大阪教育大学 国語教育講座 野浪研究室 ←戻る counter

平成24年度 卒業論文

研究題目名
「後味の悪さ」を生み出す文章の表現特性

大阪教育大学 教育学部
小学校教員養成課程人文社会系国語専攻
国語表現ゼミナール
学籍番号 092479 森川風太
指導教官 野浪正隆先生

目次

はじめに
第1章 研究対象
 第1節 「後味が悪い」という現象についての考察
  第1項 「後味が悪い」という現象の性質
  第2項 「後味の悪さ」を生み出す要素
 第2節 プロットについて
 第3節 『思いがけない話』、『恐ろしい話』の性格
第2章 作品分析にあたって
第3章 研究結果
 第1節 各作品の分析結果
  第1項 「後味が悪い」と判断した作品群の分析
  第2項 「後味が良い」と判断した作品群の分析
  第3項 「どちらとも判断できない」作品群の分析
結び まとめと今後の課題
 第1節 「後味の悪い」作品の表現特性
 第2節 今後の課題
おわりに
参考文献と作品資料

はじめに

 私は、読者が小説作品を読了した後に抱く読後感を生じさせる文章表現上の特性についての研究を行なう。その中でも今回は「後味が悪い」という感想を抱かせる小説作品、その表現特性について研究する。
 世界には数えきれない程の小説が存在している。小説は、それを読む人間に何らかの感動や興奮を与える。
 小説の中には、読了後の読者に恐怖や不可解さを抱かせるような作品も存在する。そのような小説は、読了後の読者が何らかの不満足な心理状態に陥る読後感の悪い小説だといえる。極端に言い換えると、読んだことを後悔するような小説作品である。このような小説が読者に与える不満足感には、恐怖や不可解さ以外にも、悲しみややり切れなさといった様々な負の感情が含まれる。
 読後感が悪いということは、作品のマイナス要素のようにも思える。しかし、そのような小説は実際に古今東西、多種多様に存在している。更に、そのような小説の中には、読後感が悪くなるように、作者が意図的な仕掛けをしている作品も多い。恐怖や不可解さそのものを、作品の魅力にしている怪談や怪奇小説などはその代表格とも言える。直接的に恐怖を喚起させる小説以外にも、読後感の悪い小説は数多く存在している。
 今回の研究では、読後感の悪い、不満足感を生み出す小説作品を、「後味の悪い」作品と呼ぶことにする。そして、その「後味の悪さ」がどのように生まれるのかを明らかにしていく。
 ただし、読後感とは、個人の「感想」、「感覚」、「感じ」であるので、その発生や影響の大きさは、基本的には読者の側の問題である。「後味の悪さ」という、読者の不満足感も様々な要素から生み出されるが、その要素は読者自身の能力や心情に関係しているものが多い。しかし、作者側に関係している要素も、「後味の悪さ」を生み出す要素として重要である。上でも述べたような、「後味が悪く」なるような意図的な仕掛けは、作者側の要素だといえる。作者の意図や仕掛けに関しては、作品の文章表現を分析することで推測できる。今回の研究では、「後味の悪さ」を生み出す小説作品の表現特性を明らかにする。

第1章 研究対象

 第1節 「後味が悪い」という現象についての考察

  第1項 「後味が悪い」という現象の性質

 この項では、今回の研究で対象とする「後味が悪い」という現象を考察して、「後味が悪い」という現象の性質を明らかにする。

 まず、「後味」という言葉は、辞書で調べると以下の意味が出てくる。

あと‐あじ 〔‐あぢ〕 【後味】
1 飲食のあと、口の中に残る味。あとくち。
2 物事が済んだあとに残る感じや気分。「事件は解決したが、―が悪い」
(「デジタル大辞泉」http://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E5%91%B3、小学館。)

 辞書に示された意味の中で、「後味が悪い」の「後味」は、「2 物事が済んだあとに残る感じや気分。」に該当する。ここから、読書における「後味が悪い」状態とは読者の読後の心理状態、つまり読後感であることが分かる。
 また、「悪い」という言葉は、辞書で調べると以下の意味が出てくる。

わる・い 【悪い】
[形][文]わる・し[ク]
1 人の行動・性質や事物の状態などが水準より劣っているさま。
質が低い。下等である。「成績が―・い」「画質の―・いテレビ」⇔よい。
能力が劣っている。下手である。「方向感覚が―・い」「やり方が―・い」⇔よい。
美的な面で劣っている。醜い。「スタイルが―・い」「眺めが―・い」⇔よい。
正常・良好な状態でない。すぐれない。「体調が―・い」「胃が―・い」⇔よい。
地位や身分が低い。また、社会的にしっかりしていない。「―・い家庭環境」⇔よい。
経済的に衰えている。貧乏である。「景気が―・い」「金回りが―・い」⇔よい。
利益の面で劣っている。損である。不利である。「―・い役割」「利率が―・い」⇔よい。
好ましくない効果やよくない結果をもたらすさま。逆効果である。「手助けしたのが、かえって―・かった」⇔よい。
ふさわしくない。不向きである。不適当である。「―・い所で―・い人に会ってしまった」「間(ま)が―・い」⇔よい。
2 人の行動・性質や事物の状態が、正邪・当否の判断基準に達していないさま。
正しくない。不当である。善でない。「心がけが―・い」「人を―・く言う」⇔よい。
不親切である。やさしくない。「客扱いが―・い」「心の配り方が―・い」⇔よい。
人と人との間が円満でない。「兄弟仲が―・い」⇔よい。
不足している。万全でない。「整理が―・いから、すぐ物をなくす」⇔よい。
3 不吉である。縁起がよくない。めでたくない。「結婚式には日が―・い」「占いが―・い」⇔よい。
4 (多く「悪くなる」の形で)食べ物が傷んでいる。食べられないほど鮮度が落ちている。「弁当の魚が―・くなっている」
5 謝罪・感謝の意を表す語。申し訳ない。すまない。「心配をかけて、―・いね」「―・いけれど先に帰るよ」「―・い―・い。こんど埋め合わせします」
6 名詞に付いて、不快な気持ちを表す形容詞をつくる。「気味―・い」「気色(きしょく)―・い」
(「デジタル大辞泉」http://kotobank.jp/word/%E6%82%AA%E3%81%84、小学館。)

 辞書に示された意味の中で、「後味が悪い」の「悪い」は、「6.名詞に付いて、不快な気持ちを表す形容詞をつくる。」に該当する。ここから、「後味が悪い」という読後感は、読後に何らかの不満足感を味わっていることが分かる。
 読後とは、読者が何らかの文章を読み終えた後の状態を示す。今回の研究でいえば、小説作品を結末まで読み切った後、ということになる。では、小説作品を結末まで読み切った読者とは、どのような存在だろうか。
 一般的な読書行為を想定すると、読者は小説を読む前に、小説の存在を知る、実際に本を(または、テキストデータを)手に取る、あらすじを確認するといった行為を行なう。これらの行為で得られる情報から、読者は小説の内容を予想する。そして、自分の好みや目的に沿った小説であると判断すれば、読書意欲が湧き、その本を読む。
 読書中には、登場人物の動きや心情変化、物語の展開などからその都度影響をうける。読書前の予想や予測も様々に変化していく。読書中にも、何らかの満足感や不満足感といった心理は生じる。不満足感は読書行為を中断させる力になるが、継続させる力にもなる。不満足感は、それが解消されることへの期待感を生み出し、読書を継続させる力となる。
 読了後には、それまでに立てていた予想や予測と、実際の作品内容との差がはっきりと分かる。読後の読者は、第一に作品内容(物語や登場人物、また、それぞれの因果関係など)について、一定の理解をしている。ここで大事なのは作品理解が作品内容全体に及んでいる点である。探偵小説であれば、事件の発生や背景から解決に至るまでの、全ての(作品内に書かれた)出来事を読者は既に知っている。読後の時点では、作品内に書かれた全ての情報を読者は知り得ているわけである。また、それぞれの情報の関係性についても理解している。探偵小説ならば、作中に存在する様々な手がかりがから、探偵が如何にして事件を解決まで導いたかという、諸処の因果関係を理解しているということになる(ただし、読者各々の心理状態や記憶力、理解力の差に応じて、作品理解には読者各々で差がある)。そして、作品理解に応じた感動や興奮、恐怖、悲しみなどの読後感が生じる。最後に、作品理解や読後感から、作品への評価や態度が決まる。
 作品理解と読後感の関係性に注目すると、読後感は、基本的には作品理解の後の反応として生じている。だが、読後感が作品理解を促すこともあり得る。読者は、自分の作品理解そのものに物足りなさを感じれば、作品本文を読み返したり、作品内容を考察したりして、作品理解を深めようとする。探偵小説であれば、犯人の犯行動機を上手く理解できない時に、作品を読み返すことで、犯人の人間性や行動原理などの登場人物理解が深まることになる。そして、作品理解が変化すれば、読後感もその影響を受けて変化していく。更に、その読後感に影響されて、再度作品理解が促される。このように、作品理解と読後感は相互に影響し合い、変化し続けていく。
 一般的には、読後の読者は以上のような存在だと考えられる。

 では、読者は読後の不満足感をどのようにして得るのか。(ただし、読後に満足感のみ、もしくは不満足感のみを得るような小説作品は非常に稀である。実際は、不満足感が満足感を大きく上回った状態である。)

 読者の求める要素(例えば、爽快さや作品の完成度など読者各々で違う)と作品内容が上手く合致している場合には満足感が得られる。
 読者が作品内容に爽快さを求める場合、例えば探偵小説ならば、物語内で犯人が判明する前にその正体を推測し、その推測が当たった時には爽快さが得られる。つまりは、満足感が得られる。作品の完成度の完成度を求める場合は、作品内の伏線が読了時までに上手く機能していれば、満足感が得られる。
 読者の求める要素と作品内容が合致していない場合でも、必ずしも満足感が得られないわけでは無い。作品内容が読者の予想や予測から外れる意外性はプラスの要因になり得る。探偵小説を例にとると、プロットが巧みであれば、作品中盤では伏線を目立たせずに、重要な情報を読者の目から隠すことが出来る。その結果、読者は犯人を間違えて推測するかもしれない。推測した犯人が間違っていた場合、その点に関して読者は不満足な状態になる。しかし、終盤で伏線が上手く機能し、読者の推測以上に納得のいく犯人が設定されていれば、作品内容への満足感を得ることもある。
 以下の引用する大岡昇平氏の言葉からもプロットと満足感の関係性が伺える。

ストオリーは時間の順序に從つて、興味ある事件を物語るだけだが、プロットは物語の順序を、豫め「仕組む」ことを意味します。重大な事件は物語の始まる前に起つていて、或いは最後の章で判明する場合もあります。出來事のすべてを物語るわけではなく、結末に豫定されている事件に、關聯のあるものだけを書く。最後の章に到つて、それらの「伏線」が一つの結末に向つて統一されているのを知つて、讀者は一種の滿足感を味わうのです。
(大岡昇平『現代小説作法』文芸春秋新社、1962年、p.51。)

 この引用でも、作品内のすべての出来事に意味があり、伏線が結末で収束するような作品、つまりはプロットの巧みな作品は、読者を満足させると述べられている。
 実際には、読者が小説作品に求める要素は一つとは限らない。求める要素が複数ある場合、何を優先的に求めるかは読者次第である。
 以上のことから、読者は、自らの求める要素を多く含む作品では満足感が得られ、反対に、自らの求める要素をあまり含まない作品では不満足感を得るといえる。
 また、読者が作品内容に求めない要素もある。例えば、グロテスクなものが苦手な読者は、人体破壊などの残酷な場面の描写があるだけで作品内容に不満足感を得る。ここから、読者は、自らの求めない要素を多く含む作品では不満足感を得るといえる。ただし、読者の求めない要素あまり含まない作品では不満足感が得られないだけであり、満足感を得られるわけではない。
 ここまでに述べてきたことから「後味が悪い」という現象の性質は、

「読者が求めている要素が少ない、もしくは求めていない要素を多く持つ小説作品の読後感」

だと仮定できる。ただし、先にも述べように、読者の求める要素、求めない要素は、読者によって異なることに注意しなければならない。この仮定から、「後味の悪い」作品は、「各読者が求めている要素が少ない、もしくは求めていない要素を多く持つ小説作品」と設定できる。この中の「各読者が求めている要素」と「求めていない要素」こそが、「後味の悪さ」を生み出す要素にあたる部分である。次項では、「後味が悪い」という読後感を生み出す要素について考察していく。

  第2項 「後味の悪さ」を生み出す要素

 「後味が悪い」という読後感を生み出す要素は、作者側に関係する要素と読者側に関係する要素の二つに大別できる。
 まず、作者側に関係する要素は、描写や文章の構成、文体など、小説作品を書く際に用いられた方法で、実際に書かれている文章全てが要素になる。
 小説は、それを読む人間に何らかの影響を与える。作者は文章表現上の仕組み(構成の順序や描写の方法など)を用いて小説作品を作り上げる。そこには様々な思いや意図が込められる。しかしながら、読者が小説を読む時に、作者から届くのは書かれた文章だけである。読者は小説の文章だけを頼りにして、作者が伝えようとする思いや意図を読み取るしかない。実際には、読者が作者の思いや意図を読み取れないことも多いが、これは読者の能力と関わる。
 小説作品に文章表現上の仕組みが存在する点に注目する。文章表現上の仕組みに関しては、作品の文章表現を分析することで推測できる。今回の研究では、「後味が悪い」作品を分析し、「後味が悪い」作品に共通する文章表現上の仕組み(表現特性)を見つけ出す。ただし、文章表現上の仕組み全てを対象として研究を行なうのは非常に難しい。そこで、今回は小説作品のプロットを中心に研究を進めていく。プロットについては次節でまとめる。
 また、作者の要素の中には、作者の力量も含まれる。作者の力量不足によって、作者の意図とは関係なく「後味が悪く」なるような作品も存在している。ただし、これらの要素は、文章表現上の仕組みに含まれないので今回の研究では対象としない。

 次に、読者側に関係する要素の代表として、読者の性格(主に好み)と能力がある。
 読者は、小説作品に描かれる内容(題材や話題、主題、舞台、時代、登場人物の性格や容姿など)について各々の好みを持っている。例えば、学校を舞台にしている作品ならば、話題や主題に関係なく、その作品を好むという読者も珍しくない。これらは、作品内容についての好みである。他にも文体や構成など文章表現の技法についての好みや、作家や雑誌など作品外部の事柄についての好みなどもある。その読者の好みに合わない小説作品は「後味が悪い」と判断される。
 読者の性格に関連したもので、倫理観の問題もある。作品内容が倫理的に許されざる内容であれば、「後味が悪く」なる可能性は高くなるだろう。ただし、倫理観自体が、読者の生きる時代や環境に影響されるので、今の時代の倫理から外れている作品だとしても必ず「後味が悪く」なるとは言い切れない。
 もう一つ、読者に関係する要素として代表的なのは、読者の能力である。例えば、伏線を記憶する力(記憶力)や出来事の因果関係を考える力(思考力)、などが挙げられる。これは作者側の要素とも関わってくる。作者がどれほど作為をこらして感動的な小説作品を書き上げたとしても、読者がその内容を読み取れなければ、読者が感動することはない。小説作品は読者の読み取り方次第で、作品内容への反応が全く変わってしまう。
 ここまで、「後味を悪く」する要素について考察してきたが、読者側に関係する要素は、読者各々に個人差があり、同じ小説作品を読んだとしても一致することはない。既に述べたように、今回の研究では、作者が意図して仕掛けた文章表現上の仕組みに注目し、その中でもプロットに焦点を当てて研究を進めていく。

 第2節 プロットについて

 この項では、プロットについて先行研究を参照しながら、まとめていく。

 プロットは普通「筋」と訳される。「筋」という言葉を辞書で調べると以下の意味が出てくる。

すじ 〔すぢ〕 【筋/▽条】
[名]
1 筋肉。また、その線維。「肩の―が凝る」
2 筋肉を骨に付着させている組織。腱(けん)。「足の―を切る」
3 皮膚の表面に浮き上がってみえる血管。「―の浮き出た手」「額に―を立てて怒る」
4 植物などの繊維。「―のかたい野菜」
5 細長く、ひと続きになっているもの。線。「まっすぐに―を引く」
6 縞模様。「赤い―のある布地」
7 家系。家柄。「貴族の―を引く」
8 学問や芸術の流儀。流派。「彼の絵は狩野派の―だ」
9 素質。たち。「芸の―がいい」
10 物事の道理。すじみち。「―の通った話」
11 小説や演劇などの、大体の内容。梗概(こうがい)。「芝居の―」
12 そのことに関係のある方面。「確かな―からの情報」「消息―」
13 依頼したい事柄。おもむき。「お願いの―があって参上いたしました」
14 道路や川に沿った所。「街道―」「利根川―」
15 囲碁・将棋で、本筋とされている打ち方・指し方。
16 将棋で、盤面の縦9列のそれぞれをいう。
17 身分。地位。「めでたきにても、ただ人の―は、何の珍しさにか思ひ給へかけむ」〈源・少女〉
18 「すじかまぼこ」の略。
[接尾]助数詞。
1 細長いものを数えるのに用いる。「帯をひと―」「ふた―の道」
2 江戸時代、銭(ぜに)100文を数えるのに用いる。「銭さし一―」
(「デジタル大辞泉」」http://kotobank.jp/word/%E7%AD%8B、小学館。)

 辞書に示された意味の中で、小説作品に対して用いられる「筋」の意味は、「11 小説や演劇などの、大体の内容。梗概(こうがい)。」に該当する。ここでは、プロットは作品内容の要約という意味で用いられ、作品内容として捉えられている。

 しかし、以下の引用ではプロットを作品内容以上のものとして捉えている。

 プロットは普通「筋」と譯され、ストオリーと混同され勝ちですが、實ははつきりした區別があります。
 plotは英語で、フランス語ならアントリーグintrigue'「計略」「陰謀」が第一義で、「校長排斥のプロットがあつた」という風に使われます。從つて「筋立て」とか「仕組」と譯す方が適切なのです。
(大岡昇平『現代小説作法』文芸春秋新社、1962年、p.51。)

 大岡氏は、小説作品について用いられるプロットの意味は「筋立て」や「仕組み」と考えるのが適切だと述べている。ここから、プロットが作品内容以上に文章表現上の仕掛みとして捉えられていることがわかる。
 更に、大岡氏は以下のように述べる。

ストオリーは時間の順序に從つて、興味ある事件を物語るだけだが、プロットは物語の順序を、豫め「仕組む」ことを意味します。重大な事件は物語の始まる前に起つていて、或いは最後の章で判明する場合もあります。出來事のすべてを物語るわけではなく、結末に豫定されている事件に、關聯のあるものだけを書く。
(大岡昇平『現代小説作法』文芸春秋新社、1962年、p.51。)

 ここでは、プロットに含まれる文章表現上の仕組みの内、作品中の出来事(事件)を物語る順序とどのような出来事を書くか、について触れられている。小説作品では、出来事の時間経過に縛られることなく、その順序や記述する量については自由に操作できる。これはつまり「構成」のことを指している。
 小説作品の「構成」については、土部氏の以下の引用を参考にする。

 構成は、主題の展開過程のしくみである。(一)主題の展開に必要で有効な題材(人物・環境・事件)だけが、選択され、関連づけられなければならない。そして、(二)主題を展開するのに効果的であるように、配列されなければならない。そしてさらに、(三)主題の展開に効果的であるように、「視点」が設定されなければならない。
(土部弘「プロットの種類と立て方」
平井昌夫(編)『文章上達法』所収、至文堂、1976年、p.70。)

 ここでは、小説作品の「構成」は、「題材」、「配列」、「視点」によって仕組まれていると述べられている。これらの諸要素の関係性については、E.M.フォースターが端的にまとめている。

プロットもストーリーと同じく、時間の進行に従って事件や出来事を語ったものですが、ただし、プロットは、それらの事件や出来事の因果関係に重点がおかれます。
(E.M.フォースター/中野康司(訳)『小説の諸相<E.M.フォースター著作集8>』みすず書房、1994年、p.129。)

 フォースターは、プロットでは出来事の因果関係を重要視すると述べている。ここでは、「題材」(出来事)についてしか触れられていないが、「配列」や「視点」も因果関係によって結ばれていると考えられる。
 以上のことから、小説作品におけるプロットについてまとめてみる。

 小説作品におけるプロットは文章表現上の仕組みにおける「構成」のことである。プロットでは、何を書くのか(「題材」)ということと、どのくらいの文量をどこに書くのか(「配列」)、そして、それら(「題材」と「配列」)を誰が見て、考え、語るのか(「視点」)、ということが問題になる。また、プロットでは、これらの諸要素が因果関係によって結ばれる。


最後に、この第1節と第2節で行なってきた考察から、「後味の悪さ」が生じる表現特性について、以下の予想を立てた。

<1>「後味の悪さ」は作品内容全編を読了した後の読後感なので、結末部に配置される出来事が大きな影響を与える。特に、結末部に配置された出来事の結果が示されない作品は「後味が悪い」のではないか。
<2>作品中の要素のうち機能しないもの、つまりは、因果関係の不明な要素が存在する作品は「後味が悪い」のではないか。

これらの予想についても作品分析の結果、検証する。

 第3節 『思いがけない話』、『恐ろしい話』の性格

 本研究では、『思いがけない話』と『恐ろしい話』の二冊の本に収録された作品を研究資料とする。対象作品数は、四十二作品(『思いがけない話』十九作品、『恐ろしい話』二十三作品)。ただし、今回の研究対象は小説作品なので、巻頭に収録されている詩は研究対象から除外した。
 作品名は以下の通り。順番は初出年代順。

(01)「貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」 スウィフト/深町弘三(訳)、1729年。
(02)「ロカルノの女乞食」 クライスト/種村季弘(訳)、1810年。
(03)「盗賊の花むこ」 グリム/池内紀(訳)、1812年。
(04)「砂男」 ホフマン/種村季弘(訳)、1815年。
(05)「外套」 ゴーゴリ/平井肇(訳)、1840年。
(06)「『お前が犯人だ』」 ポー/丸谷才一(訳)、1844年。
(07)「緑の物怪」 ネルヴァル/渡辺一夫(訳)、1849年。
(08)「信号手」 ディケンズ/小池滋(訳)、1866年。
(09)「断頭台の秘密」 ヴィリエ・ド・リラダン/渡辺一夫(訳)、1883年。
(10)「ひも」 モーパッサン/杉捷夫(訳)、1883年。
(11)「くびかざり」 モーパッサン/杉捷夫(訳)、1884年。
(12)「親切な恋人」 A・アレー/山田稔(訳)、1885年。
(13)「煙草の害について」 チェーホフ/米川正夫(訳)、1886年。
(14)「ごくつぶし」 ミルボー/河盛好蔵(訳)、1886年。
(15)「人間と蛇」 ビアス/西川正身(訳)、1891年。
(16)「バッソンピエール元帥の回想記から」 ホフマンスタール/大山定一(訳)、1900年。
(17)「エスコリエ夫人の異常な冒険」 P・ルイス/小松清(訳)、1903年。
(18)「改心」 O・ヘンリー/大津栄一郎(訳)、1909年。
(19)「アムステルダムの水夫」 アポリネール/堀口大学(訳)、1910年。
(20)「詩人のナプキン」 アポリネール/堀口大学(訳)、1910年。
(21)「剃刀」 志賀直哉、1910年。
(22)「あけたままの窓」 サキ/中西秀夫(訳)、1914年。
(23)「三浦右衛門の最後」 菊池寛、1916年。
(24)「罪のあがない」 サキ/中西秀夫(訳)、1919年。
(25)「魔術」 芥川龍之介、1919年。
(26)「蠅」 ピランデルロ/山口清(訳)、1923年。
(27)「頭蓋骨に描かれた絵」 ボンテンペルリ/下位英一(訳)、1925年。
(28)「利根の渡」 岡本綺堂、1925年。
(29)「剣を鍛える話」 魯迅/竹内好(訳)、1927年。
(30)「竈の中の顔」 田中貢太郎、1928年。
(31)「死後の恋」 夢野久作、1928年。
(32)「バケツと綱」 T・F・ポイス/龍口直太郎(訳)、1929年。
(33)「押絵と旅する男」 江戸川乱歩、1929年。
(34)「網膜脈視症」 木々高太郎、1934年。
(35)「仇討三態」 菊池寛、1936年。
(36)「湖畔」 久生十蘭、1937年。
(37)「雪たたき」 幸田露伴、1939年。
(38)「マウントドレイゴ卿の死」 モーム/田中西二郎(訳)、1939年。
(39)「爪」 アイリッシュ/阿部主計(訳)、1941年。
(40)「ひかりごけ」 武田泰淳、1954年。
(41)「蛇含草」 桂三木助(演)/飯島友治(編)、1963年。
(42)「嫉妬」 F・ブウテ/堀口大学(訳)、初出年不明。

 『思いがけない話』と『恐ろしい話』は、どちらも「ちくま文学の森」という筑摩書房が刊行した文学選集のシリーズに含まれる。「ちくま文学の森」とは、筑摩書房が一九九八年二月から一九八九年四月の間に刊行したテーマ毎に分類された文学選集である。全十五巻と別巻一冊が出版された。この選集は、テーマに沿う作品であれば、小説からエッセイや落語まで、文字で書かれたあらゆる作品を収録している点が特徴である。『思いがけない話』と『恐ろしい話』は、それぞれ選集の第六巻と第七巻にあたる。

 本研究で『思いがけない話』と『恐ろしい話』の二冊を研究資料とした理由について。
 まず、作者や作品への先入観を可能な限り減らし、作品以外に読後感に影響を与える要素を減らす為には、未読の作品が望ましかった。また、極端に文章の質が低い事によって読後に不満足な状態になるのを避けるために、一定の評価を得た作品が収録されている『文学の森』シリーズを選択した。
 そして、シリーズの中から「後味が悪い」という研究目的に沿った、テーマの巻を選択した。『思いがけない話』はプロット変化が大きくなり易く、プロット変化を分かり易く示すことが出来るのではないかと予想して選択した。『恐ろしい話』は「後味の悪い」作品が多く収録されていると予想して選択した。

第2章 作品分析にあたって

 今回の研究で、どのように作品資料の文章表現を分析していくかについて説明する。
 研究の流れとしては、まず私自身が研究対象の作品を読み、その読後感を「後味が悪い」か「後味が良い」で判別する。その後、作品を複数の項目に沿って分析し、「後味が悪い」作品、「後味が良い」作品、「どちらとも判断できない」作品それぞれの特徴を書き出す。以上の、分析から明らかになった表現特性を最後に述べる。
 作品の分析項目は以下の通りである

<プロット>
 作品内容のプロットを書き出す。そして、読後感にどのように影響しているかを考察する。また、各作品のプロットを比較することで、共通点を見つけ出しグループ化する。
 作品内で主人公の心理変化が最大である出来事を《事件》とする。作品内の出来事の分析が、プロット分析につながることについて、ジョナサン・カラーは以下のように述べている。

プロットとは読者がテクストから推測するしかない何かであり、このプロットの材料となる基本的な出来事にしても、読者が推測したり構築したりするものである。プロットに組み込まれた出来事について語るとは、そのプロットの意義と構造に光をあてることに他ならない。
(ジョナサン・カラー/荒木映子(訳)/富山太佳夫(訳)『1冊で分かる 文学理論』岩波書店、2003年、p.127。)

 以上の見解にならって、《事件》を中心としたプロット書き出す。

<主題>、<話題>、<題材>
 プロットから推測できる題材、話題、主題を示す。
 ここで示す題材は、作品の中で主題に関わる要素を示し、小説作品の構成要素の一つである「題材」とは区別する。例えば、「詩人のナプキン」では、ナプキンや病気の感染が題材にあたる。
 話題は、作品内容を出来事やエピソードのレベルで要約したものである。
主題は、任意の話題に作者の趣意を付け加えたものである。主題は、基本的に読者が自由に読み取れるが、ここでは題材と話題から推測できるものだけを示す。

 今回の研究では、海外の翻訳作品も対象とする。外国の作品を日本語訳する場合、内容は同じでも表現が大きく変わることがある。ここで、ジョナサン・カラーの見解を紹介する。

物語の理論は、特定の言語ないし表現媒体とは別に存在する構造のレベルを--一般的に「プロット」と呼ばれるものを--前提としている。翻訳すると大切な部分が失われてしまう詩と違って、プロットの方は、ある言語、媒体から別の言語、媒体に翻訳されても、失われないですむ。
(ジョナサン・カラー/荒木映子(訳)/富山太佳夫(訳)『1冊で分かる 文学理論』岩波書店、2003年、pp.125-126。)

 以上の見解にならって、プロットは翻訳作品においても、他の表現形式と違って変化しないと考え、海外の翻訳作品も日本の作品と同じように分析を進めていく。

 また、以下の文献を作品分析の参考とした。

◯土部弘「プロットの種類と立て方」
 平井昌夫(編)『文章上達法』所収、至文堂、1976年、pp.67-81。

◯サキ/大津栄一郎(訳)『サキ傑作選』角川春樹事務所、1999年,pp.173-183
(タイトルは「贖罪」で収録)。

第3章 研究結果

 第1節 各作品の分析結果

  第1項 「後味が悪い」と判断した作品群の分析

(01)「貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」
スウィフト(1667ー1745)/深町弘三(訳)  1729年。
頁数:12頁(「恐ろしい話」pp.395-406)、194行。
主人公:なし

<あらすじ>
 語り手は、貧困な家庭に生まれる子供が、丸一才になったときに救う私案について説明を始める。その方法は、貧家の負担を軽減し、更に国にとっても有用なものであると言い切る。
 アイルランドの現状では、貧困層の夫婦が持つ子供は、働けるような年齢になるまでに、多大な金銭的負担を要求することになる。さらにそのような子供たちが成長しても貧困層から抜け出すことは滅多に無い。そこで、語り手は健康な赤ん坊は、丸一才になると大変滋養のある食物になるという事実を持ち出す。そして、その赤ん坊を食糧として、貴族や地主に売ることを提案した。つまり、貧困層の抱える赤ん坊を嗜好食品として提供するという案である。
 語り手の試算によると、この私案は経済的に困窮する家庭と国の大きな手助けとなる。それ以外にも、旧教徒の数を減らし、貧困層にも所有物ができるという数々の利益があると主張する。
 最後に、語り手の主張に反対する場合は、次の二点に注意するように要求する。一つは、貧困層の役に立たない赤ん坊を養う資金をどう用意するのか。二つ目は、そのような貧困層の親たちは、子供に自分と同じような苦しい人生を歩んでも、生きて欲しいと考えているのか、である。
 語り手は以上の私案を国家利益の為だけに提唱すると主張して論を終える。

<プロット>
 この作品は、説得の文である。そのため、小説作品の構成要素は含まれていない。筆者の提案とその提案がどれほど有益なものであるかが述べられている。

○題材
 アイルランドの現状、貧困層の子女が家庭や国家の経済的な重荷となっていることを憂える。その現状を救う為に筆者は、貧家の子女は一歳を迎えたあかつきには上流階級の嗜好食品として提供するという提案を行なう。

○展開
 冒頭部では、アイルランドの切迫した現状について触れられ、語り手の私案がその現状を救うと述べる。そして、貧困層の子女が如何に経済的な負担になっているかを示す。展開部においては、その貧困層を救う為の私案(貧家の子女は一歳を迎えたあかつきには上流階級の嗜好食品として提供するという提案)を示す。この私案が経済的にどれほど有益かを示し、また他の案に対して反論を行なう。結末部は、筆者には利己的な考えが、一切なく国家利益の事だけを考えているという主張で締められる。

○視点
 説得の文であるから、当然筆者の視点から語られている。

<題材>
赤ん坊が嗜好食品になるという事実。

<話題>
(1)アイルランドの切迫した現状。→(2)貧家の子女が如何に貧困層の家庭には重荷であるか。→(3)貧家の子女が一歳を迎えたら、上流階級の嗜好食品として提供するという提案。→(4)他の年齢の子供を食品とする提案に対しての反論。→(5)私案の利点。→(6)倫理的に正しい方法に対しての批判。→(7)私案に反対する際に留意を望む点。→(8)国家利益のための私案であるという主張。

<主題>
 アイルランドの貧窮を救うために貧家の子女は一歳を迎えたあかつきには上流階級の嗜好食品として提供するという提案。(実際には、このような残酷なことをしなければならない程にアイルランドの現状が切迫した状況にあることを示すため。)

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」を「後味が悪い」作品だと判断した。この作品は、他の作品資料と違い唯一叙述の文ではなく、説得の文である。登場人物や出来事はなく、従って心理変化などもない。アイルランドの現状を救うという主張とそのための方法を提案している文章である。この作品の「後味の悪さ」を生むのは、そのアイルランドを救う方法として提案される、赤ん坊を嗜好食品にするという考えである。アイルランドを経済的に救う為にと、倫理的におかしい考えが平然と提案される部分が「後味の悪さ」を生じさせている。


