「下人」は、社会階層や職掌であるから、「下人」を呼称に用いると、彼の外形全体の映像を喚起することができる。下人らしい衣装・顔つき・髪型・体つき・持ち物など。「男」は、社会階層や職掌をあらわしてはいないから、「男」を呼称に用いると、喚起できる映像としては、せいぜい顔つきくらいである。顔つきも、形ではなくその精神性をあらわすものとなる。呼称「下人」と呼称「男」の差の一つは、映像性・精神性である。本論では、「羅生門」における呼称「下人」・「男」の使い分けを表現論的に考察し、特に「サスペンスの仕掛けとしての呼称表現」にまで迫りたい。
片村恒雄「羅生門」の人物呼称 日本語学2-7 昭58.7
[00] (15) ある日の暮れ方のことである。 [01] 32 一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。 広い門の下に [02] 65 この男のほかにだれもいない。ただ、所々丹塗りのはげた、大きな [03] 47 この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二、三 [04] 580 この男のほかにはだれもいない。 なぜかというと、この二、三年 [05] 85 下人は七段ある石段のいちばん上の段に、洗いざらした紺の襖のし [06] 23 下人が雨やみを待っていた。」と書いた。しかし、 [07] 109 下人は雨がやんでも、格別どうしようという当てはない。普段なら [08] 53 この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実 [09] 30 下人が雨やみを待っていた。」と言うよりも「雨に降りこめられた [10] 53 下人が、行き所がなくて、途方に暮れていた。」と言うほうが、適 [11] 63 この平安朝の下人のSentimentalismeに影響した。 [12] 315 下人は、何をおいても差し当たり明日の暮らしをどうにかしようと [13] 69 下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげくに、やっとこの局所 [14] 107 下人は、手段を選ばないということを肯定しながらも、この「すれ [15] 121 下人は、大きなくさめをして、それから、大儀そうに立ち上がった [16] 168 下人は、首を縮めながら、山吹の汗衫に重ねた、紺の襖の肩を高く [17] 104 下人はそこで、腰にさげた聖柄の太刀が鞘走らないように気を付け [18] 55 一人の男が、猫のように身を縮めて、息を殺しながら、上の様子を [19] 44 その男の右のほおをぬらしている。短いひげの中に、赤くうみを持 [20] 188 下人は、初めから、この上にいる者は、死人ばかりだとたかをくく [21] 408 下人は、やもりのように足音を盗んで、やっと急なはしごを、いち [22] 78 下人は、それらの死骸の腐乱した臭気に思わず、鼻をおおった。し [23] 21 この男の嗅覚を奪ってしまったからである。 [24] 148 下人の目は、そのとき、初めて、その死骸の中にうずくまっている [25] 199 下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は息をす [26] 134 下人の心からは、恐怖が少しずつ消えていった。そうして、それと [27] 13 この下人に、さっき門の下で [28] 44 この男が考えていた、飢え死にをするか盗人になるかという問題を [29] 33 下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。それ [30] 49 この男の悪を憎む心は、老婆の床にさした松の木切れのように、勢 [31] 72 下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなか [32] 66 下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛 [33] 47 下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、と [34] 87 下人は、両足に力を入れて、いきなり、はしごから上へ飛び上がっ [35] 43 下人を見ると、まるで弩にでもはじかれたように、飛び上がった。 [36] 58 下人は、老婆が死骸につまずきながら、あわてふためいて逃げよう [37] 15 下人を突きのけて行こうとする。 [38] 70 下人はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の [39] 80 下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。 [40] 130 下人は、老婆を突き放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼 [41] 146 下人は初めて明白に、この老婆の生死が、全然、自分の意志に支配 [42] 175 下人は、老婆を、見下ろしながら、少し声を和らげてこう言った。 [43] 143 その下人の顔を見守った。まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、 [44] 48 下人の耳へ伝わってきた。「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな [45] 571 下人は、老婆の答えが存外、平凡なのに失望した。