短編習作集『詩織』平成八年度号 「十九の春」

 十九の春

高島 真由子 






「やっぱりね……」
 入試というのはやっかいなヤツだ、と私は思う。その人がいつから受験勉強を始め、どんな夏を過ごし、そして言いようのない不安にかられる冬をどんなふうに乗り越えてきたのか、そんなことはまったく関係ない。百人の受験生がいれば百人分の受験地獄という過程があるはずなのに、結果は合否の二つなのだ。なんて非人間的な、そしてシビアな世界なんだろう。
「智子ー、智子ー。受かったぞー」
 付き合い始めて二年になる健二が、大喜びで駆けてくる。
「そんなシケたツラすんな。自分が悪いんだろ? 二次の時に熱なんか出すからさあ。センターの得点、俺より良かったくせに」
 健二は私のこと、良く分かってくれている。こんな時に腫物に触られるように慰められるのが、鳥肌立つほど嫌なこと、良く分かっているのだ。
 そして私も健二のことが良く分かる。口には絶対に出さないけれど、健二は私と一緒にN大に越うことを相当楽しみにしていた。それだけに、私の不合格はかなりこたえているはずだ。ひょっとしたら、春から浪人生活を強いられることになった私よりも、ずっとがっくりきているかもしれない。けれど、私も健二もそんなことは口にも顔にも絶対にださない。そんな気の強さは二人が共通して持っている長所であり短所である、と私は思う。
 私は家に電話をしなければならなかった。不合格の知らせをしなければならない。その辺の電話には受験生が群がり、すぐにかけられそうな雰囲気ではない。仕方なく私は、長い列に加わる。
 テレホン力ードをペコペコさせながら、なんて言おうか考えた。私の周りには、私の不合格を私以上に悲しむ人が多すぎる。とてもつらいことだ。
 私の番がきた。一回だけの呼出し音で母は出た。
「智子でしよ? どうだった?」
「やっぱり、だめだった」
 一瞬の沈黙。きっと母も健二みたいに顔を曇らしているのだろう。早く切ってしまいたかった。これ以上母の言葉を聞くのは危険すぎる。
「分かった。もう何も考えないで、早く帰っておいで。これからのことは、明日考えればいいから」
 鼻の奥がツンとした。胸が一杯になってきた。
「お母さん、こ免なさい」
 気がついたら私は泣いていた。手の甲で何度も涙を拭っていた。
「もうやだよ。もうやだ……」
 不合格は覚悟していた。そう、覚悟していたはずだったのだ。それなのに、どうして私はしゃくりをあげながら泣いてしまうのだろう。フルマラソンのゴールで、はいもう一周、ってぐあいに背中を押される気持ち……
 その時急に受話器を取り上げられた。健二が、乱暴に受話器を置いていた。
「帰るぞ」
 健二の視線が私の心を突き抜けた。うっ、ときそうなやさしい目。生まれ持っているそのやさしさは、今の私には少しこたえる。そんな目で見ないでって、心の中でつぶやいてから、
「当たり前でしよ。こんなところ、いつまでいたって仕方ない」
 まつ赤な目をしてこう言った。
 三月の風は少しだけ暖かくて、少しだけ冷たくて、少しだけやさしくて。もうすぐ春だなと、自分の身の上は棚にあげて思ったりしていた。

 それからの生活は、私にとっても健二にとっても慌ただしく過ぎていった。私たちの住んでいる町はとんでもなく田舎なので、県内のN大に通う健二も、予備校に通うことになった私も、通学に便利な下宿先を見つけることで大忙しだった。大はしゃぎしながら健二と下宿探しを楽しんだ。勉強も四月までは一切しないことに決めていた。
 そして引っ越しの日。朝からばかみたいに暖かい日だった。一日かかってなんとか生活できる状態までこぎつけた。
「意外に時間かかっちゃったわね。お母さん、もう帰らなきゃいけないわ」
「そうだね。じゃあ、駅まで送るよ」
 ここから家まで電車とバスを何度も乗り換えて片道三時間半かかる。歩きながら私も無口だった。夕焼けをバックにすべてが黒くうき上がっている。ビルも家も電柱も電線も。そして、母と私の長い影。すべてが心に染み付いた。今晩から私は、家族と離れて生活するのだ。
「お母さん」
「なに?」
「なんでも、ない……」
「なあに? 変な子ねえ」
 すぐに地下鉄の駅に着いてしまった。
「塾の授業料と四月分の生活費よ」
 母は通帳を手渡しながら言った。
「精一杯、頑張りなさい」
 胸が一杯になった。何かが溢れ出してきそうだ。何か言わなきゃならないのに、言いたいことがありすぎてとても言葉にできそうもない。
「お母さん……」
 言った途端に涙が溢れ出した。母は人差指を立てて口に当てた。そして少しだけ笑顔になって、行ってしまった。
 私は地下鉄の汚いトイレでいつまでも声をあげて泣いていた。

