卵
里之内 希
改札を出てすぐの所にある終夜営業のコンビニに入った。おにぎり二つと、使い捨てカメラを二つ持ってレジに向かう。カメラは二十四枚撮りだ。代金を支払いながら、唐木拓郎は店員に尋ねた。
「この辺に、近々取り壊される変なピルがあるって聞いたんだけど、どのあたり?」
「え?ああ、『お化けピル』のことかな?それなら、この前の道をまっすぐ行って…」
長髪を赤茶に染めた若い店員は、釣銭を捜しながら唐木の質問に答えた。
「あ、ひょっとして、お客さん、唐木さん……唐木拓郎さんじゃないですか?」
メモ用紙に地図まで書いて道順を教えていたその若い店員は、その時はじめて自分の前に立っているのが、今、マスコミで騒がれている若手写真家だということに気付いた。
唐木は、あいまいに微笑しながら、メモと釣銭を受け取ると、店員にせがまれて彼と握手をしてから店を出た。
初夏の宵闇に、なんともいえないなまめかしい風が吹いている。都心からかなり離れた新興住宅街を抱える私鉄沿線の駅前は、まだほんの宵の口だというのに人影がない。間引きして灯せられた街灯で、さっきの店員の書いてくれた地図を見る。ここからだと、結構距離がありそうだった。唐木はスキンヘッドに剃りあげた頭をつるりとなでて、歩き始めた。
唐木は、四日前に二度目の個展を終えた。今回も連日大盛況だった。写真専門誌や週刊誌、新聞社などの取材がひっきりなしに続いた。最も取材に力を入れていたのは、あるテレビ局だった。何か月もの間、唐木に「密着取材」とやらで、ディレクターやカメラマンが張り付き、制作風景や、プライベートな生活までも映像に残した。番組の最後は、個展の最終日、客が皆帰った後の会場での、唐木のインタビューを生中継してしめくくられた。唐木は、ここ何か月かで。すっかり顔馴染みになった番組ディレクターの南が発する質問に答えていった。
「唐木さんの写真には、都市という生き物が封じ込められているように思うんですが」
「そう、そのとおりだよね。僕は、その『都市という生き物』の輝きじゃなくて、死に絶えてゆく様を、印画紙に焼き付けたいと思って、シャッターを切ってるわけ」
唐木は、薄汚れたジーンズの足を組んだ。
「人が都市で生活する。食う、働く、寝る、遊ぶ……。そういう人間のゴチャゴチャした営みが、都市を活気づけてるわけよネ? ところが、人間が見放した部分、つまり、自分の生活に不要になった部分は、壊死を起こした細胞みたいに腐っていくのよ。僕が『シャシン』にしたいのは、そういうものなんだな。いうならば、人間に捨てられた都市機能の恨みみたいな……」
唐木は、ふっと唇をゆがめてみせる。スキンヘッドのこめかみあたりに、汗の粒が浮いている。
「しかし、従来のベテランの写真家達からの風当たりは強いですね」
「ああ、そうみたいね。僕のほうでは気にしてないんだけど。そもそも、僕は自分のことを写真家なんて思ったことは一度もないよ。あんた達にも、そんなこと言ったことないでしょ。あの人達は、高級カメラを使って、うすっべらい写真を撮っている『写真家』にすぎないですよ。それを芸術と呼びたい人は呼べばいい。僕の撮っているのは『人間のカルマ』だよ。けど、誰かが、僕の創作を邪魔する時は、腕ずくで自分の芸術を守るよ」
唐木は、右の拳をカメラレンズに向かって突き出した。
「そもそも、僕の技術は、あの人達にはまねられないと思うね。彼らが、何十万、何百万もかけても、撮れないような写真を、わずか千数百円の使い捨てカメラを使って撮ってるんだから。彼らが焼きもち焼くのも無理ないか、アハハハー……」
さも痛快そうな唐木の笑顔で、番組は終わって、CMになった。
何の前触れもなく、唐木拓郎は写真界に登場した。
最初に目をつけたのは、ある出版社の編集長だった。行き付けのバーで飲んだ帰り、繁華街の路傍で、写真を並べて座っている唐木を発見したのだったという。これまで見たことのない作風の写真に心魅かれたその編集長の引きで、唐木の作品が何点か、ある雑誌の表紙を飾ったのが、現在の『唐木ブーム』のきっかけだった。
唐木は、使い捨てカメラしか使わなかった。時たま、発光量を増やすために、別にストロボを使うことがあったが、それでも現像の段階で何か特別な技巧を使っているのか、いわゆる高級機材で撮った写真より、ずっと微妙な陰影を待った作品を創り出していた。
