時、声が聞こえてきた。
「貴方の『命』、ここで終わらせるのですか?」
 その声に踏みとどまる。

 あの時アイツと出会っていなければ・・・。
 関わっていなければ・・・。

 「・・・。」
 真っ黒な夜の空から大雨が降る公園。傘も差さず無言で立ち尽くす。
「お呼びですか?」
 やはり声だけが聞こえる。
「・・・これが最後!アンタと出会う前に戻りたい!もう、こんな生活は嫌だから!!早く元に戻して、そして二度と目の前に現れるな!!」
「よろしいのですか?3つ目の依頼ですよ。」
「わかってる!だから!これが最後だから!!」
「・・・わかりました。代・・・「何でもいいから早く!今すぐ!!」言葉を遮って叫ぶ。
「それでは、私と出会う前の貴方に・・・戻します・・・。」
 言いながら。
 仮面が、笑った・・・気がした。
「代価として・・・。」
 財布をなくしてベンチでうなだれていたあの日の情景が蘇った・・・と同時に視界が真っ白になり・・・。
「・・・貴方の身体を頂きます。」

 視界が開ける。
 どうやら公園の真ん中に立っているらしい。
 自分のことがよくわからない・・・。
 着ているコートは黒とも紺とも言い難く、ただ闇に溶けるようで・・・。
 右手には仮面。まるで道化師・・・。

 一気に理解した。
 「今の」自分は「前の」自分ではないこと。
 「前の」自分はもう自分ではないこと。
 「身体を頂く」の意味。

 今まではアイツが「鬼」だったということ。
 今度は身体を取られた自分が鬼だということ。

 今の自分に命などは無く。
 今の自分の存在は・・・魂。

 「世界」は、命ではなかった。命をなくしても世界は廻る。
 自分の生きてきた世界だけが「世界」ではなかった。
 世界とは、魂。

 身体を失い、溢れた魂は。
 「鬼」となり身体を探す。

 そう、それは。
 魂の鬼ごっこ。

 全ての魂(そんざい)を受け入れるには、身体(いれもの)が1つ足りない。
 だから、溢れた1つの魂が鬼となる。
 1つの身体に魂は1つ。
 身体を取られたタマシイは、オニとなり別の身体へ。
 巡り巡る。
 タマシイノオニゴッコ。

 鬼は1人。
 入れ替わっても、やはり1人。
 鬼はいつでも1人だけ。
 「1人」の座を、受け渡し受け渡し・・・。

 日が沈み、公園の中にいるのは、自分と、ベンチでうなだれている人が1人。
 自分のするべきことはわかっている。
 仮面をつけ、ベンチに向かって歩き出す。

 仮面で語り掛ける。
「何かお困りではございませんか?」

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『LAST FORTUNE‐TELLING』

52105

1、刀巴心青

 もう何がなんだか分からない。私はそんなにダメな女だったの?仕事も手につかず、ひたすら自分を振り返っていると、気分が悪くなってきた。パソコンの画面に映し出された顧客名簿がダブって見える。
 
もうだめだ。
 
体調不良を訴え早退させて欲しい旨を伝えると、よほど顔色が悪かったのだろう。すんなり許可された。
 自動ドアが開いて、会社の外に一歩踏み出すと、急にむっとする熱気が体を包んだ。少し前ならセミの合唱が割れんばかりに響いていたが、今はすっかり静かになり、時折遅れて出てきたやつが寂しく鳴いているくらいだ。
 クーラーのきいた社内から最高気温33℃の空の下に出てきたのに、気分は少しだけましになった。それでもショックが癒えたわけではない。力なく午後3時の道を駅に向かって歩き出す。ちょっと遠回りをして帰ろう。
 日は既に傾きはじめていて、アスファルトをうすいオレンジに染めていた。ふらふら歩いていると横断歩道にたどり着いた。信号を渡ればすぐそこは駅。さっさと帰って寝てしまいたい。そんなことばかり考えていると、横にいた人の靴が前進を始めた。信号はいつの間にか青に変わっていた。
 ふと、横断歩道を渡った先、四つ角の一角にある喫茶店の軒先に、この時間に似つかわしくないものが見えた。
 
占い師・・・
 
 喫茶店の軒先にはほとんど歩道を覆っているひさしがある。そのひさしが作る影の中、喫茶店のドアの横に、占い師が机を出していた。こういう人達は夜の路上で薄暗い明かりをともして座っているものだと思っていたので、こんな明るいうちから机を出しているのはひどく不自然に思えた。
 横断歩道を渡り終えると、すぐ近くに占い師は座っている。後ろの喫茶店は照明が暗く落ち着いた雰囲気。しかしそれと店の前のひさしのせいで、占い師の周りは昼過ぎなのにかなり薄暗い。やはりこういう人達は暗いところが好きなんだろうか。
 それにしても、本当に不自然な占い師だった。路上で机を出している占い師といえば、着物みたいな服を着て、へんな帽子みたいなのをかぶっているイメージがあったが、この人は普通のスーツ姿。どこにでもいる中年のサラリーマンといった感じだった。そのサラリーマン風占い師は、のほほんとなにやら古そうな本を読んでいた。
 その時、占い師が本から目を離しこちらを見た。私はじろじろ占い師を眺めていたらしい。恥ずかしくてそのまま立ち去ろうと思ったが、ふと心の中に、昨日の出来事がよぎり、思いとどまった。
 「よろしければどうぞ。」
 そういって占い師は席を勧めてくる。ここまでくると断りにくい。私は占い師に向かいあう形で小さなパイプ椅子に腰掛けた。机の上には、よくこういう占い師がジャラジャラやっている竹ひごのような棒の束が筒に立ててあり、その奥には黒いブロックのようなものが三本、その黒いブロックに赤い溝がほられたものが三本、まとめて置いてあった。他にも溝のほってある木の板に脚のついたようなものや、周りにごちゃごちゃと漢字の書いてある方位磁石など、たいして大きくない机の上にはいろいろなものが置かれていた。
 「それではまず顔を見せてもらえますか。」
 そういって占い師は私の顔をいろいろな角度から見回した。周囲から見れば妙な光景だろうな。そんなことを考えている間に、顔を見終わったらしい。
 「次に手を見せてください。」
 「どっちの手ですか?」
 「両方見せてください。」
 両手を見せると、手の甲も見せるよう言われた。手の甲にも手相があるのだろうか。
 手も顔同様、いろいろな角度から見ると・・・
 「うぅ〜ん・・・。」
 占い師は難しそうな顔をした。そして、
 「名前を教えてくれますか?」
 そういってペンとメモ帳を取り出した。メモ帳には既に何人かの名前が書かれているようだった。
 「長沢臨です。」
 臨機応変の臨でのぞみです、と付け加える。ありがとうございます、といってから、占い師はメモ帳に名前を書き込み、画数を数え始めた。
 
長=9画 沢臨=30画 総39画  訟三爻
 
 逆さまからのぞくとそんなような事が書かれていた。その横にはなにやら棒のような記号が書き込まれている。
 ここまでに大体5分くらいだろうか。占い師の作業は見ていて飽きない。それにしても、何を占って欲しいのかも聞かずいろいろ調べていたが、私が聞きたいことに答えてくれるのだろうか。また、昨日の出来事が頭をよぎる。
 「それではお話していきましょう。」
 占い師は私の目を見つめ、柔和な笑顔を浮かべて話し始めた。
 「まず、仕事ですが、これは今あまりうまくいっていないようですね。もしかすると、転職の可能性もありますよ。まあ、そうだとしたら来年になるでしょうが。」
 ずっと別のことで悩んでいただけに、仕事のことを指摘されて少し面食らった。確かに、仕事はうまくいっているとはいえない。ミスも多いし同僚との人間関係も良好とはいえない。もともと人付き合いは得意ではないのだ。ただ、転職を考えているわけではない。就職活動を始めたのが遅かったこともあり、この職場に採用されなければ全滅という状態だった。苦労してやっと決まったこの職場を離れたところで、具体的な展望など何もない。
 「次に、というかこれがメインでしょうけど・・・」
 「はい?」
 「突然別れを告げられて、随分戸惑ったでしょう。」
 占い師は先程と変わらない調子で、どこまでも冷静な様子でそう語った。その顔が涙でぼやける。
 