 次の日。
 私は部屋の掃除をしていた。外は、昨日とはうってかわってのどしゃぶり。風も強くまさに春の嵐だった。
 電話のベルがなった。どきっとした。狭い一人暮らしの部屋に響くベルは、一際大きく聞こえる。
「もしもし。」
「智ちゃん、助けて」
 電話の主はゆみだった。ゆみと私は幼なじみで、小中と同じ学校へ通ったのだが、高校は別のところへ進学した。雨でぬれた路面を車が走る音、風がシャッターをたたく音、周りのざわめきがゆみの声をかき消す。
「ゆみなんでしよ? どうしたの? 泣いてるの?」
「盗まれちゃったの……」
「えっ? なに? 聞こえない。もっと大きな声でしゃべって」
「入学金と学費、盗まれちゃったの」
 ゆみは私が落ちたN大に合格していた。今日はN大の入学手続きの日だった。確か健二は三時までにお金を大学に持っていかなければ合格取消しだと言っていた。時計を見ると、ちょうど十二時だった。大丈夫だ。まだ間にあう。
「ゆみ、私がなんとかするわ。大丈夫、心配しないで。講堂の前で待ってて。今から急いで行くから。ちゃんと講堂前にいるのよ。いい? わかった?」
 ゆみの返事は雨風の音にかき消され、私の耳には届かなかった。私は静かに受話器を置いた。心臓が口から飛び出てきそうだった。窓ガラスには爾がぱちぱちぶつかる。それでも私は迷わず、昨日母からもらったばかりの通帳を握りしめていた。

 銀行の前で健二は待っていた。
「何の用だよ、こんなドシャ降りの日に呼びつけやがって」
「ごめん。ちょっと一人だと恐かったから」
 いつもならひるまず食って掛かってくる健二だが、いつもと違う私の様子を察したのか黙ってしまった。そして私が七十万円をおるす動作を黙って見ていた。お金をおろすと、N大の方へ歩きだした。やっぱり健二は黙って私の後をついてきてくれた。このにぎやかな通りの先でゆみは待っている。横殴りの雨の中、たった一人で。ゆみの不安そうな顔と昨日の母の顔がだぶった。人差し指を立てて口に当てたお母さん。私は思わず引き返したくなった。けれど、その時の私には足を止めることはできなかった。

