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2009 国語学講義受講生が書いた小学校国語教材につかえる物語文

目次

市川達也「かなえる力」
葛西恒平「ライバル」
片山秋作「もう一度」
澁野哲「赤いバイク」
島村真衣「夏」
木麻里「おかえりなさい」
多田学「幸子」
中塚有香「海の音」
三木竜輝「らんぼうもの」
森影郁子「おるすばん」
森田恭加「ピョン太のジャンプ」小学校低学年向け
黒田理恵「大好き!」
藤原悠「やさいのおばけ」
幣美南「子馬ちゃんとキリンさん」
宮崎智子「大きなネコの子」
山田真里萌「おとなりの女の子」
中西雅則「ただいま」
志津野隼人「山の命」
仁居綾子「青磁のつぼ」
松田辰徳「風の谷」
大内直也「窓際の少女」
山中大輔「お母さんなんて大きらい!」
志水雪菜「ひまわり」
大波聖子「ぼくはねこ」
島吏沙子「私とズーの大冒険」
辻井久美子「エンピツ」
宇佐美みゆき「おねえちゃんなんか大っきらい!」
小杉勇介「いまなんじ?」
鈴木三織「さやちゃんのクロミミ」
高橋奈津子「カラスの王国」
江頭和哉「ホタルのヒカリ」
佐橋健一「ともだち」
辻本祥宏「ひとりぼっち」
東部豊「友達のメロディ」

市川達也「かなえる力」

「すごい・・・。」と固唾を飲み込む。さとしたちは画面にかじりついていた。テレビの中では熱戦が繰り広げられていた。高校サッカー選手権の決勝戦。国立競技場のきれいな芝がより一層選手たちの輝きを引き立たせる。この試合を見終わったあと、何分間か誰一人として口を開こうとはしなかった。そんな沈黙を打ち破ったのはさとしの一言だった。「俺、ここでサッカーしてみたい。」すると、他のみんなは「俺も同じこと考えていた。」と言った。みんな口を開こうとしなかったわけではなく、頭の中で国立のピッチの上でサッカーする自分たちの姿を想像していたのだ。「じゃあ、みんなで一緒にあの場所目指してサッカー始めようか。」というさとしの呼びかけにそこにいた全員がうなずいた。
サッカーを始めたものの、さとしには基本的にセンスがないようだ。ほかのみんなが順調に成長していく中、一人取り残されていた。結局小学校のうちにさとしが試合に出ることはなかった。みんながさとしを気遣うが、さとしの瞳はただ前しか向いていないようだった。
中学校にあがると、他の小学校から上がってきた連中も多くて、サッカー部の練習は過酷を極めた。特にさとしにとってはレベルが高すぎた。練習後に吐いているさとしの姿を仲間たちは心配そうに見ていることがよくあった。「さとし、あんま無理するなよ。」小学校からの仲間たちはさとしにこう言ったが、「国立でプレーするためだろ。俺なら大丈夫。今はサッカーが楽しくて仕方がないから。」と明るく返された。その瞳はまだ前を見ていた。
中三の春季の総体予選、さとしたちは順調に勝ち進んでいた。そのチームの中心はなんとさとしだった。中学校入学時には、ほかの小学校から入部してきた連中のレベルに圧倒され、練習にすらついていけるようなレベルじゃなかった、あのさとしが。
「高校選手権で国立のピッチにみんなと立ちたい」という夢があったさとしは、自分の中で、「そのためには中学のうちに全国を経験することができるレベルの力を身につけなければいけない」と厳しいハードルを設定していた。自ら設定したハードルを越えるために、まずは、チームの中で一番にならないといけなかった。さとしは血のにじむような努力をした。他の部員の三倍は練習し、自分の成長や課題を毎日欠かさずサッカーノートに記し、ときには顧問の先生や小学校時代からの仲間たちに協力してもらって、さとしはめきめき上達していった。難点だった体の弱さも、ちょっと遅れていた成長期がようやくきて、他と遜色ないほどにまでなった。
そんなさとしの努力と成長を評価されて、新人戦の一回戦、さとしは初めて試合に先発出場した。それも、入学時には新入生で一番うまかった新平からポジションを奪ってのスタメンだ。しかし相手は強豪校ということもあり、さとし自身も何もさせてもらえないまま試合は完敗に終わった。
ただこの負け試合によって、さとしだけでなくチーム全体の意識が大きく変わった。練習の量も質も今までの比じゃないものになった。そしてさとしたちが三年になるころには確実に勝てるチームへと成長した。さとしはというと、選抜に選ばれるほどにまでなった。
そしてこの日。ついに予選の決勝を迎えることになった。これを勝てれば、入学時には無謀とさえ思われたあのハードルを越えることができる。さらに決勝の相手は新人戦で完敗したあの強豪校だ。チームとしても何が何でも勝ちたい試合である。
さとしのモチベーションも最高の状態だった。この試合も今までの調子で勝てるという自信にみちあふれていた。充実した精神状況とは裏腹に、限界まで酷使されて悲鳴をあげている自分の体のことなど気にも留めずに。
試合はまさに一進一退といった感じで拮抗していた。どちらが先制点をあげてもおかしくない状況のまま、試合は終盤を迎えていた。さとしはここまでなんとか相手の強力DF陣を抜き去ろうとするものの、キレがいまひとつで完全に封じ込められていた。そんな中、この終盤に絶好のチャンスボールがさとしの足にきた。さとしは、自分にとってこれがラストチャンスと思い、残った力を振り絞り、一気にペナルティーエリアの中まで仕掛けていった。そして最後の一人を渾身のフェイントでかわし、シュートを打とうとした瞬間のことだった。
さとしはピッチにうずくまった。そしてそのまま起き上がることなく、担架で運ばれピッチを後にした。
PKはきっちり新平が決めた。そして終了のホイッスル。ピッチ上でチームメイトたちが喜ぶ中、さとしは医務室で顔を伏せて泣いていた。号泣していた。あの前しかみていなかった瞳が涙で曇ってしまった。チームが全国に行ける喜び、足の痛み。そんなことでの涙ではなかった。さとしはあの瞬間直感していたのだ。これが選手としてピッチに立てる最後なのだと。
さとしの想いがピッチに置き去りになったあの日から3年の月日が経っていた。

あの後、さとしを欠いたチームは全国大会に出たものの初戦で敗退する結果になった。しかしそれまでの成果を評価されて、チームメイトたちの多くは県で2番手と言われている地元の強豪校にサッカー推薦で進学することになった。さとしはというと、みんなと同じ高校に一般入試組として進学した。そこにはもう顔を伏せていたさとしの姿はなかった。さとしの瞳は再び前を向いていた。
手術して、リハビリをしていても、さとしの足はとてもサッカーができる状態には戻っていなかった。だが、さとしはみんなと一緒にサッカー部に入部したのだ。なんとマネージャーとして。それもただのマネージャーではなく、監督に直訴してアシスタントコーチという役職も兼任することになった。それからというものの、あの必死に練習していたとき同様に、さとしは必死に戦術を勉強した。中学のときには自分のために書いていたサッカーノートをチームのためにかくようになった。いろんな高校に練習や試合を見に行った。そんなさとしの頑張りは選手のみならず、監督にも評価され始める。チーム戦術にさとしの考えも反映させてくれるようになったのだ。

そしてこの高三の秋。ついに県内で無敵を誇っていた絶対王者の高校を県予選決勝で破ることができた。勝因は明らかに監督の采配だった。しかしその采配もさとしの進言によるものであった。こうして、さとしは3年越しに自分の力で全国の舞台へ行けることとなった。しかし夢はあくまで「国立のピッチ」である。つまり、ベスト4まで上がらなければ、夢の達成にはならないのだ。チームは冬に向けて準備を始めた。さとしは、受験勉強、リハビリと並行して全国各地の出場校の偵察に飛び回った。

高校サッカー選手権全国大会開幕。ここで問題が生じる。今まではマネージャーとしてピッチのすぐそばでみんなと一緒に戦うことができたが、全国では、監督やコーチといった大人の指導者と20人の登録選手しかベンチに入れない。その20人という枠をめぐって、選手たちはみんな必死で練習してきたわけである。つまりさとしがベンチに座ることは不可能なことなのである。普通に考えれば。なんと選手たちは監督に「さとしがいなければ俺たちはここまでくることができなかった。だから、なんとしてもさとしをベンチメンバーとして登録してください。」と懇願してくれていたのだ。そうしてさとしはみんなのそばでこの全国大会も戦うことができることになった。
すると、さとしたちはさとしのサッカーノートに書かれた偵察データ、試合中の指示のおかげもあって、順調に勝ち進んでいった。本当にチームが今までにないぐらい一体となって、順調に勝ち進んでいった。
なんとあの夢に描いていた国立のピッチのすぐそばにさとしは立っていた。準決勝まで駒を進めたのだ。試合前だというのに、さとしの瞳には涙が光っていた。呆然と立つさとしの頭をなでながら監督は「リハビリはどこまで進んでいるのだ。」と聞いてきた。さとしはわけもわからなかったが「とりあえず軽く走れるぐらいには。」と答えた。監督は軽く笑みを見せて「今日も頼むぞ。」ともう一度頭をなでた。さとしの瞳にはもう涙はなく、この試合をどのように勝とうかといった意気込みが浮かんでいた。
だが試合は劣勢で進んでいった。後半も残り5分で、さとしたちは0−3で負けていた。常識で考えて追いつくには厳しい数字である。選手たちもさとしも下を向き始めたそのとき、監督の一言がベンチに響いた。
「さとし出るぞ。本当の夢をかなえてこい。」
本当の夢・・・「国立のピッチにみんなと立つこと」・・・確かにまだ果たせていなかった。不思議とさとしの瞳に迷いはなかった。さとしが出ることで、チーム全体が息を吹き返した。さとし自身は一度もボールに触れたわけではなかったが、その存在がもたらす効果によって、チームは少ない時間で1点返すことができた。
試合は負けてしまった。もちろん涙が出た。ただこの涙はただのくやし涙ではなかった。子どものときからの夢をかなえたという、うれし涙も混じった、特別な涙だった。だから、決してさとしの瞳は曇らなかった。また前を向いているだけだった。
「かなえる力」を次はどこで活かしてやろうかというようにね。

葛西恒平「ライバル」

「野球やろうぜ!」
小学校5年生の春、転校してきた正太にその言葉をかけてくれたのは智也だった。智也は、みんなから人気があり、いわゆるリーダーのような存在であり、そして何より野球がうまいのだという。正太は野球に特に興味があったわけではなかったが、その言葉が嬉しくて、「うん、母さんに聞いてみる。」と答えた。家に帰り、母さんに聞いてみると、「よかったわね、友達と一緒にがんばりなさい。」と、あっさり許してもらえた。きっと母さんも僕が新しい学校で友達ができるかどうか心配してくれたんだな。正太はそう思った。
次の日、母さんから許してもらえたと智也に伝えると、智也は大喜びして、「練習を見学しに来いよ。」と誘ってくれたのだった。練習を見て、正太は驚いた。野球というスポーツの激しさにはもちろん、教室ではあまり大きな声を出さないクラスメートまでが、大声を張り上げてボールを追っていることに驚いた。そして何より、みんなが一生懸命で楽しそうだった。練習が終わり、智也がチームメイトに正太を紹介した。みんなに受け入れられるか、内心びくびくしていたが、みんなが、「よろしく!」と歓迎してくれた。ここでなら自分も変われる。みんなと一緒になって頑張れる。正太は心からそう思った。
次の週から練習に参加した正太は、初心者だからしばらくはみんなの練習についていけないと思われたが、そうでもなかった。前の学校ではドッヂボールが強かった正太にとって野球は投げる、捕るという動作が似ていたので、苦手という意識はなく、そこにはもちろん正太のやる気と努力があったのだが、その動きはみんなが正太を経験者ではないのかと疑うほどだった。練習での正太を見た智也は「お前すごいなぁ。おれのライバルとして認めてやろう。」と笑いながら言ってくれた。冗談のつもりかもしれないけれど、智也に憧れる正太にとって、その言葉はとてもうれしいものだった。ポジションが決まっていなかった正太は次の週からコーチに智也と同じピッチャーを志望して練習を始めた。そして、6年生になるころには、その実力は、智也と正太2人のキャッチャーを務める雅人が、互角だと認めるほどになっていた。そして、本人達もお互いをライバルとして認めるようになっていた。そして、いよいよ1ヶ月後に小学校最後の大会を控えたころに、監督が紅白戦をやると言い出した。その紅白戦が、大会でのスターティングメンバーを決めるものだとみんなが分かっていた。正太はやる気に満ちあふれていた。それは、この紅白戦でいい結果を出せば、次の大会でエースナンバーがもらえるからといった理由からではなかった。自分を野球に誘ってくれた智也と勝負できるまでに成長できたことがたまらなくうれしかったのである。

そして、とうとうその日がやってきた。紅白戦が始まるともちろん敵チームの智也は正太に言った。「お互いベストを尽くそうぜ。でも、負けないかんな。」正太は強くうなずいた。
正太はこの日のために、雅人と残って特訓を続けてきた。紅白戦で雅人と同じチームになれた正太は、その特訓が自信へと変えて、初回から3連続三振をとるなど、その実力を智也に見せつけた。一方の智也は打たせてアウトをとるといった器用なピッチングをし、初回を無失点に抑えて見せた。両チームのピッチャーの実力は互角だとだれもが思った。しかし、回が進むにつれ二人のピッチングに差が出てきた。7回まで無失点で、まだ余裕すら感じられるピッチングをしている智也に対して、初めのほうは球の速さでバッターを抑えることができていた正太が、ついにスタミナが切れたのか、7回の裏続けざまに失点してしまい、自責点3となってしまったのである。そして、2アウトで正太が迎えたバッターは智也だった。
正太は自分のスタミナのなさや勝負どころで打たれてしまったことに苛立ち、気持ちが切れ掛かっていたが、何とか智也を抑えようと必死だった。それを感じた雅人は、タイムをとり、正太にこう言った。「力が入りすぎているぞ。そんなんじゃストライクゾーンに入んないって。いつものきれいなフォームで投げろよ。智也に勝つんだろ?」そして、冷静さを取り戻した正太が投げたそのボールはストライクゾーン右上ぎりぎりに決まる正太の今日一番のボールだった。しかし、「ガツッ」といういつもとは違う音がしたものの、ボールは正太の頭上を越えるヒットとなってしまった。正太は慌ててボールを追いかけ、一塁に送球したが、智也の姿はなかった。異変に気付きバッターボックスに目をやると智也がうずくまっていた。ボールはバットではなくバットを握った智也の手に当たっていたのである。
コーチやほかのチームメイトが智也に駆け寄り、智也はコーチの車で病院に運ばれていった。結局、紅白戦は中止になり正太は家に着いてから、コーチからの電話で智也の人差し指の骨が折れてしまい、全治1ヶ月半と診断されたことと次の大会ではエースとしてマウンドに立って欲しいということを聞かされた。
しかし、次の日の練習に正太の姿はなかった。"あのまま投げていれば勝っていたのは智也だった。""自分が怪我をさせたせいだ。"そんな思いから正太は智也に対する罪悪感を感じ、練習に参加するのが怖くなってしまったのだった。

 正太が部屋で智也に怪我をさせてしまったことを後悔していると、誰かが訪ねてきた。智也だった。そして智也は正太にこう言った。「ケガをしたのは俺が無茶に打とうとしたからだ。正太のせいじゃない。こんなけがすぐに治すからまた勝負しよう。」正太は強くうなずいたが、「でも智也がいないんじゃ…」と、つい弱音を吐いてしまった。すると智也は、「正太が後半に打たれちゃうのはスタミナがたりないからだろ?だったら今日から走って特訓だ。おれも走るくらいなら付き合うから。あ、あとうまく打たせて取るピッチングも教えてやるよ。俺が復活したときに負けてたら困るかんな。それまで頼んだぞ、エース!」次の日からまたグラウンドに正太の元気な声が響き始めた。そして、小学校最後の大会でエースとしての役割をしっかり果たした正太のチームは準決勝戦まで進むことができた。そして決勝戦6回のウラ、先発で投げていた正太に交代が告げられる。そこには、指を治して復活した智也の姿があった。6回まで無失点で投げきったエースに智也は「ありがとう。ここまで来れたのは正太のおかげだ。本当にお前を誘って良かった。」という言葉をかけた。正太はまだ試合中だったが、「こちらこそありがとう。僕も智也と野球ができて本当に良かった。」と泣きながら答えた。「まだ泣くなよ。泣くのは優勝してからだって。」
正太は強くうなずいた。

片山秋作「もう一度」

冒頭

「コンコン。・・・ガチャ。」
このドアを開けた時からヒロシの新しい生活が始まった。

ヒロシは父の仕事の都合でこの田舎に引っ越してきた。彼の父が小さい頃を過ごしたというこの小さな町は、田んぼや畑ばかりで、都会の騒がしさとは程遠いところだった。ここならばうまくやっていける。ヒロシはそんな気がしたのだった。
 彼は前の学校では野球部に入っていた。しかし試合には一度も出ることができず、ずっとボールばかり磨いていた。実力が足りなかったわけではなかった。入ったころはなかなか上手なほうだった。練習でも魅せるところが何度もあった。しかし、そういう目立ったヒロシをねたんだチームメイトとうまくいっていなかったのだ。ようするにいじめられていたのだ。野球が好きなのにそれができないというのはヒロシにとってとても辛いことだった。野球ができるならそれでいい。頑張ったり目立ったりすることなんて必要ないのだ。ヒロシはそんな気持ちでこの学校の野球部の部室の前に立っていたのだ。

「コンコン。・・・ガチャ。」
中には数人の部員がいた。そのうちの一人がヒロシに声をかけてきた。ナオトだった。
「やあ、この間来た転校生だろ。ウチに入るのか?ただここにいるやつらは問題児ばっかでさ、公式戦にも出られないし、練習もがっつりやるわけじゃない。とりあえず楽しんでやろうぜみたいな部活だからさ。それでもいいなら入ってくれよ。」
「ちょうどいいや。」
ヒロシは言った。
 その日からヒロシはこの学校の野球部の一員になった。練習はだいたい週二日。全員がそろうことはめったになかった。それでもヒロシはそれなりに楽しくやっていた。野球ができるならそれだけでいいと思った。しかし、何かが足りなかった。自由だし楽しい。けれどバラバラなのだ。
 そんなモヤモヤを抱えたまま梅雨に入った。

 ある日顧問の先生が言った。
「試合をしましょう。私の知り合いが監督をしているチームがあるのですが、練習相手を探しているらしいのです。いい機会でしょう。」
みんなが賛成した。
そして練習試合が行われた・・・。

事件

 結果は20対0。良い所など一つもなく惨敗だった。しかし、試合に負けたことよりも相手校の監督に言われた一言の方がよっぽどきついものだった。
「君たちは、何のために野球をしているんだね。」

次の日は久しぶりの大雨だった。いつもならクラブは休みなのだが、ヒロシはなんとなく部室まで足をはこんでいた。家にいる気分ではなかったのだ。誰もいないはずの部室のドアを開けると、そこにはナオトら部員が全員いた。
「どうしたんだよみんな。」
ヒロシはみんなを見渡しながら言った。
「なんとなく・・・さ。家にいても落ち着かなくて。」
と、ナオトが言った。
それから僕たちはお互いに昨日の話題をさけながら、他愛もないことばかりを話していた。
少しして、みんなの会話が途切れ、部室に静かな時間が流れた。そして思い立ったようにヒロシは口を開いた。
「俺、このままじゃ駄目だと思う。」
ヒロシはもう一度みんなに向かって言った。
「このままじゃだめだ。変わらないとだめなんだ。」
それはこの部の誰もが少なからず感じていることだった。このまま楽しい仲良しクラブを続けていけば、なんの苦労もなく、楽しい思い出を抱えたまま卒業することができるだろう。しかし、昨日の負けが、監督の一言が、僕らの中に何かひっかかるものを残したのだ。だが、それを口に出してしまうと何かが壊れてしまいそうで誰も言いだすことができないでいた。
「いいじゃんか別に。負けたからって命が取られるわけでもないんだぜ。それに俺たち今まで楽しくやってきたじゃないか。これからも今までどおりに楽しくやっていこうぜ。」
タロウがやけに明るい調子で言った。少しの沈黙の後にナオトが小さな声で言った。
「俺は変わりたい。」
「今まででも楽しかったよ。好きな時に集まって好きな時に帰って。でもやっぱり俺たちには何かが足りないんだよ。というか・・・悔しいんだ!やっぱりみんなで試合に出て勝ちたいんだ!」
「そうか・・・。なら俺は辞めさせてもらうぜ。楽しいだけの何が悪いんだよ。勝ちたいなんて気持ち俺たちがもってちゃいけないんだよ!」
そう言ってタロウは部室を出ていった。みんな一言も言葉を発せないままだった。
 ガチャリというドアの閉まる音が部室に響いていた。

結末

タロウが部を去って一週間が過ぎようとしていた。タロウがいないままヒロシたちは部活をしていた。しなければならなかったのだ。練習は週に5回。以前と比べてとても厳しいものだった。それでもヒロシたちは一生懸命練習した。もうあんな気持ちは味わいたくない、勝ちたいんだという気持ちがヒロシを動かしていた。
何のために野球をやっているのか。
野球が好きなんだ。好きだからこそ楽しいだけじゃダメなんだ。この一瞬を野球に捧げるんだ。ヒロシはそう心に決めたのだった。

 しかし、日がたつにつれて、練習に来る部員は少なくなった。勝ちたいという気持ちは持っているのだが、今まで以上の練習についていけなくなる部員たちが出てきたのだ。ついに練習に来る部員はヒロシとナオトだけになってしまった。
「とうとう俺たちだけになっちゃったな。でも頑張ろうぜ。一生懸命やって、勝ちたいしな。」
ヒロシはナオトに言った。
「おう、頑張ろうぜ。」
そう言って二人は練習を始めた。
来る日も来る日も二人だけで一生懸命練習した。そんな二人の様子を見て徐々に部員達も戻ってきた。
そんなとき、顧問の先生がもう一度練習試合をしましょうと提案してきた。みんなの気持ちは一気に高まった。
「俺たちが何のために野球をやってるかを見せてやろうぜ!」

そしてついに練習試合の当日・・・。
朝から雲一つない快晴。学校へ向かうヒロシ足どりは自然と軽かった。
学校に着き、ヒロシが部室のドアを開けるとそこには誰かが立っていた。タロウだった。
「どうしたんだよ。」
ヒロシは部室に入りながら言った。
「おまえたちを見てたら、俺もやらなくちゃって思ってさ。・・・俺、一生懸命やるのってかっこ悪いと思ってた。けどお前らを見てたらすごいかっこいいんだよ。目標に向かって突っ走るのも悪くないよな。」
タロウは少し照れながら言った。ヒロシの目はうるんできている。
「・・・ありがとう。」
「よし、ここからが俺たちの新しいスタートだ!目標は地区大会優勝!そのためにも今日は負けられないな!さあ、行こうぜ!」
ヒロシたちは部室を勢いよく飛び出した。
辺りにはもうセミの鳴き声が響き始めていた。
夏がやってきたのだ。熱い、熱い夏が・・・。

澁野哲「赤いバイク」

1場面
「なんだか風が気持ちの良い季節になってきたなあ。」
中山さんは、今日もいつもの赤いバイクで町中の人へと、郵便をとどけています。
今日は、夏もおわりかけの、お昼すぎ。せみの鳴き声もおだやかになり、じりじりとやけつくような日差しも、そろそろお休みです。
「あっ、中山さんの赤いバイクだ。」
「中山さん、こんにちは。」
学校から帰りのこどもたちから声がかけられます。
中山さんは、「こんにちは。」
と優しく返事を返します。
風がふわっと吹き、緑の葉っぱたちもすずしそうにゆれました。
「こんな日には、昼寝でもしたくなるなあ」
あくびをこられながら、中山さんはつぶやきました。
 中山さんが、赤いバイクで、家から家へと、郵便をとどけていると、道になにやらはがきのようなものがおちています。
バイクを止めて、拾い上げてみると、とても不思議なはがきでした。
「こんなはがきは見たことも聞いたこともないぞ。」
中山さんも目を丸くして驚いています。
それは、ひまわりできれいに飾られたはがきなのですが、
泥水でかいたような文字なのです。
「しょうたいじょうと書いてある。それにしても、泥水で書くなんて、どういうことだろう。」
宛先は、7丁目の空き地、犬田犬雄とかかれています。
「ますます不思議だ。変わった名前だし、7丁目の空き地に誰かすんでいるわけもない。」
 中山さんの頭を悩ませている間に、あたりはだんだん夕方へとかわっていきました。
「こうしちゃおれん、このはがきのことをかんがえるのは、全部くばってからにしよう。」
 とつぶやくと、中山さんは、急いで赤いバイクを発進させていきました。
2場面

そして、中山さんが一日の仕事を終えて、赤いバイクで家に帰るころには、もう日が暮れかけて、夕焼けがきれいに見えていました。
中山さんは、夕焼けをながめながら、一息ついて、
「きれいな夕焼けだなあ。一日の疲れも忘れてしまう。」
とつぶやきました。
さて、「ひまわりで飾られたこのはがき、どうしたもんだろうか。」と、
中山さんははがきをみつめながら、考えます。あて先の空き地は帰り道からそう遠くはありません。
よくよくはがきを眺めると、猫の足あとのようなものがついています。
「ますます不思議な手紙だなあ。ひまわりで飾ってあるし、子どもの遊びにしては、よく手の込んだはがきだ。しょうたいじょうと書いてあるけど、いったい何にしょうたいしているんだろうか。」
中山さんはどうしても気になってしまい、空き地へと行ってみることにしました。
空き地へと、バイクを走らせます。空き地につく頃には、もうあたりは暗くなっていました。目をこらしてみてみても、なんにも見えませんし、人がいる気配もありません。
中山さんは、やっぱりなあと思いながらも、せっかくここまできたのだからと、かばんをごそごそと探ってから、一枚の新しいはがきを取り出します。そして、
「犬田犬雄さま。こんにちは。ぜひとも、ぼくもしょうたいしてくれるようにと頼んでいただけませんか。赤いバイクの郵便屋さんより。」
とはがきに書くと、ひまわりで飾られたはがきといっしょに、空き地におきました。そして、赤いバイクにまたがると、家にむけて出発していきました。あたりはもう真っ暗になっていました。

