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「ことばと教育」受講生 行事作文

サンプルで示した 野浪正隆 6年生の時の作文

「三十一メートル、泳げたこと」 野浪正隆

> 「おい、次のグループこい。」と先生が言うと、ぼくをふくめて七人ほどがプールサイドをバチャバチャとスタート台のほうに歩いていった。

「いくぞ、用意、ドン」バチャンと音をたててぼくはとびこんだ。プクプクと息をはいた。パチッとを目を開けると、プールの底の黒い線が、ぼんやりと見えた。

 ぼくは手を、クロールとも横およぎともわからないような手つきで泳いでいく。ときどき息をすう。その時プールサイドで応えんしているみんなの顔が見える。チラッと見ると十五メートルだった。「もっとがんばらなあ」と思って、水の中のみんなをみた。苦しそうな顔をしている。「もうあかんかなぁ」と思って、せ泳ぎみたいに、からだをひっくりかえした。すると鼻の穴からゴボゴボと水がはいってきた。びっくりしてもとにもどった。

 目を開くと、折り返しの所が見えた。がんばって手をついた。「少しでも遠く泳ごう」ザバン。音をたてて折り返した。あわが体のあちこちから上がっていく。

 だんだん体が重たくなった。「もう、だめだ」と思って足をついた。先生が「三十一メートル。」と言った。「われながらよく泳げたものだな。」と思った。

 プールのはしごをのぼるとき、とてもだるかった。次の子らがもう泳いでいた。ぼくは心の中で「ガンバレ」といってやった。

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「はあ〜今年もかあ。」大きく身構える石を目の前に、小学生のわたしはため息をついた。
今日は毎年恒例の、巨大お墓掃除の日だ。夏におばあちゃん家に行くと、必ずこのお墓の掃除をする。山の中にあるお墓は、長い階段を登った先の土地に石段が積み重なり、その上にお墓の本体と言える石が乗っている。ただ、その大きさが信じられないほど大きい。石段の上で四人ほど寝転べそうだ。かなり前に作られた物で、階段を上がるとキシキシと音が鳴った。
ほうきを手にして、わたしと家族は仕事を始めた。回りの葉っぱをかき集め、草を抜き、大きな石をゴシゴシと磨いた。終わりがないように思えるほど大きいお墓は、わたしをどんどん疲れさせる。それに、誰のお墓なのかよくわからない。ひいおじいちゃんのなんとかと聞いたことがあるが、それだけだ。わたしはただ黙々ときれいにし続けた。
一時間ほどたって、おじいちゃんが葉っぱの山に火をつけた。モクモクと煙が白く上がっていった。焼けた匂いが服についた。最後に燃えかすを集めると、そこにはきれいなきれいなお墓があった。100年たったとは思えないほど、元の形を残している。「ありがとうね、おかげできれいになったよ。」おばあちゃんがそう言って微笑んだ。
「何十年ものみんなのやさしさが、誰かの大切な物をつないでいくんだなあ。」わたしはふとそう思った。

g177616

「三年七組十一番 重水ほのかさん、卒業おめでとう。」
そう言われ、花束と卒業証書を受け取った。この教室で皆んなで授業を受けることはもうない。皆んなで笑い合いながらお弁当を食べることも、嫌だと言いながら掃除することも、全てが今日で終わりを告げる。その事実は分かっているのに、私はいまいち『卒業』という実感が湧かなかった。

卒業式が終わり一段落したあと、高校一年生の時に同じクラスだった友人と教室に残っていた。友人は、春から地方の大学へと進学することが決まっていた。二人とも高校に入学した時から今日までのことを振り返りながら、「『卒業』という実感が湧かないね。」なんて話していた。
そんな話をしていた時、不意に学校のチャイムが鳴った。チャイムが鳴り終わった瞬間、友人を見ると泣いていた。私は驚いてどうしたのかと聞くと、「何故かは分からないけどチャイムが鳴って、『卒業』を実感してきた。会いたい時に会えなくなる寂しさを感じてきた。」と話してくれた。その話を聞いたときでも『卒業』を実感しなかった。友人が泣き止んだあとは、いつも通りしょうもないことを話して、ゲラゲラ笑い合って帰った。
友人と別れ、一人になったときにふと私の目にも涙がこみ上げてきた。何故かは分からないが、初めて別れというものを実感した。私の高校生活を思い返すと、辛いこともあったのだが、周りの人に恵まれ楽しい思い出しか出てこなかった。大切にしたいと思える友人がたくさん出来た。『卒業』することが寂しいと思った。だけど、かけがえのない思い出や大切にしたいと思える友人のことを考えると、『卒業』しても繋がりは消えないと不思議と思えた。私にたくさんの物を与えてくれた高校生活。それは一生色あせず鮮明に記憶に残りつづけるだろう。

k164010

「あと10秒」
 「あと10秒!」プレイしていたチームメイトが声を大きくして言い放った。1ゴール差で僕たちのチームが勝っている。10秒間ディフェンスに徹すれば、僕たちの勝利だ。相手のSGが3ポイントシュートを放った。シュートは外れた。しかし、相手チームにまだ反撃の時間はある。ゴールに弾かれたボールに僕が手を伸ばした。リバウンドを死守することができた。そこで試合終了のブザーが鳴り響いた。「勝った」
 僕が中学3年生の夏、小さな地区大会の試合の話です。小学校からバスケットボールをしており、初めて約6年が経っていました。もう5年前のことですが、その時の音、匂い、臨場感は今でも全て鮮明に覚えています。中学2年生時から僕は左膝に成長痛を抱えていて、試合であまりいい場面がありませんでした。というのも、ミニバスケット経験者ということからか、あまり背が高くもないのに、C(センター)というゴール下を守るポジションでした。あまりチームの身長が高くなかったのもあったので、僕が抜けてしまうのがとても億劫で、試合に参加できないことをとても悔しく思っていました。その思い出深い試合は、1Q目と4Q目だけ出場することになり、最後までチームメイトの奮闘により、4Q目に僕がでるときには、ほぼ勝利確定でした。しかし、相手チームの追い上げもあり、追いつかれそうになったあの時、バスケット人生で一番Cとしての仕事を果たせたと強く実感しています。小さな地区大会の決勝でもない普通の予選でしたが、とても良い経験になっています。最後にシュートを決め、試合に勝ったというストーリーではなく、守りきったというストーリーはあまりないと思います。この感動を一緒に味わえるのは、共に戦ったチームメイトしかいません。また、当時のメンバーでバスケットをしたいと強く思います。

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「最後のダンスコンテスト」
 団長の合図で曲がかかり、私たちの最後の演技が始まった。
 高校生最後の体育祭で、私が一番力を入れたのはクラス対抗のダンスコンテストだった。クラス替えがあり、新しいクラスメイトと初めて協力して作り上げる作品、私たちにとってそれは三分間のダンスであった。テーマを考え、曲を決め、振り付けを考え、衣装も自分たちで作った。衣装が完成し、曲が完成したときは、これからの練習や本番へ向けてのやる気が高まった。
一か月という短い期間で昼休みや放課後、朝の時間や休日も削ってたくさん練習をした。なかなか練習に出席できなかった人たちとも、たくさんのことを教え合った。全員で円になって動く体系移動は、何度も何度も練習した。向かい合う人と目を合わせて身体に位置を覚え込ませる。「もう少し右!」「あと一歩だけ前出て!」本番直前まで細かい指示が飛び交っていた。
「とにかく笑顔で!」顔を上げるタイミングを揃え、委員の子の言葉を思い出す。何度も通したから、曲の歌詞も完璧に覚えている。苦労した体系移動も、衣装の帽子をかぶるところも、すべての振りを大きく動き、観客席に向かって全力でアピールした。そして最後、みんなで声を合わせる。
「お届け物です!」
「宅急便」が私たちが決めたダンスのテーマだ。観客に笑顔を届けるという仕事を終え、達成感に包まれて私たち配達員は退場した。
 一か月間、勉強と並行してクラス全員で作り上げた私たちの作品は、38人の笑顔とともに完成した。

