金子みすゞ詩作品の表現特性



野浪正隆

のなみまさたか

0.はじめに 叙情詩とは

私と小鳥と鈴と    金子みすゞ

私が両手をひろげても、
おそらはちつとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。

私がからだをゆすつても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがつて、みんないい。

 この3文でできた短い文章は、詩なのか? と思う。文の途中(節の切れ目)で改行してあるから、詩の表記形式ではある。また、文節の拍数が左表のようであって、まとめてみると、右表のように七五調になる。叙述内容を考慮に入れなければ、口語定型詩である。

 1行目
 2行目
 3行目
 4行目
 5行目空行
 6行目
 7行目
 8行目
 9行目
10行目空行
11行目
12行目
1行目 8(4・4)
2行目 8(4・4)
3行目 7(3・4)7(4・3)
4行目 8(4・4)
5行目 空行
6行目 8(4・4)
7行目 7(4・3)
8行目 7(2・2・3)7(4・3)
9行目 8(5・3)
10行目 空行
11行目 7(3・4)7(4・3)
12行目 7(3・4)5(3・2)


 少し、寄り道をする。詩を叙述内容で分類するということについて考える。

じょじょう【叙情・抒情】
感情をのべあらわすこと。 −し【―詩】叙事詩・劇詩とともに詩の三大部門の一つ。自己の純粋な感動や情緒を主観的に述べた詩。(岩波書店『岩波国語辞典 第五版』)

 劇詩も劇となる「こと」を述べていくわけだから、叙事詩に含めておく。俳句短歌などのうちには「景」だけが述べられている場合があるので、叙景詩を立ててみる。
 詩を叙述内容で分類すると
叙情詩 感情(こころ)を述べた詩
叙景詩 風景(もの)を述べた詩
叙事詩 出来事(こと)を述べた詩
の内のどれかに含まれることになる。

もしも 生まれ変わっても また私に生まれたい
この体と この色で 生き抜いてきたんだから
いつか 太陽が 消えてなくなる前に
もっと あなたを好きなこと 伝えなくちゃ

(「Yellow Yellow Happy」 作詞 CHIAKI & ポケットビスケッツ)

 「Yellow Yellow Happy」は、典型的叙情詩である。心の内の感情を「独白」しているのであるから。

 しかし、通常は、その感情の契機となった「もの」や「こと」が、感情とともに叙述されることが多い。「Yellow Yellow Happy」でも「この体と この色で 生き抜いてきた」という「こと」が理由として述べられているのである。

 叙情詩は、「感情だけを述べた詩」ではなく、「もの」や「こと」を契機とした「感情」を述べた(=明示した)詩とするのが、妥当である。そうすると、叙景詩や叙事詩において「感情」を明示した場合は、叙情詩との区別がつかなくなる。分類を考え直す必要がある。

 感情そのものだけを歌う詩は多分詩として成立しないであろう。何かについて感じたことを歌うのが、通常の詩であろう。感情が叙述上に明示されているか、叙述上にはなく暗示されているかによって、まず、叙情詩かそれ以外かに分けられる。叙情詩は、情が明示されている詩であり、叙景詩叙事詩は情が暗示されている詩である。そして、叙景詩叙事詩は、景や事だけが歌われているように見えて、それらに対する情が読み取られることを期待されている詩である。
 詩を上記のように叙述内容から狭く限定すれば、「私と小鳥と鈴と」は、「考え」を述べたもので、詩ではなく、箴言(エピグラム)というべきものである。評論によって述べるような「ものごとに対する評価・位置付け(常識を覆すような)」が、短くいいとめられているからである。

 しかし、この文章「私と小鳥と鈴と」を詩ではないと考えて、それで済ませていいかというと、「やっぱり詩やで」という内なる声が反対する。「私と小鳥と鈴と」で述べられている「論理的思考」そのものは詩ではないが、そのような「論理的思考」を「こと」であるととらえるなら、叙事詩として位置付けられるだろう。
 あるとき何かをきっかけに、金子みすゞは、「私と小鳥と鈴と」に述べられているような事を考えた。ある感情のもとに。そして、普遍的事実を事例とした思想「みんなちがってみんないい」として作品化した。その感情を明示しない形で。
 暗示されたその感情を、推測してみるならば、「誰かに、お前はXXが出来ないと非難された。他の誰かと比較されて非難された。そして悲しかった。悔しかった。その言い分は正しいのかもしれないけれど、もっと違う考え方もあるはずだと思った。そして、考えた。書いた。自分の存在の仕方や他の存在の仕方について、すっきりした考え方が出来た。嬉しく思った」となるだろうか。その、「悲しさ、悔しさ、すっきり感、嬉しさ」が、暗示されているのだと考えたい。