 「ごめん。別れて。」

 理由も説明せず、2年間付き合った彼は私の前から去った。つい昨日のことだ。何がなんだか分からず、ただ混乱するばかりだった。彼の携帯は電源が切られていて連絡もつかない。
 「彼は、自由な人だったのですね。」
 そう。彼は自由な人だった。職にも就かず、バイトもすぐに変わっていた。流行に敏感で、私のような地味な女とは正反対だった。だから惹かれたのかもしれない。
 「ひとつところで留まっていることに彼は我慢できないのでしょう。常に変化がないと彼は耐えられないのかもしれませんね。・・・彼には、別に好きな人ができたようです。」
 正直、私と付き合っていた2年の間、彼の周りには常に別の女の影がちらついていた。それも1人ではなかったようだ。私は彼にとって一番の女でありたかった。でもそうなれる自身はなかった。だから携帯をこっそりチェックするようなことはせず、ひたすら自分をごまかしてきた。しかしその努力も虚しいものだったようだ。
 この占い師の言うことはいちいち当たっている。逆にそれが私の心の中の、今まで見ないようにしていた部分を白日の下にさらしているように思えた。
 「どうしてそんな風に辛いことばかり思い出させようとするんですか!?占い師って客を癒してくれるのが仕事でしょ!?」
 思わず大きな声が出る。通行人がこちらを見ているのが分かる。しかし目の前の占い師の顔は先程と同じく優しいものだった。
 「『占いはあたってなんぼ』師匠の受け売りです。ただお客さんの耳障りのいい言葉を並べ立てるなら、何も占いなんて使わなくてもいいじゃありませんか。ここは東京。お金さえ出せば、いくらでもイケメンの男性に優しい言葉をかけてもらえますよ。
私たちの仕事はお客さんが自分を見つめなおすお手伝いをすることです。占いというメガネをかけて、いつもと違った角度から自分を見つめてもらう。それが私たちの仕事です。」
 私の持っていたイメージと、この占い師の語る占い観とは随分違ったものだった。とりあえず落ち着いた私に、占い師は告げた。
 「でも、別れたのは正解だったのではないかと思いますよ。ほとんどあなたが面倒を見ている状態だったのでしょう?それに、あなたの運は今年以降徐々によくなっていくようです。運勢の変わり目には、善きにしろ悪きにしろこれまでの人間関係に変化があるもの。加えてあなたの顔には、もう新しい出会いの相が出ていますよ。」
 「ほんとですか!?」
 思わず顔を触ってしまった。
 「きっと不器用ながら、さりげなくあなたを支えてくれる男性でしょう。そうだ。あなたの生まれた年を教えてください。」
 「1984年です。」
 「では、寝室の西側に、白か金か銀の花瓶を置いてみてください。形は丸みのあるものを。花は生けなくて構いませんが、水は毎日変えること。きっとあなたの出会いを助けてくれますよ。」
 「ありがとうございます。」
 思い切り涙を流したせいか、気分はすっきりしていた。彼に嫌われないよう必死に自分自身をごまかしていた自分がなんだか小さく思えた。
 「あなたは感受性の強い方なのですね。きっと人の心の痛みの分かる、すばらしい人になるでしょう。自身を持って頑張ってください。」
 そういって占い師はぺこりとお辞儀した。
 こちらもていねいに礼を言い、見料の3000円を払って席を立つ。駅へと向かう道は、先程よりオレンジが強くなっていた。まだまだ暑いが、足取りは軽かった。

 あれから2年。あの占い師の言ったとおり、私はあの後すぐに1人の男性と知り合った。花瓶の効果なのかは分からないが、幸せだ。
 彼はあまり口数は多くないが、さりげない気配りのできる人。そんなところまで当たっている。
 あれからしばらくして、私は仕事を止めた。前の仕事でできた貯金を使って勉強し、実は今、私は占い師をしている。とはいえまだまだ見習いだが。タロットと西洋占星術を使って、先生の事務所で働かせてもらっている。いずれは独立しようと日々研究に明け暮れている。
 あれからあの占い師とは会っていない。先生にも尋ねたが行方は知れなかった。いつかまた、私が困った時には姿を現してくれるんじゃないか、そんな気がしている。

2、目形

 特に辛いとか、悲しいとかは感じない。さっきまではそんな感情もあったが、いざ外に出てしまうと頭の中が麻痺したみたいになって、ぼんやりしたままここまで歩いてきてしまった。
 人間、死ぬと決めたら案外冷静なものなのかもしれない。
 あいつら、俺が死んだらどんな顔するのかな。少しは俺をいじめたことを反省するかな。でも、きっと俺が死んでも、泣くやつなんて居ないだろうな。俺みたいなやつひとりいなくても、次の日から普通にあのクラスは回っていくんだ。
 そうか。もうすでに、俺なんかいないことになってるんだった。

 「4時半か。」
 授業はとっくに終わっている。後は部活の生徒が外にいるくらいだろう。校舎内に残ってるのは吹奏楽部くらいかな。
 だいぶ日が傾いてきたが、9月の夕方はまだまだ暑い。ゆっくりと家から学校への道を歩いていき、横断歩道を渡ろうとすると、ちょうど信号が赤に変わった。目の前を車が通り過ぎる。
 このまま進めばよかったかな。
 そんなことを考えていると、ふと右手側の喫茶店に目がいった。喫茶店の前にはほとんど歩道を覆っているひさしがある。その下に占い師が机を出していた。学校から帰る途中時々見かけたような気がする。いつもあまり気にすることはないが、今日は不思議と目がいった。信号は青に変わっていたが、なんだかこのまま渡る気になれず、占い師のほうに近付いていった。
 机に座っている占い師は、スーツ姿で、年は40代じゃないかと思われた。担任の先生(43)より少し上に見える。なにやら難しそうな本を読んでいた。
 近付いていくと気配に気付いたのか本から目を離し、にっこり笑って、こんにちは、と挨拶してきた。
 こんにちは、と俺も挨拶して、勧められたパイプ椅子に座った。占い師に見てもらうのは初めてで、少し緊張する。
 机の上には、竹ひごのような棒の束が筒に立ててあり、その奥には黒いブロックのようなものが三本、その黒いブロックに赤い溝がほられたものが三本、まとめて置いてあった。他にもいろいろなものがたいして大きくない机の上に置かれていた。何をするものか分からなかったが、机の片隅に置いてある方位磁石のようなものだけなんとなく何をするものか分かった。何かの漫画で読んだことがある。「羅盤」というやつだろう。ただ、風水で使うこの「羅盤」はもっと大きいものだと思っていたが。
「占ってもらうのは初めてですか?そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。中学生ですか?」
 「は、はい。」
 「じゃあお金は学割で1000円でいいですよ。」
人間と喋るのは久し振りなので、声がうまく出てこなかった。ちなみに家から出るのも久し振りだ。
 「それではまず顔を見せてもらえますか。」
 そういって占い師は俺の顔をいろいろな角度から見回した。こんな風に顔を見られたのは初めてだ。学校では誰も俺と目をあわせようとしない。
 まじまじと俺の顔を見ていた占い師は、一瞬軽く眼を見開いたように見えた。しかし次の瞬間にはもうさっきまでの優しそうな顔に戻っていた。
「次に手を見せてください。」
 「どっちの手とかありますか?」
 「両方見せてください。」
 両手を見せると、手の甲も見せるよう言われた。色んな角度から見られていて、その間俺は少しどきどきしていた。包帯を巻いて、暑いのを我慢して長袖のシャツを着てきたが、昨日リストカットしたばかりだ。しかし特に占い師は気に留めた様子はなかった。ただ、さっきと同じように、少しだけ目を見開いたように見えたが。
 「名前を教えてくれますか?」
 そういって占い師はペンとメモ帳を取り出した。メモ帳には既に何人かの名前が書かれているようだった。
 「津田泰正です。」
 ありがとうございます、といってから、占い師はメモ帳に名前を書き込み、画数を数え始めた。
 
津田=16画 泰正=16画 総32画  坤二爻

 そんなような事を書き込んでいた。
 「津田君は真面目な性格なのですね。それにとても優しい。きっと本当のあなたはたくさんの人に愛される存在ですよ。」
 「そんなことはないと思います・・・。」
 「いまは・・・そうでしょうね。」
 占い師は少し悲しそうな顔をした。
 「家から出るのは久し振りですか?」
 ドキッとした。
 6月から今まで、約3ヶ月間、俺は俗に言う引きこもり状態だった。原因はいじめ。特に目立った行動をしたわけではなかったけど、クラスの中では浮いていた。それが具体的な行動に表れたのは、2年生になってすぐ、今年の4月からだった。クラス全員から無視された。机にも教科書にも、ノートにも落書きされた。廊下ですれ違いざまに突き飛ばされたり、トイレで水をかけられたりした。
 それでも何とか耐えていたが、ある日、トイレでいじめられていた俺が外に目をやると、担任と目があった。担任は何事もなかったかのように素通りしていった。その日以来俺は学校に行かなくなった。それからは、この狭い校区でクラスの生徒と会うのが怖くて外にも出られなくなった。
 ぽつりぽつりとそんな話をすると、占い師は悲しそうな顔で何度もうなずいた。そしてじっと俺の顔を見ると、こうつぶやいた。
 「きっとあなたを見てくれている人がいますよ。気付いていないだけです。あなたは素敵な人だ。」
 信じられなかった。なんだかこの占い師の言葉は薄っぺらいうわべだけの言葉に聞こえた。
 「ありがとうございました。」
 適当に礼を言って1000円払うと、立ち上がろうとした。
 「あ、ちょっと待ってください。君は確かあっちから来ましたね?」
 「はあ・・・。」
 「少年が南から歩いてきた・・・。」
 占い師は羅盤を見ながら何か計算を始めた。そして・・・。
 「もしよければ、このまままっすぐ、北に行ってごらんなさい。きっとあなたを助けてくれる人がいますよ。」
 言われるまでもなく、学校はここから北の方角だ。でも、誰かに助けてもらおうなんて思っていない。
 もう一度礼を言って、今度こそ本当に席を立つ。
 横断歩道を渡り、少し歩くと、学校が見えた。