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『運動会』
「バンッ!!」
その音が鳴ると同時に、わたしは走り出した。
あんなに苦手だったはずのスタートが今はとても気持ちの良いものに感じる。
リレーの第一走者に選ばれたとき、正直不安でいっぱいだった。なぜなら、わたしはスタートがとても苦手だったからだ。スタートの瞬間に響く「バンッ」という大きな音にいつも驚いてしまい、いつもどうしても遅れてしまう。それに加えて、今年はクラウチングスタートでスタートをしなければならない。いままで以上にほかの走者に遅れをとってしまうようにしか思えなかった。
しかし、「一緒に走るみんなのためにも苦手なままではダメだ!」そう思い、学校での練習以外に、父に頼んで教えてもらうことにした。
練習はつらかった。中学校で陸上を教えている父は、手を抜くことなくきびしく私を指導してくれた。
何度も、何度も、スタートの位置に立っては父の合図でスタートをきる。失敗して転んでしまう時もあった。
だが、あきらめたくないという思いで練習を続けた。
「うまくなったな、本番がんばれよ。」
運動会の日の朝、父はそう言って背中を押してくれた。それだけでなんだか本番もうまくいく気がした。
本番、スタートラインに立つと、「また失敗たらどうしよう」という不安で頭が真っ白になる。大丈夫、大丈夫、これまでの練習を思い出しながら自分に言い聞かせる。深呼吸をすると不思議と落ち着くことができた。
「バンッ!!」
スタートはばっちり成功した。あとは次のなかまにバトンを渡すことだけを考えて走る。
結果は2位だったが、それでも、今までで一番思い出にのこるリレーになった。

k164012

 小学校6年生の6月。大阪市のキックベースボール大会があった。私はキャプテンで、チーム全員で必死に練習してきた。
 1試合目の相手は、チームの人数が少ない相手で1〜6年生のメンバーを合わせてやっと10人、というチームだった。私達のチームは6年生8人、5年生2人のチームなので余裕でコールド勝ちすることができた。
 2試合目の相手は、毎年決勝戦に出ているような強豪チーム。この試合に勝つと3位入賞。私達は気合い十分で勝てる気がしていた。試合は4回で6対5、私達のチームがリードしていた。しかし5回表に相手が1点入れ、同点に。私達は裏で点を取り返すことができず試合終了。私は延長戦が始まると思っていたが、クジで勝敗を決めると言われ、まさかの出来事に早くも涙してしまった。気を取り直してクジを引いたが、結果は相手の勝利。試合終了の挨拶後、チーム全員で号泣した。
 今チームで集まると必ず、「私が泣くのが早かった」という話になる。負けてしまったけど、それも笑い話になるくらい、私にとって忘れられない良い思い出だ。

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高校一年生の時のことです。私の高校では五月に球技大会があって、学年関係なくバレーやサッカーをして戦います。わたしは運動が得意ではないのでこの行事がとても憂鬱でした。
わたしはバレーをすることになったのですが、練習はあまりできず、一年生ということもあってチームワークも不十分でした。
「勝たれへんかもしれんけど、楽しく頑張ろうや!」
最後の練習の日にリーダーの子がそう声をかけてくれました。きっとわたしが楽しくなさそうなのを気にしてくれたのだと思います。今にして思うと情けないけれど、わたしはその言葉で楽しもうと思えるようになりました。
当日いざ試合が始まってみるとみんなやる気に満ち溢れて顔を合わせただけで仲良くなれた気がしました。それだけで十分楽しかったのですが、なんとわたしたちのチームは順調に勝ち進んでいったのです。
勝ち進むと楽しくなるもので、お互いの声掛けも増えて、チームプレーができるようになっていきました。そしてなんと決勝まで勝ち進みました。「バレーの決勝一年対三年やって!」とギャラリーの声が聞こえます。友達も先輩も先生もみんな見に来ます。
「いけるって今までと一緒やん!」
すっかり緊張してしまったチームメイトにリーダーの大声が飛びました。
試合が始まるとみんな余裕が出てきていい試合を繰り広げられました。途中まで接戦で「もしかしたら勝てるかも!」という希望が見えてきた瞬間集中が切れ、サーブミスを重ねてしまってマッチポイントまで来てしまいました。次のサーブはリーダーです。みんなが見守る中サーブを打ちます。ネットまであと数センチ、届かないボールをみんなが見つめます。
「ピピー!試合終了!」審判の声が響きました。
先生は「三年生相手によく頑張った。」と声をかけてくれました。クラスの子たちも「すごかった」と言ってくれました。私自身あんなに活躍したバレーは人生で一度きりだと思います。
でもやっぱり優勝したかったです。

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明日から修学旅行だ!シンガポールに行けるんだ。私の心は前日から踊っていた。飛行機から降りると暑い。1月に日本を出発したので予想以上の温度差、蒸し暑さにびっくりした。私が一番楽しみにしていたのは英語にあふれた生活を送ることだ。しかし、シンガポールの英語は少しなまっている。違和感しかなかった。でも面白いなとも思った。どこか中国語に似ているところがある。言語が融合している。それがアメリカ英語しか知らなかった私には新鮮だった。そしてシンガポールにいる間はシンガポールの英語を使おうと思い、一生懸命聞いた。そして真似た。郷に入っては郷に従え。自分の中ではそのような気持ちだった。私のクラスでは英語を話せるのは私だけだった。だから、代表挨拶やクラスでの行動の時に話すのは任されていた。その時に練習したシンガポールの英語を使ってみると「うまいねえ」と日本語で返された。会話が互いの言語でしていることに多少の不思議さは感じていたが、とても嬉しかった。それから日本に帰るまで、英語に触れられる幸せでずっと心が躍っていた。

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「4分30秒の戦い」  川原 亮
十種競技の最後の種目、1500mの時間が迫ってきている。
九種目終了時点でベストが出そうなペース。
最後の1500mで自己ベストを8秒更新して、4分32秒で走れば大きな大会の標準記録を切れて、その大会に出ることができる。
やるしかない。
もちろん1500mも走るわけだからつらいに決まっている。
でも、標準記録をきって大会に出たい。お世話になった先輩と出場できる最後の大会だ。
やるしかない。
気づいたらスタート地点に立っていた。緊張であまり覚えていない。
号砲とともに飛び出した。
1500mはトラックを300mと3週走る。
最初の300mはライバルたちの様子を見ながら先頭集団につけた。
前には四人固まって走っている。
もちろんまだ余裕のある走り方だ。
300mを走り、残り3周。全員余裕がある。
そのまま1周走り、残り2周。先頭を走っていた選手がつらそうになってきた。肩が左右に大きく揺れだした。
2番目の選手が1番目の選手を抜いた。それに引き続き、私を含め先頭集団の4人が抜き去る。
先頭集団の全員の息遣いが荒くなってきた。
ラスト1周。
一人の選手が先頭集団から飛び出した。それに負けじと全員がペースを上げた。しかし、体力の残っていなかった人からペースが落ちていく。最後の直線100mに入ったときには、私ともう一人の選手だけだった。
彼は高校最後の大会で私がギリギリで勝った選手だった。
(あの時の再現をしよう、そのまま標準記録を切ってやる)
(今度こそ負けない、1位の座は譲れない)
言葉には出さずともお互いの足音や息遣いで伝わってきた。
最後の力を振り絞り、もう一段回スピードを上げて、ゴールに転がり込んだ。
走り終えると、口の中が血の味がする。
応援してくれた仲間たちが喜んでいる。
(そうか、標準記録はきれたのか。よかった。
でも、あいつには勝てなかった。)
私のタイムは4分30秒83
彼のタイムは4分30秒43
その差は0.4秒
距離にして40p
悔しさと喜びをいっぺんにかみしめながらトラックに寝そべって夕方の空を見上げていた。

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パンッと空砲が鳴る。一斉に走り出す僕らのグループ。
運動場になりひびくのは「天国と地獄」。リレーでどのチームが勝ちかどうか決まるのを端的に表しているね。
走り出したときにはあまりつかない差だけれど、30mほど走った先に現れるものに勝負の分かれ道の曲がり道。
出てきたスピードを殺さず活かしていけ、コーナーで差をつけろ。
そう頭の中に流れてきたのは既に差を付けた後だった。

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「できた!」
すっかりペンキ臭くなった教室の真ん中で、私は思わず声をあげた。
「やったあ!」「よっしゃあ!」
2人も次々と、その声応えるように言った。

体育祭予行日は明日に迫っていた。なんとか仕上がった。もちろん間に合ったことへの安堵は大きかった。
しかし、なによりもこの3人でここまで頑張り切れたことが、なによりも嬉しかった。
完成した団旗を見ながら、私はふと、今日までの道のりを思い返していた。

約1ヶ月前、私たち3人は体育祭で使う青団の団旗を作ることになった。
今年の青団のテーマは「孔雀」だ。
縦横4mほどの大きな布に羽ばたく孔雀の姿と、「孔雀」の文字をペンキで描く。
「これを3人で仕上げるのは無理でしょ」私が最初に抱いた正直な感想はこれだった。センター試験まであと半年足らず。勉強もしなくてはならない。時間が足りないのは目に見えていた。
しかし、高校3年生の夏休みというと、大学受験に向けて勉強に本腰を入れる人が多く、人を集めるのも難しかった。
私たちも、勉強時間を削って団旗を描き始めた。

体育祭の予行日が近づくにつれて、私たちの焦りも大きくなっていった。
「これ絶対無理、終わらんよ」
私は、冗談半分ではあったが、つい口に出してしまった。あと残り数日しかないというのに、ペンキを塗れていない部分が多く残っていた。
「大丈夫、あとちょっと頑張ろう、絶対に仕上げよう」
私の無責任な言葉にも、友達はそう言って優しく励ましてくれた。そうだ、絶対にすごい団旗を作ってやる、そう思えた。
クラスの子も何人か来てくれて、「頑張って」「なにか手伝うことある?」と声をかけてくれた。とても嬉しかった。
そこから毎日毎日、絶対に悔いのないようにやり切ってやる、と必死になって作り続けた。