大漁

朝焼け小焼けだ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。


浜は祭りの
やうだけど 海のなかでは
何萬の
鰮のとむらひ
するだらう。


星とたんぽぽ

青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
散つてすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまつて、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼に見えぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。


こッつん こッつん
打たれる土は
よい畠になつて
よい麥生むよ。

朝から晩まで
踏まれる土は
よい路になつて
車を通すよ。

打たれぬ土は
踏まれぬ土は
要らない土か。

いえいえそれは
名のない草の
お宿をするよ。

 「大漁」という作品の、「海のなかでは 何萬の鰮のとむらひ するだらう。」が、「私と小鳥と鈴と」の論理的思考の表明ほどではないが、現実のファンタジックなとらえ直しであって、感情の叙述であると言い難い。
 「海のなかでは 何萬の鰮のとむらひ するだらう。」と考えることを「こと」として、その背後の感情が暗示されている詩であると言える。
 これら「星とたんぽぽ」「土」「大漁」「私と小鳥と鈴と」を、「評論的詩群」と名付けたい。

 教科書教材にとられているので、一言付け加えておく。
 教材だから、教科目標を達成するためにはどのように用いてもいいのだけれど(具体的には評論文的読みの訓練)、教室でこれらの詩を読んだ教師や子ども達に評論文的読み内容以外に残る何かモヤモヤした感情があるならば、「なぜこんな詩を書いたのか、どんな気持ちから書いたのか」という発問を試みて欲しいと思う。これらの詩が要請する読みだから。


1.「語り手」あるいは「登場人物としての私」 叙情詩の仕掛け

 「星とたんぽぽ」「土」「大漁」「私と小鳥と鈴と」の語り手は、「評論的」な思考を展開する語り手である。大人の語り手といってよい。ふつうの童謡の語り手は、読み手である幼児・児童の視線まで身をかがめることが多い。大人の語り手であることを意識させないように叙述が仕組まれる。
 あるいは、語り手を意識させない叙述、例えば登場人物を子どもにしておき、子どもの視点を通して対象世界を描くという仕掛けを施す。

たもと

袂のゆかたは
うれしいな
よそ行き見たいな気がするよ。

夕顔の
花の明るい背戸へ出て
そつと踊りの真似をする。

とん、と、叩いて、手を入れて、
誰か来たか、と、ちよいと見る。

藍の匂の新しい
ゆかたの袂は
うれしいな。


喧嘩のあと

ひとりになつた
一人になつた。
むしろの上はさみしいな。

私は知らない
あの子が先よ。
だけどもだけども、さみしいな。

お人形さんも
ひとりになつた。
お人形抱いても、さみしいな。

あんずの花が
ほろほろほろり。
むしろの上はさみしいな。

 「うれしいな」「さみしいな」という登場人物の心理を叙述することで、子どもの視点を通して対象世界が描かれているという効果を生みだしている。
 その効果の上で、「たもと」ならば2・3連の行動描写が際立つ。
「夕顔の 花の明るい背戸へ出て そつと踊りの真似をする。」の「そつと」、「とん、と、叩いて、手を入れて、 誰か来たか、と、ちよいと見る。」の「ちよいと」という副詞によって「気恥ずかしさ、晴れがましさ」という感情が暗示される。

 「喧嘩のあと」では、子どもの視点に写る対象の推移に仕掛けがある。
 1連は、「ひとりになつた 一人になつた。」という事態の確認である。事態を客観的に叙述しているのではない。「ひとりになった」のリフレインがそれをあらわしている。
 2連は、「私は知らない、あの子が先よ。」という現事態が生じた理由である過去の事態の想起である。さびしさを紛らわすための自己正当化である。
 3連は、「お人形さんも ひとりになつた。」という発見である。「一人になった私」「一人になった私のお人形さん」「一人になったあの子のお人形さん」「一人になったあの子」、これらの二人二体の寂しさが、「一人になったお人形さん」によって暗示されている。1・2連で「自分だけ」をとらえていたのに対し、「自分のお人形さん、相手のお人形さん、相手」をとらえるという視野の拡がりが示されている。
 4連は、「あんずの花が ほろほろほろり。」という外界の発見(ほとんど心象風景)である。3連の視野の拡がりは4連において、風景にまで至るのである。「ほろほろほろり」が私の涙の象徴であると考えるのは乱暴かもしれないが、少なくとも、その方向性をもった風景描写である。最終連におかれる風景描写は心象風景として機能することが多いからである。