久し振りの校舎だ。殺風景で、見ているだけで嫌な記憶を思い出す。できるだけ人目を避け、屋上に上る。下では野球部員たちがランニングをしていた。そういえば、担任は野球部の顧問だったな。きっと自分が落ちたら大騒ぎになる。もう無視されることはないだろう。
 屋上には誰もいない。吹奏楽部がいたら面倒だった。少しほっとして、それから気を取り直して屋上の隅に向かう。
フェンスに手をかけ、よじ登ろうとした、そのとき・・・
 「なにやってんだ!!」
 強い力で引っ張られ、バランスを崩して俺は誰かの上にしりもちをついた。体を起こして見れば、同じクラスの和田だった。
 小学校の頃から仲良しだった和田は、俺がいじめられているときいつも離れたところから見ているだけで、助けてはくれなかった。なぜこんな時になって。正直余計なことをしないで欲しかった・・・。
 そんな俺に気付かず、和田はまくし立てた。
「久し振りに見かけたから声かけようとしたら、スタスタいっちゃって、屋上に行ったからまさかとか思って・・・そしたらほんとにフェンスに上りだして・・・・なんていうかその、自殺とかすんなよ!もう無視とかしないから!俺だって怖かったんだよ、でも・・・ちゃんと今度から・・・一緒に闘うから・・ゲホゲホ!」
 一気にしゃべろうとして和田はむせた。目に涙をいっぱいためて。漫画に出てくるようなくさいせりふを、むせながら必死に訴えかけてきた。
 今まで、こんなに必死になって俺と向き合ってくれた人はいただろうか。いや、おれ自身は人と真剣に向き合ってきたのだろうか。いつも周囲のせいにばかりして、逃げていたんじゃないだろうか。

「きっとあなたを見てくれている人がいますよ。気付いていないだけです。」
 
心の中に温かいものが広がってきたような気がして、涙があふれた。
 

3、勿洩天機

 あたりが段々暗くなってきた。そろそろ7時。まだまだ秋らしい気候とはいえないが、日が暮れる早さだけは刻々と早くなっている。
 占い師、滋岳保憲(しげおかやすのり)は読んでいた本から目を離し、目の前の横断歩道を見つめた。街頭易者といえば夜が本番なのだろうが、保憲は大抵7時ごろに片付ける。夜は面倒なことも多いので、基本的に仕事は昼過ぎから今くらいまでと決めているのだ。
そろそろ机を片付けようか。
 そう思っていると、近くでじっとこちらを見つめる若者と目が合った。見たところ学生だろうか。短い髪に大きなフレームのめがね。見方によってはもっと年齢がいっているようにも思える。
 「見てもらえますか?」
 関西弁のイントネーションだ。
 「いいですよ。」
 席を勧めるとおどおどと席に着いた。いつもどおり、顔と手を見て、名前を聞く。
 「熊崎流の姓名判断ですか?」
 突然若者が聞いた。
 「実は、自分も占いの勉強してまして。」
 「誰か先生についてるんですか?」
 「いえ。独学なんです。」
 なるほど。保憲自身も若い頃はいろいろな占い師にみてもらったものだ。しかし残念ながら、熊崎流ではない。
 「梅花心易ですよ。」
 「はあ・・・。」
 なんだかきょとんとしている。まだまだ勉強不足のようだ。それにしても、あまり見栄えのしない相だ。あわてんぼうで集中力がない。おまけに飽きっぽくて何事も中途半端といったところだろう。神経質で何かにつけて周囲をイラつかせたり、気を遣わせたりするようだ。
 なんだか見ていてかわいそうにさえ思えてくる。そんな相である。
 本人はどのように自身を鑑定しているのだろう。出っ歯は孤独の相だ。本人は気付いているのか?
 まあ、ストレートに伝えるのもなんなので、オブラートに包んで説明してやったが、本人はよく当たったと満足げであった。
「ありがとうございました。」
 見料を渡した後、何かいいたげに若者はこちらを見ていたが、気付かぬ振りをして別れを告げた。少しかわいそうだが、私は弟子は取らない。それでも、何とか飽きっぽさを克服して、この道を修めて欲しいものだと、保憲はひょこひょこと肩を揺らして歩く後輩の後姿にエールを送った。
 若者が帰ると、保憲は片付けにかかった。片付けながら、今日の客を思い出す。

今日は保憲にとって特別な日なのである。

その特別な日に現れた客たちはいずれも保憲にこれまでの人生を思い出させた。保憲が占いを始めたのは、小学校6年生の頃である。以来46歳の今まで、30年以上占いに携わってきた。
その中で挫折が一度もなかったといえばうそになる。保憲自身が、失恋のショックで自殺未遂をしたことがあった。
大学時代付き合っていた彼女に突然振られた。他に好きな男性ができたらしい。今日来た客の彼氏のように自由奔放というわけではなかったが、別れ際に、新しい相手と保憲を比較するようなことを言われた。幼少期に偏りのない自己愛を形成できなかった保憲にとって、それは全人格を否定されたに等しい経験だった。何も手につかず、気付けば大量の睡眠薬をあおっていた。
一命をとりとめた保憲を励ましたのは、占いサークルのメンバーたちだった。今思えば稚拙なものだが、彼らは必死に保憲の今の状況を分析し、打開策を考えてくれた。
この一件から、保憲は本格的に研究を始めた。
今日来たあの若者のように、これはと思う人に師事するべくたくさんの占術研究家の鑑定を受けた。そして、周易と人相・手相を、それぞれの大家に学んだ。
日本だけでは狭すぎると、大学時代に学んだ漢文・中国語の知識を活かし、単身中国に渡った。そこで命占(生年月日時をもとに人の一生を占う占術)の主流である、八字や紫微斗数(しびとすう)のいくつかの流派を学んだ。その他にも奇門遁甲(きもんとんこう)や風水を、外国人には教えないという老師に頭を下げ、大金を支払って学んだ。その甲斐あってか、保憲は中国人にすら教えてもらえないような奥義を伝授された。
 帰国してからは自宅兼鑑定所で八字などを使い鑑定を行う傍ら、風水等の出張鑑定と、路上での鑑定を行っている。自宅には悩みを抱えた人々が毎日10人近く訪れる。自宅での鑑定は一件20000円、風水の出張鑑定は一件10万円+交通費である。一ヶ月休みなく働けば何とか生活していけるのだが、保憲は週に3回路上に出る。道の真ん中でやるのだから、複雑な計算が必要な八字や紫微斗数、西洋占星術などは使えない。専ら手相・人相や易を使う。そうしたシンプルな占いにこそ、術者の実力はよく表れる。いつも自分を磨いていなければならない。だから、保憲は路上が好きだ。
 
中国で学び、日本に帰ってきても研鑽を積んで、あっという間に月日は流れた。そして、保憲はあることに気付いた。
 どうも最近、占いにはっきり表れない災いが多いのである。それほど大きなものではない。しかし、事前にチェックしているにもかかわらず、気付かずに避けられない凶事がちらほら起こる。後で見れば、確かに何かしら悪いことが起こりそうというのは読み取れるのだが、まさかこうした形で出るかというようなことなのだ。
 思い切って、去年、2006年の冬至に、来年の自分の運勢を占うついでに、寿命占をしたのであった。正直いくらプロの占術家でも自分の死期を知るのは恐ろしい。だから今まで避けてきたのである。そして、保憲は占ったことを激しく後悔した。保憲の生年月日時から算出した死期は、今年2007年だったのである。
 八字も、紫微斗数も、河洛理数も、その他様々な占術で調べたが、ほとんど全てが今年保憲が死ぬことを告げているのである。
 今年といえばまだ自分は46歳である。なぜこんなに早死にしなければならないのか。
 考えるうちに、ある言葉が浮かんだ。そして、この言葉に照らし合わせるとここ最近の凶事も全て納得がいってしまうのである。

 天機洩らすなかれ

 優れた占術家は非常に高い的中率で未来に起こることを知ることができる。そして悪い結果となることが分かれば、奇門遁甲や風水をつかって、凶を吉に変えてしまうことも可能である。しかしこれは本来、人智を超えた高次の存在、神々にのみ与えられた力なのである。そうした天の機密=天機を、優れた占術家は洩らすことで金銭を得、生活しているのだ。であれば、優れた占術家は高次の存在に、代価を払わねばならない。だから優れた占術家は「孤(孤独)、夭(早死)、貧(貧乏)」のどれかに見舞われるといわれる。
 保憲は、既にどこかで自分が天機を洩らすほどの占術家になったことを自覚していた。これは驕りなどではなく「自覚」だった。風水で大地の気の脈をいじり、奇門遁甲で本来凶であるはずの命を吉に変えてきた。
 幸い保憲には、妻もいるし今年17になる娘もいる。収入も何とか家族を養っていける程度にははいってくる。とすれば、天は保憲に寿命を代価として求めたということになる。ここ最近の凶事はその前兆だったのだろう。
 しかし、ここまでくれば逆に人間開き直ってしまうもので、こうなれば日にち単位まで調べつくし、運命と勝負をしてやろうという心境になってくる。保憲は長年使い古し、すっかり体の一部といえる占術を駆使し、自分が死ぬであろう月、日を割り出した。そしてその日こそ、今日9月19日だった。
 
 今日は保憲にとって特別な日なのである。
 
 既に身辺は整理して来た。まあ、家族に怪しまれないよう全てというわけではないが。それに、何かの間違いではないか、という気持ちも実は少しある。私の占断は外しているのではないか、と。
 そして今朝、最後に自分について易を立てた。
 