本当によかった、ここまでやれてよかった。心からそう思った。
いつの間にか、教室には夕日が差しこんでいる。長いようで短かった夏が、終わりを迎えようとしていた。

g177636

風が私の髪の毛を激しくさらっていった。いつも地についている私の足は宙に放りだされていて、私はスリルと爽快さを感じた。
私の小学校での修学旅行は、志摩スペイン村であった。勝手に決められた5人一組のグループで、友達もおらず気がめいっていた私は、とにかくアトラクションに乗ろう、と提案した。アトラクションに乗っている間は、一人で楽しむことが出来るからだ。
一番面白かったのはもちろん、志摩スペイン村最大のジェットコースター、ピレネーである。そのころはユニバに今ほどジェットコースターが無かったので、とても楽しみだった。私の苦手とする浮遊感がなく、ただただコースターに振り回されるような感覚はとても新鮮で、もう一回乗ろう、と言ってしまったくらいだった。もちろん、私の提案は却下された。
そう気負わなくても行ける距離にあるので、また行ってみたい。こんどは仲の良い友達と一緒に。

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連合音楽会

今日は、地域の他の学校の選ばれた人たちと発表のしあいをする連合音楽会がありました。
僕の学校の出場クラスは抽選で僕のクラスになりました。
僕はピアノ伴奏で、ギターを弾く子やアコーディオンを弾く子もいます。
朝練も放課後練もいっぱいしました。
本番が始まる前、手も足もガクガク震えていました。鍵盤を叩く手もペダルを踏む足もずっと震えていました。でも気がつくと震えは止まっていて、みんなが笑顔で発表しているのが見えました。
発表が終わった時にはすごい達成感を感じました。クラスの友達もみんな「楽しかったな!」「今日出れて良かったな!」と言っていました。
初めての貴重な経験を出来て良かったです。とても楽しかったです。

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「ぱん。ぱん」と僕はお宮さんに手をあわせました。
昨日までずっと楽しみにしていた遠足。昨日、伊勢神宮に行ってきました。大阪からバスで3時間の長旅。友達とトランプをしたり、歌を歌ったりしました。でも伊勢神宮はなぜだか遠く感じました。
辺りを見渡すと、友達がいつもの教室の光景とは違って、うきうきしていました。もちろん、僕もうきうきしていました。
伊勢神宮に着くと、いままで見たことのないくらいの大きな鳥居があって、木でできた拝殿がありました。そこは木々が青く、また空気が澄んでいて、静かな風景でした。僕は一呼吸すると、澄んだ空気が肺いっぱいに広がりました。
さっき、お願いしたのは、「どうか野村さんと仲良くなれますように」です。お願いですと強く思いました。
帰った後、お母さんに「何をおねがいしたの?」と聞いてくるので「教えない」と言いました。
でも、僕は、隣の席の野村さんを思い出していました。

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「みんなで繋いだ襷」 楠本きらら

「パンッ」とピストルの音が鳴り、選手が一斉に駆けていく。
 高校2年生の冬。駅伝大会。この県駅伝で6位に入ると、近畿大会という次のステージに行ける。私たちのチームは、昨年度の4位よりも上を目指していた。その目標を目指して、たくさん辛くて厳しい練習を積み重ねてきた。
私は4区を走ることになり、前の繋げてくれる選手を応援しながら、心臓がドキドキと鳴り響き、緊張を感じていた。なんとか、駅伝メンバーに選ばれたものの本調子ではなかったこともあり、不安もいっぱいであった。
 目の前で走っているチームメイト、ライバルの選手は皆苦しい顔で前だけを見て必死に走っている。「頑張れ!」「いけるよ!!」とチームに声を掛けると同時に、自分にも「頑張れ自分、いけるよ自分」と唱える。
襷を受けとる際、渡してくれた後輩が背中を押してくれた。順位はこの時で2位。目標としていた順位のままアンカーに繋げたいという思い一心で走った。
  走っている際、たくさんの応援が飛び交う。私の名前を呼ぶ声、チームの声は特に力になった。走っている時は自分一人だが、今まで襷を繋げてくれた仲間のこと、走れないメンバーのこと、優しく熱く指導して見守ってくれた顧問の先生のこと、ずっと応援してくれる家族のこと…たくさんの人の顔が思い浮かんだ。最後まで、今出せる力を振り絞ってアンカーに襷を繋ぐことができた。
 結果は、2位。みんなで掴んだ、近畿大会出場の切符。「おめでとう!」と言い合い、みんなで抱き合って喜んだ。辛いこともたくさんあったが、走ることの楽しさ、襷を繋ぐ嬉しさと達成感を感じた。

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その日は友達と個展に行く約束をしていて朝からとてもワクワクしていた。4限目が終わり、急いで学校を出て電車に飛び乗った。片道30分だったが、それはもう一瞬に感じられた。個展に着くと、そこはもう天国だった。1枚1枚が繊細で、綺麗で、何時間でも眺めていたいと思ってしまうほど素敵な絵に囲まれている、最高の空間だった。 幸せに満ち溢れていたその帰り道、電車に乗ろうと財布を出すが、なかなか見当たらない。「まあまあ、いつものことだからカバンの奥底の方に…」手を鞄の奥深くに突っ込んで探ってみるが、ない。「おかしいなあ…」そう思い鞄をひっくり返して探してみた。しかしどこにもないのだ。「どうしよう…」来た道をもう一度戻って友達にも一緒になって探してもらうが見つからない。財布には銀行のカードや保険証や学生証、そして大好きなバンドのライブのチケットが入っていた。押し寄せる不安と絶望感に涙が出そうだった。
次の日警察に届けを出しにいくと友達に話していた時、学校から電話があった。何事かと思い行ってみると、財務課のおじさんに学生証を今持っているかと聞かれた。しかし前日に財布をなくしたため持っていない。「なんてタイミング…」昨日あった出来事を伝えると一枚の紙を渡された。見てみると警察の住所と電話番号、そして私の学生証の落し物が届けられていると書いてあった。急いで電話してみると心良い人が財布を届けてくれたということを伝えられた。ものすごく安堵すると同時に、ここが日本で良かったと心の底から思った。

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『サッカーにかけた夏』

「ピーッ!」
グラウンドにホイッスルが鳴り響いた。いよいよ全国大会への切符をかけた一戦が始まった。笛の音と同時に、緊張と高揚感が体を走る。この日に向けて積み重ねてきた練習の日々が、走馬灯のように頭を駆け巡る。
いける。練習してきたんだから。
自分にそう言い聞かせて試合に集中する。共に戦ってきた仲間へとボールを繋いでいく。自然と大きくなる声。声援。危ない場面も励ましあって流れを絶やさなかった。
そして、相手チームのゴール前。自分へとまわってきたパス。
今だ!
思いっきり右足を振り抜く。相手のディフェンスの頭上を越えていくボール。ただただ思いを込めてそれを見つめる。
…いけ。いけ!決まれ!
思いが届いたのか、ボールはキーパーの頭上のネットに突き刺さった。抱きついてきてくれる仲間。コート外からも大きな歓声が聞こえる。安心感と脱力感で涙が出そうになる。
いや、まだだ、試合は続いている。もう一度気を引き締めて自陣へ戻る。
「ピッピッピピーッ!」
試合終了のホイッスルが鳴り響いた。嬉しくて涙が止まらなかった。

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「よーい、ドン!!!!」
学生生活最後のリレーの始まりの合図が場内に響き渡りました。
体育祭最後の競技はリレーです。毎年毎年、それが楽しみで仕方ありません。
そんな楽しみももう終わりだと思うと、少し寂しいです。卒業が近づいている証拠だからです。
そんな思いを抱きながら、私は全力で応援します。

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音楽会2014年、僕が高校一年生の時の話です。音楽会がありました。音楽会では、前半にクラスごとの合唱の発表があり、後半に第九を全校生徒で歌う、という構成になっています。
クラス合唱は、半年前から練習してきた曲を歌いました。僕のクラスはSMAPの「夜空ノムコウ」、「証城寺の狸囃子」、「ずいずいずっころばし」を歌いました。僕はベースのパートで、僕は楽譜編曲から、半年前からベースパートリーダーとして同じパートの人の音取りまですべてしました。本番前までみんなで励ましあいながら一生懸命練習したので、本番もうまく演奏することができ、終わってからいろいろな人に褒められました。とてもうれしく、来年も頑張ろうと思いました。
後半の第九は、ソリスト、というのがあります。斉唱とソロパートが交互に歌っていきます。そのソロは、オーディションで決まりました。僕は音楽部という合唱やミュージカルをする部活に入っていましたので、歌にはとても自信がありましたが、部活の先輩にとてもうまい人がたくさんいたので、経験としてオーディションを受けてみようと思い、挑戦しました。たくさん練習してオーディションに臨み、合格発表の日。ベースソリストは1位2位で2人+補欠3位1人なのですが、先輩方を押しのけて1位になることができました。先輩方には少し悪いと思ったものの、とっても嬉しかったです。
第九の本番の舞台並びにも意味がありました。第九を一クラスごとに歌って、うまかった順番に前列から並んでいきます。例年は先輩から順に前に並んでいくのですが、今年は僕のクラスだけが一番前になり、そこから例年のように並んでいきました。クラス皆で死ぬほど練習したので、すごくうれしかったです。
そしてついに、第九。周りの吹奏楽隊が前奏をじゃかじゃか演奏し、ふっと消える。会場が1,2秒静かになる。「オーフローインデ!!」1000人収容可能な大ホールで自分と先輩の声だけが響きました。会場から聞こえてくる自分の反射してきた声はとても聞き心地がよかったです。誰よりも目立つつもりで、最後までホール後ろの避難標識、緑のおじさんを見つめ続けて歌いあげました。
音楽会が終わり、とても達成感がありました。一年目ですべてにおいて成功した音楽会となり、一生の思い出となっています。

