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文章表現におけるサスペンスについて(2)
――サスペンスとしての描写――

野浪正隆

のなみまさたか

1 〔描写〕の定義

 単文の比較だけで描写か否かの判定を下すのは危険であるが、描写の一応の範囲を知るために次にあげるような例文で、どこまでを描写とするか考えてみる。

 例文1 昨日、雨が降った。

 例文1は「昨日」の事態を、「今日(あるいは現在)」振り返って叙述している。視点は「今日」にあって「昨日」にない。「叙述視点が属す時刻」と「叙述対象が属す時刻」が同時刻でない。このような文を〔記述〕として、〔描写〕と区別しよう。

 例文1a 昨日のことだった。雨が降っていた。
 例文1b 昨日のことだった。見上げると空から大粒の雨が降っていた。

 例文1aや1bのように、「叙述視点が属す時刻」と「叙述対象が属す時刻」が同時刻でないことを〔解説〕して独立させておいて、後続文に「叙述視点が属す時刻」を潜ませた場合(「た」によって異時刻であることを示すのであるから、消えてしまっているわけではない)、後続文には「叙述対象が属す時刻」が表に立つので、異時刻が目立たず、例文1のような〔記述〕であるよりは、〔描写〕よりになる。
 例文1bでは、昨日のその時に叙述視点が属していることが「見上げると」で示されているので、〔描写〕であるといえる。例文1aでは、「叙述視点が属す時刻」のありようが、例文1と例文1bの中間的であって、昨日のその時雨が降るのを見ていたことを叙述しているのか(例文1b的)、叙述時の今昨日のことを思い出しているのを叙述しているのか(例文1的)、未定なのである。

 例文1c 昨日のことだった。雨が降っていた。僕は、その時のことを詳しく思い出そうとして……。
 例文1d 昨日のことだった。雨が降っていた。窓に雨粒が光っていた。

 未定である「叙述視点が属す時刻」は、後続文のそれによって確定していくのである。
1cでは、「異時刻」+「未定」+「異時刻」で、「未定」は「異時刻」に確定することになろうし、
1dでは、「異時刻」+「未定」+「同時刻」で、「未定」は「同時刻」に確定することになり、
「雨が降っていた。窓に雨粒が光っていた。」は、〔描写〕であるといってよいだろう。

 例文2 朝からずっと雨が降っている。

 例文2の「叙述視点が属す時刻」は、「叙述対象が属す時間」の最後の時刻と重なっている。「朝から{今まで}ずっと雨が降っている」の「今」が重なっている時刻である。「今」を重視すれば〔描写〕に含めても良いように思えるが、「叙述対象が属す時間」が長い〔記述〕と短い〔描写〕の区別はつけておきたい。〔描写〕は瞬時の事態の叙述であると規定しておく。

 例文3 窓の外に、雨が降っているのが見える。
 例文4 窓の外に、雨が降っている。

 例文3・例文4は、「叙述対象が属す時刻」と「叙述視点が属す時刻」とが同時刻であることを示す指標「見える」のあるなしに違いがある。「見える」と、視点のありかをあきらかにしなくても「雨が降っている」ことを視覚・聴覚・皮膚感覚・嗅覚のいずれかでとらえて叙述していることは「暗黙の了解」であり、例文4の叙述に隠在していると考えられる。〔描写〕としては差異はない。ただ、例文3では、視点人物の存在を強調する機能が付加されていると考えておく。

 例文5 窓に雨粒が水晶のように光っている。
 例文6 窓に雨粒が美しく光っている。

 例文5は、例文4に比喩「水晶のように」を付加した叙述である。比喩は「対象を分かりやすく伝達する」あるいは「叙述者の独自のとらえ方を伝達する」目的で付加されるので、いずれにしても叙述者表現である注1

 例文6も、例文4に叙述者の価値判断「美しく」を付加した叙述である。知覚内容をできるだけそのまま言語化した叙述を〔描写〕として、他の叙述(記述・説明・評価)と区別したいので、例文5・例文6は「水晶のように」「美しく」を別扱いとし(叙述者表現の評価などに抜き出す)、それらをのぞいた部分を〔描写〕とする。