(02)「ロカルノの女乞食」
クライスト(1777-1811)/種村季弘(訳)、1810年。
頁数:4頁(「恐ろしい話」pp.123-126)、64行。
主人公:さる侯爵

<あらすじ>
 アルプスの山麓、ロカルノの近くに古城があった。その古城はかつてさる侯爵の所有するものであり、そこには一人の病気の老婆が宿を借りていた。老婆の部屋は、侯爵が猟銃を保管する場としても使用されていた。ある時、侯爵が部屋に行った時に、老婆に部屋の隅に寄るように命令した。老婆は何とか暖炉の背後まで移動したが、そこで死んでしまった。
 それから数年後、侯爵は財政状態が傾いたことから、古城を売りに出す。フィレンツェのさる騎士が古城を訪れて、城を購入しようとする。しかし、老婆の死んだ部屋に泊った騎士は、真夜中に何か不気味な物音がするといって、翌日には帰ってしまった。物音の正体を突き止めるため、侯爵自らが件の部屋で待ち受けた。すると、実際に何かが移動するような物音がしたのであった。
 侯爵と夫人は、何とか幽霊の正体を突き止めようと、再度部屋で待ち受ける。三日目、再び起こった物音に、恐怖した夫人は城から逃げ出した。侯爵は、剣を手にとり物音に挑みかかった。そして、恐怖で狂乱した侯爵は自ら城に火を放った。助けに向った時には、既に侯爵は息絶えていた。
 侯爵の骨は今なお件の部屋の炭に安置されている。

<プロット>
《事件》幽霊との三度目の出会い。

○題材
 「ロカルノの女乞食」には、さる侯爵、その夫人、女乞食が登場する。女乞食は侯爵の怒りを買って死んでしまう。しかも、「女は起き上がるとなめらかな床の上で松葉杖を滑らせ、剣呑にも腰部にしたたかに打撃を受けたのであるが、そのため必死の思いでようやく身を起こし、命じられた通りに部屋を横切って暖炉の背後に達しはしたものの、そこで坤き喘ぎながらどさりと崩折れて息を引き取った」というように、いとも呆気ない死に様である。また、幽霊となって再び現れるが、自分の死に様を再現し続けるだけであり、その目的は不可解である。
 侯爵は女乞食に別段辛く当たるような描写はされていないが、病気の女の死の原因を作ってしまう。夫人が侯爵の猟銃を仕舞う部屋に女乞食を居候させていたことも原因の一つだと言える。二人は《事件》に際して、全く別の行動をとる。侯爵は幽霊に恐怖して、城に火をつける。夫人は一目散に逃げ出していた。結局、侯爵だけが死んでしまう。
 なぜ、侯爵の銃の保管部屋が舞台となったのかは不明である。

○配列
 「ロカルノの女乞食」は、今の視点から過去の出来事を時間経過に沿って配置している。現在の城が荒廃している経緯について語られる。
 冒頭部では、今現在の荒廃した城の姿が示される。そこから、その城にまつわる出来事が語られ始める。侯爵の怒りによって、女乞食が死ぬ場面が描かれる。展開部は、冒頭部から数年が経過している。城を売ることになり、やってきた騎士を女乞食が死んだ部屋に泊めたことで幽霊の存在が発覚する。侯爵は、幽霊の存在が世間にばれる前に、自分たちで正体を突き止めようと考える。しかし、実査に幽霊に出会うと、恐怖で何も出来なかった。そして、遂に《事件》が発生する。侯爵は恐怖で城に火をつけ、死んでしまう。結末部では、再び現在に戻り、侯爵の白骨が女乞食の死んだ部屋の隅安置されていることが示される。

○視点
 客観的視点から、かつての侯爵の城で起こった出来事を伝聞するように語られている。

<題材>
幽霊、死。

<話題>
(1)侯爵の城に居候していた女乞食が死ぬ。→(2)数年後、城を売りに出す。→(3)城を買いに来た騎士が幽霊を目撃する。→(4)侯爵が幽霊の正体を突き止めようとする。→(5)三度目に幽霊と出会い侯爵が発狂して、死ぬ。→(6)その後の成り行き。

<主題>
 侯爵が女乞食にした理不尽な命令に対する罰。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「ロカルノの女乞食」を「後味が悪い」作品だと判断した。その理由は作品内に不可解な点が多いからである。例えば、夫人が女乞食を泊めていた部屋が何故か侯爵の大切な猟銃の保管場所であったことや女乞食が死んだ曰く付きの部屋に何故か騎士を泊めていることが挙げられる。他にも、結局幽霊の目的が分からないままに終わってしまう。一応、侯爵への復讐という解釈が出来るが、それにしては自分の死を音だけで再現するというのは方法として回りくどい。このような、不可解な点の多さが「後味の悪さ」を生んでいる。


(04)「砂男」
ホフマン(1776-1822)/種村季弘(訳)、1815年。
頁数:56頁(「思いがけない話」pp.353-408)、986行。
主人公:ナタナエル

<あらすじ>
 ナタナエルからロータールへの手紙が届く。その内容は、ナタナエルが抱える悩みについての相談であった。ナタナエルは最近やって来たジュゼッペ=コッポラと名のる晴雨計売りが自分と因縁深い人物だと考えていた。
 ナタナエルが幼い頃、彼の家では父の部屋にやってくる砂男という怪物の話で子供たちを脅かして、寝かしつけることがあった。成長するに連れて、ナタナエルは砂男の正体を探ろうと考えるようになる。ある夜、ナタナエルは父の部屋に忍び込んで、砂男を待ち伏せる。すると、やって来た男の正体は、家族が嫌っている老弁護士、コッペリウスであった。父とコッペリウスは怪し気な実験をしているようであった。驚いたナタナエルはコッペリウスに見つかり、厳しい折檻を受ける。ナタナエルは恐怖のあまり何週間も病床についた。それ以来、コッペリウスは町を去ったようだったが、一年後不意に姿を現した。そして、父親の部屋で爆発を起こして、逃げて行った。
 ナタナエルが出会った晴雨計売りこそが、父親殺しの仇であるコッペリウスだった。ナタナエルはどうにかしてコッペリウスに復讐しようと考えていた。
 クララからナタナエルへ返事が届く。ナタナエルが宛名を間違えたことで、手紙はロータールの妹、クララに届いていた。クララは、コッペリウスに再会したナタナエルを心配する。しかし、ナタナエルの抱える不安は、彼自身が心の中で生んでいるものだと考える。その不安は現実には何の影響もなく、ナタナエル自身の気の持ちようで何とでもなると励ました。
 再び、ナタナエルからロータールへ手紙が届く。クララとロータールの返事を受けて、ナタナエル自身も自分の不安が現実的なものではないと考えていた。手紙には、スパランツァーニという教授とその愛娘オリムピアのことも書かれていた。スパランツァーニは、何故かオリムピアを部屋に閉じこめて、誰にも会わせないようにしていた。手紙の最後には、ナタナエルが近々帰省するということも書かれていた。
 帰省したナタナエルは自分の不安について、何らかの暗黒の力が関わっていると考えるようになっていく。ナタナエルはその考えを熱心にクララに話すが、クララはまともに取り合ってくれなかった。遂に、ナタナエルはクララの無理解さを罵倒する。妹を罵倒され、激昂したロータールはナタナエルに決闘を申し込む。決闘当日、二人の憎み合う姿にクララが嘆き悲しむ。二人はそのようなクララに心を打たれる。三人は和解し、ナタナエルは残りの休日を幸せに過ごした。
 下宿に戻ったナタナエルは火事によってスパランツァーニ教授の屋敷の前に引っ越すことになる。新たな下宿で生活していたナタナエルの元に、再びコッポラが現れる。クララの助言に従い、コッポラを恐れることを止めたナタナエルは、携帯望遠鏡を買う。その望遠鏡でオリムピアの姿をはっきりと見て、一気に心を奪われる。それ以降、彼は全てのことを忘れてオリムピアのことだけを考えるようになる。スパランツァーニの屋敷で開かれた舞踏会で、オリムピアと対面を果たしたことで、オリムピアへの気持は増々募っていった。
 遂に、スパランツァーニからオリムピアとの結婚の許しを得たナタナエルは指輪を持って、オリムピアの元を訪れる。しかし、オリムピアの部屋では、スパランツァーニとコッペリウスが彼女を取り合い、争っていた。二人の争いに乱入したナタナエルは、オリムピアが機械人形であったことを知る。ナタナエルは発狂して、寝込んでしまった。スパランツァーニとコッポラは、責任逃れのために夜逃げしてしまった。
 目覚めたナタナエルは、実家でクララや家族に介抱されていた。全快した後は、再び家族と幸せに暮らしていた。ある日、クララとのデートで塔に登った時、ナタナエルは何気なくポケットの中の望遠鏡を覗いた。その瞬間、再び発狂したナタナエルはクララに襲いかかる。クララは助け出されたが、ナタナエルは塔から飛び降り、死んでしまった。その後、クララは別人と結婚し、幸せに暮らしたという。

<プロット>
《事件》オリムピアの正体が機械人形だということが発覚する。

○題材
 「砂男」には、ナタナエル、クララ、ロータール、コッペリウス、スパランツァーニ、オリムピア、という多くの人物が登場する。主人公のナタナエルは、心やさしい人物であるが、作品開始の前の時点からコッペリウスの影響(「いまわしい晴雨計売りコッポラの姿がまことに禍々しくぼくの人生のなかに押し入ってきた」)で神経質になることがある。更に、実際にコッペリウスの道具を使用して、オリムピアを直視してからは、一層精神に変調を来していく。クララとロータールはそのようなナタナエルを救う存在として設定されている。しかし、ナタナエルが彼等と離れて暮らしている為に、救いの手が届かずにナタナエルはコッペリウスとスパランツァーニの毒牙に掛かってしまう。コッペリウスとスパランツァーニはナタナエルを不幸な結末へと導く役目を担っている。特に、コッペリウスは、砂男として、ナタナエルが幼い頃から彼の運命に絡み続けている。彼等は自分たちの目的(機械人形の製作)のために、ナタナエルを利用した。作品内で特にその理由が語られないことが、二人の傲慢さを表現している。
 舞台として自分を助けてくれる人間の少ない下宿先の町が設定されており、ナタナエルが自らの不幸な運命から逃れる術をなくしている。

○配列
 「砂男」の出来事は時間経過に沿って配置されている。ただし、作品の中盤に挿入される語り手による状況説明と先の展開の暗示は、過去と未来の出来事であり、他の出来事との時間軸上からは外れている。
 冒頭部には、「ナタナエルからロータルへの手紙」、「クララからナタナエルへの手紙」、「ナタナエルからロータールへの手紙」という三通の手紙のやり取りが示され、人物造形が描き出される。展開部では、作者による現状の補足説明がされた後、ナタナエルの帰郷が描かれる。ここでは主にナタナエル、クララ、ロータールの三人の愛と友情が話題になる。下宿先に戻ってからは、コッペリウスとスパランツァーニの影響力が増々強まっていく様子がオリムピアへの恋という形で描かれる。そして《事件》に至り、ナタナエルは発狂する。《事件》のなりゆきが語られた後の結末部では、ナタナエルの回復した様子が描かれる。しかし、結局はコッペリウスの影響力から逃れられずに、再び発狂して死んでしまう。クララのその後が語られて、作品は終わっている。

○視点
 多元的視点で語られる。手紙の部分はそれぞれの書き手の視点から語られる。それ以外の部分は客観的視点で語られる。必要に応じて、ナタナエル、クララ、ロータール、ジークムント、母親の心情が描写される。これらの人物は全てナタナエルに近しい人間である。逆にいえば、ナタナエル害を及ぼすコッペリウスとスパランツァーニの心情は描かれない。つまり、彼等の行動は理由が分からず、その不可解さが作品に不穏な空気を持たせている。

<題材>
砂男、錬金術、機械人形、不思議な望遠鏡、発狂、死。

<話題>
(1)ナタナエルからロータールへの手紙(コッペリウスとの因縁について)。→(2)クララからナタナエルへの手紙(ナタナエルへの励まし)。→(3)再び、ナタナエルからロータールへの手紙(帰省の報せ)。→(4)語り手による状況説明と先の展開の暗示→(5)ナタナエルの帰省とロータールとの決闘、和解。→(6)帰省から戻り、下宿でのコッペリウスとの再会。→(7)ナタナエルのオリムピアへの恋。→(8)全てを忘れオリムピアのことだけを考えるようになる。→(9)オリムピアの正体が機械人形だと知る。→(10)ナタナエルの発狂。→(11)その後の成り行き。→(12)ナタナエルの回復。→(13)ナタナエルの再びの発狂と死→(14)クララのその後。

<主題>
ナタナエルの不運な生涯

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「砂男」を「後味が悪い」作品だと判断した。ナタナエルは、コッペリウスとスパランツァーニの機械人形を作る実験に巻き込まれた結果発狂してしまう。更に、回復したように描いた後に、再び発狂して今度は死んでしまう。このナタナエルの救われなさに「後味の悪さ」を感じた。
 ナタナエルはこの作品のなかで被害者である。確かに、ナタナエル自身の神経質な性格が災いして、必要以上に出来事を重く捉える。その結果クララやロータールと衝突する場面もある。また、クララからオリムピアへと浮気したことのなどの過失もある。それでも、ナタナエルは被害者的な性格が強い。コッペリスのことを重く捉えるのは、コッペリウスが父の仇だからである。また、オリムピアに心を奪われるのは、コッペリウスの双眼鏡を使ってからであり、作品全編を通してのコッペリウスの異様な存在感から彼が何らかの方法でナタナエルの心を操った可能性が高い。つまり、ナタナエルのほぼ全ての過失の原因はコッペリウスにあると考えられる。作品内の事件について、ナタナエルの責任はほぼないと判断できる。それにも関わらず、発狂した末に死んでしまうという、ナタナエルの生涯の悲惨さに理不尽さを感じる。また、ナタナエルは、コッペリウスとスパランツァーニの目的(機械人形を作る)に巻き込まれた結果このような不幸な結末に至るが、特にナタナエルでないといけない理由は示されていない。更に、作品最後の文で、クララの幸福な生活を指して、「この幸福は支離滅裂に心を引き裂かれていたナタナエルの手によっては叶えられないものであったに違いない」と作者に断定されていることも、ナタナエルの救われなさに拍車をかけている。このようなナタナエルの被害者性の強調が理不尽さを生み、「後味の悪さ」を生んでいる。


(05)「外套」
ゴーゴリ(1809-1852)/平井肇(訳)、1840年。
頁数:52頁(「思いがけない話」pp.63-114)、912行。
主人公:アカーキイ・アカーキエウィッチ

<あらすじ>
 ペテルブルグのある省に勤めるアカーキイ・アカーキエウィッチは、文書係として誰からも注目されることのない人生を送っていた。彼の生活は、文書係の写字という仕事を心から愛し、暇さえあれば書き写しをするというものであった。
 ある年の冬に、アカーキイは自分の外套がひどく傷んでいることに気づく。その外套は周りの官吏たちから《半纏》と揶揄されるぐらいひどいものであった。アカーキイは、外套を修繕するために、仕立屋のペトローヴィッチの店を訪ねる。外套を見たペトローヴィッチは、修理は不可能で、外套は新調するしかないと言い出す。アカーキイは何とか修繕ですむように頼み込んだが、遂に外套を新調することに決める。アカーキイは外套を新調する資金を溜めるために、生活をこれまでよりさらに切り詰めることになった。厳しい生活を送るうちに、いつしか新しい外套が、アカーキイの心の支えになっていた。そのような生活が何ヶ月か続いたある日、ようやく資金が溜まり、ペトローヴィッチに外套を仕立てるように依頼した。
 二週間後の朝、出勤間際にペトローヴィッチが新しい外套をもってアカーキイの家にやって来た。新しい外套は素晴しい出来でありアカーキイも非常に満足した。その外套を着て出勤したアカーキイは、周囲の人物からも外套を賞賛された。アカーキイの新しい外套を祝うお茶会が催されることにまでなった。この一日をアカーキイは非常に幸福に過ごした。夜になって、アカーキイは招待されたお茶会に向かった。しかし、お茶会に慣れていないアカーキイはすぐに退屈してしまった。アカーキイはこっそりお茶会を抜け出し家路に着いた。家路の途中にアカーキイは暴漢に襲われて外套を奪われてしまう。アカーキイは近くの交番に訴えるが相手にされない。次の日に、警察署の署長の元へも捜査を要請しに出掛けたが、そこでも署長にやりこめられてしまった。
 次の日、みすぼらしい《半纏》で出勤したアカーキイに同情した一人の官吏が、警察署長にも働きかけることが出来るような有力者に捜査を依頼することを提案した。その提案を受けたアカーキイは、その有力者のもとへと出掛けて行った。しかし、その有力者は自分を大人物に見せたいがために、アカーキイの話を真面目に聞かず、必要以上に怒鳴り散らした。アカーキイはその有力者の態度に大きな衝撃を受け寝込んでしまう。そして、そのままアカーキイは錯乱したまま死んでしまった。
 アカーキイが死んだのと時期を同じくして、ペテルブルグの街角で盗まれた外套を探して、外套を奪い取る官吏の幽霊が現れ始めた。ある日、アカーキイを怒鳴りつけた有力者が愛人の家に向かう途中、アカーキイの幽霊と出会い外套を奪われた。そして、それ以降アカーキイの幽霊は見掛けられなくなった。

<プロット>
《事件》アカーキイは自分を無意味に叱責した長官の外套を奪う。

○題材
 「外套」には、アカーキイ・アカーキエウィッチ、ペトローヴィッチ、警察長官が登場する。何の変哲もない人生を送っていたアカーキイが、初めて文字以外に熱心になったものが新調した外套であった。その心の支えともいうべき外套が奪われた上に、無意味な叱責を受けたことが、アカーキイが幽霊となってまで《事件》を起こす原因となる。ペトローヴィッチは、金に汚い性格だが、仕立ての腕は一流であった。彼の作った外套が素晴しいからこそ、アカーキイは幸せな日を過ごす。また、ペトローヴィッチが高い代金を望んだ結果、アカーキイの手間も増えることになった。その分、外套への愛着が増している。警察長官は決して傲慢なだけの人物ではないが、見栄をはることに必死になっている。そのために、一小役人のアカーキイに必要以上に厳しい態度をとった。
 ペテルブルグという舞台は、非常に寒い地域であり、多くの人が外套に気を遣っている。だからこそ、アカーキイは外套一つでここまで多くの人からもてはやされることになった。

○配列
 「外套」の出来事は冒頭部ではアカーキイの人物造形に関連するものが配置される。展開部からは時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、アカーキイの人物造形に関する出来事が描かれ、彼が誰からも見向きされない存在であることが示される。展開部では、外套を新調するという出来事を軸に少しずつ前向きになっていくアカーキイが描かれる。そして、外套が完成した日は彼にとって人生最良の一日であったことが、他の役人の反応やアカーキイ自身の心情描写から分かる。しかし、ここで外套を強奪されることで、アカーキイは一気に不幸に突き落とされる。更に、このようなアカーキイにとどめを刺すように警察長官から無意味な叱責を受ける。アカーキイは失意のまま死んでしまう。しかし、結末部において、アカーキイは幽霊となって、《事件》を起こす。その後、アカーキイが成仏したことが仄めかされて終わっている。

○視点
 客観的視点で語られる。様々な人物の心情が描かれるが、大部分はアカーキイが占めている。ここから、アカーキイに共感的な語りが為されているといえる。

<題材>
外套、幽霊。

<話題>
(1)アカーキイ・アカーキエウィッチの人物造形1(出生と名前の由来)。→(2)アカーキイ・アカーキエウィッチの人物造形2(仕事ぶりと人々からの印象)→(3)外套を修繕しにペトローヴィッチの店を訪れる。→(4)外套を新調することになる。→(5)新しい外套の完成。→(6)新しい外套に対する人々の反応。→(7)外套を披露する夜会。→(8)外套の強奪。→(9)アカーキイの対応。→(10)警察長官の人物造形。→(11)アカーキイが警察長官に叱責される。→(12)アカーキイの死→(13)アカーキイの幽霊の出現。→(14)アカーキイによる警察長官への復讐→(15)その後のなりゆき。

<主題>
アカーキイの無念さ。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「外套」を「後味が悪い」作品だと判断した。愚直で消極的な生き方のために、誰からも相手にされる事のなかったアカーキイが外套を新調した事によって、前向きに変化しようとしていた。しかし、その外套が奪われた上に、一人の人間の見栄のために糾弾された結果死んでしまう。ここからアカーキイには被害者性が見出される。このアカーキイの被害者性が「後味の悪さ」生じさせる要因となる。ただ、アカーキイは自分を糾弾した警察長官に幽霊となって復讐する。そのため、被害者性は多少弱まる。


(08)「信号手」
ディケンズ(1812-1870)/小池滋(訳)、1866年。
頁数:22頁(「恐ろしい話」pp.67-88)、376行。
主人公:「私」

<あらすじ>
 「私」はトンネルの入口で仕事をしている信号手に話し掛ける。谷の底で、一人で働く信号手が気に掛かったからであった。信号手の所まで行くと、彼は私を怖れているような態度をとった。すると彼は、「私」が以前トンネルの入口に来たことがあるかと尋ねてきた。「私」は否定した。信号手は安心したようであった。「私」と信号手は、彼の仕事についての話をした。信号手は非常に有能な人に見えた。しかし、彼はある悩みを抱えているらしかった。その悩みを聞く約束をして私達は一旦別れた。
 次の日の午後十一時に、私は再び信号手のもとを訪れた。信号手は、自分が抱えている悩みについて話し始めた。その悩みとは、トンネルの入口近くに謎の幽霊が現れて、警告をしてくるというものであった。その幽霊の身ぶりから、「私」は警告の言葉を、「危ないっ、どいてくれ!」だと想像していた。過去に、その幽霊からの警告があった後、実際に大きな鉄道事故が起きていた。そして、最近再びその幽霊が現れて、信号手に何度も警告を与えていた。信号手は、亡霊の警告にどうにか対処できないかを真剣に悩んでいた。「私」は信号手の悩みを受けて、幽霊の話は信じることが出来なかったが、彼の精神が参っていることを何とか慰めようとした。
 次の日、私が再びトンネルを訪れると、信号手は機関車にひかれて死んでいた。機関手に話を聞くと、彼は自分がどのように信号手に警告をしたか説明してくれた。その警告は信号手が幽霊からされていた警告と一致していた。更に、その機関手が叫んだ「危ないっ、どいてくれ!」という言葉は、「私」が心の中で想像した言葉とも一致していた。

<プロット>
《事件》信号手をひいた機関手の警告が、信号手から聞いた言葉だけではなく、私の心の中の言葉とも一致していた。

○題材
 「信号手」には、「私」と信号手が登場する。「私」は「これまで一生を狭い職場で過し、いまやっとそこから解放されたので、この鉄道という偉大な仕事に新たに関心を抱くようになった」という人物設定がされている。そのため、信号手の仕事や悩みについて非常に関心を持って話を聞いている。また、出会ったばかりの信号手の悩みを何とか解消してやろうと頭を悩ます心優しい人物でもある。「私」は幽霊という非科学的なものを信じず、何とか説明をつけて信号手を慰めようとする。しかし、《事件》が発生したときには、全く説明の出来ない不可解さに恐怖することになった。信号手は有能な人物であるが、幽霊の警告によって、ひどく苦しんでいた。結局、その苦しみから解放されたかは不明なままに死んでしまう。

○配列
 「信号手」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、いきなり「私」の言葉からはじまり、信号手との出会いに繋がって行く。この「私」の言葉に対する信号手の不審な反応が、信号手の悩みに対する伏線となる。・秋部で、「私」は信号手と親しくなり、彼の悩みに踏み込んで行くことになる。信号手の悩みが語られ、その内容の不可解さが先の展開に不吉な予感を与える。そして、結末部では、不吉な予感が現実となって、信号手が死ぬ。最後に《事件》が配置されて、不可解さを残したままに終わる。

○視点
 一元的視点で語られる。語り手の「私」が一人称で語ることで、自分の心内語も自然と書かれることになる。そのため、結末部で、「私」の心内語と機関手の言葉が一致する伏線も自然に張ることが出来る。また、「私」に共感的になることで、《事件》の印象が強くなる。

<題材>
信号手、幽霊、警告、死。

<話題>
(1)「私」と信号手の出会い。→(2)信号手からの質問。→(3)信号主との会話1(信号手の人となりについて)。→(4)信号手との会話2(幽霊からの警告について)。→(5)「私」が信号手のためにどんな行動をとれば良いか思案する。→(6)信号手の死と機関手の言葉。

<主題>
幽霊の警告の不可解さ。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「信号手」を「後味が悪い」作品だと判断した。結末部におかれる《事件》の不可解さが「後味の悪さ」を生んでいる。また、結末部において、主人公の親しい人物が死ぬことも「後味の悪さ」を生む要素となっている。


(09)「断頭台の秘密」
ヴィリエ・ド・リラダン(1838-1889)/渡辺一夫(訳)、1883年。
頁数:18頁(「恐ろしい話」pp.189-206)、300行。
主人公:ポンムレー&ヴェルポー

<あらすじ>
 一八六四年六月五日午後七時過ぎ、死刑囚であるド・ラ・ポンムレーの元に、高名な外科医であるアルマン・ヴェルポーが訪ねてくる。ヴェルポーはポンムレーに断頭台によって処刑された人間の肉体には、強力な麻酔効果がかかり、切断された頭部には何らかの人間的反応が期待できると述べた。そして、その反応を確かめる実験をポンムレーの処刑で行ないたいと申し出たのである。その実験とは、処刑された直後のポンムレーの頭部が予め決めておいた命令を実行できるか、否かというものであった。ヴェルポーはこの実験を行なうことが人類の為になり、ポンムレーは栄誉を得ることが出来ると述べた。ポンムレーはヴェルポーの申し出を受け、死刑執行の朝に返事をすると約束する。
 死刑執行の朝になって、ポンムレーはヴェルポーに対して、申し出を受ける旨を伝えた。死刑が執行され、ポンムレーの頭部はヴェルポーに手渡された。ヴェルポーが合図を送ると、ポンムレーの頭部はその命令を実行するかのように見えたが、途中で止まってしまった。実験は失敗に終り、ポンムレーの遺体は墓地へと運ばれて行った。

<プロット>
《事件》断頭台で切断されたポンムレーの頭部がヴェルポーを見つめ、予定通りの反応をするかのように見えた。

この作品はポンムレーとヴェルポーのどちらも主人公なので、《事件》はそれぞれにある筈である。しかし、ポンムレーが実験を了承するという大きな心理変化の場面は作品内では描かれない。上記の《事件》はヴェルポーのみのものである。

○題材
 「断頭台の秘密」にはポンムレーとヴェルポーが登場する。ポンムレーとヴェルポーのどちらも医学者として設定されており、だからこそ人体の謎についての興味があった。そのために断頭台で切断された直後の頭部には自我が残るか、という実験が行なわれることになる。ただし、ポンムレーは実際に自分が首を切られる立場にあったので、実験に参加することを一度は躊躇する。しかし、最終的には実験に参加することを了承する。ただ、ポンムレーがなぜ実験を了承したかは書かれていない。また、ヴェルポーが熱心にポンムレーを説得する様子から、彼がポンムレー以上に今回の実験に関心を抱いていることが分かる。そのような人物だからこそ、ポンムレーに今回の実験を提案したのである。

○配列
 「断頭台の秘密」は、今の視点から過去の出来事を時間経過に沿って配置している。
 冒頭部で、語り手が死刑執行の多さから、この物語を思い出したということが示される。死刑囚として収監されるポンムレーのもとへヴェルポーが訪ねて来るところから展開部に入っていく。ここでは、ヴェルポーの切断後の頭部の状態への見解(「一切の苦悩の感覚は十分麻酔させられる」)とポンムレーの恐怖(断頭台で切断された頭部に自我が残る可能性)が語られる。ヴェルポーが実験の提案をすると、ポンムレーは躊躇するが、処刑当日の朝には実験を了承した。実験において《事件》が起こりヴェルポーは恐怖する。しかし、結局実験は不完全な結果に終り、断頭台で切断された頭部に自我が残る可能性は否定できないままに、結末部でポンムレーが運ばれる様子が描かれて終わる。

○視点
 客観的視点から語られる。登場人物の行動と談話が多く描写され、心理描写はほとんどされず、伝聞的に語られる。

<題材>
断頭台、自我。

<話題>
(1)ポンムレーが死刑囚となった経緯。→(2)ヴェルポーがポンムレーの監獄を訪ねてくる。→(3)ポンムレーとヴェルポーは、ポンムレーの現状について話し合う。→(4)ヴェルポーは断頭台が切断した頭部に対して強力な麻酔力を持ち、痛みを感じないという自説について話す。→(5)ポンムレーは切断後の頭部に自我が残留しているという説について話す。→(6)ヴェルポーがポンムレーの頭部を用いて自我が残留しているかの実験を行ないたいと申し出る。→(7)処刑当日の朝ポンムレーが実験を行なうことを了承する。→(8)処刑が行われる。→(9)ポンムレーは反応するかに見えたが、実験は失敗に終わる。→(10)ポンムレーが墓地に運ばれる。

<主題>
断頭台で切断された頭部には自我が残るのか否かという疑問。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「断頭台の秘密」を「後味が悪い」作品だと判断した。この作品では、断頭台で切断された頭部には自我が残るのかということが問題になる。ポンムレーの頭部は一度だけ、予定していた通りの反応を見せる。このポンムレーの頭部の反応は、ポンムレーの自我が起こした行動、筋肉の反射どちらとも判断できない。この頭部の反応の謎が「後味を悪く」する要素となっている。


(10)「ひも」
モーパッサン(1850-1893)/杉捷夫(訳)、1883年。
頁数:12頁(「恐ろしい話」pp.329-340)、211行。
主人公:オーシュコルヌ

<あらすじ>
 ゴデルヴィルで市が開かれる日、ブレオテからやって来たオーシュコルヌは道端でひもの切れ端を拾う。偶然、その場面を仲の悪い馬具屋のマランダンに目撃された。オーシュコルヌは地面を漁る姿を見られたのを恥ずかしく思い、地面に落ちているものを探している振りをして見せた。
 その後、オーシュコルヌが昼食を食べていると、ウルブレックという人が財布を落としたという知らせが出回る。すると、憲兵がやって来てオーシュコルヌを町長の所へ連行した。町長はオーシュコルヌがウルブレックの財布を拾ったのを目撃した人がいると言った。オーシュコルヌは困惑したが、その目撃者がマランダンだと知って、理解した。自分が拾ったひもを見せて、オーシュコルヌは無実を主張したが、誰も信じてくれる者はいなかった。身体検査まで行なった末に、オーシュコルヌは解放された。しかし、町の人はみな、オーシュコルヌが上手く財布を盗んだと考えていた。それを知ったオーシュコルヌは夜通し、自分の拾ったひもの話をして聞かせた。
 翌日になって、別の人物がウルブレックの財布を届け出た。オーシュコルヌは次の日から自分が無実の罪で疑われたことについて様々な人に話し続けた。しかし、誰も心からオーシュコルヌの話を信じてくれなかった。
 再び、ゴデルヴィルの町にやって来た時、オーシュコルヌは、自分が共謀者を使って財布を届け出させたと思われていることを知った。人々から狡猾な人間としてあざ笑われていること知り、なんとか無実を証明しようと躍起になった。それからはその証明のために全ての力を注ぐようになった。遂に、オーシュコルヌは衰え、病に臥せってしまった。そして、断末魔のうわごとで、自分の潔白を繰り返しながら、死んでしまった。

<プロット>
《事件》自分と関係の無い場所で財布が見つかったにも関わらず、オーシュコルヌは人々から犯人扱いされ続ける。

○題材
 「ひも」の主人公オーシュコルヌは「生粋のノルマンジー人としてしまつや」であるため、道端のひもを拾い上げる。その行動をマランダンに見られたことが《事件》の発端となる。全く関係ない彼は財布泥棒として疑われ続ける。彼は自分が疑われる理由(「食えないやつだということが知れ渡っている」)が納得できるだけに余計に憤りを感じ、更に無実を訴えて遂には力尽きてしまう。オーシュコルヌと敵対関係にあるマランダンを筆頭に、登場人物全員が、オーシュコルヌが財布を盗んだ上に上手く罪から逃れたと考えている。彼等の存在によって、オーシュコルヌの信用の無さが強調されている。
 舞台はゴデルヴィルという町が中心になっている。ゴデルヴィルは市が開催されるような大きさをもった町であり、市の日には周辺の村から多くの人間がやって来る。人々はみなお金に抜け目がなく、猜疑心が強い(「はめられるのが心配でしかたがない」)。そのような中で、一つの財布の紛失という出来事から、容疑のかかったオーシュコルヌは誰からも信頼されない状況に陥り、苦しむことになる。

