2000.08.05 作成
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羅生門 芥川龍之介 ある日の暮れ方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。 広い門の下には、この男のほかにだれもいない。ただ、所々丹塗りのはげた、大きな円柱に、きりぎりすが一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二、三人はありそうなものである。それが、この男のほかにはだれもいない。 なぜかというと、この二、三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか飢饉とかいう災いが続いて起こった。そこで洛中のさびれ方はひととおりではない。旧記によると、仏像や仏具を打ち砕いて、その丹が付いたり、金銀の箔が付いたりした木を、道端に積み重ねて、薪の料に売っていたということである。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、もとよりだれも捨てて顧みる者がなかった。するとその荒れ果てたのをよいことにして、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引き取り手のない死人を、この門へ持って来て、捨てて行くという習慣さえできた。そこで、日の目が見えなくなると、だれでも気味を悪がって、この門の近所へは足踏みをしないことになってしまったのである。 そのかわりまた、からすがどこからか、たくさん集まって来た。昼間見ると、そのからすが、何羽となく輪を描いて、高い鴟尾の周りを鳴きながら、飛び回っている。ことに門の上の空が、夕焼けで赤くなるときには、それがごまをまいたように、はっきり見えた。からすは、もちろん、門の上にある死人の肉を、ついばみに来るのである。・・もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその 崩れ目に長い草の生えた石段の上に、からすの糞が、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段のいちばん上の段に、洗いざらした紺の襖のしりを据えて、右のほおにできた、大きなにきびを気にしながら、ぼんやり、雨の降るのを眺めていた。 作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた。」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようという当てはない。普段なら、もちろん、主人の家へ帰るべきはずである。ところがその主人からは、四、五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町はひととおりならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた。」と言うよりも「雨に降りこめられた下人が、行き所がなくて、途方に暮れていた。」と言うほうが、適当である。そのうえ、今日の空模様も少なからず、この平安朝の下人のSentimentalismeに影響した。申の刻下がりから降り出した雨は、いまだに上がる気色がない。そこで、下人は、何をおいても差し当たり明日の暮らしをどうにかしようとして・・いわばどうにもならないことを、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路に降る雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。 雨は、羅生門を包んで、遠くから、ざあっという音を集めてくる。夕闇はしだいに空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜めに突き出した甍の先に、重たく薄暗い雲を支えている。 どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。選んでいれば、築土の下か、道端の土の上で、飢え死にをするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように捨てられてしまうばかりである。選ばないとすれば・・下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげくに、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないということを肯定しながらも、この「すれば」のかたを付けるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。 下人は、大きなくさめをして、それから、大儀そうに立ち上がった。夕冷えのする京都は、もう火桶が欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇とともに遠慮なく、吹き抜ける。丹塗りの柱にとまっていたきりぎりすも、もうどこかへ行ってしまった。 下人は、首を縮めながら、山吹の汗衫に重ねた、紺の襖の肩を高くして、門の周りを見回した。雨風の憂えのない、人目にかかる恐れのない、一晩楽に寝られそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い上の門の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗ったはしごが目に付いた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄の太刀が鞘走らないように気を付けながら、わら草履をはいた足を、そのはしごのいちばん下の段へ踏みかけた。 それから、何分かののちである。羅生門の楼の上へ出る、幅の広いはしごの中段に、一人の男が、猫のように身を縮めて、息を殺しながら、上の様子をうかがっていた。楼の上から差す火の光が、かすかに、その男の右のほおをぬらしている。短いひげの中に、赤くうみを持ったにきびのあるほおである。下人は、初めから、この上にいる者は、死人ばかりだとたかをくくっていた。それが、はしごを二、三段上ってみると、上ではだれか火をとぼして、しかもその火をそこここと、動かしているらしい。これは、その濁った、黄色い光が、隅々にくもの巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。 下人は、やもりのように足音を盗んで、やっと急なはしごを、いちばん上の段まではうようにして上りつめた。そうして体をできるだけ、平らにしながら、首をできるだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内をのぞいてみた。 見ると、楼の内には、うわさに聞いたとおり、いくつかの死骸が、無造作に捨ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数はいくつともわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるということである。もちろん、中には女も男も混じっているらしい。そうして、その死骸はみな、それが、かつて、生きていた人間だという事実さえ疑われるほど、土をこねて造った人形のように、口を開いたり手を伸ばしたりして、ごろごろ床の上に転がっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光を受けて、低くなっている部分の影をいっそう暗くしながら、永久におしのごとく黙っていた。 下人は、それらの死骸の腐乱した臭気に思わず、鼻をおおった。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻をおおうことを忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからである。 下人の目は、そのとき、初めて、その死骸の中にうずくまっている人間を見た。桧皮色の着物を着た、背の低い、やせた、白髪頭の、猿のような老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木切れを持って、その死骸の一つの顔をのぞき込むように眺めていた。髪の毛の長いところを見ると、たぶん女の死骸であろう。 下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は息をするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」ように感じたのである。