第一節 『猫は知っていた』仁木悦子

 以下は、この作品の中の猫に関する記述の抜粋である。

場面 ネコに関する記述
紹介 「かわいいネコちゃんね。何ていう名まえ?」

「チミ――」

 幸子ちゃんは、はにかみながら、それでも初めて口をきいた。

「チミっていうの?まだおちびさんね」

「ええ、つい十日ほど前にもらって来たんですもの」

 と、夫人が言った。

「わたくしはきらいなんですけれど、幸子がそれはネコ好きだものですから――。

それに、うちはネズミが出て困るんですの。めいのユリが薬局の薬をもらって、

毒だんごを作ってみたりしてみましたけど、ネズミが利口なんですか、ちっとも 

きかなくてね」

「そういう意味では、やっぱりネコが一番でしょうね。子ネコでも、鳴き声をき  いただけでネズミはふしぎにいなくなるものですから。――あら、こんなにのど

をゴロゴロやって。人なつこいネコですのね

「ええ。もう、人の行く所、行く所とついて歩くので、うっかりすると踏んでし

まうんですのよ。暗やみでなんか、びっくりして、とびあがりそうになりますわ、

こっちが」

事件が起こったとき 「奥さんがどうしたの?」

「あお向けに倒れていたのよ。そして、まあ、その体に何がのっかってたと思う?」

「何がって――」

「チミよ。ネコのチミが奥さんの胸の上にうずくまって、青い目で、あたしのほうをにらんでいるじゃありませんの。・・…・」

 

 これらの中で、猫の愛すべき仕草や、主人公の猫に対する愛情が表れている部分に二重線(   )を引いた。また、猫の一般的な性質をあらわしている部分に下線(  )を引くことにする。

 チミは、普段はかわいらしく、人なつこい子ネコである。紹介の場面では、そのことがはっきりと会話の中に出てくる。事件が起こるまで、読者はところどころに登場するチミを可愛らしい子ネコだと思っている。猫嫌いの人にとっては、黒猫は特に気味悪いものかもしれないが、チミはまだ子ネコであり、決して恐怖を抱かせる存在ではない。

しかし、事件と絡んで登場するときには、桐野夫人が倒れていたことに対する恐怖心を助長するのである。ここで初めて、チミが黒猫であることを恐ろしく感じる。人間が倒れている上に黒猫が乗っかっているという状況が恐怖を感じさせるのである。

 

第二節 『赤い猫』仁木悦子

 

 以下は、この作品の中の猫に関する記述である。

場面 猫に関する記述
紹介 「その猫のおもちゃって、どんなのだったの?」

 郁は、何から何まで詳しく聞きたがる。

「猫ですか?縫いぐるみなんです。このくらいの大きさで、真っ赤なシールでできていました。かわいがって、しょっちゅう抱いて歩いていたんです

この作品に登場する猫は、縫いぐるみであるため、考察対象からはずすこととする。

 

第三節 『猫の事件』阿刀田高

 以下は、この作品の中の猫に関する記述である。

場面 猫に関する記述
野良猫の紹介 灰色の猫が気持ちよさそうに眠っていた。こいつは魚屋の飼い猫ではない。なんとなくこのへんに住みついて、魚屋のあまり物をもらって生きている。気楽なもんだね。
誘拐する猫の紹介 「チャコ」っていう名の茶色い雄猫がいて、御歳五歳くらい。ただの薄汚い猫だが、ばあさんにはよっぽどかわいく見えるらしい。かわいがって、かわいがって、文字どおりの猫っかわいがり。チャコが病気にかかったときなんか犬猫病院の待合室で、

「どうぞチャコのかわりに私の命を取ってください」

 しくしく、わあわあ泣いていたそうな。

猫が誘拐される瞬間  手を伸ばすと、敵もさすがに不穏な気配を感じて逃げようとしたが、こっちは逃がしてなるものか、うまいぐあいに片足つかんでひきおろした。

 とたんに猫はさかさに吊り下がり、

シャーッ」

 歯をむいて爪を立てるのを、ぐいと胴体をつかんで抱きしめ、うん、軍手をはめておいてよかったぜ。猫のやつ、爪が手袋の糸に絡んで反抗もできない。そのすきに横抱きにしたまま小走りに木陰に行き、かねて用意のバスケットに押し込んだ。あとはさりげなく現場だけ。

