虹のあとさき
畑中 満里
夫の部下と名乗る青年士官が、我が家を訪れたのは、蝉時雨が収まった夕暮れの頃だった。海軍の白いつめえりをきちんと着て帽子を目深に被った彼は、玄関で背筋をぴんと伸ばして立っていた。
「河島真紀さんってお宅でしょうか」
そう言った彼が、胸に大切そうに抱えていた包みを、私の前に差し出した。
「遺骨をお届けに参りました」
「……遺骨」
「確かにお渡しいたしました」
敬礼をすると、青年はあっという間に去っていった。
私は見た目よりも重い包みを抱いて部屋に向かい、明け放たれていた襖と障子を閉めた。
むっとする空気の中で、自分の心音だけが聞こえている。我知らず震えてくる手で、包みを解いた。生きている時分はあんなに背の高かった夫が、こんなにも小さい箱に入っているのだと、そう思うだけで胸が一杯になった。
私たちの結婚は、両家の親族によって決められた。そんな間柄ではあったが、今は子供も生まれて仲睦まじい夫婦となっていた。
玄関で夫を送り出した時のことが、はっきりとした明るさで心に蘇る。あの人は笑っていた。出兵の日も。いつだって笑顔を絶やさなかった。女学校を出たばかりの少女の、かたくなな心を解いてくれたのは、あの人のまっすぐな優しさだった。もうあの声が、この家に響く日は釆ないのだ。
ひたり、ひたり、と、冷たい涙が胸の奥から滴り落ち、心にできた空洞に溜まっていくように、私は寂しさに襲われていた。
とん、とん。
控え目に廊下の襖をたたく音がした。ぼんやりとしていた私の意識は、すうっと焦点を戻した。葉を叩く水音がしている。外ではいつのまにか、雨が降りだしていたようだった。
私は、手鏡で目が赤くなっていないかを確かめた。
「どうぞ」
こたえをうけて顔を出したのは、次男の武彦だった。
「母さん、手紙が来てるよ」
「ありがとう、誰かしら」
何でもない風を装って笑うと、武彦は手紙を突きつけた。
「ここ、暑いね。なんで障子を閉めているの」
「聞けるのを忘れたのよ」
ごまかしつつ、封筒を返して差出人を見た。ところところ水に鯵んだ跡のあるそこには、河島真紀と書かれてあった。
「この手紙は父さんからなの、本当に」
武彦が嘘を許さない強さで、私に問うた。
「どうして帰ってこないの」
きつい目が私を見つめている。涙を堪えているのだろう。握り締めた手は血の気を失っていた。私はそんな彼の手を右手で包み込んだ。
「何か事情がおありなのよ。ね、お手紙の中に何か書いてあるかも知れないから、軽々しくそんなことを言っては駄目よ」
武彦は曖昧に笑い、頷いた。
「早く会いたいね」
「ええ、そうね」
返す私の笑いもまたあやふやになった。
武彦に、口外しないように言って帰すと、障子を開けた。身を包む冷えた風に、こもっていた空気が空に逃げていくのが分かった。それとともに、濃厚な雨の匂いが忍び込んでくる。
夫が生きている。どこかでああやはり、と思った。骨の納められた箱の中を確かめたわけではない。あれが夫のものであると誰が証明できるのだ。そういえば、青年士官の名前も私は聞かなかった。
心に鋭い針が生まれる。
この手紙の文字は確かに夫のものである。彼の文字をみまごうはずがない。住所は隣町の大宮になっていた。封筒を開けると、中には二枚の便せんが入っており、その一枚にはこう書かれてあった。
『すまない、私は家には戻れない。助けたい人がいる』
土を叩く雫の音は、しだいに大きくなっていく。水底のような灰色の薄明るさが、庭の木々の間で滞り始めた。この雨は当分止まないだろう。見上げれば、雲は厚く垂れ込めていた。