2.叙事詩の仕掛け

雀のかあさん

子供が 小雀 つかまへた。
その子の かあさん
笑つてた。
雀の
かあさん それみてた。
お屋根で
鳴かずに
それ見てた。


仲なほり

げんげのあぜみち、春がすみ、
むかうにあの子が立つてゐた。

あの子はげんげを持つてゐた、
私も、げんげを摘んでゐた。

あの子が笑ふ、と、気がつけば、
私も知らずに笑つてた。

げんげのあぜみち、春がすみ、
ピイチク雲雀が啼いてゐた。

 「雀のかあさん」「仲なほり」ともに事態の推移が描写されているだけの詩である。どのような叙述に情が暗示されているのかを見よう。

 「雀のかあさん」において際立っているのは、「その子のかあさん」と「雀のかあさん」との対比である。その子のかあさんが、子どもが子雀を捕まえられるほど成長したことに対して笑みを浮かべているのに対し、雀の母さんは、我が子が奪われるのを「鳴かずに見て」いるのである。「鳴かずに」という叙述によって雀の母さんの哀切の情は充分に暗示されている。加えて、「それみてた」「それ見てた」のリフレインが、読み手の視点を雀の母さん視点に重ね合わせる効果も大きく働いている。「見る」という知覚動詞を用いると、その知覚動詞の主体が視点人物であると示されやすくなるからである。

 「仲なほり」において際立っているのは、私とあの子との距離の取り方である。1連「向こうに」と始まって、3連までその物理的距離は縮まらない。ところが、1連「あの子が立っていた」という客観的知覚から、2連「私もげんげをつんでいた」という、あの子と私との共通性を知覚し、3連「あの子が笑ふ、と、気がつけば、私も知らずに笑つてた。」という感情の共有に至る過程は、心理的距離の縮まりをあらわしている。4連に距離を示す叙述はない。しかし、心理的距離が縮まってきた過程を考慮すれば、当然物理的距離の縮まりが推測できる。「げんげのあぜみち、春がすみ、ピイチク雲雀が啼いてゐた。」という風景を私とあの子は肩を並べて見ていると推測できる。外界も春麗なら、仲直りが出来た二人の心も春麗なのである。


3.叙景詩の仕掛け

噴水の亀

お宮の池の噴水は
水を吹かなくなりました。

水を吹かない亀の子は
空をみあげてさびしそう

濁った池の水の上
落ち葉がそっと散りました


博多人形

こほろぎが
ないている、
夜ふけの街の
芥箱に。

ひとつ明るい
かざり窓、
青い灯に、
博多人形の
泣きぼくろ。

こほろぎが
ないている、
街の夜ふけの
芥箱に。

 「噴水の亀」は、厳密にいうと、叙景詩ではなく叙情詩である。2連で「寂しそう」と、作品世界全体をとらえる感情が明示されているからである。叙景詩の仕掛けが用いられているので、ここで取り上げた。
 1・2連の否定表現「水を吹かなくなりました」「水を吹かない」のリフレインが、噴水ならば当然そうであるべき状態からの「欠落感」を暗示している。3連「濁った」「そっと」という動きのない静的状態も、「寂しい」という感情を暗示している。これだけの仕掛けがあるのだから、2連「さびしそう」といわなくても寂しさは充分暗示できる。たとえば「空を見上げているばかり」でもよかったと思う。

 「博多人形」は純然たる叙景詩である。1・3連の「こほろぎがないている、夜ふけの街の芥箱に。」という背景に浮かび上がる2連の「ひとつ明るいかざり窓、青い灯に、博多人形の泣きぼくろ。」という構図である。