 猫のやつ、中であばれていたけど、都合のいいことに鳴き声をあげたりはしなかったぜ。

 下線部(  )は、猫全般に共通する行動の描写である。敵を威嚇するために「シャーッ」という声をあげ、爪を立てる行動の描写は、『柩の中の猫』や『アーサー・カーマイクル卿の奇妙な事件』にも見られる。

第四節 『柩の中の猫』小池真理子

 

以下は、この作品の中の猫に関する記述の抜粋である。

  猫に関する記述
雅代が川久保家にやってきて間も無い頃
  • 「きれいな猫ねえ。真っ白だわ。オス?それともメス?」わずかの沈黙の後、「女よ」とだけ彼女は言った。
  • ララは時折、客たちからチーズや小さくちぎった鶏肉などを与えられ、嬉しがって声高らかに鳴いたり、客の足に身をすりよせたりしていたが、桃子は決して客たちに懐かなかった。
  • 麦畠の畦道を駆け抜ける一人の少女と一匹の猫の姿は、絵のように美しかった。
  • 桃子はいつもララとだけ一緒にいた。ララのいる近くには、必ず、桃子がおり、桃子がいるところには、必ずララの白い柔らかな身体を見つけることができた。そう。彼らは孤独なつがいの小鳥のようだった。地球が滅び、全人類が滅びた後、世界にたった二つだけ生き残った悲しい命のようだった。
  • 彼女が本を読み始めると、ララは決まって主人の傍に寄り添い、目を糸のように細めてうつらうつらした。
雅代が初めて桃子と親しくなれた夜 (桃子がママを思い出して部屋で泣いている)
  • 「ママ…」桃子は押し殺した声でつぶやいた。「ママ、ママ…」

    布団のヘリがかすかに波打った。そしてそこから、白い柔らかな鞠のように見えるものが顔を覗かせた。ララだった。桃子の両腕の中にしっかりと抱かれていたララは、むっくりと頭を上げ、大きな緑色の目を開けて私を一瞥した。

    • 桃子は子猫だった。助けを求めて母猫の柔らかな腹に顔を埋め、泣き続ける、人間の形をした子猫だった。いっぽう、ララは、母猫が子猫をなだめるように桃子を舐め続けていた。桃子にぬくもりを与え、桃子の苦悩を慰めようとしていた。
    • 私はベッドの上に被いかぶさるようにしながら、猫と桃子とを腕の中にかき抱いた。猫は身体を硬くし、桃子は驚いたように泣き止んだ。警戒心と好奇心の混ざった四つの瞳が、暗闇の中でまっすぐ私に向けられた。
    • 私は何も言わなかった。私は黙ったまま、桃子のあたまを撫でてやり、ララの頭を撫でてやった。硬くなっていた猫の身体が次第に柔らかくなった。猫は喉を鳴らし始めた。
    • ララは喉を鳴らしながら、私の指を舐め始めた。ララにそんなことをされたのは初めてのことだった。人見知りをする猫ではなかったが、ララには頑なな習性があり、私のみならず、桃子以外の人間の手を舐めることは決してしなかったのである。
    千夏が現れてから ・きれいな猫ね、と千夏は言った。その日、千夏がララに関心  を持ったのは、それが初めてだった。「なんて言う名前?」「ララ」そう、と千夏はうなずき、「ララ」と猫に向かって呼びかけた。縁もゆかりもない他人の赤ん坊の名を呼ぶときのような、儀礼的な呼び方だった。
    • 桃子は千夏と遊ぶことをやんわりと拒否し、ララを呼んだ。
    • 千夏に桃子を奪い取れはしない、と私は信じていた。千夏がもしも猫好きだったら、あそこまではっきりと信じることができなかったかもしれない。
    • 千夏の「桃子ちゃん、ママが欲しくない?」という問いに対して「ララが私のママなのよ。」
    • 桃子は、千夏がどれほどララを可愛がっても、嬉しそうな素振りは見せなかった。それに、これは本当に不思議なことなのだが、猫のほうでも、千夏に甘い声で名前を呼ばれたりすると、あたかも面倒臭そうに、ふん、と小さく鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
    • 猫は「ハアーッ」と言う威嚇の声を出し、千夏の顔めがけて鋭い爪の一撃を加えた。(中略)おっとりとして、友好的だったララが、何故、千夏に対してだけ、あんな態度を取り続けたのか、私には分からない。
    ララが千夏に殺されてから ・桃子はクリスマスの御馳走にまるで手をつけようとせず、悟郎が買ってきたアイスクリームにほんの一口、スプーンをつけただけで、子供部屋に引き取ってしまった。

