memory

加藤先生とクラゲと仲間たち: 1981年~1985年頃

1981年

「.... 当時は大所帯で、特に私が3回生の頃は加藤先生のお部屋(当時私たちは、なぜか奥の院とよんでいましたが)に、先生をはじめ教務員の井上さん、院生の出野さん、専攻科生の藤野さんの4名、学生の部屋には、3,4回生合わせて8名という構成でした。そのうえ、助手の先生方はほとんど一研の住人(?)のようでしたし、武内さん、加賀さんはじめ先輩方も毎日誰かが来られて仕事をされているという状態でした。特に一研では、夜間の人口密度が高く、学生部屋の大机では今まで染色で走りまわっている人がいたかと思うと、突如として酒盛りがはじまったり、目は顕微鏡をのぞきながら、耳は先生方や先輩方の話を聞いていたりということがしょっちゅうでした。仕事をするために、いろいろな方が加藤先生のところに集まってこられて、雑然としながらも活気にあふれ、本当に心地よい場所でありました。

沖永良部島赴任中の畑田さんよりフリージアの花が届く
武田尾温泉

 私が4回生になった頃、先生は公務でますますお忙しく、それまでいらした先輩方が一度に卒業してしまわれ、私はなんだか急に広くなった研究室で右往左往しているというスタートでした。私の場合、始めはヒドラの成長曲線を作るのに多くの時間を費やし、飼育室でのんびり構えていましたので、発表が近づくにつれデータを出すのに焦りに焦って、年末などは研究室に連日「お泊まり」をするはめになってしまいました。でも私と同じようにあの暗室で簡易ベッドをなんとか拡げて、足を曲げて寝た経験のある方も多いのではないでしょうか。卒論発表前、加藤先生は相変わらず会議等でお忙しく、お話できるのが夜中だったりすることもあったけれど、それでも多くの先輩方の訪問は途切れることなく、困った時には必ずどこからか助っ人が現れるという一研の伝統(?)で、忙しい卒論の時期も乗り切れたのでした。
 そのような忙しい中でも、加藤先生は折りにふれ、教育大にはないような「研究の場」を学生に見せようとして下さいました。岡山大の臨海実験所、国立遺伝研、滋賀医大、そして動物学会と学部生ではあまり行けないような所へも行き、いろいろ経験させていただきました。....」
(加藤研究室同窓会誌:34-35, 笠原敦子「生物一研の思い出」, 1996より引用)


Achermannさんらと

   奈良公園案内

1982年

「 この冊子作成のお知らせをいただいて、何年かぶりに卒論をひっぱり出しました。....書棚の中を必死に捜しました。.....約30分後、一番下の段に置いてあるカセットテープ入れの後ろに、大きな本の間にはさまれている卒論を発見しました。やった〜、とばかりに片付けもせず、卒論を読み始めました。本当にじっくり読むでもなく、ただめくるだけでもなく。・・・&%$#!?。ふ〜ん、こんな事やっていたんやなー。でもね内容については、細かいことはほとんど思いだせない。読みながら思い出すのは、先生の笑った顔、きびしい真剣な顔、同年次卒の谷本さん・松本さん・鳩山くんやいろいろお世話になった先輩方の顔。そして、若干の授業の場面や研究室での研究の場面。これらが、整理していないアルバムを見ているように、一カットずつ絵のようにしか浮かんでこないのです。....
たった、10年ほどやのに・・・。あれほど必死でやったはずなのに・・・。そして、その場所が消えてしまうのか・・・。今、中学校で必死に働いている自分の姿を、10年後の自分はどう思い出すのだろうか?・・・&%$#!?。たくさんいい場面を思い出せるようにしたいなー。
 卒論を読んで、こんな事を、しばし考えてしまいました。」......
(加藤研究室同窓会誌:35-36, 外山秀人「・・・&%$#!?」その1, 1996より引用)

泉南のため池調査(マミズクラゲ探索)

