探偵入門
才戸 朋洋
松村が動き出した。彼は今まで腰を掛けていたガードレールを離れるとぼくの前を通り過ぎ、すでに黄色の点滅信号に変わっている交差点を渡ろうとしている。ぼくは駅の入り口に下ろされたシャッターもたれながら彼の行方を目で追った。午前一時をわずかに過ぎたばかりだというのに道路を走る車はほとんど見当たらない。松村は左右とそして足元に転がっている空き缶に目をやると、別に急ぐ様子もなく歩いていった。
退屈。この駅にたどり着いたとき全身にまとわり付いていた絶望感が去ると、果てしない時間との戦いに駆り出されることになった。背中を流れる汗が蒸発するときのように何かをしていないと温度が奪われてしまう、そんな感覚に似ている。そもそも今日は木曜日だからいつもなら六時半に部屋に帰っているはずだが、この駅で一夜を明かすことになったのは、つまらない理由からである。
大学から帰る途中、ぼくは明日の授業が休講になっているのを期待するでもなく、ただ習慣のように掲示板をのぞきこんでいた。金曜の欄に見覚えのある授業はなく、無感動にカバーのとれた自転車のベルを右手の人差し指で回していた。また明日、九時から四時過ぎまでこの校舎に授業を聴くでもなく待機していることに一抹の虚しさをおぼえながら、また別のところでは帰りのラッシュを思い起こしていた。われながら黄昏てるなと思ったが、ベルを空打ちするカシャ、カシャという音がそう思わせたのか、ただ淋しかっただけなのかは分からない。しかし彼女が後ろから話し掛けてくれたとき、嬉しいのと同時に充たされたような気がした。
「何か載ってる?」
彼女は自転車にまたがって微笑んでいた。
「いや、ぼくの授業は全部あるみたいだけど」
ぼくの隣にいた自転車が走り去って、彼女はぼくのすぐ脇に滑り込んだ。視力が低いのか、大きくて黒目がちな瞳を細くして掲示板を見上げる表情は、テリヤのような小形の犬を連想させる。
「わたしもあるみたい。面白くないな」
「うん、もっと先生、真面目じゃなかったらいいのにな」
「ねえ、何か気晴らしに遊びに行かない?」
大学に入ってから四ヶ月の間に五、六回ばかり話しただけの人間と二人で遊びに行くことに少なからぬ抵抗はあったが、ドラマの出会いのシーンのようなシチュエーションに呑まれてしまったのが運のつきだった。カラオケ、ファミリーレストラン、ボーリング、喫茶店と考えられるコースをすべて歩み、挙げ句の果ては「今度の夏合宿、男手が足りなくて困ってるんだけど、今からでも遅くないからサークルに入らない」と切り出された。大学にいくつもあるテニスサークルの中の一つに入っているという彼女は、早速一回生の仕事として知り合いを勧誘してくることを言い使ったのだそうだ。それほど各サークルの生存競争が激しいことが伺えるが、ぼくには同情する気は全くない。むしろ、ほとんど会話もしたことがないぼくにまで声を掛けてくることに新興宗教の布教活動のような不気味ささえ覚えた。適当に話を切り上げ彼女と別れたときは、もう十一時になろうとしていた。
小学生のように帰宅時間を気にしながら、ラッシュをまぬがれた喜びに浸っていたぼくを一気に叩きのめしたのは、ちょうど乗換駅のホームに降り立った瞬間だった。照明の何%かはすでに落とされているのか、四、五番ホームは薄暗い光に浮かんでいた。電車から降りた乗客はみな土色の顔をして出口の階段に吸い込まれていった。そこに残されたのは、ほうきとちりとりを足元に置き発車の合図をしようとしている駅員だけだった。五番ホームの行き先表示板は、ただ暗い闇を抱いたベッドのように静かにそこにあるだけだ。乗り継ぎ電車がないことに気づくまでそんなに時間はかからなかった。しかし人間は常に前に進みたがる性質を持っているらしい。ぼくは発車のベルが鳴るのを聞くと今乗ってきた電車に再び飛び乗ってしまったのだ。
さっきまでは、この辺りを歩きまわって頭の中に初めて訪れるこの街の地図でも作ろうかと思っていたが、それもやめた。バス停の向こうで輪になってしゃべっている高校生ぐらいの五人組が、ぼくが前を通るたびにこっちの方を気にしているのが分かったからだ。