    ・(千夏がらララを殺したと知って)「死んじゃえ」桃子は吐き捨てるように言った。「千夏なんて、死んじゃえ」

    ・ララが好きだった魚をままごとのように小皿に入れ、桃子は墓の前に置いた。麦畠に遊びに行かなくなった代わりに、私たちは毎日のように、ララの墓の手入れをし、ララ、と呼びかけ、桃子が泣き出すと、私も一緒になって泣いた。

    桃子が千夏を殺したとき
    • それは雪の中を走る、一匹の可愛い、邪悪な小鬼のようだった。小鬼は遠ざかっていくにつれ、小さな一つの黒い点のようになった。風にのってたなびく白いマフラーが、まるでララの長い尾のように揺れて見えた。桃子の動き方は素早かった。ララのように。
    • そう、あれは確かにララだった。柩の中のララが、いつのまにか桃子に形を変え、千夏に復讐を遂げた…・・私にはそうとしか思えなかった。
    桃子と雅子が別れるとき
    • 「桃子ちゃんのこと、忘れないわ」(中略)「ララのことも忘れないで」桃子は突然、顔を歪ませ、泣き出した。「ララのこと、絶対、忘れないで」
    • 「ララのことはもちろん忘れないわ」私は深呼吸しながら言った。「いつも心の中でララは生きてるのよ。私と桃子ちゃんとララは仲がよかったんだもの。本当に仲好しだったんだもの。」
    現在の場面に戻って ・そしてその風景の中には、常に一匹の真っ白な猫がいる。ララ・…その名を口にするたびに、私はあの川久保家の光に満ち溢れた庭、笑い声、スノッブな生活のすべてを思い出し、決して癒えることのない後悔を覚える。

     

    この作品に登場するララという名の猫は、白猫である。本文中には「白い」「真っ白」など白に関する言葉が多用されている。そして、白という色が持つ爽やかさは、作品全体にも影響を及ぼしている。ララは殺され、桃子はその復讐に自分の母親になろうとしている女性を殺してしまう。描かれている事件は、非常に残酷だが、あまり凄惨なイメージを持つことはない。

     

    第五節 『避暑地の猫』宮本輝

    以下は、この作品の中の猫に関する記述の抜粋である。

      猫に関する記述
    鍋野医師のペルシャ猫 「あのペルシャ猫、奥さんが好きなんですか?」

     どうして自分の家にペルシャ猫のいることを知っているのだろう。鍋野医師はそう思うと同時に、なぜ今日軽井沢へ行こうとしていたことも知っているのかと不審に思い、その理由を訊いた。

    「この窓から見えるんですよ、先生の車が。トランクにテニスのラケットを入れてたから、ああ、軽井沢へ行くのかって。それに、奥さんがペルシャ猫を抱いて助手席に乗ったから・・・・…」

    「猫は家内がすきでね。俺はあんまり好きじゃない。しっぽを振らないからね。それに、軽井沢行きも、この雨でおじゃんだ。」

    トラ猫の紹介 ある日、その猫が自転車の上で、ひなたぼっこをしながら眠っていたので、彼はあたりを窺い、そっと忍び寄り、首根っこを押さえた。彼に殺す気は無かった。少々こらしめてやるつもりだったのである。しかし、一瞬のうちに、彼の手の甲の肉は幾筋も裂け、血まみれになった。それで、彼に本気の殺意が生まれた。ところがそれ以来、猫は彼を見ると、しっぽを太く膨らませ、素早く逃げ去ってしまう。彼はなんとか殺そうとしてあの手この手を使ったが、猫を捕らえることは出来なかった。

    『とにかく、ひどいひっかき傷だぜ。そいつ言ってたよ。俺がもう音をあげて、殺す気なんか毛頭なくなったら、猫のやつ、俺が傍を通っても知らん顔してひなたぼっこしてやがる。もうこりごりだって…。お前、仇をうってくれって言うんだ。口惜しくってたまんねえ。うまく仕留めてくれたら俺のギターをやるよ。そう頼まれたんだ。