セレハイス海戦。子国領ミハイル諸島で起きたこの戦いで、夫のいた海軍の兵の多くは命を落としたと言う。家族達は、何度問い合わせても曖昧に受け流す軍の態度に、その生存をあきらめかけていた。私もそんな彼らと同じく日常に目を向けて、生死の分からぬ夫より育ち盛りの子供のことを考えようとした。明るく家をもりたてていくことが、何より天の望んでいたことではないかと思ったからだ。
しかし、それは私の願望に過ぎなかったのかも知れない。海戦から三年、生きているのなら、なぜ彼は一度も尋ねてきてくれなかったのだろうか。
夫と考えを話し合うことなど、ないままに彼は戦地に赴いていった。それで、私は、どこまで彼を理解していたといえるだろう。あるいは何も分かっていなかったのではないだろうか。
疑いは新たな疑問を呼び、私の心に沈着した。茫洋とした記憶の中で、河島真紀という存在もまた、次第にその輪郭を失っていくのだった。
封筒に記された住所を探していると、いつの間にか裏通りに入り込んでいた。太陽に白く照らし出された町並に、現実感が遠のいていく。急ぐ心には焦りだけが増し、ますます目的の家が見つからなくなっていた。
歩き回り、もう夕刻に差しかかろうとした頃、ふと目を引く家に行き当たった。庭には夕顔の鉢が、縁側に沿って所狭しと並び、いくつもの薄い紅の花を咲かせている。狭い路地の奥まった場所に人目を避けるようにあるせいか、どことなく隠れ家めいた印象を抱いた。
だれか名のある人の家かも知れない、と軒先の表札を覗いた私は、思ってもなかった名前をそこにみつけた。
『河島真紀』
心臓が早鐘を打つ。夫は、ここに住んでいるのだろうか。どう声をかけようかと、透垣の向こうを見つめていると、縁側に地味な花の浴衣を着た女が現れた。薄紅の夕顔の花のように儚げな女だった。
彼女は私に気づかず、井戸から桶に水を汲んで、立てかけてあった杓で花に水をやり始めた。くくり損ねた髪が気になるのか、時折襟足に手をやる。嬉しげな後ろ姿は、ほっそりとしなやかだった。
この女は夫の事を知っているのだろうか。あるいは…………。(この女のために夫は戻って来ないのだろうか)
次々に浮かぶ想像を振り払おうと、額に手をやった時、かさりと小枝が音を立てた。振り向いた女と目が合った。彼女は目の悪い人がよくするように、目を細めた。そして知らないものだと分かったらしい。
「道にでも迷われたのですか」
女は垣根から覗く私に、おもったよりよく通る声で涼やかに微笑んだ。
「人を探していたのです。河島真紀といいます」
「かわしま、まさき……」
女の顔からすうっと笑いが引く。美しい瞳が、凍りついたように私に向けられた。
「そうですか。貴方が『真理子さん』なのですね」
「あの人はここにいるのですか」
女は微笑んだ。目だけが笑っていない。
「なかへお入り下さい」
その場に桶と杓を置いて、女は出入り口の戸を開けた。躊躇する間もなく私は草履を脱ぎ捨て、縁側から部屋に上がった。
小さな隠れ家というのが一番相応しいような家だった。廊下を通り通された居間は、物がないせいか、がらんとした印象があった。私は部屋の入口に立って、小さな仏前を見つめた。糟一杯綺麗にしているのだろう。そこには真新しい花が添えられている。奥に置かれた写真の中のあの人の頬には大きな傷跡があった。まっすぐに前を見つめる瞳、引き結んだ唇には、私のよく知る笑いはカケラほども見えなかった。
「あなた…」
やはりあの人は、この世にはいなかったのだ。部屋に入り、仏前に座って手を合わせた。
女はそんな私を見て、痛々しそうに瞳を伏せた。
「こちらへどうぞ。お茶でもいかがですか」
手を合わせ終わった私に、女は座布団を勧める。私は彼女の向かいの庭の見える席についた。
「何からお話すればいいのでしょうか」
「そうね、」
つい、口元から笑いがもれた。勢い勇んで家に入った割りには、その先のことは何も考えていなかった。