唐木の尊大な態度も、マスコミに露出する機会を追うごとに、若者達から支持されはじめた。彼らは、唐木の言動を「ホンネ」と解釈したらしかった。週刊誌にエッセーが掲載され、テレビのトーク番組にも何度か出演すると、若者達のヒーロー的存在になっていた。
「ハイ、オーケー」
ディレクターの南の声で、番組が終わった。強烈なライトが消される。南は、カメラの後ろから姿を現して唐木に歩み寄った。
「お疲れサン。結構、サマになってたじゃない。でもさ、あそこんとこでさ、ホレ、拳を突き出すときにさ、もうチョイ、レンズにガンとばした方が良かったかもね」
「……」
テレビにちよくちょく出るようになってから、唐木は自分の部屋やテレビ局の控室で、『不敵な若僧』を演ずる練習をしなくてはならなくなってしまっていた。世の中に対する漠然とした敵意は以前から心の中にくすぶっていたが、それを誰かれなしに見せたことはなかった。しかし、自分を売り出してくれたあの出版社の文芸部が「既成芸術を破壊する若き野獣」というコンセプトを勝手に唐木に押しつけてしまったのだ。当初、それを拒む立場に唐木はなかった。それ以来、マスコミに姿をさらせばさらすほど、大衆の唐木に対するイメージは独り歩きをはじめ、当の唐木が、そのようなイメージの唐木を演じなければならなくなってしまったのだ。マスコミに登場する度唐木は、ある文芸評論家からは「写真家の無頼派」を絶賛され、ある写真家には「理論も知らぬと素人」をののしられ、文化評論家には「世紀末の具現者」とおだてられ、といった調子だった。
「ところで、唐木ちゃん、N線のT駅って知ってるかい?」
「ええ、N線は乗ったことありますけど……」
「T駅ってのは、急行の止まる駅、S駅だっけ? そこから各駅で四つ日の駅なんだけどさ、その近くに近々取り壊されるマンションがあるんだってさ」
南は、ヤニ取りパイプをつけたマイルドセブンに、百円ライターで火をつけた。
「そのマンションってのが、例のバブルの頃に計画されたものらしくてね。ところが、建設途中でバブルがパチンですワ。建てかけでほったらかしになってたんだけど、今回取り壊しが決まったらしワ。どう、唐木ちゃん、次のシャシンにピッタリだろ?」
「ええ、おもしろそうですね」
唐木の目が輝いた。目的のために作られかけたものが、完成すらせず壊されてゆく、これはもう都市の亡霊ではないか。
次の日、唐木は、最近写真集出版の契約を結んだ大手出版社の担当に電話をかけた。
……橋本さん? 唐木です。写真集のタイトル、『都市の亡霊』で行ってください
二、三十分も歩いただろうか、団地と児童公園の間にそのピルを見つけた時には、唐木拓郎は、かなり歩きくたびれていた。
……かなり大きなマンションになるはずだったんだな。
赤茶けた鉄骨が入り組んでいる。中層部分までは、外壁工事がかなり進んでいたらしく白っぽいコンクリート壁が取り囲んでいた。団地のあかりと街灯にぼんやり浮かび上がったその建てものは、巨大な生物の半白骨化した死体を連想させた。
建物の周りをぐるりと回ってみた。赤く錆びた鉄骨やセメント袋が散乱していて歩きづらい。鉄製の階段があった。非常階段になるはずだったのだろう。昇降口には道路工事でよく見かける黒と黄に塗り分けたバリケードが立てられていた。唐木はバリケードをまたぎ越えて、階段を昇り始めた。どこかが錆びていて、踏み坂を踏み抜いてしまうかもしれなかった。
階段は五階までしか昇れなかった。それから上は、鉄骨の飛び出た空間でしかなかった。五階の吹きさらしの通路にたたずんで、唐木はあたりを眺めた。向こうに団地の群れがある。どれもこれも同じ形の五階建てだった。一番近くの一棟がよく見えた。明かりのついている部屋は、カーテンを開け放していることが多かったので、内部の様子がよくわかった。泣いている子供を叱りつけている母親らしき女。ステテコにランニング姿で、ビール片手にテレビに見入っている中年男。とりわけ彼の注意を引いたのは、親子四人 若い夫婦と幼い子供一人が楽しそうにケーキのようなものを囲んでいる部屋だった。女の子がロウソクの火を吹き消した。ささやかな拍手が、唐木の耳元にもわずかに届いた。女の子の誕生祝いをやっているらしかった。
