加藤先生とクラゲと仲間たち: 1986年〜1990年頃
1986年 |
1986.7.23~28 京都大学瀬戸臨海実験所(和歌山県白浜町)にて臨海実習 |
加藤先生所蔵の絵はがきより "Bansho-zaki Point and To-shima Rock, viewed from Hatake-jima Island owned by the Laboratory as a study field. Shirahama, 1987" |
1987年 |
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1988年 |
「.....夏の暑い日に飼育室で涼んだことなどが、とてもなつかしい。
....今はクラゲとは全く関係のない仕事をしているが、大教で、天王寺分校で、それも生物一研で学んだ事は、上手く言えないが、あらゆる所で私の力となっている気がする。
それは、加藤先生、出野先生のおかげであり、また、一研に入ったことにより中山先生、近藤先生をはじめとする多くの先生にたっぷりかわいがっていただいたおかげであると思う。そして、今回記念誌発行にあたって、忙しい中まとめ役をされた武内さんをはじめとする先輩方、同期・後輩のみなさんのおかげだと思う。....」(加藤研究室同窓会誌:39, 岸良真由子「生物一研で学んで」, 1996より引用(一部修正あり)
「私は元々、小学校時代から父と川で釣りをするのが好きでしたので、淡水魚の研究をしてみたいと長田芳和先生の生態研へと考えていましたが、なぜか、(今考えてもその理由は分からないのですが・・)一研を選んでいました。一研では、いつの間にかマミズクラゲに惹かれ、「淡水に生息するクラゲ」に大変興味を持った事を覚えています。当時、北摂に住んでいたこともあり、大学のサークル「生物研究会」も箕面を主なフィールドとしていたため、マミズクラゲが毎年発生していた才ヶ原池になじみがあったのも、マミズクラゲに興味を持った理由の一つだと思います。
私が学生であった当時加藤先生は、校務で忙しくされていて、研究室へ来られるのはたいてい午後6時前後でした。そしてすぐに、「何か食べに行こうか」と寺田町駅前へ行かれ、少しビールを飲まれ研究室へ戻って来られるのは8時過ぎ(よくお供させていただきました)、そこから顕微鏡やビノキュラを覗き卒論の話をしていただきました。その後、いろいろな話をあれやこれや、朝が近くなって、「少し寝るので9時に起こして」と言って研究室で寝てられました。10時頃からまた会議へという生活をされていました。京都の家にいつ帰られていたのか?今思えば不思議に思います。しばらくして、天王寺分校のすぐ前にあった官舎を借りられ、寝る場所は狭い簡易ベッドから解放されていらっしゃいました。官舎におじゃまして鍋パーティーをさせていただいた事もありました。
左図はマミズクラゲについて:
1988年12月末の加藤先生から卒業生への便りより。「まだ見ていない」と書かれている部分も1995年秋には見ることができました。 |
私はマミズクラゲのポリプを飼育し、フラストラや幼クラゲのでき方を観察・記録していましたが、正直どう卒論になっていくのか不安に思いながら続けていました。加藤先生は記録を見ながら楽しそうに、手近にあった紙にイラストを交えて個体構築の規則性などアドバイス下さり、と言うよりは考えていただき、何とか卒論になったという感じでした。一研では当時ヒドラや海産のクラゲを飼育していましたが、これらの飼育の技術は教員になってからも教材を扱う時に大変役立っています。また、成長の記録に使っていた白黒写真の技術を用いて、選択授業で生徒たちに現像液の調合からフィルム現像、焼き付けまでさせていました(デジタルカメラが普及して今では考えられませんが、当時の卒業生が訪ねてくるとよく話題に上がります)。
加藤先生は実験をされるときは、まず、実験台を綺麗に拭くことから始められていました。実験台でおつまみを広げビールを飲まれていることもありましたが、いざ実験という時には率先して拭かれていたことが印象に残っています。また実験後は、「次の実験は、器具の洗浄から始まっている。」と言われ、丁寧に器具の洗浄をすることを指導していただきました。今でもそのことは実践しているつもりです。....」(田部雅昭, 2014.3.2.記)
1989年 |
1989.4.4 柏原旭が丘統合地 |
1989.10.19 旭が丘 環境調査 |
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1990年 |
「 私が加藤研究室を選んだ理由は、1年生のときの新入生1泊旅行の時、たまたま隣にすわった先生がおじいちゃん先生で(そのときは認識していなかったのですが、今は 加藤先生だったと信じています)、少し酔っぱらいながら、「大学というところはですねーーー。人生における師を見つけにくるところなんですねーーー。」と言われたのがとても印象に残っていました。高校のときから発生学を勉強したいと漠然と思っていて、その後の講義での話や、植樹で加藤先生と雑談をしている中で、1年生のときに聞いた言葉がフィードバックし、この先生だったんだーと思い、発生学という自分の興味とも合致し、分属を決めました。....」(小林千余子「散文」, 2014.3.12.記より引用)
1年間飼育し傘の直径約6㎝に育てたAurelia auritaの水母 加藤憲一研究室にて撮影 |
「 私の研究室での思い出と言えば、多い時には一日に四回もあったお茶会でしょうか。四回生になると授業も少なく、ほぼ一日中、研究室。クラゲに餌をやるついでに自分にも餌を与え、朝のひと息ティータイムに昼食後のデザート、三時のおやつに夕方のお茶タイムといった毎日=見事なるウェストの成長。 |
「生物学教室四十年誌」1990/12 の掲載写真 |
「 ....今、大学は再編(一言で言えば大変)の最中で、中味は新しい基準での内容の再構成です。腔腸動物のような豊かな再構築能があれば良いのですが、制限因子が沢山あるので一筋縄ではいかず、様々な工夫のいるところです。 大学の見かけがどの様にかわろうとも、一人一人にとっては、学生時代の友人・教官との交流の中で自己にないものを素直に見つめ、憧れ、屈折しながらも、自己をつくってきた情熱があったと思います。希望をもちながら断念や挫折感が幾度か去来しているのかも知れません。大学時代は井上靖のあすなろ物語にあるような、幼少の心の大人への持込みの原点のようなものでしょうか。大学は結局人です。....」 (加藤先生から卒業生への便り(1990年8月)より引用) |
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