同じ境遇だろうか。ガードレールに腰を掛けている男がいる。彼もここで一夜を明かそうとしているのだろうか。ここしばらく動こうとする気配は全く見せない。それにしても妙な存在感を持っている。表面にうっすら汗を浮かせているぶよぶよした肌。額にはりついている切り揃えられた前髪。背は低いもののがっしりとした体躯。それらはぼくにテレビに出ている松村邦洋を思わせた。
彼以外ではもう一人、坊主頭でひげを生やしたやくざ風の男がいる。男はさっきから道路脇にじっと立っている。たぶんタクシーを待っているのだろう、ぼくがここに居座ってからまだ一台も通っていない。
しかし、ぼくはこれからどうなるのだろう。ここで始発を待つことを決心してからは、やけに時間が遅く感じられる。今のうちから彼と仲良くなっておくべきかもしれない。ともに時間と不安を持て余している者どうし、くだらない話を延々と続けることができるなら幸いだし、彼のことを知らないまま別れてしまうのはもったいなくもあり、気持ち悪くもあった。とはいうもののやはり、声をかけるまでには至らなかった。
ここにきて三十分が過ぎた頃だろうか、ぼくに突然名案が浮かんだ。人間というものは目的を持った瞬間から暇が暇でなくなるものだ。たとえそれが無意味なことであったとしても。
ぼくは以前に一度だけ人を尾行したことがある。確か浪人時代に模擬テストを受けに行った帰りのことだったと思う。それまでにも尾行をしようと試みたことは何度かあった。しかし、そのときまでなかなか実行に移せなかったのは、やはり興信所や探偵会社の人が仕事としてやる場合を除いて、犯罪的、変態的に思えたからである。
私立文系志望者のテストは午後二時に終わり、ぼくはそのあとの時間を持て余していた。まっすぐ家に帰りたくなるような出来だとは言い難く、かといって出来の悪さをわりきって鬱憤晴らしに行けるほど大胆でもなかったのだ。その宙ぶらりんな気持ちが、ぼくに一線を越えさせたのかもしれない。
休日の昼下がりとあって、大勢の人がひっきりになしに行き交っている。ぼくは、予備校の近くの駅のステーションビルに入り、待ち合わせに使われることの多い広場で、オブジェにもたれて立っていた。が、さっそくそこでぼくは大きな問題にあたってしまった。誰を尾行するか、である。今までは全く気にもかけなかった人の群れは、個人だけで成り立っているのではなかったのである。二人以上の小集団の集まりであったのだ。今日が休日のせいということもあるのだろうが、独りで暇つぶしをしているような人間は見当たらなかった。ぼくは仕方なく、ターゲットを探すため、しばらくこの場で待機することにした。
今思えばこのときも突然だった。早足で歩いていく女の人の後ろ姿を見たとたん、背中の産毛が総立ちするような感覚に襲われたのだ。彼女は黒い革のハーフコートにホワイトジーンズをまとっている。右うでを八十度ぐらいに折り曲げそこにブランド物らしい黒いボストンと白い傘を掛けている。唯一モノクロではない傘の青い柄が、その存在を主張しているようだ。ぼくにはその傘の柄のわん曲が檻の中に放り出されたヘビに見えた。そして自分の自由をも忘れてこっちをにらむヘビは、ぼくの混迷した心を動けないカエルのようにとらえて放さなかった。
彼女は地下鉄の駅の方に向かって行った。まっすぐ家に帰るとは思えない何か目的を持った歩き方をしている。それぐらいのことは歩き方を見ているだけで分かるものだと初めて知った。ぼくは、彼女との距離が十メートルぐらいになったのを確認すると、ついに探偵としての第一歩を踏み出した。
やはり彼女は地下鉄に乗るらしいが、幸いなことにぼくは地下鉄と私鉄数社に共通のプリペイドカードを持っていた。どこに向かおうが大抵の所へはついていけるだろう。彼女は定期券を持っていた。ということはこれから家に帰るのだろうか、そんな不安を抱きつつ彼女の隣のドアから地下鉄に乗り込んだ。