    百万円の懸賞金がかけられた猫の紹介 メスのペルシャ猫が七月十三日の夕刻、万平ホテルの近くで行方知れずになりました。みつけて下さった方には謝礼として百万円お支払いします。

      ・名前 ジョゼット

      ・特徴 毛は銀色がかった灰色

         左目は青緑色で右目は灰色

    ビラの最後には連絡先の電話番号と住所、それに猫の飼い主の名前がしるされてあった。

    「おい、テニスなんかやってる場合じゃねェよ。誰かマタタビ買ってこいよ。猫捜しだ。百万円だぜ」

    「野良猫と違ってさあ、こんな猫は、そう遠くには行かないもんだよ。万平ホテルの周囲二キロってところだな」

     最初は冗談めかしていたが、そのうち真顔になって、何人かの若者たちは、「ジョゼットちゃーん」と呼びながら喫茶店から走り出ていった。姉は席に戻ると、喫茶店の主人に話しかけた。

    「あの猫、百万円もするんですか?」

    「いや、どんなに高くたって十四、五万てとこでしょう。飼い主は新婚さんでね、ヨーロッパに新婚旅行に行くとき、新婦さんが猫も連れて行きたいって泣きじゃくったって話ですよ。亭主が行方知れずになっても、こんな真似はせんでしょう。でも、猫がいなくなってずっと泣き暮らして、食べるものも食べないんで、奥さんの両親が懸賞金を出したそうです」

    「いや、友達です。ご夫婦は毎日この店に来て下さるんで、猫がいなくなったことは私も知っていましたがね、まさか百万円の懸賞金とはねェ。あくせく働いてるのが、なんかみじめになってきますなァ」

     そして主人は、案外、犯人はご亭主かもしれないと言って笑った。

    「自分よりも猫の方を大切にされたら、私だって頭にきますからね」

     猫は不思議な力を持った動物であるということが、下線(  )部によく表れている。猫が犬よりも殺しにくい動物であるということについては『黒猫亭事件』にも、同様の記述が見られる。

     また、二重下線の部分はペルシャ猫のジョゼットがどれほど可愛がられていたかを示す部分であるが、これほど可愛がられていても、この猫は見知らぬ青年についていってしまう。鍋野医師の「猫は家内が好きでね。俺はあんまり好きじゃない。しっぽを振らないからね。」という言葉どおりになるのである。このように気まぐれで縛り付けることのできないのも猫の特性と言えるであろう。ところで、ペルシャ猫は高級で妖しげな魅力を持っている。そのため、まさに軽井沢の雰囲気にぴったりの猫である。『アーサー・カーマイクル卿の奇妙な事件』でもペルシャ猫が登場するが、こちらも貴族のお屋敷に住む裕福な夫人に飼われている。本章の第九節では、これらのペルシャ猫の描かれ方の特徴を探ることにする。

     

    第六節『アーサー・カーマイクル卿の奇妙な事件』

                  アガサ・クリスティー

     

    以下は、この作品の中の猫に関する記述の抜粋である。

      猫に関する記述
    猫に変えられたアーサーの行動  夕日の残照が黄色くいっぱいにあたっている窓椅子に、青年が一人すわっていた。いくらか背中をまるめ、全身の筋肉をゆるめて、奇妙なほどひっそりと坐っている。最初わたしは彼がわたしたちの入ってきたことにぜんぜん気づかずにいるのかと思ったが、そのうちに彼がまばたき一つしない瞼の奥からジーッとわたしたちをうかがっているのにふと気がついた。わたしと視線が合うと、彼は目をおとしてまばたきした。が、体は動かさなかった。

    「やあ、アーサー。パターソン嬢とぼくの友人があなたの見舞いにきてくれたよ」とセトルが快活に言った。

     しかし窓椅子の青年はまばたきしただけだ。が、一、二分すると、わたしはその男がまたわたしたちの様子をジッとうかがっているのに気づいた――こっそり盗み見るようにして。