○配列
 「ひも」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、人々で賑わうゴデルヴィルの市日の様子が描かれる。ここで人々の猜疑心の強さが描写されることで、一度疑われた人間が許されることのない世界であることを示している。市にやってきたオーシュコルヌがひもを拾い、マランダンに目撃される。再び、ゴデルヴィルの市の様子が描かれた後、展開部ではマランダンの告げ口によってオーシュコルヌは財布泥棒を疑われる。結局、財布はオーシュコルヌとは全く関係のない場所から見つかる。オーシュコルヌは自分の無実が証明されたと喜ぶが、《事件》に至り、自分が周囲の人間から全く信用されていないことを思い知る。結末部では、《事件》後のオーシュコルヌが誰からも信じて貰えずに、弱っていく様子が描かれ、遂には無念の言葉を残して死ぬ。

○視点
 客観的視点で語られる。オーシュコルヌの心情だけが描写される。このような語りが為されることで、オーシュコルヌの無念さや悔しさに、読者が共感的になるように仕組まれている。

<題材>
ひも、疑惑、死。

<話題>
(1)ゴデルヴィルの市日の賑わい。→(2)オーシュコルヌがヒモを拾う。(マランダンに見られる。)→(3)ゴデルヴィルの市日での商売の様子。→(4)ウルブレックの財布が紛失する。→(5)憲兵所での取り調べ。→(6)オーシュコルヌは人々に無実を訴える。→(7)《事件》→(8)オーシュコルヌの無実を誰も信じない。→(9)オーシュコルヌの死。

<主題>
オーシュコルヌの哀れさ、人々の猜疑心の強さ。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「ひも」を「後味が悪い」作品だと判断した。オーシュコルヌが実際に無実でありながら、誰からも信じられることなく、無念さや悔しさを抱えたままに死んでいく様子に「後味の悪さ」を感じた。
 オーシュコルヌ自身が認めるように(「もちまえのノルマンジー人らしいずるさを発揮すれば、いま嫌疑をかけられているようなことをやりかねないばかりか、うまくやったといって自慢にしかねない」)、彼は狡猾な人間であった。そのような狡猾さが《事件》を引き起こしたと考えることも出来る。ただ、作品内でオーシュコルヌが不正を働くような出来事は書かれていない。更に、オーシュコルヌが特別に狡猾なわけではなく、他の人々も利己心や猜疑心が強い人間として描かれている。それでいながら、オーシュコルヌだけが過剰に疑われる様子が、オーシュコルヌの哀れさ強調して、「後味の悪さ」を生んでいる。


(12)「親切な恋人」
A・アレー(1855-1905)/山田稔(訳)、1885年。
頁数:4頁(「思いがけない話」pp.255-258)、52行。
主人公:「彼」と「彼女」

<あらすじ>
 ある寒い日、男の家に恋人がやって来る。挨拶を終え、コートを脱いだ女は男の部屋が寒いと不満を言い出した。男は部屋を暖めるようなものが何もないことに悩んだ。そこで男は自分のお腹の皮膚だけを上手に割いた。女は男の考えを理解し、彼のはらわたの中に足を入れて暖をとった。男は苦痛であったが、女が気持ち良さげであることに満足していた。二人はそのまま夜を過ごした。
 翌朝、男は幸福感に満ちていた。女は男の腹を買って来たきれいな緑色の綿糸で丁寧に縫い合わせた。この夜は二人の最良の思い出になった。

<プロット>
《事件》女を暖めるために、男は自分の腹を割いて、そこで女に暖をとらせる。

○題材
 「親切な恋人」には、恋人である男と女しか出てこない。二人は作品の始めから深く愛し合っている様子が描かれている。そのような男女であるからこそ、男は女の為に腹を割くことが出来た。また、女もその男の行為を素直に感謝して受け入れている。結果的に、部屋の寒さという問題を乗り越えた二人は更に深く愛し合う。
 舞台となる冬の男の部屋は、寒い上に暖をとるものが何もない場所であり、解決策として、男が自分の腹を割く原因となる。これは、二人の愛をより強める原因を作ったと言い換えられる。

○配列
 「親切な恋人」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、男が女を待ち望んでいる様子(「待ちこがれている彼には、気温などどうでもよかった」)が示され、男の愛情の深さが伺える。女が登場し、二人の親密な関係が描かれる。しかし、展開部において、部屋の寒さという問題が生じる。そこで《事件》が起こり、問題を解決させる。二人は《事件》のおかげでより一層お互いのことを思いやる。結末部では、翌朝の幸福な二人が描かれ、「二人にとってこの一夜は、いつまでも最良の思い出となった」という評価が下されて終わる。

○視点
 客観的視点で語られる。男と女、双方の心情が描写される。彼等二人が腹を割くという行為を肯定的に受け入れている心情が描かれることで、その状況の異常さをより際立たせている。

<題材>
恋人、寒い部屋、腹を割くという行動。

<話題>
(1)恋人が男の部屋にやって来る。→(2)部屋を暖める物がないことに気づく。→(3)男が自分の腹を割いて暖をとるよう彼女に勧める。→(4)翌朝の二人の幸福な様子。

<主題>
恋人達の幸福さ。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「親切な恋人」を「後味が悪い」作品だと判断した。この作品では、腹を割いて暖をとるという異常な行為を受け入れる恋人達が描かれる。彼等の幸福な心情が描かれる程に、腹を割くというグロテスクな行為が際立つ。そのような異常さを受け入れる恋人達もまた異常である。グロテスクな状況と幸福な人間という矛盾するものが共存している不条理さが「後味の悪さ」を生んでいる。


(14)「ごくつぶし」
ミルボー(1850-1917)/河盛好蔵(訳)、1886年。
頁数:7頁(「恐ろしい話」pp.385-391)、117行。
主人公:フランソワ爺さん&おかみさん

<あらすじ>
 ある日、フランソワ爺さんは全く働くことが出来なくなった。そんなフランソワ爺さんに、おかみさんは夕ご飯を出さなくなった。フランソワ爺さんが文句を言っても、稼がない人間は何も食べることが出来ないと、おかみさんに諭されてしまう。フランソワ爺さんはおかみさんの言い分に納得し、何も望まずベッドに横になり続けた。フランソワ爺さんも、かつて自分の両親や用のなくなった山羊を同じように扱っていた。したがって、おかみさんの言い分は全く正しいと考えた。
 フランソワ爺さんが寝込んでいる間もおかみさんは熱心に働いていた。遂に、フランソワ爺さんは死んでしまった。おかみさんは、フランソワ爺さんのことをしみじみ述懐し、出来る限り手厚く葬ろうと言った。

<プロット>
《事件》フランソワ爺さんはおかみさんによって、働かない人間はご飯が食べられないことを諭される。

○題材
 「ごくつぶし」には、フランソワ爺さんとおかみさんが登場する。フランソワ爺さんは、「『自然』の蒙昧な奥底にとどまっていて、『人間』の『エゴイズム』と『愛』との輝かしい調和に思いいたることなど、これまで一度もできなかった」人間であり、今回の《事件》においてもあっさりと納得してしまう。それは、フランソワ爺さん自身が働けなくなった両親や家畜に同じ扱いをしていたからでもある。フランソワ爺さん一度納得した後は、「自然」の摂理として受け入れたまま死んでいった。
 おかみさんはフランソワ爺さんのご飯を出さないことを当然だと考えている。しかし、おかみさんはそれが自然のことであると考えているだけで、フランソワ爺さんを悪く思っているわけではない。むしろ、おかみさんの最後の言葉(「いい人だったねえ、つましくって、男らしくて。死ぬまでちゃんとふるまった。よく稼いでおくれだった。新しいシャツを着せて、それから、御祝言のときの服と白いきょうかたびらを着せてあげよう。それから悴がいいって言うなら、共同墓地のお墓を、向う十年買いきったっていいんだよ。お金持みたいなお墓をね」)からは、フランソワ爺さんに対する愛情が感じられる。
 この二人は「働かざるもの食うべからず」という考えを実践している。また、フランソワ爺さんが自分の両親や家畜に対して、おかみさんと同じような扱いをしている。ここから、「働かざるもの食うべからず」という考え方は、この作品の舞台では一般的であると考えられる。唯一、司祭だけはこの考え方をしていないようだが、おかみさんは全く聞く耳を持たなかった。

○配列
 「ごくつぶし」の出来事は時間経過に沿って配置されている。途中のフランソワ爺さんの回想は時間経過から外れた過去の出来事について触れられる。
 冒頭部で働けなくなったフランソワ爺さんのご飯が出されなくなるという状況がいきなり示される。このあとに《事件》が配置される。フランソワ爺さんは抗議するが、おかみさんの言葉(「稼がないときは食う筋合いがないんだからね。」)に説得されてしまう。展開部で、フランソワ爺さんは自分も両親や家畜を同じように扱っていたことが回想で描かれる。回想から、自分が食べられないことも自然の摂理だと納得する。結末部では、フランソワ爺さんが素直に死んでいく様子が描かれる。また、おかみさんがフランソワ爺さんの死体にかける言葉からは愛情が感じられる。この言葉から、おかみさんがフランソワ爺さんを悪く思っていたわけではなく、自然の摂理に従ってご飯を出さなかったということが改めて示される。

○視点
 客観的視点で語られる。フランソワ爺さんの心情が描写される。フランソワ爺さんが自分の環境を受け入れる心理が描かれることで、作品世界の異常な環境をより際立たせている。

<題材>
「働かざるもの食うべからず」という言葉を実践する人物、死。

<話題>
(1)働けなくなったフランソワ爺さんのご飯が出されなくなる。→(2)おかみさんに「働かない者は食べられない」と説得される。→(3)フランソワ爺さんは過去の両親や家畜への扱いを思い出し納得する。→(4)フランソワ爺さんが弱っていき死ぬ。

<主題>
「働かざるもの食うべからず」という現象の恐ろしさ

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「ごくつぶし」を「後味が悪い」作品だと判断した。この作品では《事件》そのものはあまり重要ではない。フランソワ爺さんの心理変化を描くことよりも、働かない人間にはご飯が出されないという異常な環境を受け入れる人物を描くことがこの作品の目的である。そのような異常な環境を素直に受け入れる人物を描くことは、環境の異常性を強調して読者に伝える。これがこの作品の「後味の悪さ」を生んでいる。


(15)「人間と蛇」
ビアス(1842-1914?)/西川正身(訳)、1891年。
頁数:12頁(「思いがけない話」pp.241-252)、189行。
主人公:ブレイトン

<あらすじ>
 ある夜、パーカー・ブレイトンは自分の部屋で、蛇の眼が持つ魔力について書かれた本を読んでいた。本を読む手を休めた時、不意に部屋の片隅に二つの小さな光点があることに気がつく。ブレイトンは、最初は気にも留めなかったが、再び本を読む内にあることに思い当たった。三度目に注視した時に、二つの光点が大きな蛇の両目であると気づいた。とぐろを巻いた大蛇はブレイトンを凝視していた。
 ブレイトンが現在寄宿している屋敷は、友人のドルーリング博士のものであった。この屋敷にはドルーリング博士が趣味で集めた爬虫類を、自由に生活させる場所があった。
 ブレイトンは大蛇を不快に感じて部屋を出ようとするが、逃げようとする自分に嫌悪感を感じて足を止める。そのまま、大蛇と眼を合わせるうちに幻覚が見えてくるようになる。ブレイトンが呆然としていると、突然何かに殴り倒される。大蛇と目が逸れたことで一瞬だけ我に返ったが、恐怖から再び目を合わせてしまう。ブレイトンの体は彼の思う通りにならず、蛇のような動きを始める。
 書斎で会話をしていたドルーリング博士とその妻のもとにブレイトンの悲鳴が届いた。二人が使用人と共にブレイトンの部屋に駈け込むと、ブレイトンは発作を起こして死んでいた。ベッドの下にはとぐろを巻いた大蛇の剥製があった。

<プロット>
《事件》蛇の眼の魔力に捕われる。

○題材
 「人間と蛇」では、ブレイトンは、蛇と対峙して、その眼の魔力に捕われる。彼の心情描写の内容が、自発的なものか、蛇の眼の魔力によるものかは、区別されていない。ドルーリング博士は、館の中に爬虫類の家を作り、蛇が現われる原因となる。ただ、ブレイトンを襲った蛇が、ドルーリング博士の飼っていた蛇かは不明である。

○配列
 「人間と蛇」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部に、蛇の眼の魔力に関する記述があり、今後の展開を予想させる。展開部が始まると同時に《事件》が起こり、ブレイトンは蛇の眼の魔力に捕われる。その後、ブレイトンは必死の抵抗を行なうが、結局蛇の眼の魔力から逃れることは出来ず、結末部で発作を起こして死んでいる姿が発見される。また、ブレイトンの部屋に蛇の剥製があったことが明かされるが、この剥製がブレイトンを襲った蛇とどんな関係があるかは書かれていない。

○視点
 客観的視点から語られる。ブレイトンの心情のみが描写される。

<題材>
蛇、蛇の眼の魔力、仲間を食う蛇。

<話題>
(1)蛇の眼が持つ魔力についての説明。→(2)ブレイトンが蛇の存在に気づく。→(3)ブレイトンの寄宿している、ドルーリング博士の屋敷の説明(爬虫類が自由に生活するスペースがある)。→(4)ブレイトンは蛇の眼の魔力に飲み込まれてしまう。→(5)倒れたことで、蛇の眼の魔力から逃れるが、恐怖から再び眼を合わせてしまう。→(6)ドルーリング博士と妻が話をしていると、ブレイトンの悲鳴が聞こえてくる。→(7)ブレイトンの部屋で、彼の死体と蛇の剥製が見つかる。

<主題>
蛇の眼が持つ魔力の恐ろしさ。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「人間と蛇」を「後味が悪い」作品だと判断した。まず、最後に主人公のブレイトンが死ぬという出来事が「後味の悪さ」を生んでいる。また、結局ブレイトンを襲った蛇の正体が分からないという不可解さが残る。これも「後味の悪さ」を生じさせる。


(16)「バッソンピエール元帥の回想記から」
ホフマンスタール(1874-1929)/大山定一(訳)、1900年。
頁数:16頁(「恐ろしい話」pp.17-32)、272行。
主人公:バッソンピエール元帥

<あらすじ>
 バッソンピエール元帥は、勤務の都合で市内を通り、人々と顔なじみになっていた。ある木曜日、バッソンピエールは、小売店の若い主婦の熱心で丁寧な態度が特に気にかかる。そこで、バッソンピエールは彼女と二人きりで会う場所を用意させる。その日の夜、彼女と逢ったバッソンピエールは、彼女の美しさに非常な好意を持つ。バッソンピエールは、彼女に抱きしめられると、勤務の疲労から眠ってしまった。眼を覚まし、彼女の美しさを改めて認識したところで、遂に夜があけてしまった。二人は、日曜日の夜に再び逢う約束をする。場所は彼女の伯母の家に決まった。
 明くる金曜日、バッソンピエールは、日曜日が待ちきれずに再び彼女の店まで出向く。しかし、店は閉まっており、彼女には会えなかった。バッソンピエールは、彼女の夫の姿を一目見て帰った。土曜日には、市内で猛威を振るうペストの噂を聞いた。ペストで死んだ人間は藁火で焼いて消毒しなければならない、というのだ。しかし、バッソンピエールは、そのような噂に全く興味が湧かなかった。
 遂に日曜日の約束の時間になり、バッソンピエール元帥は彼女の伯母の家に急いで向った。しかし、彼女との約束の部屋からは男の声が聞こえてきた。バッソンピエールは、動転して家を出て、町中をさまよい歩いた。再び家に向い、約束の部屋に乗りこんだ。すると、そこでは幾人かの男達によって藁火が炊かれていた。そして、部屋の隅には夫婦の遺体が置いてあった。バッソンピエールは、家を飛び出して帰った。その後、女の身の上を調べ手が詳しいことは何も分からなかった。

<プロット>
《事件》女がペストで死んでいた。

○題材
 「バッソンピエール元帥の回想記から」には、バッソンピエール元帥と小売店の女が登場する。バッソンピエール元帥は、彼女に熱心になるあまり、他の出来事への関心をなくしてしまい、ペストの情報を聞き逃すことになる。また、女が、自分のペストを自覚していたのかということも示されていない。

○配列
 「バッソンピエール元帥の回想記から」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では「私」(バッソンピエール元帥)が好意を抱いた女性と会う約束を取り付ける。展開部で、実際に一夜を共にすることで一層の好意を抱くようになる。その日は次に会う日の約束をして別れる。「私」の女に会いたいという気持は更に大きく増していく。女の主人を見る事で芽生えた嫉妬心もその一助になる。再び女に会う約束の日、女の部屋には男がおり、「私」は驚くが、その男どもから女を奪い返すという決心をして、部屋に乗りこむ。そこで《事件》に遭遇する。「私」は酷く狼狽する。その後の結末部で、落着いた「私」が女を探ろうとするが、遂に何も分からずに終わる。

○視点
 限定的視点で語られる。バッソンピエール元帥の一人称で語られるので、元帥が理解していな状況への説明や解説は書かれていない。

<題材>
ペスト、密会。

<話題>
(1)「私」(バッソンピエール元帥)が小売店の主婦を誘う。→(2)「私」は女と一夜を共にしようと思うが眠ってしまう。→(3)女の伯母の家で再び会う約束をする。→(4)「私」は女の夫を見て嫉妬にかられる。→(5)「私」は女の伯母の家に押し入ろうとするが諦める。→(6)女の伯母の家に向かい部屋に入ろうとすると男の声がした。→(7)再び女の伯母の家に向い、男達から女を取り返す決心をして部屋に飛び込む。→(8)女はペストで死んでいた。→(9)「私」は狼狽してその家から逃げ出す。→(10)「私」は女について探ろうとしたが無駄に終わる。

<主題>
バッソンピエール元帥と女の出会いと別れ。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「バッソンピエール元帥の回想記から」を「後味が悪い」作品だと判断した。「私」(バッソンピエール元帥)が女に恋い焦がれ、その気持が頂点に達したときに女はペストによって奪われてしまう。主人公にとって不幸な出来事が起こるので「後味の悪さ」が生じている。


(19)「アムステルダムの水夫」
アポリネール(1880-1918)/堀口大学(訳)、1910年。
頁数:9頁(「思いがけない話」pp.229-237)、137行。
主人公:ヘンドリック・ウェルステッグ

<あらすじ>
 和蘭の帆船、アルクマアル号がサザンプトンへ寄港したときのことである。水夫のヘンドリック・ウェルステッグは、猿、鸚鵡、印度織物を売ろうと市へ出掛けた。ヘンドリックは町を歩いている途中で一人の紳士から話し掛けられる。その紳士はヘンドリックの鸚鵡を買うと申し出た。ヘンドリックは紳士に鸚鵡を売ることに決めた。紳士は、ヘンドリックに家までついて来てくれるように頼み、彼もそれを承諾した。二人は一時間も歩いた末に、町外れの紳士の家に着いた。ヘンドリックは豪邸にも関わらず人の気配がしないことを不審に思ったが、自分がお金を持っていないことと内装の趣味の良さから警戒心を解いてしまった。しかし、ヘンドリックは紳士に言われて入った部屋へ閉じこめられてしまう。さらに、紳士はヘンドリックを銃で脅して、寝台の帳を開くように命令する。ヘンドリックが命令に従うと、寝台には一人の女性が捕われていた。紳士と女性の口論の末に、紳士は女性を殺すようにヘンドリックに命令する。ヘンドリックは恐怖のあまり半狂乱になって、命令に従う。その直後、ヘンドリック自身も紳士に撃たれて絶命した。
 翌日、この屋敷で二人の死体が発見された。捜査の結果、ヘンドリックが女性を殺害した後に、自殺したと結論づけられた。殺害された女性は、英国上院議員のファインガル卿の妻であると判明した。ファインガル卿は妻の死を嘆き悲しみ、政界を引退した。ファインガル卿の飼う鸚鵡は、彼の妻が発した断末魔の叫びを今でも繰り返していた。

<プロット>
《事件》ヘンドリックは紳士に連れてこられた屋敷で、部屋に閉じこめられ、女を殺すように脅迫される。ヘンドリックは、恐怖のあまり女を撃ち殺す。同時にヘンドリックも紳士にコメカミを撃たれる。

○題材
 「アムステルダムの水夫」にはヘンドリック、ファインガァル卿(紳士)、レディ・ファインガァル(女)が登場する。ヘンドリックはサザンプトンを訪れた平凡な水夫である。紳士の事を怪しむ心情描写もされるが、すぐに油断してしまう迂闊な人物でもある。このようにして、ヘンドリックは《事件》に巻き込まれる。《事件》に恐怖に縛られた彼は全くの無力であった。そして、彼は何故自分が《事件》に巻き込まれたのか分かることなく死んでしまった。また、「自分がアムステルダムへ帰る時のことだの、三年も逢わずにいる母のことだの、モニケンダムで、彼を待っていてくれる許婚の女のことだのを次々に思い出しながら歩いていた。」という心情描写からヘンドリックが帰郷を楽しみにしていることが分かる。このような心情描写があることで、彼の不幸さは一層際立つ。彼が事件に巻き込まれた理由は彼が鸚鵡を売っていたからである。これは、「それがあなたの、この世で最後の言葉だ、わしは注意深くそれを記憶に留めておこう。わしは、死ぬまでそれを繰りかえして言わせるようにしてやる。」という紳士の言葉と、実際に妻の断末魔を叫び続ける鸚鵡の様子から分かる。
 ファインガァル卿と女は最終的には夫婦であったことが判明し、この二人の争いにヘンドリックは巻き込まれる。ファインガァル卿は自分の手を汚さずに妻を殺す手段を考える狡猾な人物である。「わしはまだあなたを愛しているんだ、わしがもしこんなにあなたを愛しているんでなかったら、自分であなたを殺しただろうと思う。」という言葉からも、彼が自分では殺せないからヘンドリックを利用するという、狡猾さが伺える。最終的に、目的を達成する。レディ・ファインガァルは《事件》の最中に弁明の言葉を叫ぶだけであり、その人となりまでは分からない。
 舞台となるサザンプトンはヘンドリックにとっては異国の地であり、彼には頼れるものがない場所である。

○配列
 「アムステルダムの水夫」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、ヘンドリックがサザンプトンを訪れ、市に出掛けるという事態が描写され、彼が平凡な水夫の一人であることが書かれる。その直後、展開部においてヘンドリックは紳士と出会い、鸚鵡を紳士に売る為に、彼の屋敷までついていくことになる。このとき紳士の寡黙な態度や屋敷の気味悪さが、読者に《事件》を予感させる。そして、《事件》が起こる。ここでの女との会話が、後に紳士の正体を推測させる伏線となっている。結末部では、《事件》後の成り行きが書かれる。つまり、ヘンドリックが死亡し、女を殺した犯人と考えられる。最後の鸚鵡の言葉から紳士の正体がファインガル卿であったことが分かる。
 出来事の配列は単純であるが、紳士の様子や、口論の中に伏線が敷かれている。これらの伏線は結末部で紳士の正体がファインガァル卿であるということを示すために配置されている。

○視点
 一元的視点で語られる。ヘンドリックの心情だけが描写される。ヘンドリックに共感的になるような語りが為されることで、唐突に《事件》に巻き込まれる彼と同じ立場に読者も置かれる。このような表現意によって、読者は《事件》の唐突さや理不尽さをより強く感じられる。

<題材>
水夫、異国の町、脅迫、鸚鵡。

<話題>
(1)サザンプトンへの寄港。→(2)ヘンドリックが市で紳士と出会う。→(3)紳士の屋敷への道中。→(4)《事件》→(5)その後の成り行き。

<主題>
ヘンドリックの不幸な運命。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「アムステルダムの水夫」を「後味が悪い」作品だと判断した。ヘンドリックは、全く関係のない人物の争いに巻き込まれ殺害された。更に、その事件の犯人という汚名まで着せられている。ヘンドリックのこの理不尽な扱いに「後味の悪さ」を感じた。
 この理不尽さは、ヘンドリックが被害者的な役割を担わされていることから発生している。ヘンドリックには二人の争いに巻き込まれる理由は、彼が異国人であり、更に鸚鵡を売っていたというそれだけである。これは、全てファインガァル卿の都合であって、ヘンドリックには責任がない。更に、真犯人であるファインガァル卿が安穏と暮らしている結末部の様子は、ヘンドリックの不幸さを更に強調する。これらのヘンドリックの被害者性の強調が理不尽さを生み、「後味の悪さ」を生じさせている。


(20)「詩人のナプキン」
アポリネール(1880-1918)/堀口大学(訳)、1910年。
頁数:7頁(「恐ろしい話」pp.7-13)、84行。
主人公:ジュスタン・プレオログ

<あらすじ>
 ジュスタン・プレオログは画家であり、恋人と同棲していた。彼は芸術に生活の全てを捧げていた。彼の家には、ダヴィッド・ピカアル、レオナルド・ドレエス、ヂョオルヂ・オストレオル、ジャエム・サン・フェリックスという名の、四人の詩人がかわりばんこで食事を御馳走になっていた。彼等は皆素晴しい詩人であった。そして、四人は全員が知らぬ間に同じナプキンを使っていた。そのナプキンはだんだん汚くなっていった。しかし、ジュスタンも恋人も、そのナプキンを洗濯することなく四人に出し続けた。次第に、四人ともがナプキンによって、病気に感染していった。そして、遂に四人の詩人全員が死んでしまった。ナプキンが原因だとは、誰も考えなかった。
 ある日、ジュスタンと恋人がナプキンを拡げてみると、そこには血や汚れによって四人の詩人が描かれていた。その詩人たちは、恨みがましく二人を見つめているのであった。

<プロット>
《事件》ナプキンに亡くなった4人の詩人が浮かび上がっていた。

○題材
 「詩人のナプキン」には、ジュスタン・プレオログ、恋人、ダヴィッド・ピカアル、レオナルド・ドレエス、ヂョオルヂ・オストレオル、ジャエム・サン・フェリックスが登場する。ジュスタン・プレオログは芸術に全てを捧げており、日常生活には全く興味がないという設定がされている。これが、ナプキンが汚れてもきても、全く気にしない理由となる。また、恋人は詩人に対して、幾度もナプキンを交換することを約束している(「このつぎにいらっしたら新しいのを上げましょうね。」)。しかし、結局この約束が実行されることはなく、彼女はジュスタンの生活以外は興味のない人間であることが分かる。4人の詩人は、人物造形がほとんどなされない。しかし、最後の言葉「芸術のどん底、生活の極致に向って逃げ出したまえと」は、ジュスタンと恋人に対しての恨み言である。彼等は自らが死んだ理由が分かっていたということである。

○配列
 「詩人のナプキン」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、ジュスタンが芸術至上主義の画家であることと、彼の周囲の現状が示される。冒頭部の最後で、4人が同じナプキンを使っていることが示され、このナプキンを中心に話が展開していく。展開部ではナプキンが徐々に汚れていく様子が描かれる。また、ジュスタンと恋人がナプキンに気を遣っていないことも分かる。4人の詩人が病気に感染した末に死んでしまうと、結末部で《事件》に至る。この《事件》によって、ようやくジュスタンと恋人はナプキンに浮きでた絵姿が奇蹟ではないことに気づいた。
 また、最初の一文「生活のどん底、芸術の極致に身をおいて、ジュスタン・プレロオグは画家だった。」と最後の一文「芸術のどん底、生活の極致に向って逃げ出したまえと。」が、は対称関係にある。ジュスタンの芸術至上主義な態度を、4人の詩人が否定していることが分かる。

○視点
 客観的視点で語られる。

<題材>
ナプキン、病気の感染、死、詩人の恨み言。

<話題>
(1)ジュスタン・プレオログは生活の全てを芸術に捧げた作家であった。(2)ジュスタンの家には4人の詩人が食事に来ていた。→(3)4人は同じ洗濯されていないナプキンを、知らぬ間に使い回していた。→(4)4人はナプキンの所為で次々に病死していった。→(5)ナプキンには亡くなった詩人全員の姿が浮きでていた。→(6)ジュスタンと彼の恋人は4人の詩人の怨念を感じ取る。

<主題>
芸術至上主義への皮肉。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「詩人のナプキン」を「後味が悪い」作品だと判断した。主人公のジュスタンと恋人は、全く意識しないままに4人の詩人を殺してしまう。結末部での、詩人達の命令によってようやくその事実に気づく、加害者意識のなさが「後味の悪さ」を生んでいる。


(21)「剃刀」
志賀直哉(1883-1971)、1910年。
頁数:12頁(「恐ろしい話」pp.209-220)、196行。
主人公:芳三郎

<あらすじ>
 麻生六本木の辰床の亭主である芳三郎は、今まで一度も客の顔を傷つけた事が無い程の剃刀の名人であった。芳三郎が風邪の所為で珍しく寝込んでいた際に、剃刀を研いで欲しいという客がやって来る。調子の悪いまま無理して剃刀を研いでいたが、満足な仕事が出来ず、再び寝込んでしまった。
 夜になって起きた芳三郎のもとに、昼間にはまともに研げなかった剃刀が再び持ち込まれる。芳三郎は意地になって、その剃刀を研ごうとする。しかし、寝間では上手く研ぐ事が出来ないので、店の方に出て行く。先ほどより調子良く剃刀を研ぐ事が出来ていたが、その時若い男の客がやって来る。芳三郎は自分が仕事をすると言って、譲らなかった。しかし、実際に仕事をしてみると、いつものように上手くいかなかった。いつの間にか、周りの人間はいなくなり、若い男も眠ってしまった。朦朧としていた芳三郎は休もうと幾度も考えたが、綺麗に剃ることにこだわって止められなかった。その時、芳三郎は若い男の咽に少しだけ傷をつけてしまう。その傷を見ていた芳三郎に今までになかった感覚が生まれた。そして、芳三郎は剃刀で一気に若い男の咽を割いた。若い男はそのまま死んでしまった。芳三郎は緊張が緩みそのまま寝入ってしまった。

<プロット>
《事件》芳三郎が若い男の咽に剃刀で小さな傷をつける。

○題材
 「剃刀」には、芳三郎、お梅、若い男、兼次郎、錦公が登場する。芳三郎は剃刀の名人で、とことんまで仕事をやり抜く完璧主義の男として設定されている。また、今まで一度も客の顔を傷つけたことがなかった。作品中では、風邪のために普段の状態とは違って、全ての仕事が上手くいかず不満がたまる。他の登場人物も、各々が芳三郎に不満を与える。お梅は芳三郎を心配する気持から彼に様々な忠告をするが、かえって芳三郎は不満を溜め込んで行く。若い男は風邪で気分の悪い芳三郎を更に不愉快にするような性格づけがされている。兼次郎と錦公は風邪で寝込んでいる芳三郎の仕事を代わりに行なう。しかし、中途半端な仕事の出来が、完璧主義の芳三郎に不満を与えた。そのような不満が話の展開とともに積っていき、《事件》によって緊張状態は頂点に達する。そして、芳三郎は殺人を犯す。その結果、緊張から解き放たれる。
 舞台は芳三郎の店である。剃刀を研ぐ仕事や若い男がやって来る要因である。

○配列
 「剃刀」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、風邪で寝込んでいる芳三郎が描かれ、既に普段とは違うことが分かる。また、床屋も頼りになる人間がいないという現状が示される。展開部では、芳三郎に剃刀を研ぐ仕事が持ち込まれる。ここから、剃刀が上手く研げないことや、お梅の忠告など様々な不満が芳三郎に溜まるようにして作品は展開して行く。そして、若い男の鬚を剃る最中に朦朧としていながらも、完璧な仕事をしようと考え過ぎるあまりに《事件》が起こる。初めて、客の顔を傷つけた芳三郎の緊張は頂点に達して、殺人を行なう。そのまま、結末部にはいり、芳三郎が緊張状態から解放されて眠りにつく場面が描かれて終わる。

○視点
 一元的視点で語られる。語り手は芳三郎に寄り添った視点で語っている。芳三郎への共感を誘うような仕組みだといえる。更に、終盤の《事件》と殺人に向けて心情描写が細かくなって行く。より共感的になるように仕組まれている。

<題材>
剃刀、床屋。

<話題>
(1)芳三郎の床屋の現状。→(2)風邪で寝込んでいる芳三郎のもとに剃刀を研ぐという仕事が持ち込まれる。→(3)芳三郎は剃刀を研ぐが、上手くできなかった。→(4)夜になって再び剃刀を研ぐ仕事が持ち込まれる。→(5)芳三郎は寝間では研げないので仕事場にでる。→(6)若い男が客でやって来て、芳三郎が鬚を剃り始める。→(7)仕事場には、芳三郎と男だけになる。→(8)朦朧とした芳三郎が男の咽に傷を付ける。→(9)芳三郎が男の咽を切る。→(10)芳三郎は緊張から解け、眠る。

<主題>
普通の人間が殺人にいたるまでの心理。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「剃刀」を「後味が悪い」作品だと判断した。芳三郎に共感するような語り方がなされているが、最後には芳三郎が殺人を犯してしまう。共感していた人間が加害者性を持つことに「後味の悪さ」を感じる。


