故加藤憲一先生の記憶から

 大阪教育大学 加藤研究室(1971〜1996)


共立出版 動物発生段階図譜 1996、 ミズクラゲ(山田真弓・平野弥生・加藤憲一)より
<< 赴任される前      
1971年

「....それから5年、ある日の朝、田原胖先生がにこにこしながら退官される杉野久雄先生の後任として新しく素晴らしい先生が来てくれることになった旨お話下さった。そしてお目にかかったのが白髪の一本もない、あの「若々しい」先生であったのだ。 ....」
「....杉野先生の出られた部屋を研究室と定められたのだがそれからの事は・・・。まずこの部屋の住人が変であった。加藤先生と卒論生1名と3回生3名。下宿人が研究生1名、院生2名、・・・その上もう一人、日本語を話せない人も住み着くことになっていたのだった。
 赴任されたときから大変な勢いで研究室の模様替えが始まった。その勢いはもう周りの人を巻き込まずにはいない程のものであり、「普通の院終了生」(=私)も巻き込まれてしまったのであった。労働はとてもきついが、おもしろかった。体が疲れて来ると結構長いお茶の時間があった。その時の「茶飲み話」がとても新鮮で、とても難しく(時に自分は日本語が解らなくなったのでは・・・?と心配に成ったほどであった。)しかも興味深いものであったので否応なく吸い込まれ、そのうち頭がしびれてしまうのだった。
 あの話のスピードと展開の早さ。みんなも覚えがある通り「めまい」が起こりそうになる。すると「さあっ、やりましょうか!」の声で再び肉体労働に還るのである。あらゆる点で初めての世界に出会う思いであった。心身ともに疲れたが興味も尽きない毎日であった。
 ところで先生と一緒に前任校からやってきたものが居た。無数の宝石を散りばめた白いうすぎぬで鮮やかなオレンジ色の身を包み、優雅な動きでシュリンプを食す。その変態はいつの時も美しく、劇的である。「エフィラは水中の花火」の詩にその通りだと感じた。ふと気がつけばミズクラゲに「はまって」しまった自分がいたのだ。
....  やがて一年が過ぎて「ペンキ」を塗る運びとなった。天王寺学舎創立以来のくすんだ室内を塗るのに誰も異論はなかったのだが・・・。色が・・・。
 何となく「その色はどうも・・・。」と口ごもる間に「この色がきれいでいいですね!」とボス自ら壁を塗り始めた。その色こそあの懐かしくも特徴ある天王寺分校生物学第一研究室の色であった。通りかかる人は一人残らず歩調を乱し、絶句しあるいは驚きの声を上げ、中には噂で知って見物にくる者あり、居ながらにして近隣はおろかかなり離れた所まで一気に存在をアピールし、次第に物見だかい人達の気になる場所へと躍進?してしまうのだった。
 それからは研究室を使いやすいように、思いっきり機能的に、まるで潜水艦の様に立体的に密度高くアングルを組み、道具を配置し、正しく学内に類のないあの雰囲気の骨子が立ち現れてきた。
 変な住人たちとあの部屋は、いつでもオープンであったが、少なくとも私の知っている間はずっと、新たに部屋のメンバーと成る者、又出入りする者を結果として選んできたのであろう。....
 ....自分の仕事について時に叱られ、時に呆れられ、時に励まされ・・・しながらも、教育大での加藤研究室の創世記から意味深い一時代を一緒させて頂いた。それはそのまま今の自分の創世の時でもあったと思っている。とても真似る事などできないが、いつも忙しく、いつも急いでいて、でも、大切な事は決してとばさない。私は物事をこうゆう風に進めていくのだよと身を持って、多分、今も、そしてこれからも示して下さっているのだと思っている。
 「僕、なかなかいい事言うね。そうおもわんか?誰か加藤語録と言うようなものを作ってくれんかなあ。」高笑いと共に言っておられた事があった。今さらながら作っておけばよかったと思う。「若い内はテレもあってまじめな事を不真面目に言うが、年を取ると不真面目な事に気づかず、真面目に言い出すことがありますからね。僕がそうなったときは僕を止めて下さいよ。」と言われていた先生をおもいだす。自分もぼつぼつ気をつけようと思いつつ、改めて時の流れを感じている。....」
(加藤研究室同窓会誌:1-3, 青地正寿「昔むかし」, 1996より引用)