    「お茶はほしくないかね?」セトルは子供に話しかけるような調子で、、相変わらず大声で快活に訊いた。

     彼はテーブルの上にミルクがいっぱい入った茶碗をおいた。わたしはおどろいて目をまるくしたが、セトルはニコニコしている。

    「おかしなことに彼が口をつける飲み物はミルクだけなんだよ」

     するとすぐアーサーは別に急ぐふうもなく、背をまるめた姿勢から手足を一本ずつ伸ばすようにして立ちあがると、テーブルの方へのそのそ歩いていった。わたしはふと彼の動きがまるっきり音を立てず、歩いても足音一つしないのに気づいた。テーブルのところまできたかと思うと、彼は片足を前に、もう一方の足をうしろへのばして精いっぱい伸びをした。思いきりこの運動をしおわると、今度は欠伸だ。こんな大欠伸は見たことがない!まるで顔じゅう口といった感じだった。

     それからようやくミルクに注意を向けると、それに口が届くまでテーブルの上にかがみこんだ。

     セトルはわたしの問いかけるような目を見て――

    「手をまるきり使わないんだ。まさに原始的な状態に舞いもどったって感じだよ。おかしいだろう?」

     わたしはフィリス・パターソンがわたしの方へすこし尻ごみするのがわかったので、なだめるように彼女の腕に手をやった。

     ようやくミルクを舐めおわると、アーサーはもういちど伸びをしてから、さっきと同じようにひっそりと、足音一つ立てずに窓椅子へもどった。そして前と同様に背をまるめて坐ると、わたしたちを見てまばたきした。

    幽霊のペルシャ猫の行動 灰色の猫が芝生の上を音もなくゆっくり歩いている。ほど遠くないところに小鳥が群れて、忙しく囀ったり、くちばしで羽根の手入れをしたりしている。ははあ、あれを狙ってるのだな、とわたしは思った。

     ところが実に奇妙なことが起こったのだ。猫はまっすぐ歩いていって、体の毛並みを小鳥たちに触れ合わさんばかりにして群の真ん中を通っていく――が、小鳥は飛び立ちもしないのだ。

    復讐を遂げる 鍵のかかったドアの向こうから長く尾を引くものすごい猫のうなり声がきこえた。そしてそれに続いて悲鳴が起こった…・・そしてもう一度・・・…カーマイクル夫人の声にまちがいない。

    「ドアだ!こいつをぶち壊さなくちゃだめだ。ぐずぐずしてたら間に合わんぞ」とわたしはどなった。

    二人は満身の力をこめてドアに肩をぶつけた。ドアはメリメリッと音を立ててこわれた――そしてわたしたちはころげこむようにして部屋の中に入った。

     夫人はベッドの血の海に倒れていた。こんなにおそろしい光景は、めったに見たことがない。心臓は動いていたが、傷はひどく、咽喉の皮膚がずたずたに引き裂かれ引きちぎられていた…・・わたしは震えながら小声で言った――「爪だ・…」ゾクゾクするような恐怖の悪寒が全身を走った。

     

    第七節 『黒猫』ポー

    以下は、この作品の中の猫に関する記述である。

      猫に関する記述
    猫の紹介 ・この猫は稀に見るほど大きくて美しく、全身真っ黒で、驚くほど利口だった。この雄猫の賢さが話題になると、根は少なからず迷信深いたちの妻は、黒猫はみな魔女が姿を変えたものだという昔からある俗言をしばしば引合いに出した。ただし、妻がこんなことを本気で述べていたわけではない。わたしがそもそもそんなことに触れるのも、いましがた、偶然思い出したからなのだ。

     冥府の王―というのが猫の名前だったが―は、私の大好きなペットであり、遊び仲間であった餌をやるのはわたしだけの役目であり、我が家の近辺ならどこへでもわたしのあとをついて来た。街路までついて来させない様にするのに、てこずるほどだった。

    アルコール中毒が犯させた虐待 猫をつかむと、わたしの乱暴に怯え、プルートーはわたしの手に歯でかすり傷を負わせた。悪魔のような憤怒がすぐさまわたしに取り憑いた。わたしは思わずかっとなった。生来の魂はあっという間に肉体から逃れ去ったように思われた。ジンに煽られた、悪魔よりもさらに激しい憎悪のせいで、全身がおののいた。わたしはチョッキのポケットから小型ナイフを取り出し、刃を開き、その哀れな獣の喉をひっつかむと、片方の眼球を眼窩からじっくりとえぐり出したのである!この忌まわしい残虐行為のことをいま書き記しながら、わたしはどうしようもなく赤面し、身体じゅうをほてらせ、身震いしている。