「 3階まで階段をのぼり、うぐいす張りの廊下を進むと、生物第1研究室がみえてきます(よね)。一研は、いつも諸先生方や諸先輩方等々大勢の方がではいりされ、にぎやかでした(特に、夕方から夜にかけて)。授業が終わって、また、遅くに出てきた時など、今日はどなたがきてはるかと、どきどき(わくわく)しながら、室をのぞいたものです。
 今は、大学で学んだこととは別の仕事についていますが、一研で学んだことは生物学というだけでなく、もっと有意義なものがありました。ずっとご無沙汰していますが、いつも室の扉をどきどきしながら開ける瞬間を忘れられません。....」(加藤研究室同窓会誌:35, 北村有希子「思い出」, 1996より引用)

「 生物1研にパーソナルコンピュータが1982年頃、データ処理のため、導入されました。加藤先生と私の指導教官の物理4研の高木先生とが御昵懇であったため、簡単なソフトウェア(プログラムと言っていた)が作れた私が生物1研に ”貸し出された” のが、生物1研とのかかわりあいの始まりでした。生物1研に顔を出すと、加藤先生がとても満面の笑みで「やあ、君の席はここね。」と箱に入ったままのコンピュータがどんと置いてある席に案内していただきました。
 当時はBASIC言語を用い、ソフトウェアも自前で作成しており、それらの記録は、カセットテープに”ジーコ、ジーコ、ピーヒョロヒョロ”と「録音」によるものでした。....
 膨大な測定結果をデジタルデータ化し、統計処理をするだけでしたが、当時のこと、コンピュータの能力の限界ギリギリだったように思います。実験を横で見ながら、触手の根元を染色しているのを見て、「クラゲの脇の下」と表現して、加藤先生に受けたのを覚えています。」
(加藤研究室同窓会誌:33, 栗栖有文「道楽」, 1996などより引用)

1983年

「....  まず、研究室に入って驚いたのは、研究室を訪ねてこられる人の多さです。卒業した先輩に始まって、学内、学外の先生、事務の人と、とりあえず名前と顔を覚えるだけで大変でした。そのうち、顔をみただけでどなたかがわかるばかりでなく、飲物の好みまで覚えたときには、地学科の某嬢とともに「地学の小姑」、「生物の小姑」と有り難くない肩書きを頂戴しました。.....
....4回生と専攻科の頃はひたすら実験・観察の繰り返しでした。ときには観察個体数は100個体を超え、朝から夜までAureliaを1個体、1個体スケッチして触手数を数える日が続きました。始めの頃はあまりのしんどさに「死にそう!」と叫び、先生は「死なれては困るな」と観察を手伝ってくださいました。......
.....一番いちばん思い出に残っているのは水野壽彦先生の退官記念パーティーに、地学科の某嬢と紛れ込んで宮地伝三郎先生にお目にかかった時のことです。その折り、先生は「年を取ってからナア、やる事を残しておくために、若いうちに勉強するんや」とおっしゃいましたが、今でも時々、思い返してはその深い意味を考えています。....」
(加藤研究室同窓会誌:37-38, 翁長智子「研究室で」, 1996より引用)

1984年

卒業生への色紙の一部(Aureliaのポリプが... )

「...どこでどうなったのか突然椅子を買えと、加賀さんから申し渡されました。決して他のものを買ってはならないということで、.....With My Cordial Thanks to All of You.」(加藤先生から卒業生への便り(1984.11.15)より引用)
「P.S. ....このたび起りました「椅子事件」の唯一の目撃者となりました吉原でございます。この事件は先生と私達(陰山君と私)が研究室に泊まった日の夜に起りました。私達がうとうとしかけ、先生も椅子に坐ったままうとうとされかけた時、突然「バキッ!」という大音響と共に....。翌日、先生は何ごともなかったように起きてこられましたが、部屋には椅子の無惨な姿があったのです。             

1985年
   卒論提出直前の夜の研究室 

「 この酷暑いかがお過ごしでしたか。7月の終りから3日間、日本生物教育会が大阪で開催され、鹿児島から畑田さんが見えました。青地さん、武内さん、加賀さんなどが声をかけられ、現役4名を入れ、10数名が一夜語り合いました。
 夫々の人達が夫々の場で問題を抱えながらも頑張っておられると存じます。....
 一句献上
    猛き夏 残れる空に 窓辺から
         心に描く 雲海の明日  」(加藤先生から卒業生への便り(1985年9月7日)より)


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