 出た卦は「天雷无妄(てんらいむもう)」

 全ては神の御心のままに。ただ己の良心に違わない様、それだけを心がけよ、という意味の卦である。
 最後の最後に出た卦は、保憲にとってはもっとも残酷な卦であった。

 片づけを終えた保憲は、場所を借りていた喫茶店の店員に礼を言うといくらかの礼金を渡して、少し離れた駐車場に向かって歩き出した。既に空は真っ暗である。
 ふと、大粒の水滴が保憲の頬を濡らした。夕立のようだ。こんなこともあろうかと、保憲は大きめの折り畳み傘を常備している。傘を広げ、道路を渡ろうとしてふと足を止めた。
 今日は何事も起こらなかったが、もしかすると交通事故なんて可能性もあるな。だとすると、極力道路は渡らない方がいい。
 保憲は方向転換し、少し離れたところにある歩道橋に向かった。歩道橋から見下ろすと、雨にかすんだ東京の街が目に飛び込んできた。これが私が数十年眺めてきた街だ。
 これまでの想いが再びこみ上げてくる。そして、今日、最後の一日に訪れた迷える人々。彼女は無事に立ち直ることができるだろうか。きっと大丈夫、彼女の左の目じりにはくっきりと新しい恋愛の色が浮かんでいた。あの中学生の少年は、自殺を免れただろうか。彼の生命線の内側には、はっきりとした目のような形の線が刻まれていた。しかしその脇にはこれよりはっきり四角の線が入っていた。きっと誰かが気付いて、とめてくれたに違いない。あの若者は、神経質で几帳面なのに飽きっぽいという難しい性格を克服して、占術の研究を続けてくれるだろうか。
 そんなことが浮かんでは消え、浮かんでは消えする。
 ふと、雲が晴れて、真夏の太陽がさんさんと降り注いでくるのが見え、滋岳保憲は笑顔で天を仰いだ。

 突然振ってきた大雨に帰りを急いでいた人々は、いきなり響いた轟音とまぶしい閃光に凍りついた。
 「きゃあ!!」「うわっ!!」
 少し遅れてあちこちから声が聞こえる。
 そして・・・
 「救急車呼べっ!!」
 「大変だ!」
 駅近くの歩道橋に人だかりができた。歩道橋の上には男性がひとり倒れている。今しがたの落雷が直撃したらしく、男の体からは湯気が上がり、電気が抜けたのだろう。着ているスーツのところどころに穴が開き、そこから出血していた。既に男は事切れている様子だった。
 救急車が到着し、男が担架にのせられ運ばれる。警察が周囲を囲み、人々を遠ざける。雨の中傘もささずに見ていた人々は、やがてその場を離れ、再び急いで家路に着いた。
 男が雷に打たれた場所には、男の荷物、黒焦げの筮竹や煤けて中の磁石の吹き飛んだ携帯用羅盤が転がっていた。明日になる頃には全て片付けられ、何事もなかったかのように一日が始まるのだろう。

 天機洩らすなかれ。

 人の力では変えることのできないものは、あるのだ。

提出が遅れてしまいました。もうしわけありません。

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『カブトムシ』

52106
朝早く、引き戸を開けて、入ってきた日に焼けた手の中で、その黒光りする生き物はジタバタもがいていた。
いとこのようちゃんは、黄色いスカートをひるがえし、すいすいと土間をつっきってきて、それを私の目の前にそうっと、置いた。
「あら、すごい。ありがとう。よかったねえ。ほんものは向こうじゃあなかなか、いやスーパーにはあるんやけども、でもあんなんは違うでしょ。私が子どものときは…」 いつもとは違うイントネーションで、母の昔話がはじまって、前夜の夕食の席を思い出した。
「こんな田舎にわざわざなあ」
「何もないとこやけど」
応えて、
「私カブトムシ見たい」
「そんなもんでええんなら裏にいっぱいおるわ」と伯父さん。「向こうは山なんてないからなあ」とおばあちゃん。あのとき、ようちゃんはどんな顔をしていたっけ。
カブトムシが畳にかぎ針みたいな足をくい込ませながら一歩進む。硬そうな皮膚や角はワックスかけたみたいにつやつやしていて、足の関節が動く様はとてもメカニカルだ。
ああ、いいことを思いついた。
頭には先日見たばかりのテレビ番組がうかんでいた。カブトムシに重りを乗せた滑車を引かせると自身の重さの三十倍もの重りを引く。
「実験しない?」
我ながらいい提案だ、と思った。自由研究にもなるんじゃないか。
説明しながら、ちらり、大人たちに目をやった。私は、このような知的好奇心を示したときに、大人たちが私にどのような目を向けるのか、よくよく知っていた。
ところが、ようちゃんの返事はこうだった。
「そんなんは、かわいそうやから、やらんよ。もう逃がすから」
私はすばらしいアイディアを、しかも、大人たちの前で駄目にされて、心中密かに彼女を恨んだ。

交通渋滞情報を見ながらぼやく母の隣で、マンガを読んでいたら、ガラリと戸が開いて、ようちゃんがまた、すいすい土間をウォーキングしてきた。低い土間を慣れたように、ひょい、と登る。うまく手をかばって。手の中にはまたカブトムシがいた。
「いっぺんだけな」

私は、悠然とちびた鉛筆を数十本束にして、ぐるぐる糸で縛った。糸の一端を長く残してつまんでようちゃんに差し出す。
ようちゃんがそれを、慎重に、カブトムシにくくり付けた。黒光りする背中に白糸がゆらり、ゆらり。
カブトムシがまた畳に足をくい込ませてから、私はそのゆらりをじっと見つめていた。
何か決心したかのように、カブトムシが一歩。また一歩。のろり、のろり、たゆんでいる糸が一歩を行くごとに張ってゆく。
 のろり、のろり。ほうら、と言いたくてようちゃんを見やると、
「あっ…」
ようちゃんが小さく叫んだ。
彼は飛んだ。
ピン、と糸が張る。
しかしさすがに無理だったらしい。角をとられて、バランスを崩し、落ちた。
仰向けになって足をジタバタさせた。
ようちゃんが糸をはずして、元にもどしてやると、待ちかねたように窓から飛び去って行った。

 早く帰ってらっしゃい、すぐ向かうからと、母からの電話。
あまり急だったので驚いた。
急ぎ用意をして、でも今回は水着は入れない。漢字ドリルなんてやる歳でもないけれど、新幹線の中、着くまでやっておけと言われないことに、変な心地がした。駅で買った文庫本ごしに、いつも土産に買っていた、お酒だけ、いつのまにか用意されて母の傍らにあるのが見えた。そそっかしい母がどこかに置き忘れてくる度、「またか」と、残念そうに、けれどどこか楽しそうに伯父は言った。

「ようちゃん、すっかり大人になっちゃって」
しわしわになった風呂敷に包まれた一升瓶受け取る袖が長い。
「ありがとう叔母ちゃん、長旅大変だったでしょう。びっくりさせちゃったねえ、ほんとに急で」
声まで大人びていた。

 
「わざわざ遠くから足をお運びいただいて」
「どうも父の為に」
「こんなときでゆっくりご挨拶もできませんけれど」
翌朝、真っ黒な服のせいで、よけいに顔が白く見えるようちゃんは、すっかり手馴れたもので、テキパキと弔問客に応えていた。
 伯母がハンカチを握り締めるようにして目を覆っている。
 「安らかなお顔ですねえ」「ほんとうに」口々に知っているような、知らないような人たちが声をかけていく。穏やかに、彼女は答える、「そうですね」「すうっといってしまったようでね」
 よくドラマであるな、こういう場面。ぼんやり思った。

 いよいよ出棺だと、葬儀屋が忙しそうに立ち回っている。伯母のハンカチは目に添えられたまま。
 「顔見てやって、お父さんもきっと喜ぶ」
ようちゃんに促されるまま、棺桶をのぞく。
「伯父さん、久しぶり」
  死体はやけに血色のよい顔をしていた。今にも起き上がって声をかけられそうな位に。どんな声だったか全く思い出せないけど。
 二言、三言ひとりごとつぶやくようにして別れを惜しんで、ようちゃんに向き直って、声をかける。
 「なんだか、赤みがさしてるんだね」
 そのとき、彼女が、急に、がばっと、伯父の顔をのぞきこんだ。
「生きておられるときみたいね」
口早に二の句をついだ。
「ああ」
 まるなにごともなかったみたいにぴったり元の姿勢に体を戻し、
「そやねえ。苦しまずにいってくれて、よかった」
 彼女はまた、穏やかな表情を作った。

白い、細い骨。
伯父さん。
「こうやって、足から順にお骨を入れていきますと、ちょうど立っているようになります」
周りの感傷とはうらはらに、火葬場の説明が淡々と続く。
 「今から頭を入れますけれども、このままですと入りませんので、ご家族の方骨をおろしていただきます」
 伯母が激しく首をふったので、それは彼女の役目になった。長い箸を骨に立てて最初は遠慮がちに。
「もう少し、ね」
軍手を履いた指で、パッパと指示されるのに従って、
バキバキ、バキバキバキバキバキ。
 「ひいいいい」
伯母さんが、空気がぬけたみたいな悲鳴をあげて、腕にすがりつく。

