短編習作集『詩織』平成八年度号 「チェーン」

 チェーン

中野 泰宏 






 ポクはごきげんだった。そこの角を曲がったら、もうすぐいつもの空き地が見えてくるな、なんて考えながら。

 そう、その日もポクはあいぼうのバビーといっしょに、早くいつもの空き地に着こうとつっ走っていた。いつもよりごきげんだったかも知れない。
 学校から帰ったら、運よくママはいなかった。もちろん、おねえちゃんもまだ学校から帰ってない。パパは今日もどこか遠くでお仕事をしてる。
 今日は出るときに、
「ちゃんと宿題やってから行きなさいよ。わかった?」
 なんてガミガミ言われなくてすむから、いつもより早くバビーをさそいにいった。バビーもあまり強く引っ張るもんだから、チェーンかけがキシキシいってる。
「待った、待った。すぐ連れていってやるから」
 バビーはもう待てないというように、
「ワン、ワン! キャン、キャン!」
 しっぽがブンプン鴫ってる。ポクまでますますうれしくなる。

 バビーとはもう七年もいっしょにいる。
 ボクが五つのときに、おねえちゃんがまだちっちゃかったバビーを拾ってきた。本当にちっちゃかった。まだ目もあいてなかったし、
「ワン、ワン!」
 ってなくこともできなかった。
「絶対にわたしがちゃんと世話するから。絶対にするから」
 泣いてるおねえちゃんの姿が、なぜかはっきりと残ってる。
 ポクがいつもごはんを持っていってあげた。ちゃんとひとりで食べられない間は、ボクがスプーンで食べさせてあげた。大きくなった後も、あんまりおいしそうに食べるもんだから、ついつい最後まで食べるのを見てた。

 学校のとき以外は、いつもいっしょだった。学校であったこととか、ママにしかられたこととか、みさちゃんのこととか、全部バビーには話してた。みさちゃんってのは、ボクの一番のお気にいりのこで、いつもやさしくて、笑った顔が本当にかわいい。たしか、家がたくさんお店をもっているって聞いたことがある。
 バビーはいつも最後まで聞いてくれた。生まれて初めてフラれたときも、その次も、橋の下でいっしょに泣いてくれたりもした。もう、昔のこと。
 大切にしていたスーパー力ーとむらさき色のビー玉を、秘密のかくし金庫にしまったときもいっしょだった。いつもの空き地のどこかのデコポコに埋めてあるんだけど、その場所はポクとバビーしか知らないはず。
 ひょっとしたら、この世でポクの次にポクのこと一番よく知ってるかもしれない。いや、絶対にそう思う。

「バビーはずっといっしょにいてくれるよね」
そう言うだけで、なぜかいつも心がフッと軽くなった気がした。
バビーさえいてくれれば、それでいいんだ。

 家を飛び出して、パン屋さんのすじをひたすら真っすぐに行って、タバコ屋さんの角を曲がると、信号の向こうにいつもの空き地の入り口が見えてくる。もうすぐそこだと思うと、どんどんボクたちのスピードも上がる。バビーが大きな力で引っ張ってくれる。
 ふと、通りの向こうにみさちゃんが歩いてるのが見えた。
「みさちゃんがいる!」
 たったそれだけのことでも、ボクはもう完全にまい上がってた。手にも足にも力が入らない。「みさちゃん……」という言葉が大きな耳鳴りとなって、体中をかけていく。その言葉がみょうに温かい。
 気づいたときには、手の中からチェーンがすべり落ちていた。
「バビー!」
 バビーはもう信号を渡って、空き地に向かっているところだったけど、ポクの声を聞くと、くるっと向きを変えて、全速力で引き返し始めた。
 クラクションが近付いてくる。
 それを聞いて、ポクは、
「そこにいるんだ!」
 バビーには届かない。バビーはうれしそうにボクに向かってくる。
「バビー!」
 ボクは道路に飛び出した。
 いっしゅん道路が果てしなくのびていく感じがした。
「何で!」
 まだのびていく。
 ボクはありったけの力で手をのぱした。
 バビーのうれしそうな目が、たまらない。
 ポクの手がやっとバビーに届こうとしたそのとき、