(23)「三浦右衛門の最後」
菊池寛(1888-1948)、1916年。
頁数:11頁(「恐ろしい話」pp.223-233)、182行。
主人公:三浦右衛門

<あらすじ>
 天正の末年、駿河の今川家の館が陥落した。その直後、駿河の府中からそう遠くない田舎に一人の美しい顔をした少年の落人がやって来た。その少年は田舎の子供と喧嘩になり手篭めにされてしまう。運良く周囲の大人が助けてくれ、難を逃れたかに見えた。その時、少年は三浦右衛門という自分の名前を口走った。その名前は今川家頽廃の原因として駿河の国に広まっていた。ただ実際は、右衛門が氏元の過度の寵愛を受けたことと今川家の頽廃が時期的に一致していただけで、右衛門には何らの責任もなかった。右衛門の名前を聞いた村人は、彼の持ち物を全て剥ぎ取った。右衛門は何とか命だけは助かったが、命乞いまでさせられ、無様な姿を晒してその場から逃げ去った。
 二日後、右衛門は天野刑部の城まで逃げ延びてきた。右衛門は、刑部への恩があるために匿ってもらえると考えたのである。刑部は右衛門の処遇について悩むが、氏元が既に切腹したという報せを聞き、右衛門の首を織田家に差し出すことが最も有益であると判断した。右衛門は、主君を見捨てた咎で刑場に引き出された。その場で、右衛門は死を恐れ、命乞いをする。しかし、刑部は命乞いをする右衛門を嘲笑し、命の代わりに体の一部を差し出すように命令した。右衛門は、刑部に言われるまま、右手、左手、右足を差し出した。そして、最後に首を切り落とされるときまで、命乞いを続けていた。
 語り手は、戦国時代の勇猛な武士よりも、このような右衛門の姿こそが人間らしいと評した。

<プロット>
《事件》特になし。登場人物の心情が変化するような出来事はない。

○題材
 「三浦右衛門の最後」の主人公、三浦右衛門は「一人の無邪気な少年に過ぎない」と評されているように、武士には相応しくない人物であった。彼は、「勇ましく死ぬと云う事が一の見栄であ」る他の武士とは違い、幾度も命乞いをする。そんな右衛門を周囲の人間はあざ笑い蔑む。しかし、作者はこんな右衛門こそが、「"There is also a man"の感に堪えなかった」と評している。右衛門以外の人物は、武士は勇猛に死んでいく存在だと信じきっている。この価値観の違いが、右衛門への酷い迫害に繋がる。

○配列
 「三浦右衛門の最後」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部で、府中から遠くない村の様子が描写される。直後の展開部で三浦右衛門がこの村を訪れることで、事態が展開していく。右衛門は村の若者から脅されて命乞いをさせられる。高田天神の城でも、天野刑部や他の武士から過酷な扱いを受け、残酷な方法で処刑されてしまう。結末部で、作者はこのような右衛門の態度こそが真の人間らしさであると語る。

○視点
 客観的視点で語られる。作者が語り手として、この時代の他の人間と右衛門の違いをことあるごとに比較して、右衛門の特異性を強調している。

<題材>
命乞い、無邪気さ、真の人間らしさ。

<話題>
(1)駿河の今川家の屋敷が陥落する。→(2)府中から遠くない村に三浦右衛門がやってきて子供と喧嘩になる。→(3)右衛門の正体がばれる。→(4)右衛門が身ぐるみを剥がされる。→(5)右衛門が命乞いをして許しを乞う。→(6)右衛門が高田天神の城につく。→(7)城主の天野刑部が右衛門を捕らえ、処刑しようとする。→(8)右衛門が命乞いをする毎に体の一部位を切り落とす。→(9)右衛門の首を落とす。→(10)作者が右衛門こそが真に人間らしいと評する。

<主題>
本当の人間らしさ。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「三浦右衛門の最後」を「後味が悪い」作品だと判断した。まず、三浦右衛門は最後に処刑されてしまう。主人公の不幸な出来事が「後味の悪さ」を生じさせる。
 また、三浦右衛門は戦国時代には珍しい価値観を持った武士として描かれる。そのため、武士としての威厳なさから農民に蔑まれる。更に、同じ武士からもあざ笑われる。天野刑部に至っては、命乞いをするたびに、体の一部分を切り落とすという残酷な処刑を行なう。このような一方的な扱いは、右衛門の被害者性を強めており、「後味の悪さ」を強調する。


(24)「罪のあがない」
サキ(1870-1916)/中西秀夫(訳)、1919年。
頁数:7頁(「恐ろしい話」pp.317-325)、148行。
主人公:オクテヴィアン

<あらすじ>
 ある日、オクテヴィアン・ラトルは自らのヒヨコを食い荒らすブチネコを殺した。そのブチネコは隣家の飼い猫だったので、その家の主人と相談して殺す許可を得ていた。また、その家の子供たちを悲しませないように、子供たちには秘密で猫を殺すことに決まった。しかし、ブチネコを殺害する現場を、運悪く子供たちに目撃されてしまう。子供たちは、オクテヴィアンを激しく憎んでいる様子であった。オクテヴィアンが事情を説明しても、子供たちは納得せず、オクテヴィアンを「ケダモノ」と呼んだ。
 オクテヴィアンは子供たちに許してもらおうとお菓子をプレゼントしたが、受けとってもらえなかった。更に、ヒヨコを殺していたのはブチネコではなく、ネズミであったことが判明した。その事実を知った子供たちの憎悪は増すばかりであった。オクテヴィアンも、子供たちに許してもらおうと、更に熱心になっていった。
 ある日、オクテヴィアンは二歳の娘のオリヴィヤをと遊びながら、子供たちの好きな花を尋ねた。子供たちが指した花を摘んで戻ってくると、オリヴィヤがブタ小屋に連れ去られていた。ブタ小屋の屋根に上った子供たちは、オリヴィヤに復讐を行なおうとする。オクテヴィアンが子供たちと問答をしている間に、オリヴィヤが泥の中へ落ちてしまう。オクテヴィアンは助け出そうとするが、間に合いそうもなく子供たちに助けを求めた。子供たちは、オクテヴィアンに猫の墓の前に立って、シーツ一枚で懺悔するように要求した。オクテヴィアンが、その要求を呑むとオリヴィヤは何とか救われた。
 その夜、オクテヴィアンは子供たちの要求通りに懺悔を行なった。子供たちもその様子をキチンと監視しているようであった。翌朝、オクテヴィアンは子供たちからのメッセージを受けとる。そこには、「オカシナケダモノメ」と書かれていた。

<プロット>
《事件》娘のオリヴィヤを人質にとって脅される。

○題材
 「罪のあがない」には、オクテヴィアンと三人の子供が登場する。オクテヴィアンは仕方のない事情で猫を殺してしまうが、そこを飼い主の三人の子供に見られていた。オクテヴィアンは、「友達仲間から全面的に賛成の目で見られてはじめて心がやすらぐタイプ」なので、何とか子供たちに許してもらおうと奮闘するが子供達には受け入れられなかった。三人の子供は、事情など関係なく猫を殺したオクテヴィアンを恨んでいた。また、彼等の情報が少ないことからどんな子供か分からず、不気味な存在として描かれている。

○配列
 「罪のあがない」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部で、オクテヴィアンが猫を殺した事情が示される。展開部では、オクテヴィアンが子供たちに許してもらおうと奮闘する様子が描かれ、話が展開していく。娘を利用して、子供たちに取り入ろうとするが、《事件》が起き、オクテヴィアンは子供たちの要求を受け入れる。子供たちの要求通りに謝罪したオクテヴィアンだったが、結末部で子供たちから「オカシナケダモノメ」という返事がきて、終わる。

○視点
 一元的視点で語られる。語り手がオクテヴィアンに寄り添うことで、オクテヴィアンに共感的になるように仕掛けられている。また、子供たちの心情が描写されず、不気味な存在として描かれている。

<題材>
贖罪。

<話題>
(1)オクテヴィアンが猫を殺す。→(2)猫の飼い主の子供から敵意を持たれる。→(3)オクテヴィアンが子供たちにチョコレートを送る。→(4)鶏を殺したのが猫でないということが分かる。→(5)娘のオリヴィヤを利用して子供たちに近づこうとする。→(6)子供たちの好きな花を摘みにいく。→(7)オリヴィヤが子供たちに攫われる。→(8)オリヴィヤを助ける為に子供たちの要求をのむ。→(9)オクテヴィアンは子供たちの要求通りの方法で謝罪する。→(10)子供たちからは「オカシナケダモノメ」というメッセージが返ってきた。

<主題>
純粋な子供の恐ろしさ。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「罪のあがない」を「後味が悪い」作品だと判断した。作品の最後でオクテヴィアンは、子供たちの要求通りの謝罪をしたにも関わらず、「オカシナケダモノメ」という罵倒のメッセージが返ってくる。要求をのんだにも関わらず、子供たちがオクテヴィアンを許さないというのは、理不尽なことである。この理不尽さは「後味の悪さ」を生じさせる。
 この作品の最後の文は「オカシナケダモノメ」と訳されているが、他の訳では、「モトケダモノ」という訳があった。原文では、"Un-Beast"(原文はhttp://www.readbookonline.net/readOnLine/854/woを参照)と書かれている。
 この訳文の違いは、「後味の悪さ」に影響する。「オカシナケダモノメ」は子供たちがオクテヴィアンを許さなかったと考えられる。しかし、「モトケダモノ」は子供たちがオクテヴィアンを許したと考えることが出来る。この場合、オクテヴィアンの誠意が通じ、子供たちが謝罪を受け入れているから、「後味は良く」なる。
 ただし、今回は『恐ろしい話』に収録された訳を研究対象とする。


(26)「蠅」
ピランデルロ(1867-1936)/山口清(訳)、1923年。
頁数:14頁(「恐ろしい話」pp.35-48)、245行。
主人公:ザルー&ネーリ

<あらすじ>
 ネーリとサーロのトルトリーチ兄弟は、医者を探して町へ急いでいた。兄弟は、医者の家を訪れ、いとこのジュルランヌ・ザルーが危篤に陥っていることを伝える。サーロは医者を連れて行く為の騾馬を探しに行き、ネーリはひげを剃りに行った。ネーリはザルーの病気よりも婚約者に逢うことを気にしていたのである。
 理髪店で、ネーリは事の経緯を話した。昨日、ネーリとサーロ、ザルーの三人は巴旦杏を打ち落とす仕事をしていたが、農場主の言いつけで皮むきの仕事をやることになった。待遇に不満を抱いたザルーは、一人きりで馬小屋の中で寝ていた。今朝になって、サーロは高熱にうなされるザルーを見つけた。ネーリの話に興奮した理髪師は、ネーリの顎に小さな切り傷をつけてしまう。ネーリは傷を気にせず、農場へと向かった。
 農場の馬小屋に寝ていたザルーは顔が黒く腫れ上がり、酷い状態であった。医者はザルーを診断し、虫に刺されたことで炭症病になっていると考えた。医者が兄弟に説明している間、ザルーは壁に止まっている蠅を見ていた。その蠅こそが炭症病の媒介であった。蠅はネーリの顎の切り傷に飛んで行った。ネーリは蠅に気づかない様子であった。ザルーはその蠅のことを何も言わずに見ていた。ネーリは虫に刺されたことに気づき、また自分を見つめるザルーの奇怪な微笑にも気づいた。ザルーが蠅に刺されたことを伝えると、三人はネーリの傷を確かめるために馬小屋を出て行った。ネーリが蠅に刺されたことが判明すると、三人は慌てふためき農場を去った。ザルーは、蠅とともにその場に置き去りにされた。

<プロット>
《事件》炭素症の媒介である蠅がネーリを刺す。

○題材
 「蠅」には、ネーリ・トルトリーチ、ジュルランヌ・ザルー、医者(シードロ・ロピッコロ)、サーロ・トルトリーチが登場する。ネーリは心やさしい人物として語られるが、「ザルーの病気よりも婚約者ルッツァのしかめづらの方が一層気にかかっていた」という部分から利己的な一面が窺える。また、「ネーリは自分の首に巻きついているザルーの手をはずしながら言った」という行動からも、病気のザルーに触られることに嫌悪感を持っていると推測できる。ザルーは、「このように美しく、元気な、若いいとこに対する暗い羨望と、はげしい嫉妬」から《事件》を放置するという行動にでる。このように二人がお互いに相手のことを思いやらないからこそ、二人ともが不幸な結果に陥る。サーロは心底からザルーを心配している様子であったが、最終的には弟を優先する姿が描かれる。サーロの行動がザルーの不幸な運命(死)を決定づけている。医者は他の登場人物に状況の解説をする役割がある。
 舞台としては、農場が点在する田舎という設定がされており、自然との密接な関係が暗示される。

○配列
 「蠅」の出来事は時間経過に沿って配置されている。理髪店でネーリが経緯を語る部分だけが回想であり、過去の出来事について述べられている。
 冒頭部、ネーリとサーロが町に急いでいる姿が描写される。二人の様子から一刻を争う出来事が起こっていることが分かる。続く展開部では、場面が切り替わり医者に農場までの往診を要請する。騾馬を呼びに行く間に、ネーロは理髪店で鬚をそる。ここで「その日、彼はザルーの病気よりも婚約者ルッツァのしかめづらの方が一層気にかかっていた」という心情が描写されることで、ネーリにとっての優先順位は婚約者の方が上であることが分かる。理髪店では、ネーリによって今回の事態の始まりの部分が回想として語られる。この回想は事態の説明であると同時にネーリの顎に傷がつく原因ともなる。農場に向かい到着した所で、ザルーを心配するネーリとサーロが描かれる。しかし、ここでもネーリはザルーより婚約者のことを気にかける。そんなネーリに嫉妬心と羨望を抱いたザルーは、《事件》が起きていることにいち早く気づきながらも、誰にもそれを告げない。ネーリが《事件》に気づくと取り乱し、医者やサーロとともに慌てて町に帰っていった。その直後の結末部では馬小屋に取り残されたザルーと蠅が描かれて終わっている。

○視点
 客観的視点で語られる。ただし、多くの人物の心情を描いている。一つの出来事に対する登場人物それぞれの心情描写がされることで、様々な見方が示され、物語に重層性が生まれる。その中でも、馬小屋でネーリとザルーがお互いに手を取り合いながらも、それぞれ自分の優先することを考えている様子から、人間の利己的な部分が垣間見える。結果的にその利己心によって、ネーリとザルー両方が不幸な目に遭う。

<題材>
蠅(媒介)、炭症病、嫉妬、羨望、利己心。

<話題>
(1)ネーリとサーロが町へ医者を呼びにやって来る。→(2)医者に農場に着いてきてもらうように頼む。→(3)ネーリは騾馬を探す間ひげを剃りにいく。→(4)理髪店で昨日の出来事について話す。→(5)農場への道中。→(6)馬小屋でのザルーの診察。→(7)ザルーは蠅がネーリを刺すのを見ている。→(8)蠅に刺されたことに気づいたネーリ達は農場を去る。→(9)ザルーは馬小屋にとりのこされる。

<主題>
利己心の愚かさ。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「蠅」を「後味が悪い」作品だと判断した。ネーリとサーロがお互いに自らの心情を優先することで最悪の結果(二人とも炭症病に感染する)に至る。


(30)「竈の中の顔」
田中貢太郎(1880-1941)、1928年。
頁数:17頁(「恐ろしい話」pp.141-157)、287行。
主人公:三左衛門

<あらすじ>
 相場三左衛門は、湯治にやってきた湯宿で、碁が好きな僧と出会った。その僧は何度も宿を訪れ、その度に三左衛門と碁を打った。宿の主人は、三左衛門に山に住む怪しい僧の話をしたが、碁を打ちに来る僧は大丈夫だろうとも話した。三左衛門も怪僧の噂については、特に深く考えなかった。三左衛門は、いつも僧にばかり来てもらって申し訳なく思っていたので、一度僧の家を訪れることを提案した。しかし、僧はその申し出を断った。
 ある日、僧が宿に来なかった。三左衛門は、暇潰しに若党を連れて山に入って行った。山道から少し外れたところを散策していると、若党が小屋を見つけた。三左衛門は、僧が住んでいる小屋だと考え、訪ねてみることにした。
 案の定、その小屋には、かの僧が住んでいた。僧は三左衛門達の訪問を快く思っていないようであった。三左衛門が僧と話をしているとき、不意に竈を覗くと、そこに何者かの顔が見えた。更に、僧が薪を取りに行っている間に仏壇を開くと、そこには男の生首が置いてあった。三左衛門は、不気味な気がしてさっさと小屋を去ろうとした。三左衛門は、僧に怪しまれないように注意しつつ小屋を去った。
 三左衛門は宿に帰ると、主人に小屋での出来事を話そうとした。しかし、主人は、その僧こそが山に住む怪僧であり、僧についての話をすると命が取られると警告した。三左衛門は、主人の警告に従って、すぐに江戸へと帰った。すると、道中の宿へと迎えの人間がやってきた。ある僧が、三左衛門の帰りを知らせたということであった。三左衛門が屋敷へ帰ると、帰国の祝いが開かれた。その時、末の男の子が縁側で叫び声を上げた。三左衛門が駆けつけると、男の子の首の無い体が倒れていた。

<プロット>
《事件》僧の庵の竈に顔が見える。

○題材
 「竈の中の顔」には、相場三左衛門、湯宿、(怪)僧の主人が登場する。相場三左衛門は碁の好きな武士と設定されている。同じく碁の好きな僧と知り合うきっかけとなる。また、僧の庵で、竈の中の顔を目撃した時も「剛胆な男であったから何も云わずに僧の顔を見た」。この剛胆な性格のおかげで、三左衛門は冷静に出来事に対処するが、最終的には理由も分からずに、末の男の子が殺される。湯宿の主人は三左衛門に怪僧の噂を教える役目を担っている。しかし、主人の与える情報は断片的な噂であり、怪僧の存在や竈の中の顔が判明する程ではない。僧は、主人が噂していた怪僧の正体であるらしく描かれているが、その正体は判然としない。

○配列
 「竈の中の顔」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、三左衛門と僧の出会いが描かれる。この時点では、ただの碁が好きな僧として描かれている。その後の展開部の始めに、湯宿の主人から山に住む怪僧の噂が示される。僧の庵を訪れた三左衛門は、《事件》に遭遇すると僧への態度を改め、その正体を疑い始める。しかし、結局《事件》の理由や、僧の正体は分からないまま帰国することになる。結末部では、突然末の男の子の首がなくなる様子が描かれて、そのまま終わる。

○視点
 一元的視点で語られる。語り手は三左衛門に寄り添っている。三左衛門への共感を誘うような仕組みだといえる。

<題材>
怪僧、生首、竈の中の顔、末の男児の死。

<話題>
(1)相場三左衛門と僧の出会い。→(2)怪僧の噂を聞く。→(3)僧が来ない日に山へ散策に出掛け、僧の庵を発見する。→(4)庵の中で僧と話していると、竈の中に顔が見える。→(5)僧を怪しく思った三左衛門は庵から去る。→(6)宿の主人に僧の話をすると、帰国を勧められる。→(7)途中の宿に、僧の知らせで迎えの人間が来る。→(8)帰国の祝いの途中に末の男の子の首が亡くなって死ぬ。

<主題>
不可解な出来事による恐怖。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「竈の中の顔」を「後味が悪い」作品だと判断した。三左衛門が出会った僧の正体や竈の中の顔、末の男の子が何故死んだのかということが全く説明されず、不可解さが残る。また、何も関係のない男の子が殺されるという点が理不尽である。この不可解さと理不尽さが「後味の悪さ」を生んでいる。


(31)「死後の恋」
夢野久作(1889-1936)、1928年。
頁数:28頁(「恐ろしい話」pp.257-284)、489行。
主人公:コルニコフ

<あらすじ>
 ロシア革命直後、浦塩の兵站部に所属する日本兵に、一人の男が話し掛けた。その男は、自分を苦しめる「死後の恋」についての話を聞いて、一つの判断を下して欲しいと言う。男は誰も本気で取り合ってくれず、今では変人扱いされているという。男の頼みを日本兵は承諾する。
 男は名前をコルニコフといい、かつて白軍の兵隊であった。一九一八年の八月、烏首里という村に滞在中、コルニコフはリヤトニコフという兵士と出会った。同郷であることや、趣味を同じくしていることから二人は打ち解けた。そんな時、リヤトニコフはコルニコフに驚くような事実を伝える。その事実とは、リヤトニコフはロマノフ王家に連なる者であったが、当時の露西亜情勢を鑑みた両親から、身分を証明するような貴重な宝石を持たされて家から逃がされた、というものであった。今までその事実をひた隠しにしてきたリヤトニコフであったが、ロマノフ王家の人間が全員殺害されたという報を聞き、途方に暮れてコルニコフに相談したのである。コルニコフは、リヤトニコフの話の真偽について考えたが、結局は深く関わらない方が良いと判断した。しかし、コルニコフは、リヤトニコフが見せた宝石がどうしても欲しくなってしまう。リヤトニコフが斥候任務に出ることを知っていたコルニコフは、彼が戦死することを恐れて、任務に同行することを決める。
 烏首里からニコリスクまでの斥候任務の途中、コルニコフの小隊は赤軍の奇襲を受ける。小隊全員が油断していたために、森におびき出された末に全滅してしまう。コルニコフだけが足に怪我をしたことで、森に入ることが出来ずに生き残る。戦闘が終了した後、コルニコフは、何かに導かれるようにして森に逃げ込む。その森に入った時に、コルニコフはリヤトニコフの宝石のことを思い出した。宝石を手に入れたい一心で、コルニコフは森の中を進んで行くが、何も見つからない。コルニコフが一息いれようと火をつけた時に、周囲に戦友の屍体が吊るされていたことに気づく。その屍体は酷く痛めつけられており、コルニコフは大きな衝撃を受ける。その中には、リヤトニコフの屍体もあった。宝石はリヤトニコフの屍体に銃で撃ち込まれていた。さらに、リヤトニコフが女性であったことが、コルニコフを驚かせた。
 リヤトニコフが自分に恋をしていたために秘密を打ち明け、そして、彼女が死後も自分を思い、宝石を与えるために森に招き寄せたのだと、コルニコフは考えた。コルニコフは、そこで手に入れた宝石を日本兵に見せ、話を信じてくれたお礼に宝石を譲ると言う。しかし、日本兵は突然去ってしまう。コルニコフは、「死後の恋」の話をまたもや否定されたことに深い悲しみを覚えるのであった。

<プロット>
《事件》リヤトニコフの正体は女性で、コルニコフに恋をしていた。

○題材
 「死後の恋」には、コルニコフ、リヤトニコフ、日本兵が登場する。全文がコルニコフの談話文であるから、彼の人物描写はされない。しかし、例えば「手早く申しますと私は、事情のいかんにかかわらず、その宝石が欲しくてたまらなくなったのです」という言葉からコルニコフが自分を飾らないように話をしていることが分かる。これは、死後の恋の話を正確に伝えたいという思いがあるかれである。それだけ、彼にとって死後の恋が重要で大切な出来事だということが分かる。ただし、この死後の恋の話はコルニコフの考えであって、事実だという保証はない。リヤトニコフは、自分の正体を隠す必要がある人物として設定された。そのために、コルニコフとの関係が進展し難く、二人が結ばれることはなかった。日本兵はコルニコフが話をする相手である。コルニコフは、彼を身分のある人間で、露西亜人にも理解のある人間と考えて、聞き役を依頼する。

○配列
 「死後の恋」では、現在の視点から過去の出来事を時間経過に沿って配置していき、現在に至る経緯が語られる。
 物語開始時点から既に《事件》は終わっている。その事件についての話をするという作品構成になっている。全文がコルニコフの談話であるため、冒頭部でも会話から始まる。コルニコフがこれから話す話題についての前振りを行なう。展開部から、話の本題に入る。《事件》に至るまでの経緯が語られていくが、これは既に起こった出来事であるので、コルニコフの心情が変化することはない。ただ、現在のコルニコフがとにかく話を聞いてもらう為に様々な努力をしていることから、この《事件》が彼に与えた影響は非常に大きいことが分かる。結末部において、日本兵に死後の恋の話を否定されることで失意に陥って終わる。

○視点
 一元的視点で語られる。しかも、本作品は全ての文が談話文であるため、語り手のコルニコフに共感し易く仕組まれているといえる。

<題材>
ロマノフ王家、ロシア革命、死後の恋。

<話題>
(1)コルニコフが日本兵に死後の恋の話を聞いてくれるように依頼する。→(2)コルニコフが自らの来歴を語る。→(3)コルニコフがリヤトニコフと出会う。→(4)リヤトニコフから秘密を打ち明けられる。→(5)リヤトニコフの斥候任務についてニコリスクに向う。→(6)小隊が赤軍の奇襲を受ける。→(7)生き残ったコルニコフは何かに導かれて森に向う。→(8)リヤトニコフの宝石を探す。→(9)仲間の死体を見つける。→(10)リヤトニコフの死体を見つけ、女性であることが分かる。→(11)コルニコフはリヤトニコフが自らに恋をしていたため、死後に私を呼び寄せたと考える。→(12)日本兵に御礼の宝石を渡そうとする。→(13)日本兵がコルニコフの話を疑い、去る。→(14)コルニコフは失意に暮れる。

<主題>
死後の恋の存在を確認する。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「死後の恋」を「後味が悪い」作品だと判断した。コルニコフとリヤトニコフの悲恋とその話を日本兵が信じてくれないという不幸が重なっている。このコルニコフの救われなさに「後味の悪さ」を感じた。


(38)「マウントドレイゴ卿の死」
モーム(1874-1965)/田中西二郎(訳)、1939年。
頁数:39頁(「恐ろしい話」pp.343-382)、712行。
主人公:マウントドレイゴ卿

<あらすじ>
 腕の良い精神分析家であるオードリン博士はマウントドレイゴ卿が診察時間に遅れていることを不思議に思っていた。博士は、卿のこれまでの診察について思いを巡らせていた。
 マウントドレイゴ卿は、オードリン博士の下へと最近見ている夢についての相談にきていた。卿は非常に有能な外務大臣であると同時に、自らの貴族階級を異様に鼻に掛ける人間であった。しかし、夢の中での卿は、非常に下卑た振る舞いをしていた。また、なぜかその夢を平民階級の議員、オウェン・グリフィスと共有しているらしいというのである。その証拠に、オウェンは夢の中での卿の振る舞いから、彼を下等な人間と考えているらしかった。更に、夢の中での出来事は、オウェンにまで影響を与えているようすであった。
 マウントドレイゴ卿は、このような夢に苦しめられており、オウェンを殺すか、自殺するしか無いと考える。オードリン博士は、苦労の末に、オウェンを傷つけた事実を、卿から聞き出す。卿は、労働党で調子づいていたオウェンを、議会の場で完膚なきまでに叩きのめし、彼の将来を潰してしまっていた。博士は催眠治療を開始するが上手くいかず、卿の容態は日に日に悪化していた。遂に、博士は、オウェンに謝罪する以外に、卿を救う方法はないと考える。しかし、卿は断固としてその方法を拒否した。
 いくら待ってもマウントドレイゴ卿が現れなかった。オードリン博士は夕刊を見る。すると、そこには卿が急死したという報がのっていた。また、オウェンも急死していた。博士はこの奇妙な一致に恐怖を感じた。

<プロット>
《事件》マウントドレイゴ卿が下卑た振る舞いを行なう夢を、オウェン・グリフィスと共有していること。

○題材
 「マウントドレイゴ卿の死」にはマウントドレイゴ卿、オードリン博士、オウェン・グリフィスが登場する。オードリン博士は非常に有能な精神分析家であり、不思議と人を癒す力があった。博士は自身の力を信じていなかったが、その力に効果があることは認めていた。彼は様々な患者を診察してきた経験から多少のことには動じないようになっていた。そのような人間であるからこそ、マウントドレイゴ卿の強情な態度にも屈せずに診察を進めていくことが出来た。マウントドレイゴ卿は、非常に有能であり、その力に見合った外務大臣の地位についていた。しかし、生粋の貴族主義者である卿はその気位の高さ故に敵が多かった。また、そのような性格が今回の《事件》を引き起こし、またその解決の機会を逃す原因にもなった。オウェン・グリフィスは、マウントドレイゴ卿の話の中にだけ、登場する人物である。マウントドレイゴ卿が彼を見下している為に、非常に下等な人間として語られる。マウントドレイゴ卿の評価が真実かどうかは、グリフィスが実際に登場しないので判断できない。ただ、マウントドレイゴ卿がグリフィスを下等な人間と考えているからこそ、卿は自分の下卑た振る舞いを見られることに、より大きな屈辱を感じていた。

○配列
 「マウントドレイゴ卿の死」は、現在のオードリン博士の視点から過去の出来事を時間経過に沿って配置している。現状に至るまでの経緯が示された後、結末部では現在のオードリン博士の出来事が配置される。
 冒頭部では、現在のオードリン博士が、マウントドレイゴ卿が診察時間に遅れていることに疑問を抱く様子が描かれる。卿の人間性が垣間見えるエピソードであると同時に、既に何らかの以上が起きていることを冒頭部から示している。また、ここでオードリン博士の人となりが語られることで、博士の下に診察に来る人間が何らかの心の病を抱えていることが分かる。次にマウントドレイゴ卿の人となりが語られる。そして、展開部では、過去のマウントドレイゴ卿の診察の場面が描かれる。卿の「専大な態度、倣岸な矜持の背後に、自分でははらいのけることのできぬ不安がわだかまっている」様子から卿の悩みが非常に深刻であることが伝わる。診察が進み卿は《事件》について語り始める。この《事件》が非常に卿を苦しめており、この時点でかなり切羽詰まっている様子(「もし先生が何とかしてわたしを助ける方法をおもちにならないなら、わたしに残されたことは、自殺するか、きゃつを殺すかの二つしかないでしょう」)が描かれる。同時に、自分の職業や階級についての発言から、卿にとっての誇りや責任、階級の重要さが描かれる。これが、オードリン博士が推奨する唯一の方法(グリフィスに謝罪するということ)を頑に拒絶する理由に繋がる。結局《事件》は解決しないまま、結末部で現在の時間軸に戻って来る。そして、遂に博士は卿とグリフィスの死を知り、その偶然の一致が「何とも知れぬ異様な、原始的な恐怖」として感じられた。一連の《事件》とその結末の不可解さが強調されて、作品は終わっている。

○視点
 一元的視点で語られる。オードリン博士の心情だけが描写される。聞き役であるオードリン博士の視点で出来事を眺めることで、《事件》が解決されず、その謎や不可解さが印象深くなるようになっている。

<題材>
夢の共有、死、誇り。

<話題>
(1)現在のオードリン博士がマウントドレイゴ卿についての診療を思い出す。→(2)オードリン博士の人物造形。→(3)マウントドレイゴ卿の人物造形。→(4)博士と卿の診察での会話1(卿が相談をためらう)。→(5)卿の見ている夢の話1(卿は宴会の場でズボンを履いていなかった)。→(6)卿の夢の話2(卿は議会の場で突然歌いだす)。→(7)卿の夢の話3(場末のバーで娼婦を買う)。→(8)博士と卿の診察での会話2(卿が追いつめられた心情を語る)。→(9)マウントドレイゴ卿とオウェン・グリフィスの因縁。→(10)その後のマウントドレイゴ卿の治療。→(11)オードリン博士がグリフィスに謝罪するという提案をすると、マウントドレイゴ卿はその提案を拒絶する。→(12)現在のオードリン博士がマウントドレイゴ卿を待つのを諦める。→(13)マウントドレイゴ卿の死を知る。→(14)グリフィスの死を知り、奇妙な一致に恐怖する。

<主題>
マウントドレイゴ卿の非常な気位の高さ故の苦しみ

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「マウントドレイゴ卿の死」を「後味が悪い」作品だと判断した。夢の共有という《事件》やマウントドレイゴ卿とグリフィスの死が一致したことなどについて何も解決が示されずに終わってしまう。このような不可解さが「後味の悪さ」を生んでいる。
 ただし、マウントドレイゴ卿の死自体は、あまり「後味の悪さ」を生む要因とはならない。卿の死は、頑に自分の態度を変えなかったからであり、また、そもそもの《事件》の発端も卿にある。つまり、卿には《事件》に巻き込まれることになった責任が大いにある。そのため、卿の死は妥当な出来事だといえる。