 母が言った。
「あの子、ようちゃんね、学校やめちゃったらしいのよ、お母さん憔悴しきってたでしょう、それでね…」
 腕に叔母さんの爪あと。

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『無題』

52107
僕は今年十五歳になった。
 彼が生まれたのは僕が中学一年生のときだ。

 僕は生まれた時、何も考えず欲望のままに泣き、栄養をむさぼり排泄して眠っていた。
 彼は生まれた時から知性を持っていた。そう、感情ではなくて知性だ。彼にとって感情は知性によってのみ再現されるものでしかない。感情は僕が受取った文字や映像の再現でしかない。彼は知性を持って生まれた。

 僕は自分のことを「僕」と呼ぶ。
 彼は自分のことを「俺」と呼ぶ。

 僕はマサヒロだ。
 彼はヒロだ。

 僕にとって「耐える」という事は彼に押し付ける事だ。
 厳格な家庭に育った僕は彼が生まれるまで「耐える」という事が苦手だった。母親からの過度の期待、父親からの不当な暴力。環境からの圧力が僕を疲弊させ、困惑させ悲しませた。
 でも、当時の僕は自分がどうしたいのかわからなかった。だから圧力に屈し、それが繰り返されると癇癪を起こした。
 それでも状況は変わらなかった。途方にくれた。

 中学一年の冬彼は生まれた。彼は僕の部屋で生まれた。夜の部屋で生まれた。それは突然の出来事だった。いや、本当は予感を感じてはいた。小学校を卒業し中学校に入った頃から予兆というのか予感というのか、そういった抽象的なものは感じていた。ただ、無視していたのだ。彼が生まれたのは僕が父と母の不当な圧力に屈していたときだ。
 彼は突然僕の前にあらわれ、心と体の痛みに耐える僕に話し掛けた。
「大丈夫か、マサ。」
 戸惑う僕。
 反対にその声は毅然としていた。
 その声は知性的だった。
 何事にも逃げ腰で自信が無く、癇癪もちで、プライドなのか虚勢なのかも区別できない僕とは違う芯の通った響きだった。
 戸惑いながらも声に惹かれ
「君は・・・誰?」
 尋ねる僕の声はやはりいつもの芯の無い声だ。
 虚しい僕にお似合いの声だ。
「俺か、俺はヒロだ。」
 僕の問いかけにあの声が応えた。
 やはり、惹かれる声だ。
 でも一体彼はどこにいるのだろう。部屋には僕しか居ない。マサヒロの部屋は二階にあってベランダも無い。 窓も閉まっている。隣家とも離れていて、話し声など聞こえるはずもなかった。つまり、この声はこの部屋のどこかから聞こえているはずだった。その声は、まるでヘッドホンで音楽を聴くような、耳のすぐ側で声は聞こえる。 側でとは言ったが、それは実体の無い声だった。声帯を震わせるといった、声が空気の振動であるという事を否定するような、直接的な響きだった。
 不気味だ。幽霊かもしれない。
 下らないと思った。中学一年生にもなって幽霊なんかを信じるなんて。ただ今は圧力に屈して弱っているんだ。だから、聞こえるはずも無い声が聞こえたんだ。だいいちヒロ君らしき人なんてどこにも見当たらない。そう思った時だった。
「俺は幽霊なんかじゃないぞ。それにヒロ君は無いだろ。ヒロって呼べよ。」
 まるで僕の考えを読んだかのような彼の声が聞こえた。
「えっ?何で僕が考えてることがわかったの、ヒロく・・・ヒロ。」
 少し沈黙が流れ、今までの感情の起伏をあまり感じさせない声とはうって変わって、素人の芝居のようなわざとらしいぐらいの抑揚で
「そっか、お前知らなかったのかぁ。まぁ知らないのも無理ないよな。でも残念だな。」
 本当に残念と言うよりは残念な役柄を演じる大根役者のような言い回しだった。
 どうやらヒロは僕のことを知っているようだ。僕が知らなくて彼が知ってる。確かに不気味ではあるけれど、今のところは何の危害も加えられていない。このままではどうせ眠れそうに無い。それに一方的に知られているのはあまり気分が良くない。
 僕はヒロの事が知りたくなった。気になることから尋ねる事にした。
「ヒロは僕の事知ってるみたいだけど、どうして知ってるの、いつから知ってるの。」
 僕の問いかけにやや間をおいて、またしても単調な声が返ってきた。
「まずはいつから知ってるかだけど、それはマサヒロが生まれた時からだよ。どうして知ってるかは・・・それだけを上手く説明できないな。」
 何を言っているのかよくわからない。続けて質問をしてみた。
「姿が見えないけど、ヒロはどこに居るの。」
これにはすぐ応えが返ってきた。
「マサヒロの中だよ。正確にはマサヒロの脳みその中心から23ミリ左側に居る。」
これが二人の出会いだった。
その日から、二人はたびたび会話を交わす事になった。日常のくだらないことから、深刻な話まで、ありとあらゆる事を話し合い、時に笑い時に涙した。二人が親友になるまでにそう時間はかからなくなった。
マサヒロの通う学校は地元では有名な悪がきの多い学校だった。その中でマサヒロの成績は200人ほど居る学年の中で常に3番以内をキープしていた。運動神経も悪くはないが決して飛びぬけて良いわけではない。勉強は出来るが学級委員に立候補したりはしなかった。成績が良く先生には気に入られていたが、クラスの中で目立つ事はなかった。これは、中学に入ってからクラスでのいじめが流行していたからだった。たいていイジメられるのは変に目立とうとしたり、空気が読めなかったりといった生徒だったからだ。だから、マサヒロは目立たず、人を深いにもさせず3年間を無事乗り切ろうと決めていた。もちろんこれもヒロとの話し合いの結果だった。
マサヒロの父親はマサヒロが小学校を卒業する年に祖父の病院を継いだ開業医で、母はそこの看護婦をしていた。父親はマサヒロが幼いころから「我が家は江戸時代から続く医者の家系で、医者になることが生まれたときから決まっているのだ。」と口癖のように語って聞かせていた。母もまた父親の考えには賛成のようで、父がその言葉を口にすると決まって、マサヒロを見つめうなずくのだった。だから、マサヒロが少しでも悪い成績を取れば烈火のごとく怒り狂い、マサヒロに暴力を振るった。母はただ、見てみぬフリをするだけだった。マサヒロがこれまで学校を欠席したのは8回だが、その全ての原因は父親の暴力にあった。あまりに酷く殴られすぎて、外に出られないような顔になってしまうのだった。良く近所のおばさん達には裕福で、賢い両親と優秀な息子と言われたが実際はそんな状況ではなかった。

