文章表現におけるサスペンスについて(1)

── サスペンスとしての比喩 ──


野浪正隆

のなみまさたか



0 はじめに

 サスペンスこそが、文章を読み進めさせる原動力である、と筆者は考える *01。読者は、サスペンスがあるから読み進み、サスペンスが残るから考えるのである。
 多くの英和辞典は「サスペンス」の訳語として「宙ぶらりん、どっちつかず、未決、未定、不安、気がかり等」を挙げている。これはサスペンスの二側面をとらえている。外的状況が「宙ぶらりん、どっちつかず、未決、未定」なので、内的(心理)状況が「宙ぶらりん、どっちつかず、未決、未定、不安、気がかり」なのである。このような、サスペンスの外的状況・内的状況の二側面を、文章における「サスペンス」にあてはめると、次のようになる。

 このような機能を持った文章中の仕組みを「サスペンス」と呼んで、考察対象とする。また、受けて(読み手)の「不安、気がかり」な内的(心理)状況を「サスペンデッド状態」と呼んで、送り手(書き手)・文章に属する「サスペンス」と区別する。

 文章において、「サスペンデッド状態」を発生させる「サスペンス」は、多岐にわたる。そのすべてを本稿で考察することは不可能であるので、本稿では「サスペンス」の観点から「比喩」を考察する、にとどめる。考察は次の手順で行なう。

  1. 「サスペンスとしての比喩」の基本原理を概観する。
  2. 詩作品を取り上げ、サスペンス分析をおこなって、「サスペンスとしての比喩」が、詩作品のなかで果たしている機能をとらえる。

1 「サスペンスとしての比喩」の基本原理

1ー1 比喩はサスペンスの一種である。

 比喩表現における喩詞(たとえるものごと)と被喩詞(たとえられるものごと)の共通点(積属性)が、少ないほど・受け手が想起しにくいほどサスペンスの度合いは大きい。 *11

喩 子属性a属性b属性c      
比喩子      属性c属性d属性e
 属性cが喩子・比喩子の双方にある属性であり、
比喩は通常この積属性cを取り立てることになる。

1ー2 比喩表現の範囲

  1. 彼女は林檎のように赤い頬をしている。
  2. 彼女は林檎のような頬をしている。
  3. 彼女の頬は林檎のように青ざめる。
  4. 彼は林檎のような気安さで私を見た。
  5. 彼は林檎のような意志を持っている。
 直喩表現で、林檎が喩詞であるものを、1〜5に向かって、喩詞と被喩詞の共通点(積属性)が少なく想起しにくいであろう順に並べた。
  1. は、積属性「赤い」が明示されている。
  2. は、積属性が明示されていないが、「赤さ・丸さ・艶やかさ・充実感」などが、容易に連想される。
  3. は、「林檎のように」で連想する「赤さ・丸さ・艶やかさ・充実感」が「青ざめる」で、裏切られ、「そういえば青林檎もあった」と気づくまで「サスペンデッド状態」が持続するように仕組まれた(つまらない)比喩である。
  4. は、「気安さ」が林檎の属性として連想しにくい(出来ないわけではない、庶民的な果物であった時代を知っているならば)比喩である。ただし、時代によって変化しとらえにくくなっている積属性「気安さ」が明示されているので、「林檎のように私を見た」ほどのサスペンスではない。
  5. は、意志の属性(かたい・くじけやすい・健康な・ありふれた・……)と、林檎の属性とが直接結びつかない。5を見て、たとえば、「腐りかけた」とか「虫の食った」とかを積属性として、受け手がとらえることは、ほとんど不可能である。5のような比喩は、サスペンスである度合いが最も大きいといえる。

 このように、比喩をサスペンスの度合いからとらえると、送り手は、サスペンスの度合いの小である比喩と、サスペンスの度合いの大である比喩とに、二つの機能を分担させていることに気がつく。
← 比喩のサスペンスの度合い →
送り手本位←──────────────→受け手本位
被喩詞と喩詞との関係本位←──────────────→被喩詞本位
わたしのとらえかたはこうだ←──────────────→分かりやすく喩えよう