 受験勉強で少しやつれたせいか、ゆみは少し大人っぽくなっていた。
「ゆみ、これ、あんたに貸してあげる」
 封筒を差し出す私に、ゆみは驚いていた。当たり前だ。こんなことをする友人に驚かない人はいない。
「智ちゃん、どこにこんなお金が……。ねえ、智ちゃん、私智ちゃんにお金を借りようと思って電話したんじゃないんだよ。気付いたらお金なくて、どうしたらいいか分かんなくて、それで……」
「分かってるって。ゆみにそんな気なかったって私が一番分かってるよ。だから、とりあえず手続きだけ済ませておいでよ。ほら、一緒に行ってあげるからさぁ」
 私たちは手続きを済ませた。その間、ずっとゆみは泣いていた。そして、警察に行くゆみを見送った私と健二は、講堂の前でしばらく金縛りにあったように動かなかった。合格発表の日、私がしゃくりをあげてないた公衆電話に、雨と風が叩きつけていた。急に不安が押し寄せる。
「どうして、塾に行く金貸しちゃうんだよ」
「ゆみは、お父さんの連れ子でさぁ、そのお父さんも去年事故で亡くしちゃったんだよね。今のお母さんともあまりうまくいってないみたいで。こんな時ゆみが頼れるのは、私だけなのよ。ゆみは大事な親友なんだよ。そのゆみが、お父さんの死を乗り越えてつかんだ栄光を、こんなことぐらいでつぶせない。つぶしちゃいけない……」
 思い上がりもいいところだったその時の私は、健二に向かってというよりは、自分に言い聞かせるようにそう話した。それでも、傘をもつ手がぶるぶる震えて止まらない。今すぐにでも、母に謝りたい衝動にかられた。心がぐうっと押しつぶされて、息苦しくて、涙が出た。私は傘でそっと顔を隠した。
「どうして智子はそんなに強がったやり方しかできないんだ? たいして強くもないくせに。そういうことされると、どうしていいか分からなくなる。いつか智子がつぶされるんじゃないかって考えると、すごく、こわい……」
 私は驚いてしまった。健二は、絶対そんなこと私に言ったりしない。健二はいつもやさしくて強い。それなのに、目の前の健二は、今にも崩れてこわれてしまいそうだ。私は、別の意味でとても恐くなった。思わず、健二にぎゅっとしがみついた。私のピンクの傘がころころと転がった。
 何かが変わろうとしている。いや、もうすでに変わりつつあるのかもしれない、と私は強く感じていた。十八歳の春というのは、そういうものなんだろうか。健二の胸から伝わる心音は、いつもより絶対に早かった。
「あの、ゆみって子さぁ、女優みたいな目してるな」
「えっ?」
「演技するために生まれてきたような目をしてる。あの子は、智子が思っているほど弱い女じゃないぞ」
 健二の言っている意味がまるで分からなかった。ますます不安が押し寄せるのだった。

 私は朝からそわそわしていた。意味もなく立ったり座ったり。トイレにも何回も行った。
 “言うべきか、言わないべきか”
 宅浪している私を知ったら、きっとお母さんは傷つく。けれど、嘘は絶対につきとおせないのはよく分かっている。そして、塾の費用の使い道だって誰にも言わないと心に決めている。
 どうしたらいいのだろう。どうしたら誰も傷つかないでいられるだろう。
 ゆっくり目を筋じた。ああ、会いたい。健二にすごく会いたい。健二に会って、めんどくさいこと全部放り投げてしまいたい。けれど会えない。今は絶対に会えない。今、会ってしまったら、きっとあの崩れそうな健二を見なければならない。
 一人で頑張るしかない。
 雨足が少し強くなった。今年は本当によく雨がふる。

「それは一体どういうことなの?」
 訪ねてきた母に塾へ行ってないことを告げた。
「お母さんに分かるようにきちんと説明してちょうだい」
 お母さんは私を少し怖い顔で見つめてるのだろう。私は顔を上げることができなかった。何も言えない。
 お母さんの視線がとても、とても痛くて、私はただお父さん、お母さんに申し訳なくて、何も言えない自分が苦しかった。ガラス戸にぶつかる雨が、バチバチと音を立てている。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。理由は言えないけど、急にお金がいることになって。でも、お金は絶対に返すから」
 私は今、お母さん、お父さんを裏切ったのだ。ゆみのために大好きな両親を裏切ってしまった。
 何か一つとることは、何か一つなくすことなのだ。
 お母さんも私もずっと黙ったままだった。沈黙がとても痛かった。私は知らず知らずのうちに泣いていた。声を上げて泣いていた。苦しくて苦しくて、うめくような声を出して泣いていた。
 かなり時間がたち、お母さんは立ち上がった。
「きっと、智子も悩んだ末で、今のこの生活をしているのよね。お母さん智子のこと心配だから、いろいろ聞きたいけど、もう智子も大人だもの。お母さんは智子に何も言わないし、何も聞かない。でもね、少し悲しいわ。どうして相談してくれなかったの? お父さんだって悲しむだけじゃなくて、怒るかもしれない。その覚倍はできてるのよね」
 私はお母さんの目を見て、大きくうなずいた。
「それじゃ、今日はもう帰るわ」
「送っていこうか?」
「今日はいいわ。そんな顔で外歩けないでしょ」
 おかあさんは出ていってしまった。
 外は相変わらず強く雨が降っていた。お母さんはこの雨の中、何を考えながら駅までの道を歩いて行くのだろう。どんな顔をして歩いているのだろう。
 心がとても痛かった。泣きすぎてこめかみが痛かった。私は大好きな両親を悲しませてしまった。その“大好き”という気持ちの強さの分だけ私は苦しかった。
 その時ふと、ゆみは今頃どうしているのだろうと思った。何かのサークルに入ってるかもしれない。新しくバイトを始めたかもしれない。授業をさぼって遊びに行ったり、コンパでお酒も飲むかもしれない。そんな中で彼氏も見つけたかもしれない。思い浮かべたゆみはどれもみな笑ってる。楽しそうに笑ってる。のほほんと笑ってる。大好きな、私が大好きな笑顔のはずなのに、なぜか心がきれいに晴れない。
 私は今、ゆみが手にしているかもしれないすべてのものを手にすることは不可能だ。
 ふつふつと何だかわけのわからない感情が込み上げてきた。頭をクシャクシャとかき乱してみた。クッションを思いつきり壁にたたきつけてみた。テーブルをバンと両手でたたいてみた。
 カップの紅茶がこぽれた。大好きなカーペットに大きなしみができた。紅茶のしみがどんどん広がるように、私の心の中である種の感情がしみのように広がった。その感情は、私が認めたくない汚い感情だった。私はゆみのことを嫌いになってしまうかもしれない、と疲れきった頭の片隅で思っていた。そして、いつかゆみのことを傷つけてしまうかもしれないとも思っていた。
“どうしたらみんなが傷つかずにすむのだろう”
 考えても考えても周りのみんなは傷ついてゆく。いや、考えれば考える程、傷ついてゆくのかもしれない。しかしもう後戻りすることはできない。どんなにみんなを傷つけても、どんなに私が傷ついても、立ち止まることはできない。
 人生のにがみが疲れた心を刺藤する。最近笑ってないなとふと思った。