中学3年の1学期の終業式の朝だった。
マサヒロはいつも通り朝食を食べ、家を出た。出掛けに母が今日もらう事になっている通知表がどうだというような事を言っていたが「言ってきます。」と何事も無かったかのように受け流し、幼馴染の瑞樹が待つ通学路の途中にある駐車場へと向かった。
瑞樹との待ち合わせは8時だったが、マサヒロはいつも通り7時55分に駐車場には着いていた。セミの鳴き声が狭い駐車場に盛大に響き渡り、真夏の太陽と空の青さ、街路樹として植えられている木々の緑がいつもより眩しかった。それは、明日から夏休みだという開放感と、クラスの人気者である瑞樹と今日もまた一緒に登校できる嬉しさがそう見せていたのかもしれない。
だが、今日は様子がおかしかった。駐車場の向かいにあるクリーニング店の壁にかかった時計の針が8時5分を過ぎても、瑞樹はやってこなかった。瑞樹は時間には正確な方だった。それに、もし遅れるにしても何の連絡も無いなどという事はこれまで一度も無かったのだ。
マサヒロは学校では禁止されているが、親に無理やり持たされている携帯を取り出し、メールをチェックする。センターにも問い合わせてみる。「新着メールなし」と表示される。
アドレス帳を開き携帯に登録された、瑞樹の番号を選び電話をしてみる。
すると、「プープー」と間のぬけた話中の音が聞こえてきた。
再び、時計を確認する。クリーニング店の時計の針は8時10分を指していた。確認の為携帯電話の時計も調べる。やはり8時10分だ。マサヒロはため息をついた。
「おいマサ?そろそろ行かないと遅刻しちまうぞ。」
ヒロの声がした。
「そうだね。でも、瑞樹どうしたんだろ?具合でも悪いのかな?」
「さあな?まぁ、人には連絡出来ない時もあるんじゃないか?もう、いこうぜ。」
その時、マサヒロはヒロがニヤリと笑ったように感じた。最近、マサヒロは前より身近にヒロを感じる事があった。これまでは、声しか聞こえなかったのが、まるで面と向かって話しているかのように表情が見えるような気がする事が多くなっていた。そういう時は決まってマサヒロもつられて同じ表情になっていた。
駐車場を出ようとした時だった。
「おい。マサ、見てみろよあの石。」
その声につられて足元の先三十cmのところに転がった小石が目にとまった。無数に敷き詰められた砂利の中でヒロの言う小石がマサヒロには何故かすぐにわかった。
「あの石がどうかしたの、ヒロ?」
そう尋ねるとヒロはいつに無く真剣な声で言った。
「あの石、あそこに転がっているのってかわいそうじゃじゃないか?拾ってくれよ。俺達で助けてやろう。」
そう言われ、マサヒロは一歩踏み出し、腰をかがめて、小石を拾い上げた。それは、なんの変哲も無い砂利の一つだった。手のひらにのせてよく見ても間違いなく見かけは普通の小石だった。ただ、何故かその時、マサヒロはヒロの言うとおりこの石はここにあってはいけないもののように感じた。見た目は他のものとなんら変わりないのだけれど、他ではなく自分にとって特別な感じがしたのだ。マサヒロはその石を制服のポケットに入れると駐車場を出た。その時もまた、ヒロがニヤリと笑ったような気がした。
いつもなら二人で歩く道を一人で歩いて学校に向かった。校門が見えてくる頃には小石の事など既にすっかり忘れていた。
校門の前にはいつも通り生徒会長をはじめ、生徒会のメンバーが立ち、「おはようございます。」と登校してきた生徒一人一人に大きな声をかけていた。
ただ、マサヒロが校門をくぐったときだけは様子が少し違っていた。同じクラスの生徒会長である須藤が一瞬マサヒロを見て、目をそらしたのだった。他の生徒会のメンバーが大声で挨拶をする中その行動はどこか違和感があった。
校門を抜け、校舎の下駄箱が並ぶ区画に入ったときだった。後ろから大きな声がした。
「あれぇ?結城君、今日は中川サンは一緒じゃ無いのかな?」
「もしかして、振られたのかな?」
「ご愁傷様。」
振り返ると、そこにはうちのクラスの悪がき3人、工藤、佐川、金山がニヤニヤと笑いながら立っていた。リーダー格の工藤は中川瑞樹に惚れているという噂がまことしやかにささやかれていた。そのせいなのかどうなのか、これまで露骨にいじめのような事は無かったが、何度か廊下ですれ違うときなどワザと肩をぶつけられたり、体育の時間サッカーで執拗な反則を受けた事もあったので、なるべく避けるようにしていた。
「おはよう、工藤君、佐川君、金山君。別に振られたとか、瑞樹とは、中川さんとはそんなんじゃなくて幼馴染で家が近いから一緒に登校してただけだから。」
何故、こんな言い訳をしなければいけないのかと思いながらも彼らに目を付けられると、今後の学校生活が面倒なので、正直に話した。
マサヒロが中川さんと、瑞樹のことを言いなおしたとき、工藤の顔は一瞬引きつって僕をにらんだが、すぐにニヤニヤと気色の悪い笑いへと戻った。マサヒロは上履きに履き替えると、後ろに立つ3人を無視して、足早に教室へと向かった。その時になって、校門で感じた違和感が少しずつ強くなってきた。廊下で何人かのクラスメートとすれ違ったのだが、皆一様にマサヒロから顔を背け足早に通り過ぎていった。マサヒロの心臓は教室が近づくにつれ、だんだんと早くなっていった。「そんなはずは無い。僕に限ってそんなはずは無い。」そう言い聞かせ、一歩ずつ進んでいった。三年A組の教室にたどり着き、扉に手をかけると一度深呼吸してから一気に引きあけた。その、先にはマサヒロの違和感が具体化した景色が広がっていた。それは、恐ろしく教室には不釣合いで、その光景が表す意味はマサヒロを否定していた。マサヒロは自然両手を強く握り締めていた。もう一度大きく深呼吸してから、マサヒロはその地獄へと一歩踏み出した。まるで、体がばらばらになったようなぎこちない、不確かな一歩だった。間違いなく目には映っているにもかかわらず、脳がどこかで否定したがっている。心臓が、自分のものではなく、まるで意思を持った生物が左胸で暴れまわっている感覚だった。
昨日までとなんら変わる事のない教室とクラスメートの中にあって一際異彩を放つい空間だった。教室の最前列、教卓の正面、間違いなくマサヒロの机だった。机の横にかかった手提げカバンだけが、その事実を示していた。
まるで、何万キロもの旅をしてきたかのように重い足を引きずり、なんとか自分の机にたどり着くと、イスを引き、どっかりと腰をおろした。目の前には、違和感の具現化したものがそびえたっていた。それは、机の上に置かれた花瓶とそこにつきたてられた白い菊の造花だった。目を背けるように教室中をゆっくり見回すとクラスメート達はいっせいに目をそらし、偶然視線が合ったものは、皆一様に哀れみの表情を浮かべうつむいていた。教室の隅に目をやると瑞樹がいた。助けを求めるように見つめると、瑞樹は声にならない声で「ごめん。でも・・・。」と呟き、皆と同様に下を向いた。
「あれぇ。おかしいな?結城正弘は昨日死んだんじゃなかったっけ?何でいるのかな?もしかして幽霊?俺にだけ見えるのかな?」
工藤の声が教室の入口から響いてきた。
「えっ?どこにいるの」
佐川の声が重なる。
「なんだ、見間違いか。びびったぜ。」
「脅かすなよ工藤。」
金山も続く。
他のクラスメートは話すのをやめ、皆うつむいていた。
皆、知っていたのだ。これが、工藤たちのいじめの合図だという事も、その新たな標的が僕だという事も。だから、瑞樹は今日、駐車場に現れなかったのだ。工藤たちのいじめの悲惨さは皆知っていた。本当に死者のように扱われ無視される。そして、庇った者もまた同じ仕打ちを受ける事も。マサヒロの体は真夏だというのに、がたがたと震えていた。歯の根が合わない。工藤やその仲間、そしてその他のクラスメートに震えているところを見られたくはなかった。だから、マサヒロはポケットに手を入れた。すると、右手にひんやりと冷たく硬いものに触れた。それは、朝拾った小石だった。その小石に触れた瞬間、ヒロの声が聞こえた。
「壊せ!壊せ!全部を壊せ。そして、突破しよう。俺達にならできる。ここにいるやつらを壊して、こいつを正しい場所に持っていくんだ。」
それは、これまでで最も力強いヒロの声だった。
マサヒロは小石を強く握り締めて呟いた。
「ちょっと待ってて。もうすぐあるべき場所に戻しにいくから。」
そう言って、立ち上がると花瓶を掴み、机に強く叩きつけた。バリンッ!と鋭い音と共に花瓶は半分に砕け散り鋭利な断面が教室の蛍光灯を反射していた。マサヒロは、半分になった花瓶を持ったまま、教室の入口に立ち、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべる、工藤たちのもとへと歩み寄った。
「何だよ?」
少しひるんだ工藤が精一杯つよがって、睨み付けてきた。
「なぜだ?なぜ僕なんだ?何が違う?皆と何が違う?」
「なぜだ?なぜ俺なんだ?何が違う?皆と何が違う?」
ヒロの声が重なる。
「気持ち悪いんだよ。こっちくんなよ。死人の癖によ!」
工藤は精一杯強がって、言ったのだが、正弘の異様にぎらついた目に圧倒されたのか完全に腰が引けていた。
「あぁぁぁ!」
正弘は叫び声をあげると、右手の花瓶を振り上げた。工藤は、頭を両腕で守るようにした格好のまましりもちをついて、そのまま床にへたり込んでしまった。それを見ていた佐川と金山はあまりの恐怖に固まってしまっていた。
正弘は勢い良く、花瓶を振り下ろした。
「やめろー。」
工藤の叫び声が聞こえた。しかし、振り下ろされた花瓶の先にあったのは正弘の左腕だった。花瓶の鋭い断面が正弘の左腕に突き刺さる。正弘はその花瓶を左腕から引き抜き、左腕を工藤の前に突き出した。
「見ろ工藤!僕、俺、僕、俺の血は何色だぁぁぁ!!答えろぉぉぉ!」
恐ろしい勢いで血の流れる左腕に圧倒されて、工藤は口をパクパクと振るわせるだけだった。
「俺が確かめてやるぅぅ。」
正弘はそういうと、再び花瓶を振り上げ、頭を守る工藤の腕に振り下ろした。
「ぎゃぁぁ。」
という工藤の悲鳴と共に工藤の腕からも赤い血が流れ出した。
「同じじゃないかぁ。」
そう言って、クラスメートのほうを振り向き、全体を見渡した。
「何が違うんだ?俺とお前ら、何が違うんだ。俺達は、お前らに合わせてきた。目立たないように、過ごしてきた。何が違う?答えろ?」
そう問いかけられた瑞樹は「ヒッ。」と声を発し腰を抜かしてしまった。
「俺はな、てめェが言うから、医者になるために勉強もした、部活も我慢した。何がきにくわない。何故俺を殴る。何故俺を助けなかった?気持ち悪いのはお前らだ。皆同じ服を着て、同じカバンを持って、同じ時間に登校して、同じほうを向いて、同じ時間に飯を食う。異常だろ、こっちのほうがよっぽど異常だろ?」
そういうと、正弘は自分と工藤の血が滴る花瓶を振り上げ、制服のカッターを切り刻んだ。
「マサヒロは良く我慢したよ。だが俺は違う。今日からは俺が俺でお前が影だ。わかったな。」
そういうと、正弘は教室を飛び出し、廊下を駆け抜けた。異常を聞きつけた教師が何かわめきながら制止しようと立ちふさがったが、あまりの形相に恐れをなし道を譲った。逃げ遅れた教師は花瓶の餌食になってしまい顔を抑え廊下に転がった。
そのまま走り抜け、校門を出ると偶然乗用車がやってくるのが見えた。正弘は飛び出し、タ乗用車の運転手は目を丸くして急ブレーキを踏み停車した。正弘は助手席の窓をノックした。運転手は何か怒鳴ろうとして血まみれの少年を見て何か言おうとしたが、その瞬間正弘のこぶしが窓に叩き込まれた。驚いた運転手は思わずドアロックを開けてしまった。正弘は助手席のドアを開け座り、言った。
「出せ。取りあえず出したらまっすぐ走れ。」
正弘の血まみれの体と異常なまでの殺気に気圧された運転手は驚愕の表情で見つめていたが、顔の前に血まみれの花瓶を出されると、慌てて思いっきりアクセルを踏み込み急発進した。
「俺は、急いでこいつを元の場所に返しに行かなくちゃならない。」
そう言って正弘は花瓶を左手に持ち替えて、右手であの石をつかみ出し、運転手に見せた。
「もっと急げ。前に車がいたらクラクションを鳴らせ。それでどかなければ、ぶつけろ。お前の代わりはいくらでもいる。俺とは違ってな。」
そういうヒロをマサヒロは脳みその中心から23ミリ左側から見ているしかなかった。正確にはマサヒロが見ていたのはまさしく正弘だった。

