小学校5年生向け説明文の創作 2017年度版
2017年度の国語学講義では小学校の国語の物語文教材・説明文教材の構造を分析しています。同時にその構造を使って教材を創作しています。
5年生の説明文教材ができたので、公開します。
CM 高木 秀
日本では多くのテレビ番組が放映されている。テレビ番組を一時間見ている間に少なくとも一度は「CM」を目にするのではないだろうか。
CMは企業が番組側にお金を払うことで放映されている。企業は一つの番組が流れる時間帯を買いCMを使って自分たちの会社の宣伝を行っている。企業は視聴者が引きつけられるようなCMを作ることで視聴者の購買意欲をそそっている。
では、視聴者を引き付けるために、CMにはどのような表現の工夫があるか考えてみることにしよう。
CMは、言葉、映像、出演者から成り立つ。言葉は短いCMのなかで簡単に商品の特徴について説明することができる。番組を見ていてCMになった時にテレビからの興味がそれる視聴者に対して、聴覚的に企業の広告を行うことが出来る。CMにおいて言葉は家事をしながらテレビを見ている主婦に効果があると考えられる。
次に映像についてだが、コカ・コーラのCMを例にとってみる。汗をかいた青年がコーラを一口「ゴクリ」と飲むのが典型的なコカ・コーラのCMである。あのCMを見た時、つい家の冷蔵庫を開けコーラがなかったか探してしまう。このように、視覚的に視聴者に訴え効果を発揮するのが映像である。
最後に出演者について考えてみよう。CMには多くの芸能人が起用され、その企業のイメージキャラクターになっている。例えば、化粧品のCMで口紅をA社とB社の二つの企業がCMで宣伝していたとする。A社では今人気の女優をイメージキャラクターにし、B社は口紅の商品だけを写したCMを流したとする。同じ商品でもA社のCMに出ていた女優が好きな視聴者はそのCMを見てどちらを買うか考えた時に、A社を取るだろう。このように、CMの出演者が視聴者に与える影響は大きい。
こんなふうにCMには、さまざまな表現の工夫がされている。こうした表現の工夫を知った時、あなたのCMを見る目は変わるのではないだろうか。
CMの表現は、本当はもっと複雑で、ここではその一部を取り上げたのにすぎない。あとは、みなさんが自分自身で考えてみてほしい。きっといろんな発見があるはずだ。
そうすると、CMという表現の魅力がより深くわかってくるだろう。そのとき、CMはまた違った姿を現し、CMとの付き合いが、もっと楽しくなるはずだ。
テレビ番組の工夫 高田 陽介
テレビ番組を好きな人は多い。子どもから大人まで様々な年齢層の人がそれぞれいろいろな番組を見ている。何気なく見ているテレビ番組には視聴者を引き付けるための様々な工夫が凝らされている。今回はその工夫について考えていく。
一つ目はテロップである。テロップとは簡単に言えば字幕のことで出演者のセリフやナレーション、番組内の情報などを音声だけでなく可視化して視聴者に伝えるために使われている。このテロップも単に文字を画面に出すだけでなく、色を付けたりアニメーションにより動きを付けたり、視聴者が少しでも見やすいように工夫が凝らされているのである。
二つ目は音楽である。音楽はバラエティ番組やドラマ番組など多種多様なジャンルにおいてテレビ番組において工夫されて使われている。テレビ番組における音楽はBGMと呼ばれるがその種類は歌であったりオーケストラであったり効果音であったりさまざまである。番組の状況に適した音楽をその都度使うことで視聴者をより番組に惹きつけるのである。
三つ目はカメラワークである。これは特にサッカーや野球中継を参考にしてほしい。普段は固定された位置から撮影されている試合が、選手個人をクローズアップするシーンや、チャンス、ピンチの場面では一気にカメラを寄せていったりと、カメラワークを変えることでさも実際に現場に観戦に行っているかのごとき錯覚を味わわせてくれる。
テレビ番組には長い歴史がある。その中で番組の内容などは時代を経るごとにかわっていっているだろう。しかし、以上のような工夫はいつの時代にもみられる、いわば不変のものである。テレビ番組における視聴者を引き付ける定番の工夫として今回はテロップ、音楽、カメラワークを紹介した。
これらの工夫がテレビ番組によってどのようになされているかを考えることで、私たち視聴者のテレビを見る目も変わる。製作者側の意図を読み取ることでより楽しくテレビ番組を見ることが出来るだろう。
「記憶と忘却」 田上 小帆里
人間は、覚えた物事をすぐに忘れてしまう。たまに、見たもの全部を覚えてしまって、一生忘れない人もいるが、ほとんどの人間は覚えた物事の大半は忘れてしまうものだ。しかし記憶の中には、ほんの一瞬の出来事なのに一生鮮明に残り続けるものや、忘れたくても忘れられないものがある。逆に覚えたくてもなかなか覚えられず、何度も何度も繰り返し反復してようやく覚えられるものもある。この記憶と忘却には一体どのような関係があるのだろうか。それは、感情との関わりを考えることで明らかになる。
