オルガン
小林真由香
キコエルヨ……アノメロディー……
キコエテル……デモ……ドコカラ?
幼い時からなんとなく好きだった、けだるく憂鬱な曇天の空。おまけにしとしとと鬱陶しく小雨が降っている。いつもの僕なら心地よくまどろみ、何もしない至福の時を過ごすのに、今日だけはどこか気に入らなかった。憂鬱な曇天の空は僕に陰鬱な感覚を与え、鬱陶しい小雨は僕を不快感でいっぱいにした。
「……気に入らねぇ……」
僕にとって精一杯の悪態をついてみたが、自分でもおかしいくらい似合っていない。幼い時から縁のなかった言葉だけに、その存在がおかしくて仕方がない。
「ククク……僕じゃないみたいだ……」
ほんの一瞬だけ不快感が消えた。けれど、それに気づくとまた不快感に包まれた。物質的な欲求は全て満たされている。幼い時から何一つとして不自由はなかった。しかし、何かもの足らない。その何かがわからずに苛立つ。そんな不快感だった。
「欲しい物は全て手にしたはずなのに……僕の知らない所で僕が欲しがってるものは何だろう?」
そう呟きながら、何げなくそばの鏡を覗き込む。その鏡もほんの数日前に手に入れた物だ。鏡には少し困惑したような、それでいて少しおどけたような僕が、揺り椅子に揺られて映っている。部屋の明かりが暗い為に、古めかしい飾りで縁どられた鏡の中の僕は、人工的なクリーム色に近い金髪と、真っ白なシャツがやけに目立つ。
「……?……この音……」
僕の他に誰も居ないはずなのに、この古ぼけた洋館の何処かから、何かの音色が聞こえる。遠い昔に聞いたような、近い昔にも聞いたような懐かしい音色だ。
「空耳かな。僕の他には誰も居ないんだ。愛しい人達はみんな僕を置き去りにして、何処かへ行ってしまった……この鏡を身代わりに置いていった兄さんが最後だった……唯一の僕の理解者……」
鏡の中の僕がぎこちなく微笑む。いつも兄さんが僕に見せた、哀しい事を隠す為のひきつったぎこちない微笑み。全く同じに微笑んでみせた。そんな僕がおかしくて、僕は声を上げて笑った。僕の笑い声は洋館に響き渡り、しばしの間あの音色をかき消してしまった。けれど、再び鏡が視界に入り、僕は笑うのをやめた。
洋館に響き渡る笑い声は僕が一人であることをまざまざと思い知らせる。そして、その姿はあまりにも道化すぎた。僕が一番醜いと思う道化師と変わりないその姿が、僕の孤独を嫌というほど思い知らせた。
「……一人……孤独……」
鏡の中の僕は僕を哀れむ兄さんに似ていた。僕を蔑みながらも、理解してくれた兄さんだった。この世でたった一人の、同じ顔で、同じ仕草をする、血を分けた兄さん。ただ一つ異なった事は、兄さんと僕は正反対だったという事だけ。
「……兄さん……」
僕の呟きは哀しさを含み、半分涙ぐんでいる。けれど、鏡の中の僕は涙を見せることもなく、じっと僕を見ている。
「……?……まだ聞こえる…………」
ふと我にかえると、あの懐かしい音色が聞こえている。いつの間にか窓の外は深い闇に包まれ、部屋に灯るランプの明かりだけが僕と鏡を照らしていた。
「……誰?……何処?……」
僕は仕方無さそうに揺り椅子から立ち上がり、壁に掛けてあったランプを手に取った。部屋の明かりは手にしたランプに集中し、ぼうっとぼやけた光の円を描く。僕はたどたどしく聞こえるあの懐かしい音色を辿って、この洋館の中で一番居心地のいい部屋を、後にした。
いつの間にか、あの陰鬱な不快感が僕の中から消えている。あの音色を奏でる正体を知ろうとする好奇心が、鬱陶しい不快感を消し去ったのだろうか。そんなことは僕にとってどうでもいいことだ。僕の他に誰かこの洋館に居るのなら、それは誰だろう。僕を置き去りにした愛しい人達なのか、それとも……
「悪魔か、死に神か。それもいい。兄さんがそばに居ないなら、地獄でも何処へでも行けるさ」
自嘲の笑みを浮かべて、僕は階段を昇るか、降りるかを少し思案した。
「下……か?……」
僕の耳が正しければ、あの音色はなんとなく下の階から聞こえてくる。僕は、ミシミシときしむ階段を一段ずつ慎重に降りて、まるで泥棒のように辺りに気を配る。
「ここか?」
まず左の扉を開け放つ。少し埃っぽいこの部屋にあの音色の正体は無い。僕は部屋に入ろうともせず、また、扉を閉めることもなく、次の部屋の扉を開けた。ギィーと嫌な音を立てて、扉は半分だけ開く。僕は恐る恐る部屋に入ってみる。