(39)「爪」
アイリッシュ(1903-1968)/阿部主計(訳)、1941年。
頁数:13頁(「恐ろしい話」pp.51-63)、226行。
主人公:アンディ

<あらすじ>
 元警部のモロウは、友人とともにシチューが名物のロベール料理店を訪れた。そこでモロウは、この料理店と関わりの深い事件を思い出して語る。
 五年前、料理店の近くにある骨董屋の店主が、強盗目的で殺害された。捜査に赴いたモロウ警部は、金庫をこじ開けた際に犯人の爪が剥がれたことに気づく。また、足を悪くしていた骨董屋の店主が、近場の料理店から食事を配達してもらっていたことにも気づく。モロウは、犯人が爪に怪我をした給仕だと推理した。
 ロベール料理店で働くアンディは、店主のロベールから警察が捜査にきていることを知らされた。彼は調理場に誰もいなくなった隙に、ポケットの中の紙幣を燃やしてしまう。そして、逃げようとしたが、既に店の周囲に警察が張り込んでいることに気づく。アンディは、必死になって逃げる方法を考えた。ロベールが戻ってくると、アンディは仕事を早退したいと告げた。アンディが店を出ると、すぐに警察に呼び止められた。爪を見せることを要求されたアンディは素直に両手を見せた。その右手には人差し指がなかった。
 モロウは、指が見つからなかった所為で、結局アンディを捕まえることが出来なかったと語った。そして、ロベール自慢のシチューについての話を聞いた。かつて一度だけ、おかしな肉が入っているという苦情を受けたと、ロベールは語った。

<プロット>
《事件》アンディが逃亡しようとした時に、ロベール料理店の周囲を警察が張り込んでいた。

○題材
 「爪」には、アンディとモロウ警部が登場する。アンディは警察が自分を捜していることに気づき、初登場時から既に緊迫している。更に、どうやっても逃げられない状況であるのに、1分で手を打たなければならないという極限状態に陥り、指を切断する。その指の隠蔽方法もまた普通の状態なら考えつかないようなグロテスクな方法であった。モロウ警部はアンディを追いつめる役を担っていた。優秀な警部としての姿が描写されて、アンディを追いつめる。また、警部という役職から事件全体を眺められる立場にいたことが分かる。
 シチューが有名な料理店が舞台となっている。指を切断して、シチューに混ぜるというアンディの逃亡方法は、この店だからこそ可能であった。

○配列
 「爪」は、現在のモロウ警部が5年前の事件を思い出して語るという配置がされている。5年前の時間軸の出来事を、現在の時間軸の出来事が挟み込む形になっている。ただし、モロウ警部の視点以外の出来事も描かれるので、5年前の時間軸の出来事は、厳密にはモロウ警部の回想ではない。
 冒頭部では、現在のモロウ元警部がロベール料理店を訪れる。そして、モロウ警部の回想に入る形で、展開部に移り、五年前の出来事が展開される。骨董屋での現場検証から、モロウ警部は犯人の目星を付ける。場面がアンディに移り変わり、彼がどのように逃亡するかということが問題になる。ここで《事件》が起きることで、アンディは一気に極限状態にまで追い込まれる。その頂点で、アンディが選択した方法が指の切断であった。アンディは無事に警察から逃げ切るが、この時点では指の行方は伏せられている。結末部で、現在のロベール料理店でモロウ元警部の口から事件のなりゆきが語られる。しかし、最後に店主のロベールの言葉から、なくなった指の行方が判明して終わる。

○視点
 多元的視点で語られる。アンディとモロウ警部それぞれに語り手が寄り添う場面がある。対立する二人の人物をそれぞれ描写することで、一つの事件に対するお互いの立場の違いを強調している。

<題材>
爪、指、殺人、逃亡手段、シチュー。

<話題>
(1)モロウ元警部がロベール料理店にやって来る(現在)→(2)モロウ警部が殺人事件の現場検証を行なう(5年前)→(3)アンディが逃亡手段を考える(5年前)→(4)アンディが指を切断して、警察から逃れる。(5年前)→(5)アンディの指の行方が分かる。(現在)

<主題>
アンディが切断した指をどのように隠蔽したか。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「爪」を「後味が悪い」作品だと判断した。アンディが切断した指の隠蔽方法としてとったのはシチューにまぜるという方法であった。そして、何も知らない婦人に指を食べさせたわけである。この方法は非常にグロテスクな内容であり、「後味の悪さ」を生じさせる。また、この事実が作品の最後に提示されることが「後味の悪さ」を大きくしていると考える。


(40)「ひかりごけ」
武田泰淳(1912-1976)、1954年。
頁数:61頁(「恐ろしい話」pp.409-469)、1076行。
主人公:前半部:私、後半部:船長&西川

<あらすじ>
 前半は、「私」が羅臼を訪れた際の紀行文になっている。
 「私」は北海道の北端、羅臼を訪れる。その時期の羅臼は穏やかな季節であった。「私」は、天然記念物のひかりごけをが自生するマッカウシ洞窟を見学しようと考える。マッカウシ洞窟見学には、村の中学の校長が同伴してくれた。彼は、ひ弱そうに見えながらも、自分の芯を持った人間に見えた。二人はマッカウシ洞窟の中でひかりごけが金緑色に光るのを目撃した。その光は決して強くはならない淋しさを見せて光っていた。
 帰り道で、私は校長から羅臼にまつわる様々な話を聞く。その中でも「ペキン岬の惨劇」は私の心を特に惹き付ける話題であった。「ペキン岬の惨劇」は、昭和二十年の真冬に起きた食人事件であった。
 昭和二十年二月、難破した徴用船からペキン岬に流れ着いた船長と若い船員は、何とか小屋に辿り着く。しかし、食糧もないために若い船員は衰弱死してしまう。船長は、その船員の肉を食べて生き延びた。その後、船長は何とか人里まで辿り着き、奇跡的に生き延びた人物として英雄扱いされた。しかし、船長の供述の曖昧さや、人骨の発見から事件が発覚した。船長は死体毀損、及び死体遺棄の罪で刑に服した。
 この話を聞いた「私」は殺人行為と食人行為に対する、人々の捉え方に関して大きな差異を感じた。世間では、食人行為は殺人行為よりも凶悪、野蛮な行為であると考えられている。殺人行為は世界のどこでも見られるのに対し、食人行為は極端にすくないのが、その理由だと「私」は推測する。
 羅臼から帰った「私」は「ペキン岬の惨劇」を戯曲形式で書く。後半は、その戯曲が書かれている。
 第一幕は、マッカウシの洞窟で四人の船員の遭難生活の場面である。真冬の為に、食糧は全く見つからず、船長、西川、八蔵、五助の四人の船員は既に限界の状態であった。五助が死に、船長と西川は彼を食べた。西川は五助を食べたことを後悔していた。更に、ただ一人、五助を食べなかった八蔵も死ぬ。八蔵は西川に、人を食べた人間にはひかりごけの光に似た光輪が現われると教えていた。船長と二人きりになった西川は、次は自分が食べられると考えて怯える。西川は洞窟から逃げ出すが、船長に殺されて食べられる。船長の背後には、ひかりごけの光が輝いていた。
 第二幕は、裁判所で船長が裁かれる場面である。検事は船長を重罪として処罰することを求めた。そして、自らの心情を語らない船長から、その心情を聞き出そうとした。船長は、検事の要求にやむなく応じる。船長の返事は「私は我慢している」というものであった。検事は船長の心情が分からないままに彼を責め立て続ける。船長は、更に発言を求められ、「人を食べたことのある人間か、食べられたことのある人間に裁かれたい」と言う。船長の言葉に、検事は増々怒る。その時、空襲警報が発令され、場内は騒然とする。その騒ぎの中、船長は自分の背後に浮かぶ筈の光輪を見てもらおうとする。しかし、誰にもその光輪は見えない。船長の声に応じて場内の人間が船長に群がる。その人々の背中には、金緑色に輝く光輪がついていた。

<プロット>
《事件》
前半部:「私」にとっての《事件1》中学校の校長から「ペキン岬の惨劇」の話を知る。
後半部:船長にとっての《事件2》遭難したこと。西川にとっての《事件3》船長と二人きりになったこと。

○題材
 「ひかりごけ」前半部には、「私」と羅臼の中学校校長が登場する。「私」は「ペキン岬の惨劇」を知り、是非とも小説化したいと考える。また、食人行為と殺人行為に対する人々の捉え方の違いについて考えるようになっていく。中学校の校長は、「私」に「ペキン岬の惨劇」を教える役目を担っている。また、外見に似合わないタフさが「私」の印象に残り、戯曲の第二幕で船長のモデルとなる。
 後半部第一幕には、船長、西川、八蔵、五助が登場する。船長は遭難しても生き抜くために、仲間の肉を食うことを決意している。始めは自然に死んだ仲間を食うだけであったが、次第に仲間が逃げることを拒もうとするようになる。西川が逃げ出した際には、遂に西川を殺害し、その肉を食べる。ただし、仲間を食べることを全面的に肯定しているわけではないことが、「俺は我慢してるさ」という台詞に表れている。
 西川は最も若く気力もあったが、仲間の肉を食べて生き延びていることに嫌悪感を感じる。船長に怯え、食べられることを拒んで逃げ出すが、殺害される。八蔵は、西川に対して、光輪のことを伝える人間である。五助の肉を食べた西川が再び苦悩する原因となる。五助は遭難した船員の中で最も始めに衰弱する。また、船長が仲間を食べようと考えていることに気づき、恐怖する様子が描かれた。
 後半部第二幕での、船長は第一幕とは話し方や態度が別人となるように作者によって設定される。ただ、度々「私は我慢しています」という台詞を話し、共通性があることもわかる。船長は、人食いの罪は人食いに裁かれることを望む(「他人の肉を食べた者か、他人に食べられてしまった者に、裁かれたいと申上げているだけです」)。裁判所の他の人々は、船長の考えを理解せず、人食いは重罪であると考えて、船長を糾弾する。しかし、最後には彼等の背後にも、人食いの光輪が浮かび上がる。普通だと思われていた人々にも光輪が浮かび上がることで、「ひかりごけ」が人食いを糾弾するだけの作品ではないことが示される。

○配列
 「ひかりごけ」前半部の出来事は、時間経過に沿って配置されている。その出来事の間に私が出来事に関連するエピソードを挿入していく。後半部は、二幕構成の戯曲形式で書かれている。第一幕は、マッカウシの洞窟で四人の船員の遭難生活の場面、第二幕は、裁判所で船長が裁かれる場面である。
 前半部は私が羅臼を訪れた際に、「ペキン岬の惨劇」を知ることになる経緯が語られる。この事件には食人行為が大きく関係していおり、「私」の興味をひいた。また、前半部の最後で、人々の食人行為と殺人行為に対する捉えかたの違いが示される。
 後半部の戯曲、第一幕は、マッカウシの洞窟で四人の船員の遭難生活の場面である。3回の場面転換を行う。時間経過とともに船員が一人ずつ死んでいく。《事件2》は既に起こってた後である。《事件2》の結果、船長は生き残る為に人肉を食べる決意をする。《事件3》は五助と八蔵が死亡し、西川と船長が二人きりになったときに起こる。西川は船長が信じられなくなり、洞窟から逃げ出す。
 後半部の戯曲、第二幕は、裁判所で船長が裁かれる場面である。船長は、裁判を通して、裁判所にいる普通の人々からは理解されないことを実感していた。しかし、最後に裁判所にいる人間には船長の光輪が見えないことに驚愕する。そして、裁判所にいる人間全員に光輪が宿る様子が描写される。

○視点
 前半部は一元的視点で語られる。紀行文であり、「私」の一人称で綴られる。後半部は戯曲形式のため、客観的視点からの描写文と談話文で語られる。状況設定文は一元的視点で語られる。

<題材>
食人行為、ひかりごけ。

<話題>
<前半部>(1)「私」が羅臼を訪れた際の風土についての描写。→(2)羅臼での観光の様子。→(3)ひかりごけを見物に中学校の校長とマッカウシ洞窟へ向う。→(4)ひかりごけを見物する。→(5)帰り道で、校長から「ペキン岬の惨劇」の話を聞く。→(6)アイヌ研究者のNさんがアイヌ民族の食人行為を否定するエピソード。→(7)羅臼郷土史から「ペキン岬の惨劇」の概要を知る。→(8)羅臼から帰った後、「ペキン岬の惨劇」をどのように小説で表すかを考える。→(9)食人行為と殺人行為に対する人々の捉え方の違いについて考察する。
<後半部第一幕>(1)4人の船員(船長、西川、八蔵、五助)がマッカウシ洞窟で遭難生活を送る。→(2)五助が死亡し、船長はその肉を食べ、西川にも食べることを勧める。→(3)八蔵が衰弱し、西川にひかりの輪の話を伝える。→(4)八蔵も死亡し、西川は船長に怯える。→(5)船長が西川を殺害する。
<後半部第二幕>(1)裁判の場で、検事が船長の心情を暴露するように求める。→(2)船長が「我慢している」と発言し、検事が怒る。→(3)船長が「人を食べたことのある人間か、食べられたことのある人間に裁かれたい」と発言し、検事は激怒する。→(4)船長が背中の光輪を確認してもらおうとする。→(5)裁判所の人全員が光輪を背負っている。

<主題>
食人行為と殺人行為に対する人々の捉え方の違い。

<考察>
◎「後味が悪い」作品
 私は「ひかりごけ」を「後味が悪い」作品だと判断した。食人行為というグロテスクな題材が「後味の悪さ」を生み出す。また、後半部第二幕の最後で裁判所の全員に光輪が浮かぶということが、不可解さを生じさせ「後味が悪く」なる。



  第2項 「後味が良い」と判断した作品群の分析

(03)「盗賊の花むこ」
ヤーコプ・グリム(1785-1863)/ヴィルヘルム・グリム(1786-1859)/池内紀(訳)、1812年。
頁数:7頁(「恐ろしい話」pp.113-119)、101行。
主人公:粉引の娘

<あらすじ>
 遠い昔。粉引きが自分の美しい娘を「ちゃんとした人にならを嫁にやろう」と言い出した。ほどなく一人の男がやって来た。粉引きはその男を許嫁として認めた。しかし、娘はどうしても男を好きになることが出来なかった。
 ある日曜日、娘は男に誘われ、仕方なく男の住む森の家を訪れることになった。胸さわぎがしたので、娘は道中に道しるべとなるように豆をまいておいた。森の中の家に入ると、誰もおらず鳥が不吉な歌を歌っていた。娘が地下室に下りると、ひどく年老いたおばあさんに出会った。おばあさんから男の正体が人殺しの盗賊だと教えられ、盗賊達をやり過ごして一緒に逃げるために隠れているように言われる。娘が隠れたその時、盗賊達が若い娘を連れて戻って来た。若い娘はその場で殺された。殺された娘の指輪を手にいれるために盗賊は指を切った。その指が隠れている娘のところに飛んで来たが、おばあさんの機転によって助かった。夜になり、盗賊達が寝入った隙に娘とおばあさんは逃げ出した。芽を出した豆が道しるべになり、無事逃げることが出来た。
 婚礼の日、娘は盗賊の小屋での出来事を歌い、証拠として殺された娘の指を見せた。許嫁の男は、仲間諸共捕まえられて処刑された。

<プロット>
《事件》盗賊達が森の中の小屋に帰って来るが、粉ひきの娘は老婆の助けでそれをやり過ごす。

○題材
 「盗賊の花むこ」には、粉ひきの娘と許嫁(盗賊)と老婆が登場する。粉ひきの娘出会いの時点から、既に許嫁を嫌っている。そのため、許嫁の家を訪ねる際にも「胸さわぎがしてならない」。この気持が娘の用心深さに繋がり、豆を蒔いて道しるべにする。老婆の言葉と《事件》から男の正体を知った娘は、結末部において許嫁を罠に嵌めて捕まえる。作品全体において娘は一貫して賢明な行動をとる人間として描かれている。この娘を助け合う立場にいるのが、老婆である。老婆は娘に許嫁の正体が、「盗賊ども」であることを告げる。また、盗賊達から娘を匿う。その結果二人は共に盗賊の家から逃げることができた。盗賊達は女を殺して食う悪党として描かれる。
 また、この作品では歌によって事実を伝える場面が多く描かれる。盗賊の家では、鳥が許嫁の正体歌っており、この家で起こる出来事に不吉な予感を与えている。しかし、結末部ではその歌を娘が歌うことで、許嫁の正体をばらしている。
 詳しい舞台設定はされていないが、自然の多い田舎であることが推測できる。

○配列
 「盗賊の花むこ」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、許嫁との出会いが描かれる。展開部において許嫁の家を訪ねることになった娘は、賢明にも豆を蒔いて道しるべとしておいた。これが後に盗賊の家から逃げるときに役に立つ。盗賊の家で老婆から許嫁の正体を告げられ、《事件》が起こる。《事件》を経て、娘の心は決定的に許嫁から離れる。無事に逃げ出した娘は結末部で、娘許嫁の正体をばらす。許嫁は仲間諸共捕まり処刑される。

○視点
 客観的視点で語られる。粉ひきの娘の心情だけが描写される。娘に共感的な語りが為されることで、彼女が《事件》で味わう恐怖や、その後の安堵をより強く感じられる。

<題材>
盗賊、殺人、歌。

<話題>
(1)粉ひきの娘に許嫁が出来る。→(2)娘は許嫁の家を訪ねる約束をさせられる。→(3)森の中の許嫁の家を訪れる。→(4)地下室で老婆に出会い許嫁が人殺しであることが分かる。→(5)粉ひきの娘は盗賊達を隠れてやり過ごす。→(6)老婆とともに小屋から逃げる。→(7)婚礼の日に娘が歌で許嫁の正体をばらす。→(8)盗賊達が捕まる。

<主題>
賢明な人間は救われる。

<考察>
◎「後味が良い」作品
 私は「盗賊の花むこ」を「後味が良い」作品だと判断した。この作品では主人公の粉ひきの娘が用心深く、賢明に描かれている。そのため、途中に大きな危機があるものの、それを乗り越え無事に盗賊達を捕まえることが出来た。主人公の活躍が問題を解決に導くという爽快さが「後味の良さ」を生じさせている。


(06)「『お前が犯人だ』」
ポー(1809-1849)/丸谷才一(訳)、1844年。
頁数:20頁(「恐ろしい話」pp.91-110)、352行。
主人公:チャールズ・グッドフェロウorぼく

<あらすじ>
 一八**年の夏、ラトルバラーの町随一の資産家であるシャトルワーズィ氏が行方不明となった。シャトルワーズィ氏の親友であったチャールズ・グッドフェロウ氏の熱心な捜索によって、シャトルワーズィ氏が殺害されたであろうことが明らかとなった。また、シャトルワーズィ氏の甥であるペニーフェザー氏が容疑者として挙げられた。グッドフェロウ氏はペニーフェザー氏を熱心に弁護しようとしたが、それらのグッドフェロウ氏の行ないによってペニーフェザー氏の容疑は増々深いものとなり、遂には死刑判決が下された。
 その後、グッドフェロウ氏の元にかつてペニーフェザー氏が約束したシャトー・マルゴーが届くことになり、それを開くための夕食会が催された。夕食会で開かれたシャトー・マルゴーの箱からは、ペニーフェザー氏の死体が飛び出し、グッドフェロウ氏に向かって「お前が犯人だ」と告げる。グッドフェロウ氏は恐怖のあまり自らがこの事件の真犯人であり、かつて自らを侮辱したペニーフェザー氏に罪を被せようとしていたことを告白して息絶えた。
 語り手の「ぼく」は事件の最初から、グッドフェロウ氏の疑い、彼に自白をさせるために死体を利用したことを読者に明かす。その後、ペニーフェザー氏は釈放された。

<プロット>
《事件》シャトー・マルゴーの箱から飛び出したシャトルワーズィ氏の死体がグッドフェロウ氏に向かって「お前が犯人だ」と告げる。

○題材
 「『お前が犯人だ』」には、チャールズ・グッドフェロウとペニーフェザー、シャトルワーズィ氏、「ぼく」が登場する。グッドフェロウは、彼の本性が暴露されるまでは「ぼく」によって素晴しい人間であるかのように語られている。しかし、実際には非常に残忍な策略家であった。彼はシャトルワーズィ氏を殺した上で、その罪をペニーフェザーになすり付けた。ペニーフェザーは事件の容疑者として、読者をミスリードする役目を担っていた。シャトルワーズィ氏は作中で始めから死亡しているために回想でしか登場しない。彼は気前の良い人物であり、グッドフェロウに対しても酒を送る約束をしていた。この約束が事件解決の要となる。「ぼく」はどのような人物なのか謎が多い。しかし、グッドフェロウ、ペニーフェザー、シャトルワーズィ氏に近しい人物であり、この三人が実際の関係を知っていた。だからこそ、舞台となるラトルバラーに住む人々がグッドフェロウの思う通りに動かされたにも関わらず、「ぼく」は違った視点で事件に関わることができた。

○配列
 「『お前が犯人だ』」は、今の視点から過去の出来事を時間経過に沿って配置している。基本的には、時間経過に沿っているが、その都度の出来事と関連するエピソードも配置されている。
 冒頭部では、「ぼく」がラトルバラーで過去に起きた事件を語ることが示される。展開部では、事件の概要を説明すると同時にチャールズ・グッドフェロウという人物についても語られていく。グッドフェロウについて、「ぼく」は過剰に好意的な評価を述べ続ける。反対に、ペニーフェザーについては状況証拠を並べ立て、彼が犯人であるような語り方をしていく。ペニーフェザーの死刑判決が決まり、グッドフェロウが夜会を開くと《事件》が起こる。この《事件》に大きな衝撃を受けたグッドフェロウはそのまま死んでしまう。結末部では、「ぼく」がグッドフェロウをこそ疑っていたことが明かされる。そして、彼に自白させるために《事件》を仕組んだのであった。最後に、その後のペニーフェザー氏が幸せに暮らしたということが描かれて終わる。

○視点
 一元的視点で語られる。語り手の「ぼく」が現在の立場から過去に起こった殺人事件について語る。「ぼく」の語りは、グッドフェロウが無実であるように語ることで、《事件》の印象を強めている。

<題材>
殺人事件、死体、罠。

<話題>
(1)シャトルワーズィ氏の失踪。→(2)チャールズ・グッドフェロウの人物造形。→(3)グッドフェロウとペニーフェザーとの口論。→(4)シャトルワーズィの捜索。→(5)ペニーフェザーに殺害疑惑が湧く。→(6)ペニーフェザーが逮捕され審問にかけられる。→(7)ペニーフェザーに死刑判決が下る。→(8)グッドフェロウの開いた夕食会で彼を告発。→(10)グッドフェロウの告白。→(11)「ぼく」による種明かし。→(12)その後のなりゆき。

<主題>
ラトルバラーの殺人事件を解決したからくりを説明する。

<考察>
◎「後味が良い」作品
 私は「『お前が犯人だ』」を「後味が良い」作品だと判断した。それは、無実の人間が許され、真犯人が破滅に至るという倫理的に正しい結末に至るからである。


(18)「改心」
O・ヘンリー(1862-1910)/大津栄一郎(訳)、1909年。
頁数:13頁(「思いがけない話」pp.7-19)、214行。
主人公:ジミー・ヴァレンタイン(ラルフ・スペンサー)

<あらすじ>
 金庫破りの罪で刑務所に収容されていたジミー・ヴァレンタインが釈放される。釈放されたジミーは再び金庫破りを再開する。その手口はどれも鮮やかで、名刑事のベン・プライスはジミーの仕業に違いないと確信していた。
 ある日、ジミーは次の金庫破りのためにエルモアの町にやって来る。そこでジミーはアナベル・アダムズに恋をしてしまう。ジミーは金庫破りを止め、「ラルフ・スペンサー」と名乗って靴屋を開業し、アナベルやエルモアの町の人々から慕われる。
 一年後、ジミーはアナベルとの結婚を控え、完全に金庫破りから足を洗うために特注の道具全てを相棒に譲ることを決意する。時を同じくして、ベンもエルモアの町にジミーを逮捕するためにやって来ていた。次の日、エルモア銀行の最新式の金庫室にアナベルの姪であるアガサが閉じこめられる。ジミーは葛藤の末、自分の保身を捨て、特注の道具を使い金庫を破りアガサを救出する。ジミーはその場にいたベンに逮捕されようとしたが、ベンはジミーを見逃して去っていった。

<プロット>
《事件》アナベルに出会う。

○題材
 「改心」では、ジミー・ヴァレンタイン、アナベル・アダムズ、ベン・プライスが登場する。ジミーはアナベルと出会う事によって、改心し、泥棒を止める。最終場面で、ジミーにしか解決出来ない問題が提示され、ジミーは自己保身ではなく自己犠牲を選び、完全に改心した事を示す。
 ベンはジミーの敵対者として設定されている。しかし、その敵対者が最終的にジミーを認めることで、彼の改心が完成したことを示している。

○配列
 「改心」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部で、刑務所から釈放されたジミーが再び泥棒稼業を再開する。それを知った刑事のベンが捜査を始める。展開部で、《事件》が起きたことで、ジミーは泥棒稼業から引退する。ベンは改心したジミーのもとを表れる。その時、子どもが金庫に閉じこめられる。ジミーは子どもを救うために再び金庫破りを行なう。直後の結末部では、その現場を目の当たりにしたベンがジミーを逮捕せずに去って終わる。

○視点
 多元的視点で語られる。特にジミーと敵対するベンの心情も描写されことで、二人の敵対関係が示される。

<題材>
改心、泥棒、金庫、恋。

<話題>
(1)ジミーが釈放される。→(2)ジミーは再び泥棒の仕事を始める。→(3)ベンが捜査に乗り出す。→(4)ジミーがある街に来たときにアナベルと出会う。→(5)ジミーはアナベルを愛することで泥棒稼業から足を洗う。→(6)アガサが金庫に閉じこめられる→(7)金庫を破りアガサを救う。→(8)ベンがジミーを見逃す。

<主題>
ジミーが心の底から改心する。

<考察>
◎「後味が良い」作品
 私は「改心」を「後味が良い」作品だと判断した。最終場面では主人公ジミーが人を助けるために再び金庫破りを行なう彼の金庫破りについて妻アナベルとベンの反応のみが書かれている(ただし、アナベルはジミーの名前を呼んだだけでその真意は想像するしかない)。ジミーは自分の身より他人を助けることを優先した。しかし、その行動が、ジミーとずっと敵対関係にあったベンの心を動かした。ジミーの行動が報われたことが読後感を良くしている。ジミーと長年敵対関係にあるベンを登場させ、彼の心変わりを行動で現すことで、ジミーの行動が報われたということを強く示している。改心した主人公の善意からの行動が認められることが「後味の良さ」を生んでいる。


(34)「網膜脈視症」
木々高太郎(1897-1969)、1934年。
頁数:27頁(「恐ろしい話」pp.287-313)、461行。
主人公:大心地先生

<あらすじ>
 とある大学で精神病学の教授を務める大心地先生は、付属の精神病院で診察も行なっていた。その大心地先生の元に、九歳になる男の子が母親に付き添われて診察を受けに来た。母親の説明によると、三、四歳まで母親にだけ懐いていたのが、急に父親にだけ懐くようになった。他にも、馬恐怖症であったのが、小動物恐怖症に変化した。そして、最近では急に火が見えると騒ぎだす、ということであった。話を聞いた大心地先生は、子供に実際の鼠や鼠の死骸を見せてみるが、全く問題が無い。しかし、血を取り去った鼠の死骸には過敏な反応を見せた。更に、子供に対して光を斜めから当てると、子供は「赤いものが動く」といって、恐怖のあまり泣き叫んだ。
 子供の名前は松村真一、父は平助、母は美代子であった。大心地先生は真一の症状を、父親を恐れるエディプス観念症と網膜の血管が見える網膜脈視症だと診断した。大心地先生はその原因を探るために、真一を入院させる。主治医には岡村医学士をあてた。真一や美代子の分析を進める中で、実は真一の本当の父親はすでに死んでおり、平助は本当の父親ではないということが判明した。真一はその事実を知らなかったが、父親が死んでいる現場に真一が居合わせていたということも判明した。
 松村家に関する事実が判明した二日後、岡村医学士と真一が行方不明になる。大心地先生の助言で松村家に向うと、真一は家にいたが、平助が財産を持って逃亡した後であった。そこへ、岡村医学士が病院に担ぎ込まれたという連絡がくる。岡村医学士は重傷を負っていた。岡村医学士は、平助が真一の父親を殺した犯人であると気づいた。しかし、平助と取引をして、金を受けとろうとした所を襲われたのであった。大心地先生は全てを看破した上で、岡村医学士を許した。
 岡村医学士は二日後に亡くなった。更に、三日後平助が逮捕された。平助は麻薬密輸人であり、真一の父親を殺した犯人でもあった。真一の症状は平助の殺人の現場を目撃したことと網膜脈視症が重なった結果であると、大心地先生は説明した。また、優秀な医学士であった岡村君が死んだことを悲しんだ。

<プロット>
《事件》特になし。登場人物の心情が変化するような出来事はない。

○題材
 「網膜脈視症」には大心地先生、岡村医学士、「私」、松村真一、松村平助、松村美代子が登場する。大心地先生は、聡明な精神病理学者として描かれており、作品内で探偵役を担う。大心地先生は探偵役として、真一の症状から殺人事件と松村平助の正体を看破した。岡村医学士も途中で事件の真相に思い至るが、彼は事件を解決させるためではなく、展開させていく役割を担っていた。松村真一はその神経症から事件が発覚するきっかけとなる。父親の平助は事件の犯人である。語り手である「私」はこれらの様々な登場人物と関わり合うことで、読者に対して必要な情報を任意に提示していく役割があった。

○配列
 「網膜脈視症」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、大心地先生の診察風景が描かれ、的確な診断から優れた精神病理学者であることが分かる。展開部では、松村真一の診察が行なわれる。この時点で大心地先生は、真一の症状から何らかの事件の存在を感じ取っている描写がされる。語り手の「私」は、真一やその家族の診問を見学する。また、ここで岡村医学士が何らかの事件の存在に気づいたことから、話は更に展開していく。岡村医学士が失踪したことで、大心地先生が再び登場し、事件を解決に導いて行く。結末部では、真一の症状がどのように事件と関わりがあったかという説明が加えられて終わる。

○視点
 一元的視点で語られる。語り手の「私」の一人称で語られる。「私」の視点から事件全体を眺めることで、様々な人の思惑が、複雑に絡み合った事件を統一的に語ることが出来る。

<題材>
エディプス観念症、網膜脈視症。

<話題>
(1)大心地先生の診断風景。→(2)大心地先生による子供(松村真一)の診断。→(3)大心地先生による真一の診断結果の説明。→(4)岡村医学士による入院中の真一の診問。→(5)岡村医学による美代子の診問(真一の実の父親が既に死んでいることがわかる)。→(6)岡村医学士と真一の失踪。→(7)大心地先生の推理。→(8)真一の発見と平助の逃亡→(9)岡村医学士が重傷で病院に運び込まれる。→(10)岡村医学士の死と平助の逮捕。→(11)大心地先生による一連の出来事の解説。

<主題>
真一の奇妙な神経症の原因は何か。

<考察>
◎「後味が良い」作品
 私は、「網膜脈視症」を「後味が良い」作品だと判断した。この作品内で起こる事件は登場人物の心理変化を引き起こすようなものではない。この作品は登場人物同士の関わりよりも、事件そのものが解かれていく過程を楽しむ作品である。そのため、探偵役の大心地先生の活躍で伏線が全て機能し、事件が解決する点が「後味の良さ」を生じさせている。


(36)「湖畔」
久生十蘭(1902-1957)、1937年。
頁数:42頁(「思いがけない話」pp.309-350)、707行。
主人公:「俺」

<あらすじ>
 「俺」は自分の子供に対しての手紙を書いた。その手紙の内容は、「俺」が世捨て人になるまでの経緯を子供に語るものであった。
 「俺」は貴族主義の父の元に生れ、厳しい父の教育に嫌気が差しながらも、体面を取り繕うようにして成長した。しかし、父は「俺」のことを見限ったのか急遽イギリスへ留学するように命令した。窮屈な父の元を離れることができることを喜んで、「俺」はイギリスへと留学した。
 「俺」は自分の狷介な容貌と陰鬱な態度で親類からも忌み嫌われていたためか、人一倍愛されることを望んでいた。しかし、愛されたことがなく自信のない「俺」は、その臆病さを隠すために余計に粗暴な振る舞いをするようになった。その後、パリに移った「俺」は陸軍の士官と決闘を行なうことになる。その決闘も虚飾のために受けたものであり、実際の決闘では恐怖で銃弾を避けたことで、却って顔全体に大きな傷を残す結果となった。顔の傷によって、さらに鬱屈とした生活を送っていた「俺」は精神が不安定になり帰国することになる。
 帰国してからは、英国の論文を剽窃するなどして華族界での名声を高めていった。その頃、偏頭痛に悩まされていた「俺」は療養のために箱根に湯治に出掛ける。そこで、「俺」は美しい少女に一目惚れしてしまう。少女の無邪気な言動を愛しく思いつつも、生来の自信のなさから素直になることが出来なかった。しかし、その少女は「俺」の容姿や態度に何の不快さも抱かない様子であった。「俺」はその少女を増々愛していき、結婚を決める。ただ、少女の本心を知るのが恐ろしく、「俺」も本心を打ち明けないままに籍を入れてしまった。
 その少女は、陶という名前で、結婚した後は無愛想な「俺」を楽しませようと明るく振る舞い続けた。しかし、「俺」は陶のそのような振る舞いを下品に感じ、貴族的な教育を陶に強いた。その結果、陶は上流社会に相応しい女になったが、反面塞ぎ込むようになっていった。「俺」も陶の愛情が本心からのものであると信じることが出来ず、素直に自分の愛情を表現できずにいた。そんな折、陶が懐胎したが、子供に陶の愛情を奪われることを恐れた「俺」は堕胎を迫る。結局、陶は子供を生んだが、体を壊してしまい、「俺」は仕方なく箱根の別荘へと陶を療養に行かせた。
 「俺」は政治活動に勤しむあまり、陶を見舞うことが殆どなかった。そんな時、偶然箱根の近くまで来た「俺」は、思いつきで急遽別荘へと見舞いに向う。すると、別荘では酒宴が行なわれており、「俺」を驚かせた。一旦退き、再びやって来ても、未だに酒宴が続いていたので、「俺」は別荘に乗りこんだ。そして、陶の不義の現場を見つけてしまった。「俺」は大暴れし、気づくと座敷に寝かされていた。「俺」は本心では自分の責任を感じながらも、外聞のために陶を殺すことに決めた。
 夜明けになり、「俺」は知り合いの弁護士高木の家を訪れ、陶を殺したことを告げて、その裁判の弁護を依頼した。結局、「俺」は裁判で無罪を勝ち取ったが、体調を崩したため再び箱根の別荘に療養に来ていた。そこで「俺」が沈めたという陶の死体が発見される。実は、陶を殺害せずに、逃がしていた「俺」は、その死体に大きな衝撃を受ける。ようやく「俺」は自分の臆病さ、卑劣さ故に陶を苦しめていたことを理解した。
 陶の死を悲しんでいたある日、山奥へと入った「俺」は、生きている陶と再会する。「俺」のことで思い詰める陶を見て、「俺」は突然陶に真実愛されていたことを悟った。それからは陶を山小屋で匿う生活をしていたが、いっそ身分を捨てて生きたいと考えるようになった。陶も「俺」の考えに賛成した。陶の姿を見た高木を口止めにいくと、自殺していた。そこで高木の死体を身代わりにして、二人とも死んだ人間として扱われるように工夫して、失踪しようとする。

