memory

加藤先生とクラゲと仲間たち: 1971年~1975年頃

1971年

「....昭和46年4月、赴任時は、私の研究室所属の3回生3名はすでに決まっていたが、3回生で分属研究室を決める仕組みのため4回生は誰も居なかった。しかし、5月になり、当時在米中であった田中紫枝先生の下に行くことになっていた出橋紀子さんが私の研究室に来てくださった。これは学生が誰も居ないと困るだろうとの藤本教授の配慮によるものであった。....特に赴任間もない頃、中村先生の所で研究生となられた浅尾哲郎さんや青地正寿さん、武内孝平さん、高校教諭で院生として帰ってこられた門屋さん、それに鹿児島から大学院に進んできた畑田健治さん達が研究室の形成に有形無形に大きく寄与して下さった。....」
(生物学教室四十年誌:103-104, 加藤憲一「何が語れるのか在籍20年」, 1991より引用)

「....1971年4月同志社大学から加藤先生が来られました(私は当時4年生で、加藤研究室に間借りしていました。)発生学の分野ではなじみがうすい材料、クラゲをたずさえて、パイオニアたらんとされた熱き心、.....。研究室がエネルギーの渦に満ちあふれていたように思います。私は大学院修了後、府立高校の教員になってから生物一研の研究に合流させて頂きました。
 研究室の勢いに乗って、5回も学会に参加できましたことは貴重な体験になりました。.....熊本動物学会(1978年)には畑田氏がわざわざ鹿児島市内から職場の同僚と車でかけつけてくれました。大会終了後、加藤先生とその車に乗り込み、畑田氏の故郷、鹿児島に向かいました。途中昼食に馬刺を食べ(はじめてなのでよく覚えています)、八代海を通りすぎますと、やがて、火山灰が通路の隅に積もっているのが目に入りだしてきました。......


  1978.10.熊本にて

 青地氏とはよく話をしました。議論の途中で夕食をとりにでかけ、研究室にもどるとコーヒーを飲みながらまた会話を再開する。夢中になって時計を見ると夜中になっていることがしばしばでした。簡易ベッドに身を横たえて、そしてまた、白々と明ける朝をむかえます。幾度となく繰り返した、楽しかった日々。....」
(加藤研究室同窓会誌:3-6, 武内孝平「今昔」, 1996より引用)

1973年

「生物学教室四十年誌」(1990/12)の掲載写真

「"かとけん"と巷で呼ばれる加藤憲一先生との出会いは1973年夏。....シュペーマンのオルガナイザーに興味をもち神戸大学の北爪由二研究室に入ってそれを卒研テーマとしたのですがイモリ実験が行きづまってしまいました。その打開を北爪先生に相談すると、「京都大学で同輩の加藤という発生学者が中村治教授とともに大阪教育大学にいるから話を聞いてこい」とのこと。寺田町へ出かけていくと、「オルガナイザーはやめときなさい。10年たっても世界でなーんにも解明されてないでしょう・・・ところで茶谷くん、クラゲをやってみないか?」なんて言われて、そこから半年間のお付き合いが始まったのです。.....

 ミズクラゲの実験では、ポリプからエフィラへの変態に伴うホスファターゼ活性の変動というテーマで、教育大へ週に2~3回主に夕方に材料をもらいに出かけ、神大で酵素活性などを測定するという日々が翌年まで続きました。変態過程での蛋白や核酸の変化は4年生の寺岡さんが担当されていましたが、神大の研究室とは異なり女子学生が沢山おられて第1研究室は実に賑やかで楽しかった。このクラゲの研究はシンプルなものではありましたが初めて発生学の実際と酵素学を学んだという点で私の研究の原点でありました。その後、大学院や会社で昆虫の変態ホルモンと卵巣、催奇形性、雌ラット生殖障害とホルモン、in vitro 性腺細胞毒性、ラット精巣毒性病理と進んできた私の研究の中で、1974年春の名古屋での日本発生学会での「クラゲ」は私の初めての学会発表であり、思い出深いものとして残っております。.....」
(加藤研究室同窓会誌:7-8, 茶谷文雄「かとけん」, 1996より引用)


神戸大学北爪由二研究室で

1974年
1974.5.5 和歌山県加太の小島にクラゲ採集へ     帰りの駅にて

「鹿児島の桜島の火山灰に見送られて、加藤憲一先生の研究室(以下一研)の入り口に立ったのは、1973年の4月当初のことでした。青地さん、武内さん、4回生の久多里さん、寺岡さんらに暖かく迎えて頂きました。
 加藤憲一先生は当時、たしか40歳代前半だったと思いますが、全てにおいて、精力的で、中でも、コーヒーカップ片手に我々のところへ来ては、熱く発生生物学について語られる姿が印象的でした。今思えば、加藤憲一先生はクラゲの劇的な形態の変化(ストロビレーション、水母芽形成など)からips細胞のような万能な細胞につながる構想を模索されていたのではないでしょうか。
 今となってはお伺いする手立ても有りませんが、40年前の一研の情景(一日中ガスコンロを焚いていた手作りの蒸留装置、ミズクラゲやエダアシクラゲを飼育していた簡易恒温室、研究材料を絶やさないように、人工海水作りやクラゲの世話に当たってくださった3回生の平木さん、山口さん、川口さん、堂上さんらの姿)とともに、改めて加藤憲一先生を鹿児島の地で偲ぶ昨今であります。」
(畑田健治「40年前の記憶の研究室」, 2014.1.記)

1975年

1975.3.18      

「毎日、夜遅くまで語り合いました...。」

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