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「がんばるぞー!」掛け声とともに本番が始まった。舞台は神霜祭。私たちのサークルは手話劇をする。手話劇は、普通の劇に手話をつけて演じるものだ。
いままでやったことは体が覚えている。一歩を踏み出す。(だれかセリフ飛ばした!)じわっと手に汗がにじむ。すかさず仲間がフォローに入り場面をつなげる。お互いの連携、助け合い。(今までたくさん練習してきた。失敗なんかするもんか!)みんなの思いが一つになった瞬間だった。
??気が付いたら観客の拍手がなっていた。「やりきった…」みんなのキラキラとした顔が物語っていた。まだ体は興奮している。こうして私たちの大舞台は幕をとじた。

最高の仲間とともに作り上げた最高の舞台。セリフに加えてまだ馴染まない手話、動き、表情。普通の劇とも違い、慣れない分とても苦労した。しかし今回得たものは、両手で抱えきれないほど大きかった。


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「小中音楽会」ザントマン ニコラウス

「次は、阿太小学校の皆さんです。」と司会の人が言うとともに、舞台上への扉が開かれた。体が緊張でかすかに震えている。「大丈夫、大丈夫。今日のために練習して来たんだから。」と自分に言い聞かせた。震えが少しマシになった気がした。
みんながひな壇の上に整列するのが見える。僕はピアノだから一人だけ場所が違う。目線が僕に集中しているように思えて、緊張がひどくなって来た。藁にもすがるような思い出先生の方を探した。先生が優しい目で見返してくれたので弾ける気がして来た。曲が始まる。みんなはリコーダーを各声部のパートで鳴らし、綺麗な旋律を奏でている。僕はそれに合わせるようにピアノの鍵盤を叩く。そのうち緊張もほぐれて、楽しさが溢れて来た。でもそれもつかの間、僕はトイレへ行きたくなったのだった。「なんでこんな時に!なんで演奏前に行かなかったんだ!」僕は心の中で悔しがる。必死に我慢しながら演奏を続けた。けれども観客から変な目で見られている気分だった。
「あ!もうすぐ終わりだ!」と曲の終盤へ差し掛かりホッとした。「よかったあ。」と心の中でつぶやきながら譜面上の最後の音を奏でる。そこへ司会者の言葉が耳に入って来た。「二曲目は…」。ああ、そうだった、まだ曲目は終わっていなかったんだ…。僕はもう一曲耐える準備を始めた。

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「久しぶりのお出かけ」
休日、私は珍しく朝早くに目を覚ました。その日はずっと前から楽しみにしていた宝塚市立手塚治虫記念館へ高校時代の友人と行くためだった。しかし私達の目的は手塚治虫ではなく、そのときそこで開催されていた「80'sガーリーコレクション」という展示が目当てであった。休日はなるべく家から出たくない私だが、今回実際の80年代のイラスト、グッズが見れるということで80年代風の絵が大好きな私にとって今回の展示は絶対に行こうと思っていたのだ。
記念館に着きチケットを買ったあと、ついでにと手塚治虫の作品をひと通り見て周る。そしてついにお目当ての展示へワクワクしながら向かう。そこは夢のような場所だった。サンリオキャラクターを中心に80年代のかわいく少し懐かしいキャラクターたちが私達を迎える。最初から最後まで「かわいい!」「これかわいいね」と言いながら私達はゆっくりと堪能した。そのなかでも印象的だったのが黄色いぬいぐるみである。その風貌は目はジト目、横に生えているヒゲが劣化のせいなのかだらーんと下に垂れ下がっていてブサイクで無愛想なのだが、どこか憎めない可愛さがある。これがいわゆるブサカワなのか…と感心した。
その後友人とカフェで高校時代のときの思い出話に花を咲かせたりくだらない話をして、私の休日はあっという間に終わった。たまには休日に外に出かけるのも悪くないなと思った。

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「合唱コンクール」


指揮棒を振り上げる音。ヒンヤリとした会場内が、無音になる。
「ワン、ツー」
指揮者の掛け声から、美しいピアノの音色が会場を包み、私たちの合唱が始まった。

私が高校2年の冬、おそらく人生で最後であろうクラス対抗の合唱コンクールが行われた。
私のクラスは女子が16名、男子が24名の計40名。合唱において、女子はソプラノとアルトで分かれるため、少し不利な人数バランスだ。
1月の寒い朝にもかかわらず、私たちは朝練として授業前に集まり練習に励んだ。しかし、人数が集まらない。女子は部活の朝練があるなど理由をきちんと連絡しての休みであったが、男子は無断で半数ほどいなかった。合唱練習を仕切っていた友人が、「最後の合唱コンクール、終わってから後悔したくないねん」と何度も何度もクラス全体に呼びかけ、泣きながら訴えた。その熱意が伝わってか、練習の雰囲気は格段に良くなり、他のクラスに負けたくないという気持ちが私たちを励まし前進させた。
「やったろーや!」男子の中で一番の盛り上げ役が火をつけ、どこよりも一生懸命練習し、その姿を他クラスの先生にまで褒めてもらえた。練習はうまくいっていた、はずだった。

1月の後半から、クラスの様子が変化した。
「今日は5人欠席か…。」
ホームルームの時間、担任の先生が悲しそうにつぶやいた。私のたちのクラスで、インフルエンザが流行り始めたのだ。教室内はゴホゴホと響き、どんよりとしていた。毎日欠席者、早退者が発生し、合唱の練習どころではなくなってしまった。そしてついに合唱コンクールの一週間前、学級閉鎖となった。

コンクール当日の朝、2年8組の教室に30数名が集まった。数回練習を通した後、自然と円陣を組んだ。
「がんばろう」
笑顔で口々にそう言った。
演奏を終え、結果は入選すらしなかった。しかし、大きな拍手と、担任の「ありがとう」と涙ぐんだ声は忘れることはない。私たちはどの演奏よりも、1番輝いていたと胸を張って言えるだろう。

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7月の終わりに一人で東京に行った。5月頃から夜行バスを予約したりどこに行こうかと計画を立てたりして、とても楽しみにしていた。そしてこの旅行を機に、一眼レフのカメラを買った。
 初めて夜行バスに乗ったが、想像していたより、寝心地は良かった。しかし、このときとんでもない夢をみた。この旅行を計画したときから、会う約束をしていた、神奈川で一人暮らしをしている友人がいるのだが、なんとその友人に会わずに帰ってしまう、という夢をみたのだ。夢のなかで思わず叫びそうになったときに、ぱっと目が覚めた。窓の外を見てみると、うすぼんやりと青みがかった景色が広がっていた。大きな川を渡ったときに、海が近いのか遠くにコンテナが見えたが、どれも青みがかっていて、テレビで見るような鮮やかな色合いはなかった。ただその風景が、私を静かな現実に引き戻してくれた。
 バスを降り、東京タワーを眺めてから朝食を食べ、今回の旅行の目的であった新宿の美術館へ向かった。そこで吉田博という版画家の展覧会を観たのち、もうひとつ気になっていた中野の個展を観に行った。スマホで検索した地図とにらめっこしながら、人の多いにぎやかな街を歩き回り、個展会場にたどり着くことができた。
 夕方には、約束していた友人と無事合流し、東京都庁で東京オリンピックのプロジェクションマッピングを見た。雨のなかで見た10分程度の映像だったが、オリンピックの長い歴史と映像の迫力に感動した。そして9時を過ぎた頃、ファミリーレストランで夕食を食べた。久々に会った友人は、高校時代と変わらない明るさと気の強さがあった。
 今回の旅行は自分が稼いだお金で、自分が行きたいと思った場所に行くことができた。帰ってきてカメラを見ると、撮った写真はほんの十数枚しか無かった。だが思い出に残る良い旅になったと同時に、友人の大切さも確認できるいい機会になった。