<プロット>
《事件》死んだと思われた陶が生きていた。

○題材
 「湖畔」には、「俺」と陶の関係が重要である。「俺」は父親からの厳しい教育や狷介な容貌のために人から受け入れられ難く、またそのような状況にい続けることで人からの愛情を信じることが出来なくなっていった。それに加え、虚栄心も増大していき一層人を寄せ付けぬようになった。そんな「俺」は純朴で活発な陶と出会う事で一時心が安らぐ。しかし、陶と結婚した後は、貴族としての対面を保つために妻として相応しくなるように厳しく教育を施した。また、猜疑心から陶の愛情を信じる事が出来ず必要以上につらくあたっていた。これらが、陶が療養先で不義を働く原因となる。陶の不義を知った「俺」は対面の為にも陶を殺害する(実際にはしない)。その後、月日が流れてから陶の(と思われる)死体が見つかることで、陶への愛が押さえ切れないものになる。そのときに生きた陶と再会し、共に死のうと言われることで、陶の愛も真実で合った事に気づく。自分以外の人間を信じられなかった「俺」が、陶との関わりによって真実の愛に気づく。

○配列
 「湖畔」では、現在の視点から過去の出来事を時間経過に沿って配置していき、現在に至る経緯が明らかにされる。
 冒頭部は、語り手の「俺」が自らの妻を殺し、また愛する女ができたから自由になると告白する所から始まる。展開部では、「俺」の来歴が語られる。ここでの出来事の所為で、「俺」は虚栄心や猜疑心に満ちた人間になっていく。中盤で最初の告白通り、不義理を行なった自分の妻の陶を殺害する。しかし、実際には殺害しておらず、陶の(と思われる)死体が発見されたことで、「俺」はひどく狼狽する。その時に、《事件》が起きて、二人は真の愛を誓い合うことになる。結末部で、二人は全てを捨てて、逃げようとするところで終わる。

○視点
 一元的視点で語られる。「俺」の視点から語られることで、「俺」の乱暴なだけではない本性や苦悩などを知ることが出来、共感を強める。

<題材>
猜疑心、虚栄心。

<話題>
(1)「俺」は子供にこれまでの経緯を語り始める。→(2)「俺」は猜疑心と虚栄心の大きい人間であったことが語られる。→(3)「俺」は陶と出会い、一目惚れする。→(4)「俺」は陶の本心を聞かぬままに結婚する。→(5)「俺」は猜疑心と虚栄心のために陶に辛く当たる。→(6)陶の不義の現場を目撃し、殺害する。→(7)実際には殺していないはずの陶の死体が発見され狼狽する。→(8)陶が生きていて、「俺」の前に姿を現し、俺は陶への愛に気づく。→(9)「俺」は陶と共に生きるために失踪することを決める。→(10)高木の死体を「俺」の身代わりにする。

<主題>
「俺」が人を愛することができるようになる。

<考察>
◎「後味が良い」作品
 私は「湖畔」を「後味が良い」作品だと判断した。主人公である「俺」と陶が最後には、真実の愛に気づき、これまでよりも強く結ばれる。苦難を乗り越えて二人が結ばれる様は、「後味を良く」している。


(42)「嫉妬」
F・ブウテ(1874-1941)/堀口大学(訳)、初出年不明。
頁数:19頁(「思いがけない話」pp.41-59)、334行。
主人公:ヂェヌヴィエエヴとヂョオルヂ

<あらすじ>
 ヂェヌヴィエエヴ・アロルヂの家を親友のディアアヌが訪ねてくる。ディアアヌは、夫のヂョオルヂが不倫をしていると言い出す。ヂェヌヴィエエヴはディアアヌの話に大きな衝撃を受ける。話終えるとディアアヌは帰っていったが、ヂェヌヴィエエヴは未だ呆然としている様子であった。
 ディアアヌは自家に帰ると、ヂョオルヂにヂェヌヴィエエヴが再婚するという話を聞かせた。ヂョオルヂはその話に驚愕する。更にディアアヌは、勢いに任せてヂェヌヴィエエヴ中傷し始めた。ヂョオルヂは、そのようなディアアヌを叱責する。すると、ディアアヌは、今度はヂョオルヂとヂェヌヴィエエヴが不倫をしていると言い出す。ヂョオルヂはその言葉にまたも驚愕する。ディアアヌは、ヂェヌヴィエエヴにした話とヂョオルヂにした話が二人の反応を見るための嘘であったことを告げる。そして、その反応から二人が不倫をしているという疑いが確信に変わったとも告げた。ヂョオルヂは興奮した気を落ち着けるために家を出て行った。
 ヂョオルヂは知らぬ間にヂェヌヴィエエヴの家に来ていた。ヂョオルヂはヂェヌヴィエエヴにディアアヌの話が嘘であること、彼女が二人は不倫をしていると思い込んでいることを伝える。二人は実際に不倫などしていなかった。しかし、ディアアヌの話のお陰でお互いを愛する気持があることに気づかされたのであった。二人の心の奥を見破った点においてだけは、ディアアヌは正しかったのである。

<プロット>
《事件》この作品はヂェヌヴィエエヴとヂョオルヂどちらも主人公なので、《事件》はそれぞれにある。《事件1》は、ディアアヌがヂェヌヴィエエヴの家を訪れ、夫(ヂョオルヂ)の不倫について話す、ことである。《事件2》は、ディアアヌがヂョオルヂにヂェヌヴィエエヴが再婚すると話す、ことである。

○題材
 「嫉妬」にはヂェヌヴィエエヴ、ヂョオルヂ、ディアアヌが登場する。人物の心理描写がなされないので、彼等の人物造形については行動から推測するしかない。ヂェヌヴィエエヴは、《事件1》に大きな衝撃を受けていることが描かれるのみである。なぜ、そのような衝撃を受けているかは、結末部で自らの言葉で説明される。ヂョオルヂもほぼ同じような描かれ方だが、彼の方がディアアヌに近しいため、ディアアヌの言葉に反論する。その反論のおかげで、ディアアヌの本性が引き出されることになる。ディアアヌはこの作品内で最も多く描かれる人物であり、《事件1》と《事件2》の態度の豹変が彼女の嫉妬深い本性を表現している。作品内の最後の一文(「ディアアヌがなした侮蔑的であると同時にまたものの正体をはっきりと見せてくれるあの誤解は実際は間違ってはいたのだが、しかもよく二人の心の奥を見やぶった点においてむしろ正しかった」)で述べられているように、ディアアヌがいたからこそ、ヂェヌヴィエエヴとヂョオルヂは困難を超えて結ばれることが出来た。ディアアヌはこの作品を動かす役割を担っていたといえる。

○配列
 「嫉妬」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部にはいきなり《事件1》が配置される。この《事件1》の中で、ヂェヌヴィエエヴとディアアヌの人物造形が為されていく。しかし、続く展開部の始めでは、《事件1》で夫に怒っていた筈のディアアヌがその夫と仲睦まじく話し始める。ここで、読者は違和感を覚えることになる。そして《事件2》に至り、ディアアヌが《事件1》と真逆の態度をとっていることから、彼女への違和感が増していく。ヂョオルヂに全ての事実を告げる段階に至り、ディアアヌという人間の本性がようやく読者にも分かるようになっている。《事件2》の衝撃からヂョオルヂは戸外へ駆け出していった。結末部で、ヂェヌヴィエエヴの家を訪れたヂョオルヂは《事件2》からヂェヌヴィエエヴへの愛に気づいた様子が描かれる。ヂェヌヴィエエヴもまた《事件1》から、ヂョオルヂへの愛を意識したことが描かれ、二人はお互いの思いを伝え合い結ばれる。最後に、ディアアヌの抱いていた嫉妬心が本質的には正しかったことが示された。

○視点
 客観的視点で語られる。登場人物の行動のみが描写される。心情については、登場人物が自分の言葉で話す。全員の心情が隠されていることで、ヂェヌヴィエエヴとヂョオルヂが愛し合っていたことは結末部まで隠される。その結果、意外な結末となって、二人の愛は読者により強い印象を残す。

<題材>
嘘、嫉妬。

<話題>
(1)ディアアヌがヂェヌヴィエエヴの家を訪れ、夫(ヂョオルヂ)の不倫について話す。→(2)ディアアヌがヂョオルヂにヂェヌヴィエエヴが再婚すると話す。→(3)ディアアヌがヂェヌヴィエエヴとヂョオルヂが不倫していると言い出す。→(4)ヂョオルヂはヂェヌヴィエエヴの家を訪れ、二人は愛し合っていたことを確認し合う。

<主題>
ヂェヌヴィエエヴとヂョオルヂの関係についてのディアアヌの誤解は本質的には正しいものであったという奇妙さ。

<考察>
◎「後味が良い」作品
 私は「嫉妬」を「後味が良い」作品だと判断した。それは愛し合う二人が結ばれるという幸福な結末で作品が終わるからである。また、ディアアヌは悪人ではないが、二人の仲を裂こうという悪意を持って《事件1》《事件2》を起こしたのは確かである。悪意ある行動が、逆に二人を結びつける原因となった点に意外性がある。意外ながらも、幸福である結末が「後味の良さ」を生んでいる。



  第3項 「どちらとも判断できない」作品群の分析

(07)「緑の物怪」
ネルヴァル(1808-1855)/渡辺一夫(訳)、1849年。
頁数:10頁(「恐ろしい話」pp.129-138)、153行。
主人公:組頭とお針女

<あらすじ>
 「ヴォヴェールの悪魔」はパリの最も古い住人として、人々に言い伝えられていた。ルゥイ十三世の時代に、この悪魔は再び噂として現れた。それは、昔の修道院の残骸から作られた一軒家、その地下の酒蔵で、夜な夜なひどい騒ぎの物音がするようになったからであった。パリの住人の通報で治安当局が乗り出したが、あまりの騒ぎに誰も現場に乗りこめず、また、朝になると酒蔵の中には誰の姿も見当たらなかった。牧師の御祈祷や聖水も全く効き目がなかった。
 遂に、奉行所の不信心な組頭が、報酬目当てに酒蔵に乗りこんでいった。組頭が結婚を申し込んだお針女が、多額の金を欲していたのである。酒蔵では、酒罎が盛大な夜会を催していた。組頭が一本の罎を割ると、それは女の死体に変化した。組頭は恐怖したが、何とか一本の酒罎を持って帰り、奉行所に報告した。他の隊士たちが乗りこんだ時には既に騒ぎは治まって、地面には割れた罎しかなかった。組頭は報酬を受け取り、お針女と結婚した。
 組頭は結婚式の日に、持って帰った酒を夫婦で飲んだ。その後、妻は緑色の小さな怪物を産み落とした。その怪物は成長する毎に異様さを増していった。二人は怪物から与えられる苦悩のあまり、酒に溺れた。すると、二人とも酒罎の亡霊を、夢に見て苦しむようになった。
 緑の怪物は、十三歳になると消え失せてしまった。それ以降、夫婦が酒罎の亡霊を見ることはなくなった。
 語り手は、酒罎の亡霊が親方の不信心さと妻の欲深さへの罰であると語った。
 緑の怪物の行方は知る由もない。

<プロット>
《事件》特になし。組頭もお針女も出来事に恐怖するだけで、不信心や欲深さが変化する描写などはない。

○題材
 「緑の怪物」には、組頭とお針女が登場する。組頭は不信心であったからこそ、他の人間が怖れていた地下室に乗りこむことが出来た。しかし、その結果悪魔に取りつかれてしまう。また、お針女も欲深く金に眼がなかったからこそ、報奨金をもらった組頭と結婚する。その結果彼女も悪魔に取りつかれてしまう。
 舞台となるパリには、昔から正体不明の「ヴォヴェールの悪魔」が住んでいるという噂が流れている。この町に住む悪魔が、作品中の出来事の全ての原因となる。

○配列
 「緑の物怪」は、今の視点から過去の出来事を時間経過に沿って配置している。
 冒頭部では、舞台となるパリに昔から伝わる「ヴォヴェールの悪魔」に関するエピソードが語られる。そして、展開部でその「ヴォヴェールの悪魔」が再びパリに出現した様子が描かれる。誰も手出しが出来ない為に、不信心な奉行所の組頭が悪魔退治に向う。悪魔の存在も信じていないので、酒蔵の悪魔達を相手にすることが出来たが、悪魔に取り付かれる原因にもなった。無事に帰ってきた組頭は、お針女と結婚する。酒蔵から持って帰った酒を二人だけで飲んでから悪魔につかれてしまう。その結果、二人の子供として緑の物怪が生まれた。その物怪のから与えられる苦悩から逃れる為に、二人は酒に溺れた。しかし、これが更に悪魔を引き寄せ、二人は長い間苦しめられる。緑の物怪が失踪すると、二人も悪魔から解放された。結末部では、語り手によって、出来事の教訓が述べられる。最後に、緑の物怪の行方を誰も知らないと述べて終わる。

○視点
 客観的視点で語られる。組頭とお針女の心情が描かれ、悪魔につかれる苦しみが表現されている。

<題材>
悪魔、不信心、欲深さ。

<話題>
(1)「ヴォヴェールの悪魔」の噂。→(2)「ヴォヴェールの悪魔」が再び出現する。→(3)組頭が悪魔退治に行く。→(4)酒蔵の様子。→(5)組頭とお針女の結婚式。→(6)緑の物怪の誕生。→(7)組頭とお針女が夢の中で悪魔に苦しめられ続ける。→(8)緑の物怪の失踪と悪魔からの解放。→(9)この出来事の教訓。→(10)緑の物怪の行方。

<主題>
不信心と欲深さへの戒め。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「緑の物怪」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。組頭とお針女には、不信心と強欲が原因で悪魔が取り付く。しかし、最後には緑の怪物の失踪とともに、悪魔も去ってしまう。ただ、マイナス状態から普通の状態に戻っただけであり、特に「後味が良く」なることはない。また、緑の物怪の行方も描かれないが、これも自由な解釈ができるので「後味の悪く」なる要素としては弱い。


(11)「くびかざり」
モーパッサン(1850-1893)/杉捷夫(訳)、1884年。
頁数:16頁(「思いがけない話」pp.23-38)、274行。
主人公:マチルド・ロワゼル

<あらすじ>
 小役人の家に生まれたマチルドはきれいな娘であったが、家柄の所為で小役人のロワゼルと結婚した。マチルドは美しく優雅な生活に憧れていたので、質素な生活には満足していなかった。ある晩、ロワゼルがマチルドを喜ばせようと大臣が主催する祝賀会の招待状を持ち帰った。マチルドは晴れ着も装身具もない惨めな姿を見せまいとして参加を拒否した。ロワゼルが何とか晴れ着を購入したが、装身具は手に入らなかった。マチルドは夫の勧めで、親友のフォレスチェ夫人に装身具を借りにいった。そこで、マチルドはダイヤの付いた素晴しいくびかざりを借りた。
 祝賀会当日、マチルドは誰よりも美しく、注目を浴びた。マチルドは祝賀会に大変満足していた。しかし、真夜中に帰宅した際にくびかざりを紛失したことに気づき、夫婦は狼狽する。夫婦がいくら探してもくびかざりは見つからず、代わりの品を用意する事を決意する。そっくりの品を発見するが、それはかなりの高額品であった。夫婦は多くの人間から借金をすることで、くびかざりを購入し、フォレスチェ夫人に返却することができた。その後、二人は借金を返済するために、これまで以上に質素な暮しをおくる。そのような生活が十年続いたある日、ロワゼル夫婦は遂に借金を返済し終える。マチルドは質素な生活を受け入れ、しっかりものの人間となっていた。
 ある日、マチルドは偶然にもフォレスチェ夫人と再会する。マチルドは、くびかざりを紛失し代替品を返却したことやその後の苦難の生活について打ち明けた。その告白にフォレスチェ夫人は衝撃を受けた様子であった。実は、くびかざりのダイヤは偽物であった。

<プロット>
《事件》フォレスチェ婦人のくびかざりをなくす。

○題材
 「くびかざり」には、マチルド・ロワゼル、夫のロワゼル氏、フォレスチェ婦人が登場する。マチルドは階級の低い現在の暮らしに不満を抱いている。また、服装や装身具がないことを理由に祝賀会への出席を拒否するなど非常にプライドも高い。このような彼女の性格が《事件》を経過することで、階級に適応するように変化していく。ロワゼル氏はそんな彼女を支える役割を担っている。また、フォレスチェ婦人は《事件》の大本であるくびかざりをマチルドに貸す人物である。そして、最後にくびかざりが偽物であることを告げるという役目も担っている。

○配列
 「くびかざり」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、マチルドの現状や彼女の不満が示される。そして、祝賀会への参加を巡って話が展開していく。フォレスチェ婦人のくびかざりのおかげで、祝賀会で成功したマチルドは、直後の《事件》によって一気に幸福から突き落とされる。しかし、くびかざりの借金を返す為の10年間は彼女にとって有意義なものであったことが描かれる。結末部では、そんな彼女がフォレスチェ婦人に再会し、くびかざりが偽物であったことが明かされて終わる。

○視点
 一元的視点で語られる。マチルドに寄り添った語りがなされることで、マチルドに共感的になるように仕掛けられている。

<題材>
くびかざり、紛失。

<話題>
(1)ロワゼル夫人の境遇が語られる。→(2)祝賀会へ招待される。→(3)祝賀会で出席するための衣装・装身具の準備をする。→(4)祝賀会当日の様子。→(5)くびかざりの紛失。→(6)代替品購入のための奮闘をする。→(7)借金に追われる生活を送る。→(8)フォレスチェ夫人との再開。

<主題>
マチルドの過ごした10年間の意味。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「くびかざり」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。結末でくびかざりが偽物であったということが明かされるが、その言葉に対するマチルドの反応が描かれていない。そのため、マチルドが10年間を無駄にしたと解釈すれば「後味は悪い」。反対に、この10年間はマチルドが立派な女性となるための有意義な時間だったと解釈すれば「後味は良い」。このどちらの解釈を選ぶかは読者の自由なので、「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。


(13)「煙草の害について」
チェーホフ(1860-1904)/米川正夫(訳)、1886年。
頁数:8頁(「思いがけない話」pp.117-124)、132行。
主人公:ニューヒン

<あらすじ>
 女流教育家の夫であるニューヒンは妻の言いつけで「煙草の害について」という講演を行なう。しかし、講演はまともには進まず、ニューヒンは妻や現在の生活に対しての不満ばかりを述べる。自分はもっと高尚で、俗事にまみれた今の生活から逃げ出したいと言う。だが、最終的には妻が会場にやって来たのを見つけ、その場を取り繕って講演を終える。

<プロット>
《事件》特に無し。主人公に大きな心理変化が起こるような出来事はない。

○題材
 「煙草の害について」の登場人物はニューヒン一人である。ニューヒンは普段から妻の言いつけで様々な仕事をやらされている。また、生活も妻によって支配されている。このような不満が講演会中に爆発することになる。講演会が舞台に設定され、妻の目から離れることで、ニューヒンが妻への不満を話し易くなる。

○配列
 冒頭部から結末部まで、この作品で出来事として書かれるのは、講演会の場面のみである。その中で、ニューヒンは本題である「煙草の害について」から離れて、他の話題ばかり語る。その話は、妻や現状の生活への不満として爆発する。しかし、結末部では妻が現れたことで、講演会の体裁を取り繕って終わる。

○視点
 客観的視点で語られる。戯曲なので、描写文と談話文のみ。

<題材>
現状への不満、講演会、弱気な男、強気な妻。

<話題>
(1)ニューヒンが『煙草の害について』という講演をする。→(2)ニューヒンは講演中に妻や現在の生活についての不満ばかり話す。→(3)ニューヒンの妻がやって来て、講演が終わる。

<主題>
激しく文句を言いながらも妻を目の前にすると逆らえない男のおかしさ。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「煙草の害について」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。
 ニューヒンが講演会では散々に不満を並べ立てながらも、妻が現れた瞬間に取り繕おうとする姿がおかしさを生んでいる。しかし、これは「後味の悪さ」にも、「後味の良さ」にも繋がらない要素である。


(17)「エスコリエ夫人の異常な冒険」
P・ルイス(1870-1925)/小松清(訳)、1903年。
頁数:15頁(「思いがけない話」pp.141-155)、233行。
主人公:エスコリエ夫人

<あらすじ>
 マドレーヌ(エスコリエ夫人)と妹のアルマンドはオペラ座からの帰り道に誘拐される。二人が連れていかれた場所は、広い庭のある森の中の一軒家だった。更に二人は、その場にいた男に屋敷の中の部屋まで連れて行かれる。そして、部屋の中にいた老女によって着物を脱がされた。老女は二人の着物を持って部屋を出て行き、二人はその場に閉じこめられる。これから起こる事態を想像して二人は恐怖し、神に祈った。
 しかし、長い時間の後にやって来た人物は先ほどの老女であった。その老女は二人に着物を着せると、部屋を出て行った。入れ替わりに先ほどの男がやって来て、今回の誘拐の経緯を説明した。実は、男は裁縫師であり、その目的は二人の美しい着物を間近で観察して模写することであった。しかし、その事情を人に知られることは都合が悪く、そのために着物を人間ごと掠奪するという方法を選んだ。男はお互いの利益のために今回の出来事を黙っているように二人に伝えて、家に送り返した。
 帰宅したマドレーヌは午前いっぱい秘密を守ったが、午後に親友のイヴォーヌがやって来た時には全てを話してしまった。マドレーヌはイヴォーヌと絶対に秘密を守る約束をした。しかし、結局イヴォーヌはその晩のうちに多くの友達に話してしまい、マドレーヌの冒険譚が朝帰りの言い訳であると言う。

<プロット>
《事件》特になし。登場人物に大きな心情変化が起こるような出来事はない。

○題材
 「エスコリエ夫人の異常な冒険」には、マドレーヌとアルマンドが登場する。《事件》によって、マドレーヌもアルマンドも恐怖に支配されていた。二人とも、自分たちが何をされるのかについて考えていた。マドレーヌは「人生について、男についてすべてを知っている女として考え」るし、アルマンドは、「自分を待っているものについて全然無知なほど、うぶではな」い。そのような二人は誘拐された先で、自分達が目的ではなかったことを知って、素直に喜ぶ。結局、秘密を守れなかったマドレーヌは友達のイヴォーヌに打ち明ける。

○配列
 「くびかざり」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部、マドレーヌとアルマンドは今夜のデートの相手の評価をしていた。しかし、自分たちの馬車が家とは違う場所に向かっていることに気づいた。展開部では、誘拐に気づいた二人が恐怖する様が描かれていく。しかし、誘拐の目的が二人ではなかったことが示され、二人は無事に帰る。秘密にする約束を守れずにマドレーヌはイヴォーヌに誘拐のことを打ち明ける。結末部で、イヴォーヌが二人の誘拐を朝帰りの言い訳と考えていることが示される。

○視点
 多元的視点で語られる。マドレーヌとアルマンドの心情描写を細かく行なうことで、彼女達に共感的になるように仕掛けられている。

<題材>
誘拐、秘密。

<話題>
(1)マドレーヌ(エスコリエ夫人)と妹のアルマンドは劇場で男性とデートをしていた。→(2)マドレーヌとアルマンドが誘拐される。→(3)二人は誘拐された先で服を脱がされる。→(4)二人は誘拐の目的が服の観察であったことを打ち明けられる。→(5)二人は秘密を守るように忠告される。→(6)マドレーヌはイヴォーヌに事件について話し、秘密にするように誓わせる。→(7)イヴォーヌが他の女友達に話す。

<主題>
夫人たちの生活の様子。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「エスコリエ夫人の異常な冒険」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。この作品内で起こる事件は登場人物の心理変化を引き起こすようなものではない。この作品は事件そのものの奇異さが特徴であり、最終的に何も事態の変化が起きないため「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。


(22)「あけたままの窓」
サキ(1870-1916)/中西秀夫(訳)、1914年。
頁数:6頁(「思いがけない話」pp.175-180)、90行。
主人公:フラムトン

<あらすじ>
 フラムトンは療養のために訪れた田舎町で、挨拶をしようと近所の家々を廻っていた。今はちょうどミセス・サプルトンの家を訪れており、ミセス・サプルトンが現れるのをその姪であるヴィアラと話をしながら待っている所だった。ヴィアラは、ミセス・サプルトンのことを全く知らないフラムトンに彼女の伯母の悲しい運命について話始めた。
 ミセス・サプルトンは三年前のこの日に大変悲しい運命にあい、それは十月半ばにも関わらずあけたままにしてある窓と関係があった。その窓から狩猟に出かけた伯母の夫と二人の弟がそのまま帰らなかったのである。しかし、伯母は彼等の死体が未だに見つからないので、その窓をあけたたままにしておけば彼等が帰ってくると信じている。狩猟に出かけた三人は、いつもお決まりの歌を歌いながら帰ってくる。その歌がいつの日か聞こえてこないか伯母は待ち続けている。ヴィアラの話はこのようなものであった。
 そこでミセス・サプルトンが部屋にやって来た。フラムトンが窓のことについて尋ねると、ミセス・サプルトンは夫と弟達の猟について話し始めた。フラムトンが何とか話しを逸らそうとするが、遂にミセス・サプルトンは、夫達が帰って来たことに気づいた。窓の外を見ると、確かに三人の人影がお決まりの歌を歌いながら近づいて来ていた。フラムトンは急いで逃げ出した。しかし、実際にその三人は生きていたのである。実は、ヴィアラの話は全て即席の作り話だった。

<プロット>
《事件》三年前に死んだと言われていた人間達があけたままの窓から帰ってきた。

○題材
「あけたままの窓」には、フラムトン、ヴィアラ、ミセス・サプルトンが登場する。フラムトンはヴィアラの作り話によって、脅かされる。サプルトンは土地の外からやってきた人間であり、この土地の人々のことをよく知らない。その結果サプルトンはすっかり騙されてしまう。また、ヴィアラの作り話は、その場の状況にあてはまるものから作られる。あけたままの窓と家族の帰って来る時間、ミセス・サプルトンの反応などを予測して、見事にその場に即した話を作り上げた。

○配列
 「あけたままの窓」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部から、ヴィアラの言葉で物語が始まり、そのまま会話の主導権を取られることが暗示される。フラムトンがこの土地に新しく来た者であることが示される。それを知ったヴィアラが伯母であるミセス・サプルトンの話を始めた所から展開部に入る。そして、その話が終わると同時にサプルトンが部屋にやって来る。サプルトンの話が進むに連れて、フラムトンの恐怖は増していく。そして、《事件》が起こる。フラムトンの恐怖は頂点に達して、逃げ出してしまう。結末部では、ヴィアラが事態を取り繕う(ただし、その話もまた作り話である)。全てが作り話であったという事実が明かされて終わる。

○視点
 全知視点で語られる。ただし、フラムトンに寄り添う語りが多いことで、読者はフラムトンに近い立場でヴィアラの話を聞くことになる。

<題材>
あけたままの窓。

<話題>
(1)フラムトンがミセス・サプルトンの家に挨拶にくる。→(2)ヴィアラからサプルトンが、三年前に死んだ家族を待ち続けているという話を聞く。→(3)サプルトンが部屋に来て、人が帰ってくると言う。→(4)フラムトンが窓から入ってくる人影を見る。→(5)フラムトンが逃げ出す。→(6)実は、ヴィアラの話は作り話であった。

<主題>
ヴィアラの巧みな作り話。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「あけたままの窓」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。フラムトンはヴィアラの作り話によって恐怖させられた。つまり、彼は被害者的な存在である。ただ、彼の受けた被害は、脅かされただけである。死や呪いと比較すれば小さな被害であるために「後味の悪さ」が生じ難い。


(25)「魔術」
芥川龍之介(1892-1927)、1919年。
頁数:13頁(「思いがけない話」pp.183-195)、221行。
主人公:「私」

<あらすじ>
 ある晩、「私」は婆羅門の秘法を学んだというマティラム・ミスラ君の家を訪ねた。「私」は一ヶ月ばかり前からミスラとの交際を始めたが、肝心の魔術を使用する場面に居合わせたことがなかった。この晩は遂にその魔術を見せてもらうことになっていた。ミスラ君は「私」に様々な魔術を披露してくれた。「私」は、ミスラ君が「誰でも扱える」というその魔術を習いたいと思い、ミスラ君に教えを乞うた。そんな「私」に、ミスラ君はただ「欲を捨てること」を条件として出した。「私」はその条件を受け入れ、ミスラ君は「私」に魔術を教えてくれろ事になった。
 「私」がミスラ君に魔術を習ってから一ヶ月たったある日のこと、「私」は倶楽部で友人達に魔術を見せて欲しいとせがまれた。「私」は暖炉の中で燃える石炭を本物の金貨に変えてみせた。友人達は驚き、感嘆していたが、「私」が金貨を元の石炭に戻そうとすると異を唱え始めた。結局「私」は、友人の誘いにのってしまい、私が勝てば金貨を石炭に戻し、友人達が勝てば金貨を渡すという条件で友人と骨牌をすることになった。「私」は始め乗り気ではなかったが、この日に限って調子が良く勝負に勝ち続けた。友人達は焦り、遂に一人が自分の全財産を賭けるかわりに「私」の持つ全額を賭けるように言ってきた。その刹那欲が出た私は、骨牌の勝負に魔術を使ってしまう。
 「私」は気が付くとミスラ君の部屋にいた。今の出来事は全て夢であった。ミスラ君は「私」に欲を捨てることが出来ていないから魔術を習得することはできないと告げた。

<プロット>
《事件》私は全財産が懸かった骨牌の勝負に魔術を使う。

○題材
 「魔術」では、「私」とミスラ君が登場する。「私」はミスラ君の魔法に魅せられ、魔法を習得したいと思う。しかし、結局は賭け事の最中に「こんな時に使わなければどこに魔術などを教わった、苦心の甲斐があるのでしょう」と思い、魔術を使ってしまう。ミスラ君は「私」に魔術の存在を教え、「私」に魔術を習得する資格があるか判断する役割がある。友人達は、実は夢の中の存在であり、ミスラ君の代わりに私が欲心を捨て去れているかを試す役割がある。

○配列
 「くびかざり」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、ミスラ君の人物設定が紹介される。そのまま、展開部に入り、ミスラ君の魔術に魅せられた私は、魔術を習得したいと思う。ミスラ君は魔術を教える代わりに、欲心を捨てるように求める。「私」はその条件を受け入れる。場面が変わって、私は友人達と骨牌をすることになる。最初は、魔術をつかわないように気をつけていたが、相手が全財産を賭けたことに目が眩む。そして、《事件》に至る。結末部で、今までの骨牌が、ミスラ君の見せた夢であったことを知る。《事件》によって、「私」は自分に魔術をならう資格がないことを悟らざるを得なかった。