「河島がこの三年、いえいつまでかは分からないけど、ここにいたのだとしたらそれを聞きたいわ」
「そうですね。貴方にはその権利があります」
女は茶を一口飲んだ。そう聞かれるものと心得ていたのだろう。殊更に感情を込める様子もなく言った。
「河島さんがお亡くなりになったのは、一月前です。病死……ということになるでしょうか」
「なぜ、はっきりとおっしゃらないの」
「あの方はかなり以前から、ご自分の病気を知ってらした。なのに一度も医者にかからなかった。いえかかるのを拒み続けた。なぜと聞いても答えていただけませんでした。だから私は、もしや自殺ではと思っているのです」
私は弾かれたように女を見た。彼女は表情を変えないまま、障子の隙間から差し込む光に目をやった。
「あの方は私に名前を、戸籍をくださるとおっしゃいました。今、河島真紀は私の名前です。あの方がなくならければ、こんなに早く名前を手に入れることは出来なかった」
「だから、というのね」
「はい。私の話しを信じていただけますか。こんなものの言うことです、信じてくださらなくても構いません」
私は頷いた。
「伺いますわ」
即答した私に、彼女は嬉しそうな笑みを向けた。
「奥様は本当に聞いていた通りの方でした」
夫はいったい彼女に何を話していたのだろう。そんな私の心の中を察してか、彼女はぽつりといった。
「明るくてダリアの様な方だと」
その瞳に束の間、陰りが宿った。そして、それを振り切るように彼女は話し始めた。
夕暮れまでには、まだ少し間があった。
春の港は、戦帰りの海軍が立ち寄るというので、妙な活気に包まれていた。物資補給のためなら何日かの逗留確実なので、疲れた将兵たちは各々船を下りて宿をとる。住民の目当ては彼らの懐なのだ。浅ましいことであるが、私もまたそれを責められる立場ではなかった。この騒ぎに乗じて、置き屋から逃げ出すつもりだったからだ。運良くその日は闇夜だった。
すべての窓という窓には格子がはめ込まれ、外の世界に出るなど夢でしかなかった。広い空が見たい。いつの日にかと思いは募った。このままではそれも叶わないと知ると、自分の力で自由になるしかないのだと思った。
怪しまれないように務めをいつも通り終えたあと、何人かの仲間と一緒に、闇に紛れて逃げ出した。すぐに幾人かが捕まった。こんなに早く追手が掛かったのは、密告したものがいたからだ。
追いつめられて海岸に逃げた私たちは、散り散りに隠れた。私は漁師が干した魚臭い網を被って、息を殺した。もうすぐ朝日が昇る。姿が見えればもう終わりなのだ。捕まれば私たちは良くて拷問にかけられて死ぬまでの務めを課せられるか、もしくはそのまま殺されるだろう。
かさりと、そばで誰かの足音がした。恐怖に身が縮む思いがした。足音はだんだんと近づいて、身を固くしている私の所にまで来た。ガサガサと音を立てて網が捲られた。
「何をしてるんだ」
声に含まれた気遣うような響きに、顔をあげると、暗間にぼんやりと軍服の影が浮かび上がった。
(置き屋の奴じゃない)
港の人間でもないだろう。狭い街だ、誰でも声ぐらいなら知っているはずである。
私は小声で、追われているから隠れているのだと言った。するとその軍人は元通りに私に網を被せ、その上からまたいろいろなものを乗せて、最後に上着を脱いで掛けた。
しばらくしてやってきた追手は、彼が着いたばかりの海軍兵だと知ると、敬礼をして前を素通りしていった。
「もう大丈夫だ」
そう言った軍人が網やら何やらを退けてくれ、やっと私が顔を出した頃には、東の空は薄ほんのりと太陽が顔を出していた。
「綺麗……」
私は格子越しでない朝日におさえ切れず泣き出していた。