 五月になった。
 私はアルバイトニュースを朝から必死になって読んでいた。月末に入るはずの仕送りが、通帳に入っていなかった。両親からの連絡は何もなかったが、これが二人が考えた末の結論なのだろう。私がとやかく言う権利はない。むしろ、このシビアな選択に感謝しなければならないのだ。お父さんもお母さんも心を痛めている。それがズキズキ伝わる。だから、私はこの結論を受けとめて生きていかなければならないのだ。
 こんな私をみたら、健二はどんな顔をするだろう。もう一ヶ月も健二と会っていない。けれど、会うのが恐かった。きっと健二のことも傷つけてしまうだろう。
 ひと月前までは何でも一緒にやってきた。つらいときや苦しいときは、いつでも一緒にいてくれた。私のことを一番分かってくれていた。
 一つ歯車が狂ってしまうと、すべてが狂ってしまいそうだ。
 その時、家の前で原付が止まる音がした。
 健二だ。健二が来たのだ。
 不思議とエンジンの音だけで分かってしまう。力ンカンカンと隆段を上る音がする。来るべきものがやってきた、という感じだった。
 ピンホーン。
 やっぱりそうだ。私は恐くて恐くて、ドアを開けることができなかった。今健二を家に入れてしまえば、決定的に二人の変化を感じてしまわなければならない。いやだ。そんなの絶対にいやだ。
「智子、いるんだろ? 俺だよ、開けてくれよ」
 私は耳をふさいだ。
「俺にあいたくない気持ち、よく分かるよ。恐いんだろ? 俺だって同じだよ。智子は今すごく傷ついてる。そんな智子見るの俺だってつらいよ。でもこのままじゃ駄目だろ? なあ、智……」
 私はドアを聞けた。これ以上健二の声を聞いたら、私は死んでしまいそうだったからだ。
「散らかってるけど、上がって」
 健二は足元に広げてあるアルバイトニュースを手に取った。見られて一番困るものだったが、健二からアルバイトニュースを取り返す気力すらなかった。私は本当に疲れきっていた。
「おばさんにお金のこと言ったんだ」
 私は力なくうなずいた。
「仕送りは?」
「止められちゃった」
 私は精一杯明るく言ってみた。しかし、そんな努力は健二には伝わらなかった。
「それがこの印の理由?」
 取れない紅茶のしみの上に、健二はアルバイトニュースをたたきつけた。一番手っ取り早く稼げる夜の仕事に、いくつか印をつけておいたのだ。
「何やってんだよ! おまえ何やってんだよ! おまえのやってること、絶対に間違ってる。俺分かんないよ。智子のやること、めちゃくちゃだ。もう、やめてくれよ。どうしてもっと自分を大切にしないんだ! どうしてもっと自分を大切にできないんだ! 智子はこんなことできる程強くない。それに、こんなことする智子を見守れる程、俺は強くないんだ」
 私は泣いていた。後から後から涙がほほを伝った。
 私はアルバイトニュースを拾い上げて、引き出しにしまい込んだ。
「私のことは、もうほっといて。もうここにも来ないで」
 私はこの言葉を発した瞬間、“言葉の暴力”というのが頭をよぎった。こんなこと言いたくないのに、勝手に口走ってしまう自分が恐かった。
 健二の拳は硬く握られ、ブルブル簾えていた。
「私、健二に見守ってもらおうなんて少しも思ってない。それに私、健二が思ってるよりずっと強いよ。自分がまいた種ぐらいなんとかできるもん。今は私の頑張り時で、春には必ず……」
 健二はくるりと私に背を向けた。
 バンッ。
 足の裏で思い切りドアをけとはし、乱暴にドアを聞け、ものすごい音を立てて階段を降りていった。
 たっぷり水分を含んだ風が、開けっばなしのドアからどっと押し寄せた。
 吐き気がしたのでトイレに駆け込むと、本当にもどしてしまった。限界かもしれない、と本当に思った。
 気がつくと、外はもう暗かった。
 激しい吐き気とめまいは治まるどころかますますひどくなり、やっとのことでベッドにたどりついた。私は、眠りたいと心から思った。そしてこのまま朝が来なけれはいいと思った。しかし、絶対に聞違いなく朝は来る。そして生きていかなければならない。だれも助けてはくれない。自分の手で足で生きていかなければならないのだ。
 夢や希望という言葉が、恐ろしい程嘘っぽく感じる。
 人生ってこんなにも苦しいものなのだろうか?