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パッとステージが明るくなると同時に大きな歓声があがった。何千もの人の注目が1つのステージに集まり、ホールの空気が一変する。1人、また1人とメンバーが登場するたび歓声と拍手は大きくなっていった。
今日は待ちに待ったバンドのライブである。私はすでに感動していた。いつもは画面越しでしか見ることのできない彼らが目の前にいるのだ。そのことがとても嬉しく、飛び上がるくらいであったが、後ろの人の迷惑になるのでやめた。
曲が始まると空気がびりびりと震えて、その震動は身体中に伝わった。大きな音は割れていた。しかし、そんな不満をふき飛ばすように澄んだ声が響き渡る。曲が盛り上がる部分ではカラフルな紙吹雪が一斉に舞い、ホール全体が輝いて見えた。
そして夢のような時間はあっという間に過ぎ、アンコールが始まった。ずっと静かに曲を聞いていた隣のスーツの人は、アンコールでは腕を高く上げていた。
帰り道ではライブで感じた震動がまだ続いているようだった。現実感のないまま家に帰ると、母に「ライブどうやった?」と聞かれた。私は「最高だった。また行きたい。」と答えた。

k152106


「終わって欲しくない」それが、舞台から出てきた僕の最初の言葉でした。
この前の日曜日におこなわれた定期演奏会。この日に向けて僕は、僕たち吹奏楽部は3ヶ月間練習してきました。自分自身が体調を崩し、満足に練習ができない時期もありました。パートの音が揃わず、頭を悩ませた時もありました。
それでもどうにか練習を重ね、いよいよ挑んだ演奏会。指揮者が壇上に上がり、手を上げると同時に構えられる楽器たち。指揮者の棒に合わせて一斉に息を吸い、そして吹く。鳴り響く音。これは聞きに来てくれた人に後から聞いた話ですが、僕たちトロンボーンパートが1番と言っていいほどまとまって聞こえてきたそうです。
僕はこの演奏会をもって引退しました。人生最後の演奏会が、最も成功した、最も幸せな舞台となって本当に良かったです。

g177809

照り返す太陽の光がなんとも眩しく、思わず目をしかめてしまった。高校最後の体育祭当日だ。
毎年行われる朝の応援合戦の練習がある。去年までは、朝の練習には顔を出さない子も結構いたが、今年は出席率が高く、そういうところから、ああ、本当に高校最後の体育祭なんだな、と、しみじみしたのを思い出す。
私たちは皆、自分たちに出来ることは頑張ろうと前向きな姿勢で臨んだ。
個人競技や団体競技が終わり、応援合戦の時がきた。さっきまでは音楽が鳴り、応援の声やピストルの音が響いて騒々しかったグラウンドが一気に静寂に包まれる。中学生の応援、高1、高2、そして最後に私たち高3の応援という順番だったが、あっという間だった。

応援団長が学年のひとりひとりを笑顔で見渡し、大きく頷く。
みんな大丈夫やで。笑顔で楽しんで頑張ろう!
そう言っているようだった。
歌詞も振り付けも覚えている。落ち着いてやればいい。そう思い大きく息を吸った次の瞬間、開始の合図であるホイッスルが鳴った。
途中、パネルの隙間から、グラウンドに座っている学年代表のリレー選手たちが、いつになく真剣な顔でこちらを見ているのが見えて、胸がいっぱいになった。本当に、本当にこれで最後なんだ。
応援合戦が終わり、学年対抗リレーになると、皆んなより一層応援に熱が入り、声が枯れるんじゃないかというくらい叫んでいた。バトンパスのミスもあり、結果は良くなかった。高3は下級生より少し遅れをとってゴールした。皆んな泣いていた。

いつの間にか見れなくなっていた点数のボードの幕が引き上げられ、結果が出る瞬間は、これまでに無いくらい胸が高鳴り、緊張した。並んで座っている同級生もみな同じ様子だった。

結果、個人競技や団体競技、応援合戦、学年対抗リレー、全てを合計して高2が優勝で、私たちは僅差で2位だった。

6年間ないし、3年間の中で全員が最も頑張ったことは間違いなく、私たちも、先生たちもみなそれをよくわかっていた。団体競技は全て優勝していた。私たちの学年では初めてのことだった。だからこそ、喜びで沸く下級生を見ているのは辛かったし悔しかった。
一生忘れられない体育祭になったし、行事の中で心から悔しいと思うこと、みんなで抱き合って泣けたことは今振り返ると良い思い出だ。

k172126

 
 『オーストラリアを通じて』
 高2から高3に上がる春休みでした。私はオーストラリアのシドニー近郊に1週間文化交流の一環として研修旅行に行きました。1週間という短い期間でしたが、たくさんのことを学び、体験することができました。この研修旅行でやったことは主に2つあります。
 1つ目は観光です。オーストラリアの日本とは全く異なる文化に触れることができました。訪れた数ある観光地の中で私が1番印象に残ったものはオペラハウスです。オペラハウスでは劇場内には入ることはできませんでしたが、外から眺め、オペラハウスのウッドデッキからその景観を間近に見ました。ただ見るだけでなく、どのように作られているか、工夫点は何かなどのお話を聞くことができました。屋根の塗装の話には驚かされました。オペラハウスの屋根は遠くから見るとすべて真っ白に見えます。しかし、話によると独特な形であるがゆえの立体感を出すために1部の屋根が薄いクリーム色などで塗装されているそうです。この話を聞いたときに細かいところまで建築家のこだわりに直接触れたような感じがしました。細かいところまでこだわっているなんてすごいなという気落ちが溢れました。
 また、観光の最中では色々な食べ物を食べました。特にハンバーガーはとても思い出に残っています。なぜかというと日本で見るものとは大きさと迫力が違ったからです。日本では小さめですが、オーストラリアでは両手で持っても崩れてしまうのではないかというほど大きく、厚い肉のパティを使っていました。肉汁がたっぷりで味も日本で食べるよりもとてもおいしく感じました。
 2つ目はホームステイです。ホームステイではアメリカ系の血を引くホストファミリーに迎え入れられました。最初は初めて触れるネイティブスピーカーの話す英語についていくことが難しかったです。
普通の英会話の授業でやるようなスピードと比べるととても速いものだったからです。 しかししばらく過ごしている中で、次第に慣れ、普通に会話ができるようになりました。自分の英語が伝わったという喜びと安心感が生まれました。現地ならではの英語表現を学ぶことができました。
 また、ホームステイではホストファミリーといろいろな場所に行きました。一番印象に残った場所は海です。日本では春のこの時期オーストラリアでは晩夏の時期です。だから海の水がとても冷たく気持ちよかったです。オーストラリアの海は日本の沖縄の海のように水が青くきれいでした。白いカモメもいっぱいいました。日本の海ではあまりカモメを見かけないので私の中では少し新鮮でした。水着を持っていれば海水に入ることができたのですが、あいにく持っていなかったので海水浴はできませんでした。しかし足を水につけたり砂浜を歩いたりしてオーストラリアの海を満喫することができました。
 研修旅行では、本や文献で調べただけではわからないことを、また、それ以上のことを体験し学ぶことができました。この体験や学習を通して私は、さらに異文化に対する興味がわきました。研修旅行での思い出は自分の人生をさらに豊かに育ててくれるものになりました。私はもっと様々な国に旅行してたくさんの文化を学びたいなと思いました。