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『親鳥大学事件』

52110
 

酒留は公園のベンチに座っていた。
家と大学の間にある大きな公園。ハイキングコースがあるし,バーベキューもできる。森があって,川もある。休みの日には,きっと賑わうのだろう。酒留が知っているのは平日の午前と夕方の公園。人はまばらで,少し寂しい。
ここからは噴水が見える。水が流れている。なぜ僕はここにいるのだろう。何を待っているんだろう。
 目の前をコリーが横切った。犬はみるみるうちに公園の奥へと走っていく。ラッシー,と心の中でつぶやく。
「ラッシー」物静かな声で犬は呼ばれ,走るのをやめた。犬は耳もいいのか。酒留が視線を戻すと,目つきの悪い派手な男がゆっくりと歩いてくる。
「あぁ,松本じゃないか。こんなところでどうしたんだ?」
「…酒留」派手な男は酒留をちらりとみると立ち止まり,静かな声で言った。「散歩。犬の散歩だ。おまえこそこんなところで何をしている」
「僕?僕は……ほら,家が近いんだよ」松本はだめだ。…怖い。特に目。すべてを見透かすような目。酒留は松本から目をそらし,続ける。「公園はいいよね。花がある。木がある。あそこには噴水がある」酒留は正面の噴水を指差す。「流行のマイナスイオンだよ」
酒留がこわごわと松本を見ると,松本はもうこちらを見ていなかった。松本の前にはラッシーと呼ばれた犬がしっぽを振っておすわりをしている。松本がしゃがみこんで犬の首の辺りを撫でると変わった首輪が見えた。黄色地に赤いハートの首輪だ。
「ラッシーだ」松本が紹介してくれた。
「賢い犬だよね。ご主人の命令に忠実で,しかも嬉しそうだ。うん,名犬だよ。」酒留は犬を誉めた。誉めたつもりだったが,松本の表情は変わらない。
「それはわからない」松本は無表情に犬を撫でて言う。「こいつは今,俺に忠実だと見せかけているだけかもしれないだろう。俺はこいつをラッシーと呼ぶが,こいつはそうは呼ばれたくない。」松本と目が合う。酒留は深刻な顔で話を聞く。よくわからなかったが,松本が話をしているなんて珍しくて真剣な顔しかできなかった。松本の口元が緩んだ。「かもしれない。犬は話さないからな」
「でも,そこに信頼関係はあるんでしょ?」酒留は言う。「座りなよ」自分が座っているのに松本を立たせておくのはよくない気もしていた。
酒留との間を適度にあけて松本がベンチに座る。
「おまえはここで何をしていたんだ?」

 酒留は親鳥大学に通う大学生だ。アパートを借りて一人暮らしをしている。そのアパートから大学に行くまでには大きな公園がある。公園は広く,道は曲がっているので遠回りになるから,いつもは公園の横を通り過ぎて大学に向かう。しかし,その日は公園の中を通った。いつもより早く目が覚め,早く出発できたからだ。
 酒留は朝の公園を気分良く歩いていた。少し歩いていくと広場になった。広場の中央には噴水があり,そこから少し離れたところにベンチが二つある。そのうちの一つに座ってみた。なかなかいい。すると,酒留の来た方から女の子が一人,歩いてくる。酒留はそれとなく見る。近づいてくる。かわいい!ほんとかわいいよ!酒留は彼女に一目ぼれをした。彼女は酒留を気にせず歩いていった。行ってしまうと思ったが声もかけられず,酒留はただただ彼女を見送っていた。しかし,酒留は見た。彼女の背中にはギターと思われるものがあった。見るからに大学生。背中にはギター。きっと彼女は親鳥大のギター部だ。
 その日,酒留はギター部に入ろうとした。しかし,ギターを扱っているサークルは二つもあった。ギター・マンドリン部か軽音楽部。どちらにすべきか。彼女の名前はわからない。どちらにいるのかが全くわからない。どうせなら,こう,かっこいいほうにしようかな。キャーキャー言われたいよな。
酒留は軽音楽部に入った。

 松本は親鳥大学に通う大学生だ。幼い頃からギターを弾いている。バンドを組んでいて,このあたりではちょっと有名だ。軽音楽部には,一応入った。入るように頼まれたからだ。入ることも断ることも面倒で,だが,気がつけば入っているようだった。
 その日,松本は部室の前にいた。練習をするには狭すぎるこの部室には滅多に来ない。今回は中津に呼び出されていた。どうして呼ばれたのかはわからない。ただ,呼び出されたのが中津だったから,来た。中津は好きだ。
 ノックをして部屋に入る。中津がいる。もう一人,いる。なんだか落ち込んでいるようだ。振り返った。「松本!」なんだ。酒留か。
 酒留と初めて話したのは二年前,軽音楽部での打ち上げの時だった。やたらと酔っ払った酒留が松本に絡んできた。松本は目つきが悪い。そして何がという訳ではないが派手な男だ。存在しているだけで目立っている。そんな松本は,知らない人間に話しかけられることはあまりない。だから,よく覚えていた。それからも時々出会っては話すことがあった。
「なぜここに呼ばれたか」中津が言う。「予定表が出てない。出してくれないと予定が組めないんだ。松本,おまえのとこのバンドは結構忙しいだろ?」なんのことだ。「この前わざわざおまえに会いに行っただろ?予定表も渡したよな?」…あれか。あれは全員出すものだったのか。知らなかった。「酒留もだ」酒留は落ち込んでいるようだった。「すいません。ほんと申し訳ないです」
「いや,まぁいいよ。すぐに出してくれれば。」中津はそう言うと,酒留の表情は晴れた。単純な男だ。もう帰っていいのか,松本が考えていると酒留は中津に話しかけた。「それ,生協でいちおしの紅茶ですよね」中津は机の上に置いてあったパックの紅茶に手を伸ばした。「そうそう。いちおしのおいしさ。さらに一工夫すればもっとおいしいんだ」そのパックにはストローでなく銀色の何かがささっていた。
「凍らせる。夏でもずっと冷たくておいしい」「それ,凍ってるんですか?」「だからスプーンでこう,食べるのさ」パックの中から出てきたスプーンには茶色の氷がのっていた。松本は悩んだが,もう少しここにいることに決めた。どちらも嫌いではないから。「しかし,これは難しいんだ。冷凍時間が短いとすぐに溶けて冷たくなくなる。かといって長すぎると硬くてスプーンもささらない。いや,もう何もささらないぞ」「深いですねぇ」酒留はものすごく納得したようだ。そんな酒留を見た中津も満足そうだ。「深いんだ。だから松本もやってみろ。そして予定表を出してくれ。それだけが伝わればもう帰ってもいいよ」「それはきっとやらない。でも予定表はきっと出す」そういって松本は部屋を出た。予定表は出そう。

 酒留は軽音楽部に入った。弾くことはできないが,ギターも買った。かっこいいギターだ。そして,彼女を探した。情報は少ない。すごくかわいいこと。すぐには見つからなかった。何日も通い,探したが,見つからなかった。もう探すのは諦めようかと思った日,彼女を見つけた。
あれは探し続けた彼女だよ!どうしよう,なんて言おう!ここはやはりギターの話だよ。男酒留,いざ!
酒留は彼女に近づき声をかけた。「背中のそれ,ギターですよね。弾くんですか?」彼女は驚き,答えた。「あ…はい。」「僕もギター,弾くんですよ!いや,でもね,ほんとはまだはじめたばっかりで全然できないんですよ」酒留は彼女を見つけた嬉しさで話し続けた。「あ,僕軽音楽部に入ってるんですよ。あなたは何かに入ってるんですか?」
「メグミ!」困っている彼女を見た背の高い女の子が声をかけてきた。「マリちゃん」「待たせてごめん。行こうか」そう言うとさっさと彼女を連れて行ってしまった。
メグミちゃんか。名前までかわいいなぁ。
 酒留はあたりだった。メグミちゃんは軽音楽部だった。あのとき声をかけてきたマリも同じく軽音楽部でメグミちゃんの親友だった。軽音楽部員としてきちんと話すと,二人とも普通に話せた。マリには,あの時の酒留はなかったと言われてしまった。しかし,メグミちゃんは楽しそうな人のようで好印象だったと言ってくれた。優しい。
 その後,酒留は軽音楽部員として楽しく大学生活を送っていた。仲間はできたし,メグミちゃんはかわいい。メグミちゃんに会うためにサークルに出,そのためにギターも上達した。メグミちゃんとたくさん話をし,彼女のこともいろいろと知っていくようになった。知るほどにかわいいと思うようになった。