 何度か目が覚めたが、起き上がることができず、そのまま、またドロドロした眠りに落ちていった。目が覚めたとき、明るかったり暗かったりしていたから、多分何日かたっているはずだ。
 分かってはいたが、起き上がることはできなかった。起き上がれば今の自分と向き合わねばならない。現実を認めなければならない。その恐怖心と激しいめまいが、私をまた眠りの世界へ導いてゆくのである。その眠りは信じられないくらい浅く、常に夢と現実の間を彷徨いつづけるのだった。
 その時、突然目覚まし時計が鳴りだした。故障だろうか?
 ベッドから少し離れたところに置かれた時計のベルをとめるには、どうしても起きなければならない。少しうるさいが、ほうっておくことにした。そのうち止まるだろう。
 ジリジリジリジリ……
 異常にうるさかった。目覚まし時計ってこんなにうるさかったっけ?
 ジリジリジリジリ……
 目覚まし時計が早く起きろと言っている。頑張って早く起きろと言っている。おまえはそれだけのヤツだったのかと言っている。
「逢うよっ!」
 私は思わず叫んだ。叫ぶと同時に起き上がり、ベルを止めた。目覚まし時計は何事もなかったかのように時を刻み続ける。
 私は泣いた。うれしくて泣いた。ずっとずっと何かに励ましてもらいたかった。強がってはみたものの、突き上げてくるさみしさに心がぐーつと押しつぶされていた。ずっとずっと頑張れって言ってほしかった。壊れた目覚まし時計に励まされるなんて、変な話だけれど。
 しかし、そんなちょっとしたことが、今の私の心をずいぶん楽にしてくれた。
 不思議と、めまいと吐き気が軽くなっていた。お腹もすいてきた。
 もう少し頑張れるかもしれない。そうだ、もう少し頑強ってみよう。大好きな両親のために、大好きなゆみのために、大好きな健二のために、そして自分の夢のために、もう少し頑張ってみよう。