そのははえましい光景を、唐木は憎悪に歪んだ顔で見つめていた。
唐木は目をそむけると、通路を奥に向かって歩き出した。
……ああいうのは嫌いだ。
赤ん坊をあやす母親、子供を肩車する父親、感激の涙を流す花嫁、談笑する家族。そういったものを、音から嫌っていた。なぜ嫌うのか、かつてはうまく説明できなかった。けれども、今はそれが「小市民的愚行」だからだと答えられる。芸術を骨抜きにするもの、芸術と対極にあるもの、それが憎悪の理由なのだ。
通路には五つの部屋が並んでいた。どれにもドアは付いていなかった。ぽっかり長方形に暗い口をあげて、五つの空間に区切られているだけだ。唐木はショルダーバッグから懐中電灯を取り出した。頼りない光茫は、その黒く、四角な洞穴に吸収されてしまう。
こういう暗さが苦手だった。暗くて四角い入口……。昔、まだはんの小さな子供だったあの頃の記憶が、不意に蘇ってくる。おでんの匂い、下劣な男達の声。
彼の父親は、彼が五歳の時、母親と離婚した。彼は父親が再婚した女と一緒に暮らすことになった。
……今日から、この人をママと呼ぶんだぞ。
「かあちゃん」より若いが、厚化粧のその女をうっかり「かあちゃん」と呼ぶと、父親から死ぬほど殴られた。ママはうらぶれた路地でおでん屋をやっていた。店の開くのは夕方で、仕事に出ている父親が帰ってくるまでの間、唐木は店の裏口にある二畳ほどの小部屋でおとなしく絵本を見たり、絵を描いたりしていなければいけなかった。親子三人が暮らすうち、父親が何日か家に帰ってこないことがあった。それが何日間のことか、幼い彼には知りようもなかったが、父親の帰ってこない日は しばらく外で遊んでな をいうママの言いつけで、あの狭い部屋にも入れないことがよくあった。気候のいいときはまだしもだったが、寒い冬の間は、地面に絵を描くことも凍えがちで、汚れたのれんがかかった裏口までこっそり帰ってみたものだった。そんなとき、決まって聞こえてくるのは、低い、高い、怪物のようなうなり声だった。それが、あの女の声だったと理解するには、まだ唐木拓郎はあまりにも幼かった。ただ恐ろしかった。真暗な長細い裏口から漏れ聞こえてくる野獣のような声に、その時は、逃げ出すこともできず、地面にうずくまって、目を固く閉じ、耳を塞ぐことしかできなかった。
おでん屋には、割合よく客が来た。夕方に店を開けると、早い時間帯には、赤ん坊を抱いた女の人が、二人分ほどのおでんを買って帰った。ある日曜日に、父親に肩車されて男の子が来たことがあった。その男の子は唐木と同年齢で、彼が欲しかった玩具を父親に買ってもらった帰りのようだった。
彼は、自分の境遇と比べてうらやむことはしなかった。ただ憎んだ。あの子があのおもちゃを抱いて、あたたかい蒲団にくるまっているころ、自分はあの暗い入口の前で化物のうなり声の止むのをふるえて待っていなければならない。
懐中電灯をたよりに、一つの部屋の中に足を踏み入れた。中はコンクリートの打ち放しだが、3DKの部屋の間仕切りだけは出来上がっていた。ダイニングはベランダに面していて、そこから裏手の団地が見えた。団地の窓にはやはり点々と灯がともっていた。
……こいつが完成していれば……
彼は思った。
……こいつが完成していれば、今ごろ、ああいう腐った小市民達が、平和な生活を営んでいたのだろう。
自分の芸術は、あのような小市民的幸福を味わっている連中が持つ、固定概念の破壊が目的なのだ。既成の写真家達を見るがいい。商売になる写真を撮るということは、愚かな大衆の固定概念におもねることにほかならないということに気づいている奴など、いないではないか。いや、写真家達ばかりではない、芸術家全てがそうだ。自分は、固定概念を突き破った、初めての作家になるぞ。
唐木は、ショルダーバッグから使い捨てカメラを一つ取り出した。包装を取り去って、フイルムを巻き上げる。ストロポスイッチを入れると、しばらくして準備が整った。部屋のあちらこちらを、次々に写してゆく。ダイニングの隣は、四畳半ほどの部屋が続いていた。真暗である。そこに足を踏み入れて、シャッターを押した。
ストロボの鋭い光の中に、一瞬それは浮かび上がった。
……?