ダーン。

「……バビーは……」
「……ママはもう帰ってきたかな……」
「……何でこんなに空は青くてきれいんだろう……」
「……ああ、何か、やけに体が、熱いなあ……熱いよ……」
「……バビー……」

 気がつくと、ポクはいつもの空き地にいた。どれくらいここに倒れていたのだろう、体のあちこちが痛くて動かない。

 わずかに残った力をふりしぼって目をあげたら、一匹のいぬがポクの顔を気の毒そうにのぞきこんでいた。そうだ。いつもこの空き地で見てた、白と黒と茶色の毛が交ざったいぬだ。いつの間にこんなに大きくなったのだろうか、体がひとまわり大きくなっているような気がする。
 目が合うと、そのいぬはボクの顔をべロベロとなめた。まるで、バビーがポクをなぐさめてくれるときのように。
「はやくよくなってね……」
 バビーのときと同じように、そんなことばが聞こえた気がした。だけど、ポクはすぐにまた深い眠りの中へと落ちていった。

「……こいつ、まだねてんで」
「そんなことゆうて、あんたのときもえらいながかったやんか」
「そうやったん? ぜんぜんしらんかったわ。いっつもええことぱっかりゆうて」
「あほ! もっとしっかりしてたわ!」
 何か話し声が聞こえてくる。ボクはだんだんと意識がはっきりしてきた。目をあげると、三匹のいぬがポクを見てた。
「……なんだ、いぬか……」
「いぬでわるかったな!」
「……? ……」
「ほんまや! あんたにいわれたないわ!」
「……? ……」
「まあまあ、すぐにわかるやろうし、さいしょはしゃあないわな」
「……? ……? ……」
 ボクは完全に何がなんだか分からなくなっていた。いぬがポクに話かけている!
「なんで、いぬがはなすんだ? なんで、ポクははなしてることわかるんだ?」
「なんでって、そら、あたりまえやないか」
 一番大きくて、力もありそうな黒いいぬが、口を開いた。
「いぬがいぬのゆうてることわからんかったら、だれがわかるねん?」
 ポクがいぬだって!
 そんなばかな!
「かわいそうに、あんた、ゆめでもみてるおもてんとちゃう?」
 白くて、まんまると太ったいぬが言った。
「まあ、そら、しんじられへんのもむりないわなあ。あんたかて、なんぽゆうてもわからんかったし」
「そやから、それ、ゆうなゆうねん」
 茶色で体も小さく、耳がダラーンとたれたいぬが言った。
「とにかく、あんたはもういぬやっちゅうことや」
 ポクがいぬだって!
 ポクはいても立ってもいられなくなり、その場を飛び出した。
「まあ、さいしょはきついもんや」

 どれくらい走っただろうか。途中で自分が四本足で走っているのに気づいた。だけど、ボクはただ走り続けることしかできなかった。止まれば、自分がいぬになったことが本当になってしまいそうな感じがしたからだ。
 夢だ。すべてが夢なんだ。いぬが話かけてきたことも、いぬになった自分が、四本足で走っていることも。
 ポクは以前バビーといっしょに来たことのある橋の下に着いていた。ポクは力なくその場に座りこんだ。
 これからどうしたらいいんだ?
 どこへ行ったらいいんだ?
 必死になって自分の家がある所を思い出そうとしても、どうした訳か、せんぜん思い出せない。ママとおねえちゃんとパパの顔しか思い出せない。いろんなことが頭をめぐっていく。だけど、夢を見ているんだと思いこむことより、自分を納得させてくれる考えは何一つとしてなかった。
 ポクは吸いこまれるようにして、川の流れに近づいていた。これが夢なら、その苦しさで目が覚めるかもしれない。夢でなかったとしても……
 ボクは右手をそっと水の中へ入れた。
 そのとき水面に自分の顔がゆれているのが見えた。どこかで見たことのある顔だ。
「……バビー?」
 そうだ! バビーのちっちゃい時に似ているんだ!
 そのとき、これ以上ないと思えるほど素晴らしいアイデアがうかんだ。
「バビーをさがしたらいいんだ! バビーなら、きっとなにかおしえてくれるはずだ!」