3場面

 秋が深まり、紅葉の葉で並木道が飾られるころ。
いつものように、中山さんは手紙を配達しています。
風がふわっと吹き、紅葉の葉がきれいに舞い上がりました。
ふと、バイクのかごのなかに何やら不思議な手紙が混じっていることに気づきました。
真っ赤なはがきに見えたのですが、それは真赤ま紅葉やいちょうの葉で飾られたはがきです。
中山さんは、はっとしました。
「これは、もしかして、あの時の手紙の返事かな。」
大急ぎではがきに目を通します。
すると、「郵便屋さんへ。お手紙遅くなってしまい、申し訳ありません。このたびは、犬ねこ親睦会のしょうたいじょうをとどけていただきありがとうございました。あなたにひろっていただいたおかげで、無事開催することができます。しかし、犬ねこ親睦会なので、人間をおよびすることはできません。これから友達になっていただけませんか。また、お手紙さし上げます。」
とかかれていました。
こんな不思議なことがあるんだと、中山さんはうれしくてうれしくて、楽しくなってしまいました。
「しょうたいされないのは、残念だが、こんな不思議な友達ができてしまった。うれしいなあ。楽しみだなあ。」
と、とても満足な様子でした。
そして、かばんをごそごそと探ると、一枚の新しいはがきをとりだし、なにやら手紙を書いています。
そして、赤いバイクへとまたがり、秋の透き通るような、空気のなか、空地へと赤いバイクをはしらせていきました。

島村真衣「夏」

第1場面
「ありがとうございました!!」
僕は帽子を深くかぶる。
誰とも話したくない。後ろから話し声が聞こえる。
ざっざっざっ…
自分の足元を見る。
僕たちの中学校は、全校生徒が30人の、小さないなかの中学校だ。この辺りにもう高校はなくて、進学するためには市内の高校に行かなければいけない。
この校庭ばかり広い中学校で、僕たちは野球部としてほそぼそと活動していた。2年生が4人、3年生が5人。1年生は、まだ、いない。
春、僕たちは目標を立てた。夏、県で行われる大会で予選を通過すること。
なんとも中途半端な目標だ。どうせなら優勝と言ってしまえ。最後の夏だ。
だけど、これが僕たちにとっては目標として持てる、最大限だった。
毎日の練習、日に日に暑さが増し、僕たちはぼろぼろになった。しかし、夏休みに入ったとたん、練習に出ないやつが出始めた。
ぽろぽろぽろぽろ…
ああ、負ける。予感はじわじわと増していく。でも、止められない。
結果は、一回戦敗退。
ああ、やっぱり、負けた。
第2場面
せみが鳴いていたんだな。
ずっとつづく耳鳴りのように、それは馴染み過ぎて、音がなっている気がしなかった。おまけに地面から上がる熱気は、僕の頭と視界をぼんやりさせた。
熱い。でも走って走って、あごから落ちる汗を感じるのは、楽しい。
お茶を一気に飲み干して、コップを和也に渡す。もう残っている部員は、僕と和也の二人だけだ。
もともと小さいクラブだった。しかし、先月の大会、1回戦で負けてしまうと、3年生の仲間たちは勉強を理由に次々にやめてしまい、残ったのは、僕と2年生の和也だけ。
二人だけでも、練習は休まず続けている。別に二人での練習は悪くない。だらだらとしているやつとやるよりよっぽど有意義だ。ただ、僕ら二人にこのマウンドは広すぎるというだけだ。
せみの声は一度気になると耳のそばから離れなくなる。腹立たしくて、少しでも追い払いたくて、僕はますます声を張り上げる。
その時、フェンスの向こうに立つ見慣れない人影を見つけた。そいつはなんだかぼんやりして見えた。隣に目をうつすと、視界全体が熱くゆらゆら揺れるなかで、走る和也はくっきりと見えた。
「あいつ、誰だ。」
「上杉だ。一年の。」
僕はそのまま上杉の方へまっすぐ走っていく。上杉の姿がだんだんはっきり見えてくる。和也は何も言わずについてくる。上杉の目の前で僕らはぴたっと立ち止まる。上杉はびっくりした顔だったけど、僕をじっと見たまま動かなかった。
「やろうぜ、一緒に。」
第3場面
ざざっざざっざざっ…
「ラスト1周!」
「おー」
声がそれぞれ少しずれて返ってくる。

最後のランニングが終わった。更衣室に戻ると和也に肩をたたかれた。
「明日、必ず勝とうな。」
和也の後ろで後輩たちが、僕をみつめたままうなずく。
明日は、3年生、つまり僕にとっての引退試合だ。

上杉が野球部に入った1週間後、上杉が新しい部員を連れてきた。秋までに、新しい1年が5人入り、2年生が二人、帰ってきた。

全員の顔を、見つめ返して僕もうなずく。まだまだばらばらで、未完成な僕たち。
でも、これが僕の仲間だ。

木麻里「おかえりなさい」

「おかえりなさい。」
今日もさきちゃんは、お母さんの声に迎えられてお家に入りました。
さきちゃんは今年から小学校1年生になりました。
小学校に入ってもうすぐ1か月がたちます。
さきちゃんのお母さんはさきちゃんが帰るといつも「おかえりなさい。」と笑顔で迎えてくれるのでした。
さきちゃんは、今まで「おかえりなさい。」という側だったので、小学校に通い始めてからのお母さんの「おかえりなさい。」が大好きでした。
そしてさきちゃんは今日もお母さんい「おかえりなさい。」を聞くために、元気に学校へ行きました。
3時ごろ、さきちゃんはお家に着きました。
しかし、お家の様子がいつもと違います。
いつもなら台所の電気が点いていてお母さんが晩ご飯の支度をする音が聞こえてくるのに、今日は何も聞こえません。
さきちゃんは家中を探し回りました。
でも、お母さんは見つかりません。
全部の部屋を探した後にさきちゃんは、お母さんを探しに行こうと決めました。
さきちゃんは幼稚園のころにお母さんと飼っていた猫のベイクと色んなところへお散歩に行っていました。
ベイクはさきちゃんが小学校にあがるときに天国にいってしまいました。
一人でお散歩にでるのは初めてなので、さきちゃんは少しわくわくしました。
さきちゃんはお家をでる前にリビングに飾ってあるお母さんとベイクとさきちゃんと三人で写っている写真をみて、いってきますと心の中でつぶやきました。
4時前、さきちゃんは赤い帽子をかぶって、お母さんを探す旅に出発しました。
まずは、お家の近くにある、スーパーへ行きました。
スーパーの中は、晩御飯の買い物をするお母さんたちでにぎわっていました。
さきちゃんは一生懸命お母さんを探しましたが、見つかりませんでした。
次にさきちゃんは、商店街に行きました。
お魚屋さんやお肉屋さん、やおやさんに「お母さん見ませんでしたか?」と聞いて回りました。
だけど、誰もお母さんを見ていませんでした。
さきちゃんは、だんだんさみしくなって泣きたくなりましたが、ぐっと我慢して、歩きました。
商店街を過ぎて隣町の公園まで来たとき、外はもう真っ暗で、夢中になって歩いていたさきちゃんは、帰り道がわからなくなってしまいました。
さきちゃんは急に別の世界に放り出されたような気がして、心が重たくなりました。
ひとまず、来た道を思い出そうと公園の前で立ち止まっていると、一匹の茶色い猫がさきちゃんの目の前に現れました。
さきちゃんは、その猫に近づきそっと頭をなでました。
猫は静かにさきちゃんを見つめていました。
毛が茶色くて、丸い瞳は、さきちゃんがお家を出る前に見た写真の猫にそっくりでした。
猫は何も言わずに、すたすたと歩き始めました。
さきちゃんはとにかく猫に後ろをついていきました。
寂しくてたまらなかったさきちゃんは、周りの景色をみることもなく、必死でその猫の尻尾を追いかけました。
だんだんの足が速くなって、さきちゃんも走りました。
走って、走って、走りました。
猫が角を曲がったので、さきちゃんも見失ってはいけないと、急いで角を曲がったとき、その猫は姿が見えなくなっていました。
さきちゃんは息が苦しくなって、深呼吸をしていると目の前に見慣れた景色が広がっていることに気付きました。
そこはさきちゃんのお家の目の前でした。
そしてドアの前にはお母さんが立っていて、笑顔で「おかえりなさい。」と声をかけてくれました。
さきちゃんは、「ただいま。」といって部屋に入り、飾ってあるベイクとの写真をぼぉっと眺めていました。
さきちゃんにはベイクが笑ったように見えました。
そして小さな声で「おかえりなさい。」とつぶやきました。

多田学「幸子」


「先生!幸子さんの電球だけ光りません!」
「またかぁ…。」
いつもそうだ。おとうさんとおかあさんが少しでも幸せにとつけてくれた名前とは裏腹に私はいつもついてない。
国語では漢字が読めないところを当てられ、体育ではよく準備体操をした後くらいに雨が降る。たとえ雨が降らなくても走っている途中に私の靴ひもが切れる。給食のパンは私のものだけ明らかに小さい。
そして今は給食の後の5時間目。
理科の実験で直列と並列で電球の光り方がどうなるのか、というもので私たちB組は理科室に集まっていた。先生から十分説明を受けて、しっかりその通りにしたはずなのに。
みんなと同じようにしたはずなのに。
どうして私の電球だけ光らないのだろう。
どうして。
幸子はいっそ泣いて教室を出ていきたい気持ちになる。
「電球は人数分しかないからなぁ。仕方がないから隣の人に見せてもらっていいかな。」
と先生。
「えー先生、そしたら僕の電球も付かなくなっちゃうよ!」
隣の席の村瀬くんはそう言う。
確かにそうだ。もし私が逆の立場になったら同じことを言うだろう。まぁそのときも先に私の電球が光らないのだけど。
そんなことを思いながら学校が終わり家に着いた。
玄関にはまだ一回も履いていない靴がある。一ヶ月前におかあさんと少し離れたショッピングモールに行ったときに買ってもらった靴だ。でもこの靴を履いたら絶対また良くないことが起きると幸子は思いこんでいた。靴を横目にリビングに駆け上がるとおかあさんが洗濯物を畳みながら幸子を出迎えた。
「お帰り幸子。さっき電話があって来週に久しぶりにおばさんがうちに来るみたいよ。幸子に会うの楽しみにしてたわよ。」
「ほんとに!?やったぁ!」
幸子は息をはずませ階段を駆け上がるが三段目で足を踏み外した。
…やっぱり私はついてない。

今日はめずらしく仙台に住んでいるおばさんがうちに遊びに来る日。幸子はそのおばさんに会うのが一週間ずっと楽しみで昨日からワクワクし続けていた。
「・・・よし、今日は思い切って前に買った靴を履いていこう!」
幸子はそう思い立ち玄関でまだピカピカの靴を出し、外に飛び出した。おばさんとの待ち合わせは夕方の四時。幸子は住宅地を抜け、駅に面している商店街へと抜けて行く。
ところが駅に行くまでに雲の様子が急に変わってきた。
群青の空は一瞬にして灰をかぶせたような色になり、滝のような大粒の雨が急激に降ってきた。幸子は急いで商店街の本屋のアーケードの中に逃げ込んだ。
「天気予報は晴れだったのに・・・。おばさんと会う前に靴がどろどろになっちゃった。」
幸子の心境の変化と同じように天気はますます変わり、雨は強さを増していく。
「私ってとことんついてないわ。いつもこうなの。どうしてなんだろう。七夕様にあれだけお願いしたのに。」
幸子は改めて自分のツキのなさにうんざりして呆然と灰色の空を見上げていた。
すると、向かいの散髪屋の奥にあるふたご山の間に雲の切れ間が現われた。
そこからまるで天に向かって行きそうな光が差し込んでくる。幸子はその光に一瞬目を眩め、光の射すほうへ目を上げた。まるで自分にその光が向いているような気がした。幸子が光に気を取られている間に雲がどんどん山の間から離れていく。そこから七色と表現するにふさわしい鮮やかな虹が幸子の目の前に現れた。
「うわぁ。」
幸子は思わず声を漏らした。まるで突然の雨はこの虹を幸子に見せるために降ったのかと思えるほどであった。
幸子は雨が完全にあがり、傘をさす人がいなくなるまでその虹に見とれ続けていた。

その後急いで駅に向かったけどおばさんと会うのが少し遅れてしまった。
でも幸子は虹のことを言わなかった。おばさんにも。もちろんおかあさんにも。
でもあの鮮やかに七色に光る虹を決して忘れたわけではない。一晩中その虹は幸子の心の奥底で光り続けていた。
翌日からも相変わらず幸子の様子は変わらなかった。
国語では相変わらず、また漢字が読めないところを当てられ、体育では運動場にでたとき位に雨が降った。
でも今日の幸子はこういう風に思った。
この漢字がわからなかったから今日それを知ることができたのね。家に帰ってもう一回漢字ドリルをやりなおそう。
せっかく着替えたのに残念だったけど、その分給食の準備をする時間が多く取れたからラッキーだったわ。
他人からすると完全なこじつけでしかないと感じるかもしれないが、不思議と幸子の頭の中には自然とこうしたポジティブな思いが現れる。昨日までと何一つ幸子に起こるツキの無さは変わらない。でも、今日の幸子はそのツキの無さをちょっと違う角度で見ることができた。幸子が起こす日常の一つ一つが七色に輝いて見える、幸子はこの輝きに目を向けることができたのだ。
「私のこの性格も何か楽しくていいなぁ。」

今日も幸子が降らせた雨の後に虹が出る。

中塚有香「海の音」

<第一場面>
 夏休みになりました。
あちこちから蝉の声が聞こえ、おひさまは、休むことなく輝いています。
「夏休みだし、海に行こうか。」
仕事が久しぶりに休みになったお父さんの一言で、りこちゃんの家族は、海にいくことになりました。
長いトンネルを抜け、山道を抜けると、ぱっと世界がひらけて、一面に海の世界が広がっています。
「海だ!!!」
 すなはまに到着すると、りこちゃんは、じっとしていられなくなり、車から飛び出して、海に向かって走り出しました。
 海にちゃぽんとつけた足は、生ぬるい海の水を通り抜け、ひんやりとした真っ白な砂にすいこまれていきます。ほほをなでるしおかぜが、りこちゃんを歓迎してくれているようです。
 すきとおった水の中には、小さな魚が右へ左へ、忙しそうに泳いでいきます。
 冷たい砂のくすぐったさと、海にきた嬉しさで、りこちゃんはおもわず「ふふふ。」と、ほほえみました。
 しばらく海の中で泳いだり、ぷかぷかと浮き輪で浮いたりした後、少し疲れたりこちゃんは、砂浜で貝がらを探し始めました。
「あとでお父さんに見せてびっくりさせてあげよう。」
 小さな手に、いっぱいの貝がらを拾いながら、夢中になって貝がらを拾い集めていると、白い砂浜の真ん中に、うずまいた貝殻があります。
「りこちゃん、そろそろ帰ろうか」
「はーい!!」
 りこちゃんは返事をして、貝をそっと拾い上げると、だいじにもって、呼んでいるお母さんのほうにかけて行きました。 
<事件編>

あれから一週間が過ぎました。
 家に帰ってきても、海のときの楽しい思い出がずっと頭に残っていて、なかなか宿題も、遊びも、手につきません。
「もう一度海にいって、広い海の中を泳いで見たいなあ」
そんなことを考えていると、ふと、海で拾った貝殻のことを思い出しました。
「そういえば・・・」
 せっかく見つけた貝殻も、海から帰るとき、とてもいそいでいたので、お父さんたちにまだ見せていなかったのです。 
りこちゃんはいそいで、自分の部屋に戻り、机の引き出しの中から、かわいい絵のかいてある、小さなお菓子の空き缶を取り出しました。
 ふたをそっと開けてみると、中からふわっと塩の香りがして、あの日、海で集めた色とりどりの貝殻が現れました。
 黄色い貝殻、ピンクの貝殻、割れている貝殻、そして、渦巻きの貝殻。
 どれもあの海を思いださせるものばかりです。
 その中に、海で見つけた大きな渦巻きの貝殻がありました。
りこちゃんは、その渦巻き貝殻を手に取り、リビングで新聞を読んでいたお父さんのところに向かいました。
 「おとうさん、実はね、海でこんなおっきな貝殻をみつけたんだよ。」
お父さんは、にこにこしながら、りこちゃんが持ってきた貝殻をそっと手に取りながめていましたが、しばらくして貝殻を返しながらこういいました。
「貝の入り口を耳に当ててごらん。面白いことが起きるから」
 なんだろう、と思いながらも、おそるおそるいわれたとおりにしてみると、中からなにか音が聞こえました。
「海の音だ!!!」
りこちゃんはさけんで、お父さんのほうをきらきらした顔で見ました。
「海の音が聞こえる!!!」
 
<結末編>
りこちゃんの言葉に、台所にいたお母さんも、手を拭きながらやってきました。
「あら、それ海で拾ってきた貝殻?きれいね。」
「うん、ねえねえお母さん、この貝殻、海の音がするんだよ!!」
「え??」
2人のやりとりを、お父さんはにこにこしながらみています。
「これを耳にあててみて!!」
りこちゃんは貝殻をそっとお母さんの手の上におきました。
お父さんの顔をちらっとみながら、お母さんも貝殻を耳に当てます。
「あら、ほんと、不思議な音がするのね」
驚いて見せるおかあさんをみて、りこちゃんはエヘンとむねをはりました。
すると、お父さんは、読んでいた新聞紙を丸め、りこちゃんにわたしました。
「耳に当ててごらん」
そっと耳にあてた紙の筒からは、さっきと同じ、海の音が聞こえます。
「筒を耳にあてるとね、空気の音がそうやって聞こえるんだ。おもしろいだろう?」
「へえー…不思議だね!!」
「すごいわね。さあ、そろそろごはんにしましょうか。」

台所からはだいすきなカレーのいいにおいがしてきました。
お父さんとお母さんが晩ごはんの準備をしている間に、りこちゃんは、部屋にかいがらをもってもどってきました。
そっと貝がらを耳にあてます。
そして、そっと目を閉じました。
耳にひびく音は、やっぱり海の音です。
「これは私だけに聞こえるんだ。」
なんだか、自分だけの秘密の道具のような気がして、りこちゃんは「ふふふ。」とわらうのでした。

三木竜輝「「らんぼうもの」」

「おい、おれのおかずが少ないじゃねーか!!」
今日も教室にどなり声が響きます。どうやら、給食当番に文句を言っている様子。
 (あーあ、今日もだいちゃんにだれかやられてるよ。)
僕は横目でだまってそれを見て、なるべく関わらないようにしていました。
だいちゃんには、いつもみんな困っています。何か気にいらないことがあれば、すぐにポカリ。逆らおうものなら、またポカリ。クラスでいちばん体が大きいだいちゃんにはだれも力では勝てません。だいちゃんはそれをいいことに、いつもクラスでやりたい放題。みんな、いつだいちゃんのターゲットになるか、びくびくしていました。
ある日、学校に行くと、なにやらみんながさわいでいます。どうやら、昨日だいちゃんのお父さんが急に事故で亡くなったらしいのです。だいちゃんは今日は学校に来ていません。僕は、少しだいちゃんのことが心配でした。でもみんな、だいちゃんのことをあまりよく思っていません。
「だいちゃんのことなんて、べつにどうでもいいや。」
みんなそれほど気にとめず、そのさわぎはすぐにおさまりました。
しかし、その2日後に、変化が起きたのでした。2日ぶりに学校に来ただいちゃんは、すっかり変わってしまったのです。あれだけうるさくて、らんぼうで、みんなを困らせてばかりいただいちゃんが、うそのようにおとなしくなってしまったのです。
だれとも話そうともせず、だれを殴ったりもせず、ただただ一人で席に座ってじっとしています。みんなだいちゃんの変貌にびっくりしていました。でも、そんなだいちゃんに話しかけるクラスメートもだれもいません。ぼくは、ちょっとだけだいちゃんをかわいそうだと思いました。
「だいちゃん、ひとりぼっちだけどいいのかな。」
ぼくがべつの友達にたずねると、
「いいよ。よけいなこと言ってもどうせまたなぐられるだけだぜ。」
と言われてしまいました。
でも、だれも近寄らないだいちゃんに自分一人だけ話しかけるなんて、僕にはできません。さびしそうなだいちゃんを横目に、ぼくは他のみんなと遊んでいました。
 そんなある日の放課後のことです。外はざあざあ振り。その日はいつもいっしょに下校する友達が、風邪で休んでいたので、僕は一人で帰っていました。
(雨っていやだなあ。じめじめするし、荷物も濡れちゃうや。)
一人で帰っているのも退屈なので、ぼくはわざと長靴で水たまりの中を歩いたりしていました。そうやって歩きながら、いつもの曲がり角を曲がると、これまたいつもどおり横には公園が広がっています。すべりだいと、ブランコと、まあるいかまくらのような遊具のあるちっちゃな公園が。僕はふと、そこに人影を見ました。
(ん?あれは・・・あ、もしかしてだいちゃんかな???)
なにやらだいちゃんらしき人影が、通称かまくらのところでかがみこんで何かをしています。僕は少し近づき、その様子をうかがいました。
(やっぱりだいちゃんだ!なにしてるんだろう。)
おそるおそる、ばれないようにもう少し近づくと、どうやら、かまくらの中のかがみこんだだいちゃんの足元には小さな子犬がいるではありませんか。
(もしかして、捨て犬を世話しているのかな。でも、まさかあのらんぼうものだいちゃんが!?)
僕はびっくりしました。信じられない光景に、もしかして子犬をいじめてるのかもしれないと一瞬思ったほどでした。いや、しかし、今目の前にいるのはあのだいちゃんです。僕は、思い切って話しかけてみることにしました。

「あ、あの、だいちゃん?なにしてるの??」
「うわっ!びっくりした!!なんだ、おまえか・・・見たらわかるだろ、捨てられてるからエサあげてんだよ。」
(やっぱり!でも意外だなぁ。)
考え込む僕をよそに、だいちゃんは子犬のほうを見てこっちを振り向かないまま話します。
「こいつがひとりぼっちだったからよ・・・今俺にはオカンはいるけど、こいつにはどっちもいないんだぜ・・・」
僕は、ふだんみんなをいじめているだいちゃんが、こんなことを思っていることに、とまどいながらも、顔には自然とほのかな笑みがこぼれていました。
(なぁんだ。だいちゃんだって、やさしいんだな。)
「じゃあ明日は僕も何か持ってくるよ。一緒にあげよう。」
「・・・本当か。忘れんなよ!」
気がつけば雨はもう止んで、空にはきれいな虹がかかっていました。

森影郁子「おるすばん」

公園のとけいのはりは、午後五時をさしています。
 「ただいま。」
 さっちゃんがいつものように勢いよくいえのドアをあけると、まさにその時を待っていたかのように、リビングの電話が鳴り始めました。
 さっちゃんは急いで靴をぬぎ、電話のもとにかけよりました。
 
 電話のあいては、お母さんでした。
 「さっちゃん、おかえり。そろそろ帰る頃かな、と思って。」
 お母さんは優しい声で、そう言いました。
 さっちゃんのお母さんは、さっちゃんが小さい時からずっとお仕事をしています。さっちゃんは、さびしいときもあるけれど、がんばっているお母さんがだいすきです。
 「お母さん、どうしたの?何かあったの?」
 「さっちゃん、今日ね、どうしてもお仕事が長引いちゃって、帰るのがとっても遅くなりそうなの。ごはんは昨日のカレーを温めて食べてくれないかな?ほんとうにごめんね。ひとりでも大丈夫?」
さっちゃんは、今までにひとりで夜のおるすばんをしたことがなかったので、少し不安になりました。
 それに今日は、雨も降っています。
 だけどさっちゃんは、元気な声で言いました。
 「大丈夫だよ、お母さん。私、もう六年生だよ。おるすばんくらいできるんだから。それより、お母さんもお仕事がんばってね。」
 だいすきなお母さんに心配をかけたくなかったのです。
 さっちゃんは、ひとりでカレーを食べ、テレビをみたり、学校の宿題をしたりしてひとりのじかんをすごしました。だけど、おふろだけは、なんだかこわくていつもの時間に入ることができませんでした。

8時になりました。
おかあさんはまだ帰ってきません。
さっちゃんはどんどん強くなってくる雨の音に、不安そうに耳をかたむけていました。
そのうち、ピカッ、ゴロゴロ…
雷も鳴りだしました。
さっちゃんの不安は、いっそう大きくなります。
カサッと物音がして、さっちゃんが、ふと窓の外に目をやると、ちいさなちいさなネコが、ふるえてさっちゃんを見つめています。
「こんなにちいさいのに…おかあさんとはぐれちゃったのかな。かわいそうに。」
さっちゃんは窓をあけ、子ネコをうちのなかに入れてあげました。
「おなかすいてない?さむかったでしょう。」
さっちゃんは子ネコのぬれたからだをふいてやり、ミルクを手に少しずつ入れて、のませてあげました。
さっちゃんは子ネコを胸に抱き、ほおずりしました。
子ねこはうれしそうにさっちゃんに甘えているようでした。
ふと時計をみると、9時になっていました。
さっちゃんはためいきをつきました。
そのときです。パッと目の前が真っ暗になり、なにも見えなくなりました。停電です。
さっちゃんはパニックになりそうになりながら、必死で子ネコを抱きしめ、恐怖にたえました。
しずかな暗闇が、さっちゃんと子ネコを包み込みます。
今やもう、子ネコの心臓の音まで、はっきり感じることができるほどです。
さっちゃんはちいさなぬくもりを、ぎゅっと抱きしめました。
 