他の仲間はどうなったのだろう。私はこの先どうすればいいのだろう。ぐるぐると言葉が頭を回っている。近づきつつあった死は去っていったけれど、残された私に生きる道を指し示すものは何もなかった。
軍人は河島真紀と名乗り、泣きやまない私についていてくれた。明るくなってはっきりと見た彼の顔には、真新しい大きな傷跡があった。この人は国を守って戦ってきたのだ、我身を顧みて、私は恥ずかしさのあまり顔を伏せた。
「君の名前は」
彼は姿を現した太陽を受けて、小さく笑った。
「たちぱな」
私は、店で呼ばれていた名を言った。
「名字じゃなくて名前だよ」
「知らない。名前なんてここに来るまで呼ばれたこともないもの」
正直に言うと、河島さんは、じっと私を見つめる。瞳には気遺いの色が、浮かんでいた。
「ちゃんとした名前をあげようか」
私は彼の心を疑ったけれど、次第にそれでもいいと思うようになった。人に優しくされたのは初めてだったけど、こんなにも嬉しいものだとは知らなかった。
そして河島さんは、私に居場所をくれた。この街で除隊するはずだった彼は、荷物に紛れて私を船に乗せ、次の港で船を降りた。その時のことだった。
忘れ物を取りに行った河島さんが、なかなか帰ってこないのにじれた私は、人目に付かないようにそうっと様子を見に行った。船は船着き場にいた。暗がりで見えなかったけれど、誰かと口論しているようであった。近くの物陰に隠れると、わずかだが話し声は聞こえてきた。
「考え直せ。あんな子供を助けるだと。真理子さんはどうするんだ」
「小田原」
小田原という軍人は、行こうとする河島さんに詰め寄っている。かなり気が高ぶっているせいか、自分が大声を出していると気がついていないらしい。
(マリコさん?)
聞き慣れない名前だった。河島さんの知り合いなのかも知れない。
「真理子には帰れないと言っておいてくれ」
「河島!」
「いいんだ小田原。自分で決めたことなんだ」
そういった河島さんの服を、小田原は諦めて放した。
「俺が真理子さんに何を言ってもいいということだな」
ふと振り返った小田原と目が合った。彼の目がすっと細くなる。肩を震わせた私を、河島さんが見とがめた。
「なんでここにいるんだ」
「帰ってこないから、何かあったのかと思って」
彼は小田原さんの目から庇うように私の前に来た。
「何でもないよ。待たせてすまない」
「ねえ、マリコさんって誰?」
「俺の奥さん」
河島さんがいつものように笑うのが気配で分かった。
「ダリアみたいな人だよ」
大きくて赤い花が脳裏に閃いた。太陽のような花。そんな女の人は、きっと河島さんとお似合いなんだろう。少し心が痛むけど、彼の笑顔が誰か特別な人がいるために生まれるのなら、それを消してほしくなかった。
顔を知ってる者がいるといけないからと、予備の軍服を私に着せて、列車で大宮まで帰ってきた。私はてっきり、ここで河島さんは家に戻るのだと思っていた。隣町の御園生に家族がいると聞いていたし、こんなところまで追手も来ないだろうからだ。
しかし、河島さんは大宮に家を借りて、私を連れていった。その家はもう何年も人が住んでいなかったようで、戸を開けると埃が積もって層になっていた。私たちはまず、隣家から箒と塵取りを借りてきて玄関を掃き、荷物置場を確保すると、捨て置いてあった雑巾で廊下を綺麗にした。二手に分かれて台所と部屋を掃除し、河島さんが井戸の上澄みを取り除き、何とか住めるようになった頃には、随分と辺りは暗くなっていた。こうして私たちは、なし崩しにここに住むことになった。
河島さんはどこかに働きに行っているようだったけれど、私は何も知らないままだった。でも、家族の方には会いに行ってないようだった。同情か憐れみか、河島さんは私を置いてくれ、私はそれに甘えた。日々の買い物の値段を知り、周りの人間とのつきあい方も少しずつだったけど覚えていった。小田原さんは近くに住んでいるらしく、時折土産を持って訪ねてきたけれど、初めて会ったときのように鋭く睨まれるようなことはなかった。『異理子さん』の話題は、少なくとも私の前では一度もでなかった。