    かつてあれほどわたしになついていた猫にこんなふうにあからさまに嫌われるのを見て、最初のうちは悲しく思うだけの気持ちを、まだ多分に持ち合わせてはいたものの、しかしこの気持ちもやがて腹立たしさに変わっていった。

    主人公が猫を殺す ・ある朝、わたしは冷酷にも、輪縄を猫の首にかけ、木の大枝に吊るした。溢れんばかりの涙を流しながら、心の底で激しい悔恨を感じながら、わたしは吊るした。以前に猫がわたしを愛していたことを知っているがゆえに、わたしの気にさわることなど何もしていないと感じるがゆえに、わたしは吊るしたのだ。

    (その晩家が火事になる。)

    火事の翌日、わたしは焼跡を訪れた。壁は一箇所を除いて、崩れ落ちていた。この一箇所とは、家の中央あたりにあって、わたしの寝台の枕許にある、それほど厚くない仕切り壁のことである。ここでは漆喰が火勢におおいに抵抗したのであった。この事実は、それが最近塗り直されたということのせいではないか、とわたしは思った。この壁のまわりは大変な人だかりで、大勢の人たちが壁のある特定の部分をどうやらしげしげと熱心に見つめ、調べている様子なのだ。「奇妙だ!」とか「不思議だ!」とか、その他これと同様な表現が発せられるので、好奇心が募り、近づいて行くと、白い表面に、まるでバス・リリーフで彫りつけたように、巨大な猫の姿が見えるではないか。その彫像はまったく驚くべきほど精巧に形づくられていた。しかも、猫の首のまわりには一本の縄が巻きついていたのである。

    猫がいなくなってから ・何ヶ月ものあいだ、私は猫の幻像に取り憑かれ、そのあいだじゅう、私の心には、悔恨の情と見えはしたものの、実はそれとは違う、ある中途半端な気持ちが戻って来ていた。わたしは猫の死を悲しむようになり、いまやいつも出入りするようになっていたいかがわしい場所でも、それの代わりになってくれる、同じ種類の、ある程度外見の似かよった猫はいないかと、あたりを見まわすほどになった。
    第二のプルートーの紹介 それは黒猫、プルートーとまったく同じくらいの大きさの巨大な黒猫で、ただ一箇所を除けばすべての点で、プルートーによく似ていた。プルートーは身体じゅうのどの部分にも白い毛一本なかったが、この猫には、胸全体をほぼ覆っている、輪郭ははっきりしないが大きい白い斑点があったのだ。

    わたしがさわると、猫はすぐに起き上がり、さかんにゴロゴロと喉を鳴らし、わたしの手に身体をこすりつけ、眼に留めてもらったのを喜んでいる様子であった。これこそまさに、わたしが捜していた猫にほかならないのだ。わたしはすぐさま酒場の主人にその猫を飼いたいと申し出たのだが、、主人はこの猫は自分のものではない―飼い主の心当たりは全然ないし―いままで一度も見かけたことがないと言うのである。

    第二のプルートーにも嫌悪感を抱き始める その猫が明らかにわたしを好いていることがかえってわたしを嫌悪させ、苛苛させたのである。こうした嫌悪と苛立ちの気持ちは徐々に募ってゆき、やがて激しい憎悪になった。わたしはその猫を避けた。多少の恥ずかしい気持ちと、以前の残酷な行為の思い出が、猫を肉体的に虐待することをわたしにひかえさせたのである。この動物をますます嫌うようになったのは、確かに、そいつを連れ帰った朝、プルートーと同様に片目がえぐりとられていることに気付いたためである。