 なんと、健二が来た日から三日が経っていた。三日間も眠り続けていたのである。はっきり言って、これは完全に異常だ。朝起きてごはんを食べ、昼食もきちんと摂リ、夜も栄養たっぷりの晩ごはんを食べ、お風呂に入り、という普通の人間的な生活を早く取り戻さなければならない。
 私は、とりあえず近くのスーパーへ買い物に出かけた。雲行きが少し怪しい。雨が降るかもしれない。
 スーパーの中でも、さっきの目覚ましの音を耳の奥で鳴らしていた。それは私の心の闇に心地良く響いていた。
 私は、なるべく栄養になりそうなものをどんどんかごに入れた。ニンジン、ピーマン、カボチャ、トマト……。何を作るかなんて、まるで考えていなかった。とりあえず、私の体に栄養をつけてくれそうなものをかたっぱしからかごに入れた。
 そんな悪あがきをする私に、神様はこれでもかというぐらい私を打ちのめそうとする。
 私の呼吸は一瞬止まった。思わず床にかごを落としてしまった。
 目の前には健二とゆみがいた。二人で買い物している健二とゆみがいたのだ。
「智子、ごめんね。お金借りたままで全然連絡しなかったこと、本当に悪かったと思ってる。少しやせた? 何か元気ないみたいだね」
 私は“誰のせいでやせたと思ってるの?”という言葉を思わずゴクリとのみこんだ。
「お金は近いうちに必ず返す。もし困っているようだったら、月に五万円ぐらいずつなら返せそうなの。彼も手伝ってくれてるし」
 ゆみは少しうつむいてはにかんだ。えっ? 嘘でしよ? 嘘でしょ? 何訳の分かんないこと言ってるのよ。
「お金は必ず、必ず返すわ。けど、健二君は返せない。自分がどんなにひどいことしてるかは分かってる。でも、健二君への気持ち遠慮するなんて、おかしいかなって思って。智子は許してくれないかも知れないけど、自分の気持ちには正直に生きていきたいの。あの日、智子にお金借りた入学手続きの日、あの日からずっと私、健二君のこといいなって思ってて。それでね……」
 バシツ!
 私の右手は彼女の右ほほをたたいていた。
 健二はじっと私を見ていた。何も言わずに、目で私を責めていた。
「どうしてそんな目で私を見るのよ」
 私は後退りしながら、今にも消えそうな声で言った。恐ろしさのあまり、私は近くにあったバラ売りの卵をつかむと健二に向かっておもいつきり投げつけた。卵は健二の頭に命中し、卵液が彼の顔をしたたり落ちた。健二は目を閉じたが、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
 その後のことは、もう何が何だか分からなかった。狂ったように何か叫び続けていたような気がする。気がつくと、私は家の前に立っていた。ドシヤ降りの雨が体を叩きつけてくる。薄汚い私が窓ガラスに映っていた。

 多分これはたちの悪い夢か何かだ。ゆみがあんなことするはずないし、まして健二があんな目で私を見るはずがない。まるでドラマのようだ。健二の言葉が、何度も何度も頭の中でリブレイされる。
 また吐き気がした。トイレへ行ったが何も出なかった。苦い胃液だけが、空っぽの胃からにじみ出てきた。胃が恐ろしくひどく痛む。
 これが私の限界だって言っているのに、神様は全然分かってくれない。限界がどこまでかを知るために私は生きてるわけじゃない。
 何度も激しい吐き気におそわれ、口の中が胃液だらけになる。でも、立ち上がって口をゆすぎに行くことさえできなかった。私はトイレにもたれたまま目を閉じた。頭を「死」という言葉がよぎった。このまま眠ってしまえば、間違いなく私は死ぬだろうと思った。
 人生がこんなふうに限界を探し求める旅だとすれば、私はもう生に対する未練はない。私のことを人生の負け犬と呼びたいなら、勝手にに呼べばいい。
 私はもう眠りたい。このまま永遠に眠り続けたい。神様もう起こさないで下さいね。これが私の本当の限界なのです。