まるで親子のような河島さんとの関係が変わったのは、大宮に住み始めて一年が過ぎた頃であったろうか。
居間で目を覚ますと、雨が上がり、障子を開けた隙間から涼しい風が入り込んで来ていた。幾分明るさを取り戻した空には、ぽっかりと浮かんだ雲がゆっくりと去っていく。
からり、と玄関の開く音がした。迎えに行くと、河島さんは靴を脱いであがろうとするところだった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
河島さんは傘を広げて乾かすと、目を合わせないまま台所に行った。
家族の方に会いに行ったのだ、と思った。胸が軋むように痛んだ。そうだ、私はいつまでも宙ぶらりんな居場所にいるのだ。自覚が体を這い上がってきた。
「御園生に行ってたの?」
追いついてそう聞くと、茶碗で水を飲んでいた彼は、首を横に振った。
「ずっと言おうと思ってた。家に帰ってあげて。私はもう大丈夫だから」
私の言葉に河島さんは驚いたように目を見聞いた。
「どうして」
私は日頃考えていたことを話した。
「家族ってどんなものか私は知らないけど、いいなって思ってた。私が生まれたときに、父さんは名前をつけてくれなかったし、望まれた子じゃなかったから、母さんが死んで父さんは私を捨てた。見てくれが良かったから、店に連れてこられたんだ。だから、もし私が家族を持ってたら、大切にしたいなあって思うな」
のぞき込むと、河島さんの顔が泣きそうに歪んだ。
「大丈夫、とんなことをしても生きてはいけるよ」
あっという間に抱きすくめられた。久しぶりに感じる人の温かさに、目眩がした。
「河島さん?」
彼は私の髪に顔を埋めて、泣いていた。
「俺はここをでていかない」
それは彼自身に対する戒めのように聞こえた。
それから鳥が巣に帰るように河島さんはこの家に帰ってきた。そんなある日、河島さんはどこからか朝顔と夕顔の種を貰ってきた。庭を掘り返して植えると、しばらくして小さな二つの葉が顔を出した。私は成長の早い彼らを見るのが楽しくて、いつ花がさくのだろうと庭にしゃがみこんだ。河島さんはそんな私を、朝顔市に連れていってくれた。
あまりの華やかさに、
「今日はお祭りなの?」
と繰り返し聞いた。そんな、子供のようにはしゃぐ私を、彼の目が嬉しそうに見ていた。
でも楽しいときはあまりにも早く過ぎていった。去年の夏の初め、河島さんが倒れた。戦地での傷が悪化していたにも関わらず、何の治療も受けていなかったという。兆候はあったはずなのに気づきもしなかった自分が悔しかった。
河島さんは、小田原さんの説得も聞かずに、それからも治療を拒み続けた。家族の方に知らせようかと何度も考えた。河島さんが憐れみで私を側に置いてくれていると分かっていながら、でも出来なかった。人の温かさを知った今、もう一人になるのは嫌だった。
病床で、朝顔を見たいという河島さんのために、私は色とりどりの花弁をつみ、水を張った鉢の中に浮かべた。その玩具のような花を見て、ふとある考えがよぎった。
河島さんにとって私はこの花のような存在なのだ。支えがなくては地に這うだけの、見た目には華やかであるがすぐに枯れる、一時の花。その輝きは、ダリアを見慣れた目には色褪せて映っているのだ。この思いつきは、あながちはずれていないはずだった。
それでも私は、河島さんにとっての朝顔でありたかった。側にいられるなら、どんなことでもしようと思っていた。