    ・わたしがこの猫を嫌えば嫌うほど、猫の方ではわたしをますます好きになるようだった。

    猫に恐怖感を抱く ところが、この斑点が、徐々に―ほとんどそれとわからぬくらい徐々に、しかも長いこと気のせいだと理性が懸命にはねつけようとしていたのに―とうとう、くっきりとした明瞭な輪郭を帯びるにいたったのだ。それはいまや、その名を挙げるだけ でもぞっとするようなあるものの形を表わしていた―この形を、なによりもわたしは嫌悪し、恐れ、もし自分に出来るものならこの怪物を殺してしまおうと思ったほどである。そう、その形はいまや、あの忌まわしい、身の毛のよだつようなものの像、〈絞首台〉の像となっていたのだ!おお、〈恐怖〉と〈犯罪〉の、〈苦悶〉と〈死〉の悲しくも恐ろしい刑具の像となっていたのだ!
    殺人事件 ・ある日、妻は、何か家の用事で、貧乏のためやむなく当時住んでいた古い建物の地下室に、わたしと一緒に降りた。猫も急な階段をわたしのあとについて降りて来たものだから、すんでのところでわたしは真っ逆さまに転げ落ちそうになり、そのためわたしは気もくるわんばかりに激怒した。斧を持ち上げると、怒りのあまり、それまでわたしの手を押しとどめていた子供っぽい恐怖も忘れて、猫に一撃を加えようと狙いをさだめた。
    その後 その狡知に長けた猫のやつは、どうやら先ほどの私の激しい怒りに恐れをなしたらしく、今のような気分でいるわたしの前に姿を現そうとはしなかった。あの忌まわしい猫がいなくなったことがわたしの胸中に呼び起こした深い、幸福な安堵の思いを述べることも想像することも不可能なほどだ。猫はその夜中姿をみせなかった。こうして、少なくともその猫を家へ連れて来て以来初めて、わたしはやすらかに熟睡した。そう、自分の魂に人殺しの重荷を負いさえしながらも、ぐっすりと眠ったのだ。
    殺人事件の真相発覚 ・わたしが殴打したその反響音が沈黙の中へ消えていくよりも早く、墓の中から一つの声が答えたのである!最初は子供の啜り泣きに似た、押し殺したような切れ切れの叫び声であったが、やがて瞬く間に、恐ろしく異様で、人の声とも思えぬ、長く尾を引く、甲高い、絶え間なくつづく悲鳴へとたかまっていった―それは断末魔の苦しみに喘ぐ地獄の亡者どもと、彼らの地獄落ちを狂喜する悪鬼どもの喉から一時に出て来る、なかば恐れ、なかば勝ち誇るわめき声であり、悲痛な叫び声であった。

     わたしがどんな思いでいたか、言うも愚かであろう。気を失いかけながら、わたしは反対側の壁のほうへとよろめきながら行った。一瞬、階段の上にいた警官たちは、極度の恐怖と戦慄のために、身動き一つしなかった。だが、次の瞬間、十二本のたくましい腕がその壁を取り壊しにかかっていた。壁はどさりと崩れ落ちた。ひどく腐乱した、血糊のこびりついた死体が、見ているもの達の眼前に真っ直ぐに立っていた。しかもその頭上には、真っ赤な口を大きく開き、片目を焔のように燃え立たせながら、あの忌まわしい獣が坐っていた。その狡猾さがわたしを人殺しへと誘い、そのすさまじい密告の声がわたしを首吊り役人の手に引き渡した獣が。この怪物をも、わたしは墓のなかに塗り込めてしまっていたのだ!

     

     二重下線の部分は、猫が人の後をついていくという性質を示している。紹介の場面ではこの性質は、猫の可愛らしいところとして描かれているが、結局は、この性質が「わたし」が猫を嫌う理由にもなり、殺人事件まで引き起こしてしまうのである。またこの性質は、『猫は知っていた』のチミにも見られるものである。

     また、本作品では主人公「私」の猫に対する気持ちが、呼び方にあらわれている。呼び方の変化は以下の通りである。

     

    一匹目のプルートー

      この猫→プルートー→大好きなペットであり、遊び仲間→哀れな獣→猫→この亡霊

    二匹目のプルートー

      何か黒いもの→猫→その動物→奇妙な猫→たかが一匹の畜生→そいつ→

      あの忌わしい猫→あの怪物→あの忌わしい獣

     

    「私」が、黒猫を愛しているときには、プルートーという名前で呼んでいるが、憎しみが募ってくると、獣と呼ぶようになっている。特に、二匹目のプルートーの方は、自分の罪を暴かれた深い憎しみによって、「忌わしい」「怪物」などと全く愛情のない呼ばれ方をしている。

     

    第八節 『黒猫亭事件』横溝正史

     