何時間にも思える数分がすぎ、突然目の前が明るくなりました。でんきがついたのです。
そのときです。

ピンポーン
静かなリビングにチャイムの音が鳴り響きました。
さっちゃんは、突然のことに驚いて、ビクっとはねあがりました。

さっちゃんが子ねこを胸に抱いたまま、おそるおそるインターホンのモニターをのぞきこむと…
なんとだいすきなお父さんが、額の汗をぬぐいながら立っています。

「お父さん!」
さっちゃんは走って行って、勢いよく玄関のドアを開けました。
「ただいま。さっちゃん、ひとりで大丈夫だったかい?」
駅からずっと走ってきたのでしょうか。お父さんは、息をきらして、肩で呼吸しているようです。それに、さしていた傘も意味がないくらいにびしょぬれです。

「お母さんから電話があってね、心配になってしまって、仕事をはやめにきりあげて帰ってきたんだ。よくひとりでがんばったね。こわくはなかったかい?」
そんなお父さんに、さっちゃんは意味ありげに、ふふふ、とほほえんで、そして思いました。
『ひとりじゃなかったもの。今からあの子をお父さんに紹介しよう。もう名前もきめてあるんだから。』

お父さんはそんなさっちゃんをただ不思議そうに見つめていました。

森田恭加「「ピョン太のジャンプ」  小学校低学年向け」

ピョン太は、子どものカエルです。たくさん仲間たちがいる深い、深い森に住んでいました。
ピョン太には、大きな悩みがありました。カエルだというのに、泳げないのです。
仲間たちがいつも集まる池で、ピョン太も仲間たちと一緒に泳ごうとしましたが、全く泳げません。ピョン太よりも小さい、赤ちゃんカエルたちが泳げるようになっても、ピョン太は泳げませんでした。そんなわけで、ピョン太はいつも仲間たちからばかにされていました。
「カエルのくせに泳げないなんて!」
同じ年の、いじわるゴン吉が言いました。ピョン太は怒って言いました。
「別に泳げなくたっていいよ!」
ゴン吉が言い返します。
「泳ぐ気がないなら、もう池に来るな!」
ピョン太は悲しくなって、トボトボと池から離れ、このことがあってから、もう池に近づかなくなりました。
しかし、ひとりぽっちでさびしいピョン太は、池から離れたところで、ピョーン、ピョーンと高くジャンプし、まいにちまいにち、池のようすを見ていました。
「ぼくもみんなと一緒に泳げたらなあ…」
ピョン太は、ひとりぽっちの、寂しい、子どものカエルでした。

ある日、いつもは平和な池に、一羽のタカがやってきました。そして、ピョン太をいつもいじめていたゴン吉を加えて、ピュッと、飛び立ちました。
「助けてーーー!」
ゴン吉は叫びました。
いつものようにピョンピョン跳ねて、遠くから池の様子をみていたピョン太は、あわてて駆けつけました。池は、もう大混乱です。タカは、そんなカエルたちをばかにするように、池の上の、空を高く、高く飛んでいます。カエルたちはみな、ゴン吉を助けようと、必死にタカのもとへ、ピョン、ピョンとジャンプしました。
しかし、まったく届きません。
「ゴン吉くん!」
 ピョン太は、いつも自分がいじめられていることなど忘れて、グググッと足に力をためて、ピョーンと、高く、高く、空へジャンプしました。池が小さく、小さくなっていきます。池のカエルたちは、もう見えなくなりました。
いつもひとりでジャンプし、遠くから池の様子をみていたピョン太は、いつの間にか、空までジャンプできるようになっていたのです。ピョン太は少し怖い気持ちになりましたが、まっすぐと、タカをにらみつけました。
「ドンッ!!」
 ピョン太はタカに思い切りぶつかりました。タカは突然の衝撃に驚き、くわえていたゴン吉を落として慌てて逃げていきました。
「ピュー」
「ポチャンッ」
 ピョン太とゴン吉は、ふたりで池に落ちました。泳げないピョン太をゴン吉が背負って、スイスイ泳いでみんなのところにたどりつきました。
「大丈夫か?」
「ふたりとも、けがはないか?」
 みんな、とても心配そうに言いました。
「大丈夫だよ。タカも逃げて行ったよ。」
 ピョン太は笑顔で答えました。ピョン太のおおきな勇気と、空まで届くジャンプに、池は拍手喝采です。ゴン吉も、ピョン太に、
「ありがとう、ありがとう。いつもいじわるばかりしていた僕を助けてくれるなんて…。今まで本当にごめん。」
 と、泣きながら言いました。
「気にしなくていいよ。僕ももっと一生けん命泳ぐ練習をすればよかったんだ。なにより、ゴン吉くんにけががなくてよかった。」
 ピョン太はそう言ってゴン吉の手を握りしめました。

次の日、いつもの池にはゴン吉と泳ぐ練習をしているピョン太の姿がありました。ゴン吉がいいました。
「いいぞ、ピョン太。今日だけですごく上手になったな。」
ピョン太が答えます。
「ゴン吉くんのおかげだよ。さあ、次はジャンプの練習をしよう。」
「しよう、しよう!」
 ゴン吉はうれしそうに言いました。すると、
「ぼくも!」
「わたしも!」
 と、たくさんのなかまたちが集まってきました。
 ピョン太はとてもうれしい気持ちになりました。
「よし、じゃあいくよ!」
ピョーン!!
ピョン太は、高く、高く空までジャンプしました。
ピョン太は、もうひとりぽっちの、寂しいカエルではありませんでした。

黒田理恵「大好き!」

蒸し暑い夏の昼下がり。
「小学校五年二組七番 岡崎ちかこ 67点」
机の上の一枚の算数のテストを、太陽がそこの文字だけをいやみったらしく照らします。
ちかちゃんは、「お母さんに帰ったら、なんて言い訳しよう…。」とばかり考えて、算数のテストの先生のお話なんて全然耳に入っていません。
 隣の席のみさおちゃんは97点。
「いいなあ。お母さんに怒られないんだろうなあ。」
前の席の田中君は32点。
「…逆に怒られないんだろうなあ。」
67点という、あきらめのつかない点数にちかちゃんはため息をついて、お母さんに怒られることを想像して、またため息の数が増えます。
「家に帰りたくないなあ…。」
いつもは楽しい学校も家に帰る運命を考えると、もやもやしてしまって、すっきり楽しめませんでした。
学校から家に帰るまでの好きな子の話で盛り上がるこの時間も、今日に限っては下ばかり向いて、友達の声もどこか遠くに響いているようでした。
あと、十メートル…あと、九メートル…八メートル…五メートル…。
どんどんと家までの距離が縮まってきます。
三メートル…二メートル…一メートル…。
〇メートル。
とうとう、家の前にまで自分の足が並んでしまいました。いつもは、早く公園で遊びたい気持ちから、一目散にドアを開けて、ランドセルを投げ捨てて公園に足を向かわせます。
今日は、まるで石のように自分の足が重く感じられてまったく動きません。
ちかちゃんは、いつもは鳴らさないインターホンを強く、ゆっくりと押しました。
「はあ〜い。」
インターホンから、一オクターブ高いお母さんの声が聞こえます。
「ただいまあ…。(帰りたくなかったけど…。)」
インターホンに向かって、いつもより一オクターブ低い小さな声で返事をしました。
「…おかえり。どうしたの?入っておいでよ?」
そうお母さんに言われて、やっとで重っかた足が動き出しました。
ドアを開けてもう一度、「ただいま。」と小さくつぶやきました。
玄関で、のそのそと靴を脱いで、ずっしりとした足を引きずるようにお母さんのいるリビングへ入って行きました。
「どうしたの?」
「…悪かった。」
「何が?」
「…テスト。」
「何点?」
「67点。」
「えっ。なんで?」
「…知らない。でも。ちかはがんばったもん。」
「がんばってその点数はないでしょう。」
「…がんばったもん。」
「がんばってないから、この点数なんでしょ!何してたの!?」
お母さんの説教の台詞がどんどんあふれ出しています。
「だから、がんばったんだってば!うるさいな!お母さんなんか大嫌い!ちか、お母さん以外のお母さんがよかった!」
「…なんて?」
お母さんの、今までの真っ赤な表情が消えてしまいました。ちかちゃんは、しまった、と思い、思わず口を押えてしまいました。
お母さんの赤かった顔がみるみると、白くなり、その目には涙が光っていました。
「ちか…。ちかが本当にがんばってとった67点なら、お母さんは怒ったりしないわ。でも、ちかはいつも遊んでばかりだったでしょう?テストは、ちかに勉強する機会を与えてくれているに、もったいないことをしたのよ?それにね、ちか?怒ることは辛いことなの。気持ちがとても疲れてしまうことなの。でも、怒るのは、お母さんがちかのことを大好きだかなのよ?ちかが嫌いだから、ちかに腹が立つからって怒らない。ちかが大好きだから怒るの。」
ちかちゃんは、お母さんのこの言葉を聞いて、ぽろぽろと大きな粒をした涙をたくさん流しました。
「お母さん、ごめんなさい。お母さん、ありがとう。お母さん、大好き!」
ちかちゃんの心は、お母さんへの愛でいっぱいになりました。

ある日のことです。その日は、ちかちゃんが待ちに待った遠足の日です。
ちかちゃんは前の夜から、お気に入りのリュックに、ウキウキ買った大好きなお菓子や遠足のしおりを入れたり、お母さんにお弁当の中身についておねだりしたりと、わくわくした気持ちでいっぱいでした。
 ところが、どうしたことでしょう。遠足当日の朝、ちかちゃんの顔が真っ赤になっていました。
 ちかちゃんには、とても大切にしていた髪飾りがありました。その髪飾りは、ちかちゃんが初めてピアノコンクールに出たときに、お母さんが「ちかが失敗しないように。」と言って、ちかちゃんにプレゼントしたものでした。ちかちゃんは、お母さんにもらってから、何か自分にとって特別な日に、必ず付けるようにしていました。
その髪飾りは、ピンクの小さなふわふわした花が付いていました。
ちかちゃんがその髪飾りを付けて行くたびに、「かわいいね。」「きれいだね。」と言われていたのでした。ちかちゃんは、お母さんまでほめてもらっているような気がして、それがとっても嬉しくて、付けて行くのが大好きになりました。
そんなちかちゃんの大切な髪飾りは、ちかちゃんの机の上にある、ちかちゃんの宝箱に、いつもていねいにしまわれていました。
今朝、その宝箱を開けると、髪飾りからピンクの小さな花が取れていたのです。
ちかちゃんは、ショックから息が止まりそうになりました。心臓の音が、ドキドキとしているのがわかります。
「どうして?」「なんで?」「だれが?」……たくさんの「?」がちかちゃんの頭の中に浮かびます。
すると、ちかちゃんはあることを思い出しました。
ちかちゃんには、小学校一年生のはるちゃんという妹がいます。はるちゃんは、いつもちかちゃんが髪飾りを付けるたびに、「お姉ちゃんだけずるい!いいなあ〜。はるもお姉ちゃんみたいな髪飾りがほしい!」と言っていました。
「はるちゃんが壊したんだ!きっとそうだ!」と真っ赤になって怒りました。
実は、はるちゃんは遠足の前の夜に、ちかちゃんの宝箱を開けて、髪飾りを勝手に出してしまったのでした。はるちゃんは、嬉しくて嬉しくて、髪飾りを自分の髪に付けて、鏡でその姿を見て、また嬉しくなりました。でも、これが自分のものではなく、ちかちゃんのものだと考えると、なんだかとても腹が立って、悲しくなって、髪飾りから花を取ってしまったのでした。
「はる!何よ!これは!」ちかちゃんがはるちゃんに大きな声を出します。
「だって…お姉ちゃんばっかりずるいよ!ずるいよ!」
「ばか!はるのばか!はるなんか、大っ嫌い!」
「はるも、お姉ちゃんなんか大っ嫌い!」
とうとう、はるちゃんは泣き出してしまいました。ちかちゃんは、そんなはるちゃんを見て、「なによ、なによ!全部はるが悪いのに!なんではるが泣くのよ!泣きたいのはこっちの方なんだから!絶対に許してあげないんだから!」と心の中は、はるちゃんに対する怒りばかりが込み上げていました。

そんな時、ちかちゃんはお母さんの言葉をふと思い出しました。

 「大好きだから、怒る…。」

はるちゃんが生まれたとき、ちかちゃんは幸せいっぱいでした。かわいくって、小さくって、心の中に「大好き」という気持ちがいっぱいいっぱいに広がったのを覚えています。
 はるちゃんが初めて、自分のことを「お姉ちゃん」と呼んでくれたこと、タンポポの花にリボンをしてプレゼントしてくれたこと、勉強を教えてあげて「ありがとう!」と笑顔いっぱいに言ってくれたこと…。
 ケンカもたくさんしました。言い合いもしょっちゅうです。
でも、ケンカも言い合いも、いつもいつも、それを上回る「大好き」で真っ白になりました。

「私は、はるちゃんが大好き…。」

ちかちゃんの胸の中に、はっきりとこの言葉がしみわたりました。
「はるちゃん、あのね…。」
さっきまでの激しい口調から一変して、とても穏やかでやわらかな口調ではるちゃんに話しかけます。
「人の物を勝手に壊すことは、どんな理由があってもしちゃいけないことなの。」
はるちゃんも、わんわん泣くのを止めてそれでも涙を浮かべながら、じっくりとちかちゃんの言葉に耳を傾けます。
「そのことは分かる?」
涙を袖で拭いながら、はるちゃんは黙って深くひとつうなずきました。
「はるちゃんは、どうしてあんなことしたの?」
「…ずるいって思っちゃったから。お姉ちゃんがね、はる、うらやましかったの。」
「そっかぁ…。ずるいって思わせちゃってごめんね。じゃあ、はるちゃん。どうして私が今、怒ってるか分かる?」
「はるに、ムカついたから?」
「…それも、なかったとは言えないけど、今はちがうよ。」
「…じゃあ、分かんない。」
「…はるちゃんがね、大好きだからだよ。」
はるちゃんは、ちかちゃんの意外な答えに何も言えません。
「はるちゃんに怒って、ケンカしちゃうことは、私も本当はいやなことなの。イライラしちゃうし、ムカムカしちゃうし…。でも、はるちゃんのためにも、自分がいやな思いをしてでも、言わなきゃならないこともあるの。だって私は、はるちゃんのお姉ちゃんだから。はるちゃんが間違えたら、それを教えてあげたいの。そんなことをするのは、私がはるちゃんのこと、大好きだから。はるちゃんが、本当に大嫌いだったら、いちいち言わないよ。はるちゃんが本当に大好きだから怒るの。…はるちゃん、大好きだよ…。」
「…お姉ちゃん、ごめんなさい。はるもお姉ちゃんが本当は大好き!大嫌いなんてウソだから!」
はるちゃんは、またわんわんと泣いてしまいました。熱い涙をぽろぽろと、何度も何度もこぼしました。
ちかちゃんは、そんなはるちゃんを力いっぱい抱きしめました。そんなちかちゃんの目にも熱い涙が溢れていました。 
「大好き、大好き、本当に大好き!」
ちかちゃんは、その気持ちをかみしめるように、はるちゃんの小さな体に顔をうずめて言いました。

藤原悠「やさいのおばけ」

「ごちそうさまー。」
「こら、さとし。またやさいをぜんぜん食べてないじゃないの。」
「だって、やさいっておいしくないんだもん。」
「またそんなこと言って。ちゃんとやさいも食べなさい。」
小学1年生のさとしくんは、野菜が大っきらい。
お肉やお魚はペロッと食べてしまうのに、さとしくんがごちそうさまをしたお皿には、いつも野菜が残っていました。
おかあさんは、さとしくんがちゃんと野菜を食べられるように、いろいろと工夫して作ってくれました。
でも、お母さんがどんなにおいしく料理してくれても、さとしくんはどうしてもやさいが食べられませんでした。

「いただきまーす。」
今日のばんごはんはさとしくんの大好きなハンバーグでした。
でも,やっぱりその横には,色とりどりのにんじんやブロッコリーがならんでいます。
さとしくんは今夜もハンバーグだけをペロッと食べてやさいは少しも食べませんでした。
「こら,さとし。ちゃんと残さず食べなさいっていつも言ってるでしょ。」
「だって,おいしくないんだもん。ごちそうさま。」
「こら,まちなさい。」
おかあさんがさけぶ声を背中で聞きながら,さとしくんは自分の部屋に走って戻りました。
部屋に戻ると、さとしくんはいつものように、大好きなミニカーで遊んでいました。
さとしくんが夢中になっていると、どこからか声が聞こえました。
「すききらいの多い子はだれだ。」
でも、部屋の中には、さとしくんしかいません。
「だれかいるの?」
するとまた声がしました。
「すききらいの多い子はだれだ。」
ふと足もとを見ると、さっきハンバーグのお皿にのっていた、にんじんやブロッコリーではありませんか。
「すききらいの多い子はおまえか。」
そうです。さとしくんがいつもいつもやさいをのこすので、やさいたちが怒っておばけになって出てきたのです。
「だっておいしくないんだもん。」
すると、見る間にやさいたちがふくらみだしたではありませんか。
やさいたちはとうとうさとしくんよりも大きくなりました。
「すききらいの多い子はおまえか。」
「ごめんなさい。これからはちゃんとのこさず食べるから。」
怖くなったさとしくんは、泣きながらあやまりました。

「いただきまーす。」
次の日のばんごはんはカレーライス。
さとしくんはいつもならやさいは残して、お肉とルーとご飯だけをきれいに食べていました。
でも、今日のさとしくんはちがいます。
にんじんをスプーンに乗せ、目をつむり思いきってパクッ。
「あっ。にがくない。」
今度はたまねぎを食べてみました。
「おいしい。」
その日、さとしくんはカレーライスを残さずぜんぶ食べてしまいました。
「さとし。ぜんぶ食べられたね。えらいえらい。」
「うん。だってぼく、やさいさんとやくそくしたもん!!」
その日から毎日、さとしくんはやさいを少しものこさず食べるようになりましたとさ。

幣美南「子馬ちゃんとキリンさん」

少しだけ暑い日のことでした。

風に揺られて、木の葉が小さな音を鳴らします。
静かな静かな森の中で、子馬ちゃんが悩んでいました。
けど、誰かに相談したくても、子馬ちゃんは自分で相談しにいくことはできません。
誰かのところにお喋りしに行くだけのことだって、できないのです。
「しずかだなあ。・・・しずかだなあ。」
ため息一つ、つきたい気分です。すると、そこにキリンさんがやってきました。

「こんにちは、キリンさん。」
「こんにちは、子馬ちゃん。」
キリンさんは長い首をできるだけ下に持ってきて、子馬ちゃんに近づいてくれました。
「あのね、あのね、わたし、ずうっと森の中にいて、ひまなの。」
「ひまなの?」
「うん。だれも来なくてさびしいし、だれもいないからひまなの。」
「誰もいないの?」
「うん。ねえキリンさん、ずっとここにいてよ。おはなししようよ。」
キリンさんはちょっとだけ考えて、首をゆっくりと振りました。
「それは無理かなあ、私は子馬ちゃんとはちょっと違うから、いろんなとこに行かないと。」
子馬ちゃんはがっかりしましたが、まだあきらめません。
「じゃあだれかつれてきてよ、ずっといっしょにいてくれるだれかを。」
「それも無理かなあ、私はそんなだれかを知らないから。」
もう一度、キリンさんは首を振りました。
今度は子馬ちゃんも、あきらめるしかありませんでした。
「そっかぁ。」
ちょっとだけさびしそうな子馬ちゃんに、でもね、とキリンさんは言いました。
「連れてくるのは無理だけど、教えることならできるよ。あのね、子馬ちゃんは、気づいてないだけなんだよ。」
「気づいてない?何に?」
「あのね、私には私の、子馬ちゃんには子馬ちゃんの友達がちゃんといるんだよ。子馬ちゃんが気づいてないだけで、子馬ちゃんの友達はいつでも子馬ちゃんに話しかけているんだよ。」
「そうなの?」
「そうなの。いい?私が向こうの方へ行ったら、よーく耳を澄ましてごらん。私には聞こえないけど、子馬ちゃんにならきっと聞こえるから。」
「そうなの?」
「そうなの。大丈夫、子馬ちゃんは、ひとりじゃないよ。」

そう言ってキリンさんは、さようならと首を振って歩いていきました。
子馬ちゃんは、さようならと動かずに言いました。

キリンさんが見えなくなってから、子馬ちゃんがそっと耳を澄ましてみると、なるほど確かに、風がそよそよ、木の葉がさわさわ・・・まるで、子馬ちゃんに語りかけているように鳴っていました。
子馬ちゃんがさらに耳を澄ますと、小さく、本当に小さく、声が聞こえました。

『子馬ちゃん、子馬ちゃん。』
『今日はなんだかおひさまが元気だね。』
『子馬ちゃんは暑くない?』

そよそよ、さわさわ。

「・・・ほんとだ、ひとりじゃなかった。・・・とっても、にぎやか。」
嬉しそうな子馬ちゃんにこたえるように、風も木の葉も、そよそよさわさわ喋り続けました。

風がそよそよ、木の葉がさわさわ鳴っている、誰もいない森の中で、木馬だけが静かに佇んでいました。

少しだけ暑い日のことでした。

宮崎智子「大きなネコの子」

はじめ

ぼくの名前はラッキー。
ぼくは家族のなかで一番大きいんだ。
お母さんよりもうんと大きいんだよ。
ぼくは食べることも、あったかい日なたへ出て行ってごろごろ昼寝をするのも好き。
でもなによりもお母さんや兄弟たちと一緒に散歩に行くのが大好きなんだ。
走っても走ってもなかなか向こうに行きつかないくらい広い空き地でみんなで仲良く遊ぶんだ。
たまにけんかをしてしまうこともあるけれど、お互いの頬をぺろっと舐めあえばすぐ仲直り。
だってお母さんからおしおきの引っかき攻撃を受けるのはごめんだし、大切な家族といつまでも険悪でいるのは辛いから。
それにしても最近とても気になることがあるんだ。
散歩中のこと。
ほかの兄弟たちは高くジャンプして塀を越えたり、頭さえ入れば細いところでもやすやす通り抜けれるんだ。
でもぼくはそのどちらもできないんだ。
みんなは高くて細い塀の上を列になって歩いて行く。
スタスタ、スタスタ…
ぼくはひとり道の端をみんなを見失わないように追っていく。
ポテポテ、ポテポテ…
みんなは小さな垣根のすきまに頭を突っ込んですばやく通り抜ける。
スルスル、スルスル…
ぼくはわざわざ回り道してみんなに追いつく。
ポテポテ、ポテポテ…
こんな自分が惨めで情けなく思えてくることもある。
でもそうやってぼくが落ち込んでいると、必ずみんなが寄ってきて、
「大丈夫。できなくてもいいんだよ。そんなことできなくてもラッキーは大事な家族にはかわらないよ。」
と言ってくれるんだ。
その度にぼくは、みんなからの「大好き」を感じるんだ。

なか

今日もいつものように空き地に出かけた。
前の日に雨が降ったらしい。
相当な量の雨が降ったのだろう。もう昼過ぎなのに、水たまりがまだ乾かずに残っている。
雨降りの次の日に散歩に出かけるのは、はじめてのことだった。
そんなだから水たまりを見たのも今日がはじめてだった。
ぬかるんだ地面のあちこちにくぼみを作り、淀んだ色の水をたたえていた。
それらは小さな小さな池のようでもあった。
その中のひとつをぼくはおそるおそる、しかし好奇心を隠しきれない目で覗き込んだ。
そこには何も映っていなかった。
ただただ黄土色の世界が広がっているだけである。
次にぼくは前足をそっと浸けてみた。
すると水面が静かに揺れ動き、ぼくの足を中心に波の輪ができた。
波の輪は水面に浮かんでいた葉っぱを岸へと押し流した。
水たまりは別に襲って来たりしない。
ただその場に存在してるだけ。
ぼくは大したことないやと思った。
ぼくはもう一度覗きこんでみた。
今度は怖くも何ともなかった。
しかしぼくは水たまりを覗き込んで仰天した。
さっき足を浸けたときに起こった波で水を濁らせていたものが洗い流され透明感のある世界があった。
そしてその中心にうつっていたのは、するどい目と牙をした生き物だった。
それは、ほかの家族の大きな愛嬌のある目や小さなかわいらしい歯とは似ても似つかなかった。
ぼくがゆっくり首を横に向けると水たまりの中の住人も首を横に振った。
前足で頭を掻いてみると彼もついてきた。
ぼくは水たまりの中の彼が誰だかわかってしまった。
あまりの衝撃でぼくは、その場から逃げだすことも声を出すこともできず、ぼうっと生気のない置物のように立ち尽くしていた。
その様子を見ているものがいた。それはお母さんだった。
お母さんは意を決したようにぼくに近づくと、ゆっくりと語り始めた。
その口調は緊張感があるものの、しっかりとしていた。
「黙ってたけど、お前はイヌという動物なんだ。私たちネコとはちがう生き物なんだ。夜道を歩いていた時に、捨てられて雨に打たれ、か細い声で鳴いていたあんたを見つけたんだ。最初はどうしようもないと思ったけど、なんだか置いていけなくてね。一緒に暮らすことにしたんだ。今までお前が傷つくと思って黙ってたんだ。内緒にしててごめんよ。」
ぼくはショックだった。どうすればいいかわからなかった。
家族じゃないとわかったからには、これからひとりで生きていかなければならないのだろうか。
そう考えると不安でたまらなかった。