○視点
 一元的視点から語られる。「私」の一人称で語られることで、「私」の心情の機微が描き出されている。

<題材>
魔術、欲心。

<話題>
(1)私は魔法を見るためにミスラ君の家を訪ねる。→(2)私はミスラ君の魔法を見せてもらう。→(3)私はミスラ君に魔法を教えてくれるように頼む。→(4)ミスラ君は、魔法は欲の心があると使えないと忠告する。→(5)私はミスラ君に魔法を習う。→(6)私は友人に炭を金貨に変える魔術をみせる。→(7)その金貨を賭けて骨牌をする。→(8)全財産を賭けて勝負することになる。→(9)私は魔法を使って勝負に勝つ。→(10)私は魔法を使う資格がないことが分かった。

<主題>
人間の欲心の強さ。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「魔術」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。「私」は魔術を習得しようとしたが、ミスラ君の試練でその資格がないことを自覚させられる。しかし、ミスラ君の「私の魔術を使おうと思ったら、まず欲を捨てなければなりません。あなたはそれだけの修業が出来ていないのです」という言葉から、魔術を習得する道が全く閉ざされたわけではないことが分かる。ここから、今回、魔術を習得する資格がなかったことは、「後味の悪さ」に繋がる程の不幸ではないと判断した。


(27)「頭蓋骨に描かれた絵」
ボンテンペルリ(1878-1960)/下位英一(訳)、1925年。
頁数:14頁(「思いがけない話」pp.261-274)、224行。
主人公:「私」

<あらすじ>
 「私」は、ハルシタットという山裾の小さな町を訪ねた。そして、「私」はハルシタットの墓地を見学し、そのあまりの小ささに興味を持つ。番人の女から、この町の墓地では死人があふれる度に古い死人を掘り起こし、頭蓋骨だけを残して入れ替えるという話を聞く。その頭蓋骨を観察させてもらうと、額に月桂樹かばらの花冠が描かれていた。これらの花冠は、月桂樹が男性、ばらが女性というように男女を見分けるために描かれていた。
 「私」はこの花冠を描く画家に興味を抱き、画家の家を訪ねた。しかし、実際に出会ってみると、画家は平凡な人物で、話をするほど私の関心は薄れていった。帰ろうとしたとき、「私」は急な思いつきから画家に質問を投げかけた。その質問とは、「将来的に画家自身が死んだ時には、その頭蓋骨をどうするのか」という内容であった。その質問を聞いた途端、画家の態度は別人のように変化した。そして、画家は「私」を家の中に招き入れた。画家は箪笥から、既に準備してあった自分の頭蓋骨を取り出した。「私」は固まってしまったが、なんとか努力してその頭蓋骨について質問した。画家は頭蓋骨を摘出する手術の話や、その手術を他人に行なおうとして村から除け者にされた話をした。さらに、自分を中傷した村長と牧師にばらの花冠を描くという復讐を行なったことも話した。遂に画家は、「私」にも頭蓋骨を摘出することを勧めてきた。「私」は何とか画家をごまかして、家から出て、船着き場まで一目散に逃げて行った。夜になって船が出発し、「私」は無事にハルシタットの町を離れた。

<プロット>
《事件》画家が私にも頭蓋骨の摘出手術をするように勧めてきた。

○題材
 「頭蓋骨に描かれた絵」には、「私」、画家、ベアトリーチェ(墓守の女)が登場する。「私」はハルシタットの風習に興味を持っている。頭蓋骨に絵を描く画家は、「私」に自分の秘密を教え、頭蓋骨の摘出手術を勧めてくる。ベアトリーチェは私に頭蓋骨の絵の意味や、画家の存在を知らせる役目を担っている。

○配列
 「頭蓋骨に描かれた絵」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、「私」が訪れたハルシタットという舞台の説明が行なわれている。展開部では、村の風習である頭蓋骨に描かれた絵が話題にのぼる。そして、「私」はその絵を描く画家と出会う。「私」が不用意な質問をしたことで、画家は「私」に秘密を打ち明け、遂に《事件》が起きる。「私」は何とか画家の家から逃げ出し、船に至る。結末部では、夜に解纜した船から眺めた景色が描かれて終わる。

○視点
 一元的視点で語られる。「私」の一人称で語られることで、読者は「私」の立場に近づき出来事を見ることになる。

<題材>
頭蓋骨に描かれた絵、村独自の風習。

<話題>
(1)「私」はハシルタットを訪れる。→(2)「私」はハシルタットの墓所にある頭蓋骨に絵が描いてあることを知る。→(3)「私」は頭蓋骨に絵を描いている画家を訪ねて、話を聞く。→(4)「私」は画家が自分の頭蓋骨を摘出する手術を行なったと教えられる。→(5)画家が自分の手術を信じなかった人に復讐したことも知る。→(6)私は手術をするように誘われる。→(7)私は画家の家から逃げ出し村を出る。

<主題>
狂気に陥った画家。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「頭蓋骨に描かれた絵」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。この作品で、「私」は画家によって頭蓋骨を摘出されそうになる。しかし、結局は上手く逃れることが出来ており、実際的には被害がないので、「後味の悪さ」は生じない。


(28)「利根の渡」
岡本綺堂(1872-1939)、1925年。
頁数:17頁(「恐ろしい話」pp.237-253)、277行。
主人公:座頭(治平)

<あらすじ>
 享保の初年、利根川の奥州よりの岸に一人の座頭が立っていた。長い年月、座頭はこの場所に立ち、舟渡しの船頭共に「野村彦右衛門」という人物について訊き続けた。それ以外には、誰一人この座頭について知らなかった。渡し小屋で生活をしている平助という爺さんが、この座頭に同情し、食事を与えていた。その後、座頭は平助の誘いに応じて、一緒に渡し小屋で生活するようになる。平助は座頭の素性について深く詮索しなかったが、座頭が太い針を隠し持っているのを見て以来、座頭を不気味に感じるようになっていた。ある秋の宵、平助は川から上がった鱸を捕まえようとしていた。そんな平助を手助けするために、座頭は持っていた太い針を使う。座頭は針で鱸の眼玉の真中を突き刺した。その見事な手際に、平助は更に座頭への恐怖心を抱いた。
 座頭が平助の小屋に住むようになってから約一年後、座頭は病を患っていた。病の間も一日も欠かさず、座頭は岸に立ち続けた。更に、平助に頼んで一日一尾生きた魚を手にいれてもらい、その魚の眼玉を太い針で突き潰していた。
 春先になって死期を悟った座頭は、平助に自分の来歴を話し始めた。座頭は、名前を治平といって、かつてはある藩中に若党奉公をしていた。その当時の主人が、野村彦右衛門であった。彦右衛門の妻は非常に美しく、治平は恋心を抱いてしまう。ある時、治平が彦右衛門の妻に言い寄った罰として、彦右衛門に両目を潰されてしまう。それ以来、盲人となった治平は、彦右衛門にどのように復讐するかを考えた挙句、針で眼を潰すことに決める。それ以来、眼玉を突く稽古を続けながらも、利根川の岸で野村彦右衛門が現れるのを待ち続けているのであった。
 話を終えた座頭は寝入ってしまう。次の朝、平助が座頭を見ると、彼は自分の頸の急所を突いて、自害していた。平助は座頭を丁重に弔った。
 六年後の秋、利根川が氾濫してから数日後、一艘の渡し船が転覆した。その舟に乗っていた野村彦右衛門という侍だけが死んでしまった。家来の話によると、彦右衛門は六年前から目が悪くなり始め、その治療のために江戸へのぼる途中であった。さらに、妻とも既に離縁しているようであった。話を聞いた平助じいさんは、この偶然に恐怖した。

<プロット>
《事件》野村彦右衛門によって、両目を潰されたこと。

○題材
 「利根の渡」には、座頭(治平)、平助、野村彦右衛門が登場する。座頭は何年間も利根川の渡し場に立ち続け、彦右衛門への復讐に取り憑かれた人物として設定されている。彼の執念深さを観察する人物として、平助が設定されている。座頭の心情を直接描写するよりも、平助の目を通して座頭の行動を描いた方が、読者に想像を促すことができるからである。野村彦右衛門は座頭の仇として登場する。一息に命をとるのではなく、目を潰して苦しめるという行動から残酷な性格であることが分かる。
 舞台となる利根川の渡し場は、野村彦右衛門が江戸と国許を往復する際に必ず通る場所であった。

○配列
 「利根の渡」の出来事は、まず座頭が利根川の渡し場に現れて平助と出会うまでの出来事が要約的に配置される。平助と出会ってから後の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、座頭が利根川の渡し場に現れてから平助と出会うまでの経緯が語られる。この中で、座頭の人物造形が行なわれている。展開部で平助と出会ってからは、平助の視点で座頭の様子が描写されて行く。毎日欠かさずに針の稽古を続ける様子からは、座頭の執念深さが読み取れる。そして、死期を悟った座頭は自分の身の上話を始める。この中で《事件》が起こり、座頭の執念の原因がこの《事件》にあったことが判明する。座頭が自害してから六年後、結末部では野村彦右衛門が利根川で事故に遭って死ぬ。この彦右衛門の死と座頭の死に因果関係を感じた平助の恐怖が描かれて終わる。

○視点
 客観的視点で語られる。語り手は平助に寄り添っている。主人公の座頭を観察的にみるように仕掛けられていることで、座頭の復讐に傾ける執念が主に描かれる。また、平助に寄り添うことは、平助に共感的になるような仕掛けともいえる。

<題材>
復讐、座頭、針、目潰し。

<話題>
(1)座頭が平助と出会うまでの経緯→(2)座頭と平助が共に住み始める。→(3)平助が座頭の針の腕前を知る。→(4)座頭が病気にかかる。→(5)死期を悟った座頭が、自分の身の上話を始める(元主人・野村彦右衛門の妻に手を出した罰として、両目を潰された。その仇討に利根川の渡し場で待ち伏せている)。→(6)座頭が自害し、平助は彼を弔った。→(7)6年後に野村彦右衛門が利根川で事故にあって死ぬ。

<主題>
復讐する者の執念の恐ろしさ。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「利根の渡り」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。座頭(治平)が復讐を果たすことが出来たという点では「後味が良い」。しかし、作品内では、座頭に共感的になるよりも、平助の視点から彼を観察的にみるように仕掛けられている。これでは、座頭が復讐を成功させても、読者が座頭に共感して喜ぶことはない。むしろ、平助の恐怖の方に共感するように仕掛けられている。この点では「後味が悪い」。


(29)「剣を鍛える話」
魯迅(1881-1936)/竹内好(訳)、1927年。
頁数:26頁(「恐ろしい話」pp.161-186)、434行。
主人公:眉間尺

<あらすじ>
 貧しい家の長男、眉間尺は真夜中に鼠の這い回る音で眼を覚ました。眉間尺はその鼠をいたぶったり、哀れんだりしていた。眼を覚ました母親は眉間尺の柔弱な性格を嘆いた。そして、眉間尺の父親には仇がおり、その仇が国王であることを告げた。実は、父親は鍛冶屋であり、王妃が生んだという鉄から最上の名剣を打ち上げる程の腕前であった。その剣は二振りの透明な剣であった。父は剣を献上しに行った際に、疑り深い王に殺されてしまうことを恐れ、雄剣を残して行く。予想通り、剣を献上に行った父は、その剣で切られてしまった。その話を聞いた眉間尺は、自分の柔弱な性質を改めて仇を討つことを誓う。母親は眉間尺に父親が打った雄剣を授け、仇討ちを誓わせる。しかし、母親は眉間尺が相変らず柔弱のままであることを不安に思った。
 次の日、眉間尺は夜明け前に家を出て城内に向かった。城内に入ると、ちょうど行楽に出掛ける王の行列に出会った。眉間尺は王を討とうとするが、群衆が邪魔になって失敗した。別の場所で待ち伏せをしていた眉間尺は、警告をしに来た男について行く。その男は、眉間尺の剣と首を貰う条件で、眉間尺の仇討ちを成功させると言った。男の気迫を信じた眉間尺は、剣で自分の首を切り落とし男に託した。男は、剣と眉間尺の首を持ち、王城に向かった。
 王城では、王が退屈な暮しや刺客の存在に不満を抱いていた。そんな折、町で噂の奇術師の存在を聞き、連れてくるように命令した。この奇術師こそが眉間尺の首と剣を持った男であった。男は眉間尺の首を鼎の湯に入れて、王に芸を見せた。そして、おびき寄せた王の首を切り落とした。首だけになって争う眉間尺と王を見て、男は自分も首を切り落として加勢した。最後には、眉間尺と男が王の息の根を止めた。  その後、王妃達が鼎をさらわせると、三つの頭蓋骨が引き上げられた。この頭蓋骨を誰一人見分けることが出来なかったので、三つとも同じ棺に入れて葬られた。

<プロット>
《事件》黒い男が仇討を成功させるかわりに、眉間尺の首と父の形見の剣を求める。

○題材
 「剣を鍛える話」には、眉間尺と母親、黒い男、王が登場する。眉間尺は柔弱な性格の人間であると設定されている。眉間尺が決断力に欠ける様子は作品の端々に描かれる。そんな、眉間尺に決断を迫る人間の一人目が母親である。彼女は眉間尺に王に仇を討ちに行くことを決意させる。更に、仇討に失敗した眉間尺を助け、決断を迫る人間の二人目として登場するのが、黒い男である。彼は、自分が他人の仇討を手伝うための人間であると眉間尺に告げる。この黒い男に関してはこれ以外の素性に関する情報が書かれておらず、どのような人物かは判然としない。しかし、眉間尺は彼の言葉を信じて、自分の首と父の形見の剣を差し出すという決断をする。ここで、眉間尺がなぜ男を信じるかという説明はなされない。とにかく、黒い男は眉間尺に決断をさせる。その後は、眉間尺と黒い男は迷うことなく王を討ちに向う。王は仇討の目的として設定されている。
 中国の封建的な地方が舞台になっている。王の理不尽な振る舞いが許されているがために、眉間尺の父親が殺される。これが作品内の出来事の原因となっている。

○配列
 「剣を鍛える話」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部で、鼠をいたぶったり、助けたりを繰り返す眉間尺の姿が描かれる。殺すか、憐れむかという自分の気持も決められない柔弱さが表れている。眉間尺に、「殺したのか、それとも助けてやったのか?」母親が尋ねる所から、展開部に入る。また、この母親の言葉から、彼女が眉間尺の柔弱な性格を察していることが分かる。そんな眉間尺に対して、母親は父親の仇(王)の話をすることで、柔弱な性質を改めるように迫る。実際に、眉間尺は父の仇討を決断し、次の朝に出発する。しかし、この時点では柔弱な性質が完全には改まっていない様子が描かれる。結局、王を討つことに失敗した眉間尺は、黒い男に出会い、更に過酷な決断迫られる。これが《事件》であり、眉間尺は男の求めを受け入れることを決断する。その後は、黒い男と協力して、実際に王を討ち取る。ここで、二人の「四つの眼はにっこり互いにうなずき」という満足した様子が描かれる。結末部では、その後、眉間尺と黒い男、王が三人とも一緒に葬られたというなりゆきが描かれておわる。

○視点
 客観的視点で語られる。眉間尺の心情が細かく描写され、共感を誘うように仕組まれている。

<題材>
剣、首、金の鼎、奇術、仇討。

<話題>
(1)眉間尺が鼠をいたぶる様子。→(2)父親の死の真実。→(3)眉間尺が父の仇を討つことを誓う。→(4)眉間尺が城内で王の一団を見つける。→(5)眉間尺は城内の人間と喧嘩になる。→(6)眉間尺は南門で黒い男と出会う。→(7)眉間尺が自分の首と剣を黒い男に託す。→(8)王城での王の様子。→(9)黒い男が奇術師として王城に連れてこられる。→(10)黒い男が眉間尺の首と金の鼎を使った奇術を行なう。→(11)王をおびき寄せ、首を切り落とす。→(12)眉間尺の首と王の首の戦い。→(13)黒い男が自分の首を切り落とし眉間尺に加勢し、勝利する。→(14)臣下達が鼎を攫って、三つの頭蓋骨を取りだす。→(15)三人を同じ棺に入れて、葬った。

<主題>
眉間尺の決断。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「剣を鍛える話」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。眉間尺は王を殺すという目的を達成するが、そのかわり自分の命を失ってしまう。主人公が首を切り落として死亡するという点は「後味の悪さ」に繋がる。しかし、眉間尺が自分の死を後悔する様子は描かれず、むしろ仇討後の満足した様子が描かれる。ここから、眉間尺にとっては、この出来事は不幸な出来事でないことが分かる。この点では「後味が良い」。


(32)「バケツと綱」
T・F・ポイス(1875-1953)/龍口直太郎(訳)、1929年。
頁数:12頁(「思いがけない話」pp.127-138)、208行。
主人公:デンディ、バケツと綱

<あらすじ>
 かつて小さな物置小屋でデンディという男が首を吊って自殺した。その物置小屋にあったバケツと綱は、普段から主人であるデンディに興味を抱き観察をしていた。そのため、彼等はデンディが自殺した動機についても考え始めた。彼等は、デンディの日常が幸福に満ちたものであると考えているので、自殺の動機が全く思い当たらない。しかし、実際にはデンディの妻は浮気をし、デンディはその現場を目撃していた。

<プロット>
《事件》デンディが自殺する。

○題材
 「バケツと綱」には、デンディ、バケツ、綱が登場する。デンディは物語開始時点で既に自殺している。バケツと綱によって、デンディの人物造形が為されていく。バケツと綱は、デンディを非常に幸福な人間として捉えている。しかし、実際は妻に浮気をされていた。バケツと綱は、主人の人生に興味を持っていた。そのため、普段からデンディを観察していた。しかし、彼等には浮気というものが理解できないことが、次の言葉から分かる。「彼女とても、彼に対してああ成功してみれば、他の男もまた幸福にしてやりたいと願うのは自然じゃありませんか」。この人間との価値観の違いによって、バケツと綱はデンディの自殺の理由が分からなかった。

○配列
 「バケツと綱」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部から既に《事件》は終わっており、作品内では《事件》後の出来事が書かれる。バケツと綱が普段からデンディに興味をもっていたことが示され、今回もデンディの自殺の理由について考える。展開部では、デンディが自殺した理由について、デンディとの出会いや結婚など様々な過去の出来事に原因を求める。そこでデンディの妻の浮気が語られるが、バケツと綱にはそれが自殺とは結びつかなかった。結末部に至り、彼等は花束が自殺の理由だと結論づける。

○視点
 客観的視点で語られるが、語り手がバケツと綱に寄り添う部分も多い。日常道具が人間の人生について考えるということが、本作品の特徴となっている。

<題材>
日常道具(バケツと綱)の視点、自殺。

<話題>
(1)デンディが自殺する。→(2)バケツと綱が、デンディさんが自殺した理由について考え始める。→(3)デンディとの出会い。→(4)自殺の理由の候補を出し合う。→(5)デンディの妻が他の男を幸福にしていたことについて話す(実際は浮気をしていた)。→(6)バケツと綱は花束が原因だと結論づける。

<主題>
道具と人間の相容れなさ。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「バケツと綱」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。デンディが死んでいることは「後味の悪く」なる要素といえる。しかし、その理由を考えるバケツと綱には、人間の常識が通じず、浮気を良いことだと考えている。更に、最後に「きっとそれはあの花束だったに違いないですよ」という結論にはおかしみがあり、「後味の悪さ」を弱めている。


(33)「押絵と旅する男」
江戸川乱歩(1894-1965)、1929年。
頁数:28頁(「思いがけない話」pp.199-226)、496行。
主人公:「私」

<あらすじ>
 「私」は魚津からの帰りの汽車の中で奇妙な乗客を見掛ける。乗客の老人は自分の持っている絵に外の風景を眺めさせているようであった。また、その老人の若いとも年寄りとも見える容姿も不気味であった。走行中、なぜか車内にはその二人しかおらず、遂にたまらなくなった「私」はその老人に近づいて行った。老人は当然のように「私」が絵に興味を持っていると考え、絵を見せた。「私」は老人に言われるままに絵を観察した。その絵には精巧な押絵で老人と若い女が描かれていた。「私」はその男女が生きていると感じる。老人はそんな「私」に古い遠目がねで絵を観るように勧める。遠目がねからみた二人は本当に生きているようであった。驚く「私」に老人は押絵の男が自分の兄であると言い、兄が二十五歳の時の出来事を話し始めた。
 昭和二十八年四月に兄の様子がおかしくなった。兄は毎日のようにどこかに出掛ける以外は部屋に閉じこもっていたのである。兄の事を心配した家族が弟(=老人)に、兄の後をつけさせた。すると、兄はこの年浅草公園に出来た十二階建ての凌雲閣という建物に通っているようであった。弟はその最上階で遠目がねを使って何かを探すようにしている兄に事情を訊いた。兄は、一ヶ月前に一度見掛けたきりの女性を探していると渋々白状した。そんな兄に同情した弟は、兄の行動を引き止めることが出来なかった。その内に兄が、女性を見つけたと言って弟を連れて凌雲閣から出た。しかし、周辺を探してみたが、結局女性は見つからなかった。弟は、探している間にはぐれた兄を一軒の覗きからくり屋の前で見つけた。なんと、そのからくり屋の覗き絵に描かれた女性こそが兄の探していた女性であった。兄は、女性が本物の人間ではなく押絵であると知っても諦めることが出来ない様子であった。悩んだ末に、兄は「遠目がねを逆さにして自分を見てくれ」と弟に頼む。弟が仕方なく兄の言う通りにすると、遠目がねの中の兄が次第に小さくなって、遂には消えてしまった。周辺を探した弟が再び覗きからくり屋の絵を見ると、そこには押絵になって絵の中の女性と睦まじい様子である兄がいた。弟は兄の恋が叶ったことを喜び、その絵を買い取った。そして、弟はその押絵の兄と女性を連れて旅行に出掛けた。
 今もまた老人は、その二人に旅行をさせてあげようと思い、押絵とともに旅をしている最中であった。老人は元々が人間である兄ばかりが絵の中で年を重ねていくことを気の毒に思っていた。「私」は、老人がある駅で電車を降り、去っていく姿を見ていた。

<プロット>
《事件》押絵と旅をする老人とであったこと。

○題材
 「押絵と旅する男」には、「私」と老人が登場する。「私」は語り手の立場にあるので、あまり人物造形が為されない。老人は押絵と旅をしているという奇妙な人物である。老人は押絵の中の人物が兄とその恋人だと語る。そのような老人と出会ったことで、私は「この世界と喰いちがった別の世界をチラリと」覗くことになる。

○配列
 「押絵と旅をする男」は、今の視点から過去の出来事を時間経過に沿って配置している。
 冒頭部では、これからの作品内容を暗示させる文章「この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったなら、あの押絵と旅をしていた男こそ狂人であったに違いない」が配置される。更に、私が魚津で見た蜃気楼についても描写されることで、通常とは異なる世界が作り上げられていく。汽車に乗った「私」が老人と出会うのが展開部である。老人は始めから異様な存在として描かれている。「私」が老人に話し掛けると、老人は私に押絵にまつわる話を聞かせる。その奇妙な話を聞いているうちに「私」も老人の空気にのまれていく。話の終りには、老人と同じような気分になりかけて、「変なことには、私もまた老人に同感して、いっしょになってゲラゲラと笑ったのである」。結末部では、現在の時間軸に戻ることなく、老人の去る姿が描写されて終わる。

○視点
 一元的視点で語られる。語り手の「私」の一人称で語られることで、「狂人」と出会った「私」に共感的になるように仕掛けられる。

<題材>
押絵、遠目がね、恋人、兄弟。

<話題>
(1)魚津で見掛けた蜃気楼の情景描写。→(2)私は旅行中の電車で押絵と旅をする老人と出会う。→(3)私は老人に話しかける。→(4)私が遠目がねで押絵を見ると絵の中の人が生きているように感じる。→(5)老人が押絵にまつわる話を始める。→(6)男(老人)は兄が出かけるのを尾行する。→(7)兄は凌雲閣で外を見ている。→(8)兄が探す女性は覗きからくり屋の押絵だった。→(8)男が遠目がねを逆さにして兄を見ると、兄が押絵の中に入る。→(9)男は押絵を入手し、押絵と旅をするようになる。→(10)兄は押絵の中で年齢を重ねている。→(11)老人が去る。

<主題>
狂気に支配された人間の姿。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「押絵と旅する男」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。押絵と旅をするといのは異常な行動であり、それを当たり前のように考えている老人も異常な存在である。しかし、語り手の「私」によって、老人は「狂人」として捉えられている。つまり、語り手の「私」は一般的な価値観を持っている。そのため、作品世界全体が異常な雰囲気を持つわけではない。また、老人がなぜ押絵と旅をしているのかという理由は語られるので、不可解さは生まれない。


(35)「仇討三態」
菊池寛(1888-1948)、1936年。
頁数:29頁(「思いがけない話」pp.277-305)、395行。
主人公:その1惟念 その2忠次郎 その3嘉平次

<あらすじ>
(その一)
 越の永平寺に惟念という修行僧がいた。惟念は、十六年間父の仇を討つための旅を続けていた。旅の途中で仇討に嫌気が差すこともあったが、武士としての意地や仇への怨念によって何とか旅を続けていた。しかし、国許の母親が死去したという報せを受けて、仇討を空虚に感じた彼は得度する。そして、修行の末、今では仇討に関する諸々の妄念が消え去るまでになっていた。
 初夏のある日、薪作務を行なっている途中、惟念は僧の中に仇を見つける。一時は憎悪に燃えた惟念であったが、仇を討とうとする思いを何とか振り切る。そして、その思いを仇の老僧に誓うことにした。惟念が話し掛けると、老僧はやはり親の仇であり、更に今ここで自分を討てと言い出す。しかし、惟念はその誘惑にも打ち勝ち、老僧を許す。
 その夜、惟念は座禅によって、仇討への執着を完全に捨て去る。夜更け過ぎ、惟念が寝ているところへ、老僧が夜討ちをしにやって来る。惟念は、老僧に気づいたが、全く抵抗をしなかった。次の日、一人の役僧が永平寺を逐電した。

(その二)
 鈴木忠次郎、忠三郎兄弟は、仇討の旅に出てから八年目にして、遂に親の敵を発見した。しかし、敵を発見したときには、折悪しく忠三郎一人であった。そのため、忠三郎は悩んだ挙句、兄・忠二郎の帰りを待った。一週間後、合流した兄弟が仇討に向おうとすると、なんと敵は既に病死していた。兄弟は八年の辛苦が水泡に帰したことに落胆しながら帰参した。藩では、鈴木兄弟の不幸な境遇に同情し、馬廻りの役職に就かせた。しかし、世間では兄弟が敵を発見しつつも、敵討ちに失敗したということが、悪評として広まっていた。鈴木兄弟はその噂にひどく傷つけられていた。
 時が過ぎ、世間の悪評が落着いてきたと思えた矢先、久米幸太郎兄弟が三十年に及ぶ旅の末に、仇討を成し遂げて帰参した。更に、鈴木兄弟には不幸なことに、久米兄弟の仇討は鈴木兄弟と似たような境遇で成し遂げられていた。つまり、敵を見つけたのは兄・久米幸太郎一人であったが、幸太郎は悩んだ末一人で敵を討つことにしたのである。鈴木兄弟は、久米兄弟と比較され、再び貶められることになった。
 久米兄弟の帰参を祝う酒宴が開かれることになり、忠次郎は久米兄弟の縁者として参加しないわけにはいかなかった。忠次郎は、酒宴の席で周囲の眼にさらされることに何とか耐え忍んだ。酒宴も終りに近づいた頃、幸太郎が話かけて来た。その口調に真摯な同情を感じた忠次郎は、幸太郎を羨んで泣いてしまう。しかし、幸太郎も、四十年もの長い月日を仇討に縛られたことを悲しんでいた。二人は、敵を持つ者の苦しみを理解し合い涙を流し合った。

(その三)
 宝暦三年、正月五日のことである。旗本である鳥居孫太夫の家では、めでたいことが続いたので、奉公人にも酒宴を行なうことが許された。料理番の嘉平次も酒宴の席に加わった。嘉平次は、酔っぱらったことと周りから煽てられたことで調子に乗って、大名のお膳番を勤めていたという嘘を吐き始めた。嘉平次は、周りから煽てられるままに嘘を吐き続けていたが、なぜその地位を棒に振ったのかという予想外の質問に狼狽した。しかし、実際にお膳番であった自分の旧主人・鈴木源太夫のしたことを思い出して、話し続けた。それは、幸田某の妻に横恋慕したことから起きた過ちであったが、嘉平次はそれを聞こえよく脚色して話した。また、話に真実味を増すために自分の古傷を見せたりした。話を聞いた周囲の人間は、本心から嘉平次を尊敬するようであった。その夜は、嘉平次にとって人生で最も誇らしいものになった。
 大いに酔った嘉平次が自分の長屋に帰ろうとした時、突然現れた女に匕首で刺されてしまった。その女は幸田とよといい、鈴木源太夫が殺した武士の娘であった。嘉平次は、鈴木源太夫として殺されてしまったのである。仇討を果たしたとして、とよは周囲から賞賛されたのであった。

<プロット>
《事件1》得度した後に、仇と遭遇する。
《事件2》久米幸太郎から仇討の虚しさを聞く。
《事件3》正月の祝宴。

○題材
(その1)には、惟念と仇の僧が登場する。惟念は仇討を止めて得度した人間である。そんな惟念を試すように《事件1》が設定されている。惟念は、自分の怨念や相手からの誘惑などをはねのけて、仇討をしないことを誓う。その結果、その日の夜中に襲ってきた仇敵に対しても何の感情も抱かないことになる。仇の僧は惟念の仇討を止めるという決心を試す人物として設定されている。昼間と夜中の二度、惟念を試すが行動をとる。

(その2)には、鈴木忠次郎、鈴木忠三郎、久米兄弟が登場する。仇討に失敗した鈴木兄弟を登場させることで、仇討の失敗者に対する世間の反応の冷たさが描かれる。しかし、同じような状況で仇討に失敗した鈴木兄弟と成功した久米兄弟の交流から、仇討に人生を縛られることの虚しさは成功しても、失敗しても同じということが描かれる。

(その3)には、嘉平次、とよ女が登場する。嘉平次は煽てられると調子に乗り易いという人物として書かれている。とよは、実際の仇敵を見ていないということで、嘉平次を仇敵と間違えてしまう。屋敷の他の人間は、嘉平次を煽てるという役割がある。

○配列
(その1)
 冒頭部は、現在に至るまでの出来事が要約的に述べられ、展開部からの出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部で、惟念が雲水として生活している姿が情景描写とともに示される。更に、回想の形式で現在までの仇討の旅が要約的に語られる。展開部で、薪作務にでた惟念に《事件1》が起きる。仇敵への怨念や仇敵からの申し出などをはねのける。その夜中に、仇敵の僧が夜討ちを仕掛けるが、惟念はそれに気づいた上で相手を放っておく。結末部では、仇敵が寺を去ったことが示されて終わる。

(その2)
 冒頭部では、鈴木兄弟の仇討が失敗する経緯が描かれる。仇討が失敗に終わった兄弟が帰郷してからの展開部では、そのような兄弟への風当たりの強さが描かれる。さらに、似たような状況で仇討に成功した久米兄弟が登場することで、鈴木兄弟の苦しみは増していく。しかし、久米兄弟を祝う酒宴において、《事件》に至り、忠次郎と幸太郎は苦しみを共有することで救われる。そのまま、結末部に入り、二人が泣き合う姿が描かれて終わる。

(その3)
 冒頭部で、正月の祝宴という嘉平次の気を大きくする舞台設定がなされる。展開部では、人々に煽てられるままに、嘘をついていく。更には、自分の傷も利用しながら、元の主君が犯した過ちを自分の武勇伝かのように語る。この嘘の結果、結末部で嘉平次を仇敵と思い込んだ幸田とよに討たれる。とよ女を祝福するという、その後のなりゆきが書かれて終わる。

○視点
(その1)
一元的視点で語られる。惟念の葛藤が描かれる。
(その2)
多元的視点で語られる。鈴木兄弟が世間から与えられる誹謗中傷に耐える心情が描かれる。また、《事件》によって忠次郎の救われる気持も描かれる。
(その3)
一元的視点で語られる。嘉平次の気が大きくなっていく過程が描かれる。

<題材>
仇討。

<話題>
(その1)
(1)惟念は母親の死から仇討を諦め得度する。→(2)惟念は薪作務の途中に長年探していた仇敵に出会う。→(3)惟念は仇に自分の正体を告げることで復讐心を捨て去る。→(4)夜中に仇敵が惟念を襲う。→(5)惟念は抵抗しない。→(6)役僧(仇)が逃げ出す。
(その2)
(1)鈴木兄弟は仇敵を発見するが、寸での所で仇討に失敗する。→(2)帰郷してからは周囲から陰口を叩かれる。→(3)仇討に成功した久米兄弟と比較され、さらに辛い状況になる。→(4)久米兄弟の祝宴で久米兄弟に仇討に縛られた苦しみを聞く。→(5)忠次郎の苦しみが和らぐ。
(その3)
(1)正月の祝宴が行なわれる。→(2)嘉平次は気が大きくなって、他人の過ちを武勇伝として話す。→(3)幸田とよが嘉平次を仇敵と思い殺す。→(4)幸田とよが祝福される。