 その日,松本は部室にむかっていた。今日の授業は午後からだ。しかし,予定表を出すためにわざわざ午前中にやってきた。迷惑をかけてしまったからだ。中津に連絡はとっていない。いなければ置いておけばいい。中津は確か部長か何かだったから,いつかは見ることになるだろう。
 部室に着き,ノックをして扉を開けた。中には中津がいた。よかった。「持ってきてくれたのか?」松本は予定表を渡した。「遅くなってすまない」「いいよ。一度くらい遅れることもあるさ。何か理由でもあったのか?」「今回のは出さなくていいと思っていた」「そんなわけないだろ?」中津は笑ってパックの紅茶を手にとった。
「そうだった。今日はだめなんだよ」急に中津は落ち込んだ声を出した。
「今日は予定より大幅に寝過ごしたんだ。だからいい時間に出せなかったんだよ。ほら,こんなにカチンコチンになって」松本は何を言っているのか理解できなかった。
「この前言っただろ?凍らせる一工夫が大切だって。その時間が難しいって。わかってたのに失敗だよ」そういえば,聞いた。「長く凍らせるとスプーンがささらない」
「それだよ。見てみろ。」中津がスプーンをさして見せるが,凍った紅茶は削れもしなかった。
「一日は溶けない。のどが渇いた」中津は寂しそうに言った。
「今欲しいなら,凍った紅茶は諦めて生協に買いに行くしかない」松本は答えた。
「おまえは正しいよ。この予定表をどうにかできたら買いに行くよ」中津は笑った。
「また訂正があったら連絡くれよな」
松本は部室を出た。中津はおもしろいやつだ。

 酒留は大学でギターの練習をしていた。楽しく弾いていると,突然扉が開いた。入ってきたのはマリだった。「やっぱり酒留だ。よかった。一人?」マリは走ってきたのか,息があがっている。「一人でがんばってたとこだ。走ってきたの?」酒留は手を止めて答えた。「うん。調子よく弾いてたのに,ごめんね。今,いい?」「どうかしたの?」酒留はギターをおろした。「何かあったの?」
「メグミのことなんだけど」マリは近くにあったイスを引き寄せて酒留の前に座った。「酒留はメグミのこと好きでしょ?」「んーー!?なんだそれ?いや,メグミちゃんはかわいいよね!ほんと,かわいいよね!ほら,性格もほんといいよね!」「焦りすぎだよ。ごめん。メグミはいい子だよね。そんなステキなメグミが大変なことになってるみたいなんだ」「どういうこと?」焦っていた酒留だが,メグミのピンチと聞いてはそれどころではない。
「メグミ,空いてる時間を作ってはバイトしてるの知ってるよね」「うん。最近はギターの練習にも来てないみたいだし」
マリは「詳しいことはよくわかんないんだけど,メグミの家,お金のことで大変らしいんだ。メグミの家,小さな会社を経営してるんだけど,最近倒産したらしくって。借金がたくさんあるみたいなんだ」
酒留は驚いた。会社を経営していることは聞いたけれど,それがそんなことになっていたなんて。
「その借金なんだけど,お金を貸してくれてるのが長谷川の親らしいんだ。」「長谷川?」「軽音楽部にいるやつだよ!あの,いかにも金持ちそうなメガネの!」いかにも金持ちそうなのがどんなかはよくわからなかったが,酒留にも長谷川がわかった。確かすごくいいギターを持っていたはずだ。誰かが見にいったって話してたっけ。
「わかった。あのしましまのメガネのやつだ」「そう,しましまのメガネのやつ。あいつの親が貸してるわけだから,メグミの弱みを握ってることになるでしょ?あいつのいい噂なんて聞いたことがない。だからメグミが危ないんじゃないかと思って」
「どういうこと?」
「昨日メグミに電話したんだけど,今日長谷川に呼び出されてるらしいんだ。一緒に行くって言ったんだけど,大丈夫って言って聞かなくて。どこにいるのかもわかんないんだ」
「今日?どこかにメグミちゃんが…ピンチ…行こう」
酒留は走って部屋を出た。どこに行くか,見つけ出してどうするかもわからなかったが,探さずにはいられなかった。

 部室の前には人だかりができていた。さっきは部屋に中津が一人いただけなのに。
松本は午後の授業を終え,再び部室にやってきた。バンドの仲間から連絡が入った。予定に変更があった。今日でなくてもいいとは思ったが,今日わかったのだから今日でいいと考えた。遅くなると,また中津に迷惑をかけてしまう。
近寄ってみると部屋の中が見えた。誰かが倒れている。男。頭から血が流れている。彼を直接知っているわけではなかった。周りのやつらが口々に「長谷川」と言っている。きっと男は長谷川というのだろう。長谷川の頭の横にはパックの紅茶が倒れて中身がこぼれていた。きっと机の上にあったものが倒れたのだろう。何が起こったのか。どうしようかと思っていると,サイレンの音が聞こえてきた。近づいてくるようだ。きっと誰かが呼んだのだろう。人だかりの中に中津はいない。もう帰ったのだろうか。
よくわからないが,予定の変更は伝えられないようだ。

酒留は走った。思い当たる場所を考えた。学内で人がいない場所。自分が行かない場所。部室はどうか。可能性は高い。部室に向かうことにした。
部室に着いて扉を開けた。そこにはメグミちゃんがいた。長谷川もいた。長谷川はメグミちゃんに詰め寄っていた。見ると,メグミちゃんは泣いていた。
「メグミちゃんから離れろ」酒留は言った。
「何だ,お前は。メグミはオレのものだ。関係のないやつは出ていってもらおうか」長谷川は答えた。
「早く離れろ。さあ!」
「わかった。話をしてやろう」長谷川はメグミちゃんの前から離れ,こちらを向いた。
「部屋を出るんだ」酒留はメグミちゃんに言った。「大丈夫だから,早く」
メグミちゃんは酒留を見つめ,そして部屋を出て行った。
「さて,どうしてほしいんだ?」長谷川は今度は酒留に詰め寄ってきた。
「メグミちゃんに近寄るな」
「なんだそれは。そんなこと言ってお前はメグミのことが好きなんだろ?ここでオレをどうにかしてメグミに貸しをつくるんだ。なぁ,そうだろ?メグミが目的なんだろ?」
「うるさい!」酒留は辺りを見回した。紅茶のパックが二つ。その内の一つをつかみ,
中から凍った紅茶を取り出した。それを持って,勢いよく長谷川を殴りつけた。

「おまえはここで何をしていたんだ?」
なんと答えていいのかわからなかった。家が近くで,公園が好きで,だからここに座っているということでは納得してもらえないのだろうか。
「悩んでいる。そう見える」松本は言った。僕は悩んでいるのか。松本が言うなら,きっと僕は悩んでいるのだろう。
「長谷川という男」松本は静かに言う。
ラッシーが松本の側を離れて近づいてくる。僕に向かって吠えた。
「おまえなのか?」

松本は困惑した。酒留は好きだ。松本が好きになる人間はそう多くはない。それなのに,ラッシーは吠えた。酒留が,長谷川を殺した。
あの後,松本は家に帰った。ラッシーを撫でていると,ふと部室の様子が浮かんだ。中津の凍らせたパックの紅茶がなかった。倒れていたほうは凍っていなかった。あれは中津がもう一度買いにいったものだろう。でなければ誰かが持ってきたのだろう。中津に電話をし,予定の変更を伝えた。そして,いつ帰ったのかを聞いた。中津はあの後,やはり紅茶を買いに行ったようだ。そして,それを飲みながら部室で予定を組んだ。昼ごろには完成し,さっさと帰った。しかし,うっかりどちらの紅茶も置いてきてしまったらしい。
「あそこには中津の紅茶があったはずだ。俺はあそこに行った。あの紅茶は凍っていて,ちょっとくらいじゃ溶けない」酒留はラッシーから視線をはずし,噴水を見つめていた。
「凍ったほうはなくなっていた。もう一つの紅茶を倒したんだろう。後で何で殴ったかがわからないように,同じものをこぼした」酒留は噴水を見つめたままだ。
「凶器は溶けてもうない。俺は詳しいことはわからない。ただ,ラッシーが吠えたことを信じているだけだ。なんの証拠にもならない。おまえは何を考えている」
酒留はラッシーを見た。そしてまた噴水に目をやった。
「僕は何をしたんだろう。」
松本は何も言わずに酒留の言葉を待った。
「あの後僕は中身の紅茶を捨てたんだ。水に捨てれば溶けて消えてしまうから。公園の小さな川。あの男は死んでしまったのかな。」
「わからない。救急車が来ていたからもしかしたら助かっているかもしれない。でもあれだけ血が出ていて,動かなかった。わからない。」
「僕はあれで男を殴った。そうしたら倒れて,血が出てきたんだ。」松本は噴水を眺めていた。
「このまま黙っていればばれないのかな。警察は僕を見つけ出すのかな」
「ばれないかもしれない。凶器も見つからない。でも,やったのは確かにおまえだ。おまえは長谷川を殴った。その事実は変わらない。おまえはそれだけのことをした。罪を背負い続ける気なのか」
酒留は松本を見た。松本は酒留のすべてを見透かすように見つめた。
「罪は償え」
酒留は少し笑って松本を見た。
「僕はそう言われるのを待っていたのかな」
酒留はすっと立ち上がり,歩いていった。

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