 「 一研の思い出は・・・と考えた時、まず頭に浮かんでくるのは、レブトラップさんが来られるというので研究室の模様替えをしたことです。
 みんなで春休みを利用してペンキ塗りをしました。
 だいたい一研というところはなんでもやりだすとトコトンやらなければ気がすまないという人達の集まりだったようで、塗り始めるとそれぞれがペンキ塗りのプロになってしまいました。....
....建物は古くて、流し台も附属高校の払い下げでしたけれども、私達の気持ちは新鮮で研究室は若々しい空気に満ちあふれていました。そういう時代に学生生活が送れてたいへん幸せだったと思っています。
 ただ、同期の久多里君を失い、またこのような思い出の多い天王寺校舎がなくなることは淋しいことです。」
(加藤研究室同窓会誌:6-7, 寺岡加津代「研究室の思い出」, 1996より引用)

1992年2月

 「....2月の末、研究室の移転を終えすっかり物がなくなったと聞き天王寺でのついでに寄ってみたところ、本当に様変わりをしこんなに広かったのかと驚いてしまいました。物がない薬品棚、飼育室、流しの所、私のよく座っていた場所などを見ていくうちに私たちの過ごした研究室はなくなったことが、少しずつ心の中に迫ってき、いろいろな出来事を思い出しました。初めて自分から加藤先生に話をしたのは、研究室が決まった3回生のときで、奥の先生の部屋に行って薄暗い中で緊張しながら、4回生の1年間を休学するため.....。
...急に大学の書類がその日に必要となり、神戸の領事館の前から必死になって電話をし天王寺に飛んで行き、その書類を加藤先生に英文でタイプも打っていただき、学長のサインも直接もらいに行っていただきました。
....約1時間後には書類を手にすることができ、もし、先生がいてくださらなかったら、1989年4月20日にはインドネシアのマルラシ村にいられなかったと思います。...
....マミズクラゲの飼育の途中では、しばしば水カビに悩まされ、継続観察をしていた個体群が弱ってダメになってしまい、再び1からやり始めることになったりしました。観察の中で初めて水母芽を見つけ加藤先生に報告したとき嬉しくてワクワクしていたことを覚えています。.....
. ....この2月の夕方の天王寺の1研で自分達の過ごした場所がなくなっていくことをしみじみと感じていると、会議を終えた加藤先生が上がって来られ、その後いつものように先生のお話を聞くときとなりました。.....」
(加藤研究室同窓会誌:40-41, 平林佐知子「一研でのこと」, 1996より引用)

 「....教養学科ができて生物学教室が2つに分かれ、さらに柏原キャンパスに大学が移転して研究室も引っ越しし、かっての生物学教室の各研究室もそれぞれ名称が変わりました。現在、加藤先生の部屋には自然研究講座形態構築研究室、私の部屋には自然研究講座細胞分化研究室という看板がついています。来られた方はご存知のように、実際には中でつながっていて、昔の1研とほぼ同じ構造ですが、現在及びここ数年の学生さんにとっては、生物1研という名前はもうほとんどなじみの無いものになっていることと思います。でも現在、生物学の研究・教育に携わっている私にとって、生物1研というのはとても大きな意味があります。.....」
(加藤研究室同窓会誌:31-32, 出野卓也「私にとっての生物一研」, 1996より引用)

 「....大阪教育大学に進学して将来はそのまま教師になろうと考えていましたが、恩師の加藤憲一教授に出逢い、先生のクラゲの研究に携わるうちに、「研究や実験の面白さに加え、先生をそこまで熱くさせる世界を自分も見てみたい」と研究者の道へ。....プラナリア(下等無脊椎動物)の再生現象を研究。.....「プラナリアは10等分するとそれぞれが元の形に再生するんです。どうして当たり前のように再生するんだろう? 目の前で起こる現象の不思議にのめり込んでいきました。......」
(熊本大学女性研究者ロールモデル Female Researchers:27, 「 小林千余子さん」, 熊本大学男女共同参画推進室, 2008より引用)

1996年3月


キジバト  (Ph. K.-I. Kato)


→HOME

ページのトップへ戻る