 サスペンスの度合いの小である比喩は、被喩詞を喩詞によって分かりやすく喩える。被喩詞がどのような属性を持つかを伝達することに主眼がおかれ、受け手の理解を助けようとする。

 サスペンスの度合いの大である比喩は、被喩詞と喩詞を関係づける「送り手のとらえかた」を示すことに主眼がおかれ、(一般的常識的なとらえかたでは表現価値がないので、独自的個性的なとらえかたをするから、それを表現した比喩が、受け手にはとらえにくくなる)、被喩詞本位というよりは被喩詞と喩詞の関係本位であり、受け手本位というよりは送り手本位である。このような比喩が成功すれば、受け手の世界観を拡大することになるが、失敗すると、わがままな・独善的な表現で終わることになる。


2−1 中原中也「生ひ立ちの歌」における「サスペンスとしての比喩」

 

生ひ立ちの歌 中原中也

(『山羊の歌』所収)
  

   幼年時
私の上に降る雪は
真綿のやうでありました

   少年時
私の上に降る雪は
霙のやうでありました

   十七ー十九
私の上に降る雪は
霰のやうに散りました

   二十ー二十二
私の上に降る雪は
雹であるかと思われた

   二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪と見えました

   二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……


   II

私の上に降る雪は
花びらのやうに降つてきます
薪の燃える音もして
凍るみ空の黝む頃

私の上に降る雪は
いとなびよかになつかしく
手を差し伸べて降りました

私の上に降る雪は
暑い額に落ちくもる
涙のやうでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して 神様に
長生きしたいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞節でありました
テキスト・年譜は、『中原中也詩集』(大岡昇平編 1981年6月 岩波書店)から引用した。

 題名と本文との間に、「生ひ立ちの歌なのに、身の上話じゃなくて、雪のはなしか」というサスペンスも仕組まれているが、この詳細については稿をあらためて述べることにして、本稿では、比喩に限って分析を試みる。

 I段では、「真綿・霙・霰・雹・ひどい吹雪」が、「私の上に降る雪」の降りかたを、喩えているかのようにみえる。「真綿」のように、心地よく暖かく私を包み込んでくれる「雪」が、年齢を加えるにしたがって、「霙・霰・雹・ひどい吹雪」と、私にとってより辛い激しい「雪」に変化していくようすが描かれているように見える。
 一連の「真綿のような雪」とは一見陳腐な比喩で、サスペンスはない。
 二連の「霙」も「雪」の一つの特殊な形で(雪が半ば解けて雨まじりになったもの)、比喩するまでもなく、「私の上に降る雪は、霙でありました」でもよさそうである。すべての連を「私の上に降る雪は……のよう」に合わせようとして、わざわざ比喩の形をとったかのように見える。
 しかし、次の三連の「霰」は、「雪」とは少し違う。「大気中から降下した結晶状態の水」という点では共通性を持つが、「霰」は「氷塊」であって、降下のしかたも違っている。霰を雪の喩詞とするのは、すこし無理があるのである。この比喩は、「なにかよくわからないが変だ」というサスペンデッド状態を起こすためのサスペンス表現であるととらえられるだろう。
 さらに、四連の「雹」となると直径5ミリ以上の氷塊であるから、雪の喩詞とするのは無理である。「雹であるかと思われた」のは「雪」ではないのではないか、と気づかせる機能を持ったサスペンス表現である。そして、「雪でない何なのか」というサスペンデッド状態を発生させる機能を持ったサスペンス表現でもある。
 五連の「私の上に降る雪はひどい吹雪と見えました」も、「雹」の比喩と機能は同じである。吹雪は強い風に吹かれて横なぐりに降る雪で、「私の上」に降り落ちてくる雪ではないから、「雪でない何かの辛さ激しさの程度が、より甚だしいのだ」と理解される。受け手のサスペンデッド状態をより強めようと仕組んだサスペンス表現ではなく、六連のの「わたしの上に降る雪はいとしめやかになりました」とともに、サスペンデッド状態を解消するための手がかりを示す機能を持ったサスペンス表現である。
 これまでのところを整理すると次のように図示できる。