「! って!」
部屋の奥に行こうとした時、僕は何かにつまづき、転びそうになった。足元をよく見ると、あちこちに石や硝子の破片が散らばっている。唯一外に面した部屋だけに、誰かがいたずらに石を投げ入れたのだろうか。それとも僕に恨みでも。そんなことはどうでもよかった。ただ音色の正体を探すことが大事だった。
少し物を退けて探してみたが、ここにも音色の正体は無かった。僕は封印するかのように扉を閉めると、一階にある部屋を残らず探した。もう使うことのない暖炉の中や、キッチンの隅まで探したが、あの音色を奏でる物は無い。オルゴールのように繊細なこの音色は一体何処から聞こえてくるのだろう。僕はもう一度耳を澄まして音色をよく聞く。
「二階? でも……少し遠い……」
僕は階段をゆっくり昇りながら、音色の正確な位置を見つけ出そうと全神経を聴覚に集中させた。ランプのぼんやりした光がゆらゆらと揺れながら、階段を昇っていく。幼い頃兄さんと僕が大好きだったティンカーベルみたいに、ランプの光は揺れている。二階に辿り着き、最初にあの居心地のいい部屋に戻った。もう一度初めからやり直そうとして、僕は揺り椅子に腰掛ける。
「何処から聞こえてくる? 何の音?」
僕は目を閉じて、音色に集中した。しばらくそうしていると、コトッと何かが落ちたのか、それとも靴音なのかはっきりしない音が聞こえて、僕は目を開けた。
「誰?」
音のした方に振り返ろうとした時、鏡が視界に入った。僕はその時鏡の中の異変に気づいて、唖然となった。
鏡の中の映っているはずの、揺り椅子に座っている僕の姿は無く、代わりに優しく微笑み、立っている兄さんの姿が映っている。
「兄さん?」
思わず立ち上がり鏡に向かって手を差し伸べる。そんな僕が見えていないのか、兄さんは何かを呟いて、微笑んだままクルリと僕に背中を向ける。そして、鏡の奥へと歩いていく。
「兄さん!」
僕は鏡の奥へと歩いていく兄さんを、呼び止めようと叫んだ。しかし、兄さんはちらっと振り返っただけで、鏡の奥にある、何処かで見たような扉の向こうへ消えた。
「兄さん! 何処行くの! ねぇ、兄さん!」
鏡に向かって必死に叫ぶが、兄さんはそれきり姿を見せなかった。
「兄さん……」
僕は崩れるように鏡の前にひざまずく。その時、あの音色が一層大きな音で聞こえてきた。はっきりと、確実に何かの旋律を奏で始めている。遠い昔に聞いた、近い昔に歌ったあの旋律が聞こえる。僕と兄さんがこよなく愛したあの音色だ。
「……オル……ガン?……オルガン……」
僕は壁に掛け直したランプをひったくるように取ると、あの日以来鍵を掛けてしまった屋根裏部屋への階段を駆け昇る。ほんの数日前まで兄さんと至福の時を過ごした、あの屋根裏部屋。あの日以来一人でそこに入るのが恐くて、兄さんの温もりと一緒に想い出も閉じ込めてしまった。そして、鍵は兄さんの元に……
「まさか……兄さんが……あの部屋に……」
部屋の前に辿り着き、扉を見つめる。間違いなくこの部屋の中からオルガンの音が聞こえる。はやる鼓動を落ち着かせながら、ドアノブに手をかける。小刻みに震える左手でドアノブを回す。
「!」
あるはずの抵抗も無く、簡単にドアノブは回った。あと少し力を加えれば扉は開く。僕は冷たい汗が背筋を伝っていくのを感じ、きつく目を閉じた。あの時、鏡の中で兄さんが呟いた言葉をふと思い出す。
「!……『おいで……』……」
僕は浅いため息をついて、目を開く。そして、決心したかのように思い切って扉を開いた。ギィーときしんだ音を立てて、扉は僕と兄さんの禁断の世界への入り口を開ける。
──────兄さんがそこに居る。
僕を置き去りにした兄さんが、僕を見て微笑んでいる。
オルガンの前に座り、あの旋律を奏でながら。 ─────
「! 」
僕は一瞬で言葉を失くした。あの日僕の前から姿を消したはずの兄さんが、僕のランプに照らされて肖像画のようにそこに居るのだ。
「……兄さん……?……兄……さん……」
僕の声は今にも泣き出しそうに震えていて、僕自身少し驚いた。恐る恐る僕は小刻みに震える手を差し伸べて、兄さんに触れようとした。その時、
『元気にしてたかい?』