例えば、怖い映画を見たとする。とても怖くて、夜も眠れないほどだ。このとき、たった一回しかその映画を見ていないにも関わらず、君の記憶にはその映画のとても怖い場面が刻まれて忘れられなくなるだろう。このように、何か強烈な印象を残す出来事はなかなか忘却されにくい。しかし、日がたつにつれて徐々にその記憶は薄れていく。これは脳が「忘れる」という作業を通して記憶の整理を行うからだ。もし記憶が忘れられなくなったらどうなるだろうか。嬉しい情報や覚えておきたい情報を記憶できることはうれしいが、その反面忘れたい情報や嫌な記憶、意味のない情報までもが記憶の中に残ってしまう。これらの自分にとって不必要な情報がいつまでも脳に残っていると、「ストレス・疲労」になってしまう。また、情報が整理されず、新しい新鮮な情報が脳にインプットされにくくなるのだ。
先ほど、何か強烈な印象を残す出来事はなかなか忘却されにくいという話をした。例えば、怖い映画の他にも、何か生死に関わる経験をした場合などは、その経験が一生忘れられないことがある。これは、脳が今後同じようなことが起こった時にそなえて恐怖体験を記憶し、自己を守ろうとするからだ。もしそのような恐怖体験を将来また繰り返したとき、もしその時の記憶が残っていれば同じことを避けられるかもしれない。あるいは疑似体験をしてきているぶん、いくらか精神的ストレスも軽減されるかもしれない。このように、記憶と忘却は人間により有益であるように行われているのだ。
人間は忘却と記憶を交互に行っている。忘却は心理的ストレスを減らし、情報を整理し、新しい情報をインプットしやすくする役割を担っている。記憶は人間にとって必要な情報を蓄積することでその人の命を守ってくれる。忘却も記憶も、人間の生活をより豊かなものにするための有益な働きだ。これら二つの働きがバランスよく行われることで人間はよりよい生活を送ることができる。
タクシー 野口 慎太朗
日本でタクシーが誕生したのは、1912年(大正元年)のことでした。目的地まで車で運んでくれるタクシーは現在も人気があります。
タクシーだけでなく、電車やバスなど現在の日本には様々な交通手段がありますが、その中でタクシーはどのように発展してきたのでしょうか。
タクシーは1912年(大正元年)に東京で誕生しました。その時の車の数は6台だったそうです。その後東京だけでなく、神奈川や大阪などでも誕生し、1921年(大正10年)には1205台まで増加しました。
タクシーが登場するまで、車で移動するという手段はなかったのでしょうか。そのようなことは決してなく、現在も京都などで見られる人力車や、馬に引かせる乗合馬車は、明治時代には登場しており、いずれの時代でも人々が利便性を追求していたことが分かるでしょう。
戦争が終わると、タクシーはさらに増加しました。また、1964年(昭和39年)には東京オリンピックがあり、それに伴い「個人タクシー業者」もスタートしました。
タクシーはこのように発展したわけですが、いくつかの問題がありました。一つ目は、1950年(昭和25年)頃に現れた「神風タクシー」です。きついノルマを達成するために無茶な運転をしたことによって、交通事故が激増しました。
二つ目は、現在のタクシーもそうですが、電車やバスに比べると料金が高いところです。しかし、電車がなくなった時間帯でも運転しているという便利さがあるタクシーは、多少料金が高くても、乗らざるを得ません。
このような問題を抱えるタクシーですが、もちろん解決に向けて活動をしています。労働組合を結成したり、法整備の必要性を主張したりして、危険運転を減らしました。
また、500円で乗ることができる「ワンコインタクシー」や、妊婦さんなどのための「子育てタクシー」など、料金面においても工夫がなされています。
日本にはタクシーだけでなく様々な交通手段があります。時間帯や交通状況によって、最善の交通手段というのは異なってきます。それぞれの乗り物を上手に使い分けることで、利便性を追求することができるのではないでしょうか。
人の目 向山 春華
みなさんは町を歩いている時や、電車に乗っている時、人から見られているという気分になったことはないだろうか。
例えば、電車で自分の前に座った人たちがこそこそと何かを話しているとする。
すると、自分のことを話しているのではという気持ちになり、何かおかしいところがあるのだろうかと不安になる。
しかし、大抵はただの思い込みであり、自分とはまったく関係がなかったりする。
この人の目を気にするという感情は時に大きく私たちの行動を左右する。
同じように人に見られていると感じるときでも、