 そして、一週間後。
 ポクはいつもの空き地に来ていた。ふと見ると、あいつらがいる。前に出会った三匹のいぬがドラムカンの周りで遊んでいる。茶色のいぬがポクに気付いた。
「よう、しんいりさん。こっちこいや」
 そのときにはポクはもう、自分がいぬになってしまったことを夢だと片付けるほどバ力でもなかったし、意気地なしでもなかった。ただ、なぜこうなってしまったのかを、ちゃんと知っておきたかった。
「ねえ、きみたちはまえボクに、『おまえはもういぬなんだ』っていったよね」
「おお、やっとおちついてはなしできるようになったんやな」
 黒いいぬが、ちょっとこばかにした様子でポクに言った。
「ポクもちょっとまえまでにんげんだったってことは、ちゃんとおぼえてるんだ。ただ、なんでこうなってしまったのかを、ちゃんとしっておきたいんだ」
「ちょっとまえまで、だって」
 白いいぬが、少し困ったような顔をして言った。
「そらあんたにとっては、たしかにちょっとまえまでやもんな」
「ああ、このつらさ、かなしさ。このよは、はかないもんやねえ」
茶色いいぬが、おどけて言った。
そのとき、
「あいつらや!」
何かはじけたようにみんなが飛び出した。
何なんだ? 何が起こったんだ?
そう思っているうちに、何人かの人間が空き地に入ってきた。

「また、野良犬が集まってきているな。まったく……」
 いかにも高そうなスーツを着た、大きく太った男が言った。ポクを見てニガニガしそうな顔をしている。
「今度おいでになるときまでには、必ずここからすべての野良犬を追い出しておきますので、今日のところは……」
 横にいるひょろっとした、メガネをかけた男がそう言いながら、ポクに向かって足元の石をけった。だけど、石はぜんぜん違う所に飛んでいった。
「まあ、いい。そんなことより、ここがパパの新しいお店ができるところだよ。ちゃんと見ておくんだぞ」
 後ろにいるきれいな格好をした中学生ぐらいのおんなのこに向かって話しかけた。
 ポクはそのおんなのこの顔を見たとき、何かなつかしいものを感じたが、それがなぜなのか分からなかった。
 だけど、そのおんなのこの両手に抱かれているいぬの顔を見たとき、ボクは思わず声が出そうになった。そうだ。ポクがまだ意識がぼんやりとしたままたおれていたときに、ポクの顔をのぞきこんでいたあのいぬだ!
 ポクは、男たちの視線に気をつけながら、彼女の所まで忍び足で近づいていった。男たちは通りの方を指さして、何か話し込んでいる。
「ねえ、このまえポクにはなしかけてきてくれたよね」
 彼女は男たちに聞こえないように小さな声で、
「ええ、だいぶよくなった? いろいろはなしたいんだけど……。それより、いまはあのひとたちがいるから、すぐににげたほうがいいわ。つかまったらたいへんなことになっちゃう。さあ、はやく」
「そんなこといっても、どうしてもききたいことがあるんだ。おねがいだから……」
 そのとき、ピーンとはりつめたものを感じて、ポクはさっと後ろ足をけった。後ろを見ると、細い方の男がボクのいた所を押さえこんでいる。
「くそっ、もうちょっとだったのに……」
 ボクはその目にひどく恐ろしいものを感じて、すぐに空き地から飛び出した。

 次の日のこと。空き地はたくさんのトラックと積み上げられた大きな金属でいっぱいになっていた。その間を、いろんな人間が大きな音を出す機械をもって、行ったり来たりしている。空き地のデコポコがどんどんなくなっていく。
 ポクは今日も彼女が来ていないかと思って、朝早くから空き地に向かったんだけれど、結局、彼女は姿を見せなかった。

 次の日も、その次の日も、一日中待ち続けたけれども、彼女は来ない。毎日毎日少しづつ金属が上に向かって立っていった。何かとんでもなく大きな建物ができるんだという気がする。空き地にはもう自由に走り回れるスペースがほとんどなくなってしまっていた。それに、今までたくさん集まってきてた他のいぬたちも、どこに行ってしまったのだろうか、気がつくと、空き地にいるのはポクひとりだけになっていた。
 そうして、建物の大部分ができあがったぐらいのある日のこと……