河島さんが亡くなったのは、秋の気配が深まる九月の朝だった。いくら呼んでも返事がないので、熱があるのかと思い額に触れてみた。私は驚いて手を引いた。血の温かさが消えている。急いで蒲団の中の手を握ってみても、微かな温もりしか感じられなかった。
河島さんが死んだ。
冴えた朝の気の中で、あの人はただ眠っているように見えた。私は呆然と蒲団の側に座り込んだ。置屋から逃げ出したあの日のように、私は何も分からないまま虚空に放り出された心地でいた。あの日、小田原さんが来なかったら、いつまでもあのままだったに違いない。
昼にやってきた彼は、河島さんの様子がおかしいことに気づいて、脈をとり胸に耳を当てた。そしてもう手の施しようがないと分かると、生きている私のほうの熱を計った。そうしてすぐ戻るからと言って、走って出ていった。
次に戻ったときには、小田原さんはいろいろな物を抱えていた。何も分からぬ私のために最小限の葬儀を手配し、人形のように動かない私に食物を摂らせた。彼がその頃頻繁に訪ねてきていたのは、もしかしたら河島さんの様子から、こうなることが分かっていたのかも知れない。
読経の後、火葬場に運ばれた河島さんは、箱に入るほど小さくなって帰ってきた。
私は箱を抱いて、小田原さんに連れられて家に戻った。足が雲を踏んでいるように思えて、真っ直ぐ歩けなかった。
明かりも点けないで部屋の隅にうずくまる私を、小田原さんが助け起こした。
「骨は真理子さんに返してやってくれ」
頭を下げる小田原さんに、初めて会ったときの軍服姿が重なる。
『小田原は、道で会う真理子が好きだったんだ。まだ真理子が女学校にいた頃のことだけどな』
河島さんの言葉が蘇る。小田原さんは好きな人を取られ、それでも河島さんの友人をやめなかった。そしてこの人はいつだって正しかった。
「そうですね。私もそう思います」
その言葉は自然と口から出た。
私には沢山の思い出がある。本当なら家族が受けるはずの幸せを、私は奪い取って過ごした。彼が死んだ後まで、その幸せを受け続けるわけにはいかない。骨は『真理子さん』の元にあるべきなのだ。
「でももう少しだけ一緒にいさせてください」
私は座り直して、小田原さんに深々と頭をさげた。
「お願いです」
頬を涙が伝い落ちた。この涙が私の体からなくなれば、河島さんを忘れられるだろうか。それがいつのことになるのか、今の私には分からないけど。
河島と朝顔市に行ったところで、彼女の言葉は途切れた。それから…と言い継ごうとするのだけれど、その先が出てこないのだ。
おそらくその後に、河島は病気を悪化させて床についたのだろう。辛い記憶を彼女自身思い出したくないのなら、それ以上聞こうと思わなかった。
私は俯いた女から目を離し、小さな写真を見た。
「…河島は、貴方と居るとき、笑っていた?」
私の問いかけに、彼女はコクリと頷いた。
「そう、それならいいわ。私はあの人の笑顔が好きだったの。生きてる間には言えなかったけど、大きな笑い声が台所まで書いてくると、本当に嬉しくなった。ここにいた間、あの写真みたいに仏頂面だったのなら、貴方に恨みの一言も言いたかったけど、笑っていたのね。じゃああの人幸せだったんだわ」
「河島さんは本当に幸せだったのでしょうか」
女は眉を寄せて、悲しげに写真の中の河島を見た。
「奥様は明るくてしゃんとしたダリアのような方だ、と。何でも一人で大丈夫だからと、言っておられました。そんな人なんていない、誰だって寂しい。そう思いながら、何も言えませんでした。でもあれは、私へというより、御自分に言い聞かせるためだったと思うのです。河島さんは貴方が強いと信じなくてはここにはいられなかった。私はあの人の負担ではなかったのでしょうか」