そうして失望す [46] 109 下人は、太刀を鞘に収めて、その太刀の柄を左の手で押さえながら [47] 31 下人の心には、ある勇気が生まれてきた。それは、さっき門の下で [48] 75 この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の [49] 40 下人は、飢え死にをするか盗人になるかに、迷わなかったばかりで [50] 81 この男の心持ちから言えば、飢え死になどということは、ほとんど [51] 120 下人はあざけるような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると [52] 80 下人は、すばやく、老婆の着物をはぎ取った。それから、足にしが [53] 215 下人は、はぎ取った桧皮色の着物をわきにかかえて、またたくまに [54] (15)下人の行方は、だれも知らない。このうち、「下人」→「男」のパターンは次の7つである。
1・2については、後述する。
3は、以下の理由から代名詞的用法とは考えにくい。
4・5・6・7は、以下の理由から代名詞的用法と考えられる。
ただし、4の「この下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、飢え死……」では、「この下人に、さっき門の下で( )考えていた、飢え死……」と、省略可能なので、呼称「この男」によってなにかの意味を付加しようとしたのではないかという可能性がある。しかし、門の下で考えていたときの呼称は「下人」だったので、「男」の脱社会性のような(例えば)意味を付加しようとしたとは考えにくい。
5・6・7に共通するのは、指示語による強い連接性である。
そして、4・5と6・7を対照すると
対表現である(下人の心理変化の方向は逆であるが)ことがわかる。そして、呼称の変化「下人」→「この男」→「下人」→「この男」も同じであるところを見ると、
芥川が、読者に、4・5と6・7とが対表現であることを意識しやすくさせるために、「下人」→「この男」→「下人」→「この男」というように呼称を変化させた。と推測することが可能である。
2 で「下人」として登場させた人物を 3〜6 では、「この男」と呼ぶ(3連発で)。
文章の冒頭部であり、まだ一度しか呼称「下人」は使っていないのだから、頻繁ということはないはずである。「下人」がどんな「下人」であるのかが叙述されるべき部分である。なぜ、「この男」(3連発)なのか。
3〜6の「この男」を「下人」に置き換えると、どんな意味が欠けるのか。付け加わるのか。
「誰もいない」ことと関係していると見るのが、適当であろう。3・5・6 は、人間が「誰もいない」ことの記述である。4 は、「誰もいない」ことを強調するための風景描写である。(43文 丹塗りの柱にとまっていたきりぎりすも、もうどこかへ行ってしまった。 ときりぎりすの描写が繰り返されるところから、きりぎりすを下人(男)の孤独な心理の象徴と見るのは読み過ぎであろうか)
誰もいなくて、彼が社会から切り離された存在であることを示すためには、社会階層や職掌をあらわす「下人」という呼称より、単独の人間(性別はしめすが)であることをあらわしやすい「男」という呼称が適しているのであろう。そして、きりぎりすの風景描写と重ねることで、彼の孤独な心理をあらわすことができると考えたのであろう。
「きりぎりす」本位に、3〜6 の叙述をとらえなおしてみると、「この男のほかに誰もいない」を「地」として、「きりぎりす」が「図」として浮かび上がってくる。「きりぎりす」を下人(男)の孤独な心理の象徴として読み手に意識させるための下地作りが、呼称「この男」(三連発)であるといえる。
「男」が次にあらわれるのは、49〜52 の場面である。
ここについて、片村恒雄(「羅生門」の人物呼称 日本語学2-7 1983年7月)に次のような指摘がある。
右の二例は、場面転換の手法と密接な関係を持つ。ここでは、物語の展開に変化を与え、緊張感を持ち込むために、語り手は「下人」に注いでいた視線を一旦断ち切って場面の連続性を解消し、その上で新しい目で主人公の行為を語っていくという手法をとる。「場面転換の手法と密接な関係」の詳細が気になるので、この場面での「男」の表現効果を検討する。50の「一人の男が」を「男」・「下人」とした場合と、比べて見る。
用意するもの 本文(MS-DOSの標準ファイルにしておく) エディタ(筆者はVzエディタを使用) jgawk daimeisi.awk --^ daimeisi.awk ------------------------ { l=jlength($0) s=jsubstr($0,0,30) printf "[%02d] %3d %-s¥n";,i++,l,s } --$ daimeisi.awk ------------------------ 手順 1 エディタに本文ファイルを読み込む。 2 改行を削除する(Vzならf・7の置換をおして検索文字列に ¥n を 入力し、置換文字列指定は改行のみ入力する(空文字)) 3 調べたい呼称を文頭にした1行を作る。 検索文字列=調べたい呼称 置換文字列=¥n調べたい呼称 で置換する。(調べたい呼称分だけ繰り返す 下人・男) 連体詞等が前行末尾にぶら下がっていないか、チェックする。 4 題名や著者名の行は削除して、本文だけにする。 5 jgawk -f daimeisi.awk 本文ファイル > kekka で、kekka にあのような表が作成されている。