サスペンスの度合 無 小 中 大 中
         ‖ ‖ ‖ ‖ ‖
     喩詞(真綿・霙・霰・雹・ひどい吹雪)→被喩詞「雪」
                         ↓
                    サスペンスによる転換
                         ↓
                         喩子「雪」→被喩詞「X(何か)」

 II段には、I段で仕組まれたサスペンス「雪とはなにか」を、解消する比喩がちりばめられている。
 一連「花びらのやうに」という一見陳腐な(形や落下のしかただけを喩えているならば)比喩から始まるのは、I段の「真綿のやう」で始まるのと同じである。
 二連「いとなびよかになつかしく 手を差し伸べて」という比喩によって、「雪」が喩える「なにか」が、人間であり、それもたぶん女性であることが推察できる。その女性との関係が、
 三連「暑い額に落ちくもる 涙」を流させるあるいは流させられる関係であること、
 四連「いとねんごろに感謝して 神様に長生きしたいと祈り」たいような気持ちにさせられる関係であること、が手がかりとして与えられる。
 最終五連の「いと貞節でありました」は、「何か」が女性であることを確認させようとするかのような比喩である。

 「生ひ立ちの歌」だからノンフィクションでないといけない、ということはないにしても、つまりフィクションであってかまわないのであるけれども、現実の一部分でも反映している可能性があるので、「雪」で喩えられている「何か」を明らかにするために、中原中也の年譜の内の「長谷川泰子」に関する記述をたどってみる。右に詩を対照させた。(年譜の年齢は満年齢であり、作品中の年齢(数え年)と、一歳ずれている)

年譜生ひ立ちの歌
15歳以前幼年時
私の上に降る雪は真綿のやうでありました
少年時
私の上に降る雪は霙のやうでありました
16歳 1923年(大正12年)
冬、詩人永井叙を知り、永井を通じて女優長谷川泰子を紹介された。
17歳 1924年(大正13年)
4月17日北区小山上総町ー市外大将軍椿寺裏谷出方に長谷川泰子と同棲[詩的履歴書]。
18歳 1925年(大正14年)
3月、泰子と共に上京、豊多摩郡戸塚町(現新宿区)源兵衛一九五林方に下宿。
11月下旬、泰子、小林秀雄の愛人となり去る。
十七ー十九
私の上に降る雪は霰のやうに散りました
21歳 1928年(昭和3年)
5月4日、小林、奈良へ去る。
二十ー二十二
私の上に降る雪は雹であるかと思われた
22歳 1929年(昭和4年)
5月上旬、泰子と共に京都に遊ぶ。
二十三
私の上に降る雪はひどい吹雪と見えました
23歳 1930年(昭和5年)
4月、『白痴群』第6号に「生ひ立ちの歌」を発表。
12月、長谷川泰子茂樹を産む。名付親となった。
二十四
私の上に降る雪はいとしめやかになりました

 出会い、同棲し、友人の愛人となって去られ、京都で共に遊び、産んだ子の名付親になってやった長谷川泰子との関係のみが、「霰・雹・ひどい吹雪・しめやか」と喩えられる「雪」で喩えられていると判断するのは乱暴であろう(「雪」は、自分を受け入れず辛く当たる世間などの「外的世界(女性を含む)」の被喩詞である、ととらえるのが「おだやか」である)。ただし、二十四歳時点の、産んだ子の名付親になってやるような長谷川泰子との「しめやかな」友人関係に比べれば、それ以前の精神的苦痛を伴うようなひどい男女関係を「霰・雹・ひどい吹雪」と喩えられる「雪」で喩えられていると判断することはできよう。(最終連の「いと貞節でありました」を、長谷川泰子に対する一種の賞賛の言葉としてとらえると、この詩が、現在の「しめやかな」友人関係を中心にし、過去の関係を現在の関係に対立するものとして描いている、ととらえることが、より自然になる。)

