18世紀後半、中世的世界観が崩れるなかで、死生観も大きく変容した。死の体験にむけて合理的な不可知論が主張される一方、感覚を超えた体験としてさまざまな死のイメージが流通していた。本論では、ジャン・パウルのテクストにおける不可視性のモチーフを手がかりにして、哲学的論争(モリヌークス問題)や白内障手術の進歩が、死のイメージの源泉として宗教の世俗化過程に深く関わっていることを明らかにした。
レッシングに対するヘルダーの批判を中心に、1800年前後の「死」のイメージを考察した。ヘルダーは、ギリシア人が死を眠りとして表象していたのは、死を従容として受け止めていたためではなく、むしろ死を激しく懼れていたためだとした。死のイメージの隠蔽と表出のメカニズムは、一世紀後、フロイトの「検閲」理論として一般化されるが、すでにジャン・パウルの小説にも読み取ることができる。
詩と絵画を、時間芸術と空間芸術として峻別したのは、レッシングであったが、それ以降も、さまざまな形で、言語による絵画の再現が試みられていた。本論では、モーリッツのエセーと、フリードリヒの絵画に寄せたクライストの批評を手掛かりに、視覚イメージの言語化の限界が意識化されるともに、メディアそのものが現前化されてくるプロセスを検証した。
『ハイブリッドな紋様か、純粋に美的なアラベスクか。同時代の装飾論争におけるジャン・パウル』
1800年前後のアラベスクをめぐる論争を参照しつつ、非描写的な装飾紋様とジャン・パウルの機知の技法との関連を探った。
口頭発表
第51回ドイツ文化ゼミナール(於:長野県茅野市アートランドホテル蓼科):2008年3月27日
学術的な成果発表というよりは、一般向けの講演です。
『大阪教育大学科学教育センター年報第2号』 2009, S. 20-32*
に、要旨があります。
ホームページにもどる