唐木は、懐中電灯を足下から拾い上げて、部屋を照らした。部屋の隅にそれはあった。
巨大な卵であった。
……何だ、これァ?
どこから見ても卵でしかなかった。素焼きの陶器のような灰色の質感の卵は、さしわたし一メートル半ほどもある。
……よくできてるなぁ。しかし、驚かしやがる。誰がこんなものを。
数歩それに近づいた唐木の足が、次の瞬間凍りついた。卵に大きなひぴが入ったのだ。
ひゅっーと息が止まった。
ひぴは、瞬く間に増え、卵全体を覆い尽くした。
……何かが生まれる!
唐木は瞬きもせず、卵を見つめていた。逃げ出したかった。しかし、足が動かなかった。
ついに卵が割れた。中から出てきたのは、どろりとした何とも形容しがたい色の流動体だった。胸の悪くなるようなにおいがした。
唐木の手から、カメラが滑り落ちた。逃げようにも足が動かず、叫ぼうにも声が出なかった。
流動体は、ふるふると震えながらゆっくり唐木の足元へと流れ出してくる。唐木の喉は力ラカラに干上がっていた。
……うまそうな奴だ。
唐木の頭の中に突然しわがれた声が響いた。彼は、目の前の流動体が自分に対して明確な殺意を持っているのを感じた。
「お、お前は何だ?」
やっとのことで、声をふりしぼって言う。自分の声とは思えなかった。
……俺か、そうさな。『不自由な固定概念』とでも呼んでもらおうか。けど、そんなことはおまえさんにとってどうでもいいことじゃないか。おまえさんは、今から俺に喰われるのだから
声に笑いを含んでいたように思われた。
「やめろ、僕はこれから大事な仕事が……」
流動体は、唐木の腰まで這い上ってきていた。
……は、こりゃ歯応えがあって美味しい
流動体は唐木を覆い尽くすと、滴足げにたぶんと揺れた。
真暗な空間に、星がまたたいている。
「あれから何日たったんだろうなあ」
数日だった気もするし、二、三年のような感覚もある。いや、ほんの数時間かもしれない。だいたい、自分が今、目覚めているのか、眠っているのかも判断がつかないのだった。
星はそれを見つけたときから彼の頭上に輝き続けている。彼にはなぜか、それがとても愛しく、大切なものに思われて仕方なかった。しかし、その星は、見つけたときから、徐々に光を失ってきていた。今や闇に溶け込みそうなほど微かな光でしかなかった。
……腹が減った。
なぜか、空腹感はあった。随分長い間伎べ物を優っていない気がした。
個展の打ち上げパーティーの席で、テーブルに並んだご馳走を、彼は殆ど口にしなかった。どれもこれも美味しそうだったが、彼には食べ飽きた料理ばかりだったからだ。しかし今、目の前を鴨のローストが泳いでいったり、フィレ肉のソテーがおいでおいでをしたり、スモークしたフォアグラの上でキャビアがダンスしてたりする幻覚を見ると、なんで食べなかったのかと、涙が出そうであった。そうだ、ショルダーバッグの中におむすびが二つあったはずだ。しかし、そう思うだけで実際には指一本動くわけではなかった。彼には、もはや空腹感以外の感覚が一切なかった、
空腹は続いた。未来永劫に続くように思われた。頭上には星。あの星がある限り、自分は大丈夫だ、と理由もなく彼は思った。
空腹は際限もなく続いた。
……腹が減った。今、目の前に何かがあったら、それがクツの底だろうが何でも喰ってやるんだが……
彼の意識は食べ物で埋め尽くされていた。他に何も考えられなかった。意識の隅に、あの星がちらっと浮かんだ。星、 何か大切なもの しかし、
……星? 何だっけ? 何か大切なものだったようなさもするけど……。けっ、星は喰えないじゃないか。
意識の中で星が消えた。
次の瞬間、目の前の闇に裂け目ができた。裂け目は無数に増え、ふいに体が自由になった。目の前に『何か』があった。そいつは、ひどくおぴえていたが、とても美味しそうだった。たまらずにかぶりついた。ごくりと喉をならした。
自らもグループを率いて『既成音楽の破壊』を標傍し、多くのミュージシャンを育てた若い音楽プロデューサーをすっかり飲み込むと、その無気味な流動体は、満足げにたぶんと揺れた。
郊外の団地と児童公園にはさまれた、廃墟のようなマンションの一室にその巨大な卵は今でも、ある。
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