 例文7 窓に雨粒が水晶のようだ。
 例文8 窓の雨粒は水晶のようだ。

 例文7は、例文5の「ウナギ文」である。「窓に」が存在系の述語部(「ある」とか「光っている」とか)を予定し、「だ」が代動詞的に機能しても、叙述者の判断内容「水晶のようだ」が、「光っている」を覆い隠している。例文7は、〔描写〕と例文8のような〔説明・評価〕との中間的な叙述である。

まとめ

 論者が想定する〔描写〕は、記述に近いものや、説明的評価的な叙述者表現を排除した、最も範囲の狭いものであって、「描写的描写」といわれているものに近い。

2 小説冒頭部の基本形

 次に挙げるのは早乙女貢の短編時代小説『一の酉』の冒頭六文である。

  1. 三の酉のある年は火事が多いという。
  2. 十一月に入ると江戸の街は砂埃りを巻き上げる風に冷たさが増す。
  3. 殊にその宵は、ひときわ空っ風が強く、急いで足袋も履かずに出て来たおなみは、ときどき立ち止まって、体の向きを変えて裾を直さねばならなかった。
  4. 路地のうちではそれほどに感じなかったのだが、新堀端に出ると髷がこわれそうな風だった。
  5. おなみは簪をたしかめた。
  6. 腕をあげると身八つ口がひやりとした。

 1文は、一般的時間「三の酉のある年」と、一般的事態「火事が多い」とを関係づけた文で、〔解説〕である。伝聞「という」によって、語り手の判断ではなく一般的判断であることを示している。
 2文も、1文と同じく、一般的時間「十一月に入る」と、一般的事態「江戸の街は砂埃りを巻き上げる風に冷たさが増す」とを関係づけた文で、〔解説〕である。1文の伝聞文末「という」から、現在形文末「冷たさが増す」に変化することによって、一般的判断から、語り手の個別的判断に変化した可能性が生じる。(「冷たさが増す」まで、「という」が及んでいるとも考えられるので、まだ一般的判断が継続しているとも考えられる)
 3文は、個別的時間「殊にその宵」と個別的事態「ひときわ空っ風が強く」とを語り手が関係づけて、解説的に個別的時空間を設定し、そのような背景の中で、登場人物「急いで足袋も履かずに出て来たおなみ」の個別的行動「ときどき立ち止まって、体の向きを変えて裾を直シタ」を、登場人物「おなみ」の心中描写を伴わないで、語り手が外部視点から描いている。文末「直さねばならなかった」は、文頭「殊にその宵は、ひときわ空っ風が強く」を受けていて、個別的条件「殊にその宵は、ひときわ空っ風が強かったので」と個別的対応行動「直さねばならなかった」の関係づけであるとも考えられる。さらに、おなみの行動が反復「ときどき」であって、一回きりの事態叙述でないことも考え合わせると、語り手がおなみのいくつかの行動を要約し、行動の条件を合わせて述べた〔記述〕としておける。
 4文は、登場人物の感覚「路地のうちではそれほどに感じなかった」や、登場人物の個別的判断「新堀端に出ると髷がこわれそうな風だった」を、語り手が登場人物の感覚に即して叙述している。語り手の視点はおなみの心中に入り込んでいると考えられるので、心中描写とするのがよいか、あるいは、「それほどに感じなかった」主体はおなみであろうが、「髷がこわれそうな風だった」の判断主体は語り手である可能性も残されているし、「路地のうち」と「新堀端」の、二地点・二時刻の事態を一つの文で叙述していることを考え合わせて、心中描写を含んだ事態の〔記述〕とするのがよいか。
 5文は、登場人物の行動「おなみは簪をたしかめた」の〔描写〕である。ただ、「おなみは簪に手をやった」と語り手がまるきり外部から描写しているのではなく、「たしかめる」というおなみの心理本位に行動を描写している点に着目したい。語り手の視点は、おなみの心中に、外部から半分入り込んでいるのである。
 6文は登場人物の感覚「腕をあげると身八つ口がひやりとした」の描写である。5文が語り手の視点がおなみの心中に半分入っていたのと比べると、6文では、語り手の視点がおなみの心中に入り込んで、両者の視点はぴたりと重なっているのである。