    以下は、この作品の中の猫に関する記述である。

      猫に関する記述
    黒猫の屍体発見 「猫ですよ。ほら、御覧なさい、こんなところに黒猫の屍体が埋めてあるんです」

    「黒猫――?」

     司法主任と村井刑事は、驚いたように、刑事の掘った穴のなかをのぞきこんだ。なるほど落ち葉まじりの土の下から、まっくろなからす猫の屍体が半分のぞいている。

    「猫が死んだので埋めたのですね。このまま埋めておきましょうか」

    「いや、ついでのことに掘り出してみたまえ」

     司法主任の言葉に、若い刑事が掘りすすめているところへ、

    「猫ですって?」

     と、声をかけながら、横の木戸から、入って来たのは長谷川巡査であった。穴の中を覗いてみて、

    「ああ、クロですね」

    「クロ?君はこの猫を知っているのかね」

    「ええ、ここの看板猫ですよ。名前が『黒猫』だから、それにちなんで黒猫を飼っていたんです。いつ、死んだのかな。――あっ」

     穴を取りまいていた人々はいっせいにわっと叫んで顔色をかえた。周囲の土をとりのけた若い刑事が、シャベルのさきで、猫の屍体をすくいあげたとたん、だらっと首がぐらついて、いまにも胴からもげそうになったからである。なんとその猫は、ものの見事に咽喉をかききられて、首の皮一枚で、胴とつながっているのだった。

    別の黒猫の登場 一瞬、誰も口を利くものはなかったが、猫の屍体を掘り出した若い刑事が、ふいにシャベルを投げ出して、ぴょこんと、うしろへとびのいたのはその時だった。

    「ど、どうしたんだ。何かあったのか」

    「む、む、向こうに黒猫が・・・…」

    「えっ?」

     全く人間の感情なんて妙なものである。ふだんならば黒猫であろうが白猫であろうが、たかが猫一匹に驚くような人物は、ひとりもそこにはいなかった筈だが、このときばかりは文字どおり、みんなぎょくんと跳びあがったのである。なるほど、若い刑事のいうとおりであった。蓮華院の崖のうえから、まっくろなからす猫が、しんちゅう色の眼を光らせて、じっとこちらをうかがっている。つやつやとした見事な黒毛が、枯れ草のなかから異様な光沢をはなっていた。

    「クロ、クロ・・・…」

     村井刑事がこころみに呼んでみると、枯れ草のなかから黒猫が、

    「ニャ―オ」

     と、人懐っこい声をあげた。

    「来い、来い、クロよ、クロよ」

     村井刑事が猫撫で声で呼んでやると、

    「ニャ―オ」

     と、甘えるような声をあげながら、黒猫はのっしのっしと崖をおりて来た。そして、そこに立っているひとびとを、とがめるような眼で見上げていたが、そのまま、勝手口からなかへ入っていった。

    金田一耕助の説明 皆さんの御意見では、あの黒猫は殺人のあった節、そばでまごまごしていて、とばっちりをくったのだろうということになっていましたね。しかし、それは猫という、もの、習性を知らなさすぎる御意見ですよ。世の中に、およそ猫ほど殺しにくい動物はない。ぼくの中学時代の友人に、とても獰猛な人物がいましてね、犬でも猫でも、何でも殺してスキ焼きにして、食っちまうやつがあった。いや、風間じゃありませんから御安心下さい。そいつの言葉によると、猫ほど往生際の悪い動物はないそうです。犬は棍棒でぶん殴ると、ころりとすぐ死ぬそうですが、猫と来たら、打とうが、殴ろうがなかなか、一朝一夕には死なないそうです。もういいだろうと思っていると、薄眼をひらいてニャ―ゴと鳴く。実に、あんなにしまつの悪いやつはないと言ってましたが、それほど神通力をそなえた猫が、とばっちりをくらって殺されるというのは、ちと、不覚のいたりに過ぎると思われる。ことにあの傷口から見ても、とばっちりではなく、故意にえぐられたとしか思えない。ところで、刑事さんの御意見では、犯罪の現場をあの猫に見られたので、気味悪くなって殺したというんですが、ぼくも一応そのことを考えた。しかし、それじゃまるでポーの小説です。

     金田一耕助の説明の場面では、猫が不思議な力を持った動物であることが詳しく書かれている。『避暑地の猫』にもトラ猫について同様の記述が見られる。黒猫に関しては、本章の第九節のまとめにおいて詳しく考察する。

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