彼女もしばらくは乗っているだろうと、ぼくはたまたま空いた席に座ると、彼女はそれを見透かしていたかように次の駅でさっさと下りてしまった。そしてエスカレーターに乗っても歩みを止めることなく一気に上っていった。まさか、気付かれたのか? いや、そんなはずはない。地下鉄の車内では寝ているふりをしていたんだ。そんな誰にするでもない言い訳を繰り返しながら彼女のあとを追った。ぼくが階段を上りきったときには、もう改札を抜けて右手の階段を上ろうとしているところだった。しかし、あいかわらずの人込みのカーテンが、彼女の姿を時折でなく隠してしまう。
急いで彼女を追ったが、地上のアーケード街はそれ以上の人であふれていた。が、神はぼくを見放さなかった。彼女は、目の前にあるS書店の店頭で雑誌のページをめくっていたのだ。ぼくも店頭近くの新刊コーナーに向かった。彼女は、本を探すふりをするぼくの視線に、ちょうど直角に映る位置に立っている。さっきから総合情報誌をいくつか手に取っているようだ。今持っている雑誌の表紙には大きなゴシックで「鍋が食べたい!」とある。やはりこれから遊びに行くところでも探しているのだろうか。ぼくは、『カンガルー・ノート』という面白そうな小説を見つけたので、買うことにした。脛からかいわれが生えてきた男の話のようだ。
「あっ、カバーはいいです」
ぼくはそうレジの人に言うと、本を奪い取るようにして店を出た。別に環境保護論者というわけではない。レジで順番を待っている間に彼女が出ていってしまったからだ。尾行をしていることすら忘れて、思わず待ってくれと言いそうになる。さっきから、彼女の行動力に翻弄されっぱなしだ。
彼女は人の抵抗を巧みにかわし、ぐんぐん進んでいく。ぼくも両肩を人にぶつけて、にらまれながら彼女を見逃すまいとしていた。彼女がウィンドウショッピングをしながら歩いてくれているのが、追いつく余裕を持たせてくれるという意味で唯一の救いだった。五分ほど歩いただろうか。彼女は、ジャスミンの香を焚く匂いが立ち込めるあやしげな民俗雑貨屋を過ぎると、すぐ先の角を右に曲がった。そして、角から三つめの雑居ビルの前で足を止めた。一階から三階までは居酒屋で、それより上の階はテナントかアパートのようになっているらしい。彼女は居酒屋の脇の入り口からそのビルに入っていった。ということは、ここが彼女の自宅なのだろうか。すかさず、あとを追った。どうやら彼女はエレベーターで上がっていったようだ。所々ペンキのはげた扉は、ぴったりと閉ざされ、その上の表示ランプは、五階で止まった。ぼくも下りてきたエレベーターに乗り込み、五階のボタンを押した。
扉が開いて、ぼくの目に飛び込んできたのは、ワンフロア全体を借りきったオフィスだった。普通は廊下ぐらいはあるはずなのに、いきなり絨毯を敷いた部屋なのだ。あっけにとられたぼくは、「はい、何でしょうか」という女の人の声ではじめて自分が場違いな所に来てしまったことに気付いた。そして、慌てて「閉」のボタンを押した。
ぼくも立ち上がってかばんを背負った。彼のあとを追うためだ。しかし、深夜で人影の少ないことを考えると、むやみに近づくわけにもいかない。足音が聞こえない距離がセーフティディスタンスだろう。ぼくは彼の足音が聞こえなくなるまでそこに立ち、今から追わせていただきますと彼に心の中で断りを入れた。しかし今回も一線を越えるという罪悪感はなかった。あったのかもしれないが、それは初めて女性を知ったときのように快感を伴うものであったため気が付かなかった。
松村が大きな体を揺らしながら道路を渡ると、まっすぐ北に向いて歩いていった。商店街は完全に眠っていた。等間隔に並ぶ街灯は街を賑わすためだろうか、カラフルな円盤の形をしたかさをかぶっている。松村は、その光に浮かびあがったり、闇に沈んだりを繰り返している。
そのうち、彼の姿が見えなくなった。恐らく、街灯のないところで道を曲がったのだろう。が、深追いは禁物だ。ぼくは、そのままのペースで歩き続け、曲がり角のたびに松村の姿を探した。案の定、松村はさっきの場所から三十メートルほど先の地点で右折していた。そして、大きな体を揺らしながら相変わらずゆっくりと歩いている。コンビニでも探しているのだろうか。それだったら、左に曲がった方がまだありそうなものだということは、土地勘のないぼくにでも分かる。