 以上を図示する。

 
早乙女貢『一の酉』冒頭6文の叙述分析
本文対象表現叙述者表現備考
描写記述説明
解説
評価
心中行動
三の酉のある年は火事が多いという。1一般的判断
十一月に入ると江戸の街は砂埃りを巻き上げる風に冷たさが増す。2一般的(個別的)判断
殊にその宵は、ひときわ空っ風が強く、急いで足袋も履かずに出て来たおなみは、ときどき立ち止まって、体の向きを変えて裾を直さねばならなかった。3個別的事態
路地のうちではそれほどに感じなかったのだが、新堀端に出ると髷がこわれそうな風だった。44個別的事態・内部視点
おなみは簪をたしかめた。55外部(内部)視点
腕をあげると身八つ口がひやりとした。6内部視点
主体語り手
視点の位置

 時や所を〔解説〕によって叙述し、大まかな事態を〔記述〕によって叙述し、限定された時空間での事態を〔描写〕によって叙述する。事態の書き分けだけではなく、叙述の並び方に着目したい。永尾章曹氏の「特定の時の提示と文脈起こし」注2 が、1・2と3・4でそれぞれおこなわれ、5・6で、それまで流れていた時間が停止する。さらに、語り手よりの〔解説〕・〔記述〕から、登場人物よりの心中描写へと、スムーズにかつ急激に視点の焦点化がなされる。
 小説の冒頭では、このように「解説・記述・描写」の順に並ぶのが一般的であろう。〔描写〕の機能本位にとらえると、登場人物の視点に語り手の視点を重ね合わせることで、読み手の視点を登場人物の視点に誘導するのである。読み手は、登場人物おなみのつもりになって以下展開する小説世界を経験することになるのだが、〔描写〕の機能は、はたしてそれだけにとどまるのであろうか。

3 裸の描写はサスペンスを発生させる。

次にあげるのは、川端康成「伊豆の踊子」の冒頭第一文である。

  1. 道がつづら折りになって、(風景静態描写)
  2. いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、(心理描写)
  3. 雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい速さでふもとから私を追ってきた。(風景動態描写)

 冒頭第一文は、風景が描写される。(途中に心理描写が挟み込まれる形を取っているが、このbは純正な心理描写とは考え難い。まず、地点を概略的に記述した「いよいよ天城峠に近づいたころ」と、bは大差がない。次に、「近づいたと思う」主体は、文末まで読めば、「私」であることが分かるが、bの時点では不明である。さらに、「近づいたと(私ガ)思うころ」を「近づいたと(誰デモ)思うころ」と、個別的主体から一般的主体に読み換えても、決定的な誤読にはなりそうもない。)
 その描写によって描かれている対象が「何の」「どんな状態(動態・静態)」であるかはわかるので、その点で、サスペンスではない。しかし、その対象が「どんな意味を持つのか」・「語り手がどのような評価をしているのか」・「文章中の他の題材・話題と、どのように関係するのか」は示されないので、その点で、読み手にサスペンデッド状態が発生する。換言すると、前述した「小説冒頭部の基本形」から逸脱して、「解説・記述」という衣服をまとわない〔裸の描写〕においては、「なぜ、風景描写から始まるのだろう」というサスペンデッド状態が、読み手に発生するのである。
 そして、このサスペンデッド状態の解消は、いつどのように解消するのであろうか。(早急な結論をあえて出すならば)描写対象を象徴暗示としてとらえたとき、サスペンデッド状態が解消すると思われる。例えば、「つづら折りの道」が「私の心の屈折」の象徴であり、「雨脚」が最終場面の「涙」の暗示であるというように。
 文学作品を読んで、「このものごとは、あれの象徴だな」と考えるのは、そのものごとが、わざわざ描写されているから、そして、描写によるサスペンスであるからではないだろうか。こと(事態)の時間的推移の叙述ならば、新聞の事件記事がそうであるように〔記述〕だけでかまわないのである。わざわざものごとを描写する以上、叙述者の意図が描写に込められていると考えられる。その意図が不明であるが故にサスペンデッド状態が発生し、その解消と「象徴・暗示」とが結びつくのである。
 例えば、芥川竜之介の「羅生門」で、「きりぎりす」や「にきび」や「聖柄の太刀」が、それぞれ「孤独」「迷い」「正義」の象徴ととらえられている。「羅生門」本文の該当語句が現れている文を次に挙げる。すべては描写である。

