memory

加藤先生とクラゲと仲間たち: 1976年~1980年頃

1976年

「....私の記憶に残る一研は、一年先輩の人達の卒論締切前のはりつめたあわただしい夜の光景で始まる。4人の先輩がそれぞれに原稿をつくり、できた分から加藤先生のおられる奥の部屋に持っていかれ、そこで先生は猛烈ないきおいで赤を入れられていた。図版についても指示され、まだクラゲについても何も知らず、字もとびきりへたな私にも、ここをこうした絵をかくようにとか、本文のこの部分を清書するようにとか言われ、いつのまにかその中に巻き込まれていった。同期の人達と、クラゲのこと、加藤先生のこと、先輩達のこと、ひまさえあれば熱く語り合ったのを思い出す。.....」(加藤研究室同窓会誌:9-13, 中嶋淑美「クラゲから魚へ、そしてやっぱりクラゲ」, 1996より引用)

1977年

「....様々な実験技術・発表のための準備方法など、繰り返し鍛えていただいたおかげで今でも困ることがありません。しかし、そんなことよりももっと大切なこと。生命現象に真剣に取り組み、ただひたすらに謙虚にデータを積み重ねていけば、自然はきっと何かを答えてくれる。加藤先生のご指導の中でそのことを実感させていただけたことは本当に幸せなことであったと思います。それと、データを前にああでもない、こうでもないと頭をひねっていると、青地さんや武内さんなど諸先輩や、中山先生・向井先生・近藤先生など他の研究室の若手?の先生がコーヒーを飲みながらアイデアをかして下さったり、励まして下さったり、加藤先生の温かいお人柄のせいか、いつも本当ににぎやかな楽しい研究室であったことはとても有り難いことでした。青地さんからは智恵と徳を、武内さんからは職人芸のようなプレパラート作りと優しさを、平木さんからは培養技術の全てを、周参見さんからは段取りの大切さを、というように諸先輩から本当に多くのことを学ばせていただきました。....」
(加藤研究室同窓会誌:25-27, 加賀友子「生物教育の質的向上をめざして」, 1996より引用)

 1977.6.11~ 神戸市三田セミナーハウス合宿              1977.10.4~6 山形動物学会

1978年

「....私が本書を講義時の参考として配布したいと考えたのにはいくつかの理由がある。
 発生現象を取扱っている最近の成書のバックグラウンドは分子遺伝学的成果とその思考方法である。これが大切なことは言うまでもないが、このような現代の成果とは別に、発生現象には、多くの掘りつくしてもつくし切れないようなところがある。そのいくつかは、1950年代以前のいわゆる実験発生学や、実験形態学の体系の中でそれなりに位置づけられていた。現象の多様さは、即全てが生命の機構の基本線を知る素材になるわけではない。しかし、多様性を若干のカテゴリーとして整理できるなら、その中に今まで気づかれなかったり表面的にしか知られていなかったものについて、重要な解析や総合の意義を見出せる可能性は否定できないであろう。本書は、いくつかの古典的概念を、別の言葉で述べようとしているし、多様な現象を姿を変えた概念の言葉で理解しようとしている。こう言う立場から見ると、分子レベルでの言葉についても、一面では限界らしいものを知らせるものであるが、他面では別の理解からある生き生きしたものとして捉えさせてくれるようにも思われる。

 本書に出ている個別事象は必ずしも他の成書にないわけではない。しかし全体の中でのそれらの位置づけは、明らかにユニークなものである。最近見られる多くの発生生物学関連書にはない新鮮さを感じさせるものである。発生現象の理解と解析のために、本書は多分読者に現象を通しての問題提起とは何かを教えてくれるであろう。
 なお、本書の訳は、.....私の研究室の院生・専攻科生・学部卒論性などが手がけたものを、できるだけ元の形を残すようにして私が手なおししたものである。....」
(発生生物学補遺 細胞から個体へ(D.R.Garrod著Cellular Development-1975より): 加藤憲一「前がき」, 1978/11 より引用)


(Cladonema:加藤憲一研究室にて撮影)

....いずれも広い視野から、自然の持つ美しい ”マリンフラワーズ” の世界へと招待されていたのでした。やや感傷的かもしれませんが、腔腸動物たちのあの優雅な姿は時代を超えて伝えられてほしいと思います。思い出の中には失敗談も数多く見られます。なかでもー新校舎ではおそらくできないでしょうー壁のペンキの塗りかえをしたことです。フェミニンな感じのローズ色にしたからさあ大変。早速、大目玉。慌てて落ちついた雰囲気の色彩に塗りかえたのでした。とにかく何もかも新鮮でした。....」(加藤研究室同窓会誌:29, 中山有希「無題」, 1996より引用)

1979年

「....私が初めて1研なるものを知ったのは、2回生の頃。同期の友達を誘い、加藤先生の夜間の講義まで受け、クラゲの姿を初めて見て喜んでいるうちにこの研究室に入る事に決めていました。3回生の頃は、餌やり、水替え、培養液作りから始まり、暗室にこもってのセクション作りや3時間おきの撮影などなど、だんだんと1研にいる時間は長くなっていったのでした。奥の部屋には加藤先生と佐田野さん、手前のあの長細い部屋には私たち3回生と4回生。そして時々顔を出しに見える中山先生、夜になれば青地さん、武内さんといった先輩が現れる。

あのせまい部屋の中でいろんな会話をし、先生の話に聞き入り、時にはお酒を飲み、いっぱい頭をうちながら、いっぱい悩みながら、まわりの人達に支えられて卒業していった事を思い出します。....4回生になり自分にもテーマが与えられた時のどきどきしたこと(Aureliaの横分体形成時の酵素活性の変動でした)、滋賀医大へお世話になりに行ったり、三島の遺伝研にヒドラをもらいにいったり、牛窓の臨海実験所にクラゲをもらいに行ったりしたすべてが刺激となり、そこでお世話になる人との貴重な出会いがありました。.....」(加藤研究室同窓会誌:34-35, 有岡曜子「天王寺分校のあの部屋で」, 1996より引用)

セミナーハウス?
1979.10.18-20 東京動物学会(右は動物学会100周年の展示より、團勝磨先生が書かれた ”The last one to go") 

「....その当時、加藤先生は二部主事をされていて、心労で胃潰瘍になられ、2カ月ほど入院されることになりました。ちょうど私達の卒論が始まる頃で、そのこともあってだと思いますが、藤野さんと二人で滋賀医科大学解剖教室の前田先生の所に”里子”に出されることになりました。といっても、週に2回ほど滋賀医大に行って実験をし、残りの日は1研で材料の飼育や各種染色などの仕事をするという生活でした。滋賀医大では前田先生と永井先生のご指導で、ムツノエダアシクラゲのポリプのカテコールアミン含有細胞の検出をやってました。元々は神経細胞を検出する予定で、アサチルコリン(エステラーゼ)の検出なども試みたのですが、ムツノエダアシクラゲでは神経細胞を染め出すことができず、ポリプ口丘の粘液細胞中に多量のカテコールアミンが含まれていることを見つけました。結局、後にイソギンチャクでアミン系の神経細胞を検出することができましたが。ともかく、医学部の世界というのを少しだけ覗くことができました。....」
(加藤研究室同窓会誌:31-32, 出野卓也「私にとっての生物1研」, 1996より引用)


1980年

若狭湾よりミズクラゲ、アカクラゲの卵到着?      自然海水をとりに

             大阪教育大学高鷲農場(教材園)調査(春と秋に)

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