そして松村は再び右に曲がった。一体どこへ行くつもりなのだろう、ちょうどコの字を辿ったような道程だ。やがて、元の広い道路に出るとそこは、さっき進んでいった所からひとつ隣の交差点だった。ちょうど街の一ブロックを一周りしたことになる。一杯食わされたと思うと腹が立つが、彼も暇を持て余しての行動かもしれない。
彼はまるで自分の指定席かのような顔をして平然と元のガードレールに座った。いや、座った振りをしたらしい。そして、ぼくも同じように元の場所に座り込んだ。そして松村の動きを見ようと顔を上げた瞬間、松村の顔がぼくの顔を覗き込んでいるのに気付いた。僕は正直、かなり面食らって、ひどく狼狽したところを見せてしまった。彼が座ったというのをきちんと確認しなかったのが敗因だ。松村に見つかったことで終わってしまった探偵ごっこに未練を残しながら、もしかすると彼の行動は最初から計算されていたのではないかと、心配だった。やはり一杯食わされていたのかもしれない。
「今、僕の後をつけて来てませんでした?」
「あっ、ばれてました?」
ぼくには頭をかいてとぼけるしか逃げる道はなかった。
「そりゃ、他に誰もいない時間ですからわかりますよ。それに、駅にいる時からずっとこっちを見てたのも知ってましたし」
「ああ、すいません。悪気があったわけじゃないんですけど」
「いいですよ。最近はストーカーとかいうたちの悪い人もいるそうですから、それに比べたらね。ええ、それよりあなた学生さんでしょ?」
悪い人ではなさそうなのでひとまず安心した。
「あ、そうですけど」
「やっぱり、そんなリュックで夜中に歩いているのは学生さんに決まってるんですよ。ぼくも大学に行ってるんですけど、やっぱり友達はリュックが多いですね」
「はあ、そうですね」
「あなたは何回生なんですか?」
「一回生です」
「あぁ、それじゃそろそろ、何だか憂鬱になってるでしょう。誰でもそうなんですよね。毎日、大学に行っては愚痴ばっかりこぼしてね。何かばからしくなるんですよね」
彼の話を聞きながら、ぼくの神経は緊張していった。まずは、彼がぼくよりも年上らしく、偉そうにしていること。そして、話が宗教の勧誘じみてきたことが理由だ。そういえば、今日(正確には昨日)の午後にもそんなことがあったが、今度の場合は全く素性も分からないやつが相手だ。正直なところ、恐くて何も言えなくなってしまった。
「よく言われることなんですけど、やっぱり何をするかが見えてないと、ああなってしまうんでしょうね。僕なんかは夢があるから、それほどブルーになったりはしなかったですよ」
ちらっと顔を見ると、彼は正面を向いて道路の向こう側を見ていた。
「僕の夢はね、旅人になることなんです」
できれば無視したかったが、語りかけるような彼と目が合ってしまい、とりあえず可もなく不可もないという風にうなずいてみせた。それにしても、あまりにくだらない。二十才を過ぎてから、目を輝かせて夢を語ることも、それが旅人だということも。
「あなたも憧れたことあるでしょ」
「ええ、でもどうやったらなれるんですか」
まともに返事をしてしまった。
「職業としてですか? 経済基盤はないですよね。エッセイでも書くのなら別ですけど。いや、でも旅人は職業じゃないんですよ。それに僕の場合、実際に旅をしなくてもいいんですよ。例えばスナフキンのような、ああいう人間になりたいんですよ」
「はあ」
「あ、わかってないですね」
「はあ」
「そうだな、別の言い方をすれば、例えば今すぐ死のうって思ったときに何も心に引っ掛かるものがないような人のことなんですよ。普通はなかなかそうはいかないでしょ。机の引き出しに見られたくないものが入っていたり、死ぬことで家族や友達に迷惑かけるのがわかっていたり、それ以外にもいろいろあるじゃないですか。僕はそういうのがないような生き方をしたいんですよ。今、死にたいわけじゃありませんけどね」
確かに言っていることは、まともらしい。ぼくは、机の中にある小泉今日子ファンクラブの会員証を思い出していた。