k162722

『駅伝人生』
 2015年11月2日日曜日、僕たちの長い戦いが終わりました。「駅伝」です。
 中学の頃に卓球をしていた僕は新しいスポーツに挑戦したいと思い、陸上競技部の長距離パートへの入部を決めました。今考えると、この決断は今の自分を大きく変えています。
 1年目の駅伝はベンチにも入れず悔しい想いをしました。3年生が中心のチームの中に1年生も含まれていて、同期の自分が含まれなかったのがもどかしかったのを覚えています。
 2年生ではやっと手にした駅伝のチャンスを病気で不意にしました。人生で最悪の気分でした。あの悔しさはもう一生忘れることはありません。
 そして、3年生になりました。最後の駅伝の年です。春には800メートルを専門にしていたため、トップスピードをあげるハードな練習をしていました。そんな練習中でした。咳が止まらなくなりました。慌てる先生や部員、急いで保健室に運ばれ、そのまま先生の車で病院に運ばれることに。春の大会も近づいている中で医者に告げられた最悪の一言「肺年齢が80歳を超えている」今でも忘れません。長距離種目において命である肺が80歳では春の大会は愚か、練習さえもできません。頭が真っ白になり、何も考えられませんでした。調子も良く、練習のパートナーにも「今年は記録でる!」と期待されていた中での不測の事態。チームメイトにもなかなか打ち明けられませんでした。
 そうして練習を2週間せずに迎えた春の最後のトラックレースは、散々でした。400mが終わり、最後の1周の合図の鐘が「カランカラン」と鳴る時には、肺が苦しく、呼吸がほとんどできない状態でした。目の前が真っ暗になった状態で気づけばゴールラインを超えていました。記録はシーズンワースト記録で、鐘がなった以降はそれしか記憶にありません。「もうやめよう」そう決意した瞬間でした。
 大会が終わり「辞めたい」と顧問に告げようとしたある日、教室からみんなが練習している様子を眺めていました。チームメイトの中に走っている集団から離されても必死に走っている姿が目に飛び込んできました。その二人は自分と同じ初心者の同期二人で、切磋琢磨してきた仲間です。そんな二人がレギュラー争いをしている姿をみて「もう一度挑もう」と決めました。
 しかし駅伝まで残り4ヶ月。もう時間はありません。かなり焦りました。そんな時「焦っても仕方ない。毎日徐々に上げていこう」と、チームメイトに言われました。その翌日から、歩くことから始めて、まずは女子と同じペースで練習することから始めました。すると人間不思議なもので、みるみるうちに体力が回復していきました。最後の底力というものですね。
 そうして迎えた専攻レースの日、最後の3000mの記録会です。このレース以外に目立った結果を残せていない僕はこのレースで結果を残す他に、メンバーに選ばれる理由がありませんでした。本気でした。誰とも喋らなかったのを覚えています。「パンッ」と雷管の音が鳴り響き、レースがスタートしました。集団を引っ張る展開となり、いつもは弱気になってしまうところでしたが、その日は特別でした。ぐんぐん一人で独走状態に入り、そのままゴールしました。組でトップになり、自己ベストも出て、最高のレースになりました。顧問に「今までで最高のレースだった。駅伝ではもっといいレースを期待している」と言われ、泣き崩れたのを覚えています。それだけ全力でした。
 メンバーが発表され、残念ながら同期の初心者はメンバーには選ばれませんでした。それでも笑顔で見送ってくれたのは本当に今でも忘れられません。
 大会当日、緊張が走る中、5区の3000mを任されました。4区までの選手を信じて待っていると、良い順位の情報がたくさん流れてきて、とても胸を躍らせていました。4区は1年生でラストの100mの時には笑顔でした。その笑顔のまま僕に襷を繋いでくれました。「お願いします!!」といわれ、そのままタスキを受け取った手を振り上げて応えました。極度の緊張からか、中盤は全く覚えていません。しかし、最後の200m、カーブを曲がった先に中継所がありました。そこには声を上げて待っている後輩の姿が。「1秒でも早く、1秒でも早く」それだけを考えて走っていました。そのまま順位をキープしタスキを渡した瞬間安心感からか涙が止まりませんでした。
 送迎バスでゴールに戻った時にはもう選手はゴールしていて総合結果は2時間16分50秒。チームの目標を達成しました。あの時の感動はもう超えられないと思います。個人成績も区間10位で3000mのベストタイムを更新。顧問には「期待通りの走りをありがとう」と言われました。その時には涙ではなく、笑顔に変わっていました。
 最後に笑顔で終われたこの駅伝人生はかけがえのないものになりました。

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皐月祭


「いよいよ本番だ」 
私は、寝不足で回らない頭を何とか動かして、衛生レジュメを再確認した。ここで失敗すれば、今までのことが水の泡だ。逆にここで成功したなら、嫌なことも全部水に流すことができる。皐月祭で成功するということは、私にとって非常に重要なことと化していた。
もともと私は皐月祭にはそれほど積極的ではなかった。同学科の人と仲良くなるのを目的としているということだったが、学科内で2つに分けられ、さらに他学科と合同でやるという仕組みに矛盾を感じ、興味をなくしていたのである。どうせ参加しなければならないし深く考えても仕方がないので、自分が楽しめたらいいか、くらいに思うようにしていた。
ところが、いつのまにか学科の出店計画を練る中心となる人たちのグループに入ってしまっていた。いや、周囲に中心人物だと見なされていた、という表現がより正しいかもしれない。「ちょっと発言しただけやん…」と最初は戸惑ったもののグループにいる友達が頑張っているのを見て「この子となら私も頑張れる」と思い、覚悟を決めた。
準備のために、ほぼ毎日夜遅くまでLINEで話し合いをした。グループのみんな、それぞれの予定に何とか折り合いをつけて時間を捻出し、粘り強く話し合いを続けた。正直眠いししんどかった。スムーズにいくことはあまりなく、実行の直前になって多数の反対意見が出たり、変更になったりした。その度に辞めたくなったし、感情的になって投げやりになりかけたりした。「覚悟決めたんやろ」と自分に言い聞かせて、ついぞやめることはなかったが、何かを企画することや、それを大勢でやることの難しさは日々感じて過ごした。
本番が来た時、頑張ってきたからこそ計画通りにちゃんと行動して皐月祭を成功させたかった。企画の中でたまっていった色んなモヤモヤを美しい終わりで流してしまいたかった。だから、とりわけ反対意見を押し切って入れたメニューが1番多く注文されたことは本当にうれしかった。計画時の自分の考えが肯定された気がした。
出店3日目の16時。ついにすべての商品が完売した。小さなトラブルこそあったものの、大きなトラブルはなかった。徴収したお金も返せる。さらに利益を出すことまで出来た。心配していた提供までの待ち時間も何とかなり、お客さんからのクレームもなかった。
「やった、売り切った。なんとかなった。上出来じゃないか」
大きな達成感に、いままでの苦労が報われた気がした。それと同時に、私の心は自分と一緒に頑張ってきたメンバーをねぎらう気持ちでいっぱいになった。

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 私は神霜祭りで土曜日の午後から文化祭終了までの時間、映画研究会ライパチフィルムで当番をしていました。お店をしていたわけではないのですが、教室を借りて上映会をしていたので、その受付です。その時は作品二つと情宣を担当していたので、私個人にとってはとても頑張ったという思いがありました。しかし、当日の天気も悪く、どれぐらいの人が来てくれるのかわからずにドキドキしていました。もともとこの大学のアクセスが悪いために、他大学に比べてずいぶんと文化祭の動員数自体が少ないことは、五月祭を経験してわかっていました。そのため、正直なところ、始まる前から「あまり来てくれないんだろうな」とあきらめ気味なところもありました。せっかく上映ギリギリまで妥協せずに完成させた作品ですが、見てくれる人がいなければ、どうしてもやりきれない気持ちになってしまいます。金曜日は、「本当にだれか見てくれているんだろうか、もしかしたら誰も上映会に来てくれていないかもしれない」と次の日行って、集客状況を見るのが怖かったです。
 しかし結果としては、先輩によると、例年よりもたくさん人が来てくれていたとのことでした。私が受け付けをしている時間だけでも50人を超える人が来てくださっていて、とても嬉しかったです。「一番人が来るのは金曜日だから、昨日はもっとすごかったよ」と土曜日一緒に当番をした先輩は言っていましたが、アンケートを見る限り、確かに金曜日だけで50人ほど来てくださっていて、こんなにたくさんの人が私の作品を見てくれたのかとびっくりしました。また、私は普段から創作活動をするのですが、いつもは感想をもらえることなどめったにないため、アンケート用紙がまるで宝物のように見えました。プラスの意見だけでなく、もっとこうしたらいいというアドバイスなどもあって、自分の気付かなかった視点からの感想がとてもありがたかったです。これらの感想を踏まえて、これからもっと素敵な作品を作っていきたいです。

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 一生懸命走った駅伝大会(小学校卒業文集より)

「ウッチーが出るならええよ。」
 この言葉がきっかけで僕は駅伝に出ることになった。元々駅伝に出るつもりはなかったが、今まで駅伝というものにとんと馴染みがなかった僕は、「一度やってみたい。」という軽い気持ちで出ることに決めた。楽しみな気持ちもあったが、走り切れるのだろうかという不安も同時に抱いていた。
 それから何日後かにチーム決めのため校庭十周のタイム測定があった。一応走りきれたが結果はビリ。すごくつかれた。しかし、走りきれたということが自信にもつながった。
 YMCA駅伝開催。本番と同じコースを走る、いわば練習用の駅伝。僕はほかの大会の練習と重なってしまい、あまり練習出来ていなかった。もしも途中でへろへろになって抜かされまくったら、と思うと不安だった。それもあって、所詮は練習だからと楽な気持ちで臨むことにしていた。だけどやっぱり予想は当たった。上り坂で体力が尽き、三人ぬかされ、トラック内で二人ぬかれた。そしてトラックで二人ぬく。そのあとタスキを渡した。思っていたよりは少しましな結果だったと思う。結果は総合十位だった。自分的にはだめだったがチーム的には良い結果だったので、僕達けっこう強いのかと思ったりした。
 本番の日。前とは違い練習もしている。毎日きつかった。行くのが嫌になるときもあったけど、休まず練習した。前回のYMCAでも走っているので自信満々だった。しかし一つ不安があった。二日前の十分間走の筋肉痛が足にきていた。号砲が鳴る。次々に人が走り、走り、僕の番がきた。一生懸命走る。本番はすぐに終わってしまった。僕は今駅伝が好きで、駅伝に出てよかったと思っている。