おわり

でもその時、お母さんが近づいてきて、そっと顔をすり寄せてきた。
そして、お母さんはぼくの顔を優しくなめた。
それはまるで
「心配しなくても大丈夫よ。」
とぼくに言ってくれているようだった。
お母さんはまたぼくを受け入れてくれた。
お母さんのあたたかい気持ちが、ぼくの体のなかにじんわりと流れ込んでいく。
まるで幸せな魔法にかかったみたいに、ぼくの胸のなかに立ち込めていた霧はすっかり晴れていった。
ぼくがこれからもこのネコをお母さんとして生きていきたいと強く感じたのは、この時だった。
やっと冷静になって周りに目をやると、そこにはこちらを心配そうに見つめる兄弟たちの顔があった。
お母さんが受け入れてくれても兄弟たちはどう思うだろう。
ぼくは恐るおそる
「まだ一緒にいてもいいかな。」
と聞いてみた。
ぼくの運命が決まる。
おそらく返事が返ってくるまでそんなに時間はなかっただろう。
でもぼくにとっては、汗が頬を伝っていくのを敏感に感じ取れるほどに緊張した、とてもとても長い時間だった。
兄弟たちはお互いに顔を見合せてからこちらに向き直り、大きく一回頷いた。
その瞬間体中の力が抜けて、ぼくはその場にしゃがみこんでしまった。
兄弟たちが慌てて駆けてくる。
そして兄弟たちは、ぼくの顔をなめまわした。
ぼくはそのくすぐったさに
「やめろよ。やめろってば。」
と言いながら笑った。
心のなかは、ありがとうの想いでいっぱいだった。

山田真里萌「おとなりの女の子」

 桜が舞い散る春。
私は小学校4年生になった。
新しい教室、新しい窓からの景色、新しい机。
たくさんの「新しい」があって、気分はウキウキ。
私の名前は静香。名前の通り、静か。
休み時間は静かに本とにらめっこ。お友達と過ごす時だって、静か。
でも、そんな私でさえもはしゃいじゃうような、新学期。
新しい椅子。うん、座りやすい。さぁて本を読む…
「おっはよー!!」
…え、耳が痛い。うるさい。え、誰!?
「私、朱里!はじめまして!お隣だねぇ!よろしく!」
私が聞くまでもなく、耳を突き抜けるかのような声で教えてくれた。
にっこり笑顔の女の子がお隣の席にやってきたようだ。…体にいくつものすり傷がある。
「あ、これ?運動場で遊んでたら、けがしちゃった!」
暴れん坊なのかな。いやな感じ。
これが、うっとうしいくらい元気なお隣の席の女の子との出会い。
私は騒がしい子が苦手なんだけど。
自分のタイプと違う人に苦手意識を持っちゃう人間の習性を見事に備えてるんだけど。
あぁ、絶対にかかわりたくないなぁ。あぁ、あぁ、面倒くさいなぁ。
新学期が始まって数ヵ月、私は相変わらず自分の生き方をまっとうしている。
苦手な子とはかかわらない、そんな生き方。
今日もチャイムが鳴れば、明るい朱里ちゃんは運動場へ猛ダッシュ。
静かな静香は本の世界へ猛ダッシュ。
そこにまじわるものは、ない。
今日もグループで話し合えば、明るい朱里ちゃんは後ろの女の子とペラペラ。
静かな静香は教科書をペラペラ。
そこにまじわるものは、なにもない。
何回も聞いてくるから仕方なしに答えた「名前は静香」と、落ちた消しゴムを取ってくれたから「ありがとう」の、そんな言葉くらいしか朱里ちゃんにはあげていない気がする。
でも、なにも不満はないの。むしろこれがいいの。
朱里ちゃんだって絶対、私のこと苦手なんだから。
私は元気じゃないから、元気な子を見ると、自分がダメな子みたいに思っちゃう。
だから、静かな静香は明るい朱里ちゃんが苦手なんだよ。
だから、一回もちゃんとお話したことないんだよ。

 キーンコーンカーンコーン……
 「さぁ、今日の授業は隣の人との自己紹介タイムにします!」
先生が大きな声で言った。
ワイワイとみんなが騒ぎ出した。
私は読んでいた本にしおりをはさんで閉じ、参加する用意をした。
…参加する気はあまりないんだけどね。
その原因は、間違いなく隣の女の子。
「よっし!自己紹介って私をアピールすればいいんでしょ?がんばるぞー!!」
例の隣の女の子は元気に、逆隣の女の子に話しかけている。
本当に、なんでそんなに元気なんだろう。毎日、何を食べて生きてるんだろう。
そんなことをうだうだと考えていたら、大きな声で朱里ちゃんが言ってきた。
「静香ちゃん!やろーよ!まず私からね。えーと、私の名前は……」
口がおもしろいくらいにパクパクと動いている。朱里ちゃんは運動神経がいいから、口もたくさん動くんだろうなぁ。でも、運動神経って関係ないのかなぁ。ん?口がだんだん近づいてきた…?
私は、はっとして目を丸くさせた。
「静香ちゃん?終わったんだけど、どうだった?……聞いてた?」
いつの間にか終わってたんだ。でも、私は朱里ちゃんが何を言ったかなんて全く分かってないし、分かろうともしてないし。
そんな冷たいことを考えていた。
私はおとなしいから、そんな私のことを考えてくれていない子は嫌い。
私はしゃべるのが苦手だから、自分とは合わない元気な子は嫌い。
これはお母さんの前で学校での話をする私の口癖。
だから、私は朱里ちゃんも嫌いなの。
これはお母さんには言ってないけど。
「なんで、なんにも言ってくれないの?なんでしゃべんないの?」
本当に嫌だ。私がおとなしいからってばかにしてるんでしょ。…ばか。
私は今きっと、すんごく嫌そうな顔をしているんだろうなぁ。そう思っていたら、
「私は静香ちゃんとしゃべってみたいんだけどなぁ。いっぱい本読んでるから、その話も聞きたかったし!私が運動場で遊んだ話もいっぱいしたいし!!」
その言葉を聞いて、なんでかわからないけど、心がポカポカってなった。
私が朱里ちゃんを勝手に嫌な子だって思ってた間に、朱里ちゃんは私としゃべりたいって思ってくれてたんだ。
少し、自分が恥ずかしくなった。

 キーンコーンカーンコーン……
 桜が葉桜に変わる頃、いつものように休み時間がやってきた。
いつものように、お隣の朱里ちゃんは運動場、私は読書。
それが当たり前の毎日になっていた。
あれ?朱里ちゃん、今日は運動場に行かないみたい。珍しいなぁ。お腹痛いのかなぁ。
「ねぇねぇ、静香ちゃんが読んでる本、どんな話なの?私、読書始めたの!
私が読んでる本はね……。」
自分が読んでる本のあらすじを話し始めた。
私が今読んでる本の作者と同じなのは、偶然かな?
…あ、その話、読んだことある!おもしろいんだぁ。
私、その本についてしゃべりたくてウズウズしちゃってる。
「……っていう話でね、すっごくおもしろい!
静香ちゃんとお話したかったから、静香ちゃんが読んでる本と同じ作者の本探したんだー!
せっかくお隣だし、いっぱいしゃべりたいもん。」
……え?そうなんだ。
すんごくびっくりした自分と、すんごく嬉しいと思ってる自分がいた。
静かな私と、そこまでしてしゃべりたいって思ってくれるんだ…。
そうしたら、勝手に声が出てた。
「あのね、その本のおもしろいところはね…」
「あー!しゃべってくれた!!やったー!本を読んだかいあったなー!!」
朱里ちゃんはぴょんぴょん跳びだした。
私はまたびっくりした。
今までの私を思い出して、なんだか朱里ちゃんに申し訳なくなって、泣きそうで、
ごめんって言いたくなった。
そして、ありがとうって言いたくなった。
朱里ちゃんの喜びのジャンプが終わったら、言おうかな。

 ある晴れた日、蝉がミーンミーンと鳴いている。
キーンコーンカ−ンコーン……
たくさんの子どもたちが運動場に出てきた。
そこには元気な女の子、朱里がいた。
朱里の笑顔が、まぶしい。
そのお隣には静かな女の子、静香がいた。
静香の笑顔が、まぶしい。
ふたりの笑顔が、太陽からの光でいっそうまぶしくきらめいている。
「朱里ちゃーん!なわとびやろー!」
静香の声が、蝉の鳴き声よりも大きく、聞こえた。

中西雅則「ただいま」

はじめ

 …遠くへ行きたい。
 ここは小さな町、小さな川があって、小さな田んぼがいくつかあって、人々がのんびりとした時間が過ごしていました。
 ここにひとりの住人がいました。コタロウという猫です。
 ばあちゃんの家に小さいころから住んでいる小さな猫です。起きたいときに起きて、町をぶらぶらして、仲間のクロと遊んで過ごしていました。
 腹が減れば小さな港に行き、漁師のアキオが余った小魚をくれました。お腹がいっぱいになって、眠くなると、農夫のクロベエのトラクターのあたたかい所に乗って、ばあちゃんの家に帰ってきます。そしてそのままばあちゃんのひざの上で一日が終わります。
 この町の生活はのんびりしていて、すごく…
コタロウはこの町のことは何でも知っていました。小さい頃からばあちゃんに抱かれていろんなところに連れて行ってもらったし、今ではヒマなのを利用してぶらぶら町を探検しているからです。
「今日は北のほうへ行こう、明日は東のほうへ行こう」
こんなことを繰り返しているうちにコタロウは
「僕にわからないことはない」
とまで思うようになっていました。
ある日のことです。今日は川のほうへ行こうと思って歩みを小さな川のほうへ向けました。川に近い道を歩いていた時に一匹の羽虫が近づいてきました。羽虫はこう語りかけてきました。
「ちょっとお尋ねします。ここは街に出るにはどうしたらいいのですか」
「この道をずっと行って、橋で川を越えたら行けるよ」
「おぉお詳しいですね。それではついでにお尋ねしたいのですが、その街の大きい公園にはどうやったら行けますか」
「えっ…えっと…」
「あぁすみません。この町のかたですからね。他の街がわからないのは当然だ。失礼しました」
そう丁寧な物言いでまた去っていく羽虫をただ見送るような感じになってしまったコタロウでした。

なか

コタロウは羽虫の言葉にちょっと嫌な感じがしました。
「この町のことなら何でも知っているのに、ほかの街のことが答えられないなんて」
…遠くへ行きたい。そしていろんなことを見て、羽虫を見返してやるんだとコタロウは考えました。コタロウは旅の支度を始めました。爪を研ぎ、肉球を磨いて、毛並みを整え準備をしました。どうだ、立派だろうと言わんばかりに準備をしました。せっかく他の街へ行くのだから、自分のすごさをみんなに知ってもらおうと少しウキウキしながら準備をしました。
準備も終わって、次にしたことは、町のみんなに挨拶しに行くことです。
いつもいっしょに遊んでいる猫仲間のクロ、いつもエサをくれる漁師のアキオ、いつもトラクターに乗せて運んでくれる農夫のクロベエ、いつもひざの上で寝かせてくれるばあちゃん、いつもと同じ風景を見せるこの小さな町、みんなに一言ずつ挨拶しました。ただコタロウが街へ行くことをちゃんとわかってくれた人はいませんでした。まぁそんなもんさこの町は、と思ってコタロウは勇み足、威風堂々と歩みを小さな川の向こうにある街へと向けました。朝日がさんさんとその後ろ姿を照らしていました。
 歩いていると草が生い茂った急な上り坂が一本ありました。ここを登れば、街へと通じる一本の橋がある堤防の道です。ここにはコタロウが小さいころに、ばあちゃんに一度だけ連れてきてもらったことがあったのでした。そのときに、
「ここの橋だけは渡るんじゃないよ」
と言われたことを思い出しました。その橋を見てみると鉄骨製だけれども、もうだいぶ錆びている橋でした。
「すぐに帰ってくるさ」
コタロウは堂々と一歩を踏み出しました。昼間の太陽はコタロウに笑いかけているようでした。
 街に着くとコタロウの目には驚くことばかりが飛び込んできました。
とてつもなく速く走る自動車、しかもその数は前足と後ろ足を足しても足りないぐらいでした。こんなのに轢かれたらひとたまりもない、コタロウは自動車が走るところからなるべく離れようとしました。
 そんなときにある路地裏に入ったコタロウはびっくりしました。
 薄汚れた、毛並みの悪い、やせ細ったノラ猫たちがゴミ箱に群がっていたのです。コタロウはそのうちの一匹にこう聞きました。
「おいこの街に漁師はいないのかい。漁師に魚をもらえばいいだろうに」
「お前何を言ってるんだ。漁師なんか、人なんか何一つくれないぞ。ここで生きていくためにはこんなことぐらいしないとな…」
そう言ってそのノラ猫はまたごみ箱を荒らしだしました。コタロウは何も言わずにその場を去りました。
 コタロウは街の大通りに出て、初めて街の人々の顔をよく見ました。みんな表情が冷たくて固くて、何かに急いでいるようでした。人だけでなくて街全体が激しく、しかし冷たく動いて、変わっていくようでした。コタロウは少し気持ち悪くなりました。どこかで休もうと歩みをどこかに向けました。夕明りがコタロウの後ろ姿を照らしています。
 コタロウはどこに行けばいいのかわからずに、堂々めぐりをしていました。最初の勢いは消沈しきり、疲れ、気分がさらに悪くなりました。そんな中歩いていると一人の年をとった女の人がしゃがみ込んで、声をかけてきました。
「おや大丈夫かい。疲れているみたいだね。」
コタロウは怯えていました。この人もあの街と同じかなと。そんな時に女の人はコタロウを膝の上に抱きかかえました。あたたかい。こんな感じ久しぶりに感じたようだとコタロウは思いました。その時一人の顔が浮かびました。…ばあちゃん。
 コタロウはさっと女の人の膝から飛び降りました。そして振り向き、一つ鳴いて駆け出しました。夜の月はコタロウに笑いかけているようでした。

おわり

コタロウは走り続けました。
来た道を戻り続けました。
来た道の風景を見ずに。

コタロウが求めていたのは新しい街の風景でもなく、新しい知識でもない…
コタロウはただひたすら走り続けました。

橋です。いつもの風景への入り口。さぁもうすぐそこに!!

抜け出したとき、街はうるさかったのに、町は静かでした。
いつもの町の夜の風景です。小さい明かりがぽつぽつと輝いています。

あたたかい風がひと吹きしました。

コタロウは歩き出しました。
寝静まった町。この姿も見たことがある風景です。

寝ているクロ、ただ浮いている船、動かないトラクター

どこを歩いてもなじみの風景です。
コタロウは、一つの明かりがついている家の前で止まって、一なきしました。するとすぐに玄関の開く音がしました。
「おかえり」
…やさしい声で出迎えてもらって、うれしい
一つ鳴いて、部屋の中に入る
ひざの上に乗ります。今考えるとこのひざの上って案外大きい。

コタロウはすぐに眠りにつきました。

夜静かで小さなこの町は、大きな声でこう言いました。
―おかえり―
…ただいま

志津野隼人「山の命」

 ぼくの住んでいる街には裏山と呼ばれる山がある。小学校の裏にあるからここら辺の人はみんなそう呼んでいる。夏になると耳が痛くなるくらい蝉が鳴き始め、秋ごろには木々が色づいていい眺めだし、おいしいキノコも取れるらしい。しかしぼくたちは、あの山に入ることを禁じられて、普段は近づくことさえも許されなかった。迷子になったら戻ってこられないとか、イノシシに追いかけられるとか、そんな理由だったと思う。 山にはほかにもいろんな言い伝えが残っていた。特に、誰も使っていないという山小屋に関してはうわさ話がつきなかった。夜になるとお化けが出るとか、昔夫婦げんかの末に殺された妻の死体が隠されているとか、そんな類のものから、山の持ち主の遺産が隠してあるというような話まであった。
 遺産なんかに興味はなかったけれど、気がつくとぼくは、授業中に暇ができると窓の外に見える山を眺めるようになっていた。住宅街の中で、あの山だけがなにか特殊なもののように見えた。今まで、友達を連れて1度だけあの山に入ろうとしたことがあったが、告げ口をされたせいで先生に見つかり、大目玉を食らうことになった。
 山小屋のことが気になってしょうがないまま僕も小学六年生になり、小学校生活最後の夏を迎えていた。夏になってから一層と生い茂る山を見て、ぼくは、もう一度あの山に探検に行こう、何があるのか確かめるんだ、と心に決めた。
 今度ばかりは見つかるわけにはいかない。一人であんなところに行くのは不安で仕方なかったけれど、夏休みの午後に、友達のところに行くと嘘をついて、ひとりで山へ出かけた。
 立ち入り禁止の柵を飛び越えて山の中に入ると、夏なのにひんやりとしていて、通り抜ける風がとても気持ち良かった。山小屋は山のてっぺんあたりにあって、でこぼこの道をずっと登っていかなければならず、歩いているだけで辛かった。息をぜぇぜぇさせながら、まっすぐ山小屋に進んでいった。
 疲れてきて足取りが重くなってくると、周りの景色がよく見えるようになってきた。この山には普段の家の周りとは全然違って、たくさんの植物や、見たこともないキノコがたくさん生えていた。学校の校庭にある自然なんて、まったくにせもののような気さえした。自然だけじゃない。たくさんの動物も山には暮らしていた。やっぱりセミはミンミンとうるさいくらいに鳴いているし、いままでペットショップでしかみたことのないクワガタやカブトムシがいた。木ばっかり見ていたら足もとからヘビが出てきて驚いた。もうすこしで山小屋あたりというところで、もうだいぶ日が沈んできているのがわかった。どうやらゆっくり歩きすぎたらしい。心細いのも手伝って、心がそわそわしてきた。「もう帰ろうかな。」そんなことも考えたけれど、ここまで来て引き返すわけにはいかない。ぼくは疲れているのを我慢して足をはやめた。
 ぼくはついに山小屋の前へとたどり着いた。自然と胸のそわそわはどきどきに変わっていた。山小屋は想像していたよりも大きくて、きれいだった。けどやっぱり誰も使っていなくて古いせいか、ところどころに穴があいていたり、傷ができたりしていた。もう少し近づいてみようとしたその時、がさっとなにかが動く音を聞いて驚いて足を止めた。リスが何かが横を通り過ぎたのか、すぐにあたりはまた静かになった。山小屋の目の前に来ると、山小屋から何か特別な気配がするのを感じた。山小屋自体が、特別なものであるかのような気もする。大人たちが、近づいてはいけない、というのもなんとなくわかる。迷ったけれど、もう胸のどきどきは抑えられなかった。ぼくは壁にあいた小さな穴から中を覗き込んだ。山小屋の中には、お化けも、殺された死体なんてものもなかった。ただ、ぼくがいままで見てきたこともないくらいたくさんの動物がその中にいた。いただけじゃない、まるで一緒に暮らしているようだった。ぼくはしばらく目を離すことができず、ずっと動物たちの姿を見ていたいと思った。ここは山の動物たちが住んでいる、そうかここは山の命なのか。なんでこんなところに動物たちが住んでいるのかなんて、ぼくにはわかるわけがなかった。けれど、胸が燃え上がるように熱くなって、涙が出そうになった。これまで感じたことのないあたたかさがここにはあった。ここは残さなければならない。荒らしてはいけないんだ。それだけははっきりとわかった。
 その日は眠れなかった。裏山のことばかり考えていたらあっという間に朝になっていた。なむい眼をこすりながらラジオ体操に向かうとき、昨日自分がいた山の頂上が見えた。
 あの日の記憶を決して忘れることはないまま、十数年の時が経った。今でも裏山は、立ち入り禁止の札をかけてこの街にあり続けている。あれ以来裏山に入ったことはない。けれど、ぼくは毎日教壇に立ちながら、いつもあの山を見続けている。そして子どもたちに、あの山に近づいてはいけないと教え続けている。

仁居綾子「青磁のつぼ」

ガウはひとりぼっちで村外れに住んでいるオオカミの子です。
毎日毎日、丘の上の家から村をながめては、ガウはほうっとため息をつくのでした。
ほうっとつくため息が大きくなっていくと、ガウは村に下りていたずらをしました。
だから村のひとは、ガウのことをいたずらばかりする迷惑なやつだと考えているのです。
いたずらをする時に村のひととしゃべれることが、ガウのため息を小さくしてくれているのでした。
でも、そんなガウのことを村のひとが理解できるはずがありません。
ガウのため息はなくなることはありませんでした。
ガウのことなど知らない村では、秋のお祭りの準備におおいそがしでした。
「わぅ…。村がにぎやかだなぁ…。」
ガウは村のすぐそばまで下りて行ってみることにしました。
ぼんやりと、村のひとの声が聞こえてきました。
「気をつけ…せいじの…だから…だいじに…つぼを作って…」
なにを言っているのかはっきりとは分かりませんでしたが、どうも村をあげてきれいなつぼを作っているようなのでした。
「こら!そこでなにをしている!」
後ろから突然怒鳴られたので、ガウはびっくりして一目散に丘の上へと逃げて行ってしまいました。
村では秋の収穫祭に使う青磁のつぼを作っていたのでした。
ガウが走って行ってしまった後に、小さな白いネコの子がやってきました。
ネコの子はチコという名前でした。
収穫祭の準備の時期にかさなるように、この村へ引っこしてきたのでした。
チコはよく家にひとりで留守番をするのですが、すぐにつまらなくなって、村中をぶらぶらと歩き回るのでした。
ぶらぶらと歩いていたら、緑色や空色のかけらがチコの目にとまりました。
「これ、なんだろう?」
気になって、だれかに聞いてみたかったのですが、少し居心地が悪いような気がして。
チコはかけらを横目で見ながら、そこを通り過ぎてしまいました。
チコが見ていたのは青磁のつぼのかけらでした。
チコは、家に帰ってから収穫祭について知ることができたのでした。
一方、とつぜん怒鳴られたことが心に残っていて、しばらく村に行けなかったガウですが、ちょこちょこといたずらを再開し始めました。
でも、前みたいにガウを気にしてくれるひとがいないように、ガウは感じました。
「なんだか、このごろ村のみんなはボクにかまってくれなくなっちゃったなぁ。なんでだろう。」
ガウはびくびくしながら村にこっそりやってきました。
「そういえば、つぼを作っているとかだれかが言っていたぞ。」
村の中をかくれながらガウは進んでいきます。
「また何かしたら、つぼよりボクのことをかまってくれるのかな。」
ガウが、どんないたずらをしようかと考えていたときでした。
たまたま入った小屋の中に、きれいな色のつぼが干してあったのです。
それは完成したばかりの青磁のつぼでした。
「あ。こいつをみんなで作っていたんだな。」
ガウはつぼをじっと見ると、こう考えました。
「このつぼがどっかにいったら、またボクとかまってくれるかもしれない。」
ガウはつぼを手にとると、じぶんのしっぽでかくしながら、持っていってしまいました。
「大事なつぼみたいだから、これでちょっといたずらしてやれ。」
ガウはその日から、夜になると村はずれの道でつぼをかぶっては通るひとをおどかすことにしました。
ガウが青磁のつぼをかぶって、おどかすと、だれもがみんな走って逃げていくのでした。
「わははは。これはおもしろいや。もっとみんなをおどかしてやろう。」
ガウは青磁のつぼをかぶっては、村はずれの道を通る村びとをおどかしていました。
村びとは、村はずれにつぼのお化けが出るといってあまり近づかなくなっていきました。