「僕の実家はひどい田舎にあって、今でも普段の生活に極楽鳥を使うんですよ。今どき、極楽鳥なんて動物園でしか見たことがない人が多いみたいですけどね、うちの田舎だとまだ極楽鳥が現役で働いているんですよ。朝、人を起こしにまわったり、荷物を運んだり、ときには留守番だって。本当に時の流れの止まっているような村なんですよ。だから、余計に旅人なんて柔軟な生き方に憧れるんでしょうね」
「ご、極楽鳥ですか?」
「ええ、昔は家畜だったんですよ」
「日本にいたんですか?」
「そうですよ。いや、家畜として日本に入ってきたのかもしれないな。でも、僕らが生まれる前の日本ではそれほど珍しいものでもなかったようですよ。今じゃ、ぼくも田舎でしかみたことがないですけど」
極楽鳥。最初は嘘だと思っていたが、そうではないらしい。彼は信じている。目が本気なのだ。ぼくの顔は完全にひきつっていた。鼻の横が自分の意志とは関係なくピクッピクッと動いているのが分かった。
「あぁ、また見たくなってきたなあ。林の上をシュルシュルーって飛び回っている姿がかっこいいんですよ。それで、極楽鳥がよく見える丘のてっぺんなんかで、一日中眺めながら過ごしたりするんですよ」
彼はそういうと目を閉じて伸びをした。動作はあくまでも松村なのに、この雄弁さは何なんだろう。嘘だと思っても、彼が暖かい丘の上に寝そべっているシーンが鮮明に浮かんでくる。
「お帰りのようですね」
高校生らしい五人組だ。もう話すことも尽きたのだろう。さっきから会話が途絶えがちで、誰かが帰るきっかけを切りだすまでお互いに牽制しあっていた様子だった。
「そうですね。でも、帰るあてのある人はいいですよね」
「一概にそうとも言えませんけどね。僕は子どもの頃よく家出したんですが、二、三日したら自然と足が家に向いてしまうんですよ。いつも帰り道が憂鬱でね、なのに帰ってしまうんですよ。帰巣本能というか、やっぱり定住民族日本人としての家の呪縛みたいなものがあるんでしょうね」
「はあ」
「だからそういうものにとらわれない生き方としての旅人ってのがあるんでしょうね」
内容はともかく、しっかりと話している様子は松村邦洋と全く違っている。案外、ぼくを混乱させた上で教えを授けようとする「旅人教」の信者か何かかもしれない。
「だから、僕はこのまま駅に住み着いてしまっても別にいいんですよ。まあ、駅で生活するのは大変ですから、実際にすることはないんでしょうけど」
ぼくは、とりあえずうなずいた。
「でも、そんなことばかり考えてるから、よくこんな風に駅で夜更かしすることになるんですけどね」
「はあ」
「あなたなんかはそういうの苦手そうですね」
「ええ、ぼくは駅で始発待ちっていうのは初めてなんで不安なんですよ」
「あ、そうですか。そうかもしれないですよね」
松村は突然笑いだした。背中を丸めて、声を殺しながらうなずいている。さっきの尾行のこともある。極楽鳥の話といい、またぼくを担いでいるのかもしれない。それで耐え切れなくなって笑い出したのだろうか。そうだとすると彼は口の達者な松村どころか、ただの嫌な奴だ。でもあの真に迫ったしゃべりはとても演技には見えない。
「なんや、楽しそうな話やったらオッチャンも混ぜてや」
やくざ男だ。もうタクシーは諦めたのだろうか。それにしても、ぼくは予期せぬ人物の登場に、正直驚いてしまった。すぐに怒り出すような恐さはないが、やはり傍で見るとものすごい威圧感がある。映画に出てくるような、見るからにそうだというのではなくて、こんな人が本当のやくざなのかもしれない。
「君ら、今知り合ったばっかりやろ? オッチャンも仲間に入れてや」
松村が旅人の話を説明し始めた。やくざ男は突っ立ったまま話を聞いている。
「ほんで君も旅人になりたいんか?」
ぼくがしばらく会話とは別のことを考えていると、やくざ男が急に話を振ってきた。
「いや、ぼくは別に、」
「彼には、たった今、旅人のことを教えてあげたばっかりなんですよ」
「なんや、そうなんか。まあ、ええわ。そしたらええこと教えたろ。オッチャンな、たぶんその旅人ってやつやで」
「え、どうして」