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【推敲前】「お手伝い大作戦」(小学校1年生)
私はお弁当を作りました。お母さんが作ってくれたおいしいものをつめつめにつめました。
赤いミニトマトがないといけない理由がわかりました。
つめたお弁当は学校にもって行って食べました。でもお母さんと食べたかったです。
【推敲後】「お手伝い大作戦」
私は学校にもって行くお弁当をお母さんと一緒に作りました。お母さんが作ってくれたおいしいものを、つめつめにつめました。ぎゅっと入ったおかずの中で、赤いミニトマトが光っているのがドキドキします。赤いミニトマトがいつも入っている理由がわかりました。
つめたお弁当は学校にもって行って食べました。でも、本当はお母さんと食べたかったです。私の作ったお弁当を食べたお母さんはどんな顔をするんだろう。

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僕が高校三年生のときにあった出来事です。
夜の7時ごろ、僕は学習塾へ向かう道をゆっくりと歩いていました。すると、10メートルほど先に中年のおばさんがいることに気が付きました。おばさんは車道へ背を向けてじっと動かずに立っています。僕は
「誰かを待っているのかな」
と思いながら前へ歩いていきました。僕が5メートルほどの距離にまで近づいてもおばさんは動きません。
「農作業をする人みたいな服を着てるなあ」
などと思いながら、僕はさらに前へ歩き、女性の前を通り過ぎようとしました。すると、
「ありがとう!」
と唐突に女性が叫びました。僕はとても驚くと同時に怖くなりました。しかし、なるべくリアクションをしないように努め、少し速足でその場を去りました。
あの場には僕以外に人はいなかったはずです。女性はなぜ急に「ありがとう」と叫んだのか、僕はあの女性に何かをしたのか。もしかしたら僕以外に人がいたのか、など今でも不思議に思っています。

k172511

たった30分。その短い時間のために、僕たちバンドメンバーは何時間もの練習や準備を重ねた。たくさんの人の手を借りながら。
神霜祭1日目、僕たちはほぼ前例がないと言われながらも、どこのサークルにも所属せずにメインステージ上で演奏をした。まだまだ拙い演奏にもかかわらず、びっくりするほどのお客さんが聴きに来てくれた。さぁ、第一声。喉の渇きがピークになっていたのにも気づかず、声が裏返った。それそれほどにまで僕は緊張していた。そんな恥ずかしいミスもあった30分は、ほんの一瞬に感じたが、僕たちの心には最高の思い出が残った。
「僕らの演奏で観客を楽しませてやる!」と意気込んだライブではあったが、協力してくださった実委の先輩をはじめ、たくさんのお客さんのおかげで、逆に、僕らが楽しい思い出をもらうことができた。本当に感謝の気持ちでいっぱいである。

k174110

「おい。」と後ろから呼び止められた。振り返ると骸骨のような顔をした知らない老人だった。
中学一年生の登校中のことだった。
僕が返事をする間もなく「前をうろうろするな。」と言われた。そこで初めて自分が怒られていることに気が付いた。僕は登校の際に前の老人を追い抜いただけだった。とても怖くて逃げ出したかったが、逃げると命はないと思い逃げなかった。
実際の怒り文句は怖くて覚えていないが、とにかく怒られた。僕は何と言っているかもろくに聞けていないのに「はい」と「ごめんなさい」を繰り返していた。しばらくの間怒られ続けていた。周りを通り過ぎる人たちは大人も子供も僕たちを見ているような気がして悔しかった。僕が悪いと思われるのが悔しかった。その悔しさを形にして老人にぶつけてやれないのもまた悔しかった。
そんなことを思っていると「行け。」と声がした。顔を上げると老人は黙っていた。怒り終わった合図だった。解放されたことに安心した僕は少し泣いた。逃げずに、泣かずに怒られ続けていた自分を褒めてあげたかった。
次の日の登校は気が重たかった。通学路を変えようかとも思った。家を出る時間を早めようかとも思った。でも僕はいつも通りの時間にいつも通りの通学路で老人を追い抜かないように、彼の真後ろをつけて歩いてやった。

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SNSを見ていると、『どうぶつタワーバトル』というスマートフォンゲームが流行っているという話があった。流行りには飛びついてしまう性格なので、すぐにアプリをインストールして遊んでみることにした。ルールは単純で、ネットでマッチングした相手と交互に動物の静止画を台の上に積んでいき、台から「どうぶつ」を落としたほうが負け、というものだ。
はじめは、その画のシュールさや、相手や自分が偶然にもトリッキーに積めたときの謎の感動に面白さを感じていた。
しかし、このゲームにはもう一つ重要な要素がある。それが『レート』だ。一番初めは全員が「1500」という数値の『レート』を持っていて、勝てばその数値が上昇し、負ければ減少するのだ。つまり、『レート』が高ければ高いほど、その人は強いということになる。
この『レート』を意識するようになるとこのゲームがいかにシンプルかつ戦略性の高いゲームかを実感する。気づけば50試合以上を戦い、各「どうぶつ」の重心や積むときのコツをかなり知り尽くしていた。いつのまにか私はすっかり『どうぶつタワーバトル』のとりこになっていたのだ。

k174112

先日、ネット上で「新しいe-スポーツ」「将棋よりも深い」と言われているどうぶつタワーバトルというアプリをダウンロードして始めました。内容はいたってシンプルで、一対一でランダムに指定された動物を台から落とさないように積んでいき、落としたら負けというものです。
しかし、そういったシンプルなものほど実は奥が深いもので、すっかり熱中してしまいました。このゲームにも定石というものがあり、この定石をいかに打ち破るかということをプレイヤーは考え続けなければなりません。限られた手札の中、もうダメかと思う状況の中閃いた一手で相手の有利を覆した瞬間などは鳥肌が立つほど嬉しいものです。
そんなことを考え続けながらプレーをしていると、自分よりも格上の相手に当たりました。自分は後攻で、相手が当時では最強と呼ばれていた5象を使ってきました。5象とはあえてバランスの悪い象の背中を下に向けて置くことで象の上に積み上げる動物を巴投げの要領で台から落とすという技です。当時5象に対する返しは2キリンというキリンを用いた手しかないほどその手は強く、絶望的に思いました。しかしその時自分の手札にキリンが出てきて、定石どおりに2キリンを用いて反撃し、勝ちを確信しました。その時でした。相手はシマウマの足を台の端に引っかけることで積んでいる動物に一切触れることなく私に手番を回してきました。本来なら動物の上に動物を積み続けていくはずのこのゲームで上に積み上げることなく相手に手番を回すというのはまさに革新的な一手であったといえるでしょう。私はそれを返すことができず敗北しました。敗北の後にもかかわらず悔しさはなく、「今の手は一体なんなんだ!?」という驚きに震えました。その勝負の後ツイッターを見てみると、その戦法は新しい定石として編み出された5象2キリン返しシマウマ回避というものでありました。最強と思っていた戦法が過去に消えていく瞬間を目の当たりにして、胸が熱くなりました。
現在5象はアップデートにより弱体化されたためにこの戦法が使われることは無くなりました。しかしこの返しは未だに動画にされるほどの衝撃を我々プレイヤーに与えました。どうぶつタワーバトル、通称DTBと呼ばれるこのゲームはもはや1つの競技といっても差し障りのないほどの勢いのあるものです。積むだけのクソゲーと侮るなかれ。今このゲーム、ストアのランキング1位です。

k174105

二〇一七年十二月三日、甲南大学六甲グラウンドで大阪教育大学イレブンは歓喜に包まれていた。
 関西学生サッカーリーグ二部Aリーグ最終節関西福祉科学大学戦、大教サッカー部は窮地に立たされていた。負けたら入れ替え戦、残留するには勝つしかないという状況、ピッチにいる選手たちは自分の一〇〇パーセント以上の力を出し切る。ピッチ外の選手たちは少しでも後押ししようと声をからして応援する。
 僕は応援しながら、先輩たちのプレーにただただ圧倒されるだけだった。先制点となった芸術的なフリーキック、自陣からサイドを切り裂いて駆け上がっていく姿、絶体絶命のピンチを、体を投げ出して防ぐDF陣、そのすべてのプレーが、目に焼き付いて離れない。
 試合終了のホイッスルが鳴り、ピッチに出来る歓喜の輪。来シーズンあの輪の中に入るにはどの位の覚悟が必要で、どの位の努力が必要だろうか。来シーズンに向けての戦いの始まりを告げるホイッスルは、もう既に鳴っている。

k174106

「しゃあ!」相手の声が聞こえる。はあはあはあ。今のラリーはとりたかったなあ。あー、もうしんどいなあ。「清弘!ここ一本やぞ!強気で攻めていけ!」先輩の声が遠くから聞こえる。はあはあ。あかんあかん。今めっちゃ弱気になってた。相手の顔を見る。相手もめっちゃしんどそうやん。床を見つめながら息を整える。こういう時は自分の辛さばっかりに目向けてたらあかんのやった。相手の立場になって、今自分が何をしたら相手にとって嫌かを考えないと。目を強くつぶって、ラケットを持っていない方の手で自分の左ほほを軽くたたいた。「よし、一本集中や!」小さく自分に聞こえる声でつぶやく。ふうーーー。大きく息を吐く。サーブを打つために構えてる相手を見て自分も構える。「ストップー!」相手がサーブを高く打ち上げた。あそこや。相手のコートの空いているところが見える。相手の打った球がネットに引っかかる。「しゃあ!」次は自分が言う番。優勝までラスト一本や。一本だけ集中。自分に言いきかせる。「いっぽーん!」大きな声をあげた。ふう。大きく息を吐いて。全部の神経を球に集中させて高く打ち上げた。パーーン。

k172516

十月のはじめ、地元で秋祭りがあった。僕は一日だけ参加したのだが、神輿がたまらなく重かった。幼いころは小さな神輿ばかり担いでいたので、よりその重さに驚いた。肩が痛い。足が痛い。昼頃には参加を後悔していた。まだ半日もあるのか、と。祭りが終わった時には声は枯れ、全身が疲労感に満ちていた。やっと終わった。打ち上げだ。そう思ったのもつかの間であった。未成年に酒を勧めてくるじいさん。もういらないといっているのに唐揚げを皿にのせてくるお兄さん。大勢の前でのあいさつを要求してくる知り合いのおっちゃん。もう祭りはこりごりだ。