そんなある日、満月の夜のことです。
ガウはこの日もまた青磁のつぼをかぶって、村のだれかが来ないかとしげみの中にかくれていました。
向こうから小さなだれかが歩いてくるのが見えてきました。
「あれぇ。ボクよりちっちゃいやつがひとりで歩いてくるぞ。」
この道をひとりで通る村びとはあまり見なくなっていたので、ガウはふしぎに思ったのでした。
ガウはつぼをかぶるのをわすれて、そのちっちゃなやつが近づいてくるのを見つづけていました。
そのちっちゃなやつとは、引っこしてきたばかりのチコでした。
「わぁ。真っ白なネコの子だ。」
ガウがしげみでつぶやいたのを、耳のよいチコは聞きとりました。
「そこに、だれかいるの?」
ガウは、声をかけられたことにびっくりしました。
そして、思わずつぼをかぶってしまっていました。
「だれかいるの?」
チコは少しこわくなって、もう一度声をかけました。
「つぼお化けだぞう。」
ガウはつぼをかぶったまんまで、チコの前にとびだしました。
「にゃん!」
チコはびっくりしてその場にへたりこんでしまいました。
「お化けだああ。こわいよぉ。こわいよぉ。」
目を手でふさいでふるえているチコを見て、ガウはもうしわけない気持ちになりました。
「ごめんよ。本当はボクお化けじゃないんだ。」
「え?」
チコは、目をふさいでいた手をそっとおろして、ガウのことをじっと見ました。
「ちょっとおどかしちゃえ、と思って…。そんなにこわがるとは思わなかったんだ。ごめんね。」
チコは目の前のつぼお化けをじっと見ると、言いました。
「よかった。足があるからお化けじゃないね。わたし、お化けが本当に苦手なの。」
「ボクはね、ガウ。」
「わたしは、チコ。さいきんこの村に引っこしてきたのよ。」
「ああ。だからこの道をひとりで歩いていたのか。さいきんは大人でもひとりでここを通らないから、あれ変だなぁって思っていたんだ。」
ガウは、小さなチコがひとりでこの道を通っていたわけが分かりました。
「あら、そうだったの。わたし、引っこしてきたばかりでまだ友達もいないから、そんなことちっとも知らなかった。」
ガウは、この小さな白いチコに自分と同じような気持ちがあるのを感じました。
「ボクがお化けだぞ〜っておどかしたら、みんなびっくりして他の道ににげていっちゃうんだ。」
「しげみから急につぼのお化けが出てきたら、みんなびっくりするわよ。」
「えへへ。でも、ボクが村に下りていってもだれもかまってくれないんだもん。ひとりなんだもん、ボク。」
ガウは、つい思っていることを口に出してしまいました。
「ガウくんもひとりぼっちなの?わたしもそうなの。」
チコは目の前のガウをじいっと見つめると、なんだかおかしな気持がしてきました。
「今見ると、おもしろいかっこう。だって頭につぼをかぶっているんだもん。ねぇ、ちょっとおしゃべりしていかない?」
ガウはびっくりするやら、恥ずかしいやらで、もじもじして言いました。
「でも、どこかへ行くつもりだったんじゃないのかい?」
「村にいてもつまんないから、おもしろいことないかなって歩いていたの。だってネコは本当は夜にあそぶものでしょ?」
それを聞くとガウはうれしくなりました。
そして、ふたりは道ばたにすわると、おたがいにいろいろな話をしていきました。
好きな食べ物のこと。気に入っている場所のこと。自分たちの家のこと。収穫祭のこと。
たくさん話をしていくうちに、ガウはだんだんと申し訳のない気持ちになっていきました。
「チコちゃんがお母さんから聞いた話だと、収穫祭のつぼはほんとうに大切なものなんだね。ボク、そんなに大切なものとは思ってなかったから…」
「うーん。でも、お祭りまではまだ日もあるし、ちゃんと謝ったらみんなゆるしてくれるよ!」
「ちょっといたずらしちゃえ、って思っただけだったんだ…。うん。明日、ボク返しに行く。」
「私もいっしょに行くよ。ふたりであやまったら大丈夫だよ。」
「チコちゃんは悪くないのに、あやまることないんだよ?」
「ううん。ガウくんはもう私の友だちだから、いっしょに行くの。」
ガウはチコの言葉が本当にうれしくてうれしくて、つぼを返しに行くんだ、と心に決めました。
「じゃあ、明日、またここで会いましょうよ。」
「うん!約束だね。」
チコは、じゃあ…とガウに帰ることを伝えようとして気づきました。
「ガウくん、お顔を見せてよ。私さっきからつぼお化けの顔しか見てないわ。明日会う時にガウくんのお顔が分らなかったら、私どうしたらいいの?」
チコが笑いながら言いました。
チコに言われて、いつつぼを外そうか困っていたガウは。
「うん。そ、そうだね。」
ドキドキしながらつぼを取ろうとします。
ところが。
「あ、あれ?おかしいな。」
いつもならすぐに取れるはずのつぼが、今夜に限ってなかなか取れません。
「取れないぞ。あれ、つぼが、取れないぞ!」
「ええっ?!」
ガウの言葉にチコもあわてます。
「ガウくん、落ち着いて。私が引っ張ってみるね。」
チコがつぼを引っ張って、うんとこしょ、どっこいしょ。
けれども、つぼはぬけません。
「どうしよう。」
チコもすっかり困ってしまいましたが、ガウはもっと困っていました。
「どうしよう。ボクがあんまりいたずらばかりするからバチがあたったんだ。」
つぼの中で、ガウは涙をじわーっとにじませながら。
「ボク、もうずっとこのまんまなんだ…わおーんわおーん。」
とうとう泣き出してしまいました。
「どうしよう…。」
チコは大きな声で泣くガウを前に、道をうろうろと歩き回っていましたが。
「ガウくん。私、村の人をよんでくる!ここで待ってて!」
「わおーん、わおーん。」
ガウの鳴き声を聞きながら、チコは村に向かって全速力で走り始めました。
「ガウくん、待っててね。絶対に、助けをよんでくるからね!」
チコは夜の道を力いっぱい走りぬきます。
村までの道を、満月が照らしてくれているので迷うことはありません。
小さい体を前に、前に。
ガウのために動かします。
そうして、村の入り口が見えてみました。
「だれか!おねがい!ガウくんをたすけてください!」
村にとびこむなり、チコは大きな声でさけびました。
「だれかたすけてください!」
いきなりとびこんできたチコを見て、村のおとなたちはびっくりしました。
「どうしたんだい、一体。」
ひとりのむらびとがチコに声をかけてくれました。
「村はずれの、オオカミのガウくんの頭がつぼからぬけないの。」
おとなたちは、ガウの名前を知りませんでした。
けれど、村はずれのオオカミと聞くと。
「ああ。あのいたずらオオカミか。村の大事な青銅のつぼを盗みやがって。」
だれかがこう言いました。
「そうだそうだ。収穫祭に使う大切なつぼだったのによ。少しはこりたらいいんだ。」
べつのだれかがこう言いました。
ガウのことをたすけてくれそうなおとながいない、チコはそう思うと。
「おねがいします!ガウくんは私の友だちなんです!」
チコは村びとたちに、けんめいにたのみました。
「でもなぁ…。」
それでも動いてくれない村びとを前に、チコは泣きそうになって。
「おねがい。私じゃとれないの。おねがい。おねがい。」
その場の村びと、ひとりひとりにチコはおねがいをするのでした。
「ガウくんはここの初めての友だちなの。だれか、おねがい。」
チコは村中かけ回ります。
「おねがい、おねがい。ガウくんはさみしかったのよぅ。だれもガウくんを気にかけてくれるひとなんていなかったんだもん。」
走りつかれて、すわりこんでしまったチコは泣き出してしまいました。
「私もガウくんといっしょにあやまるから、だれかおねがい。」
チコのその様子を見ていた村びとたちは顔を見合せます。
「こんな小さい子ネコのチコちゃんがこれほどたのんでいるのに、ほうっておくことはできないよ、な。」
村びとたちが、チコの一生けんめいな姿を見て、だんだんとチコの言うことに耳をかたむけてくれるようになっていきました。
「ひょっとしてあのいたずらオオカミの子、村にきたかったのじゃないかしら?」
「思えば、おれたちは村の者とよそ者を区別しすぎていたのかも。」
「いたずら者とはいえ、あのオオカミもまだ子どもだったのに。われわれもおとなげないことをしてきたもんだ。」
チコは涙をぬぐい、言います。
「ガウくん、悪いことしたって思っていて、明日あやまるつもりだったの。もういたずらしないって。だから、おねがい。ガウくんをたすけてください。」
チコの言葉に、村びとたちは大きくうなずきました。

そのころ、ガウはひとりぼっちでクスンクスン泣いていました。
「もうボクはずっとつぼをかぶったまんまなんだろうなぁ。いたずらばっかりしてたからなんだ、きっと…。」
涙をふきたくても、頭はつぼの中。
ガウはぐすぐすと鼻をならします。
そうすると。
「いたぞー!こっちだー!」
遠くから多くのひとの声が聞こえてきます。
「あぅ…。」
ガウはどうすることもできなくて、道のはしっこで頭をかかえて、ぶるぶるふるえていました。
「ガウくん!」
ふるえているガウにチコの声がとどきました。
「チコちゃん!」
「ごめんね、おそくなってごめんねガウくん。村のひとたちをよんできたよ。」 
「さてと、話は後にしよう。こいつか。どれ、ちょっと引っ張ってみるぞ。」
おとなたちが、うーん、と引っ張ってもつぼは全くぬけてくれません。
「こりゃあつぼを割るしかないかもなぁ…。」
村びとのひとりが弱ったように言います。
「ええっ。」
チコはつぼが大切なものだと家で聞きました。
ガウも、つぼが大切なものであることは感じています。
「うーん…。しかたねぇ。ぼうず、ちょっとじっとしてな。」
おとなたちがノミをしんちょうにつぼにあてていきました。
ガウは何が何だか分からず、ただただおとなしくちぢこまっています。
カン、カン、カン、カン。
磁器のきれいな音がひびいた後に。
ピシッ、パァァン。
満月に照らされたまあるいかげから、ぴょこんっと大きな耳が立ちました。
「あ!取れた!」
チコが大きな声で、手を叩きます。
「おお!取れた取れた!」
村びとたちもうれしそうに言いました。
ガウは、しばらくポカーンとしていましたが、自分の鼻をさわると。
「取れた…。」
小さく一言つぶやきました。
「よかったなぁ取れて。」
村びとの一人に肩をたたかれたガウは、そのとたんに。
「えーん、えーん。」
また、泣き出してしまいました。
「ごめんなさい。ごめんなさい。大事なつぼなのに、ボクがいたずらしたせいで。」
ガウの言葉を聞いた村びとたちは、おたがいの顔を見ながら。
「あ。そういやわっちまったな…。」
「収穫祭には、使えないわねぇ。」
チコは、ガウといっしょに村のひとたちに頭を下げながらあやまりました。
「ごめんなさい。ごめんなさい。もうこんないたずらしないから、本当に、ごめんなさい。」
ガウも泣きながらあやまります。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。」
ふたりの小さな子どもを前にして、おとなたちは苦笑しました。
「もう、いいんだよ。」
「そう。そもそも、私たちにもわるいところがあったのかもしれない。」
「ひょっとしたら、子どもたちのことをしっかり見ていなさいって意味だったのかもしれないなぁ、今夜のことは。」
「さあ、もうおそい。今夜は村にとまりなさい。」
涙をふきふき、ガウは手をひかれながら村へと歩いていきます。
となりには、満月に照らされて真っ白な毛をキラキラさせたチコが歩いています。
村へつながる一本道を、村びとと、チコと、ガウのかげがならんで歩いています。

みんなが歩きさって行った後には、満月に照らされた空色の青磁のかけらがキラキラキラキラとかがやいているのでした。

松田辰徳「風の谷」

 「いってくるよ、おばあさん」
朝ごはんを食べ終えると、ぼくは村の広場に向かう集会所に向かう。戸口から外へ出ると、谷の岸壁と向き合うことになる。
この村は谷の中にある。谷には風が吹いている。ぼくが生まれきてからずっとだ。この村では風がやんだことがないそうだ。村の人たちは風の声を聞いて暮しいている。風の声を聞けば、だいたいの時刻がわかるし、その日の天気のことまでわかってしまう。そして風はやさしく語りかけてくれるので心地よい。
集会所の座敷では午前中の間、村の子どもたち数人が勉強をすることになっている。字の読み書きや、簡単な計算の仕方などを習う。勉強を教えてくれるのはサワムラさんという若い男の人で、ほっそりとして背が高いもの静かな人だ。でも、もの静かなのはサワムラさんだけじゃなく、村の人たちはみんなも同じだ。村の人たちはあまりしゃべらない。というより、必要なことしか口にしない。それはとてもさびしいことだよ、とぼくのおばあさんは言っているけれど、村の人たちはそんなふうには見えない。みんな風の声と語り合うだけで、村の人たち同士で語り合ったりはしない。
集会所に着き座敷に入ると、ぼく以外のみんながそろっていた。
「遅れちゃったかな」とぼくはすまなそうに言った。
「早くすわりなさい、シカゾウ」とサワムラさんが言った。とてもやさしい言い方だ。
ぼくはあまり風の声を聞きとれないから、時間がわからなくて遅刻してしまうことが多い。サワムラさんはそれを知っているから大目に見てくれるのだ。
「シカゾウは耳が悪いからな」とサブロウがサワムラさんに聞こえないように言った。他の子たちもにやにやして、ぼくのほうを見た。ぼくはサブロウをきっとにらむと、机の前のざぶとんに座った。サブロウはいつも風の声をうまく聞くことができないことを「耳が悪い」といってからかうのだ。
「何か言いたいことでもあるのか、サブロウ」とサワムラさんはきびしい口調で言った。ぼくはサブロウの方に、いやみな笑いをうかべると、勉強を始めた。

集会所での勉強が終わると、ぼくは、おばあさんの待っている家に急いで帰った。
「ただいま」
「おかえりよ」おばあさんは昼ごはんを作っていた。
「またサブロウがぼくの耳が悪いといったよ」とぼくは言った。
「あの子はいつもおまえをからかうね。あの年ごろになれば、村の子どもはそんな余計なことを言わないものだけどね。」
 たしかに、サブロウさんは他の子たちよりもおしゃべりだ。
「おまえはサブロウのこと好きかい」
「あんまり好きじゃないよ」
「じゃあ、他の子たちよりは好きかい」とおばあさんは聞いた。
ぼくはちょっとだけ考えてから、答えた。
「他の子たちよりは好きかもしれない」
「昼ごはんの時間だよ」と、おばあさんはうれしそうに言った。

明くる日の朝のことだ。ぼくは目が覚めてからしばらくして、とても落ち着かない気持ちになっていることに気付いた。胸の中にぽっかりと穴が空いてしまったようだった。おばあさんはまだ寝ていた。
家の外に出ると、村の人たちがおおぜいいた。みんな空を見上げたり、谷を見渡したりしていて、落ち着かない様子だった。井戸のそばにサワムラさんがいたので、ぼくはその方まで駆けて行った。
「いったいどうしちゃったのかな。ぼく、なんだか変な気持ちでそわそわしてしまうし、みんなもそんなふうに見える」とぼくは言った。
「気付かないのかい。風はやんでしまったんだよ」とサワムラさんは言った。そう言われてからはじめてぼくは風が吹いていないことに気付いた。はずかしい気持ちだった。ぼくはうなずいてから、なぜなんだろう、とたずねた。
「わからない」サワムラさんはそう言って空を見上げた。村がとても静かなことにぼくは気づいた。サワムラさんは続けた。
「みんなどうしたらいいかわからないんだ。この村の活動は、風の声をたよりにしていたからね」
 ぼくは村をぐるりと見まわしてから、その静けさに聞き入った。
「わたしたちは話し合わなくてはいけないようだ」サワムラさんはひとりごとのように言った。
 家にもどると、おばあさんは起きていて、朝ごはんのしたくをしていた。
「おばあさん、風がやんでしまったよ」
「そうみたいだね」おばあさんはみんなと違って、とても落ち着いているように見えた。いつもどおりのおばあさんだった。
「水をくんできてくれよ。もうその時間だよ」とおばあさんは言った。
 毎朝、岩場の清水をくんでくることはぼくの日課だった。おばあさんは井戸の水ではなく岩場の清水を使った。その方が体にいいのだそうだ。ぼくはその仕事があることをすっかり忘れていた。風がやんでしまったせいかもしれない。
 岩場は村から十五分程度歩いたところにあった。水をくみに行くために村の中を歩いていくと、大人たちは、ただぼうっとしていたり、ひとことふたこと短い会話をしたりしていた。村の飼い犬や牛たちは元気がなく、さびしそうに見えた。
 岩場の水をくんで村に戻ってくると、大人たちの姿はなくなっていた。村の広場まで行くと、広場のはしにある集会所に人が集まっているのがわかった。大人たちは風がやんでしまったことについて話し合っているのだろう。
 ぼくは家に戻り、水を桶に移して、朝ごはんが出来上がるのを待った。
 風が吹かない村にいるとさびしいように思えた。でも家でおばあさんと一緒にいると、あまりさびしくはなかった。おばあさんがいつものように語りつづけてくれたからだ。結局、いつもと同じようにぼくはこの日をすごした。
 次の日、村の広場には日時計ができていた。

 風が吹かなくなり、村の新しい生活が始まった。
 村の人たちは風が今までやってくれていたことをおぎないながら暮らしていかなくてはならなかった。時刻を知るというのもその一つで、村の人たちは時間を知るのに日時計を見に行かなければならなかった。だけど大人たちはなんだか気まずそうに日時計を見るのだった。時刻を知らない人は、知っている人に聞く。村のみんなは、前よりも言葉を交わすことが多くなった。そのようにして数週間かが過ぎた。
 ある日、ある一家が村から出て行ってしまった。ぼくたちはみんなで彼らを送り出した。村のみんなはどこか気まずそうだった。その一家がいなくなってさみしい、という感じはしなかった。
 ぼくらは彼らがいってしまうと、集会所へ向かうサワムラさんをつかまえて話しかけた。
「なんであの人たちは出て行ってしまったの」
「町で暮らすことに決めたからだよ。町にはここにはない便利なものがたくさんあるんだ」
「でも村の人たちは町がいやでこっちに移ってきたんじゃないの」
「おばあさんがそう言っていたのかい」
「うん」
「それは本当だよ。この村をつくった人たちはもともとは町の人だった。彼らはここによりよく生活するための場所を見つけたんだ」
そう言うとサワムラさんは空をあおぎ、目を細めてからぼくを見た。
「でも今はちがう」

 それから数日後、ほかの一家が村を出て行った。そこからはあっという間だった。日に日に村の人の数は少なくなっていった。そしてサブロウの一家も村を出ていくことになった。
 ぼくはサブロウの家まで走って行った。サブロウはさっきまで泣いていたらしく、目をはらして出てきた。
「町へ行ってしまうのか」
「ああ」
「なんでなんだい。なんでみんな町へ行ってしまうんだい。」
「ここよりももっと暮らしやすくなるから、ってお父さんもお母さんも言ってる」
「そんなのおかしい。前はみんなそんなこと言わなかった」
「おれだってそう思うよ。別に村で今までみたいに村で暮らしていたい」
「なんでみんな変わってしまったんだろう」とぼくはサブロウに聞いた。でもそんなことは自分でもわかっていた。
「風が吹かなくなってしまったからに決まってるじゃないか」サブロウはぶっきらぼうに言った。

 翌朝サブロウの一家が出て行ってしまった。その日の勉強会が終わると、サワムラさんがぼくに声をかけた。
 集会所の広場まで来ると、サワムラさんは話しをきりだした。
 「シカゾウ。村の人たちどんどん減っていく。これかれも減り続けるだろう。そうなると村で生活することはむずかしくなる。だから、大人たちの話し合いで、近いうちに村の者全員でどこかに移り住むことに決めたんだ。おばあさんにそう伝えてくれないか」
 ぼくは急いで家に帰ると、おばあさんにサワムラさんの言ったことを伝えた。
「その必要はないよ」とおばあさんは言った。「わたしは移り住むつもりはないよ。もうこんな年だからね。今からは新しいところで新しい生活をはじめようなんて思わない。わたしとお前だけでも生きていくことはできる。それだけの食糧なら田畑を耕せばなんとかなる。日持ちのするものは冬のためにたくわえておく。それで大丈夫だよ」
「わかった。出ていかないんだね」
「お前も村を出てきたいっていうんなら勝手におしよ。私は止めないよ」
「出ていかないよ。ぼくも村で暮らす」
 ぼくが広場に戻ると、サワムラさんはまだそこにいた。
「出ていかない。おばさんもぼくも」
「やっぱりか」とサワムラさんはあきれたように言った。
サワムラさんは何か考えているようだった。そしてこう言った。
「私たちはきっとさびしくなってしまったんだ。風が吹かなくなってから、わたしたちはよく話すようになった。なのになんだかものたりないような気がする。ぼくらが言葉にできることがこんなにも少ないとは思わなかったよ。あまりに今まで言葉を使うことをしなかったら、ぼくらはその使い方を忘れてしまったのかもしれないね。」
 ぼくはなんでサワムラさんが急にそんなことを言いだしたんだろうと思った。だけど、きっととても大事なことを言おうとしていることはなんとなくわかった。
「風が吹いているころは、ぼくらはなんだか通じ合っているような気がしていたんだけどね。」

 ぼくとおばあさんを残して、村からは誰もいなくなってしまった。おばあさんは、まだまだ元気だ。ぼくは毎日、朝から晩まで畑で働いている。家に帰るころには、くたくたになっていて、おばあさんのつくったご飯を食べるとすぐにうとうととしだす。おばあさんはそんなにぼく話をしてくれる。ぼくはそれを聞いていると、疲れがとれていく気がするのだけど、気付かないうちに眠ってしまう。ぼぅーとしながら聞いているせいか、それが何の話だったかよく覚えていないのだけれど。

大内直也「窓際の少女」

<第一場面>
 「・・・魔法が使えるんだ。」
こだまは確かにそう言った。入学式のあとのことだった。
 わたしはこの4月から、実家を離れ、大学に通う、現在18歳。入学式や時間割決めなどの面倒事が一通り終わり、6月にもなると、みんなグループというものを作り、一様にキャンパスライフを楽しんでいた。ただ一人、こだまを除いて。
 彼女はどこか変わった子だった。背丈は大学生としてはかなり低く、すごく痩せていた。さわやかなショートヘアとは対照的に、着ている服はいつもモノトーンで、ただでさえ薄い存在を、さらに薄いものへとしていった。恥ずかしがり屋なのか、誰かに話しかけられても、すぐにうつむいてしまい、「うん、うん。」と
言うだけだった。いつも窓際で本を読んでばかりいる彼女に、声をかける人は次第に減っていった。
 なんでわたしはあの子が気になってまうんやろ。
 わたしは毎日、こだまがいつもの席に座っていることを確認してから席に着いている。無意識のうちのことなのだが、やはり、心のどこかであの時の言葉が気になっているのだろう。入学式の時、たまたま隣に座っていた女の子に自己紹介をした。とても嬉しそうな顔をしたその子が、少し恥ずかしそうに言った言葉。

<第二場面>
 季節が廻るのは早いもので、もう冬になっていた。
 その日は特別だった。朝から試験が4つも続き、昼過ぎからはクラブ活動も、昨夜からの徹夜がたたりミスを連発。そしてその後、すぐさま夜までアルバイト・・・。不眠不休の活動で、もはや私の体は限界を超えていた。家に帰ったときには、夜中の1時をまわっていた。
 わたしはベッドで考え事をしている。
 今日はほんまに疲れたなあ。あぁ、おなかすいたわ。あれ、そういやごはん食べたっけ?確かフライパンに油引いて、火つけて、お肉を・・・そっから覚えてないわ。あかんなあ。
 ものの焼ける臭いで目が覚めた。外からはサイレンの音が聞こえる。わたしは炎の壁を見た。同時にもう助からないこともわかった。
 涙さえ出なかった。
 あぁ、こんなんやったら、夜食なんか作らんかったらよかったわ。いや、バイト入れたんがあかんかったかな。それやったらそもそも・・・。
 無限に連鎖する後悔。目の前の炎。黒い煙にわたしは最期を覚悟した。気を失う前の一瞬、すぐ後ろから声が聞こえた気がした。そして優しく抱きかかえらたような・・。

<第3場面>
 次に気がついた時、わたしは病院のベッドにいた。周りには実家からかけつけた家族や大学の友達などの姿があった。
 とても大きな火事だったそうだ。ただ、逃げ遅れたという人がなかったことが、不幸中の幸いだった。
 3日もするとわたしは退院することができ、今日はちょっと久しぶりの学校。教室につくと、たくさんの友達が心配してくれて、わたしの周りは、もはや誰がしゃべっているのかが分からないくらいに騒がしかった。一瞬、人ごみの隙間からこだまがこっちを見ているのが見えた。「おはよう」と言っているのが、その口の動きからわかった。
 あの子から話しかけてくるやなんて、珍しいこともあるもんやなあ。
 だが次の瞬間、周りの音が何も聞こえなくなった。こだまは両手に火傷を負っていたのだ。5日前の火事と、こだまの火傷が関係しているなんて証拠は何もない。それでも・・・。
 私は、彼女の手から目が離せなかった。「・・・魔法がつかえるんだ。」という言葉が、頭の中をぐるぐると回り続けた。

山中大輔「お母さんなんて大きらい!」

≪第一場面≫

「お母さん大好き。」
 
そんな言葉、言ったことないな。
仲良しそうにお母さんと手をつないで歩いている女の子の声を聞いて、ケンちゃんはそんなことを思いました。

そんなの言いたくないけど。

ケンちゃんは今、家に帰る途中でした。でも足取りは重たく、日はもう傾き始めているのに、なかなか家にはたどりつけません。

ケンちゃんは今日、公園で、いつも一緒に遊んでいる友達とケンカしました。

遊びに誘われて、公園に行くときは、あんなに早く家を飛び出して、あんなに早くたどりついたのに。どうして今は家がこんなに遠く感じるのでしょう。

ようやく家にたどりついたころ、外はもう夕暮れでした。

家の重たいドアを開け、薄暗い廊下を歩き、自分の部屋に入ろうとしたときです。
「何時だとおもってるの!」
お母さんが顔を真っ赤にしてこちらにむかってきました。

お母さんは、「家に帰るのが遅い。」だの、「遊びに行くときは部屋をかたづけなさい。」だの、がみがみ言います。

いつもそうです。 もうお母さんの声を聞くのも嫌になってきました。

「お母さんなんて大きらい!」

ケンちゃんは誰のことも見ずにそう言って、部屋に入りました。その時お母さんがどんな顔をしたかなんて知りません。

バタンとドアを閉めて部屋をぼぅと眺めているうちに、ケンちゃんはなんだか立っているのもいやになりました。

≪第二場面≫

どれくらい時間が経ったでしょう。ケンちゃんはあれからずっとベットの上で天井を眺めています。

部屋はだんだんと薄暗くなってきました。

ふと窓に目をやると、同じクラスのユウ君が自分ちの前を歩いているのが見えました。隣には、いつも優しそうなユウ君のお母さんが笑っています。夕焼けに照らされたユウ君の顔はとってもとっても楽しそうで、なんだかとても悔しくなりました。

「ユウくんのお母さんはあんなにいつも優しそうなのに。」
「どうして僕のお母さんはいっつもああやって僕をしかるのかな。」

そう考えると、ますますお母さんのことが嫌いになってきます。

「お母さんなんか大きらい。」
さっきお母さんに大声で言った言葉が、まだ耳に残って、ケンちゃんの頭の中をぐるぐるしています。

「きっとお母さんは僕のことがきらいなんだ。」
「だから僕もお母さんが大きらいなんだ。」
頭の中はまだぐるぐるしています。

部屋の中は一段と薄暗くなってきました。

「僕なんか生まれてこなかったらよかったんだ。」
ケンちゃんは、暗くて天井が見えないのか、涙で天井が見えないのか、もうわからなくなりました。

涙はいつまでもあふれてきます。

もう何もかもが見えなくなってしまったケンちゃんは、気づくと押入れの中でした。

押入れはケンちゃんが一番安心できるところです。何も見えないから、自分が泣いてることもわからない。悲しくなったときはいつもここで泣いています。

でも、今日は、いつもは気づかないことに気づきました。
押入れの隅に小さなぼろぼろのノートがあったのです。

「なんだろう。」

外に出て、見てみると、そこにはケンちゃんの小さいときの写真と、いっぱいのお母さんの言葉が書かれていました。めくってもめくってもそこにはケンちゃんの写真と、いっぱいのお母さんの言葉がありました。

ノートにはケンちゃんの読めない字がたくさんあります。でも、ケンちゃんはそのノートをぎゅっとぎゅっと抱きしめました。

今まで暗いところにいたからか、自分の部屋がさっきより明るく感じます。ケンちゃんの頭はもうぐるぐるしていません。

そして、部屋を飛び出しました!!