きりぎりすは、孤独の象徴

にきびは、迷いの象徴

聖柄の太刀は正義の象徴

 それぞれの事物が何かの象徴であるととえらえられるのは、それらが描写の中に現れ、かつ何度も現れて、「なぜ、これが何度も描写されているのだろう」というサスペンデッド状態が、読み手に発生するからである。

 次にあげるのは、芥川竜之介の「ピアノ」の冒頭五文である。「踊り子」の冒頭第一文と違って、サスペンデッド状態を発生しないように配慮した冒頭部になっている。

  1. ある雨にふる秋の日、わたしはある人を訪ねるために横浜の山手を歩いて行った。
  2. この辺の荒廃は震災当時とほとんど変わっていなかった。
  3. もし少しでも変わっているとすれば、それは一面にスレートの屋根や煉瓦の壁の落ち重なった中に藜の伸びているだけだった。
  4. 現にある家の崩れた跡には蓋をあけた弓なりのピアノさえ、半ば壁にひしがれたまま、つややかに鍵盤を濡らしていた。
  5. のみならず大小さまざまの譜本もかすかに色づいた藜の中に桃色、水色、薄黄色などの横文字の表紙を濡らしていた。

 1文では、「どんないつ」「なんのために(なぜ)」「だれが」「どこで(どこを)」「どうした」ことが〔記述〕されている。「なんのために(なぜ)」を示すことで、小説冒頭としてはサスペンスを発生しない叙述になっている。
 2文では、「わたし」の視点から眺めた「横浜の山手」を「この辺り」と〔記述〕で叙述し直し、「荒廃は震災当時とほとんど変わっていなかった」と評価しており、ここでもサスペンデッド状態は発生しない叙述である。
 3文は、評価成分「もし少しでも変わっているとすれば、それは……だけだった。」が、描写成分「一面にスレートの屋根や煉瓦の壁の落ち重なった中に藜の伸びている」を包み込んでいて(評価の衣服を身にまとっていて)、描写だけであれば発生したであろうサスペンデッド状態が発生しない叙述である。
 4文は、評価成分「現に」「さえ」が、描写成分「ある家の崩れた跡には蓋をあけた弓なりのピアノ(ガ)、半ば壁にひしがれたまま、つややかに鍵盤を濡らしていた」の中に埋め込まれていて、3文同様に、サスペンデッド状態が発生しない叙述である。
 5文においても、評価成分「のみならず」が、描写成分「大小さまざまの譜本もかすかに色づいた藜の中に桃色、水色、薄黄色などの横文字の表紙を濡らしていた」の中に埋め込まれていて、3文同様に、サスペンデッド状態が発生しない叙述である。
 「ピアノ」や「譜本」の描写は、2文の「この辺の荒廃」ガ「震災当時とほとんど変わっていなかった」コトの例示としてだけ機能しているようである。展開部の「ピアノを鳴らしたのはなにか」という大サスペンスを生かすために、冒頭部で発生しがちなサスペンデッド状態を発生しないように配慮したのであろう。

4 おわりに

 〔描写〕を狭く限定した場合に、サスペンスの機能が浮かび上がってくる。〔描写〕は「わざとらしい(レトリカルな)」表現である。そして、その「わざとらしさ」は、表面には現れない。読み手に対する視点誘導や本当らしさ(リアリティー)を感じさせるという機能は、見えやすいのであるが、サスペンスの機能を介して、「象徴」につながる様相は見えにくい。本稿の方向で、より詳細に描写の機能をあきらかにしていきたい。

注記

  1. 拙稿「文章表現におけるサスペンスについて(1)――サスペンスとしての比喩――」(学大国文第36号 1993.3 大阪教育大学国語国文学研究室)を参照下さい。
  2. 永尾章曹「国語表現法の基本的な諸問題」(表現学大系総論編第1巻「表現学の理論と展開」所収 1986.7 教育出版センター刊 )を参照下さい。

参考文献

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