 さて、中原中也の一編の詩の分析を通じてだけではあるが、次のようなこと(羅列のままで構造化していないが)が分かりかけたように思う。

  1. 詩における「サスペンスとしての比喩」の機能は多様であること。
  2. たんに喩詞のイメージの連鎖が、作品世界を作り上げるという以上の機能を、「サスペンスとしての比喩」が持つこと。
  3. 喩詞と被喩詞との関係が、固定しているとは限らない。被喩詞が、隠された被喩詞の喩詞になっている場合があること。
  4. 隠された被喩詞が、特定の何かであると決定することが困難な場合があること。(サスペンデッド状態が、解消しないことがある)
 4は、「サスペンスとしての比喩」がもつ「送り手本位」性が関わるのであろう。照れたり隠しておきたかったりするから、不定のままに置かれるのであろうか。あるいは「隠語」のように、一定の読者に対して、「親和」の機能を持たせようとしたのだろうか。あるいは不定にしておくことで作品世界の重層化「女(長谷川泰子)との世界、それを含んだ外的世界」を図ろうとするのであろうか(作品世界の多層世界を明示しての重層化とは違って)。中原中也の詩に対する批判(貶し言葉「幼児性・自己中心性・わがまま・独善」)は、作品中に仕組まれた「サスペンスとしての比喩」の表現と、大いに関わっていると見て良いのではないか。

2−2 萩原朔太郎「およぐひと」における「サスペンスとしての比喩」

およぐひと 萩原朔太郎

  1. およぐひとのからだはななめにのびる、
  2. 二本の手はながくそろへてひきのばされる、
  3. およぐひとの心臓はくらげのやうにすきとほる、
  4. およぐひとの瞳はつりがねのひびきをききつつ、
  5. およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。
テキストは、『筑摩現代文学大系33巻萩原朔太郎・三好達治・西脇順三郎集』(1978年8月 筑摩書房)から引用した。行番号は論者が付記した。

 題名と一行目に不自然さは感じられない。およぐひとの姿がおよぐひと以外の第三者(詩人の)視点から叙述されている。ただ、「およぐ」という行為を描くにしては、やや静態的である。「およぐひとはからだをななめにのばす」と他動詞文を使って、行為であることをより明確にしようとするところである。あるいは、「からだ」を主題にするのであるならば、「およぐひとのからだは(およぐひとの意志によって)ななめにのばされる」と、およぐひとの意志とからだと動きとの関係を、受動態の文で示す可能性もある。詩人は、「のびる」と自動詞文にすることで、およぐひとの意志が介在しない「状態」として示そうとしたのであろうか。
 二行目は不自然さを感じさせる。手は、人間にとって最も意志的に運動させることができる器官であるから、およぐという行為をおこなっている人物本位にとらえると「二本の手をながくそろへてひきのばす」が自然な叙述である。
 二行目には二通りの解釈が可能である。
 第一の解釈は、およぐという行為をおこなっている人物以外のなにものかがひきのばしていて、手およびおよぐひとが、まるで受身になっているという現実世界には物理的にありえない「状態」が示されているととらえるものである。疲労していたり義務感のみがあって、行動主体の自由意志が薄れてしまっている場合には、このような「心理的状態」がありうると考えると、この二行目は、意志のない「心理的状態」を示そうとしたのであると考えられる。詩人は、およぐひとのおよぐ様子を見て、およぐひとには意志がないかのようにとらえたのである。
 第二の解釈は、詩人の視点がとらえたものが、まず、手であって、手本位にとらえた後に、およぐひとと手との関係をとらえたがゆえに(手とおよぐひととを分離して)、手からいえば「ひきのばされる」と受動態の文で叙述したというものである。「二本の手は(およぐひとによって)ながくそろへてひきのばされる」の「およぐひとによって」を省略した叙述であるというものである。
 二行目を、一行目での、およぐひとの意志が介在しない「状態」として示そうとしたこと、と関連させて解釈するならば、第一の解釈、意志のない「心理的状態」を示そうとした、が自然であろう。
 三行目は、比喩が使用されているという点で不自然さを感じさせる(もちろん「詩に比喩はつきもの」という観点からは、自然であるが)。喩えられている「心臓」には「こころ」とルビがうたれている。物理的な、血液を循環させる器官としての心臓と、精神的な、仮想器官としてのこころと、二重の意味が込められている。喩えているのは「くらげ」である。海で泳いでいるのなら、近くを漂っているかもしれない。場は共有しているといってよい。結合点は「すきとほる」である。「くらげのやうにすきとほった心臓」「くらげのやうにすきとほったこころ」両方ともにイメージすることは可能である。アクリルでつくられた人体模型の心臓、あるいはコンピュータグラフィックで描かれた人体模型の心臓をイメージできる。
 一・二行目で隠在していた、意志のない「心理的状態」を、「くらげのやうにすきとほったこころ」によって、顕在化したととらえられる(意志があると、心は、濁っていたり、何らかの色が付いていたりするのであろう)。と同時に「くらげのやうにすきとほった心臓」という形象に、意志のない「心理的状態」を定着・象徴させているともとらえられる。
 以上の分析を、比喩表現を中心に、サスペンスの観点から、整理すると、萩原朔太郎の「およぐひと」において、比喩表現「およぐひとの心臓はくらげのやうにすきとほる」は、比喩表現としてサスペンデッド状態を発生させる。心臓が二重の意味を持っていることが明示されているので、イメージもとらえやすく、サスペンデッド状態は、短時間に解消する。と同時に、先行する一・二行目で発生したサスペンデッド状態を解消する。つまり、比喩表現による小サスペンスが、先行する大サスペンデッド状態の解消の働きを担っていたのである。