すると、老婆は、松の木切れを、床板の間にさして、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、ちょうど、猿の親が猿の子のしらみを取るように、その長い髪の毛を一本ずつ抜き始めた。髪は手に従って抜けるらしい。 その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えていった。そうして、それと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が、少しずつ動いてきた。・・いや、この老婆に対すると言っては、語弊があるかもしれない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分ごとに強さを増してきたのである。このとき、だれかがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、飢え死にをするか盗人になるかという問題を、改めて持ち出したら、恐らく下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床にさした松の木切れのように、勢いよく燃え上がり出していたのである。 下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。したがって、合理的には、それを善悪のいずれに片付けてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけですでに許すべからざる悪であった。もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである。 そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、はしごから上へ飛び上がった。そうして聖柄の太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩み寄った。老婆が驚いたのはいうまでもない。 老婆は、一目下人を見ると、まるで弩にでもはじかれたように、飛び上がった。「おのれ、どこへ行く。」 下人は、老婆が死骸につまずきながら、あわてふためいて逃げようとする行く手をふさいで、こうののしった。老婆は、それでも下人を突きのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、初めから、わかっている。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。ちょうど、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。 「何をしていた。言え。言わぬと、これだぞよ。」 下人は、老婆を突き放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色を、その目の前へ突きつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわな震わせて、肩で息を切りながら、目を、眼球がまぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、おしのように執拗く黙っている。これを見ると、下人は初めて明白に、この老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した。そうしてこの意識は、今まで険しく燃えていた憎悪の心を、いつのまにか冷ましてしまった。あとに残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就したときの、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆を、見下ろしながら、少し声を和らげてこう言った。 「おれは検非違使の庁の役人などではない。今しがたこの門の下を通りかかった旅の者だ。だからおまえに縄かけて、どうしようというようなことはない。ただ、今時分、この門の上で、何をしていたのだか、それをおれに話しさえすればいいのだ。」 すると、老婆は、見開いていた目を、いっそう大きくして、じっとその下人の顔を見守った。まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い目で見たのである。それから、しわで、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でもかんでいるように、動かした。細いのどで、とがったのどぼとけの動いているのが見える。そのとき、そののどから、からすの鳴くような声が、あえぎあえぎ、下人の耳へ伝わってきた。 「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、かつらにしょうと思うたのじゃ。」 下人は、老婆の答えが存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷ややかな侮蔑といっしょに、心の中へ入ってきた。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんなことを言った。 「なるほどな、死人の髪の毛を抜くということは、なんぼう悪いことかもしれぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、みな、そのくらいなことを、されてもいい人間ばかりだぞよ。現に、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干し魚だと言うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいたことであろ。それもよ、この女の売る干し魚は、味がよいと言うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のしたことが悪いとは思うていぬ。せねば、飢え死にをするのじゃて、しかたがなくしたことであろ。されば、今また、わしのしていたことも悪いこととは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、飢え死にをするじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたがないことを、よく知っていたこの女は、おおかたわしのすることも大目に見てくれるであろ。」 老婆は、だいたいこんな意味のことを言った。 下人は、太刀を鞘に収めて、その太刀の柄を左の手で押さえながら、冷然として、この話を聞いていた。もちろん、右の手では、赤くほおにうみを持った大きなにきびを気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上がって、この老婆を捕らえたときの勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、飢え死にをするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。そのときの、この男の心持ちから言えば、飢え死になどということは、ほとんど、考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。 「きっと、そうか。」 老婆の話が終わると、下人はあざけるような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手をにきびから離して、老婆の襟髪をつかみながら、かみつくようにこう言った。 「では、おれが引はぎをしようと恨むまいな。おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。」 下人は、すばやく、老婆の着物をはぎ取った。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。はしごの口までは、わずかに五歩を数えるばかりである。下人は、はぎ取った桧皮色の着物をわきにかかえて、またたくまに急なはしごを夜の底へ駆け下りた。 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起こしたのは、それから間もなくのことである。老婆は、つぶやくような、うめくような声をたてながら、まだ燃えている火の光を頼りに、はしごの口まで、はって行った。そうして、そこから、短い白髪を逆さまにして、門の下をのぞき込んだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。 下人の行方は、だれも知らない。