 いつものとおり、橋の下から空き地へ向かっていく途中、横を一台の黒い車がすごいスピードで通り過ぎていった。もうすこしでひかれそうになるくらいの近さだ。ポクはまだドキドキしながら、その車を目で追った。
 よく見ると、後ろのガラスごしに、あのおんなのこと彼女がまるで「ごめんね」とでもいうような悲しい目をしてボクを見ている。どんどん車は遠く小さくなっていく。ポクはきっと空き地に行くにちがいないと思って、せいいっぱいの速さで追いかけていった。

 空き地に着くと、思った通りさっきの黒い車が停まっていた。だけど、中にはだれも残っていない。この大きな空き地と建物を目の前にしてあれこれなやんでみても、何の手がかりもない。そうだ! ポクはもういぬなんだから、ひょっとしたらにおいで分かるかもしれない。ボクは見よう見まねで地面のにおいをかいでみた。……かすかに、彼女のにおいらしきものが……? ポクはうそでもそう思いこんで、建物の中へと入っていった。
 入り口でうまいこと見張りの男たちをまいて、階段を上がっていったら、大きな部屋があった。そこには、たくさんのダンポールが高くつまれていた。よく見てみると、何かわけの分からない文字がいっぱい書いてある。開いている箱をのぞいてみると、力バンやベルトがいっぱい入っていた。いろいろめずらしいものをあさっているうちに、さっきの男たちが追いかけてきた。ポクはその辺りのダンポールを散らかして、部屋をかけぬけた。これくらいのことは朝めし前。
 階段を上がると、小さな部屋がいくつもあった。ボクはもう一度ゆかのにおいをかいでみた。さっきよりはっきりと彼女のにおいが分かる! ボクは確信をもって一番左のドアにカいっぱいぶつかった。
 ドアは思ったよりかんたんにあいて、ポクは部屋の中にころがりこんだ。

「キャッ!」
 中にはおんなのこと彼女がびっくりした顔でポクを見ていた。どうやらここには男たちはいないようだ。
「やっとあえた……。ずっとさがしてたんだよ。このまえはなしできなかったときから。きみだったらなんでポクがいぬになったのか、おしえてくれそうなきがしたから」
「いけない! こんな所にいるところ、お父さんに見つかったら、あなた、他のいぬと同じように保健所に連れて行かれちゃうわ」
おんなのこがそう言って、ポクをやさしく抱き上げた。
そのとき!
「みさ、どうかしたのかい」
 あの太った男がドアをあげて入ってきた! はじめは少し心配そうな顔をしてのぞきこんでいたけど、ポクの顔を見たとたん急に顔色が変わった。
「こらっ、みさ、そんな汚い犬、すぐに捨てなさい! 何をするか分からないだろう。さあ、早く」
「こんな所にいたのか。とんでもないことをしてくれたな!」
 後ろから、細い方の男が息を切らしながら人ってきた。入り口の男たちもいる。
「そんなこと言っても……」
 おんなのこは泣きそうになりながら、ポクを抱きしめた。
「さあ、はやく」
 男たちが一斉に近づいてきた。
 おんなのこは部屋の外に飛び出した。彼女もすぐ後に着いてくる。男たちも必死になって追いかけてくる。階段をかけ降りて建物の外に出た。入り口からたくさんのすごい顔をした男たちがはい出てくる。ポクたちはとにかくこの空き地から飛び出したかった。男たちのいるこの空き地から。
 そして、空き地の入り口から、自由な町に飛び出せたとき……
「あぶない!」
彼女が飛びこんできた。

ダーン。

 気がつくと、ボクたちはいつもの空き地にいた。どれくらいここに倒れていたのだろう、体のあちこちが痛くて動かない。
 あれほど大きかった建物があとかたもなく、地面がいやに平べったい。
 わずかに残った力をふりしばって目をあげたら、一匹のいぬがボクのとなりで倒れている。そうだ。彼女だ。
 ポクは今、自分が知りたかったことが何なのかやっと分かったような気がする。自分が何ものなのか。そして、彼女は、みさちゃんは、バビーは……

 ポクたちはごきげんだった。そこの角を曲がったら、もうすぐみんなの待つ空き地が見えてくるな、なんて考えながら。






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