memory

加藤先生とクラゲと仲間たち: 岡山大学臨海実験所(玉野〜牛窓)


   カミクラゲ
1976年3月

「....府立高校の教師になる直前の春3月、岡山大学理学部付属臨海実験所(1978年に玉野から牛窓へ移転)でドフラインクラゲの卵と出合いました。この出合いは当時の所長吉田正夫先生と加藤先生のご好意により実現できたものです。ところが、その吉田先生が1987年に他界されました。想い起こせば、我々が出向いた時は、いつも夜遅くまで相手になって頂きました。遠来の客も多いと思います。ご無理をされておられたのではないでしょうか。大きな目と大きな声、子供のようなしぐさを思い出します。....
 岡山行きの1年目は青地氏の赤いカローラをお借りしました。実験器材を満載し、スポーツタイプの黒いドライブシートに身を沈め、周参見氏・上川さんと一緒に一路岡山に向かいました。何を考えていたのか、高速道路をつかわず2号線を走り、途中姫路城にも寄りましたので、なおさら時間のかかったこと。約9時間の「旅」だったように記憶しています。玉野の実験所に着いたときはトップリと日が暮れていました。電車を利用した先発組(加藤先生・井上さん・富岡さん)に心配をかけました。この時以来、ドフラインクラゲの初期発生の研究が始まったわけですが、技官の磯崎さんは元気なピチピチした成熟水母を必要な数いつもきちんと採集してくれました。現地では主に観察をしました。夜どうし交代で観察し、写真を撮りましたね。山本先生や大津先生が実験の進行具合をよく見にきてくれました。また、夜遅く息抜きで戸外にとびだすと、吐く息が白い。瀬戸内地方とはいえ、春でも夜はかなり冷え込みました。現地で3泊ほどお世話になり、材料を天王寺に持ってかえってからより詳しい実験をやりました。
 ドフラインクラゲはご存じのように、卵割後、プラヌラからポリプへの変態を経過します。この過程における細胞動態については上川さん・松井氏・北村さん・奥平氏・影山氏・兼子さんらが詳しく調べられました。
 今思い起こせば、加藤先生は随分以前から研究上示唆に富む話をよくしておられました。その時はピンとこないで、後になってから気づくことが多い。生物現象のおもしろさやダイナミズムを素早く見抜く先生の動物的感には驚くばかりです。そして、ダイナミックな生物現象を科学の俎板にのせていく思い切りにプロとしてのすごさを感じました。また、調べた個別現象を全体のなかに相対化する思考様式は、加藤先生のユニークさだと思います。いままで気づかなかった相対評価が炙り出されるような印象を強く受けたものです。....」
(加藤研究室同窓会誌:3-6, 武内孝平「今昔」, 1996より引用)


「....吉田先生は豪傑のような方で研究・教育活動はとてもパワフルですが、私達のような他大学の学生にもとても細やかに親切に実験の手助けをして下さいました。大阪から実験道具を車に積んではいったものの、あれがないこれがないと困っていると、次々と準備して下さり、夜中も実験室へ様子を見に来て何か困っていないかと声をかけて下さいました。実験所の他の先生方や職員の方々、学生さん達も吉田先生と同じくとても温かくて、玉野の実験所は忘れられない場所となりました。....」(加藤研究室同窓会誌:25-29, 加賀友子「生物教育の質的向上をめざして」, 1996より引用)



1976年〜1977年 岡山大学玉野臨海実験所(1978年に牛窓に移転)

1978年

「....私は武内さんと岡山に出かけることが多かったため、5月6月は本当に楽しくドフラインとつき合っていました。臨海実験所で出してもらうウチムラサキガイや本当の海水味のワカメなど+αの楽しみも魅力でした。しかし天分(天王寺分校)にもどり、プラヌラがスライドガラスに固着するとただただ忍耐の日々が続きました。実験や研究テーマどころではなく、延べ300個体にもおよぶポリプたちへの餌やりで時間と体力と根気が消耗していくのです。まわりの人たちがみんな実験やデータの集積を初めても、自分だけが来る日も来る日もブラインシュリンプのみじん切りを食い気の無いポリプの口に運んでやることしかできずいらいらしたものです。....

....天分のカビ臭い廊下・夏は蒸し暑く冬は底冷えする研究室など、今となっては”思い出”でしかないのですが、私にとっては常に物を考えるときの背景として頭に浮かんでくるのです。....」
(加藤研究室同窓会誌:30-31, 松井孝安「一研と岡山渋川海岸、そしてドフライン」, 1996より引用)

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