いつもの優しい兄さんの声で、兄さんは僕に話しかける。僕はハッと息を飲んだ。嬉しかった。どうしようもなく嬉しかった。久しぶりに僕は“嬉しい”という感情を味わった。兄さんがいなくなってからの空白の時間が、その一言で埋められる。僕は兄さんを抱き締めようと、兄さんに近づく。
『××××』
「えっ?」
兄さんの唇は何かを呟いたのに、それは僕の理解を越えていた。確かに聞こえたはずなのに、それが何なのかわからない。しかし、兄さんは一瞬戸惑いを見せた僕を快く受け入れ、抱き締めてくれた。
「兄さん……」
僕の声が泣いている。一粒の涙も見せずに、僕の声は泣いている。僕は夢中で兄さんの体を掻き抱いて、もう二度と離さないようにその存在を腕に刻む。兄さんにその気持ちが伝わったのか、兄さんはオルガンの椅子から立ち上がり、僕を抱き締めたまま床に倒れ込む。兄さんの指がオルガンから離れたのに、誰も触れていないのに、オルガンはあのメロディーを奏でる。
僕と兄さんは懐かしいメロディーに包まれ、もう一度見つめ合う。同じ色、そして同じ形の瞳が潤んでいる。兄さんは僕の上にのしかかるようにして唇を求める。短い口づけを幾度となく繰り返して、兄さんは僕の真っ白いシャツを引き裂いてしまった。
兄さんが居た日々に繰り返された、毎日のようにこの部屋で行われた、禁断の儀式。初めて儀式をしたのは、いつの頃だっただろう。愛撫の意味さえ知らなかった僕を、兄さんもまた不器用に愛してくれた。しかし、儀式が繰り返されていくうちに、感じて声を上げる僕を兄さんは家畜を見るかのように見下し、僕の体に傷をつけ始めた。痛みに悲鳴を上げる僕を見て、兄さんは悦楽に入るようになった。僕もまた兄さんが僕に与える快楽以上に苦痛を求めるようになっていった。兄さんが僕に与える苦痛が快感に変わるあの一瞬が、とてつもなく快かった。僕と兄さんは、時には僕の流した血にまみれ、狂った獣のように互いを求め合った。あの日々はもう二度と来ないと思っていたのに、あの日に全て失ってしまったと思っていたのに、僕の愛するものが僕だけになってしまったと思っていたのに。
兄さんは戻ってきた。僕のところへ。いつもと同じように僕をなじったり、傷つけたりしながらも、哀れんだあの瞳で僕を求めている。今、此処で。僕だけを求めて、僕の中へ入ってくる。ありとあらゆる術を使って、僕を支配しようとしている。今までと変わりなく。
僕はそんな兄さんが好きだった。いつの頃からか、僕は兄さんが好きになった。僕を哀れんでくれる兄さんが好きだった。僕を蔑む兄さんが好きだった。それ以上に僕は兄さんに蔑まれる僕が好きだった。
「兄さん……僕は兄さんが好きだよ……」
吐息の中に見え隠れしながら、僕は兄さんへの愛を囁く。兄さんにそれが聞こえているのかどうかなど、気にもならなかった。
「……■■の僕の次にね……」
僕は自嘲気味に微笑み、兄さんを見つめた。兄さんは僕の囁きを一言も漏らさず聞いていた。そして、兄さんも僕に囁く。
『大好きだ……愛してるよ……■■の僕の次にね……』
兄さんは僕の頬に手を当て、今までで一番長く甘美な口づけをした。兄さんと僕の体温が互いに流れ、一つになれる、そんな気がした。
「?」
しかし、いつまでたっても兄さんの体温は伝わって来ない。僕の体温だけが兄さんの方へと流れていく。そういえば、儀式の間も兄さんの体温はさほど感じられなかった。一体何が起こったのだろう。
「兄さん?……」
僕の不思議そうな声を聞いて、兄さんはじっと僕を見つめる。そして、またあのわからない言葉を呟く。
『××××』
「兄さん! わからないよ。何が言いたいの?」
『××××』
「兄さん!」
僕は不可思議な不安に襲われ、兄さんの腕から逃れようともがいた。しかし、兄さんの腕は僕をしっかりと抱き締め、離してくれそうもない。そのうち兄さんの体は急に体温を上げ始めた。
「兄さん?」
兄さんはいつもと変わりない微笑みを浮かべて、うろたえる僕を見つめている。そして、僕の左胸をそっと撫でる。
兄さんの体温は上昇をやめない。既に人間の平熱は越えてしまった。だんだんと僕の体もじっとりと汗をかいてくる。それでも、僕の顔に汗が滲んでいても、兄さんは僕を離さない。
「兄さん……熱いよ……」