「見たらわかると思うねんけど、オッチャン、やくざやってんねん。ほんだらもう、何もない身一つで生きてるようなもんやろ。奥さんもちゃんとおるし、子もおる。組の者もええやつばっかりやけど、でもあかん。全然、心入っとらへん」
「やくざは義理人情に厚いって言いますけどね」
「そりゃ、やくざはやくざ同士で仲良うせな生きていかれへんからや。やくざいうてもほんまは弱いもんやし、しゃあないわ。まあ最近は、なんたら新法っちゅうのが出来てしもたさかいに、どうやってもなかなか生きていかれへんねんけどな」
やくざ男はそう言うと、ぼくと松村を頂点にして、ちょうど正三角形になる位置にあぐらをかいて座った。
「なんか、俺の人生五十年、素通り人生みたいやわ。失うて困るもんなんか、持ったことあらへん。でも、そんでええと思とるからええねんけどな」
「ええ、そうですよ。やっぱりあなたは旅人の素質ありますよ。ねえ?」
「あ、ああ。そうですよね」
「そうか、兄ちゃんらに誉めてもろたら、オッチャンなんや嬉しいわ」
「いやいや、確かに場当たり的なのを、やくざな生き方っていいますけどね、本当にやくざの人ってやくざな生き方をしてるんですね」
松村とやくざ男はすっかり意気投合している。最強、もしくは最悪のコンビだ。
「ほんで君はどうやねん。さっきから聞いてるばっかりやんか。自分の思てること、言うてみたらどうや?」
「はあ」
「いや。はあ、やあらへんで。みんな、こんなオッチャンかてちゃんとしゃべったったんやで。君も自分の思てること言わなあかんで」
「いや、でも、ぼくは、」
僕は、とりあえず勧められたビールを断るような仕草をしてみせた。NHKの高校生弁論大会でもあるまいし、人生を語るなんてばからしい。だいたい、ぼくは毎日人生を歩んでいるわけではない。生活を送っているだけなのだ。語るような人生観を持っているほど不幸な人間ではないのだ。でも、そんなことを正面切って言えるような勇気があるわけではないので、ぼくは言い訳の言葉を探しはじめた。
「いやいや、彼はそんなことを考えるような性格じゃないですよ。ねえ?」
松村が口をはさんでくれた。すまなさそうな顔をしてうなずいてみせる。松村に救ってもらうというのは精神衛生上よくないが、やくざ男に変に問い詰められたりすることを思えば、感謝しなければならない。
「まあ、若い者はそうやろな」
「それよりも僕たち三人が出会った記念に何か面白いことをやりましょうよ。そうだ、極楽鳥の丘に行きましょう。三人で丘に上って、それで頂上に着いたらそこに何か僕たちが来たっていう印を残してくるんです」
「ほう、そりゃええわ」
「あなたはどうです?」
「はあ」
今すぐ何か始めるのかと思ったら、松村の故郷へ行く話だった。彼の故郷と聞くと、極楽鳥の実態を見たいという興味はあるが、不気味な夢の世界へ引きずり込まれてしまうような怖さも感じる。でも、とりあえず約束ならすっぽかせばいいのだし、例えば三人の出会いを祝したフォークソングを作って合唱するというような変なことを、この場でやらされることを思えばまだ気が楽だ。ぼくはまんざら嫌そうでもない顔をしてみせた。
「それじゃあ今すぐ、善は急げです」
松村はそう言うとスッと立ち上がった。腕を挙げている姿が、やはりどこか松村らしく思わせる。
しかし、今すぐ何をするつもりなんだろう。まさか三人で手に手を取って輪を作って、それでワープしようとか言い出すつもりなのだろうか。ぼくは彼の言葉にどう対処したらいいのか分からずに、じっと松村の顔を見つめていた。彼は相当、乗り気らしい。下手なことを言うと暴れだすかもしれない、そんな雰囲気が漂っている。ここは彼の言いなりに従った方が賢いかもしれない。ぼくは判断をやくざ男に委ねることにした。
「なんや、今から行けるんかいな。ほな、行こか。ほら、君も来るんやろ」
二人はさっきとは反対方向に、さっさと歩きはじめた。とりあえず常識の通用する範囲の行動なので助かった。こうなったらぼくも行くしかなさそうだ。いざとなればやくざ男が何とかしてくれるだろうし、案外楽しいかもしれない。騙されておくことで松村の気が済むのなら、ぼくもつきあってやるべきだということだろう。