<主題>
(その1)は、仇敵への怨念を捨て去る。
(その2)は、仇討に縛られる人生の虚しさ。
(その3)は、間違えた仇を討っても、祝福されるという仇討への皮肉。
(全体)仇討を礼賛する文化に対する疑問の提示。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「仇討三態」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。作品中には、三つの仇討に関する物語が書かれている。個別の読後感は、(その1)、主人公が目的を達成するので「後味が良い」、(その2)、主人公の苦しみが癒されるので「後味が良い」、(その3)は主人公が他人の過ちを武勇伝として語ったことで、仇と思い込まれて殺されてしまう。しかも、間違いに誰も気づかないまま、仇討の成功が祝われる。仇討であれば、人を殺しても良いという人々の価値観に不条理さを感じて、「後味の悪さ」が生じる。三作品それぞれの読後感が異なるので、「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。


(37)「雪たたき」
幸田露伴(1867-1947)、1939年。
頁数:52頁(「思いがけない話」pp.411-462)、894行。
主人公:木沢右京

<あらすじ>
 明応二年の十二月、泉州堺の町外れを一人の男が歩いていた。その男は、自分の下駄の歯に溜まった雪を取るために、近くの屋敷の裏門に打ちつけた。すると、男は突然その屋敷に招き入れられ、女主人の寝室へと案内される。女主人は、男が招待した人物と違うことに気づき、丁重に謝罪をして返そうとする。男は女主人の謝罪を受け入れた。しかし、なんと男はこの家の主人と知り合いであり、この浮気の事実を主人に伝えると言った。男は証拠の品として主人の笛を持って帰った。
 女主人は、この当時の町衆の中で大変な力を持つ臙脂屋の娘であった。男を招き入れてしまった召使の女は、臙脂屋の主人に助力を求める。臙脂屋の主人は、召使の説明から事情を察し、男から笛を取り返すことを了承した。
 男の屋敷にやってきた臙脂屋の主人は、男に笛を返して欲しいと懇願する。しかし、男は損得勘定ではなく義を通すという信念の元、臙脂屋の申し出を突っぱねる。そこに丹下右膳という若い浪人が入ってくる。実は、男は木沢右京といい、浪人一派の首領であった。丹下は臙脂屋の申し出を受け入れる代わりに、城を取り返す資金を要求した。臙脂屋は丹下の要求を呑んだが、依然として木沢が了承しない。そこへ丹下以外の浪人達も集まり、木沢に頭を下げた。遂に、木沢は折れた。そして、自らもまた損得に絡めとられていることを嘆じた。
 その後、木沢達は、見事河内の平野の城を取り返した。そして、臙脂屋には、女主人の浮気相手の首が投げ込まれた。

<プロット>
《事件》木沢右京の配下の浪人達が彼に臙脂屋の申し出を受け入れるように頼み込んだ。

○題材
 「雪たたき」には、木沢右京(男)、臙脂屋の女主人、召使い、臙脂屋の主人、丹下右膳が登場する。木沢左京は、偶然の成り行きから入手した不義の証拠を、ただ義理の心から主人に渡す事を決める。その証拠を臙脂屋に返すように嘆願された際には、女主人の不義を伝えることが正しいことであると考えて断る。また、作中幾度も木沢は損得勘定で義理を疎かにするこの世を憂いていた。そのような不満もあり、義理を通す心をより強いものにしていた。そのため、臙脂屋の主人の申し出や、その申し出を受ける事が得であるという丹下の頼みも断っていた。しかし、最終的には木沢の配下の者の多くが集まり全員で嘆願したために遂に木沢も折れる。木沢は自分が嫌っていた損得勘定の世界から自分も逃れられなかったことを察したのだと思われる。木沢は非常に義理を尊ぶ人間として描かれる。そんな木沢ですら、損得勘定から逃れられない姿が描かれることで、彼の無念さが強調される。
 臙脂屋の女主人とその召使いは、事件の発端となる人物である。二人は聡明な人物として描かれるが、木沢の普通以上の義理を尊ぶ態度に圧倒される。臙脂屋の主人と丹下右膳は木沢の心情変化を促す人物である。彼等が長い時間をかけて、せっとくを繰り返したからこそ、《事件》によって木沢の態度を変化させることが出来た。

○配列
 「雪たたき」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、木沢達の現状の暗喩となるような話が示される。直後の展開部では、木沢の雪たたきが行なわれ、作品内容が展開していく。臙脂屋の女主人とその召使いの忠義の厚さに感動するが、かえって女主人の不義に対する不満が増す。その為、不義の証拠を手にいれて屋敷を去った。中盤では、召使いの女が臙脂屋の主人に助力を乞う。臙脂屋の主人は木沢の屋敷を訪れ、証拠を返して欲しいと嘆願する。しかし、木沢は損得勘定ではなく頑に義理を通そうとする。丹下にも同じような態度を貫く。しかし、丹下の熱心な説得が続いた末に、《事件》が起こる。遂に、木沢も折れ、自らも損得勘定の世に巻き込まれていることを悟った。結末部では、木沢達が敵を打ち倒したなりゆきが端的に書かれて終わる。

○視点
 客観的視点で語られる。それぞれの人物の心情を描く。一つの出来事に対するそれぞれの人物の思惑を描くことで、作品に重層性が生まれる。ただし、木沢の屋敷での場面は、お互いに心情を言葉にしてぶつけ合う為に、心情が描かれることは少なくなる。実際に、自らの信念をぶつけ合う様子が描かれることで、お互いの信念が際立つ。

<題材>
雪たたき、浮気、忠義、損得勘定。

<話題>
(1)木沢が郊外の屋敷の門で雪たたきを行ない、その屋敷に引き入れられる。→(2)女主人が人ちがいに気づき、帰って貰うように頼み込む。→(3)木沢は女主人の不義の証拠を持って帰る。→(4)女主人の召使いが臙脂屋の主人に助力を乞い、主人がそれを了承する。→(5)臙脂屋の主人が木沢の屋敷を訪れ、証拠の品を返してくれるように懇願するも、木沢は断る。→(6)丹下右膳が屋敷に乗りこみ、臙脂屋の主人に加勢する。→(7)木沢の配下の者が集まり、全員で木沢に嘆願し、木沢も遂に折れる。→(8)木沢達は敵を討ち、忠義を果たす
<主題>
 利得ではなく義に忠実であろうとする木沢右京でも損得勘定からは逃れることが出来なかった。所詮、損得勘定の世界からは人は逃れる事が出来ないという事に対する無念さ。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「雪たたき」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。主人公である木沢右京は、損得勘定を嫌い、頑に一度決めた義理を通そうとする。しかし、配下の者達から頭を下げて頼み込まれ、木沢は臙脂屋との取引に応じることになる。ここから、木沢も最終的には損得に振り回されていることを自覚する。木沢の心情的には、信念が曲げられる結果になり不満足感があるかもしれない。しかし、取引の結果は、木沢・臙脂屋両方の得になることであり、結果的にも木沢は忠義を果たすことが出来ている。
 また、「損得勘定」に縛られた世の汚さに言及されているが、これは題材として「後味の悪さ」を感じさせるものではないと判断した。


(41)「蛇含草」
桂三木助(演)(1903-1961)/飯島友治(編)、初演年不明、文章化は1963年。
頁数:14頁(「思いがけない話」pp.159-172)、243行。
主人公:男

<あらすじ>
(枕)
 雲の上にいる雷が虎柄の褌をはいて仕事をしていた。自分も雷を鳴らしたいと言い出した子供に仕方なく仕事を手伝わせてやると、勢い余って雲の上から母親といっしょにおちてしまった。落ちた竹薮で昼寝をしていた虎が驚いて、雷の子供と母親を睨みつける。すると、子供は「父親の褌がいじめる」と泣きだしたのであった。

(本題)
 男がご隠居の家を訪れて世間話をしている。男は軒先にぶら下げてある蛇含草に気づく。ご隠居が、蛇含草はうわばみが人間を食べた時に使う腹下しで、今は虫除けのまじないとして置いていると説明する。男がご隠居に頼んで蛇含草を譲ってもらう。
 次に男はご隠居が火鉢で火を起こしていることを疑問に思う。ご隠居は餅を食べるために火を起こしていると説明する。すると、男が自分は餅好きだから食べさせてくれと言い出す。ご隠居が了承すると、次に男は餅の数が少ないと文句を言い始める。男はご隠居の餅を全て食べてやろうと思い、ご隠居を挑発していたのである。ご隠居は男の挑発にのって、男に全部の餅を食べさせようとする。男は、最初調子良く食べていたが、結局全部の餅を食べきることが出来ないまま腹一杯になってしまう。ご隠居に叱られて、男は家に帰る。家で休んでいても、どうもお腹が苦しい。そこで、蛇含草が腹下しであることを思い出し、食べてしまう。
 ご隠居は男が心配になって、男の家まで見舞いに行く。男の部屋を覗いてみると、人間が綺麗に溶けて、餅が甚兵衛を着て座っていた。

<プロット>
※分析は本題のみ。
 この作品は落語の演題を文章化したものである。文章は、談話文と演者の動き、話し方、最低限の場面描写で構成されている。

《事件》特になし。男がなんらかの心理変化をしている描写はない。

○題材
 「蛇含草」には、男とご隠居が登場する。作品の大部分はこの二人の談話で占められている。男は口達者な人物で、ご隠居から蛇含草や餅をもらうことが出来る。しかし、軽率な部分もあり、餅を食べ過ぎたり、蛇含草を腹下しだと思い込んで食べてしまう。ご隠居は、男と仲が良く、男の挑発に敢えて餅の大食いに挑戦させる。軽率な男を叱るが、その後男を見舞いにくるような心やさしい人物である。

○配列
 「蛇含草」の出来事は時間経過に沿って配置されている。
 冒頭部では、甚兵衛についての話題で男の無精な性格が示される。すぐ後の展開部では、男が蛇含草に興味を持ち、ご隠居に譲ってもらう。この時の説明は「いくら人間をのんだからと言っても、うわばみでも、すぐに人間が溶けるというわけにはいかない。お腹の中がこう、はち切れるようになってのたうちまわる、苦しい。そのときに谷間へおりてこの蛇含草をなめると、中の人間がきれえに溶けてしまう」というものである。ここから、男は蛇含草が虫除けであると同時に、腹下しだと考える。その後、餅をたらふく食べたことで、腹を痛める。男は蛇含草を腹下しと考えて食べてしまう。結末部では、「人間がきれえに溶けて、餅が甚兵衛を着てあぐらをかいていました」というオチが示される。

○視点
 場面描写は演者によって客観的視点から語られる。これは男が家に帰ってからの一連の行動について説明している。ここでは、男の心情についても語られる。演者の動きと話し方については、演者を見る人物(文章化する人間)の客観的視点で語られている。これは全て描写文で描かれている。

<題材>
餅、蛇含草、甚兵衛。

<話題>
(1)男がご隠居の家を訪ねて、世間話をしている。→(2)蛇含草の話題になり、半分譲ってもらう。→(3)餅に気づいた男がご隠居に食べさてくれるように頼む。→(4)ご隠居を挑発して全部の餅を食べることになる。→(5)途中でお腹が痛くなり諦める。→(6)家に帰って、腹を治す為に蛇含草をたべる。→(7)ご隠居がお見舞いに訪れると、餅が甚兵衛を着て座っていた。

<主題>
蛇含草を食べて男が溶け、後に残った餅が甚兵衛を着ているという様子のおかしみ。

<考察>
◎「どちらとも判断できない」作品
 私は、「蛇含草」を「後味が悪い」とも「後味が良い」とも判断できない。主人公の男が溶けて消えてしまうというオチは非常にグロテスクで「後味が悪い」。しかし、落語特有の演者のひょうきんな話し方や、間抜けな男の行動で作品全体が笑いの雰囲気で包まれている。人間を溶かす蛇の腹下しを飲んで消える男というオチも、男の間抜けさが表現されておりおかしみがある。このような点は「後味が良い」。



結び まとめと今後の課題

 第1節 「後味の悪い」作品の表現特性


 ここでは、作品分析を通して判明したことから「後味の悪い」作品の表現特性をまとめていく。

 まず、1章で立てた予想の検証を行なう。予想内容を以下に示す。

<1>「後味の悪さ」は作品内容全編を読了した後の読後感なので、結末部に配置される出来事が大きな影響を与える。特に、結末部に配置された出来事の結果が示されない作品は「後味が悪い」のではないか。
<2>作品中の要素のうち機能しないもの、つまりは、因果関係の不明な要素が存在する作品は「後味が悪い」のではないか。

<1>の予想の検証と考察

 この予想内容の前半部分「『後味の悪さ』は作品内容全編を読了した後の読後感なので、結末部に配置される出来事が大きな影響を与える。」を<1-1>とする。<1-1>に関しては分析の結果を受けて正しいと考える。例えば、(4)「砂男」には主人公ナタナエルの幸福な場面が何度か描かれているが、それでも最後に発狂して死んでしまうという点が「後味の悪さ」を生んでいる。また、(3)「盗賊の花むこ」は途中で女性が殺される場面があるが、最終的に盗賊達が捕まるので「後味の良さ」が生じている。ここから、作品の結末部に配置される出来事が読後感に大きな影響を与えることが分かる。
 次に、<1>の予想内容後半部「『後味の悪さ』は作品内容全編を読了した後の読後感なので、結末部に配置される出来事が大きな影響を与える。」を<1-2>とする。<1?2>に当てはまる作品は、(07)「緑の物怪」、(11)「くびかざり」、(40)「ひかりごけ」の3作品がある。
 「緑の物怪」の場合は、緑の物怪の行方が描かれない。この物怪がその後どうなるか、読者には全く予想できない。そのため、必ずしも読後感に否定的な影響を与える要素になるとはいえない。
 「くびかざり」の場合は、くびかざりが偽物であったことを知ったマチルドがその事実をどのように受け止めるかが描かれていない。そのため読者は、マチルドが借金を返す為に過ごした10年間を、立派な女性になるための時間だったと肯定的に受け止めることができる。反対に、10年間という長い時間を無駄にしたとして否定的に受け止めることも出来る。
 「ひかりごけ」の場合は、船長の裁判の判決は作品内で示されていない。最終的な判断は読者に委ねられる。極端な例えをするならば、「船長」に深く共感できるという理由だけで、それまでの出来事とは関係なく、この後の「船長」は罰を免れ、幸せに暮らしたという想像をすることは許される。
 これらの3作品のように結末部での出来事の最終的な判断が読者に委ねられる場合には、「後味の悪さ」にはばらつきが生まれる可能性が大きい。そのため、結末部で出来事の結果を示さないということは、「後味の悪さ」を生み出す表現としては弱い。
 考察の結果、予想を以下のように修正してまとめる。

<1-1>「後味の悪さ」は作品内容全編を読了した後の読後感なので、結末部に配置される出来事が大きな影響を与える。
<1-2>ただし、結末部に配置した出来事の結果を示さないという表現は、「後味の悪さ」を生じさせる要素としては弱い。


<2>の予想の検証と考察

 まず、この予想内容に当てはまる作品には、(02)「ロカルノの女乞食」、(04)「砂男」、(08)「信号手」(09)「断頭台の秘密」、(15)「人間と蛇」、(30)「竈の中の顔」、(38)「マウントドレイゴ卿の死」、(40)「ひかりごけ」があった。
 「人間と蛇」の場合は、ブレイトンを襲った蛇の正体が一切説明されない。読者にはブレイトンがどんな蛇に何故襲われたのか分からないために不可解さが残る。
 「マウントドレイゴ卿の死」の場合は、マウントドレイゴ卿とオウェン・グリフィスの夢の共有や、同日に死亡したことなどの出来事に対する理由が書かれていないために不可解さが残る。
 例に挙げた2作品が示すように、作品内で起こる出来事が説明不能であると、読後の読者は不可解さを抱えることとなる。ここから、「作品中の要素のうち、因果関係の不明な要素が存在」するということは、不可解さを生み出す表現だといえる。
 読後も解消されない不可解さは、読者の作品理解を阻むことになり、不満足感に繋がる。つまりは「後味の悪さ」を生じさせる。
 考察の結果、予想を以下のように修正してまとめる。

<2>不可解さ(を生み出す表現)は「後味の悪さ」を生じさせる要素となる。

 以上で、予想の検証と考察を終える。
 ここからは、分析していく中で新しく見出された「後味の悪い」作品の表現特性についてまとめていく。


<3>登場人物が異常な状況を肯定する

 一般的には異常とされる状況にも関わらず、登場人物がその状況を受け入れる姿を描写することで、違和感が際立つような表現がみられた。(12)「親切な恋人」と(14)「ごくつぶし」の2作品でこの表現が用いられている。
 「親切な恋人」では彼女に暖をとらせる為に腹を割く、「ごくつぶし」では働けなくなった人間には食事がでないという、一般的に考えて異常な状況が設定されている。しかし、両作品の登場人物は、この状況を正しいものとして受け入れる。その姿が違和感を強め、異常な状況を際立たせる働きをしている。
 このような異常な状況が肯定されることは、不条理な事であると言える。不条理さは、筋道が通っていることを求める読者に不満足感を生じさせ、「後味の悪さ」を生む。
 つまり、不条理さは「後味の悪さ」を生じさせる要素となる。
 以下にまとめる。

<3>不条理さ(を生み出す表現)は「後味の悪さ」を生じさせる要素となる。


<4>不幸な出来事

 作品分析の結果から、不幸な出来事は「後味の悪さ」を生み出す要素と判断する。ただし、読者によって不幸の判断基準は異なるということには注意しなければならない。
 ここで、<1-1>と<4>が複合された表現が多いことに気づいた。つまり、作品の結末部に不幸な出来事を配置するということである。この表現は<1-1>の実践型ともいえる。結末部に不幸な出来事を配置することで、それ以外の部分に配置するよりも「後味の悪さ」を強めているということである。この表現を<4-1>とする。
 また、<1-2>と比較すると、主人公の不幸な運命は既に作者によって決定されているため、「後味の悪さ」にはばらつきが生じ難い。
 (02)「ロカルノの女乞食」、(04)「砂男」、(05)「外套」、(08)「信号手」、(10)ひも、(15)人間と蛇、(16)「バッソンピエール元帥の回想記から」、(19)「アムステルダムの水夫」、(21)「剃刀」、(23)「三浦右衛門の最後」、(24)「罪のあがない」、(26)「蠅」、(30)「竈の中の顔」、(31)「死後の恋」、(38)「マウントドレイゴ卿の死」でこのような表現が用いられている。
 以下にまとめる。

<4>不幸な出来事(死や迫害)は「後味の悪さ」を生じさせる要素となる。(ただし、読者毎に不幸の判断基準は異なる。)
<4-1>結末部に配置されるとその効果は更に大きくなる


<5>登場人物への共感

 作品分析の結果から、登場人物(特に主人公)への共感をし易いように仕組まれた作品では、登場人物に起きた出来事の結果に読後感が影響されることが分かった。この<5>登場人物への共感は「後味の悪さ」を生む要素ではない。例えば、読者が共感している登場人物が幸福な結末に至れば、「後味は良い」筈である。つまり、この<5>登場人物への共感という要素は、「後味の悪さ」や「後味の良さ」の強弱に影響する要素だといえる。
 また、作品分析の中で、登場人物に与えられる性質のうち、被害者性と加害者性が「後味の悪さ」に影響することが分かった。
 登場人物が何らかの出来事の中で被害を受ける場合には、その登場人物に被害者性があるといえる。さらに、その登場人物の責任や過失が少ない程、被害者性は高まる。
 反対に、登場人物が何らかの出来事の中で被害を与える場合には、その登場人物に加害者性があるといえる。さらに、その登場人物の責任や過失が多い程、加害者性は高まる。
 以下にまとめる

<5>登場人物(特に主人公)への共感をし易いように仕組まれた作品では、登場人物に起きた出来事の結果に読後感が影響される
<5-1>登場人物には被害者性がある。
<5-1-1>登場人物に責任や過失がなく、登場人物の被害者性が強調される。
<5-2>登場人物には加害者性がある。
<5-2-1>登場人物に責任や過失がなく、登場人物の被害者性が強調される。



最後に、今回の作品分析の中で最も「後味が悪い」作品群の特徴について述べる。
その作品は、(4)「砂男」、(10)「ひも」、(15)人間と蛇、(19)「アムステルダムの水夫」、(23)「三浦右衛門の最後」、(30)「竈の中の顔」である。
 これらの作品の特徴は、登場人物の責任や過失がほとんどないにも関わらず、その登場人物が結末部で不幸な結果(死)にいたる。これはつまり、「理不尽さ」を指している。「理不尽さ」をここまでに挙げた表現特性であらわすと、

<4>不幸な出来事(死や迫害)は「後味の悪さ」を生じさせる要素となる。(ただし、読者毎に不幸の判断基準は異なる。)
<4-1>結末部に配置されるとその効果は更に大きくなる。
<5-1>登場人物に責任や過失がなく、登場人物の被害者性が強調される。

となる。つまり、<4>、<4-1>、<5-1>の複合型が「理不尽さ」を生み出す表現だといえる。




 以上から今回判明した「後味の悪い」作品の表現特性についてまとめる。
 「後味の悪い」作品の表現特性には、「後味の悪さ」を生む要素と「後味の悪さ」の強弱に影響を与える要素がある。
 まず、「後味の悪さ」を生じさせる要素として、

<2>不可解さ(を生み出す表現)は「後味の悪さ」を生じさせる要素となる。
<3>不条理さ(を生み出す表現)は「後味の悪さ」を生じさせる要素となる。
<4>不幸な出来事(死や迫害)は「後味の悪さ」を生じさせる要素となる。(ただし、読者毎に不幸の判断基準は異なる。)

がある。また、「後味の悪さ」の強弱に影響を与える要素として

<1-1>「後味の悪さ」は作品内容全編を読了した後の読後感なので、結末部に配置される出来事が大きな影響を与える。
<1-2>ただし、結末部に配置した出来事の結果を示さないという表現は、「後味の悪さ」を生じさせる要素としては弱い。
<4-1>結末部に配置されるとその効果は更に大きくなる。
<5>登場人物(特に主人公)への共感をし易いように仕組まれた作品では、登場人物に起きた出来事の結果に読後感が影響される。
<5-1>登場人物には被害者性がある。
<5-1-1>登場人物に責任や過失がなく、登場人物の被害者性が強調される。
<5-2>登場人物には加害者性がある。
<5-2-1>登場人物に責任や過失がなく、登場人物の被害者性が強調される。

がある。
 特に、今回の作品資料の中では、<4>、<4-1>、<5-1>との複合型が「理不尽さ」を生み出し、「後味の悪さ」を生む表現として非常に強力である。



 第2節 今後の課題

 最後に、今回の研究から出てきた今後の課題を列挙する。

◎要素の複合
 前節の最後に述べたように、「後味の悪さ」を生む文章表現上の仕組みは複合的に用いられることがある。どのような組み合わせが存在し、また効果的であるのかということを研究する。複合的に用いる要素を、題材に限定すると、例えば、題材設定の中で特に頻出する主要題材の点数を決めて、それらを足して、比較してみるという方法がある。

◎題材(作品の中で主題に関わる要素)
 今回の研究では、作品の題材に大きな注意は払わずに分析を行なった。しかし、題材の読者に与える影響がすべて同等であるとは、考えにくい。例えば、「殺人」と「自殺」はどちらも「死」に関連した題材ではあるが、読者に与える影響は異なる筈である。このような題材の違いに意識的な分析を行う。

◎読者への働きかけ
 (1)「貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」は、説得の文であるため書き手が読者へ直接的に働きかける表現を行なっている。他にも(40)「ひかりごけ」の前半部、読者への問題提起の部分は、読者への働きかけ表現であると考えられる。このような読者への働きかけ表現が「後味の悪さ」を生じさせることがあるのではないかと考えた。読者への働きかけ表現が「後味の悪さ」を生じさせる文章表現上の仕組みになり得るかを研究する。

◎「慣れ」
 「後味が悪い」という読後感を生み出す要素のうち、読者側に関係する要素に含まれるもの中で、更に注目したいと感じたのが「慣れ」である。例えば怪奇小説を好む読者は、人が死ぬ場面や怪物が出現する場面に「慣れ」ているため、一般的にな読者と比較すると、あまり恐怖しない。恐怖や悲しみに「慣れ」るように、「後味の悪さ」にも「慣れ」ることが予想できる。この「慣れ」が「後味の悪さ」にどのような影響を与えるかを研究する。ただ、読者側に関係する要素は個人差があり、研究で扱うことが非常に困難であるので、何らかの研究方法を考える。

◎他の作品資料の分析
 今回扱った作品資料以外にも、恐怖を生み出すことが主目的の怪奇小説なども「後味の悪さ」を生み出す文章表現が多くあると予想できる。また、今回扱った作品資料は、最も新しい作品でも1954年の「ひかりごけ」である。(文章化された作品としては1963年の「蛇含草」が最新であるが、実際に桂三木助による「蛇含草」が落語として演じられた年代は不明である。また、「嫉妬」は初出年が不明だが、作者のフレデリック・ブウテの没年が1941年であるから、「ひかりごけ」より新しい作品とは考えられない。)この「ひかりごけ」から後の時代にも、様々な「後味の悪い」作品が書かれている筈である。上でも述べたように、読者は「後味の悪い」作品に慣れていく。作者が「後味の悪さ」を魅力とした小説を書くならば、この「慣れ」を突き崩すような作品にしていく必要がある。「後味の悪さ」は新しく生まれ変わり続けなければならない。そのような経緯で生まれてくる現在の「後味の悪い」作品には、今回の研究資料には見られないような「後味の悪さ」の要素が含まれていても不思議ではない。そのような作品の分析を行なうことで、「後味の悪さ」を生み出す文章の表現特性をより詳しく研究することが出来る。



おわりに

 今回の研究は、自分や他人の価値判断が含まれる場面が多く、科学的な厳密さをどのように保つかということに非常に苦心した。人の心理に大きく関係する事柄を研究するのが、如何に難しい作業であるかが身にしみて理解できた。また、42作品の分析作業は一年間という時間があっても大変な作業であった。不満の残る部分もあるが、今となっては、本研究が私自身にとって、「後味の良い」ものになることを祈るのみである。何よりも本論文自体が筆者の力量不足によって、「後味が悪く」なっていないことを願いたい。

 最後に、卒業論文執筆に手を貸して下さった皆様に御礼を述べたい。特に、指導教官である野浪先生からは、多くの示唆に富んだアドバイスを頂きました。途中、自分の研究の意義を見失った時には、励ましの言葉をかけて下さり、おかげでなんとか最後まで辿り着くことが出来ました。中間発表などで、的確な指導して下さった国語科の先生方もありがとうございました。
 その他にも、様々な場面で力を貸してくれた、家族、友人、ゼミのメンバー、大阪市立中央図書館の司書の皆さんにも感謝しています。皆さんの協力なくして、私の卒業論文の完成は有り得ませんでした。本当にありがとうございました。

参考文献と作品資料

参考文献

◯江連隆「サスペンスによるプロットの構造分析」『弘前大学教育学部紀要』第42号1979年、pp.23-36。

◯南條竹則『恐怖の黄金時代』集英社、2000年。

◯土部弘「プロットの種類と立て方」平井昌夫(編)『文章上達法』所収、至文堂、1976年、pp.67-81。

◯大岡昇平『現代小説作法』文芸春秋新社、1962年。

◯波多野完治『文章心理学の理論<文章心理学大系2>』大日本図書、1966年。

◯E.M.フォースター/中野康司(訳)『小説の諸相<E.M.フォースター著作集8>』みすず書房、1994年。

◯ジョナサン・カラー/荒木映子(訳)/富山太佳夫(訳)『1冊で分かる 文学理論』岩波書店、2003年。

◯盛園正人モダンホラーにおける恐怖を感じさせる表現特性について」大阪教育大学卒業論文、2001年。

◯辻恵美「小説におけるクライマックスの表現論的特徴」大阪教育大学卒業論文、2010年。




作品資料

<研究対象の文献情報>
◯安野光雅(編)『思いがけない話<ちくま文学の森六>』筑摩書房、1988年。
◯安野光雅(編)『恐ろしい話<ちくま文学の森七>』筑摩書房、1988年。

<研究対象の作品名>
(以下十九作品『思いがけない話』に収録、作品の並びは収録順、年数は初出年)
O・ヘンリー/大津栄一郎(訳)「改心」1909年。
モーパッサン/杉捷夫(訳)「くびかざり」1884年。
F・ブウテ/堀口大学(訳)「嫉妬」初出年不明。
ゴーゴリ/平井肇(訳)「外套」1840年。
チェーホフ/米川正夫(訳)「煙草の害について」1886年。
T・F・ポイス/龍口直太郎(訳)「バケツと綱」1929年。
P・ルイス/小松清(訳)「エスコリエ夫人の異常な冒険」1903年。
桂三木助(演)/飯島友治(編)「蛇含草」1963年。
サキ/中西秀夫(訳)「あけたままの窓」1914年。
芥川龍之介「魔術」1919年。
江戸川乱歩「押絵と旅する男」1929年。
アポリネール/堀口大学(訳)「アムステルダムの水夫」1910年。
ビアス/西川正身(訳)「人間と蛇」1891年。
A・アレー/山田稔(訳)「親切な恋人」1885年。
ボンテンペルリ/下位英一(訳)「頭蓋骨に描かれた絵」1925年。
菊池寛「仇討三態」1936年。
久生十蘭「湖畔」1937年。
ホフマン/種村季弘(訳)「砂男」1815年。
幸田露伴「雪たたき」1939年。

(以下二十三作品は『恐ろしい話』に収録、作品の並びは収録順、年数は初出年)
アポリネール/堀口大学(訳)「詩人のナプキン」1910年。
ホフマンスタール/大山定一(訳)「バッソンピエール元帥の回想記から」1900年。
ピランデルロ/山口清(訳)「蠅」1923年。
アイリッシュ/阿部主計(訳)「爪」1941年。
ディケンズ/小池滋(訳)「信号手」1866年。
ポー/丸谷才一(訳)「『お前が犯人だ』」1844年。
グリム/池内紀(訳)「盗賊の花むこ」1812年。
クライスト/種村季弘(訳)「ロカルノの女乞食」1810年。
ネルヴァル/渡辺一夫(訳)「緑の物怪」1849年。
田中貢太郎「竈の中の顔」1928年。
魯迅/竹内好(訳)「剣を鍛える話」1927年。
ヴィリエ・ド・リラダン/渡辺一夫(訳)「断頭台の秘密」1883年。
志賀直哉「剃刀」1910年。
菊池寛「三浦右衛門の最後」1916年。
岡本綺堂「利根の渡」1925年。
夢野久作「死後の恋」1928年。
木々高太郎「網膜脈視症」1934年。
サキ/中西秀夫(訳)「罪のあがない」1919年。
モーパッサン/杉捷夫(訳)「ひも」1883年。
モーム/田中西二郎(訳)「マウントドレイゴ卿の死」1939年。
ミルボー/河盛好蔵(訳)「ごくつぶし」1886年。
スウィフト/深町弘三(訳)「貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」1729年。
武田泰淳「ひかりごけ」1954年。


※初出年代の内、『思いがけない話』、『恐ろしい話』には情報が掲載されていない作品は下記の資料を参考にした。

「親切な恋人」
◯山田稔(編)『フランス短編傑作選』岩波書店、1991年、pp.338-339。

「頭蓋骨に描かれた絵」
◯徳永康元(編)『ヨーロッパ諸国短篇名作集』學生社、1966年、p.292。
◯「MAREMAGNUM」の中の「Bontempelli, Massimo La donna dei miei sogni e altre avventure moderne」。
URL:http://www.maremagnum.com/libri-antichi/la-donna-dei-miei-sogni-e-altre-avventure-moderne/100168213

「雪たたき」
◯幸田露伴『幸田露伴集<現代日本文學大系4>』筑摩書房、1971年、p.408。

「蠅」
◯野上素一(編)『世界短編文学全集9<南欧文学/近代>』集英社、1963年、p.421。

「ロカルノの女乞食」
◯クライスト/佐藤恵三(訳)『クライスト全集第一巻<小説・逸話・評論・その他>』沖積社、1998年、p.154。
「竈の中の顔」
◯中島河太郎/紀田順一郎『現代怪談集成(新装版)』立風書房、1993年、p.130。

「罪のあがない」
◯サキ/大津栄一郎(訳)『サキ傑作選』角川春樹事務所、1999年、pp.173-183(タイトルは「贖罪」で収録)。
◯「The Internet Speculative Fiction Database」の中の「Saki Summary Bibliography」
URL:http://www.isfdb.org/cgi-bin/ea.cgi?1204

「マウントドレイゴ卿の死」
◯モーム/木村政則(訳)『マウントドレイゴ卿/パーティの前に』光文社、2011年、p.279。

「貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」
◯スウィフト/田中光夫(訳)『スウィフト小品集』山口書店、1986年、p.309。

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