自分に何か人から悪く言われるような点があるのではないか、目だっている点があるのではないかと不安になったり、必要以上に気にして、思うように行動ができなくなってしまうこともあれば、自分の誤りに気がついて行動を直すこともある。
そして、誰かの自分に向けられる目を気にするというのは、同時に自分自身で自分をみつめなおすことにもなる。
私たちは、日々多くの他者とかかわり生活をしている、その中で私たちはどうしようもなく人の目、他者を意識せずにはいられないのである。
絵本 上田 大貴
絵本は国を問わず好きな子どもが多い。
なぜ子どもに絵本が人気なのであろうか。その特徴から考えてみよう。
まず、絵本の最大の特徴は言わずもがな挿絵であろう。
ページごとに本文に沿った挿絵が描かれている。
その挿絵から子どもたちは視覚情報を得て、想像を膨らますことで物語世界へと入り込んでいくのだ。
また、本文が細かく分かれているのも特徴として挙げられるだろう。
一つの挿絵に長い本文、短い本文が使い分けられることによって、時間表現も読み取ることができ、
どんどん子どもたちを引き込んでいく。
このように絵本の特徴を紹介したが、これはまだほんの一部である。
小説などの文庫本にはない温かみが絵本にはある。
それが子どもたちに絵本が根強い人気を誇っている理由であろう。
宅配便 生越 真理
民間の会社が宅配便のサービスを開始したのは1976年のことだとされています。自宅の玄関荷物が届くというこの画期的なシステムに、当時の人々はとても驚きました。そして今、宅配便は、私達の生活にかかせないものになっています。なぜ、宅配便はこれほどまでに身近なサービスになっていったのでしょうか。
朝鮮戦争勃発から1973年のオイルショックにかけて、日本は高度経済成長期という時代を迎えていました。そのころ、街には高速道路が引かれ、家には今では当たり前になっている冷蔵庫などの家電が置かれました。このように、経済の発展と共に人々の生活も大きく変化していたのです。宅配便が誕生したのは、その大きな成長が収まった頃です。高度経済成長期に日本中に敷かれた高速道路が、素早い配達が必要とされる宅配便というサービスを実現させたのです。
昔は、荷物を配達するためには、郵便局や鉄道の駅にもっていかなければなりませんでした。そのうえ、鉄道で運ばれる荷物は、最寄りの駅に取りに行く必要があったのです。しかし、現代の宅配便では、自分の家の目の前まで荷物が届きますし、荷物を送る際に、自宅まで取りに来てもらうことができます。時間指定をすれば、自分の欲しい時に荷物を受け取ることもできます。そのうえ、最近はコンビニエンスストアが宅配便の窓口になっているため、家に帰れないときでも荷物が受け取りやすくなりました。それに交通網の更なる発達も重なり、より素早く荷物が運べるようにもなりました。このように、宅配便とはとても便利なサービスなのです。
しかし、その宅配便に最近大きな危機が迫ってきています。
一つ目の危機は、宅配便の数が大きく増加したことです。近年のネットショッピングの発達とともに、運送業者が扱う荷物の数は大幅に増えました。そのため、配達員として働く人の数が足りなくなってしまったのです。今、運送業界では、人手不足とそれに伴う長時間労働が大きな問題になっています。
二つ目の危機は、再配達を求める人がたくさんいるということです。再配達とは、一度配達に行った際に受取人が不在だった際、改めてもう一度配達へ赴くサービスです。それ自体はとても便利なものなのですが、一度でよかったはずの配達を二度行うのはとても時間と労力がかかることです。ただでさえ人手の足りない状況で、再配達が発生すると、長時間労働が助長されることは言うまでもありません。
このように、宅配便は便利なサービスですが、大きな問題を抱えてもいます。自分の都合だけでなく、そこで働いている人の存在にも気をとめながら、サービスを利用していきたいものです。
『幸福』 加茂 千尋
ブータンという国を知っていますか。ブータンは、中国とインドにはさまれた南アジアの国です。首都はティンプー、およそ71万人の人が暮らしています。2011年秋にワンチュク国王とジェツン・ペマ王妃が来日したときには、大変な話題となりました。
そんなブータンは「幸福の国」としても知られています。国民総幸福量という数値が世界でもトップクラスと言われているのです。国民総幸福量とは、国民総生産や国内総生産のように経済面や物質面での豊かさではなく、精神面での豊かさを数値化したものです。
では、人が自分は幸福だ、と思うのはどんなときなのでしょうか。
例えば、あなたが美味しいものをおなかいっぱい食べたとき、幸せだなと感じるでしょう。これは、満腹中枢が刺激され、血糖値があがることによって感じる気持ちです。また、家族や友人など、親しい人たちと喋ったり笑ったりするのも幸せと感じるでしょう。これは、脳内にセロトニンという精神を安定させる物質がでるからです。セロトニンは、恋をしたり趣味を楽しむことでも放出されます。