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12月6日、サークルの活動がありました。みんなで新歓パーティーの話し合いをしました。和気あいあいとした雰囲気で各々の思っていることを言い合って、よりよいものを作ろうと決めていきました。そのなかで決めごとがなかなか決まらなくなったときに、みんなを笑顔にしてくれたり、会議についてこれていない仲間のために立ち止まって復習したりといった仲間たちのもちあじや、家庭での料理スタイルや県による料理の違いなどの、今まで知らなかった価値観を垣間見ることができました。充実した一日となりました。

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最後の夏
私は中学生のころ野球部に所属していた。次第にチームの中心選手となり、私たちの代になると副キャプテンで、打線も中軸を任されていた。
 ついに最後の夏の大会直前となり気合も入っていた。しかし、そんな中悲劇が起きた。練習試合で私は足の骨を骨折してしまった。大会まで一か月。全治は三か月と告げられた。私の中学野球はそこで終わってしまった。これまでの練習は何だったのか。後悔と悔しさが募った。私は泣くことしかできなかった。それから私は選手のサポートに回った。けれどサポートしてもらったのは私のほう。たくさん励ましの言葉をもらった。
 そしてついに試合の日。私はベンチから応援した。結果は一回戦敗退。けれど、みんなが私の道具を使ってくれた。みんなと戦っている、そんな気がした。試合には出れなかったけどみんなで戦った最高の夏だった。

k174311

題名:立つんだジョー

平日、憂鬱なバイトが終わり、着慣れた服に身を包むと安心する。事件はその後勃発した。
アルバイト中、無性に腹が減ってなおかつ無性にナポリタンが食べたくなった僕は、いち早く着替えて家に帰り、ナポリタンを食べるため、いつもより急ぎ目で着替えを終わらせた。アルバイトの先輩の男性は自分より早く着替えを終わらせて先に出て行った強者だったため、更衣室には自分と、ロッカーを挟んだ向こう側にいる姿の見えない先輩の女性の二人だった。ナポリタンのため早く着替えを終わらせた僕は、帰る支度をして今にも更衣室の出口を開けようとしていた。早く帰ろ。
しかし帰る際には、一言「お疲れさまでした」というアルバイト最後のミッションがある。これを気持ちよく言わなければアルバイトはすっきり終わることはできない。遠足は家に帰るまでが遠足と一緒で、アルバイトは最後の「お疲れさまでした」までがアルバイトなのである。
先輩の女性までの距離は直線距離で大体5m、だが直線状にはロッカーという障害物があるため、女性に気持ちいい「お疲れさまでした」を届けるにはロッカーの上から声を通さなければならず、そこそこの声量が必要とされるのである。
先に出て行った先輩の男性は、見た感じいかにもサッカー部で、日々の練習で培ったであろうお手本のような「お疲れさまでした」がお届けされていた。今頃は先輩は気分ルンルンで帰っているのだろう。いいなぁ
僕もそろそろそっちに行きますからね。僕はそういう気分で言った

オォォツカレサマデシタァァァ

やってしまった、、、ボリュームと言いトーンと言いすべての節度という節度が無かった。完全なやらかしである。
だが、別に気が抜けていたわけではない。ただ先輩の後を追うように、自分も気持ちよく終わりたいという気持ちのみだった。
では、なぜこのサンシャイン池崎みたいな「お疲れさまでした」が出てしまったのだろう。そうだ、きっとアルバイトで疲れていたんだ。
人間が疲労を最大限に蓄積した場合、その後のとる態度には2つの全く違うパターンがある。1つは疲労を溜めに溜めた結果、何も喋らないどころか、その様子も悟りを開いた僧侶のようなものになり、思考停止するパターン。もう1つは、疲労を溜めすぎた結果、逆に吹っ切れ、完全なハイに陥ることで何事もポジティブに受け取ることができてしまう、ある種の無敵になるパターンである。
当時の自分はヤバい方、つまり後者であった。
そうだ、逆に開き直ってやろう。俺はやらかしたのではない。サンシャイン池崎のモノマネを披露したのだ。

今年の売れっ子芸人の一人で、今やテレビに引っ張りだこの芸人だ。いくら女性と言えど、知らないわけがねぇ。
ていうか、初めてやるモノマネにしてはなかなかの出来ではないか。後悔した点としては、最後にイエェェェェェェェェェェェをつけ忘れたことぐらいだろう。
相手の女性の返事からして、だいぶ引かれていたのは冷静になった今であれば分かるのだが、ハイ状態になったサンシャイン俺崎の屈強なメンタルを傷つけることは誰にもできなかった。
俺の渾身のモノマネに圧倒されたか、、無理もない。
百歩譲って、相手が君のモノマネに圧倒されたとしよう。しかし、今年ブレークしたといっても正月から春にかけてピークだった芸人のモノマネをその年の12月という誰もが知っている時期、言ってしまえば誰もが飽きている時期に全力でモノマネする人がいるだろうか、いやいない。こんなの、引く以外にない。
こうして最高潮にハイになったサンシャイン俺崎は帰宅してナポリタンを食べるまで、夜なのにもかかわらず太陽に照らされているような気分であった。
まさしくサンシャイン。いつもはテレビでうるさいサンシャイン池崎だが、この時ばかりは感謝した。僕を照らした日輪であったのだ。
しかし、ナポリタンを食べ終わった自分は、空腹が満たされたことにより、すべてを思い出す。
「お疲れさまでした」の気持ちよく終わるべき最後のミッションを盛大にミスったこと。そして、先輩の女性にべらぼーに引かれていたこと。
思い出したことにより、いたたまれない恥ずかしさや自己嫌悪感などに襲われた自分は、食べ終わったナポリタンを目の前にして、ただうなだれた。
サンシャインの浴びすぎにより、燃え尽き、逆に灰(ハイ)になってしまったのである。
終わり
ひとまず終わったが、これが行事作文なのかは僕にはわからない。

k174312

私は今年の夏休みに友達と石川旅行に行きました。とくに記憶に残っているのは、たまたまやっていた燈籠祭りです。盆踊りの音がしていたので近づいてみると、大人から子供までたくさんの人が踊っていました。燈籠の光があたり一面をぼんやりと照らしていました。「綺麗だね、ここで写真を撮ろうか」と友達が言ったので、灯篭を背景に写真をとろうとしました。でも光が反射してしまいなかなかとることが出来ず、結局目に焼き付けておこうということになり長い間光を眺めていました。 また来年同じメンバーであの景色がみたいです。


g177508

9月の終わり、学校の運動会がありました。
 私は、運動が、キライでした。だから、体育もキライなのですが、運動会は、体育よりキツイ運動をするので、体育よりも、大嫌いでした。でも今年の運動会は違っていました。中学になって初めての運動会でしたが、みんなのやる気は凄まじいものだったのです。3年生は特に‥。
そのため私は、嫌々ながら、運動会のために、障害物競走の練習や、綱引き、ダンス、リレーの練習をしてきました。障害物競争は、はじめに、とびばこ(3,4,5だん)が3つあって、そのなかのひとつを通って、次に、カラーコーンを1回まわって、さいごに、ゴムとびをして、ゴールまで走ります。私は、障害物競走では、5位でした。でも、私は、練習のときは、いつもビリだったので、うれしかったです。 運動会も段々も上がってきましたが、次は全員リレーです。自分の番が近づくにつれて、心臓も高鳴ってきました。
みんなで走る順番をかえたり、たくさん練習してきた事を思うと凄く緊張し、バトンを持つ手が震えたのを覚えています。1着で次の子に回せてほっとしました。
 ダンスの曲は、ワールドカップの曲だそうです。本場で少し間違えてしまいました。ちょっと、はずかしかったです。
 綱引きは、1回戦は負けてしまいましたが、2回戦は勝ちました。でも3回戦も、けっきょく、負けてしまったので、綱引きは、負けてしまいました。悔しかったです。
 私のチームは、赤組でしたが、今回赤組が優勝し、自分のチームが勝って嬉しかったです。

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