暗   こほろぎがないている夜ふけの街(の芥箱)
明   ひとつ明るいかざり窓
心理的暗  泣きぼくろ

 泣きぼくろを中心に、明がとりまき、それをまた暗が取り巻いているのである。情を暗示するのは「泣きぼくろ」なのであるが、この詩においては、リズムが大きく働いている。

  休符
こほろぎが 
ないている、
夜ふけの街の
芥箱に。  
 
ひとつ明るい
かざり窓、
青い灯に、
博多人形の
泣きぼくろ。
 
こほろぎが
ないている
街の夜ふけの
芥箱に。

 1・3連の5・5による始まりは、8拍を基本とした場合には、3拍ずつの休符を生じる。それによって、ゆっくりした感じ、静かな感じを生じる。
 2連の始まりは、一転して七五調になる。それまでと比較して、速い軽快な感じ、明るい感じを生じる。ところが、2連3行目「青い灯に」は、流れてきたリズムをとめる。そして4・5行で再びリズムが流れる。ちょうど3行目が溜めの働きをする。映像的な焦点である「泣きぼくろ」はリズムにおいても取り立てられて、焦点になっている。


4 ユーモアという仕掛け

 自己の弱点をさらけ出して楽しむ気持ちが、ユーモアということである。

女の子


女の子つて
ものは、
木のぼりしない
ものなのよ。

竹馬乗ったら
おてんばで、
打ち独楽するのは
お馬鹿なの。

私はこいだけ
知ってるの、
だつて一ぺんずつ
叱られたから。


人なし島


人なし島に流された
私はあはれなロビンソン。

ひとりぼつちで、砂に居て、
はるかの沖をながめます。

沖は青くて、くすぼつて、
お船に似てる雲もない。

けふもさみしく、あきらめて、
私の岩窟へかへりましよ

(おや、誰かしら、出て来ます、
 水着着た子が三五人。)

百枚飛ばして、ロビンソン、
めでたくお国へ着きました。

(父さんお昼寝さめたころ、
 お八つの西瓜の冷えたころ)

うれしい、うれしい、ロビンソン、
さあさ、お家へいそぎましよ。

 「女の子」の1・2連は、語り手が説教しているような叙述である。三連の「私はこいだけ知ってるの、」で、「こいだけ」というような子どもである私の会話描写によって、自身の知識量を誇っているかのように読める。が、急転直下、「だつて一ぺんずつ叱られたから。」という会話描写で、そういう女の子らしからぬ遊びを私がしたこと、そして叱られたこと、1・2連の説教が実はその叱られたときの説教そのものであることがわかる仕掛けになっている。自己の失敗を余裕を持って叙述するというユーモアの典型である。

 「人なし島」の1〜4連は、ロビンソン−クルーソーの物語に沿って事態が記述されているので、昔話を童謡化したもののように見える。5連は、「(おや、誰かしら、出て来ます、 水着着た子が三五人。)」と丸括弧で括られていて、ロビンソン−クルーソーの物語には登場しない人物の記述である。(「こんな話だったかな」と疑問に思う) 6連の「百枚飛ばして、ロビンソン、めでたくお国へ着きました。」によって、1〜4連は視点人物が読んでいて、その物語の直接引用だったということが解る。また、5連は、読書中の視点人物の視界に入った、水遊びに出かける友達の姿だったことも分かる。視点人物が物語を百枚飛ばして読み終えようとしたことも分かる。7連は、読書を取り巻く状況の叙述である。視点人物が、友達との水遊びとお八つの西瓜の誘惑に負けて、物語をきちんと読まなかったのである。8連の「うれしい、うれしい、ロビンソンさあさ、お家へいそぎましよ。」は、自身の水遊びができることと西瓜を食べられることとのうれしさでもある。誘惑に負けてしまった私を余裕を持って叙述している詩である。


終わりに

 金子みすゞの詩には、「さびしい」「かなしい」という語が多く含まれている。弱いもの見捨てられているものに対してのとらえ直しが主題になっている詩も多い。全作品を読んで得た印象は、「暗さ」や「孤独」である。
 詩を書くという行為自体が、「暗さ」や「孤独」から始まるのかもしれないが、作品の叙述に明示するにしろ暗示するにしろ「暗さ」や「孤独」を表現し対象化することで、金子みすゞは癒されたのだろうと推測する。特に、「女の子」「人なし島」のようなユーモアの詩は詩作の癒しの中から生まれた詩だろうと推測する。

本稿で用いた金子みすゞ詩作品は、『新装版 金子みすゞ全集 1・2・3』(JULA出版局 1984)によった。


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