≪第3場面≫

リビングに入ったとき、ケンちゃんは明るさで一瞬目がくらみました。外はもう真っ暗で電気をつけなければいけない時間になっていたようです。

ゆっくり周りを見渡すと、そこはすっかり片付いていて、いつもどうりのきれいなリビングでした。

さっきまで散らかっていたケンちゃんのおもちゃは、もうどこにも見当たりません。ケンちゃんが部屋にこもってる間に、お母さんが片付けてくれたのでしょう。

お母さんはこっちに背中を向けて、台所で夕食の準備をしています。

「おかあさん。」

ケンちゃんは少しドキドキしながら呼びかけました。ケンちゃんの胸はお母さんのことでいっぱいです。

ケンちゃんはじっとお母さんのほうを見つめました。

お母さんの後ろ姿は、少し驚いたようにも見えました。

「おかたづけのできない子は、もううちの子じゃありません。」

お母さんは静かにそう言って、いままでと変わらない様子で夕食の準備を続けました。

お母さんの声が聞こえなかったのか、ケンちゃんはまだお母さんの背中をじっと眺めています。

志水雪菜「ひまわり」

大きな大きな都会の路地に、弱虫で臆病なネズミのルーが住んでいました。
ルーはおじいさんのロンじいちゃんと二人暮らしです。ルーはロンじいちゃんのことが大好きでした。毎日ひとつ、ロンじいちゃんのお話を聞くのがルーの楽しみでした。
ところがある日、ロンじいちゃんが病気になってしまったのです。
「ルーや、今日は何の話をしようかのう。」
病気になったにもかかわらず、ロンじいちゃんはルーにやさしくこう言ってくれました。
「お話なんていいよ。それより、はやく元気になって。」
ルーは泣きそうになりました。
「それじゃあ今日は、ひとつ、元気になれる話をしようかの。むかーしむかし、まだわしがルーのような子ネズミだったときのことじゃ。そのころはまだ、今わしらが住んでおるところは、きれいな水と、きれいな緑のある場所じゃった。ある日、わしは兄弟たちと探検にでかけた。広い緑の中の探検は、それはそれはわくわくするものじゃった。ところが、わしは一匹のちょうちょに気をとられて、追いかけているうちに兄弟たちとはぐれてしまった。ここはどこだろう。わしは生まれて初めて、たった一人で緑の中を探検することになってしまった。兄弟たちをみつけなきゃ。そう思ってどんどん緑の中を進んでいくと、なんと目の前にキラキラと金色に輝く光が見えたのじゃ。一体何だろう。わしはおそるおそる近づいた。目の前に広がったのは無数の花じゃった。キラキラと金色に輝くその花は、まるで太陽のように美しく、わしは兄弟たちに見せてやりたいと思った。兄弟たちを見つけて、その場所に連れて行こうとしたが、とうとうたどり着くことができなかった。あとにも先にも、あれほどの美しい花を見たことはない。あれは幻だったのかと思うほどじゃ。できることなら、あの太陽の花を、もう一度見たいものじゃなあ。」
太陽の花をロンじいちゃんに見せてあげたい。ルーは強く思いました。また、自分も太陽の花を見てみたいと。しかし、ルーは不安でした。臆病で弱虫な自分が、たった一人で太陽の花を見つけることなんてできるのだろうか。でも、迷っている暇なんてありません。ルーはロンじいちゃんに、心配をかけないよう、手紙を書いてから家を飛び出しました。
待っててね、ロンじいちゃん。ぼくがきっと、太陽の花を見つけてきてあげるから。」
ルーは走り出しました。小さな小さな体で、大きな都会の大きな道を。夜の街はキラキラ光り、たくさんの人がにぎわい、おいしそうなにおいがどこからともなくただよってきます。
「ぼくの街はこんなにもきれいだったんだ。」
弱虫なルーは、初めて自分の街を見たのです。いつもは自分の家の近くの小さな路地と、路地を出たところの空地が、ルーの生活場所でした。
「すごいなぁ。」
キョロキョロと街の様子を見ていると、突然、大きな怪物が目の前に現れました。自動車です。ルーは驚いてとび跳ね、急いで脇道に逃げました。するとそこには、一匹のハエが歌いながらダンスをしていました。ルーは思い切って話しかけました。
「どうもこんばんは。僕の名前はルー。聞きたいことがあるんだけど。」
ハエは気にもとめず、ダンスをし続けています。
「あのう、太陽の花、どこにあるか知らない?」
「太陽の花だって?」
ハエは大きな目をこちらへ向けてきました。
「そう、太陽の花。どうしても、太陽の花が必要なんだ。君なら、立派な羽を持っているから、いろいろなところへ飛んでゆけるでしょう?どこかで、太陽の花を見なかった?」
ハエは、立派な羽と言われたことに満足し、羽を少しふるわせてから言いました。
「太陽の花はここらにはないよ。もっと遠い遠いところにあるんだ。太陽の花は、こんな道路やビルだらけのところには咲かない。きれいな水と緑がある中で、それはそれは大きくて美しい花を咲かせるのさ。」
「太陽の花って、そんなにもきれいなの?」
ルーは聞きました。
「あぁ、きれいだとも。行ってみるといいよ。でも、すごくすごく遠いよ。ここからずーっと南へ行ったところに、太陽の花の花畑があったはずさ。」
ルーはお礼を言うと、南に向かって走り出しました。きれいな水と緑、その中で咲く太陽の花はどんなにきれいでしょう。見たことのない太陽の花を思い浮かべながら、ルーは一人で見知らぬ土地へと向かいます。街のキラキラした光は遠ざかり、辺りは真っ暗になりました。暗い道や物音は、ルーの心を弱くします。
「ロンじいちゃんに太陽の花を見せてあげるんだ。」
大好きなロンじいちゃんのことを考えると、ルーは力がわいてくるような気がしました。
 どのくらい走り続けたのでしょう。辺りはだんだん明るくなってきました。ルーはふと、
「草のにおいだ。それに、空気がおいしい。」
と気づきました。いつのまにか、かなり遠くの土地まで来ていたようです。小鳥のさえずりが聞こえてきます。
「よし、もう少しだ。きっとこの近くに、太陽の花があるはずだ。」
一晩中走り続けたからでしょう。ルーの体は疲れきっていました。ルーは川のせせらぎを見つけたので、少し休むことにしました。川の水を一口飲むと、その水のおいしいことといったら、たとえようがありません。澄んだ水は、ルーの体をいやしてくれました。がんばる力がわいてきて、ルーはまた走り始めました。と、その時です。
「見ない顔ね。何をしているの?」
一羽の小鳥がルーに話しかけてきました。
「やぁ。ぼくの名前はルー。太陽の花を探してるんだ。君、太陽の花、どこにあるか知らない?」
「太陽の花ね。太陽の花なら、私知っているわ。でも…あなたじゃとても持って帰れないと思うけど。この先をまっすぐ行ったところに、大きな松の木が一本あるの。その先に、それはそれはきれいな太陽の花の花畑があるわ。」
ルーは小鳥にお礼を言うと、また走りだしました。大きな松の木に到着したその時です。朝日で輝く金色のじゅうたんが目の前に広がりました。
「うわぁ。」
ルーは太陽の花の花畑に着いたのです。初めて見る太陽の花はとても美しく、まさに太陽のようでした。
疲れ切っていたはずのルーの体は、その美しい光景を見ると、一瞬にして元気になりました。
「なんてきれいなんだろう。」
ルーはため息が出るほどうっとりしました。
「よし、花畑におりてみよう。」
ルーはロンじいちゃんに太陽の花を持って帰ってあげようと、花畑に近づきました。
ところが、近づくにつれて、どんどん大きくなる太陽の花。
花のもとまでくると、ルーはその大きさに圧倒されてしまいました。なんと、ルーの体は葉っぱ一枚と同じくらいで、太陽の花の丈は、ルーの体の20倍ほどだったのです。
「これじゃ持って帰れないよ。どうしよう。」
ルーは泣きそうになりながら、途方にくれました。
「種をもらえばいいじゃない。」
急に誰かが声をかけてきました。声の主の姿は見えません。
「だれ?」
ルーは周りをキョロキョロ見わたしました。
「上を見てよ。」
ルーは上を見ましたが、見えるのは花ばかりです。
「太陽の花がしゃべってる!!」
ルーが驚いたその時、一匹のチョウがひらひらと舞い降りてきました。
「花がしゃべったんじゃないわ。わたしよ。おもしろいわね。」
声の主はチョウでした。チョウの羽の色も、太陽の花と同じくらい美しい黄色だったので、すぐには見えなかったのです。
「あぁ、さっきの声は君だったの。はじめまして、ぼくの名前はルー。太陽の花を探してここまで来たんだ。やっとみつけることができたんだけど…。」
「大きすぎてあなたじゃ持って帰れそうにない。」
「そうなんだ。ロンじいちゃんにどうしても見せてあげたいのに。」
ルーはしょんぼりとしました。
「さっき言ったでしょう。種をもらえばいいじゃないって。」
「種?…そうか、種を持って帰って、育てればいいんだ!でも、僕の街で出会ったハエさんが言ってたよ。僕の街みたいなところに太陽の花は咲かないって…。」
「そんなの。やってみないとわからないじゃない。」
チョウに言われて、それもそうだと思ったルーは種を持って帰ることにしました。
「ひとつだけ、種をもらうね。」
太陽の花にそう言ってから、ルーは種を一つだけもらいました。太陽の花はキラキラと輝いていて、ルーは花がどうぞと言っているような気がしました。
ルーはチョウと太陽の花にお礼を言ってから、家に向かって走り出しました。
長い長い道を走り続けると、ついにルーの街が見えてきました。
もうすっかり夜です。街のキラキラした光がだんだんと近づいてきます。
「あともう少しでおうちだ。」
早くロンじいちゃんに会いたくて、自然と走るスピードが速くなりました。
見慣れた小さな路地をぬけ、やっとおうちに着いたルーは、ロンじいちゃんの胸に飛び込みました。
「ただいま、ろんじいちゃん!」
ロンじいちゃんはやさしく迎えてくれました。
「いったいどこに行っていたんじゃ。心配したぞ。」
「ごめんなさい。ぼく、冒険をしてきたんだ!そして、ロンじいちゃんの言っていた、太陽の花をみつけたんだ!」
ルーは興奮しながら話しました。ルーの街はとてもきれいなこと、緑の中の川の水のおいしかったこと、そして、太陽の花のうつくしかったこと!
「ロンじいちゃんの見た太陽の花の花畑は、きっと幻なんかじゃないよ。ぼくもこの目で見たんだ。でも、持って帰るには花は大きすぎて、ぼくは小さすぎたの。だから、太陽の花の種をひとつだけもらったんだ。こんなところじゃ咲かないって、ハエさんは言っていたけれど、ぼくは育てて、きっとロンじいちゃんに太陽の花をみせてあげる!」
ロンじいちゃんは、うれしそうにルーの話を聞いていました。
ルーは種を家の近くの空き地に植えました。毎日欠かさず水をやり、愛情たっぷり丁寧に育てました。
月日が経ち、太陽の花は、茎がどんどん伸びてつぼみをつけました。
そしてある日、大きな大きな花を咲かせたのです。ルーが見た太陽の花のどれよりも大きく、キラキラと金色に輝いていました。
「咲いた。太陽の花が、僕の街でも咲いた!」
ルーはロンじいちゃんに見せてあげました。
「なんときれいな…。こんなにも美しい花を見たのは初めてじゃ。ルーや、ありがとうよ。」
太陽の花を見たロンじいちゃんは、ずいぶん体調が良くなりました。太陽の花の美しさが、ロンじいちゃんの病気を治してしまったのです。
花からはたくさんの種を取ることができました。ルーはそれをひとつずつ丁寧に空地に埋めました。
翌年、大きな大きな都会の中に、太陽の花の花畑が生まれました。
小さな小さなネズミのルーは、すこし大きくなりました。

大波聖子「ぼくはねこ」

ぼくはねこ。商店街に住んでるんだ。決まった家はないから色んなところでご飯をもらったり寝たりして生活してるんだ。
 魚屋の前をわざとゆっくり歩いていると魚屋のおかみさんが「ねこちゃん」と僕を呼んで、小さなアジを放ってくれた。くわえて路地に入ろうとしたら果物屋の店先にいた幼稚園児に「にゃんこ」と呼ばれた。駄菓子屋さんの脇で寝ていると小学生の男の子に「おい!これやる」と言ってするめをもらった。ぼくはほんとうに色んな名前がある。というかもしかしたらぼくには名前がないのかもしれない。角のたばこ屋の黒ネコには「クロちゃん」っていう名前があるらしい。たばこを買いに来るおじさんたちみんなにそう呼ばれているしたぶん黒ネコの飼い主であろうたばこ屋のおばあちゃん、おじいちゃんにそう呼ばれているからあいつはクロちゃんって名前なんだろう。
 ある日ぼくは商店街をぬけだしてみることにした。もうここには生まれたときからいるし商店街のほかにもっといい所があるんじゃないかって思ったからだ。商店街の外はとってもみりょくてきな所だった。木がいっぱいの公園とかマンションがいくつもならんでる所とか、魚が泳いでいる川とか、なんにもない空地とか、本当に色んな所があった。ぼくはそのなかでもすべり台と、すな場とブランコと鉄ぼうだけの公園が気に入った。なぜならほかにねこが先に住んでいなかったからだ。この公園を見つけたこの日からぼくはここに住み始めた。とっても住みやすくてぼくは大満足だった。
 住み始めてから何日かたったある日、女の子が一人やってきた。この公園は小さいからここら辺の小学生はちょっと遠くにあるアスレチックとがある大きい公園に行く。だからぼくはめずらしいなぁと思いながら女の子を見ていた。女の子はずうっと鉄棒をしている。鉄棒でしか遊んでいない。何か練習しているみたいだけど全然だめだった。その日、女の子は五時になると帰って行った。次日もそのまた次の日も女の子はやってきた。でもやっぱり女の子は練習してることができないみたいだった。ぼくは毎日女の子のことをすべり台のかげから応援した。ある日も女の子はきた。というか毎日来ている。その日も女の子は鉄棒の練習をしていた。いつもより練習を早く終わったかと思うと、女の子はぼくの方に近づいてきた。そして、ぼくに向かって「にゃんすけ、いつもわたしのこと見てるよね。わたし、クラスで一人だけさかあがりができないんだ。だから毎日練習してるの。むこうの大きい公園はみんながいるからはずかしいからね。にゃんすけがいつも見てくれてるからあみ毎日練習できるんだよ。」ぼくは「にゃんすけ」と名付けられたようだ。なかなか悪くはないかも。初めて名前というものがついたらしくてなんだかこころがくすぐったい感じがしたけれど、ぼくは「にゃんすけ」という名前がすぐに気に入った。そしてにゃーんといいながら女の子にすりよった。「にゃんすけ応援してくれるの!ありがとう。これあげる。」そういって女の子はぼくにパンをくれた。「給食の残りなんだ。持って帰るとお母さんに怒られるから。『しっかり食べないからさかあがりもできないんだ』って。」ぼくはとってもおなかがすいていたからとってもうれしかった。「それじゃそろそろ帰るね。」といってあみちゃんというらしい女の子は帰って行った。次の日もその次の日も毎日毎日あみちゃんは来た。そして練習が終わるとあみちゃんはぼくに話しかけて色んな話をしてくれた。学校で男子とケンカしたこととかお父さんのこととか親友のりかちゃんのこととか。そしていつも給食の残りを持ってきてくれた。今日なんてあみちゃんのだいこうぶつのあげパンをぼくのために半分残してぼくに持ってきてくれた。初めてあみちゃんが公園に来た日から何日たった日だっただろう?きっと二週間くらいはたっていたと思う。その日もあみちゃんは学校帰りに公園にきてさかあがりの練習をしていた。何回も何回も練習したあと、ついにあみちゃんはくるっとさかあがりを成功させた。あみちゃんはじぶんでもびっくりしたのか直後はかたまっていたけどすぐにぼくのところに走ってきた。「にゃんすけ!さかあがりができたよ!」ぼくもほんとうにうれしくてあみちゃんにゴロゴロとのどをならしながらすりよった。「にゃんすけが毎日いてくれたおかげだよ。」あみちゃんはぼくにそう言ってくれた。「にゃんすけはわたしの親友だよ。」ぼくは親友のいみがわからなかったけどとってもいい意味なんだってことはわかった。ぼくはまたあみちゃんにすりよってじゃれた。それからあみちゃんは五時になるとスキップしながら帰って行った。

あみちゃんがさかあがりができるようになった次の日、あみちゃんは公園に来なかった。昨日さかあがりができるようになったから今日はおやすみかな、と思った。でもぼくはちょっとさみしかった。
 でも、その次の日もそのまた次の日も何日何日ももあみちゃんは公園にこなかった。ぼくはさみしくてさみしくて「にゃーんにゃーん」って毎日ないていた。あみちゃんが公園にこなくなってから何日かたった日、たしかこの日も雨だった。今日もあみちゃんは雨だしこないだろうなと思っていた。というかぼくはもうあみちゃんに会うことをあきらめていた。名前のないふつうののらねこにもどろうと思った。
 いつもどおりすべり台の下で寝ていると、花がらのカサをさした女の子が公園にやってきた。ただでさえ子供の少ない公園にしかもこんなにどしゃ降りの日に女の子が来るなんてめずらしい。ぼくはもしかしたらその女の子があみちゃんかもしれないとかすかな期待をもった。なぜならあみちゃんも花がらのカサをさしていたからだ。でも期待しないようにした。しかもあみちゃんのカサを見たのは一度だけでしかも雨上がりでたたんだカサだったからだ。それになにより会えなかったときがさみしいから。だからまたぼくは寝た。でものらねこの勘から誰かがぼくの前にいる気がしてぼくはパッと目を開けた。すると目の前に女の子がいた。女の子をよおうく見るとその女の子はあみちゃんだった。ぼくはびっくりした。でもぼくはうれしくてうれしくて「にゃーにゃーにゃー」とないた。あみちゃんはしゃがむと前のようにパンをぼくにくれた。今日はあげパンが丸まる一つだった。そしてあみちゃんはぼくにちぎってパンをあげながら静かな声でぼくにはなしはじめた。「あのね、にゃんすけ、わたしひっこすことになったの。ひっこすってわかる?遠い町に行ってしまうってことなんだ。でもわたしがおとなになったら絶対この町に帰ってくるから絶対まってて。にゃんすけ、約束だよ。」そう言うとあみちゃんは走って帰ってしまった。あみちゃんの顔は今日の天気みたいだった。ぼくは人間のことばの意味はあんまりわからないけど。あみちゃんともう会えなくなってしまうってことはわかった。その日からぼくは毎日毎日ないた。その日からというものぼくは何もする気が起きなくてずっとすべり台の下で寝ていた。食べ物を探しに行くのもやめた。すずめを追いかけるのもやめた。もうなにもかもやめたんだ。商店街にいたころの名前のない誰もきづいてくれないただののらねこに戻ったんだ。

久しぶりに晴れたある日、この日もぼくは最後ののあみちゃんの言葉を思い出し
て何もする気が起きないでいた。そしてかすかな期待を抱いて鉄棒の方を見てい
た。でもやっぱりあみちゃんは今日もこなかった。当たり前だ。あみちゃんは引
っ越してしまったんだから。ぼくはもう諦めてまたひと眠りすることにした。久
しぶりに天気がいいから今日は日当たりのいいベンチの上で寝た。日も暮れてき
たころ誰かがぼくの方に近づいてきた。うっすら目を開けてみるとそこにはあみ
ちゃんがいた。ぼくはびっくりして飛び起きた。「にゃんすけ!よかったぁ!ま
だこの公園にいてくれて。いつものところにいないからいなくなったのかと思っ
てびっくりしたよー」びっくりしたのはこっちだ。なんでもういないはずのあみ
ちゃんがここにいるんだ?!びっくりしているぼくを尻目にあみちゃんはこうふ
んしたまま「今日からにゃんすけはうちの子だよ!毎日にゃんすけのことを考え
ていたらお父さんとお母さんがにゃんすけも一緒に暮らそう。って言ってくれた
の。だから一緒にお家に帰ろう!」と言い放った。ぼくがまたまたびっくりして
固まっているとあみちゃんは「にゃんすけ、帰るよ!」とぼくをだっこして走り
だした。     
 その日いらいぼくはあみちゃんとずっと一緒に暮らしている。

島吏沙子「私とズーの大冒険」

私には、とっても大切にしている、クマのぬいぐるみのズーがいる。
 ズーは私の5歳の誕生日にやってきた。私とパパとママが、私のために買ってくれたの。一目見たときから、私はズーのことが大好きになったの。ズーは、それから毎日一緒に私と寝た。一緒に寝るときは、ズーに何でも話した。悲しかったこと、うれしかったこと、ママには言えないようなことも、全部話した。その日の出来事が、とっても悲しくても、ズーに話を聞いてもらうと、不思議と楽になった。友達とけんかしたときも、ズーに話をきいてもらうと、次の日には素直にあやまることができた。だから、ズーは私にとってかけがえのない存在なの。
 今日も、私はズーと一緒に寝るの。今日は、仲良しのともちゃんと仲直りできたことを報告しようと思っていた。いつものように、ズーに話しかけようと思った、その時。部屋の中が急に明るくなって、私は目がくらんだ。眩しくて、目があかない。ようやく、目が慣れてきて、光のほうを見ると、どうやら鏡の方が光っているらしい。よく見ると、人のようなものが鏡の奥から、だんだんこちらに近づいてきている。何がなんだが分からなかった。それでも、その人影は、私の方にどんどん近付いてくる。そして、とうとう目の前にやってきた。くっきりその姿が見えた。真黒な服に、真黒なとんがり帽子をかぶった、魔女だった。私は驚いて、眼をまん丸にしていると、その魔女がしゃべり始めた。「そのクマをこちらにわたしなさい。」どうやら、ズーを私からとりあげようとしているらしい。そんなこと、絶対にさせない。だって、ズーは私にとってかけがえのない存在なのだから。私が、ズーをぎゅっと抱いていると、魔女は、何か不思議な言葉を言った。ぽかんと、していると、魔女は「クマはもらった。」と言った。いつのまにかズーが魔女の手に握られていた。そして、魔女は足音もなく、すぅっと鏡のほうに行き始めたので、私はあわてて後を追った。何も考えていなかった。ただ、ズーがいなくなることが怖かった。無我夢中だった。
 鏡の中に飛び込んだ瞬間、また、さっきのまぶしい光に包まれて、私は目がくらんだ。気がつくと、そこはどこかの街のようだった。とてもきれいな街。でも、どこか不思議な街。どうやら、私は、魔女の後を追って鏡の世界に飛び込んでしまったようだ。「ズーを探さなきゃ。」私は、すぐにズーを探し始めた。
 しばらく歩いても、どこにも人影がない。おかしいな。そう思って、不安になり始めたとき、どこからか声が聞こえた。「君、どこの子?」すぐに振り返ったのに、だれもいない。あれ、おかしいな。空耳かなと思って、歩き出すと、また声が聞こえた。「おい、おい、無視はないやろ。」やっぱり、空耳じゃない。私がきょろきょろ辺りを見ていると、「ここだよ!!」と声がした。声の方を見ると、そこには小さなリスがいた。「あら、かわいいリスさん。」と、思わず言ってしまった。すると、「おい、なめてんのか。」とリスが言った。本当にこのかわいいリスが今の言葉を発したのだろうか。私が、リスの見た目と発した言葉とのギャップに驚いていると、リスはかまわずに話しだした。「自分、クマの人形探してるっちゅう、噂のお嬢さんやろ。どうせ、魔女にとられたんやろ。あいつほんま根性悪いわ。人が大切にしとるもんを奪い取ってコレクションするのが趣味やねんで。」「あなた、魔女のこと知っているの?」「あぁ、ここら辺では有名やもん。」「私、ズーのこと絶対に取り返したいの!」「ズーってクマのことかいな。そんなん、わざわざ魔女から取り換えさんでも、新しいクマの人形買ってもろぉたら、ええがな。」「ズーは私にとっては、かけがえのない存在なの!ズーじゃないとダメなの!それに、ともちゃんと仲直りできたことを、ズーにまだ報告できてないの!!」「・・・・そんなに言うなら・・・連れてったるけど、わしそんなに安くないからな。」とことん、かわいくないリスだな。そう思いながらも、他に頼れる人がいない。それに、本当はいい人なのかもしれないと、思い、「はい、お願いします!!」と、リスさんに道案内を頼むことにした。
 魔女の住んでいることころは、そう遠くなかった。「ここやで。」リスが指した先には、大きな館が建っていた。壁には、ツタが這っていて、館の周りだけ暗雲が立ち込めている。なんだか、不気味な様子だな。そう思いながら、大きな門を開けようとした、そのとき、「それじゃあ、わてはここで。」リスさんが突然、そう言って、去ろうとしたので、私は急いで止めた。「頼れる人があなたしかいないの!!」「え・・・ん〜・・・わては、人情にあついからなぁ〜・・・・そぉ言われると断られへんたちなんや。」といって、しぶしぶ私についてきてくれた。ほらね、やっぱりいい人だわ。いや、いいリスさんだわ。館に近づいていく途中も、リスさんは、ずっとぶつぶつ文句を言っていた。「わてが、たまたまいいやつやったからついてきたんやで。ホンマに・・・。」「わてかて、暇ちゃうっちゅーねん・・・。」でも、なんだかんだで最後までついてきてくれた。
 門から、館までは意外に遠かった。いよいよ館の前に到着した。中に入ると、「誰だ。」という声がどこからか聞こえた。私は、怖くなって縮こまりそうになった。でも、せっかくリスさんがここまでつれてきてくれたんだ、と思い、勇気を出して、精一杯大きな声で叫んだ。「ズーを返して!」「あぁ、いやだね。」「ズーはかけがえのない存在なの。他のクマじゃだめなの。ズーじゃないとだめなの。」私が、心から気持ちをこめてその言葉を言った瞬間、魔女が突然苦しみだした。魔女の手から、ズーが転げ落ちた。私が、急いでズーを抱えると、魔女の部屋の鏡がピカっと光始めた。「あそこに飛び込むんや!」と、リスが言った。「でも、リスさんは?」「わては、こっちの世界のもんや。そっちには行かれへん。自分に会えて、ホンマは嬉しかったで。わてにとって、自分は初めてのかけがえのない存在や。」「私も。リスさん本当にありがとう。」無我夢中で、鏡に向かって飛びこんだ。また、眩しくて目がくらんだ。
気づいたら、また部屋のベットの上にいた。「あれ?さっきのは夢だったのかな?」そう思った。でも、リスさんのことを思うと、今でも心がぽっとあったかくなるの。