松村はやくざ男に道を説明しながら歩いている。そんなに遠くではなさそうだが、一体どこへ連れて行くつもりなのだろうか。やくざ男と話している様子や足取りから見ても、適当に歩き回っている感じはしない。きちんとした行き先をイメージした上で歩いているのだと思う。もちろんそれが彼の田舎ではないことは確かだが、変な教会や訳の分からないアジトに連れ込まれて、松村の仲間に取り囲まれるっことになるのかもしれない。
二人はぼくよりも何メートルも先を歩いていて、こっちを振り返る様子はない。やろうと思えばこっそりと逃げ出せるいいチャンスだったが、ぼくはどうしても気が咎めて出来なかった。松村にではない、ぼくの分まで松村の相手をしてくれているやくざ男に対してだ。ぼくは彼を松村と二人っきりにしてしまうだなんて残酷なことが出来るような思い切りのいい人間ではないのだ。もしそんな勇気があるのなら、最初からこんな所を歩いたりはしていないだろう。
「さあ、ここです。ここなんです」
二人の足元を見ていた視線を上げて、はっきり言ってがっかりした。彼の指の先にはよくある感じのレンガ作り風のマンションが建っていたのだ。やくざ男も安心したようだ。こっちを向いて嬉しそうに笑っている。松村もそれを見て喜んでいる。今まであれだけ不可解な行動を取っておいて、その詰めがこんなにきれいなマンションだなんて逆に納得がいかない。廃屋だとか、池の中に入っていったりするぐらいのことは覚悟していた分、騙された気がしてならなかった。
「この頂上が丘になってるんですよ。ここからじゃ見えないですけど」
「屋上にあるんかいな」
「そうです、この上なんですよ。じゃあ、僕から登りますからね」
松村はマンションの入り口まで行ったが、、そこには入らなかった。彼はテラスの脇の方へ行くと、屋上と地面をつないでいるパイプにしがみついて、壁に足をつけながら少しづつ上へ登りはじめた。見た目通りの体重なのだろう、パイプはギシギシと泣き声をあげている。松村はようやく地面から八十センチほど登って、そこでぼくらに手を振って見せた。しかし、ぼくとやくざ男が思わず顔を見合わせた瞬間、彼は木のバットで乾いた地面を叩いたような音を立てて、コンクリートの地面に叩きつけられていた。
「い、い、」
「おい、大丈夫か」
高さは大してなかったはずだが落ち方が悪かったのだろう。松村はエビ反りに寝転がって声もたてない。駆け寄ったやくざ男が肩を揺すってやると、痛かったのか何か文句を言ったようだった。やくざ男は押し殺した声で盛んに何かを話しかけている。映画でよく出てくる、撃たれた仲間に向かって話しかけるやくざのようだ。
数分苦しんだ後、松村は声を振り絞ってやくざ男に話しかけた。
「すぐ治ると思うので、先に行っておいてください。後から必ず行きますから」
ぼくは、松村が大声を出して近所の人を起こさないか心配だった。が、やくざ男はそんなことすら気にする様子もなく、「ああ、わかった」と小声で言ってからパイプを登りはじめた。
やくざ男は最初こそ松村以上に苦戦していたようだったが、いったんきっかけをつかむと、一気に二階の真ん中ぐらいまで行ってしまった。彼はそこでぼくの方を振り返って手招きしたが、ぼくがリアクションしないでいると、別に何も言わなかった。松村は全く動かなくなった。やくざ男は、少し休んでからまた上へと進みだした。もう、落ちたら命にかかわるような高さになっている。
ぼくはやくざ男が壁からはがれて落ちてくるシーンを想像して、急に背中が震えだしたのに驚いた。そして一歩後ろに下がると、その瞬間にはもう今来た道を走り出していた。自分の足音が響いているのが気になって、途中で靴を脱いで裸足のまま走った。アスファルトの微妙な起伏が、冷たい感覚といっしょに足の裏から全身に伝わる。
もう朝らしい。白いベールをかぶりはじめた街には、ぺたぺたという足音だけが響いていた。
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