私は何も言えずに、仏前へと視線をやった。そしてそこに、遺骨がないことに気がついた。よく見ると台の上には、うっすらと積もった後に、四角く何かを置いた跡があった。箱は確かにここから届けられたのだ。私は微かに記憶に残る青年士官の姿を思い浮かべた。目深に被った帽子の下の顔は…。
「あれは、骨を持ってきたのは」
女はええ、と頷いた。
「私です。手元に届けるついでに『真理子さん』のお顔を見ようと思っていたんです。でも、結局顔を上げる勇気がありませんでした」
「じゃあ、この手紙も貴方が出したのかしら」
私は昨日届いた手紙を思いだし、懐から出した。河島は一月前に死んでいるのだから、これは別の誰かによって出されたものである。
しかし、女は首を横に振った。
「手紙、いいえ。私は文字が読めないんです。地図も分かりませんから、お伺いしたときには人に聞きながらやっとたどり着いたんです」
「貴方じゃないの」
彼女でないとしたら、誰が出したというのだろうか。私は、封筒をもう一度見直した。思い返せば一昨日、届いた封筒にあった水滴は乾いていた。そして気づいた。消印の日付が二年前のものだということに。
「でもどうして今になって」
二年前といえば、女の話からするとここに来て一年ぐらいの事であろうか。その時、この手紙を投函した夫は家族よりも彼女を選んでいた。全てを捨てて助けると。そのまっすぐな姿勢は最後まで変わらなかったのだ。
「何が書いてあったのでしょうか」
「そうね」
私は手紙をひろげ、夫の言葉を待ってる彼女に読んで聞かせた。
「私は幸せにしています。真理子、貴方も私などにとらわれず、幸せになる道を探してください。…こう書いてあるわ」
「河島さん…本当に? あの人は、幸せだったと」
上擦った声が問い返す。その頬を涙が伝い落ちた。美しい、微笑みだった。
その笑顔には『助けたい人が居る』という言葉を聞かせてはならないように思った。
誰かを助ける、ということは自分の何かを犠牲にしなくては出来ないことだ。時間・財産・家族…決して助けるという行為への代償を得ることなく、また誰かに助けられることもできない。彼女の無垢な魂に、助けると思いつつ、助けられていたのはもしかすると夫のほうだったのかもしれない。二人は倒れないよう、互いにしがみつくように生きていたのだろう。その彼女が、家族という代償を背負うことは、河島自身望んでいなかったはずである。
河島は私に子供と家族を託し、女には未来を与えていった。夫は、河島真紀は、夕顔のように儚げなこの女を愛していたに違いない。自分の名前を与えるほどに。
私は私で、河島がダリアのような女と思っていたのなら、そう生きてみようか。強く何にも負けない花として。
彼女はこれから、河島真紀として生きてゆくのだろうか。私は河島という存在に、まだ若い彼女の行く先が束縛されないで欲しいと思った。互いに望んだ束縛なら、彼女は喜んで受け入れたであろうけれど、死んでまで生者の在り方を左右するなどあってはならないことなのだから。
頬を撫でた冷たい風にひかれ外を見ると、暮れかけた空は、裾の方から澄になって行くところだった。まるで虹がかかっているように染め分けられた空には、細くちぎった雲がゆっくりと流れていた。
「きれいな空」
女は涙を拭って空を見た。その澄に照らされた頬の上で、涙の跡が光の筋になった。
私は顔を上げた彼女に笑いかけた。不思議と、晴れ晴れとした心地だった。こんな夕暮れには、心の中にある何もかもが空に溶けてしまうのかもしれない。
この虹の先には何か待っているのだろう。虹のこちらに居ては分からない、あえかな未来だろうか。
ここにはいない河島に、そんなことを聞いてみたい気がしていた。
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