辻井久美子「エンピツ」

「今日は言おう。」
今日は親友まやちゃんとのお別れの日。小さい頃からずっと仲が良かったまやちゃんにわたしは言わなければならないことがあった。
言うことができる期間は3か月もあった。それなのに、わたしはあのことをどうしても言えなかった。あの出来事から今日までの3ヵ月間、わたしは少しまやちゃんを避けるようになっていた。
そうする間に急にまやちゃんの転校が決まってしまい、ぎくしゃくしたまま今日という日を迎えてしまったのだ。
転校することを知っていればあんなことはしなかったのに・・・
わたしは後悔の気持ちでいっぱいだった。

3か月前。わたしはまやちゃんの家へ行った。まやちゃんは自分の大事にしているものをいろいろと見せてくれた。そのほとんどがわたしも持っているものだった。しかし突然、わたしは机の上のものに目がひきつけられた。それは、きらきらした珍しいエンピツだった。わたしはそれがほしくてしかたなかった。これを手にいれない限り、わたしはまやちゃんに負けているような気さえした。まやちゃんとゲームをしている時も、おしゃべりしている時も、何をしている時も、頭の中はそれでいっぱいだった。そして、部屋を出るとき、無意識にそのエンピツを持ってきてしまったのだ。その日1日、わたしはうきうきしていた。しかしその夜。おかあさんが部屋に入ってきて、そのエンピツを見て言った。「お友達から借りてるの?」それから毎日、そのエンピツはもうわたしにとってひきつけられるものではなくなった。わたしには罪悪感しかなかった。

まやちゃんがわたしを見つけ、嬉しそうに駆けてきた。そう、もうこれでお別れなのだ。まやちゃんの笑顔を見ていると、このまま言わないでおこうかという思いがうかんでくる。言えば軽蔑されるかもしれない。親友でいられなくなるかもしれない。
でも親友だからこそ言わなければならない、そうも思った。そしてまやちゃんの一言でわたしは後者を選んだ。「何があってもずっと親友だよ。」
「今日は言おう」わたしはきらきら輝くエンピツを後ろにぎゅっと握りまやちゃんのほうへ向かった。
「まやちゃん!!」わたしはぎゅっとエンピツを握り、どきどきしながら息を吸った。「あのね!これ・・・」わたしはエンピツを差し出した。それ以上何も言う事ができなかった。しばらく沈黙が続いた。重い空気が流れた。わたしはこわくてまやちゃんの顔を見ることもできなかった。言わなければ良かったとも思った。わたしは泣きそうになった。
その時だった。
「それ・・あげようと思ってたの。」
まやちゃんは笑顔でわたしに言った。わたしはまやちゃんの優しさで胸がしめつけられた。
「まやちゃん・・・ありがとう」

宇佐美みゆき「おねえちゃんなんか大っきらい!」

「おねえちゃーん!」
 今日もゆかちゃんはばたん、と家のドアを閉めるなり、ぱたぱた階段を上りながらそうさけびました。
 ゆかちゃんは小学校二年生です。去年よりも友達もたくさんでき、ずっと学校が楽しくなりました。今日だって、学校から帰ってきてから、お友達のちなちゃんとゆきちゃんと近くの公園へ遊びに行っていたのです。今日一日、楽しいことがたくさんありました。
「おーねーえーちゃーんっ!」
ゆかちゃんはもう一度大きな声でおねえちゃんを呼びました。ゆかちゃんのおねえちゃんは高校二年生。ゆかちゃんが学校から帰ってきたときは、まだおねえちゃんは帰っていませんでした。しかし、今帰ってきて、おねえちゃんのぴかぴか光った黒のローファーを見つけた時、ゆかちゃんは"おねえちゃん、今日ブカツないんだ"と思って、心がきゅんきゅん踊りました。
「ゆかちゃん、おかえり。」
おねえちゃんがゆかちゃんの声にこたえて居間に顔をのぞかせると同時に、ゆかちゃんはかたっぱしからおしゃべりしました。
「おねえちゃんあのね、今日ずっと水やりしてたトマトにね、実がなったの。」
「ふんふん、そうなのー。」
おねえちゃんはふわふわとあいづちを打ちます。
「それでね、今日みんなで大なわして遊んだの。そしたらね、新記録でたんだよ。五八回!」
「ふんふん、すごいねー。」
「でね、ちなちゃんが今日ね、きらきらのペンくれたの。ほら、これみて。」
「ふんふん、よかったねぇ。ありがとう言った?」
おねえちゃんはいつでも「ふんふん」といいながらゆかちゃんの話を聞きます。時々、それ以外のことを言う時も、それでもいつだっておねえちゃんはゆかちゃんの一番の味方です。

ある日、ゆかちゃんはいつもより早く目がさめました。
ぽーっとしながら外を見ると、いいお天気です。
したくをして、学校へ出かけるゆかちゃんのほっぺに、ふかふか風が吹きました。
ランドセルをコトコトならしながら、ゆかちゃんの頭の中にあるのは、今日は何して遊ぼうかということばかりでした。
ゆかちゃんは思いました。
"よし、今日はみんなで大なわをしよう"

 お昼休み、ゆかちゃんはさっそくちなちゃんとゆきちゃんに「大なわしようよ!」といいました。
ゆかちゃんより少し背が高くて、かみの毛を後ろで一つにくくっているちなちゃん。
ショートヘアで目が、ぱっちりしたゆきちゃん。
二人そろって、「だい・さん・せい!」と言いました。
おとなりのクラスのちかちゃんとあゆちゃんたちもさそって、大なわは十人でやることになりました。

ちょうど、お昼休みの半ばごろのことです。
とつぜん、大なわをしていた一人、マキちゃんが「ねー、みんなー」といいました。
「ねぇねぇ、そろそろ飽きてきたし、鉄ぼうしてあそぼうよ」
マキちゃんはクラスで一番、鉄ぼうが上手です。
マキちゃんはそばにあった鉄ぼうにひょいと乗って、くるくるっと回りました。
「わあ、マキちゃんすごいねー」
まわりにいたみんな、マキちゃんの"くるくるっ"にぽうっとなりました。
「ね、すごいでしょ。みんな鉄ぼうしてあそぼうよ」
マキちゃんはニコッと笑って言いました。
けれど、ゆかちゃんは言いました。
「ちょっと待って!今みんなで大なわしてるんだよ。鉄ぼうじゃないの!」
ゆかちゃんは鉄ぼうが苦手でした。さかあがりも、得意ではありません。
だからマキちゃんをきっとにらみながら言いました。
しかし、にらまれたマキちゃんだって負けてはいません。
「ゆかちゃんいっつも大なわばっかりじゃん!みんなで遊ぶんだから、みんなで何するか決めないといけないんだよ!」
マキちゃんもきっとゆかちゃんをにらみかえしました。そしてこう付け加えました。
「ゆかちゃん、鉄ぼうへたっぴだもんね、さかあがりもヘンな形だもん。」
マキちゃんはそう言ってぷうっとふくれました。
ゆかちゃんは真っ赤になりました。すごく恥ずかしかったからです。
そして言ってしまいました。
「マキちゃんなんて…だいっきらい!!もう一生あそばない!」

ゆかちゃんはその日、気をゆるめるとぽろっとこぼれてしまいそうになる涙を一生懸命ガマンしながら家に帰りました。
「ただいまー…」
見ると、玄関にはおねえちゃんのぴかぴかのローファーです。
「おねえちゃーんっっ!」
ゆかちゃんはとうとうこらえていた涙をぽろぽろこぼしながら階段をばたばた上がりました。
「おねえちゃんっっ!」
「ゆかちゃんどうしたのー。」
おねえちゃんは相変わらずふわふわ言いました。
「おねえちゃん、あのね、今日ね、マキちゃんとケンカしちゃったの。マキちゃんね、ゆかがみんなと大なわしてたのに、あきちゃった、なんて言うの。」
「ふんふん、それで?」
おねえちゃんはゆかちゃんの座っているソファーにすとん、と座ってそう言いました。
「それでね、鉄棒なんていやって言ったの。そしたらね、マキちゃんがゆかは鉄棒へたっぴだからって。さかあがり変な形って。マキちゃんに大っきらいって言っちゃった。」
ゆかちゃんはそこまで一気に言うとしゅん、と鼻をすすりました。
おねえちゃんはそこまで聞くと、ふんふんそーかあ、と言いました。
「つらかったねえ、ゆかちゃん。きっとマキちゃんはみんなでたまには違う遊びをしようっていいたかったんだよ。マキちゃんきっとゆかちゃんに大きらいって言われて悲しかったよ。明日、マキちゃんと仲直りしようね。」
おねえちゃんはゆかちゃんにそう言いました。
ゆかちゃんはえっ、と思いました。
おねえちゃんもマキちゃんの味方なんだ…おねえちゃんはゆかの味方だったのに。
そんな思いがゆかちゃんの頭の中をぐるぐるまわりました。
「おねえちゃんもマキちゃんの味方するじゃないかあー。おねえちゃんだってマキちゃんと一緒じゃないかあー。もういいっ!マキちゃんもおねえちゃんもやだっ。」
ゆかちゃんはまたぽろぽろ涙をこぼしました。
「おねえちゃんなんか大っきらい!」

その夜ゆかちゃんは一回もおねえちゃんと話しませんでした。
大好きなカレーもうつむいて食べました。
自分の部屋にいる間中、「あはは、これおもしろいねえー」とか、「おかあさんもこれ食べるー?」とか、時々聞こえてくるおねえちゃんの声にまた、しゅん、と鼻をすすらせました。
おねえちゃんに大きらいって言っちゃった。
おねえちゃんいやだったかな。
もうゆかの話聞いてくれないかな。
おねえちゃんゆかのこときらいになったかな。
おねえちゃんにゆかちゃんなんかきらいっていわれたらどうしよう、そんなのいやだな。
そんなことを考えているうちに、ゆかちゃんはマキちゃんもいやだっただろうなあ、という気持ちになってきました。
目の前のきらきらのペンをころころと転がしながら、ゆかちゃんは思いました。
"マキちゃんにも、おねえちゃんにも、謝ろう"

次の日、朝起きるとおねえちゃんはもう制服に着替えて朝ごはんを食べていました。
「今日ねえ、朝から練習するの。」
おねえちゃんがおかあさんに言っているのが聞こえました。
どうしよう、早く言わないとおねえちゃん行っちゃう。
「おねえちゃんっ」
おねえちゃんはいつものようにふわっと言いました。
「ゆかちゃん、どうしたのー」
ゆかちゃんは息をすうっと吸い込みました。
「おねえちゃん、大きらいなんて言って、ごめんなさい!」
おねえちゃんは一瞬きょとん、として、そして言いました。
「ふんふん、ゆかちゃん、今日も学校頑張ってねー。」

今日もいいお天気です。

小杉勇介「いまなんじ?」

 「いつまで寝てるの!」「宿題はできたの?明日まででしょ。」「はやく寝なさい!寝坊するわよ。」
 僕は毎日のようにこんなことを言われている。もううんざりだ。
 僕の名前は純。小学5年生だ。さっきも言ったけど、毎日毎日あんなこと言われて本当にうんざりしている。なんだってそんなにとやかく言われなくちゃならないんだ。僕には僕の時間があるんだ。好きなようにやらしてほしい。いつかお母さんに怒られたときに、そんな思いが顔に出たのかお母さんはこう言った。「時間が決まってるから生活にハリが出るんじゃないの。」
何言ってんだい。時間なんか忘れて思いっきり遊んだほうがハリが出るに決まってるじゃないか。なんでお母さんはそんなこともわからないんだろう。
 そんなことを思いながらも、時計を見るともう学校に行く時間になっていた。あーあ、世の中の時計がぜーんぶなくなっちゃったら、時間なんか決められず思いっきり遊べるのに。
 その日の夜、僕はうらめしそうに時計を見た。ついさっきもお母さんにはやく寝ろと怒られたばかりだ。こいつのせいで・・・。いらいらしていた僕は、ふとんの中で「時計なんか消えちゃえ」と3回唱えてから眠りについた。

 次の日、朝起きてみるとなにかがおかしいことに気付いた。普段はあるものがそこにない。そうだ、時計だ。寝ている間にどっか遠くのほうへやっちゃったのかもって思ってそこらへんを探してみたんだけど見つからない。しかたないから僕は一階に下りて行った。一階からは物音ひとつ聞こえない。いつもならお母さんが忙しそうに動きまわっているからどうやら寝坊したわけでもなさそうだ。でも、外はもうおひさまがすっかり照らしている。なんだか変な気分だったけど、とりあえず僕はお母さんの部屋に行ってみた。
 「お母さん、今何時?」
 そう言いながらドアを開けるとお母さんはやっぱりまだ寝ていた。
 「お母さんってば。僕の部屋の時計がどっかいっちゃったから時間わかんないんだよ。」
 すると、お母さんはいかにも不思議そうな目でぼくを見て言った。
 「時間なんか知らないわよ。起きたい時間に起きればいいじゃないの。お母さんはもう少し寝るわ。」
 お母さんは睡眠の邪魔をされ、いらいらしているようだ。でもなんだいまの。「起きたい時間に起きればいい。」だって。普段はちょっとでもふとんでごろごろしてたらたたき起こしてくるくせに。
 しかたないからぼくは自分でトーストを焼いて朝ごはんを食べた。もうずっと前から気付いていたことだけど、この家の中の時計という時計が全部なくなっている。一体急いでいいのかゆっくりしていいのかもわからないけど、これ以上時計を探したってしかたがない。僕は学校に行くことにした。
 登校中も僕は時計を探し続けた。でもない。もうずっと同じ道を通っているから時計の場所くらい覚えているんだけど、全部なくなってるんだ。ひとつ、またひとつとあるはずの時計がないことを確認していると、知らず知らずのうちに僕の足は急ぎ足になっていた。
 とうとう学校に到着したけど、ついに学校にも時計はなかった。おかしい、これは本当におかしいぞ。僕は相変わらず急ぎ足のまま教室に入っていった。
 教室では何人かの友達がトランプをして遊んでいた。他の友達の姿は見当たらない。まだ登校していないのだろうか。もう予想はしていたけど、やっぱり教室にも時計はないから時間はわからない。なんとなく友達に聞くのも嫌だったから僕はあきらめて席についた。そんなことよりも授業が始まる前に僕は宿題をしなくちゃならない。僕はトランプをしていた小松さんのところに行った。
 「小松さん、算数の宿題教えてほしいんだけど・・・」
 小松さんにはいつも宿題を教えてもらっている。宿題を忘れたことなんかない優等生だ。でも、彼女から返ってきたのは意外な返事だった。
 「宿題?まだやってないわよ。」
 「え?でもあれ今日の一時間目までにしなくちゃいけないんだよ。」
 そう言うと小松さんはわけがわからないというような顔で
 「一時間目ってなによ。みんな好きなときに来て好きなときに勉強して好きなときに帰るのよ。宿題なんて最終的にできてればいいんだから別にいまする必要ないじゃない。」
 僕は驚きで声も出なかった。いったいどうなってるんだ。いつでもいいわけないだろ。そんなことを考えていると、先生が来た。
 「おはよう。じゃあみんな、いつもどおりがんばってね。」
 先生はそういうと自分の机に座った。
 「先生、いつもどおりってなに?他のみんなはどうしたの?」
 僕は思い切って聞いてみたけど、先生はめんどくさそうに顔をあげて
 「あら、純くんは忘れちゃったの?好きなときに来て好きなときに帰っていいんだからみんな自分の好きなようにしてちょうだい。」
 「でも、宿題は?算数の宿題があったじゃん。」
 「宿題なんていつまででもいいわよ。期限なんかないわ。純くん今日はどうしちゃったの。」
 「・・・いや、なんでもない。」
 僕はそこでやっとわかった。みんな時間なんかどうでもよくなってるんだ。昨日僕がお願いしたとおりになってる。でも、僕が願ったのはこんなんじゃない。こんなんじゃやっぱりだめだ。そう思った僕は素早く支度をして、一目散に家に帰った。もちろんだれも止める人なんていなかった。
 家に帰るとお母さんはぼーっとテレビを見ていた。もう僕には答えがわかっていたけど、試しに聞いてみた。
 「お母さん、仕事は?」
 お母さんは答えた。
 「仕事?そんなの好きなときにすればいいじゃないの。」
 やっぱりそうだ。でも、どうしたらいいんだろう。もとにもどさなくちゃいけないのに。そういえば寝る前に「時計なんか消えちゃえ。」って三回お願いしたんだ。ということは・・・。
 その夜、僕は寝る前に「時計よ、出てこい。」って三回唱えてから眠りについた。

「ジリリリリリリ!!!」
 次の日の朝、けたたましい音で僕は目覚めた。僕の手が反射的になにかを探す。そのとき僕の中にどこか新鮮な気持ちが湧いてきた。この感じ・・・なつかしい。だんだん目も慣れてきて、視界の中に目覚まし時計をとらえることができた僕は自然と笑顔になった。すると、一階からはこれまたなつかしい声が聞こえてきた。
 「純!!いつまで寝てるの!!はやく起きなさい!!!」
 お母さんだ。いつものように怒っている。
 「はーい、起きてるよぉ。」
 僕はそう返事しながら、階段を駆け降りた。相変わらず顔がにやつく。
 朝、目覚ましが鳴った時点で僕は悟った。この世界に時計が戻ってきたことを。だから下に降りても僕はなにも尋ねなかった。もちろんお母さんはいつもどおりぷりぷり怒っている。
 「なにのんびりしてるの!遅刻しちゃうでしょ!!」
 「わかってるよぉ。」
 お母さんはいつもどおりかもしれないけど、僕にとっては全然違う。決まった時間になにかをするってことが僕にはとてもうれしかった。
 「行ってきまーす。」
 こうしてお母さんに急かされながら家を出た僕は昨日とは違う急ぎ足で学校へと向かった。昨日はなかった時計が、今日はいつもどおりそこにある。そんな風景を見ながら、僕はふと思った。
 「あっ、学校着いたら宿題しなきゃな。」

鈴木三織「さやちゃんのクロミミ」

 「まっくろけー。おい、ちびさや。こいつ汚れてるぞ。」
山崎くんがいつものように振り返り、さやちゃんのランドセルを指しながら言いました。
「ちがうもん。クロミミは初めから黒いの。汚れてないもん。」
さやちゃんもまた、いつものように口をふくらませて答えます。そんなさやちゃんを見て、山崎くんは笑いながら続けます。
「まっくろなウサギなんて、変なの。」
「知らないの、山崎くん。黒いウサギもいるんだよ。」
と、隣の席のみっちゃんが、山崎くんに言います。その言葉に何も言えず、きまりが悪そうに山崎くんはクロミミをぺんっと指で弾いて、前を向きました。みっちゃんはさやちゃんと顔を見合せ、笑いあいました。
 さやちゃんのオレンジのランドセルについているクロミミは、さやちゃんがとてもとても大切にしているマスコットです。黒い耳だからクロミミ、初めてクロミミを見たとき、さやちゃんはそう名付けました。みっちゃんと仲良くなれたのもクロミミのおかげです。おとなしいさやちゃんは、幼稚園でなかなか友達ができませんでした。そのとき、みっちゃんがクロミミを指さしてかわいいねと話しかけてくれたのです。それがきかっけでさやちゃんとみっちゃんは、お話をするようになり大の親友となりました。クラスの人気者の山崎くんと話すようになったのも、クロミミがいたからです。さやちゃんにとってクロミミはみんなと仲良くなるための大切な存在なのです。そして、クロミミはいつでもさやちゃんと一緒でした。さやちゃんが走ると、クロミミも走ります。さやちゃんが跳ねると、クロミミもオレンジのランドセルの上をぴょんぴょん飛び跳ねます。クロミミはさやちゃんのランドセルの上で踊っているようでした。
 ある日、さやちゃんはいつものように家に帰って、ランドセルからクロミミを外そうとしました。しかし、右側のポケットにつけていたはずのクロミミがいません。さやちゃんはびっくりしました。それからランドセルのポケット全部に手を入れてみたり、ランドセルをひっくり返してみたりしましたがクロミミは出てきません。帰ってきてから通った廊下も玄関もどこにもクロミミはいません。お母さんに話してみたところ、
「クロミミはきっと冒険に行ったのよ。明日の朝になったらきっと学校へ行く途中で待っててくれてるわよ。今日はもう外もまっくらだし、出で行くのはよしなさいね。」
と言われるだけでした。さやちゃんはクロミミが心配で、いつもならお布団に入ればすぐに眠れるのに、今日はよく眠れませんでした。
 次の日の朝、みっちゃんとの待ち合わせ場所に行くさやちゃんは、ずっと下を向いていました。みっちゃんは、そんな悲しそうなさやちゃんのランドセルにクロミミがいないことに気がついて言いました。
「さやちゃん、クロミミはどうしたの。なくしちゃったの。」
そう聞かれたさやちゃんは、目に涙を浮かべながら、昨日家に帰ったらクロミミがランドセルのポケットについていなかったこと、どれだけ家の中を探しても見つからなかったことをみっちゃんに話ました。みっちゃんはうん、うんと頷きながら話を聞いてくれました。そして、
「じゃあ、帰り道にもう一回探してみようよ。もしかしたら学校にあるかもしれないし。」
と言ってさやちゃんの手をひっぱって学校に連れて行ってくれました。しかし、学校に行ってもクロミミはどこにもいませんでした。げた箱の中も教室の隅っこも、机の中もロッカーの中もどこにもクロミミはいません。さやちゃんはもしクロミミが見つからなかったらどうしよう、と思い始めて、また目の前がぼやーっとしてきました。いつもさやちゃんをからかう山崎くんもさやちゃんのランドセルにクロミミがいないことに気付きますが、今にも泣き出しそうなさやちゃんを見ると何も言えません。
 それからやっと学校の帰り道、さやちゃんはみっちゃんに連れられて、昨日二人で帰った道を探しました。けれど、やっぱりクロミミはどこにもいません。みっちゃんとの分かれ道になってさやちゃんは、
「もう一回家で探してみるよ。もしかしたらあるかもしれないから。ごめんね、みっちゃん。ありがとう。」
と、みっちゃんに言ってお別れしました。みっちゃんはまだ心配そうでしたが、笑顔で手を振るさやちゃんを見て家の方向に歩いて行きました。みっちゃんが見えなくなってから、さやちゃんはもう一度来た道を戻って探し始めました。けれどもクロミミは見つからず、一人になったさやちゃんは、いよいよ悲しくなってきました。すると、むこうから誰かの声が聞こえます。
「おーい。」
 さやちゃんが顔をあげると、そこには泥だらけになったクロミミと山崎くんがいました。
「ほら、これ。お前、見つけるの遅いんだよ。」
さやちゃんは、何が起こったのかわからなくて、ただ山崎くんとクロミミを交互に見るばかりです。
「そこの水たまりに落ちてた。やっぱり黒いと見つけにくいな。」
そう言って山崎くんはさやちゃんにクロミミを渡し、もと来た道を歩いていきます。さやちゃんは渡された泥だらけのクロミミをぎゅっと握りしめました。そして一度大きく息をすって、顔をあげて言いました。
「ありがとう。山崎くん、ありがとう。」
さやちゃんの大きな声を聞いて、山崎くんはびっくりして立ち止まりました。さやちゃんは山崎くんのもとに走っていき、もう一度ありがとうを言いました。
そこにさやちゃんを心配したみっちゃんが戻ってきてくれました。みっちゃんは、さやちゃんの手にクロミミがあるのを見て、
「さやちゃん、よかったね。クロミミ見つかったんだね。」
と安心したように言いました。
それからさやちゃんは、山崎くんとみっちゃんとクロミミと一緒に帰りました。
次の日さやちゃんのオレンジのランドセルの上では、少し濡れたまっくろのウサギがぴょんぴょんととび跳ねていました。