こう考えると、幸せという感情は、楽しいと思うことで感じる気持ちだと言えそうです。
Web 藤原 亮太
Webが誕生したのは1991年のことでした。誰もが自由に使えるようになったWebに人々は目をつけ、続々と新たなWebブラウザーが誕生していきました。
なぜ、Webサイトは生まれ、なぜ、そんなに歓迎されたのでしょう。
Webサイトが日本でよく使われるようになったのは、1996年〜2005年でした。
当時、日本ではインターネットの低価格化が急速に進み、その普及率は10年間で約21倍まで伸びたのです。
それと同時にWebも多くの人々に使われるようなっていきました。
Webがそれまでの紙媒体のメディアと大きく違っているのは、その情報量の多さです。様々なページを一台のコンピュータを通して閲覧することができます。
また文字、画像だけでなく、動画を見ることもできます。この点は情報の伝達方法の幅の広さにつながります。
このように考えてくると、Webには何も言うことがないように思えます。
しかしそればかりに頼ることには、問題点があります。
それはWebには誤った情報も多く存在しているということです。最近では、企業などに留まらず、個人でも様々なページを立ち上げ、自由に情報を載せることができます。Webにある情報をすべて鵜呑みにしてしまうと誤った情報に惑わされることになります。
Webを使う際には、正しい情報かをしっかり見極めようとする姿勢が必要でしょう。
Webは大変便利であり、私たちの生活に欠かせないものになっています。その一方で、今述べたような注意しなければならない点もあります。便利さを上手に生かしながら、豊かな生活をつくりあげていきたいものです。
事実と情報 堀井 珠希
例えば君はニンジンが苦手だとしよう。
それを心配した君のお父さんやお母さんが君に内緒でニンジンケーキをつくったとする。
甘いものには目がない君は、喜んで三時のおやつに出されたそのケーキを食べた。
そして、出されたケーキをすべて食べ終わった君に、君のお父さんやお母さんはこういうのだ。「実はあのケーキにはニンジンが入っていたんだよ」と。君はとたんに気分が悪くなるかもしれない。なんせ君の大嫌いなニンジンが入っていたのだから。
今までおいしいと思って食べていたケーキが、お父さんやお母さんのあの一言のせいで突然嫌いになってしまうのだ。これはいったいどういうことだろう。
他にも考えてみよう。次の日、ニンジンが入っていないケーキがおやつに出された。けれどもお父さんやお母さんは、君がケーキを食べる直前にこう言い放った。「今日のケーキにもニンジンが入っているよ。」君はケーキを食べるだろうか。
この2つの例からは、本当にニンジンが入っているかは問題ではないことがわかるだろう。問題は、君がケーキにニンジンが入っていると思い込んでいるかそうでないかということである。
事実とは違うことも、そうだと強く信じ込むことによって君の中では「本当」になってしまうこともある。
どのような時に、人はある情報を信じ込むのだろうか。
1つはその情報に対して疑いの目を向けることがない場合である。信じ込もうと思って信じ込んでいるのではなく、他に考えられるものがないので、つまり、今頭の中にある情報が当然のこと、常識的なことだと考えてしまっているので結果的に信じ込んでしまっているという状況である。
2つ目にある出来事を教えてくれた人を信じている場合がある。人は信頼している人から与えられる情報を、その人を信頼していればしているほど、信じ込んでしまう。もちろん明らかに違った情報を与えられた時には、その情報が間違っていると気づくことが出来るだろう。しかし、与えられた情報が本当にありえそうな情報であったら、多少疑問に思いながらもその情報を信じてしまう人も多いのではないだろうか。
3つ目に、与えられた情報が自分にとって都合の良いものであった場合である。「そうであってほしい」という気持ちが与えられた情報を無条件に信じ込ませるきっかけとなっている時もあるかもしれない。
このように「信じ込む」ということは、簡単に起きてしまう。これら3つの状況だけでない。他にももっとたくさんの状況があるだろう。これを君はどう対処するべきか。
君に必要なのは、与えられた情報が事実と同じなのか、はたまた全然違うのか、君自身の目で確認することである。
事実は、いつも君にとっていいものであるとは限らない。知らなくてもいい事実を知ってしまう事で傷ついてしまう事もあるだろう。受け入れたくない事実もあるだろう。時には事実から逃げることも必要かもしれない。それでも事実から目を背け、一度も向き合うことがなかったり、何も疑うことなく「信じ込む」ことで自分だけの世界に入り込んでしまうのは寂しいことだと、私は思う。