 私は今、生きている。
 人間というのはかなりしぶとい生物らしい。 いや、ただ単に私の生命力がずば抜けているだけだろうか……
 あの日、私はやはりトイレで眠ってしまい、そのまま三日間が過ぎていた。電話が通じないため、不審に思った母親が訪ねて来て救急車を呼んだのだ。そして私は一命を取り止めた。
 医者は私に向かって、何度も奇跡という言葉を繰り返した。そして
「よほど生に対する執着心が強かったんだね」
と付け加える。
 私はそれは違うと思った。あのとき、眠る寸前、はっきりと生に対する未練はもうないと思ったのだ。生きたいという気持ちが起こるはずがない。
 それを付添いの看護婦さんに話した。すると彼女はこう言った。
「きっと智ちゃんは、人生は限界を探し求める旅だと思いたくなかったのよ。そうじゃないことを自分が生き続けていくことで証明したかったんじゃないの? 人生は、大きな幸せや小さな幸せを一杯積み上げていく作業よ。でも、幸せを探そうとすればするほど、人は悲しみの淵に沈んでしまうようにできてるのね、きっと。でも、悲しみの淵に限界なんてないわ。自分が落ちようと思えば、どこまででも落ちて行くことが出来るのよ。でも、人は限界を知るために生まれてきたわけじゃない。だから限界を知ろうとしてはだめ。限界を知ろうとしたら、もっともっと深い悲しみの淵に沈んでしまうわ。たとえ悲しみの淵に沈んでしまったと気付いても、幸せを探し続けるのよ。悲しみの淵にだって、幸せは一杯落ちているわ。そうやってもがきながらでも幸せを探し続けてゆけば、いつかちゃんと地に足を着けて歩いてる自分に気が付くのよ。それから、智ちゃんの縁合、もう少し自分を大切にしてあげないといけないわね。他の人のことばかり考えていてもいけない。かといって、自分のことばかり考えていてもいけない。このバランスが崩れると、幸せを見つける心の目がやられてしまうのね。智ちゃん、もう一度言うわよ。人生は幸せを探しもとめる旅よ。今智ちゃんが生きてることが、このことを証明してるのよ」
 心が楽になっていくのが分かった。心と体がゆっくり解き放たれてゆくような盛じがした。彼女は何て素敵なことを教えてくれるのだろう。
「ねえ看護婦さん、そうやって集めた幸せをどうしてるの?」
 彼女は微笑みながらこう答えた。
「リュックサックに詰めてるわ。リユックサックだと両手が空いてるでしょ? だから見つけた時にすぐに拾いに行けるの。そしていつでも取り出すことが出来るの」
「重たくなったらどうするの?」
「一番大切な人に手伝ってもらうの。幸せの重みを誰かと分かち合えるなんてすごく素敵と思わない?」
 私は今まで何でもリュックサックに詰め込んできた。悲しみも苦しみも全部一人で背負い込んで、一人でもがき苦しんでいた。そうやって自分を痛めつけてきたのかもしれない。何だかとっても大切なことが分かったような気がする。
 彼女は来月、六月の花嫁になるそうだ。そして私は退院して自宅に戻り、それからは何もかも忘れて受験勉強に打ち込んだ。

 次の春がまたやってきた。三月の風がまだ少しだけ冷たい。
 私は合格発表を見るため、久しぶりにN大までやって来た。自信はあった。掲示板の前に立って、私はゆっくり番号を探した。
「やっぱりね……」
 周りのざわめきは去年と全く同じだ。胴上げをしていたり、泣いていたり、また、TVの取材なんかも来ている。ただ逢うのは、私の番号が掲示板に書かれていることと、駆け寄ってくる健二がいないということだ。「智子ー、智子ー」って大声で走ってくる健二は、今ここにはいない。
 公衆電話の列も去年と同じように長く連なっているのに、不意に切なさが心を突き抜けた。ちょうどその時、
「智子」
という声がして、振り向くとそこには健二がいた。ゆみもいた。
「ごめん。こわかったんだ。いろんなもの一人で抱え込もうとする智子が。智子はもっと自分を大切にしてくれ。荷物が重い時は、遠慮なく言ってくれ」
 私は本当の意味で健二を知らなかったのかもしれない。崩れそうになる健二を知ろうとしなかったのかもしれない。一年前、私は健二のことを全て分かっていると思っていた。しかし、そうではなかったのだ。
 ゆみはどうなんだろう。ゆみはどこまで健二のことを分かっているのだろう。多分私が健二のことを頭で分かろうとしていたことに対して、ゆみは今心で分かろうとしているのではないだろうか。この違いは何だろう。
「大丈夫、最近私のりユックサックだいぶ軽くなったんだ。幸せだけを詰めることに決めたのよ」
 健二はニッコリした。また一つリュックサックの荷物が増えた。私はそれがとても嬉しいかった。






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