高橋奈津子「カラスの王国」

「さっちゃん。おやつ買ってきたわよ。」
お母さんの明るい声が、下の階からした。
「ありがとう。今すぐ行く。」
こんな会話をして、おやつを食べたのは夕方の5時を少しまわったとこだった。そんな会話をしていた私は今、目の前に出された夕飯とたたかっている。
(あんな時間におかしを食べたからお腹いっぱい…もう食べたくないな…)
そんなことを思いながらダラダラ食事をしていると、
「食べられないなら食べないでいいから、さっさと片付けてちょうだい。」とお母さんが台所で怒りはじめた。私はお腹がいっぱいのときはいつもこのお母さんの台詞を心待ちにしている。
私はいつものように残飯をゴミ箱に捨てた。
翌日、ゴミ回収のために多くの家の前には、ゴミ袋が出されていた。
「いってきます。」
幸子は学校まで友達と出かけた。
「またゴミ袋のとこにカラスいるね。怖いね…」
「ほんとだね。でも私たちに何も怖いことはしないし、いいんじゃないの。気にすることないよ。」
友達のえりちゃんが心配そうにカラスを見つめる中、幸子は全く不安など感じていないようで、いつものように明るく歩きだした。
そんな朝の様子とはうってかわって、幸子は今憂鬱な気分で一人トボトボと家まで帰っていた。
学校から帰っている途中、幸子は今日の給食のことを思い出していた。
(私好き嫌い多いから、またいっぱい食べられないものあったな…。先生は「食べろ!!」って言うけど、好きなものだけ食べて、嫌いなものは残しちゃっても誰も困らないし、誰にも迷惑かけないのに…。)
そんなことを考えながら歩いていると、ふと見知らぬ占い師が座っていた。幸子が通り過ぎようとしたとき、占い師が幸子に声をかけた。
「あんたは未来を見たいとは思わないかね?」
幸子は戸惑いながらも、『未来』という言葉に惹かれ、「見たい!!」と無意識に答えていた。
 その瞬間、幸子は見たことのない世界に来ていた。あたりを見回して見ても、何か様子が変だ。車や家は幸子が知っている形とほぼ同じなのに、なぜか異様な雰囲気を幸子は感じていた。
「ここはいつの世界なの?」
「西暦2069年の世界じゃよ。つまりあんたの住んでいる町の60年後だ。」
占い師との会話の途中、町一面が暗い闇に包まれた。幸子が空を見上げると、空が黒い何かに覆われていた。
「カラス?」
幸子がそう思ったとき、幸子の周りにいた人々が一斉に走り始め、建物の中に避難し始めた。
「あんたも早く建物の中に入れ。ここにいたら危ない。」
占い師の聞いたこともない大きな声に驚き、幸子は慌てて周りの人の波にまぎれて、建物の中に避難した。
 建物の中では多くの人たちが、カラスの恐怖におびえて、肩を寄せ合っていた。幸子は自分の目に映る光景を理解できずにいた。
「何が起こっているの?何が起こっているのよ?」
幸子が大声をはりあげても、周りの音にかき消されて、誰も答えてはくれなかった。幸子は恐怖心から、泣き出しそうになっていた。その時、占い師がふと幸子の隣に現れた。
「この未来の世界では、大量のカラスが時々現れるのじゃ。これだけの数のカラスが現れると人間はもう何もできない。逃げるしか方法は残されていないんじゃ。」
「なんでこんな世界になったの?」
「そもそもカラスはあんたも見たことがあるじゃろ?カラスは昔からいた。だが、人間たちのみっともない自分勝手な行いがカラスを増やしてしまったのじゃ。これは、その人間の浅はかな行為を示す証拠じゃよ。」
占い師はそういうと、一枚の写真を幸子に見せた。
「これは、人間の出した生ゴミをあさるカラス…。」
その写真には幸子に心当たりのある光景が写し出されていた。写真に写る生ゴミは、幸子が好き嫌いをして食べなかった給食やお腹がいっぱいになって捨てたお菓子だった。
「私が捨てた食べ物の全てがカラスの栄養源になって、異常な繁殖を促してしまっていたのね…。」
その時、幸子はこの恐ろしい世界を引き起こした原因を一瞬にして理解したようだった。

 この街がこのような現状になっている理由を幸子がはっきりわかった時、幸子は
頭がくらくらしてきた。
バタッ…
「痛ったぁ!!」
幸子は自分が玄関の前に倒れていることに気づいた。
幸子の周りには誰もいなかった。
「なんか頭が重い…私何してたんだろう。」
幸子は空白の時間の出来事をはっきりと思い出せなかった。
「あんた何してんの?早く家に入りなさい。ご飯今から作るからね。」
買い物から帰ってきたのであろうお母さんの声が背後から聞こえた。
「うん…」
幸子はだるい体を起して、家に入った。
夕食の時間。
幸子はパクパクご飯を食べた。いつもならどうやって残すかを考えているにんじ
んやピーマンもペロッと食べてしまった。
「あらっ!あんた今日は好き嫌いしてないじゃない。どうしたの!」
お母さんの口はポカーンと開いたままだった。お母さんのの驚いた表情を見つつ、
幸子自身も自分の心境の変化には驚いていた。
「なんか今日はにんじんもピーマンも食べようって思えたんだ。」
「ふ〜ん。なんか今日あんたいつもと違う感じね。まぁ好き嫌いをしないのはい
いことだけど。でもちょっと変よね…」
お母さんはぶつぶつ言いながら台所に消えていった。

食べ物を大事にしなきゃという思いが幸子の心の中で確かに芽生え始めたことを
幸子自身も数日後に確信するのである。

江頭和哉「ホタルのヒカリ」

 ヒカリは、初めて星空を見た。長い間土の中で暮らしていたホタルのヒカリには、とても新鮮だった。
 空には月が高く輝き、空気も澄んだ夏の夜。川にはホタルたちが集まっていた。ホタルたちは土からはい出た喜びをかみ締めていた。そして、自分たちの発する美しい輝きに気づいた。
 ヒカリも他のホタルたちをみて、なんとキレイなことだと驚いた。静寂の闇をほんのり照らすホタルの輝きと、満天の空から降り注ぐ月や星の光に彩られて、川はまるで宝石をちりばめたかのようにきらめいていた。自分もこうなのかな、と胸を躍らせた。しかし、川に映ったホタルは、輝くというにはあまりに弱々しかった。ヒカリはうなだれた。みんなはあの星のように輝いているのに…。

「おまえだけすごく弱々しい光だな。ホタルが光らなくてどうするんだよ。」
 何度も聞かされた。輝きたくないわけじゃない。輝きたいに決まっている。でも、なぜかどれだけがんばっても、ヒカリの体の輝きは弱々しいままだった。自分が情けなくって、悔しくって、悲しくって、みんなと少し離れた場所で泣いた。どうして自分だけなんだろう。自分より体が小さな仲間だって、溢れんばかりの輝きで舞うというのに。涙をこらえようとしても、自分を仄暗い闇が包み、飲み込んでいくようだった。
 風が夏草を薙いで、さながら琴の音色のように心地よく響いた。涙がこぼれないように、と思って空を見上げた。そこには、とても大きな白鳥と、わしがいた。
「目元がぬれているね、泣いていたのかい。」
 白鳥がやさしく語りかける。
「どうしたんだい、小さなホタルさん。」
 わしもやさしく語りかける。
「ホタルなのに、ちっとも輝くことができないんだ。もっとみんなみたいに輝きたいのに。どうすれば輝けるようになるのかな。」
 ヒカリは涙をぬぐいながらたずねた。白鳥もわしも、悩んだようだった。
 しばらくして、白鳥が答えた。
「きっと、何かいいことをすれば輝ける日がくるんじゃないかな。今はまだ、そのときじゃないのさ。」
「本当に?」
 ヒカリはうれしくなって、すぐさま聞き返した。
「あぁ、本当さ。」
 わしも大きくうなずいた。
 風の音色は、変わらずやさしく響いていた。

 2、3日経ったある晩。
「危ない、みんな逃げろ!」
 遠くで誰かが叫んだ。声がしたほうを振り返ると、大きな影が見えた。クモの巣とは少し違う、白い糸のかたまりが見える。でも、クモの巣よりももっと大きくて、すごい速さで近づいてくる。
 危ない、という声があったおかげで、ほとんどの仲間は逃げ出せた。けれど、小さな兄弟ホタルがまだ草むらへと逃げることができずにいた。あまりの恐ろしさに体がすくんで、ただぶるぶる震えるだけだった。
「はやくこっちへ来るんだ!」
 また誰かが叫んだ。だが、小さな兄弟には届いたのかどうかさえわからない。大きな白い糸は、ぐんぐん近づいてくる。誰もが、もうダメだと覚悟した。
 そこへ光が一閃。驚いたみんなの目に映ったのは、懸命に光を放つヒカリの姿だった。いつもの遠慮がちに光っているヒカリではない。誰の目にも、何よりも輝いて見えた。その光は川辺一面をまばゆく照らし、小さな兄弟をやさしく包み込み、その姿を隠した。
 白い糸がヒカリへと迫る。誰のものかわからない悲鳴が聞こえる。視界が段々白くなる。あたたかい感触がヒカリを包む。仲間のいるところへたどりついた兄弟が見える。後悔はない。今までで一番輝いた自分がいる。白鳥やわしの言ったことは本当だったのだ。そうまさに今がそのときだったのだ。
 そこまで考えたところで、段々と力が抜けていくのを感じた。輝きは徐々に弱々しくなる。ゆっくりとまぶたを閉じる。それがもう開かれることがないことが自分で分かる。今はただ、この白いヴェールに包まれて眠りたい。
 そして意識は闇へと落ちていった。

 空には月が高く輝き、空気も澄んだ夏の夜。川には星たちがきらめいていた。風が夏草を薙いで、さながら琴の音色のように心地よく響いた。
 とても大きなわしと白鳥に見守られながら、まばゆい光を放つ星がひとつ。まるで、ホタルたちをやさしく包み込むかのように輝いている。
 その星は、夏になると夜空で一番輝く星になるという。

佐橋健一「ともだち」

わたしには、小さい頃からずっとずっと仲の良い友達がいます。
その友達とわたしは、同じ日に、同じ病院で生まれました。それに、親同士もお互いこの町で育っていて小さい頃から仲が良かったのでわたしたちも自然と仲良くなりました。わたしたちは、どんなときでも一緒でした。花見も家族ぐるみで一緒に行ったし、プールでは一緒の浮き輪で浮かんでいたし、紅葉狩りではドロドロになりながらも山を登りきり、初めて見た雪で一緒に雪だるまを作りました。こうやって二人で過ごしていくうちに、月日は流れて行ったが二人の仲は深まるばかりでした。二人の噂はやがて町に広がるようになり、近所の人々は「まるで本当の姉妹のようねぇ。」と口々に言い合うのでした。
そんなこんなで二人は小学生になったのだが相変わらず仲は良く、毎朝必ず待ち合わせをして学校に行っていたし、学校に行ってからも休み時間になれば一緒に遊び、学校から帰ればどちらからともなく家に遊びに行くといった風にずっとずっと一緒にいたのです。

 そんなある日、わたしはいつものように学校が終わってから友達の家に遊びに行きました。「ねぇねぇ。今日も公園に行って遊ぼうよ。」と、わたしはいつものように呼びました。すると、「ごめんねぇ。今日は用事があるから一緒に遊べないの。」と友達は言い、お母さんと一緒にどこかへと行ってしまいました。わたしは、少しさみしい気持ちになりましたが、「まぁ、用事があるならしかたないか。」と思い、ひとりで公園に行き遊ぶことにしました。公園に行ってみるとなんだか今日はいつもの公園ではありません。ジャングルジムに登ってみてもいつもの気持ちよさは感じないし、すべり台からすべってみてもいつものわくわくした気持ちは感じません。そして、ひとりでブランコに座っていると、いつも公園に来ているお母さんに、「あら、珍しいわね。今日はひとりなの?」と聞かれました。「今日はなんだか用事があるみたいだから、わたしひとりなの。」と答えながらもわたしはどんどんさみしい気持ちになっていきます。「今日はぜんぜん楽しくないや。」と思い、わたしは早めに家に帰りました。
 その次の日の朝、いつものように友達と学校へ一緒に行こうと待ち合わせ場所で友達を待っていると、友達がなんだかニコニコしながらやってきます。「なんか、いいことでもあったの?」と、わたしが聞くと、「うん。実はね、昨日お母さんに犬を飼ってもらったんだ。」と、うれしそうに言いました。わたしは、心の中で「昨日の用事ってのはこのことだったんだ。」と思いました。そして、学校に行くまでは犬の話でもちきりでした。友達はよほど犬を飼ってもらったのがうれしいのか、休み時間になってもずっと犬の話をしています。
わたしは、だんだん話を聞くのがめんどうになってきました。そんなことよりも、いつものように外で思いっきり遊びたいのです。それなのに友達は犬の話をやめようとはしません。「ねぇ。外で遊びたいから家に帰ったら公園に遊びに行こうよ。」わたしは、友達の犬の話をさえぎって遊びに誘いました。しかし、「今から、犬の散歩に行かないといけないから遊べないんだぁ。だから今日はここでさよならだね。」と言って帰り道をひとりで走って行きました。わたしは、その後ろ姿を見ながらとてもさみしい気持ちになっていました。それは、昨日公園で感じた時の気持ちと全く一緒でした。

 その日を境に、友達と遊ぶことがとても少なくなってしまいました。友達は犬の散歩に行くことが多くなったのです。友達は、「ねぇ、一緒に散歩に行かない。」と聞いてくることもあったのですが、わたしはなぜかその犬と一緒に散歩に行くことがうれしいこととは思えなかったので、「今日は用事があるから。」などと、言い訳をして散歩に行くことを断わっていました。しかし、ひとりで遊んでいてもやっぱり全然楽しくありません。ひとりで遊んでいるときは自然と家に帰ってくる時間が早くなっていました。いつもなら遅くまで遊んでいるのに、最近は早く帰ってくるわたしを見て不思議に思ったのか「最近早く帰ってくるじゃないの。なにかあったの。」とお母さんが聞いてきました。わたしは、友達が犬を飼ったことや、犬の散歩や世話などで全然遊べなくなったことや、ひとりで遊ぶのは全然楽しくないことなどを話しました。話を聞き終わってからお母さんはゆっくりと話しかけてきました。「自分の気持ちに素直になるってことはとても勇気がいることなの。でもね、自分の気持ちに素直になることができたらそれは素敵なことなのよ。」次の日の放課後に、わたしは友達の家の前にいました。そして玄関のチャイムを鳴らして「一緒に犬の散歩に行きたい。」と叫びました。玄関を開ける友達はうれしそうにニコニコしながら「うん。一緒に行こう。」と言いました。その日から、放課後に一緒に犬の散歩に行くことがわたしたちの日課になりました。こうして二人はいつもの二人に戻りました。変わったことは、二人のそばにいつもしっぽをうれしそうに振る犬が増えたことでした。

辻本祥宏「ひとりぼっち」

小学校中学年向け

 「ピンポーン!マーサシく〜ん!あ〜そぼ!」
 ぼくはいつものように、マサシくんといっしょに、がっこうからかえって来ると、すぐにマサシくんの家へ行った。家のまえにつくと、マサシくんの家のもんについているピンポンをならす。すると、マサシくんは、
 「はいってきていーよ!」
といってくれる。
 あそびに行くと、いつもはきまってマサシくんの家でテレビゲームをする。そして、テレビゲームのあとは、近くの公園でサッカーやおにごっこをする。
ぼくが家に帰るのは、近くのお寺のかねが鳴るときだ。ちょうど5じになるとそのかねは鳴る。かねが鳴ったら、ぼくは、
「ばいばーい!またね!」
と、手できつねのかたちをつくってあいずをするんだ。
 はれている日、くもりの日、もちろんあめの日だって、ぼくはマサシくんの家に行くんだ。このまえなんか、かみなりが鳴っている日だって、マサシくんのうちへ行ったよ。だって、かみなりがこわかったけど、マサシくんとあそべるのをかんがえたら、こわいのだって気にならなかったんだ。
 
きょうは、にちよう日。はれているあおい空には、すこしだけくもった大きなかたまりがうかんでいる。きょうもいいてんきだ。きょうは一日、なにしよう。
 ぼくはいつものように、マサシくんのうちにあそびに行こうとおもった。おかあさんにあそびに行くことをいうと、
 「きょうはにちよう日だから、マサシくんのお母さんもいるかもしれない。先に電話をしてあいさつをしておきなさい。」
いつもなら電話なんかかけないけど、きょうはねんのためにかけておこう。マサシくんのでんわばんごうは……。
 「ピッ!ピッ!ピッ!!ピッ!ピッ!ピッ!!……。」
マサシくんの家にねんのために電話をかけてみた。すこしのあいだ待っていたけど、電話にはだれも出なかった。こんな日もたまにはあるさ。ぼくだって、電話に気づかないことだってある。
だから、いつものように、マサシくんのうちへあそびに行ったんだ。マサシくんとあそべるとおもうと、からだがふわふわして、歩くはやさがはやくなった。いつものようにピンポンを鳴らしに行ったんだ。だけど、きょうはマサシくんは出てくれなかった。ぼくはなんかいもなんかいもピンポンを鳴らした。
「ピンポーン!ピンポピンポピーンポーン!」
だけど、やっぱりマサシくんは出てくれなかった。
 きっとピンポンに気づいていないだけなんだ。しばらくマサシくんの家のまえでじかんがたつのを待った。
「……もうそろそろかな。」
 こんどはさっきより多めに、ピンポンを鳴らしてみた。
「ピンポーン!ピンポピンポピーンポーン!ピンポピンポピーンポーン!!」
……でもやっぱりマサシくんは出てくれない。
 「マサシくん!いる?」
とよびかけてみても、やっぱりマサシくんは出てこなかった。
しかたがないけど、また来たみちをひとりで帰っていった。いつもより帰りみちが長くかんじた。アスファルトのてりかえしがあつい。こんなにも歩くのがいやになったことがあっただろうか。はやく家に帰りたい。
 「マサシくんいたの?」
お母さんは台所でばんごはんのよういをしながら、こっちにふりむいてそう言った。
はやく一日がおわって、あしたが来てしまえばいいのに。いつもならふたりでしているゲームも今はやりたくない。いつもならふたりでサッカーをしている公園にも、今は行きたくない。いつもなら二人ではんぶんこしているアイスクリームも、今はたべたくない。マサシくんがいないだけで、ぼくのからだは、水をもらっていないひまわりのようになった。

やっとあさになった。いつもならじかんにちこくするぼくだが、なぜかきょうはいつもよりはやく目がさめた。そらにはくもがひとつ、たいようといっしょにプカプカしている。ときどきたいようが目にチクチク当たって痛い。
 「いってきまーす!」
 お母さんにそういって家をとびだした。お決まりのかきの木の下でまちあわせ。しゅうごうじかんにはまだ10ぷんもある。
 「まだかなぁ。」
 たいようがぼくの目をつきさしてくる。そんなにささなくてもいいじゃないかと、ぼくはたいようにあっちいけ、をした。
 しゅうごうじかんの5ふんまえになった。たいようはぼくの手のとどかないところまで行ってしまった。むしあついくうきがぼくのはなをぐいぐいおしてくる。
 しゅうごうじかんの3ふんまえになった。目のなかが、たいようのひかりでいっぱいになった。ぼくはおもわず目をつぶった。まだかなぁ。
 しゅうごうじかんになった。ぼくはぜんしんにかんじる日ざしにうんざりした。
 「きょうもまたひとりぼっちか……。」
そうおもって歩きだしたぼくのせなかからとつぜんきこえた声に、ぼくはからだじゅうに水がながれだすのをかんじた。
 「おはよう!」
 ぼくはたいようにさよならをした。ぼくの目のまえにはひさしぶりのマサシくんがいた。ぼくはあついたいようにまけないひまわりのように、せすじをピンッとのばした。
 「……おはよう!!」
それだけでよかった。ついさっきまでこころのなかにあった、たくさんのことばは、どこかにふきとばされてしまった。
 7じ30ぷんのサイレンのおとが、むらじゅうがつつみこむ。みみにツーン、と鳴りひびくおとが、ぼくの目をぱっちりさましてくれる。きょうは一日があっというまにおわりそう!

東部豊「友達のメロディ」

「昨日の夜テレビでやってた映画観た?」友達が言った。
「『学校の怖い話』ってやつ!」得意げに話し、鼻の穴がふくらんだ。
「観てないないよ。どんな話だったの?」私は言った。
「なんかね、私たちが帰ったあとの学校には、幽霊が出るんだって・・・」
「ふぅん。でも、映画の話でしょ。」私は平静をよそおった。
「とくにね、音楽室の・・・」
「また歌っているよ。」私は話を変えようと友達のしゃべっているのに割って入った。
「ほんとだ。」
 最近、いつも休み時間に聞こえてくる鼻歌。私たちは顔を見合せて、横目でその犯人を見た。ななめ上を見て、にこにこしながら歌っている。教室には私たちのほかに、数人しかいない。男子たちは一人をのぞいてみんな外へ遊びに行ってしまった。窓からははしゃぐ声が飛び込んでくる。その中でかすかに聞こえる歌声。聞き慣れないその声は、この春から転校して来た男の子のものだ。私はその子とあまり話したことがない。それどころか、他のだれかと話しているところもほとんど見たことがない。だから私はその子がどんな子か知らない。私が知っているのは、音楽がすごく好きだってことだけだ。だって、音楽の授業はだれよりも早く音楽室へ行って楽器をさわっている。ほかにも、給食後の掃除の時間に流れる音楽に聞き入りすぎて、掃除をしていないことを先生に怒られていたらしいのだ。そして休み時間はいつもこんな感じ。
「男子みんな外に行っているのにね。」友達がひそひそ言った。
わたしはうなずき、もう一度その子を見た。男の子は鼻歌をやめ、口笛に変わっていた。
「変な子だね。」私はつぶやいた。
「ほんとに。で、何の話だったっけ?」と、友達が言ったと同時にチャイムが鳴った。

ある日の放課後、私は教室にふでばこを忘れてしまった。夕方の5時半を過ぎていて太陽がまだ向こうの山から顔をだしていたけど、だれもいない学校はどこか不気味だった。私は階段を走って駆け上がり、『ろうかは走らない!』というはり紙を横目に廊下を駆け抜けた。
 やっと教室にたどり着いた。かぎは開いていた。先生がまだ今日のテストの丸付けでもしているのだろう。教室へ入ると、夕日が教室のいろいろなものをだいだい色に変えていた。誰もいない。でもそこはいつもの教室だった。後ろから二列目のわたしのつくえに、さびしげなふでばこがちょこんとのっている。わたしはホッとして自分のつくえに向かい、ふでばこをとった。
 「よかった。」教室を出ようと振り返ると、反対側の後ろのつくえにこん色のランドセルがのっている。そのつくえはあの転校生のつくえだった。
 「こんな時間なのに、まだ学校に残っているのかな。」不思議に思いながら転校生のつくえに近づき、ランドセルを見てみると、教科書やノートがたくさん入っている。
 「まだ学校にいるみたい。」そうつぶやいたそのとき、遠くのほうでピアノの音が聞こえた。この前の友達の話が頭をよぎって、私はドキッとした。そのあと首の後ろから背中にかけて、ぞくぞくしたものが通った。
 私は急いで手に持っていたふでばこをポケットに入れた。そして逃げるように教室を出て、廊下を駆けた。でもピアノの音はだんだん大きくなっていく。どうやら3階から聞こえるみたいだ。私は階段で立ち止まった。聞いたことのあるメロディだった。なつかしい、そして大好きな曲だった。聞いているうちに自然と階段をのぼっていた。怖いと思いながらもだれが弾いているのか気になった。そのピアノの音は3階の一番奥からもれだしている。音楽室だ。テンポのよい伴奏のリズムが、私が鳴らす足音と一緒になっている。音楽室の防音の重そうな鉄のとびらの前に立った。ピアノの音はさっきより大きくなって流れている。とびらのくぼみに手を伸ばす。すると私の中にまた恐怖がおそってきた。前奏が間もなく終わり、最初のフレーズに差しかかろうとしていた。
「歌いながら入ろう。そうすれば怖くない。」夜トイレに行くときにいつもやる方法だ。大きく息を吸い込んで止め、歌い出しにそなえた。胸がドクドク打つのがよく聞こえる。
 「ジャン!」というピアノの音と同時に重い鉄のとびらをすべらし、そして声を張り上げて歌った。
 「どこまでもつづく道 菜の花畑」その瞬間、あたたかい風が通り抜け、目の前がまぶしく光った。私は目をつむった。おそるおそる目をあけると、そこには一面の黄色いじゅうたんが広がり、風になびいていた。やわらかいにおいが私を包みこむ。私は先が見えないほど長く続く一本道に立っていた。うきうきした気持ちで歌のつづきを待っている。ピアノのメロディが風の届けるにおいに混じって漂ってくる。
 「空は青空 光る太陽」そうつづきを歌うと、空はみるみる青くそまり、明るい太陽が現れた。私はだんだん楽しくなってきて、一本道をとびはね進んだ。ピアノのメロディが青い空から光とともに差し込んでくる。
 「海へとつづく小川 光る魚」長い一本道のとなりに、透きとおった小川が現れた。魚たちが太陽の光を反射して、ぴかぴか光っている。遠く向こうのほうには、空よりも青い海が見える。ピアノのメロディが涼しげな川のせせらぎと一緒に流れた。
 「一番坂の頂に 大きな桜の木」どこまでもつづいていた平たんな道が、だんだん登りになっていく。私は走り出した。どれだけ早く走っても息が苦しくなることはなかった。自分でつくった風を感じ、どんどん坂を登って行った。頂上には桃色の花が咲いた一本の桜の木が迎え入れるように立っていた。ピアノのメロディが桃色の花びらと一緒にヒラヒラと舞いこんできた。
 「この場所が・・・」そう歌うと、私はその先の歌詞がどうしても思い出せなかった。それと同時にピアノのメロディが止まった。風も止んだ。川の流れも止まった。色づいていた、黄色や青や桃色は白黒に変わった。私は胸の奥がにぎられたように苦しくなった。そして悲しみが押し寄せた。すると、桜の木の影から、だれかが出てきた。そして澄んだ声で歌いだした。
 「この場所が・・・」そう歌ったのはあの転校生だった。思い出した。
 「友達のはじまり」声が重なった。その瞬間、またあたたかい風が通り抜け、目の前がまぶしく光った。私は目をつむった。

再び目をあけると私は音楽室の入り口で立っていた。開いた窓から吹き込む風が、白いカーテンを揺らしている。中を見渡すと、ピアノのいすで誰かが座っている。最後の一音を弾き終えると、立ち上がり頭を下げた。私も軽く頭を下げた。転校生だ。私はきょとんとして立ち尽くしていた。
「歌、うまいね。」転校生が言った。私は急に目を合わせることができなくなった。
「そんなことないよ・・・。」私は顔が熱のあるときのように熱かった。転校生はクスッと笑った。そこから少しの間、カーテンのこすれる音しか聞こえない時間が続いた。
「一緒に帰ろうか。」転校生が言った。ふいにカーテンが風でめくれて夕日が差し込み、私と転校生の顔を赤く染めた。「この場所が友達のはじまり」その部分のメロディが耳の奥で流れた。

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