おわりに

 サスペンスという観点は、文章の構成分析において有効であると思われる。

 本稿で取り上げた「比喩表現」は、文章構成との関わりで論じられる時、「比喩表現が作り出す感情文脈、イメージの流れ」という観点を用いるにとどまっていた。そして、文章の構成のメインストリームを形成する要素というよりは、サブストリームを形成する要素としての研究であった。
 詩作品において、「比喩表現」が構成のメインストリーム(ストーリー・プロット以外のものも視野にいれて)を形成する要素の一つであるのは、「比喩表現」が持つサスペンスの機能によるものである。逆にとらえなおしてみると、「比喩表現」に限らず、文章中でサスペンスの機能をもつ表現の中には、構成のメインストリームを形成する要素になっているものがあるのではないかと考えられる。そのような表現を、われわれの心はとらえているのに、頭はとらえていないのではないかと考えられる。表題を「文章表現におけるサスペンスについて(1)」としたのは、(2) 以下で、それらを明らかにしていきたいという願いの現れである。


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注記

*01
拙稿「泣かせる表現」(『国語表現研究』第5号 1992.3)において、泣かせる表現の仕組みを、つぎのようではないかと考えた。

 最後の「構成は、サスペンスをストーリーの中心とし、それが解明されたところが『泣かせ所』である。」ことを見いだしてから、文章の構成において、「サスペンス」が大きな働きを担っているのではないかと考え、サスペンス(の機能)に着眼するべきだと考えるようになった。

 先行研究としては次にあげる二つの論文がある。
  1. 波多野完治氏は、「文章の要素と種類」(『文章講座』第2巻所収 1954.8 河出書房)の中で、「文章表現は、言語を用いて個人的な「緊張体系の再現」を意図するものであり、文章上の手法はすべて緊張体系形成のための手段とみる。」と述べた。
  2. 江連隆氏は、「サスペンスによるプロットの構造分析」(弘前大学教育学部紀要 第42号 1979.9)で、小説文を資料に、サスペンスの「発端・経過・結果」と、プロットとの関係を分析した。
*11
半沢幹一氏は、「比喩的転換の方向と距離」(「講座日本語の表現5 日本語のレトリック」所収)において、「意外性」・「表現効果」という用語で、同様の見解を示している。

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