ここでは、熱の研究に貢献した人々について簡単に説明しましょう。 |
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ガリレオ・ガリレイ | ![]() |
アモントン | |
ファーレンハイト | ![]() |
セルシウス | |
ケルヴィン | ![]() |
ジョセフ・ブラック | |
ボイル | ![]() |
シャルル | |
ラヴォアジェ | ![]() |
ラムフォード |
![]() その他、彼は地動説を唱えたことでも有名な人物です。1583年,彼は寺院のランプが振れる のを見て振子の等時性を発見しました。 1609年に真空では重さに関係なく、落ちる速さは、同じであるという法則落体の法則を発見 しました。コペルニクスの地動説を支持したガリレオは裁判によって活動をおさえられたが新し い科学をうちたてました。そして、1642年に亡くなりました。 その年、イギリスで万有引力の法則によって地動説を理論的に裏づけたニュ-トンが生まれました。 |
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彼は、ガリレオが作った空気温度計を改良した。ガリレオは水を使って温度計を作ったのに対して、アモントンは細い水銀柱を用いることにした。 また、彼は作った温度計をどんどん冷やしていくことで内部の空気の圧力が低下していくことに気づいた。そして、圧力が零になる温度があるのではないかと考えた。いわゆる絶対零度の存在を推定したのです。 |
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1686年ダンチッヒに生まれた彼は商人としてオランダに行った。そこは昔から学術用のガラス器具を製作する技術が栄えていたところで、彼はその技術を身につけて、気象学器械の製作を仕事としていた。 気圧計の水銀柱の高さが温度に左右されていることを知っていた彼は、水銀を温度計に利用した。そして、作った温度計に、「水と氷と塩化アンモニウムの混合物からえられる、もっともきびしい寒冷」の温度を0度、氷の融解点を32度、人の体温を96度とする目盛りをつけた。この目盛りが華氏目盛(°F)である。 また彼は、水の沸騰点をその温度計で212度と測りましたが、大気の重さが変化すれば、沸騰点も上下することを認めていました。(気圧が変われば、沸点も変わることに関する実験を、熱の実験コーナーでやっています。見たい時はここをクリック) |
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私たちが普段目にする摂氏温度(℃)は、このセルシウスさんが導入しました。 彼は、1701年、天文学教授の子どもとして生まれ、数学、実験物理学、天文学を学びました。1730年には、父の後を継いで天文学教授になりました。 1742年、彼は、作った温度計をとけかけの雪の中に入れたときの水銀の高さと沸騰しているお湯に入れたときの水銀の高さに印をつけ、その間の距離を100等分する温度目盛を考えました。最初、氷点を100度、沸点を0度としていましたが、後に1気圧下の水の氷点を0度、沸点を100度に改められた。 |
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華氏と摂氏の表現はそれぞれ、ファーレンハイトの中国語表記である華倫海と、セルシウスの中国語表記である摂爾修に由来している。 |
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![]() また、熱学上の研究を講義の形で発表しワットに大きな影響を与えた。 その他、熱平衡の研究から温度と熱の区別を明確にし、潜熱の存在を説明した。氷熱量計を作り(1762)、熱量、熱容量、比熱を定義した。 熱の物質説に立っていたが熱量の保存を認めていた。 |
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![]() 1660年に「容器に閉じ込められた気体の圧力は一定の温度の下で体積に反比例する。」というボイルの法則を発見しました。 |
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フランスの実験物理学者。生い立ちや家系は不詳である。若い頃パリに行き、役場に勤めるものの、緊縮政策で職を失い、実験物理学を学び始める。驚くことに、わずか18ヶ月の学習だけで公開講座を開設。しゃべりの上手さと説明実験の上手さで多くの人々を魅了した。 この頃(フランス革命前)のパリでは、気球の研究が盛んだった。彼も水素気球の実験を行い、1783年夏には無人飛行を、その年の冬には有人飛行を成功させた。この実験を通して、1787年に彼は「圧力が一定なら気体の熱膨張は気体の種類によらず温度上昇に比例する。」というシャルルの法則を見いだした。 |
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![]() 彼は金属など燃焼することで質量が増大することを知り、燃焼は酸素との結合であり、燃素などというものは存在しないことを明らかにして、今まで燃焼は燃素(フロギストン)が抜け出すことであるとされていた燃素説を否定しました。 また、彼は元素とみなせる物質を33種挙げて元素表を作りました。その中には熱素もあり、熱素説の先駆けとなりました。 |
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![]() 彼は火薬研究のとき、弾を込めずに発砲すると、弾を込めたときより砲身がずっと熱くなるのに気付き、「火薬は弾丸の代わりに砲身の金属粒子に激しい運動を与えたのではないか。」と考え、熱が生じる原因は今まで熱素の移動であると考えられていたが、本当は運動によるのではないかと考えるようになった。ミュンヘンの工場では、大砲の中ぐり作業中に大量に熱が発生するのに気付き、中ぐり装置全体を水中に入れ、作業中にどれだけ熱が発生するのかを測った。すると熱は装置を動かしつづける限り出てくるように思われて、その熱は熱素という物質であるならどこからきているのかと考えるようになった。化学変化も他の熱の供給もないから、熱発生の原因は運動しかないと考えるようになり、熱の運動説を深めていった。 |
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熱素説の先駆けとなったラヴォアジェと、その熱素説を否定して熱の運動説を見いだしたラムフォード。この二人は私生活においても因縁深いようである。ラヴォアジェがフランス革命で処刑された後、ラヴォアジェ未亡人はなんとラムフォードの奥さんになるのです。4年後には離婚するのですが、時代の流れを感じさせるエピソードです。 |
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《参考文献》 『歴史をたどる物理学』 我孫子誠也著 【東京教学社】 『新訳 ダンネマン大自然科学史6』 安田徳太郎訳・編 【三省堂】 『新訳 ダンネマン大自然科学史7』 安田徳太郎訳・編 【三省堂】 『物理学辞典 改訂版』 物理学辞典編集委員会編 【培風館】 |
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