『××××』
「ねぇ……熱いよ……」
『××××』
「熱い……熱いよ……離して……焼ける……」
兄さんの体温は既に百度を越えているだろうか、まるで熱湯を浴びたように熱い。しかし、それでも僕の体は火傷一つしていない。熱さは感じているのに、赤くさえならない。「熱い……」
僕がそう呟くのを聞きながら、兄さんは僕の体のあちこちを指でなぞる。何度も、愛しげに。そして、哀しそうにひきつった笑顔で僕に呟く。
『××××』
その時、兄さんの体が炎に包まれ、静かに溶けていく。さっきとはまるで反対に、その炎は恐ろしく冷たい。
「兄さん!」
僕は溶けていく兄さんを捕らえようとするが、兄さんは指の間からこぼれドロドロの粘液になっていく。
「兄さん!」
僕の絶叫も空しく、兄さんは微笑んだまま溶ける。僕は頭から足先まで粘液になった兄さんにまみれて、見開いた瞳を閉じることができなかった。夢なのか、それとも現実なのか。その区別さえおぼつかない。ただ唯一確かな事は、僕の体に兄さんの口づけの跡が残っている事。それだけだった。なぜ兄さんが溶けたのか、そんな事が今の僕にわかるはずもなかった。
僕は初めて夢を見た。夢の中で僕はあの日にいた。そうだ、あの日は神聖な処刑の日。たしか、誰かが生きながら焼かれ……
「兄さん!」
そう、あの日処刑されたのは、僕の愛しい兄さんだ。兄さんはあの日、生きながら焼かれた。あのひきつった笑みを浮かべて、何かを叫んで。兄さんは何をしたのだろう。何故兄さんが……
「僕が……処刑した……?」
「僕が……兄さんを……独り占めに……できるから……?」
そう、僕は兄さんを独り占めしたかった。それ以上に僕は一人でよかった。僕と同じ兄さんは余分だった。僕は兄さんを愛してた。それ以上に僕を愛してた。■■の僕が愛しかった。■■の僕は存在し得ない……
「兄さん……」
僕はあの日を思い出し、自嘲気味に笑んだ。
僕は兄さんを、幸せそうに眠る兄さんを黒い棺桶に横たえた。そして、そのまま閉じ込めた。あの部屋の鍵と共に。僕は真夜中の教会で、兄さんの入った棺桶に火をつけた。燃えていく棺桶の中から、僕の声が聞こえた……
「? ……あれは、僕の声?……確かに僕の声だ……じゃあ、僕は兄さん? 今、此処で息をしているのは……兄さん?……」
棺桶の中から聞こえてくるのは、紛れもなく僕の声だ。そして、その声が叫ぶ言葉は、あの不可解な言葉……
「僕と兄さんの名前……二人で一つの名前……」
「僕は……兄さん?……兄さんが……僕?……焼かれたのは誰? 生きているのは……誰?」
僕は夢からなんとなく目覚め、辺りを見渡す。いつの間に戻ってきたのか、僕はあの鏡の部屋にいた。鏡に映る僕はなんら変わりなく、僕であった。しかし、体を覆っているのは、引き裂かれた真っ白なシャツだ。
「?」
裂け目から見える体に変化を見つける。
「?」
左胸に大きく、そして、あちこちに小さな十字架の焼印。不規則に並び、じくじくと痛む。その痛みは決して快感にはならない。
「僕は……兄さん?」
鏡の前に立ち尽くす僕の耳に、途切れる事なくあの旋律が聞こえる。オルガンだけではなかった。合わせて歌う僕の声も。僕は弾かれるようにあの部屋へ急ぐ。そして、何のためらいもなく扉を開けた。
『××××』
「兄さん」
僕を支配する兄さんと、血まみれになり支配される僕が、互いに呼び合い求め合っている。既にそこに僕達が居る。じゃあ、同じ顔の僕は誰?
『兄さん。』
背後から誰かが僕を呼ぶ。振り返るとそこに居るのは、血の涙を流す僕だった。
「××××」
何のためらいもなく僕は僕を呼ぶ。近づいてきた僕を抱き締め、その腕に噛みつく。僕は悲鳴を上げるがそれは快楽に落ちそうな声だ。そして、噛みついた僕は、その声で悦楽に入る…………
僕が僕ではなく兄さんとなり、■■が■■になる。そんな日々が続く。しかし、その愛に変わりはなかった。
僕は僕が好きだった。僕は兄さんが好きだった。そして、兄さんも兄さんが好きで、僕を愛してくれていた。その愛が続く限り、あの部屋からオルガンは消えない。そして、僕達は今日も儀式を行う。今日は、僕が僕なのだろうか。
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